黒田節

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最終更新日 2006年1月9日


1.黒田節(くろだぶし)とは

2.黒田節歌詞

3.歌詞の由来

4.名槍「日本号」について

5.槍

6.広島と黒田節

7.母里太兵衛


1.黒田節(くろだぶし)とは

黒田節は九州福岡県の民謡で、「酒は飲め飲め飲むならば…」の歌詞で有名です。
雅楽の越天楽のメロディーにさまざまな歌詞を当てはめて歌う越天楽今様が元になっており、
その名が付くまでは『筑前今様』という名で福岡の人達に長く歌い継がれていました。

酒豪で知られる黒田氏の武将母里太兵衛に福島正則が酒を勧め、見事飲み干してしまい
褒美に殿様自慢の名槍「日本号」を貰うという逸話に基いています。

戦前に、市丸、小唄勝太郎と並び称された人気芸者歌手である赤坂小梅によって
レコード化され、有名になりました。

戦前は「黒田武士」の題で吹き込んだが、戦後に吹き込んだものはすべて「黒田節」の題。 
彼女の十八番であり、「黒田節の小梅か、小梅の黒田節か」と言われたそうです。

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2.黒田節歌詞

福岡県民謡(福岡民謡)、黒田節の歌詞にはいろいろあるようです。
1番、2番は共通ですが、3番以降は違うものが存在しています。
現在踊りで使用しているビクターレコード版は2番までを使用しています。


1.酒は飲め飲め  飲むならば
  日の本一の(ひのもといちの) この槍(やり)を
  飲み取るほどに 飲むならば
  これぞまことの 黒田武士 

2.峰の嵐か    松風か
  訪ぬる人の   琴の音か
  駒ひきとめて  聞くほどに
  爪音(つまおと)頻き(しるき)想夫恋(そうふれん) 


パターン1(3番まで)

3.古き都に    来てみれば
  浅茅が原とぞ  なりにける
  月の光は    くまなきて
  秋風のみぞ   身にはしむ


パターン2(3番まで)

3.春のやよいの  あけぼのに
  四方の山辺を  見わたせば
  もろこし人も  こま人も
  大和心に    なりぬべし


パターン3(5番まで)

3.皇(すめら)御国の 武士(もののふ)は
  いかなる事をか 勤むべき
  ただ身に持てる 真心を
  君と親とに   尽くすまで

4.花より明るく  三芳野(みよしの)の
  春のあけぼの  見わたせば
  唐人(もろこしびと)も 高麗人(こまびと)も
  大和心(やまとごころ)になりぬべし 

5.古き都に    来てみれば
  浅茅が原(あさじがはら)とぞ なりにける
  月の光は    くまなきて
  秋風のみぞ   身にはしむ 

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3.歌詞の由来

母里太兵衛の主筋である、黒田長政が秀吉に従って伏見城にいた頃。
長政は、親友である戦国大名の福島正則のところに、太兵衛を使いにやった。

その際、太兵衛の酒好きを知る長政は、正則から酒を勧められても呑んではいけないと
クギもさしておいた。これは、福島正則の酒癖の悪さもよく知っての配慮であろう。

さて太兵衛が行くと、案の定、正則が酒を呑んでいて、「よく来た、さぁ一献つかわそう。」
と酒を勧めてくる。太兵衛、ごくり、と咽喉がなるが、厳しく禁酒を言い渡されていたため、
酒が呑めませんので、と断りを入れる。

いつの世も、女と下戸に酒を無理強いして楽しむ人種はいるもので、
「まぁ、そう言わず、お主ほどの勇将が呑めぬ筈がない。さぁ呑め」と正則は聞かない。
酔眼で、呑め呑め呑め、ときた。

なかなか強情な太兵衛を前に、正則も酔いにまかせ
「よぉしそれでは、この杯の酒が呑めたら、お主の望む品をとらそう」と、
五合ほどの酒がなみなみと注がれた大杯をさしだした。
何分、気性の荒さで知られる正則のこと、ここで断ってもタダですむかどうか。

時代も槍働きで大名になれる戦国期だ。江戸期に確立された武士道とは、
心胆もしたたかさも違う。その勇将の太兵衛だ。このままでは男の面目が立たない、
とハラを決め、座上の大身槍に目をやる。そして、両手でかかえるほどの大杯の酒を、
ぐぃと一気に呑み干した。

正則もあっけにとられつつ、「おお見事」と感嘆した。しかしそうは言っても、
「望みの品をやる」と約束してしまっている。マズイではないか。
続けて、空になった大杯に酒を注がせ、「さぁ、もう一献。」
勧められるまま、直径一尺の大杯三杯の酒を飲み干した太兵衛。
座上にかけてある大身槍を手に取り、「ご免」と席を立った。

この歌詞の「日の本一の」とは「日本号」のことで、太閤殿下に授かったばかりの
名槍で由緒あるものだ。「待て!」と、太兵衛を呼び止める。

太兵衛は振り返り、「武士に二言はござるまい。」と取り合わず、黒田藩の藩歌である、
「筑前今様」を歌いながら悠々と帰路につく。見事に「飲み取」ってしまったのである。
この替え歌が「黒田節」となった。

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4.名槍「日本号」について


福岡市博物館に収蔵されている「日本号」オリジナル


広島城に常設展示されているレプリカ1(刀身全体)


広島城に常設展示されているレプリカ2(倶利迦羅竜の浮き彫り)

「日本号」は、もともとは禁裏にあったものといわれ、正親町天皇が将軍・足利義昭に
下賜してから織田信長、羽柴秀吉と転々とし、福島正則に伝わりました。

のちに、黒田藩家臣 母里太兵衛と福島正則との飲み比べにより飲み取られた話しは
あまりにも有名で、民謡「黒田節」に唄われています。

その飲み取りがどこで行われたかについては、福島正則の居城「広島城」であったとする説も
あるのですが、時代考証から判断し、やはり伏見城あたりであったとするのが適当だと
考えられています。

その日本号は現在、福岡市博物館が収蔵されており、その長さ79.2cm、総長321.5cmと
非常に長いものです。

刀身には、倶利迦羅竜(くりからりゅう。不動明王の剣に巻きついて、剣先を飲み込もうとする竜)の
浮き彫りが施されおり、柄には螺鈿(らでん。貝の真珠部を薄く切り、磨き上げて貼り合せる技法。
漆器や蒔絵に使われる。)細工が施されています。

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5.槍

槍(やり、英:Spear)は、相手を叩いたり突き刺すための武器の一種。
日本における槍の一般的な構造は、木製の長い柄の先端に、先を尖らせて刃をつけた金属製の
穂(ほ)を挿し込んだもの。長柄の穂と反対側の端には石突(いしづき)が付けられる。
日本では戦国時代に盛んに用いられた。

穂の形によって、素槍(すやり)、鎌槍(かまやり)、十文字槍(じゅうもんじやり)など様々な
種類がある。戦国時代後期には10mにも及ぶ長槍を足軽部隊に配備していた戦国大名もあり、
戦場においては、その長大さにより刺突のみならず打撃(集団を形成して打ち下ろす)のための
長柄武器としても用いられた。

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6.広島と黒田節

この黒田節に出てくる福島正則と言えば、広島とも深い関係があり、
慶長5年(1600)の関ヶ原の役での活躍の功績により備後・安芸国
49万8千2百石に加封されて広島城主となりました。

元和5年(1619)6月に、洪水で破損した広島城を幕府から正式な許可を
得ないままに修築したため、武家諸法度に触れるという理由で除封。
翌月、信濃国川中島4万5千石に転封、蟄居を命じらました。

寛永元年(1624)7月13日に病没した。64歳。
墓所は京都妙心寺海福院と長野県厳命寺。法号は海福寺月翁正印。

正則は戦場ではその剛勇を恐れられる猛将として名を馳せたと共に、
稀に見る人情の深さを持ち合わせていたと言われています。

この広島城主の時代にこの黒田節のエピソードが起こったのです。

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7.母里太兵衛

本名 母里友信(もり とものぶ)
黒田家家臣で、名の友信よりも「太兵衛」の通り名の方が有名です。但馬守。
武功の多い功臣で、黒田家の先手大将を務め、黒田家が筑前国52万石に移封されたとき、
友信は鞍手郡鷹取城で1万8千石の禄を与えられました。家臣とはいえ、大名並みの石高です。
気骨漢で、主君・黒田長政を諫めることも度々あったと言います。

朝鮮出兵の際は長政に従って渡海、慶長2年(1597)9月の忠正道稷山の戦いなどに加わりました。
「黒田節」のモデルとなった人物。

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