TOPIC No.9-4 旧石器時代/先土器時代(1万6千年前〜250万年前)

-氷河時代-
Index

01.
 前期旧石器時代 Lower Paleolithic/Early Stone Age
 (約260万年前〜約30万年前)
 主にホモ・ハビリス, ホモ・エレクトス
02.
 中期旧石器時代 Middle Paleolithic/Middle Stone Age
 (約30万年前〜約3万年前)
 主にネアンデルタ−ル人(旧人)、古代型新人
03.
 後期旧石器時代 Upper Paleolithic/Later Stone Age
 約3万年前〜約1万6千年前)
 主にクロマニヨン人(ホモ・サピエンス)
04.
 旧石器ねつ造事件
)

01. 石器時代の遠野 国内最古級の金取遺跡 byふるさと遠野
02. 日本人はるかな旅展 by国立科学博物館
03. 先土器文化 by日本史の世界
04. 海上の道の始まり 海洋航海民の誕生 by黒潮圏の考古学
05. 最新・日本古代史年表 by 邪馬台国大研究
06. 日本最古の遺跡 <日本の原点 -考古学編 02->2006.03.29
07. 旧石器文化と縄文文化 by北海道の歴史と文化と自然 縄文文化


日本列島の旧石器時代

byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 日本列島の旧石器時代(にほんれっとうのきゅうせっきじだい)は、人類が日本列島へ移住してきたときにはじまり、終わりは1万6000年前と考えられている。

 終期については青森県蟹田町(現外ヶ浜町)大平山元I遺跡出土の土器に付着した炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法では1万6500年前と出たことによる。

 日本列島での人類の足跡も9〜8万年前(岩手県金取遺跡)に遡る。[1]

 地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終末から完新世初頭までである。


<上>金取の価値海外も注目

2017年11月17日 05時00分 YOMIURI ONLINE

 国内最古の遺跡はどこか――。一般の関心も高い論争で名前が挙がる一つが、遠野市の金取かねどり遺跡だ。旧石器人がいた証しとなる、石の先端部を打ち欠いて斧おの形に加工した石器が33年前に見つかった。その学術的価値は、世を騒がせた2000年の旧石器捏造ねつぞう事件以降も変わらず、近年は海外の考古学者も注目している。

 金取遺跡は遠野市宮守町の国道沿いの小高い丘にある。その存在は1984年、考古学愛好家の武田良夫さん(83)が偶然立ち寄った旧宮守村の工事現場で、縦16センチ、幅9センチの斧形石器を発見したことで確認された。武田さんの情報を基に、地質学が専門の菊池強一さん(74)(現・県立大非常勤講師)が団長となり、村教育委員会が85年に発掘調査を行った。

 3万5000〜9万年前の火山灰が混じった地層から48点の石器が見つかり、火の使用をうかがわせる木炭片もあった。ナウマン象などを狩って石器で解体した「キャンプ跡」とみられ、現代人と同じ「新人」の前段階となる「旧人」の生活の跡と考えられている。ただ当時は、東北地方でさらに古い「原人」が使った石器の“発見”が相次ぎ、金取遺跡の成果はかすみがちだった。

■12月にシンポジウム

 一時は70万年前まで遡った「最古の旧石器遺跡」を巡る論争は、捏造事件で収束。皮肉にも「捏造したグループと無関係」との理由で金取遺跡が再評価された。2003〜04年の発掘で火山灰を詳しく分析し、時代の古さが改めて証明された。15年刊行の東北古代史の概説書「北の原始時代」(吉川弘文館)では「前期旧石器時代の遺跡と考えられ(中略)本州島北東部の様相解明にとって非常に重要」と紹介された。

 「国内の学会で10年間成果を公表し、おおむね価値を認めてもらった」と、調査を担当する遠野文化研究センターの黒田篤史さん(39)は手応えを語る。14〜16年にはモンゴルや韓国などの国際学会に石器や資料を持参し、発表を行った。遠野市で12月17日に開かれる金取遺跡に関するシンポジウムでは、中国の研究者も参加し、中国や朝鮮半島の遺跡との共通点などを議論する。

■良い石と豊かな環境

 金取遺跡は石器に加工しやすい石が多い丘陵に囲まれ、大型動物の通り道となる谷や水飲み場の湖も近くにある。菊池さんは「より良い石材と豊かな環境を求め、旧石器人は金取に落ち着いた」と分析する。

 日本列島の旧石器人は、海面が下がる氷河期に朝鮮半島経由で渡って来たとの説が有力だが、同時代の朝鮮半島の遺跡では金取のような斧形石器は見つかっていないという。「大陸から来た旧石器人が、日本の気候や環境に合わせて独自の石器を発達させた」というのが菊池さんの推測だ。

 菊池さんは共同研究者らと全国の旧石器時代の遺跡を訪ね歩き、09年に砂原遺跡(島根県)で約12万年前の可能性がある石器を見つけた。捏造事件の余波で「自然の石ではないか」と疑問視する声もあるが、「議論が必要な分野だからこそ資料の蓄積が大事」と主張する。

 「第2、第3の金取を見つけたい」。その目的は、かつて盛んだった“最古”を巡る競争ではなく、東北、日本人のルーツを探求するためにほかならない。

旧石器捏造事件 宮城県の研究者グループが中心となり、日本列島の人類の居住が約70万年前の原人段階まで遡るとする遺跡や石器を次々と発見したとされたが、2000年に発掘成果の捏造が発覚。日本考古学協会などの検証で、東北を中心に9都道県にある多くの旧石器遺跡が学術資料として扱えないと判断された。

<中>出土品が語る海峡往来

<中>出土品が語る海峡往来 YOMIURI ONLINE

 4万年前から始まる後期旧石器時代は、現代人と同じ「新人」が日本列島で暮らし始めた時代だ。東北地方では、ナウマンゾウなど大型動物の牙や骨が大量に見つかった一関市の花泉(金森)遺跡、2万年前の氷河期の森が地中からそのまま出土した仙台市の富沢遺跡など、研究史に残る著名な遺跡が多い。近年も旧石器人の活発な活動を裏付ける発見が続いている。

■小型動物も狩猟対象

 石器で作った槍やりを手にナウマンゾウやオオツノジカなどを追い回す――。旧石器人の狩猟の一般的なイメージだろう。だが、青森県下北半島の東通村で発掘調査が進む尻労安部しつかりあべ洞窟遺跡では、石器と共にウサギの歯が大量に見つかり注目を集めた。

 「ウサギは夜行性で、昼間に捕まえる動物ではない。巣穴からおびき出す『威嚇猟』や、わなを仕掛けて捕らえた可能性がある」。調査を担当する慶応大の佐藤孝雄教授によると、大型の獣だけでなく小型の動物も狙った旧石器人の狩りの多様性が証明されたという。

 歯の科学的分析から、このウサギが生息していた時代は2万年前。当時は平均気温が現在より7〜8度低く、富沢遺跡で見つかった森林も寒冷地に見られる針葉樹だった。より北にある下北半島は厳しい寒さだったとみられ、ウサギは毛皮を確保するために重宝された可能性がある。

 種類は、寒冷地にいるユキウサギではなくノウサギ。当時、北海道と青森県の間の津軽海峡は幅が狭く、冬季だけ陸続きになる「氷の橋」が出来たという説がある。大型動物は本州に渡ったが、小型のユキウサギは途中で凍死するなどして渡れなかったとみられる。氷の橋の存在を裏付ける成果にもなった。

■人も海峡を行き来?

 旧石器人も津軽海峡を渡ったのだろうか。

 尻労安部洞窟遺跡では、北海道渡島おしま半島のものと同じ型の石器が発見されており、氷の橋を通じた人の往来もうかがえる。佐藤教授は「洞窟は石灰岩地帯にあるため骨が残りやすい。動物の痕跡と石器に加えて人の骨も見つかれば、旧石器人の生活が詳しく分かる」と今後の調査に期待する。

 北海道と東北の旧石器人の移動は、旧石器時代終末期の遺跡でも見られる。山形県大石田町の角二山かくにやま遺跡で出土した約1万7000年前の黒曜石製石器の成分を分析したところ、北海道遠軽町の白滝産と判明した。

 白滝から角二山まで直線距離で約600キロ。2015年に論文を発表した東北大の鹿又喜隆准教授は「一時的に凍結した海面の橋を渡ったか、渡航技術があったのかは不明だが、北海道から東北まで海を越える移動能力を持つ集団がいた」と話す。

 約1万6000年前には青森県で最古級の土器が出現し、東北は徐々に縄文時代への移行を始めた。「津軽海峡文化圏」とも言われる共通の文化を形成した縄文時代に比べ、旧石器人の海峡移動を証明する遺跡は少なく限定的だが、交流の萌芽ほうがは確かにあった。

<下>縄文移行期世界と比較を

2017年11月21日 05時00分 YOMIURI ONLINE
 

 2000年の旧石器捏造ねつぞう事件で信頼が大きく揺らいだ東北地方の旧石器時代研究は、教訓を踏まえ、新たな成果を蓄積している。東北古代史の概説書「北の原始時代」(吉川弘文館)を15年に編さんした東北大の阿子島香教授(先史考古学)に研究の課題を聞いた。

 ――東北の旧石器時代をどう捉えるべきか。

 東北は日本の中央との比較から北の辺境と捉えられがちだが、気候が寒冷だった旧石器時代には海面が100メートル単位で下がっていたため大陸との距離も近く、現代の日本の地理感覚から離れる必要がある。アジア大陸の隣接地となる韓国や中国東北部、シベリアなどとの比較研究が重要だ。

 ――大陸から人類が渡ってきたのはいつ頃か。

 寒冷期に海面が凍ってできる「氷橋」などを通じ、遅くとも5万〜7万年前頃には「旧人」段階の人類が断続的に大陸から渡ってきた可能性がある。前期旧石器時代の旧人段階の人類が金取(遠野市)のような遺跡を残したが、遺跡の数は限定的で、集団は短期間で絶滅を繰り返したようだ。

 4万年前以降(後期旧石器時代)の「新人」段階では、技術が発達した石器や、集団での生活の痕跡が各地で見られるようになる。人類が日本列島に広範囲に広がるのは、環境への適応に優れた新人段階まで待たなければならなかったのだろう。

 ――4万年前以前の人類の存在は、考古学会でも意見が分かれている。

 行政が行う発掘調査でも、工期や費用などの面から前期旧石器時代の地層までは対象としないことが多い。学術調査だけでは遺跡や遺物の数が限られるが、古い人類の形跡は確かに出ているので可能性を排除すべきではない。捏造事件の反省と前期旧石器遺跡の有無は別問題と捉えて、これまでの発掘の検証なども踏まえて真摯しんしな研究が行われるべきだ。

 ――旧石器から縄文への移行期の研究課題は。

 青森県外ヶ浜町の大平山元おおだいやまもと遺跡で約1万6000年前の最古級の土器が発見されたが、近年はシベリアや中国でも同じ時代の土器が多く発見されている。土器の出現は日本だけでなく、東アジア共通の文化現象として位置づけられる。

 一方で、その時代のヨーロッパでは旧石器人が有名なラスコーやアルタミラの洞窟壁画を残しており、旧石器時代の最終末期だ。日本では土器が発明されてから縄文時代が始まるというのが定説だが、旧石器の終わりと縄文の始まりについても、世界的な視点で比較検討をする必要がある。

■旧石器時代の最新研究紹介

来月遠野でシンポ 東北地方における旧石器時代の最新の研究成果を紹介するシンポジウム「東北日本の旧石器文化を語る会岩手大会」が12月16、17日、遠野市新町の「あえりあ遠野」で開かれる。

 16日は、本連載で紹介した青森県東通村の尻労しつかり安部あべ洞窟遺跡や山形県大石田町の角二山遺跡など、7遺跡の調査担当者らが最新の発掘状況などを語る。17日は「金取遺跡と東アジアの前期旧石器」をテーマに、これまでの調査の経緯や、中国や朝鮮半島の旧石器研究者から見た金取遺跡(遠野市)の価値などが語られる。

 参加費1000円、資料代1500円で、事前の申し込みが必要。問い合わせは大会開催事務局(0198・62・2340)へ。(多可政史が担当しました)

北山遺跡:旧石器時代の土坑発掘 県東部で初−−みどり /群馬

2010年6月10日 毎日新聞 地方版

 ◇目的、特徴など解明に期待

 県埋蔵文化財調査事業団が発掘調査を進めている、みどり市笠懸町阿左美の「北山遺跡」で、約2万年前の地層から旧石器時代とみられる土坑(どこう)が発掘された。同時代の土坑は、24年前に大阪府藤井寺市の「はさみ山遺跡」で初めて出土して以来、全国で約20件、県内で3件の出土例があるが、県東部の発掘は初めて。保存状態が極めて良好で、今後は土坑の掘られた目的などの解明が期待される。

 遺跡は、旧石器と縄文の複合遺跡で、事業団は4月上旬から、道路拡幅に伴って3カ月間の発掘調査を実施しており、6月1日に表土から110センチの関東ローム層で、深さ50センチ、幅140センチの円形の土坑がほぼ完全な形で掘り出された。5日には隣接してやや小型の土坑も発見された。

 調査に当たる同事業団の谷藤保彦・上席専門員は「土坑周辺で当時の生活空間を明かす出土があれば、この遺跡の持つ特徴などが解明される」と今後の調査に期待を寄せる。

 同遺跡は、民間研究者の相沢忠洋氏が1949年に旧石器時代の槍(やり)先型石器を発見し、それまで日本になかったとされる旧石器時代の存在を証明した「岩宿遺跡」の東3キロにある。地層も旧石器(岩宿)時代後期のローム層と近い年代に相当する。

 岩宿博物館長で同時代研究者の小菅将夫館長は「なぜこの地が選ばれたのか、単なる狩りの落とし穴なのか、他の目的を持って作ったのか、興味は尽きない」と評価する。

 現地の発掘調査は今月末まで。整理分析を加えた研究成果は、来年6月の県内調査遺跡発表会で発表されるが現地の公開は予定していない。問い合わせは同事業団(0279・52・2511)。【塚本英夫】


国内最古の人骨:石垣、歴史的発見に沸く

2010.02.05 MSN産経新聞

 「貴重な大発見だ」「洞穴は保存を」「開港は予定通りに」−−。新石垣空港の建設地から出土した人骨が、日本最古の約2万年前のものであると判明した4日、県内は歴史的な大発見に沸いた。一度は終了した洞穴の文化財調査の中で発見に手応えを感じ、本格調査を求め続けた専門家は、県が次年度、発掘調査に乗り出すことに安堵(あんど)し徹底調査を求める。一方、地元石垣島の住民からは、大きな喜びとともに、住民の“悲願”である開港への影響を懸念する声もあった。

 2008年に測量調査で洞穴に入った際、古い人骨や1万4000年前のイノシシの骨を見つけ、そのときの骨が日本最古と分かった沖縄鐘乳洞協会理事長の山内平三郎さんは、「(人骨は)かなり古いと手応えはあった」と発見当初を振り返る。しかし当初の調査では、遺物を含む包含層が見つからず、遺跡の可能性は低いと結論付けて調査は終了。山内さんは、日本人の起源にかかわる貴重な発見が失われることを恐れ、事実関係を文化庁に報告。それを受け、文化庁が県に助言することになり、山内さんの「直感」が県や専門家を動かした。「残された部分も細かくしっかり調査すべきだ」と詳細な調査を強く求めた。

 地元石垣市の大浜長照市長は「貴重な大発見だ。八重山の人や人類の起源をたどる研究に大いに役立ててほしい」と喜んだ。また今回の発見による空港開港への影響について「滑走路からだいぶ離れているので、空港の完成に影響はないと考えている。洞穴周辺は保存できるよう対応してほしい」と求めた。

 新石垣空港設置許可処分取り消し訴訟の原告の1人で「八重山・白保の海を守る会」の生島融(とおる)事務局長は「県は工事の既成事実を積み上げて強引に突き進んできた。開港ありきではなく、しっかり周辺も調べる必要がある」と話し、近く県に要請する。

 「新石垣空港早期建設を進める郡民の会」の真栄田義世事務局長は「空港は生活の足であり、完成が郡民の悲願。貴重な発見でも、事業の中断はあってはならない」と話した。(琉球新報)

直接分析で国内最古の人骨 沖縄・石垣島 2万年前の男性の頭骨片

2010.02.04 MSN産経新聞

 沖縄県教育庁などが発掘調査した石垣島(同県石垣市)の洞穴で発見された人骨片が、放射性炭素年代測定法で分析した結果、約2万〜1万5千年前の旧石器時代のものであることが4日、分かった。

 沖縄本島で出土した港川人(約1万8千年前)の骨は、一緒に発掘された炭化物を分析し年代を推定した。今回出土した骨片は、直接分析したものとしては日本最古。直接分析でこれまで日本最古とされていた約1万4千年前の静岡県浜北市(現浜松市)の浜北人を6千年さかのぼる。

 東大大学院が放射性炭素年代測定法で分析し、20代〜30代の男性の頭骨片(左頭頂骨)が約2万年前、性別不明の成人の中足骨が約1万8千年前、成人男性の腓骨(ひこつ)が約1万5千年前のものとそれぞれ判明した。


島根・砂原遺跡:年代、国内最古説に「?」 石器か否かの検討も必要

2010年06月07日 毎日新聞 東京夕刊

 「国内最古の旧石器時代の遺跡」と昨年発表された島根県出雲市の砂原遺跡の年代が、当初の認定の12万年前より新しい可能性があることがわかった。5月に東京で開かれた日本考古学協会の総会で、発掘調査団長の松藤和人・同志社大教授が発表した。12万7000年前から7万年前までの間のどこか、としか言えないという。

 松藤教授らは当初、石器とされる石片の出土層の上にある地層は約11万年前の三瓶木次(さんべきすき)火山灰層と判断。その下の地層は約12万7000年前に形成されたことから、12万年前という年代を導いた。しかし、その後の分析で、三瓶木次とみられた層が約7万年前の三瓶雲南(うんなん)火山灰層とわかり、年代に幅をもたせることにした。

 一方で、砂原遺跡については年代以前の問題として、出土した石片が人のつくったものかどうかという論争がある。総会でも、会場から「(自然に割れたものである)偽石器に見える」との指摘があった。松藤教授は「(約3万5000年前以降の)後期旧石器にあるような特徴の観察は難しい」などと答えたが、「答えになっていない」とする批判が出ている。

 出土品が石器か自然の石かという問題は、旧石器研究初期の1950年代以来の課題だが、議論が深化しないまま今日に至っている。捏造(ねつぞう)事件を防げなかった旧石器考古学の重大な欠陥といわれているだけに、砂原遺跡の出土品をめぐる根本的な検討が必要だ。【伊藤和史】

旧石器は12万―7万年前か 出雲・砂原遺跡、調査団が見解

2010/05/23 中国新聞ニュ−ス

 日本最古とみられる約12万年前の旧石器が出土した出雲市の砂原すなばら遺跡について、同遺跡学術発掘調査団の団長で、同志社大の松藤和人まつふじ・かずと教授は23日、都内で開かれた日本考古学協会総会で「国内最古級の石器であることには変わりないが、年代は約12万年前から7万年前までの可能性が出てきた」と発表した。

 松藤教授によると、12万7千年前ごろにできた地層の上に石器が出土した地層があり、その層のすぐ上にあった火山灰層は、昨年の記者会見では三瓶木次さんべきすき層(約11万年前)と発表していたが、分析の結果、三瓶雲南さんべうんなん層(約7万年前)と判明したという。

 旧石器発掘捏造ねつぞう問題とは無関係な遺跡の金取かねどり遺跡(岩手県遠野市)では国内最古級の9万〜5万年前の石器が出土している。

 松藤教授は「前回は発掘面積も狭かった。今後さらに石器や地層を調査したい」としている。

 また旧石器も地表で見つかった1点を含む計21点から計36点に増えたことも明らかにした。

 会場から「石器は本当に人による加工品なのか」とする質問があったが、松藤教授は「前期旧石器の加工痕跡の評価は難しく、研究者によって異なる」と述べるにとどめた。

石器と石ころどう区別? 人為的か目で判定

2010年1月23日11時30分 asahi.com

 島根県出雲市の砂原(すなばら)遺跡で、約12万年前の地層から、国内最古級とみられる旧石器が見つかったと、先ごろ報道された。でも、「石器」が映し出されたテレビを見た知人が一言。「普通の石にしか見えないんだけど?」。確かにちょっと見た目には、石ころらしいものも……。石器とただの石ころはどこで区別するのだろう。

 はじめに『旧石器時代ガイドブック』(新泉社)の著者である浅間縄文ミュージアム主任学芸員の堤隆さんに聞いた。堤さんによれば、石器とは「石を材料に、人為的な加工を施して製作した道具」のことらしい。

 でも、石の割れ口が人為的なものかどうか、どうやって見分けるのか。

 明治大教授の安蒜政雄さんによれば、見分けるポイントは「割り方の法則性」なのだという。石器は元々、突き刺したり、切り分けたりするための「道具」として作られている。「つまり、石器には道具としての機能が反映されているんです。この点を注意して観察すれば、きちんとした石器なら、見間違うことはありません」

 典型的なのが細石刃である。薄くてカミソリの刃のような形をした石器で、溝を設けた軸などにはめ込んで使ったと考えられている。小さいが、しっかり刃がついており、切る(ないし突き刺す)という機能に特化されていることがわかる。

 ただ、ややこしいのは、未加工の石でも、石器とみなされるケースがあることだ。たとえば、普通の石をハンマーのように道具として使っていたと思われる場合。「この場合は、石器だという人もいるのでは」と堤さん。

 砂原遺跡の場合はどうなのか。調査にあたった同志社大教授の松藤和人さんによれば、今回の調査では、「尖頭(せんとう)スクレイパー」と呼ばれる石器など20点以上が出土したという。

 「いずれも(石を打ちはがした)剥離(はくり)痕(こん)や人が力を加えた部分が認められました。すべて石器と考えて間違いありません」と松藤さん。また、「発掘した地層の石は主に安山岩系なのに、石器に使われた石は石英岩や流紋岩。出土状況をみても、自然の石の堆積(たいせき)とは考えられない」と指摘する。

 ちなみに石器の場合、一部の石材を除き、科学的にその製作年代を測定することは難しい。仮に年代が測れたとしても、石器が作られた時代ではなく、岩の造岩年代が出てしまうからだ。このため、石器が含まれる地層の炭化物の測定年代などから時代を決めている。そして、その「石」が人為的なものかどうかを見分けるのは、あくまで人間の目なのである。

 実際、石器かどうかを見分ける基準は研究者によって異なる。砂原の「石器」についても、安蒜さんは「加工の跡らしいものもあるが、点数が少なすぎる。石器かどうか判断するには材料が足りない」と話す。

 堤さんによれば、2000年に発覚した旧石器発掘捏造(ねつぞう)事件以来、約4万年前以前のいわゆる前〜中期旧石器時代については、「すべての研究者が肯定する遺跡は国内に一つもない」。

 たとえば、約9万年前で国内最古級とされる入口(いりぐち)遺跡(長崎県)については、「石器ではなく自然石」とみる研究者が少なくない。一方、同じく国内最古級としてしばしば引き合いに出される金取遺跡(岩手県)の場合は、石器であることについてはほぼ意見が一致しているものの、それが出土した層や年代について、やはり一部の研究者から疑念が出されている。

 岩宿遺跡ゼロ文化層(群馬県)や、星野遺跡(栃木県)などのように、数十年たっても、石器か自然石かという議論の決着がついていない遺跡もある。

 その石が石器かどうかを、「科学的に」判別する方法はないのだろうか。

 現状で最も近いものの一つが「使用痕分析」だろう。石器として使われた際に生じる擦痕(さっこん)の有無などを顕微鏡で調べる方法で、ヨーロッパなどでは古い歴史がある。ただ、砂原遺跡の場合は、石の表面が風化しすぎていて、この分析法は適用できなかった。また、「研究方法として未成熟な部分が多く、使えない」という研究者もいる。

 1949年に岩宿遺跡で日本初の旧石器が発見されて以来、古い石器への関心は高まった。一方、発掘捏造事件という不幸な事件も起き、性急に結論を求める怖さも学んだ。「石器と自然石をめぐる議論はヨーロッパでは50年以上も続けられてきた」と首都大学東京名誉教授の小野昭さん。ここは、じっくり腰を据えて、議論を重ねていく必要がありそうだ。(宮代栄一)

「日本最古級の石器」はどこまで本当なのか? 科学の視点なき報道への疑問

2009年10月14日(水)武田 徹 日経ビジネスONLINE

 先日、誕生日が来て、1つ歳を取った。その直後に国内最古級と見られる旧石器発見の報を聞いた。

 「島根県出雲市の砂原遺跡で、中期旧石器時代(13万年前〜3万5000年前)の約12万年前の地層から、国内最古級とみられる旧石器20点が見つかったと、松藤和人・同志社大教授(旧石器考古学)を団長とする発掘調査団が29日、発表した。調査団によると、国内最古とされてきた金取遺跡(岩手県遠野市、約9万年前)を約3万年さかのぼる可能性がある。日本列島で人が活動を始めた起源を探る貴重な資料になるという。朝日新聞2009年9月29日22時10分

 (日本列島の場所で生活をしていた人をそのルーツとみなすなら)「日本人」の歴史には、この発見で3万年分の齢が新たに加えられたことになる。

 しかし、この報に触れて、いろいろと考えさせられた。冒頭に引いた朝日新聞は触れていないが、産経新聞は「捏造問題以降、3万5000年前より古い旧石器研究はタブーになった。今回の調査は、及び腰だった研究者を励ますことになるはず」との松藤和人教授のコメントを載せていた。捏造問題とは言うまでもなく、2000年11月に発覚した藤村新一氏による石器捏造事件のことだ。

 日本の旧石器時代の研究は1949年に群馬県で行われた岩宿遺跡の発掘から緒に付いた。2万5000年前のものとされるローム層から発掘されたこの遺跡が発見される以前は1万年以上前の日本列島に人は住んでいなかったとされていたのだが、そこで日本列島における旧石器時代の人類文化の存在が明るみに出た。

 その後、東京茂呂遺跡を初めとして旧石器時代の遺跡が全国各地で見つかるようになったが、いずれも後期旧石器時代(約3万から1万年前)のものだった。そのために日本に果たして前期旧石器時代はあったのかということが学会を二分した論争になる。

構図は「発表ジャーナリズム」

 この論争に「前期石器時代はあった」という立場で臨んだのが東北大学の芹沢長介氏だった。芹沢氏は縄文時代の遺跡として知られていた大分県日出町の早水台遺跡で12万年から10万年前の石器を発見したと1964年に発表。以後も芹沢氏は前期旧石器時代の遺跡の発掘を続け、彼の下には志を同じくする弟子たちが集まった。アマチュア考古学研究者だった藤村氏もその1人だった。

 1981年、宮城県の座散乱木遺跡発掘調査で、勤務先の電力関係会社での仕事を終えて発掘現場に駆けつけた藤村氏は、移植ゴテを手に約4万2千 年前の地層と推測される発掘場所に向かい、僅か5分後には石器を掘り出して見せた。以後、藤村氏は日本考古学を塗り替える発掘を次々に成し遂げたという。

 しかし――、2000年11月の毎日新聞の取材で彼が発掘したとする石器は、氏自身がその場で密かに埋め戻しては掘り起こしたものだったことが発覚。多くの前期旧石器時代の遺跡の発掘が藤村氏の業績であったために考古学界を揺るがす大騒動になった。

 とはいえ、それは考古学だけの問題ではないだろう。『発掘捏造』毎日新聞旧石器遺跡取材班(新潮社2001)によれば遺跡から出土した石器の年代を測定する方法には、(1)出土品を放射性同位元素の測定などで科学的に分析する方法、(2)出土品の形態、形式から年代を推測する方法、(3)出土した地層を分析する方法の3通りがある。

 しかし、前期旧石器時代のような古い出土品は、(1)の放射性同位元素を用いる科学的な分析方法では測定が困難か、できたとしても誤差が大きくて使えないことが多いし、(2)の方法もそもそも旧石器の形態、形式などの特徴がよく分かっていないので年代推定の助けにならない。

 結局、出土した地層の年代によって推測するしかない事情がある。だからこそ古い地層に石器を埋め戻して発見してみせる藤村氏の捏造がまかり通ってしまったわけだが、それを世紀の大発見として競い合うように過熱報道したジャーナリズムの側にも問題はある。

日本最古、12万年前の石器見つかる

2009年09月30日 読売新聞 YOMIURI On-Line

「旧石器」研究 再構築へ

最初に見つかったナイフ状の石器(29日、松江市で)=永井哲朗撮影

 島根県出雲市多伎町の砂原遺跡で、約12万年前の中期旧石器時代の地層から、国内最古の石器20点が見つかり、同遺跡学術発掘調査団(団長=松藤和人・同志社大教授)が29日、発表した。従来よりも数万年さかのぼる。日本の前・中期旧石器時代については、「旧石器捏造事件」で、存在がほぼ否定される事態に陥ったが、今回の発見は、同時代の研究を再構築するうえで貴重な成果となる。

 石器は長さ5・2〜1・5センチで、石英岩や流紋岩など。石を繰り返し、たたきつけるなどして加工したらしい。

 調査地は丘陵地の斜面にあり、今年8月、成瀬敏郎・兵庫教育大名誉教授(自然地理学)がナイフ状の石器1点を発見し、松藤教授らに調査を依頼。周辺を発掘したところ、19点が見つかった。出土地層のすぐ上の火山灰層を分析したところ、成分などから約11万年前に起きた三瓶山(さんべさん)(島根県大田市)の噴火で堆積(たいせき)した火山灰と判明。すぐ下の地層は約12万8000年前にできたとみられることから、石器の年代を判断した。

 2000年に東北旧石器文化研究所(解散)の元副理事長が、約70万年前とした宮城県栗原市の上高森遺跡などで出土石器を捏造した事件が発覚。日本考古学協会は、元副理事長が調査した160か所以上の遺跡について、捏造と判断、旧石器時代の研究は著しく後退した。事件後、岩手県遠野市の金取遺跡(約9万〜8万年前)や長崎県平戸市の入口遺跡(約10万年前)で石器が見つかっているが、年代については異論もある。

 現地説明会はなく、10月4日午前10時半から、出雲市の多伎コミュニティセンターで調査報告会。主な石器は、10月10〜25日、同市の県立古代出雲歴史博物館で展示する。

島根・出雲の国内最古の旧石器は2つの層から出土 朝鮮半島と共通の石材も

2009年09月30日 MSN産経新聞

 島根県出雲市多伎町の砂原遺跡で見つかった約12万年前の旧石器が、2つの地層からみつかっていたことが30日、遺跡学術調査団の調査で分かった。2つの地層は数百年の年代差があるとみられ、石器を使った人類が2時期にわたって出雲の地で生活した可能性があるという。

 調査団によると、石片は11万年前の「三瓶木次(さんべきすき)火山灰層」の直下にある「泥砂質シルト層」から14点、その下層の植物の葉などが腐植して堆積(たいせき)した「古土壌層」から6点が出土した。

 地質に詳しい成瀬敏郎・兵庫教育大名誉教授(古土壌学)によると、2層の旧石器は近接していることなどから、年代差は数百年程度とみられ、旧石器人がいったん生活して立ち去ったあと、数百年後に再び出現した可能性があるという。

 一方、出土した石器20点のうち数点は、石器として通常使わない石英が含まれていたことも判明。石英は、堅くて加工しにくく割れ口が粗くなるため、石器には不向きとされている。

 石英は朝鮮半島で50万年以上前から石器として使われていることから、日本海岸の出雲と、朝鮮半島に共通点がある可能性が出てきた。

 当時の日本列島は、中国大陸とは日本海によって分断されていたものの、その数万年前には陸続きになっていたとされ、調査団長の松藤和人・同志社大教授(旧石器)は「陸続きの時に、朝鮮半島から日本列島に人類が渡っていたことは十分考えられる」と推定している。

国内最古の旧石器を出雲で発見 12万年前、これまでより3倍古く

2009年09月29日 MSN産経新聞

 国内最古とみられる約12万年前の旧石器時代の石器20点が、島根県出雲市多伎町の砂原遺跡で出土し29日、同遺跡学術発掘調査団(団長、松藤和人同志社大教授)が発表した。国内ではこれまで3万5千〜4万年前の旧石器が最古とされていたが、8万年以上さかのぼることになり、日本列島に人類が存在したことを示す画期的な発見となりそうだ。

 同遺跡で地質調査をしていた成瀬敏郎・兵庫教育大学名誉教授(古土壌学)が8月、日本海から約100メートル内陸に入った地層面が見える崖(がけ)で石片を発見。松藤教授が鑑定したところ人為的に加工された石片の可能性が高いことが判明し、詳細な発掘調査を実施した。

 石器は、石英の一種の玉髄(ぎょくずい)製などで長さ2〜5センチ程度だった。いずれも人の手で割られたとみられる鋭い断面が確認された。この石器は、ナイフのように使った可能性もあるという。

 地層の分析で、石器の上40〜50センチに積もった火山灰層が約11万年前、近くの三瓶山(さんべさん)が噴火して形成された「三瓶木次(きすき)火山灰層」と特定。見つかった石器は、この地層よりさらに古いことが分かった。

 旧石器については平成12年、宮城県・上高森遺跡から出土した約70万年前とされた石器が、発掘担当者によって意図的に埋められた捏造(ねつぞう)と判明して以降、明確に旧石器と認められるのは、3万5千〜4万年前が最も古いとされてきた。

 松藤教授は「地層の状況から、年代をきっちり特定することができた意義は大きい」と話していた。

 調査報告会は10月4日午前10時半、出雲市の多伎コミュニティーセンター、調査速報展示は10月10〜25日で同市の県立古代出雲歴史博物館で行われる。

「捏造事件」のタブー破るか

 約12万年前の国内最古とみられる旧石器が見つかった島根県出雲市の砂原遺跡。平成12年に発覚した旧石器捏造(ねつぞう)問題の記憶がいまなお鮮烈なだけに、研究者の衝撃は大きい。

 「本当に石器なのか」という根強い疑問に対し、調査団は「さまざまな角度から検証した」と自信を深める。日本列島に人類はいつ出現したのか−。わずか数センチの石片が、謎を秘めた日本人のルーツに大きな一石を投じることになった。

 調査団長の松藤和人・同志社大教授は石器の年代について「科学的に時期が分かる火山灰層が何層もあり、年代に問題はない」と強調。旧石器捏造問題では、日本考古学協会調査特別委員会の総括委員として検証しただけに、自らの調査でも地層を丹念に調べた。

 「捏造問題以降、3万5千年前より古い旧石器研究はタブーになった。今回の調査は、及び腰だった研究者を励ますことになるはず」と松藤教授。韓国では50万年以上前の旧石器が発見されており、「中国大陸と地続きの時代があった日本列島に、12万年前に人類が渡ってきても不思議はない。日本の人類史の起源を探る重要な資料だ」と話す。

 「最古の旧石器」を証明するカギは、地層の年代とともに、石片が人工的に加工されたのかという点だ。石同士がぶつかって自然に割れた可能性も捨てきれないためだ。今回の石器のうち流紋岩製の1点(長さ約5センチ)は、石材をいったん厚さ1センチに割ったのち、さらに先端をとがらせるため細かく削り、突き刺す道具として加工した痕跡が確認されたという。

 安蒜(あんびる)政雄・明治大教授(旧石器)は「出土した石片は人工品とみられ、地層の年代も信頼性は高い」と評価する。

 ただし、自然に割れた石か、人為的な加工かを見分けるのは難しい場合も多い。白石浩之・愛知学院大教授(旧石器)は「玉髄の石片は人工的に打ち割った可能性もあるが、他の石片は不明瞭なものもあり、さらに詳細な調査が必要」と慎重な姿勢をみせ、今後の調査に期待を寄せた。

 一方、旧石器が出土した場所は海岸沿い。山間部で狩猟採集に励む旧石器人というイメージを一新する可能性も出てきた。松藤教授は「魚など海の幸を取っていたことも考えられ、旧石器時代の生活を復元する上で興味深い」と話した。

出雲・砂原遺跡で国内最古の旧石器発見

2009年09月29日 山陰中央新報

 日本最古の約12万年前とみられる前期旧石器時代の石器が、出雲市多伎町の砂原(すなばら)遺跡で発見され、学術発掘調査団(団長・松藤和人同志社大教授)が29日、島根県庁で発表した。日本列島に登場した人類の歴史を考える上で極めて重要な資料になるとともに、旧石器発掘ねつ造問題で停滞していた研究の扉を再び開く大きな意義を持つ。

 砂原遺跡は、国道9号に接して日本海が望める丘の上にある。

 同市在住の自然地理学者で、兵庫教育大の成瀬敏郎名誉教授(66)が8月8日、がけの地層露頭から石器1点を発見。松藤教授(61)が鑑定し、発掘調査したところ、石器や石器の素材としてはがされた石片など新たに計19点が見つかった。長さは1・5〜5センチ。石材は石英や流紋岩、玉髄(ぎょくずい)など。うち1点は先端を鋭く加工した、物を突き刺す道具「尖頭(せんとう)スクレイパー」と確認した。

 発見された石器は、約12万5000年前の地層と、約11万年前に降り積もった三瓶木次火山灰層の間にある2つの層に含まれていたことなどから、約12万年前と年代を特定した。

 松藤教授は、3万5千年より古い時代を前期旧石器、新しい時代を後期旧石器時代と区分。石器を残したのは、ネアンデルタールに代表される旧人か、われわれの祖先となった新人のホモサピエンスの可能性が考えられるが、「現段階では分かっていない」とした。

 朝鮮半島の旧石器を研究する松藤教授は、石材に硬い石英が使われている共通性から、同半島系の旧石器づくりの技術が伝わった可能性を指摘。「列島の人類史の始まりを考える上で極めて重要な発見。(旧石器時代の研究は)忌まわしい事件による長いトンネルを抜け光が見えてきた。もう一度解明しようという刺激を全国の研究者に与えることができれば」と話した。

 これまで国内では、金取遺跡(岩手県)の旧石器が8〜9万年前で最古とされてきた。

 調査団は、現地が私有地のため、立ち入り禁止とする一方、調査報告会を10月4日午前10時半から同町の多伎コミュニティセンターで開く。同市大社町の県立古代出雲歴史博物館では、同10〜25日に調査速報展示、11日午後1時半から成瀬名誉教授の調査講演会がある。


2万年前の石器を公開 佐世保・直谷岩陰遺跡で現地説明会

2009年08月24日 長崎新聞

発掘現場の地層や遺物などを市民に公開した説明会=佐世保市、直谷岩陰遺跡

 佐世保市教委は23日、2006年度から発掘調査している直谷(なおや)岩陰遺跡=吉井町直谷=の現地説明会を開き、旧石器時代のナイフ形石器(約2万年前)など遺物を公開した。

 市教委によると、直谷岩陰遺跡は国史跡の福井洞窟(どうくつ)=同町=から直線距離で約1・5キロの距離にあり、縄文草創期以降の土器や石器など4万点以上が出土。3日から実施している本年度の調査では、新たに旧石器時代の遺物が見つかった。

 説明会では市教委の久村貞男理事(62)が遺跡の概要や出土品について説明。遺跡の最も深い地層から、約4万2千年前と判定された炭化物が見つかったことに触れ、「この地層から石器が出てくれば国内で最古の遺跡」と話した。市内外から参加した考古学ファンら約50人は遺物などを熱心な様子で見入っていた。

 近くに住む松尾高明さん(74)は「数万年前からの遺物が出土する遺跡があることを大変誇りに思う。地元で出土品が見られるような場所を整備するなど、地域の活性化につなげてほしい」と話した。

岩宿博物館:旧石器発掘60周年記念して、あすから資料展示・講演会・企画展 /群馬

2009年04月30日 毎日新聞 地方版

 ◇相沢忠洋氏発見の黒曜石石器も 保存してきた相沢夫人「県や国の重文指定が夢」−−みどり

 岩宿遺跡で旧石器時代の石器が発掘されてから60周年を迎えたのを記念して、みどり市笠懸町阿左美の岩宿博物館(三輪延也館長)は5月1日から、資料展示や講演会、企画展などを連続開催する。1949年に民間の研究者、相沢忠洋氏が発見した黒曜石製の石器も展示され、考古学ファンの人気を集めそうだ。

 相沢氏は46年、旧笠懸村の山麓(さんろく)で小さな石器を見つけ、49年夏には黒曜石でできた石槍(いしやり)を発見した。その後の調査で旧石器時代のものと確認され、日本にも旧石器時代に人々が生活していたことが、初めて明らかになった。

 これらの石器は、相沢氏の妻で、今回の企画を共催する相沢忠洋記念館(桐生市新里町奥沢)の千恵子館長(72)が保存してきた。「企画展示がきっかけで、この石器が県と国の重要文化財に指定されることが夢です」と、期待をふくらませる。

 5月1日からは、この石器をはじめ、相沢氏の遺品・関連資料を特別展示する。6月20日からは特別展示「相沢忠洋・その人となり」を、10月3日からは「その後の岩宿」と題した展示を始める。同4日には、同館副館長で旧石器研究家の小菅将夫氏(49)の講演もある。

 6月から12月まで、特別連続講座「岩宿大学」もあるが、6月14日の第1回講座では、相沢氏と一緒に発掘調査に加わっていた加藤正義氏が、当時の思い出を語る。

 小菅氏は「博物館は相沢さんの功績で建てられた。石器などが発掘の地に戻ってくる意義は大きい」と、多数の来館を呼び掛けている。【塚本英夫】

発掘最前線一堂に 岡山県立博物館企画展開幕

2007年07月21日 山陽新聞

遺跡出土品400点

 岡山県内の遺跡発掘調査の最新成果を紹介する企画展「おかやま発掘最前線 ここまでわかった古代吉備」(岡山県教委など主催、山陽新聞社共催)が20日、岡山市後楽園の同県立博物館で始まった。9月9日まで。

 同県教委や各市町村教委、大学などがここ約5年の間に調査した旧石器時代〜古代の遺跡約40カ所から、出土品約400点を集めて展示。

 弥生時代中期の石器工房とされる山ノ奥遺跡(津山市上村)で出土した製作途中の石包丁や石斧(せきふ)は、石器作りの過程を伝えて興味深い。同県内で初めて埴輪(はにわ)窯跡が見つかった土井遺跡(6世紀後半、赤磐市可真上)出土の人物埴輪「盾持ち人」、鹿(しか)をかたどった動物埴輪も独特の姿で人気を集めていた。

 このほか、古代山城・鬼ノ城(総社市奥坂)のコーナーでは、写真パネルや遺物、映像で壮大な遺跡の全体像を紹介。入場料は大人200円、中学生以下と65歳以上は無料。月曜休館。

芹沢長介氏が死去 前期旧石器研究の第一人者 86歳

2006年03月17日 河北新報社

芹沢長介氏

 旧石器時代研究で知られる考古学者で、河北文化賞を受賞した東北大名誉教授、東北福祉大名誉教授の芹沢長介(せりざわ・ちょうすけ)氏が16日午後2時18分、胸部大動脈瘤(りゅう)破裂のため、仙台市青葉区の東北大病院で死去した。86歳。静岡市出身。自宅は仙台市青葉区中山2ノ12ノ15。葬儀・告別式は20日午後1時から、仙台市青葉区木町通2ノ2ノ13、斎苑別館で。喪主は妻恵子(けいこ)さん。

 型絵染の染色工芸家で、人間国宝だった故芹沢 _介氏の長男。写真家、故土門拳氏(山形県酒田市出身)の内弟子第1号となった後、考古学を志して明治大に入学した。

 明大大学院修了後、東大講師などを経て、1963年東北大文学部助教授、71年教授。84年から93年まで東北福祉大教授を務め、89年から芹沢 _介美術工芸館の館長に就任していた。

 49年、群馬県の岩宿遺跡をアマチュア考古学研究者と発掘調査し、日本には存在しないとされていた1万年以上前の打製石器を発見。「日本には旧石器時代がなかった」との定説を覆した。東北を含む各地での調査報告は、旧石器時代の基礎資料として高く評価された。

 縄文文化研究にも力を注ぎ、東北での縄文初期の文化を明らかにした。

 前期旧石器研究の第一人者としての功績が評価され、第35回(85年度)河北文化賞を受賞した。

 「出土品の年代は、層位が形式に優先する」との理論を提唱。2000年には宮城県築館町(現栗原市)の上高森遺跡で、指導していたアマチュア考古学者による石器捏造(ねつぞう)が発覚した。

No.9-4-1 前期旧石器時代(60万年前〜12万年前)

− 第四期洪積世−


前・中期旧石器問題調査研究特別委員会報告 by日本考古学協会

No.9-4-2 中期旧石器時代(12万年前〜3万年前)

−旧人の遺跡(西アジア・ヨーロッパではネアンデルタール人の段階)第四期洪積世最後の氷期時代−


入口遺跡出土の石器類

2004年01月15日 西日本新聞 Word BOX

 入口遺跡で出土した主な石器は「台形状剥片石器」「尖頭状石器」「削器」「敲石」の4種類。台形状剥片石器は母岩から剥(は)ぎ取った石片を使った小型のもので、切る、削る、突き刺すといった作業を行う道具とされる。尖頭状石器は先の尖(とが)った石器で、やりの先に付けたり、きりのように使われたりした。削器は掻器(そうき)やスクレイパーとも呼ばれ、獣の皮をはいだり、木や骨を削ったりする。敲石は、石器を作る際のハンマーのようなものと考えられている。このほか石器材料の石核や剥片、チップ(くず)なども確認されている。

平戸の中期旧石器 (上)出土層を理化学的測定

2004年11月06日 九州発 Yomiuri On-Line

 九州の西北隅にタツノオトシゴのような形をして浮かぶ長崎県平戸島。9万年前、日本最古の可能性がある石器は、島北部を流れる神曽根(こうぞね)川の河岸段丘上の入口(いりぐち)遺跡(平戸市山中町)から出土した。

 この遺跡の価値を明らかにするために、2000年の旧石器捏造(ねつぞう)事件以後の国内の前期、中期旧石器遺跡の現状を概観してみよう。

 旧石器時代は前期(13万年前以前)、中期(13万〜3万5000年前)、後期(3万5000〜1万6000年前)に区分され、人類学的な原人、旧人、新人の時代に対応するとされる。宮城県で60万年前のものとされる石器が出土したが、捏造発覚の結果、研究者が一致して前期、中期旧石器遺跡と認める遺跡は国内からほとんど姿を消してしまった。

 数少ない例外が、1984年の調査でスクレーパー(削器)など9点が出土した岩手県宮守村の金取遺跡で、村教委などによる2003年の再調査で、出土層が8万5000〜5万年前と確認された。ただ再調査では肝心の石器が出土せず、84年の9点だけでは、中期旧石器時代の性格を論じるのは困難とされている。

 一方、九州でも中期旧石器遺跡がいくつか知られていた。しかしこれらの石器は、時代のはっきりしない地層や地表面から出た資料がほとんど。中期旧石器時代のものとされたのは、形式が斜軸尖頭器(しゃじくせんとうき)、つまり東北地方の「中期旧石器」の典型的な形式と類似しているという、結局捏造事件の発覚で根拠を失うことになる理由によるものだった。

 さらに斜軸尖頭器は捏造後の検証で、縄文時代にも存在することが明らかにされた。熊本県装飾古墳館の木崎康弘主幹によれば、「斜軸尖頭器を中期旧石器の指標とする前提が崩れ去った以上、これらの遺跡の評価も白紙または留保せざるを得ない。層位的に確実な中期旧石器遺跡の出現を待って、中期旧石器の形式的編年を再構築する必要がある」。

 入口遺跡から、中期旧石器が大量に出土したのは、このような状況の中でのことだった。

 発掘調査は平戸市教委が1999年から継続中で、10万3000年前(±2万3000年)の赤色土層(4層)最上部からスクレーパーなど3点が、9万年前(±1万1000年)の黄色土層(3b層)からはスクレーパー、台形状剥片(はくへん)石器など約100点が出土している。

 捏造事件の反省から、研究者が遺跡を見る目は極めて厳しくなっており、4層の出土物については自然石を見誤った「偽石器」とする見解も出ているが、3b層については異論がないようだ。出土した石のいくつかがぴったり接合でき、石器の原料の石核↓石核をたたいて剥離(はくり)した剥片↓剥片を調整した石器、という石器製作の流れが確認されるからだ。

 「もし水流などの自然現象で割れたものならば近くで発見される可能性は低く、角も摩耗しているはず」と市教委の萩原博文主幹。加工時にハンマーとして用いたらしい自然石や、加工で生じたチップ(石くず)も出土しており、石器製作の姿をリアルに伝えている。

 年代については、出土層の上下に阿蘇4(9万〜8万5000年前)など年代が明らかな火山灰層が確認されなかったため、光ルミネッセンス法という理化学的測定法で前掲の年代を得た。

 この方法は、鉱物が堆積(たいせき)により日光に当たらなくなることによって蓄積する自然放射線量を、年間線量で割って、何年前に地中に埋まったのかを計測するものだが、地層に不整合があった場合は、新しい年代が出る可能性があるという。それでも「層位的に後期旧石器時代初頭に対応する3a層の下位にあり、後期より古い石器群であることは間違いない」(木崎さん)。

 どうやら3b層の石器群は、国内初のまとまった中期旧石器と評価することができそうだ。

平戸の中期旧石器 (中)旧人と新人の技術が融合

2004年11月13日 九州発 Yomiuri On-Line

入口遺跡出土の後期旧石器。典型的な黒曜石製のナイフ形石器

 ミトコンドリアDNAを分析した人類学の最新の研究によれば、ヨーロッパで4万〜3万年前にかけて起こった旧人から新人への変化は、進化ではなく種の交代、つまりアフリカに新たに出現した新人の渡来と、旧人の滅亡ととらえる説が有力になっている。

 中期旧石器時代=旧人の時代、後期旧石器時代=新人の時代とする従来の区分に立てば、この間には、石器文化に断絶があったはずだ。ことは種の交代である。縄文土器→弥生土器どころの話ではない。長崎県平戸市の入口遺跡で出土した中期旧石器には、どのような特徴があるのだろうか。

 平戸市教委の萩原博文主幹は出土石器を、台形状剥片(はくへん)石器、断面が厚い三角形をした舟形状石器、スクレーパー(削器)に分類した。これらの石器は、各地の後期旧石器と比べて以下のような特徴が指摘できるという。

入口遺跡出土のメノウ製中期旧石器。人工品であることを示す接合資料 第1に、石材に黒曜石を用いずに現地のメノウを用いた点だ。同遺跡でも後期には黒曜石製の台形石器、ナイフ形石器が出土しており、それらの石材は松浦市牟田、佐世保市針尾島などから調達したと考えられている。 第2に、形態が不定形で調整も部分的な点だ。台形状剥片石器は幅広の剥片に何らかの調整を施した石器をこう名付けたもので、必ずしもきれいな台形とは限らず、後期の台形石器とは区別される。

 ところが入口遺跡の石器を、後期旧石器時代の最も古い時期の石器と比べてみると、違いよりも、むしろ共通項が少なくないこともわかった。

 1997年まで発掘調査が行われた熊本市の石の本遺跡8区は、放射性炭素(C14)年代測定で3万3000年前、後期旧石器時代初期と位置づけられている。この遺跡で台形状剥片石器、断面三角形の舟形状石器が出土しているのだ。石の本遺跡8区と同時期か、やや古いと考えられる長崎県吉井町の福井洞穴15層、南関東の武蔵野台地x層下部で出土した石器も同様で、現地の石材を用いる点も共通している。

 「これら後期初頭の台形状剥片石器は形式的に台形石器につながるものとみることができるが、入口遺跡との比較からは、むしろ中期旧石器とみることもできる。つまり中期旧石器と、後期旧石器の間には明確な断絶がない、徐々に変化したと考えられるのです」

 一方、武蔵野台地x層下部や大分県清川村の岩戸遺跡3文化層などからは、世界的な後期旧石器文化の特徴である石刃(せきじん)技法を用いた基部加工石器が出土している。日本列島の後期旧石器の代名詞といえるナイフ形石器の原型だ。

 石刃技法は、石核に骨や角をタガネのように当ててハンマーで打ち、縦長剥片を連続して作り出すもので、これにより石器製作の能率が飛躍的に向上した。現代人でもよほど練習しなければ習得は困難で、旧人にはできなかった、新人の技術とされる。

 しかし日本列島ではナイフ形石器が台形石器を駆逐することはなく、両者は後期旧石器時代前半を代表する器種として共存している。萩原さんは日本の後期旧石器時代について、石刃技法を携えて渡来した新人の文化と、旧人の石器文化との融合というシナリオを描いている。

 「3万3000年前ごろ、石刃技術の出現と相前後して、基部加工ナイフ形石器が成立し、これが石器群全体を構造的に変化させる要因になった。それは中期から日本列島固有の発展をみせていた台形状剥片石器へも影響を及ぼし、定型的な台形石器を成立させた」

 酸性土壌が主体の日本列島では化石人骨が出土する可能性は低く、石器と人類集団の対応を完全に明らかにすることは難しい。ただ石器を見る限りは、新人渡来後もかなりの期間旧人も存続して、列島独自の後期旧石器の成立に影響を与えたようだ。

平戸の中期旧石器 (下)大陸の影響下で独自の発展

2004年11月20日 九州発 Yomiuri On-Line

 長崎県平戸市の入口遺跡から9万年前の石器が出土したことで、日本列島にも中期旧石器時代があり、旧人が存在していたことが確実となった。彼らはいつごろ、どこから、列島にやってきたのか。

 当然考えられるのは平戸島と地理的に近接している朝鮮半島だ。

 佐藤宏之・東大助教授(考古学)によると、入口遺跡出土の鋸歯縁(きょしえん、間隔の広い大ぶりの打撃によって作られたノコギリのような刃部)を持つスクレーパー(削器)や、断面が三角形をした舟形状石器は、全羅南道竹内里(チュクネリ)遺跡(8万年前)などから出土した韓国の中期旧石器とよく似ているという。

 また台形状剥片(はくへん)石器についても、「石器と判別することが一見難しいため、韓国では報告例は少ないものの、実際には同種の小型の剥片石器がかなり出土しているようだ」という。

 ところが、韓国や中国では一般的なチョッパー、ハンドアックスといった大型の礫(れき)石器は、入口遺跡では出土していない。樹木の伐採や動物の解体といった力仕事に用いられたとみられる石器だ。

 「入口遺跡の石器は形状的に、ルーツを朝鮮半島、さらに中国にたどることができるが、これらの礫石器は伝わっていない。半島の影響を受けつつも、石材、植生など環境の違いに適応して、独自の石器文化が生まれたのだろう」

 問題は列島に人類が渡来した時期だ。朝鮮半島と平戸島が陸続きだったとすれば、距離は250キロだから、容易に往来できたはずだ。ところが入口遺跡の9万年前という年代は、比較的温暖で海水面が高い最終間氷期(13万〜7万年前)にあたり、日本列島は現在のように大陸と隔絶していた。この時代の旧人たちが優れた航海術を持っていたと判断すべきなのだろうか。

 むしろ海水面が低かったリス氷期(18万〜13万年前)以前に、入口遺跡の先祖たちが大陸から渡ってきた可能性が高いのではないか。氷期にも現在の地形図から判断して、対馬と半島の間にはなお幅10〜15キロの海峡があったようだが、氷結や浅瀬のため往来は十分可能だったとみられ、これを裏付けるように、ナウマンゾウ、オオツノシカなどの大陸系大型動物の化石が各地で出土している。当然これらの食料を追って人類もやってきたとも考えられる。

 韓国で現在最も古い遺跡と考えられるのは、ハンドアックス、クリーバーが出土した京畿道の全谷里(チョンゴンリ)遺跡で、最下層の年代は30万年前にさかのぼる。平戸市教委の萩原博文主幹は「少なくとも18万年前ごろまでさかのぼる石器が、列島で発見されてもおかしくない」とみている。

 最終間氷期には隔絶していた大陸と日本列島は、続く最終氷期(ウルム氷期)(7万年〜1万6000年前)には再び接近する。

 まず三万数千年前ごろ石刃(せきじん)技法が渡来して、後期旧石器時代に移行する。石刃技法は、西日本より東日本にいち早く出現することから、朝鮮半島ではなく北方経由の技術とする見解もあるが、大陸からの新人の技術であることはほぼ間違いない。最寒冷期の2万年前には、石刃技法を応用した剥片尖頭器(せんとうき)と呼ばれる槍(やり)先が列島、半島でともに出土しており、両地域の密接な関係がうかがえる。

 日本の旧石器文化は、氷期における大陸との接触と、間氷期における隔絶との繰り返しによって、大陸の影響を受けつつも独自の発展を遂げた。そしてついに縄文文化が花開いたのである。(おわり)

入口遺跡

2004年10月12日 東奥日報

 長崎県平戸市山中町の神曽根川によって造られた河岸段丘上にあり、旧石器時代の石器が出土する。日本の西端に位置し、韓国南部の遺跡との類似点も多いことから大陸の石器文化との接点としても注目を集める。1999年から発掘調査が開始され、2002年に約9万年前とみられる地層から中期旧石器計24点が出土。約10万3千年前と分析された地層からも、石器の可能性のある3点が見つかった。

最古級の石器、さらに70点 9万年前の地層から 長崎・入口遺跡

2004/10/12 The Sankei Shimbun

 長崎県平戸市教育委員会は12日、同市山中町の入口遺跡の約9万年前とみられる地層から、中期旧石器が新たに約70点出土したと発表した。同遺跡からは2002年、同期の石器24点が出土しており、日本最古級とされた岩手県宮守村の金取遺跡(8万5000年前−5万年前)に並ぶ時代の石器として関係者が注目していた。

 同教委は今年6月1日−7月23日、前回の地層とほぼ同じ場所約93平方メートルを調査。深さも前回とほぼ同じ約1メートルの地点から舟形状石器やスクレイパー(削器)など計約70点が出土した。

 これまでの入口遺跡の調査で、石器3点が出土した約10万3000年前の地層からは、今回は出土しなかった。

 同教委は「今回の出土は、前回の時代研究をさらに裏付けるものとみられる」と話している。

 <入口遺跡> 長崎県平戸市山中町の神曽根川によって造られた河岸段丘上にあり、旧石器時代の石器が出土する。日本の西端に位置し、韓国南部の遺跡との類似点も多いことから大陸の石器文化との接点としても注目を集める。1999年から発掘調査が開始され、2002年に約9万年前とみられる地層から中期旧石器計24点が出土。約10万3000年前と分析された地層からも、石器の可能性のある3点が見つかった。

日本最古級の遺跡と確認 長崎県平戸市の入口遺跡

2003.12.23 astroblog

 長崎県平戸市教委は19日、同市山中町の入口遺跡の9万年前の地層から石器が出土した、と発表した。これまで日本最古とされた岩手県宮守村の金取遺跡(9万?8万年前)と並ぶ時代の遺跡となる。

日本最古級の石器が出土 長崎・平戸の入口遺跡

2003/12/19 47News【共同通信】

 長崎県平戸市教委は19日、同市山中町の入口遺跡の約9万年前とみられる地層から中期旧石器が出土した、と発表した。これまで日本最古とされた岩手県宮守村の金取遺跡(9万−8万年前)と並ぶ時代の遺跡となる。ねつ造事件で大打撃を受けた旧石器時代研究に新たな材料を提供すると期待される。

 石器は昨年の調査で出土し、その地層の年代特定を進めてきた。また、約10万3000年前と分析された地層からも石器の可能性のある3点が出土。さらに時代がさかのぼることもあり得る。

 小林達雄・国学院大教授(考古学)は「年代測定から日本最古級の遺跡である可能性は高いが、石器の剥離(はくり)が人為的なものかなど、慎重に調査する必要がある。3万年以上前の遺跡は数が少なく、旧石器時代の解明に有力な手掛かりになる」と話している。

「地域の宝」どう生かす 7万年ぶり出土の横見埋没林

2003/07/24 中国新聞地域ニュース

 ▽町ぐるみの継承意識カギ

 島根県佐田町上橋波で五月、七万年前のものとみられる埋没林が見つかった。小ぶりだが、年代の古さは国内でも指折り。火山活動を伝える地層も専門家の注目を集める。町は地区名から「横見埋没林」と名付け、保存・活用姿勢を打ち出した。ただ、方法や費用の検討はこれからで、難題は多い。町などは「地域の宝」を何とか生かそうと、保存ムードの広がりに活路を求める。(谷口裕之)

 埋没林は農道工事中に現れた。よく知られる大田市の(小豆原(あずきはら))埋没林(約三千五百年前)の巨木群と同じく三瓶山の噴火活動で埋まった。

 樹木は最大で直径四十センチ、高さ一・五メートル。迫力では直径一・八メートル、高さ十三メートルの木もある小豆原に遠く及ばない。だが、樹木を埋めた火山噴出物層は約七万年前のもの。小豆原よりはるかに古い。町教委は詳しい学術的価値や保存法を探る検討委員会(委員長・徳岡隆夫島根大名誉教授)を七月二日に発足させた。

 三瓶の火山活動は十万年前からとされるが、徳岡委員長は「二万年より前の火山活動は世界的にもよく分かっていない。最終氷期だった当時の気象や植生を語るタイムカプセル」と言い、三瓶山の歴史を知る貴重な手掛かりとみる。荒木孝町長も「地球からの贈り物。ぜひ後世に残したい」と意気込む。

 ▽コストと時間

 ただ、それでは残しましょう、とは簡単にいかない。

 まず、農道工事はどうするのか。地元要望を受け、本年度まで十年かけて一・一五キロを改良中。最後の最後で埋没林が出た。仮に中止すれば事業費三億四千万円の半分以上を占める国・県の補助金返還を迫られそうだ。

 保存・展示するとしても、手法により状況は異なる。研究者の声をまとめると(1)樹木をいったん抜いて薬剤処理後に現地に戻して展示(2)現地で保存処理しながら展示(3)樹木を別の場所に移して保存展示―などの選択がある。

 現地保存は、処理と施設にコストと時間がかかる。「数千万円ではとても済まない」という見方もあり、一般会計予算三十七億円(本年度)の町には重い。農道の扱いも難題だ。(2)は巨木だった小豆原で採った方法に近いが、保存効果を疑問視する人もいる。

 ▽見学や講演会

 一方、別施設に移し保存・展示するのは魚津埋没林(富山県)などで例があり、確実な半面「現地でないと価値が半減する」との声も多い。

 町は、八月中にもまとまる検討委報告を基に方針を絞り込む。町単独では経費的に限界がある。岩崎知久教育長は「古里で出土した国民的財産。いい状態で次世代へ引き継ぎたい。地元も努力するが、ぜひ県などに協力してほしい」と望む。

 その下地づくりへ地元や周囲のムード盛り上げに励む。町のホームページで紹介し、見学会は既に二回。広島など県外組を含め通算九百人を集めた。講演会も企画する。

 住民も、見学会の駐車場係や受付で協力する。第一発見者の建設会社役員新井(藤水(とうすい))さん(53)は見学会などで説明役を買って出た。「道路のう回は可能と思う。七万年前の林を現地で残し、町の誇りにしたい」と願う。

 町は、出雲市など二市五町で二〇〇五年一月合併を計画。新市の中での存在感発揮へ、埋没林は一つの大きなよりどころにも映る。

 町内には「しばらく見てもらって取り除けば」という冷めた意見もある。埋もれた立ち木の七万年ぶりの出現という感激を、町ぐるみで共有できるかどうかが鍵となりそうだ。

 《横見埋没林》三瓶山から北東8キロ。カエデ属などの広葉樹を中心に22本出土した。根が確認できる5本を含め12本は立ち木状態。炭化もみられた。旧石器時代の7万年前、三瓶第2期噴火の火山灰に埋まったらしい。この層には、水蒸気を核に丸まった「火山豆石」がみられる。佐賀県の八藤遺跡(9万年前)には及ばないが、国内の埋没林のうちでもかなり古い。佐田町教委は26日午後2時から発見記念講演会を開く。TEL0853(84)0019。

7万年前?の埋没林 島根県佐田

2003/05/30 中国新聞地域ニュース

 島根県佐田町教委は二十九日、同町上橋波の横見地区農道工事現場で、七万年前のものとみられる埋没林が見つかったと発表した。計十本を確認。計測できた木は最大でも長さ約一・五メートルと小ぶりだが、埋没林の報告例では、中国地方で最も古い。

 発見場所は標高約二百メートルの約八百平方メートルの範囲。十九日までに五本が現れ、二十九日には道路のり面部分でさらに五本の上部を確認した。

 町教委や三瓶自然館の中村唯史指導員によると、埋まっていたのは、南西約八キロにある三瓶山(大田市)の火山活動による火山灰のたい積層で約七万年前の層という。三瓶山の噴火活動が活発だった最終氷期(約十万―一万年前)前半に当たり、当時の植生や気候を探る資料として注目される。

 十九日までに発見した五本は一部傾いているが、いずれも古土壌に根を張り立っている状態。最大でも長さ一・五メートル、直径四十センチ。三本を鑑定し、カエデ属などすべて落葉広葉樹と分かった。

 木を包んでいた火山灰層には、雨粒を(芯(しん))に丸まった「火山豆石」もみられた。

 町教委は道路にかかる三本を撤去し、保存法を考える。のり面の木は現地保存も検討する。

 根を張った状態で地中に埋もれている埋没林は、三瓶小豆原(大田市、約三千五百年前)など国内に約五十例ある。

 町教委は六月一日、現地見学会をし午前十時と十一時から解説がある。


金取遺跡

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

金取遺跡(かねどりいせき)は、岩手県遠野市宮守村に所在し、中期旧石器時代に属する日本列島最古の遺跡である。

金取遺跡周辺に旧石器時代の文化層の広がりがあるかどうかを調査しました。

2008年10月29日 岩手県遠野市

5万年以前の石器片発見 岩手・金取遺跡

2005/06/03 古墳・遺跡・化石・現地説明会 他

 岩手県宮守村教育委員会は1日、国内最古級とされる9万−5万年前(中期旧石器時代)の金取遺跡(同村)の2003、04年度の調査報告を発表、石器を作る際にできる破片(長さ5ミリ、幅6・5ミリ)が見つかったことを明らかにした。

 報告書などによると、調査対象は計約134平方メートルで、出土した地層は火山灰測定などから9万−5万年前。5万−3万5000年前の地層からも同様の破片17点が発見され、いずれも別の場所の石を用いた可能性が高いという。今後は地層をはぎ取り保存する。

 金取遺跡は1984年の発掘調査で8万5000−4万年前の石器が出土。旧石器発掘捏造(ねつぞう)問題が発覚して以降、問題と無関係な遺跡として、長崎県平戸市の入口遺跡などと並び国内最古級の遺跡とされる。

層序は型式を決定するか2004/03/06 アームチェア/時空の鍵穴 DMZ

 3月5日毎日新聞朝刊の全国版に加え、毎日新聞地方欄の岩手版にも記事が載っている。こちらに「旧人」の文言はない。ただ、調査委員会は「日本最古かどうかについては調査団としては判断がつかない」と発言しているのに、見出しでは「金取遺跡が「日本最古」」となっている。繰り返すと、調査団は日本最古との判断を示していないのに、毎日新聞は日本最古との見出しを付けた。これがミスリードでなくて何であろう。

 全国版には「ねつ造問題の発覚以後、初めて確認された中期旧石器時代の遺跡で、現時点では国内最古となる。この結果、日本列島に「旧人」がいたことも確実となった」と記事にあるが、記事中にある旧石器時代区分表には、3〜13万年前を中期としながら、旧人と新人が併行して存在したように示されている。古い時代にはアフリカに居ましたよ、といったら正解だが、3〜13万年前に属するからといって旧人とは限らないことを図らずも認めている事になる。しかし毎日新聞ではあくまで[年代が3〜13万年前=中期旧石器時代=旧人]を自明の前提としているようだ。

 中期旧石器(という概念)は、研究者の主張としてはありうる。しかし、金取IV層(4層)出土品についての検討が紹介されているわけではないし(今回の調査ではそうした研究は行われていない)、テフラ同定と熱ルミネッセンス法(毎日全国版の解説コラム)で地層の年代が示されて大体一致しました、という話にすぎない。こうした事で、「壊滅した前・中期旧石器研究の再構築」の「出発点」になる(毎日全国版の解説コラム)との言説は、極めていかがわしいと言わざるをえない。

 研究者間に異論とか慎重論がある時、新聞(マスコミ)が特定の立場を本命とみなしてミスリードするという構図、そうした成り行きに(直接の関係者でない)研究者が眉をひそめる風景は、まさに捏造問題をめぐって展開された構図と瓜二つである。しかも、どうやら今回の調査団(調査委員会)の発表には、ミスリードを招くような内容は含まれていないように見える(前述の通り、調査団見解と違うニュアンスで記事にしているようだ)。

 金取は研究途上にある(前・中期旧石器問題の全てがそうだ)。毎日新聞の記者は、捏造問題から大事な教訓を学びとるのに失敗したようだ。

金取遺跡は旧人遺跡か

2004/03/05 アームチェア/時空の鍵穴 DMZ

 毎日新聞報道によれば、日本列島に「旧人」がいたことが確実となったそうです。

 岩手日報には「旧人」の文言はありません。

 ただ、発掘調査委員会が4日の会議において、一次調査で古い石器が見つかったとされる地層の年代が50,000〜85,000年前だったとの結論をまとめたという事です。(Webで見る限り、対照的に)冷静な記事です。

 毎日新聞の記事全文を読んでも、なぜ、旧人がいた事が確実なのかは分かりません。旧人説に対して誰かがクレジットを与えたのでしょうか、それも分かりません。中期旧石器時代説なら、クレジットする研究者もいますが... よもや、現在の研究状況において、このような説明(旧人説)が「仮説」としてはともかく、「展示会」等で公式化されることはないようにお願いしたいとは思いますが...

 繰り返しますと、テフラによる地層年代確認の情報は既に報じられた通りであり、それが調査委員会の結論になったという以外(それはそれで尊重されるべきですが)、新しい情報は無いようです

日本列島に「旧人」がいた 岩手県宮守村金取遺跡

March 05, 2004 アルカンタラの熱い夏

金取遺跡:岩手に「旧人」いた 再調査で中期旧石器時代 (Mainichi INTERACTIVE)

 岩手県宮守村の「金取(かねどり)遺跡」を再発掘していた調査委員会(委員長・佐々木広村長)は4日、同遺跡が8万5000年〓5万年前の中期旧石器時代(13万〓3万年前)と確認されたと発表した。旧石器発掘ねつ造問題の発覚以後、初めて確認された中期旧石器時代の遺跡で、現時点では国内最古となる。この結果、日本列島に「旧人」がいたことも確実となった。

金取は8万5000−5万年前 遺跡発掘調査委が結論

 日本最古級の金取遺跡(岩手県宮守村)の発掘調査委員会(委員長・佐々木広村長)は4日、同村役場で会合を開き、一次調査で最も古い石器が見つかった地層の年代について、8万5000−5万年前(中期旧石器時代)とする調査結果をまとめた。

 金取遺跡はこれまで9万−8万年前とみられていたが、昨年8月からの二次調査で、この地層にはさらに新しい8万5000年前の火山灰が含まれていることが分かった。

 二次調査では1985年度の一次調査で石器が出た地層の土を採取、詳細に分析した。その結果、洞爺(11万年前)、北原(10万年前)、鳴子荷坂(9万年前)、阿蘇4(9万−8万5000年前)の4種類の火山灰が混在しており、地層の上には5万年前の火山灰が積もっていた。これらのことから、調査委はこの地層の年代を8万5000−5万年前と結論付けた。

最古の金取遺跡に注目 金鶏山(平泉)が国史跡に

2003/12/10 岩手日報

 日本考古学協会は5月、東北旧石器文化研究所の前副理事長が関与した前・中期旧石器時代(3万年以上前)の全遺跡の学術評価を否定する発表をした。

 最悪の結果となったねつ造遺跡の検証を受け、旧石器研究の再構築に向けた動きが徐々に出始める中、宮守村の金取(かねどり)遺跡が注目を集めた。同協会は7月、現時点で国内最古(9万−8万年前)と確認。9月には旧石器包含層の広がりを確認する第2次調査が行われ、全国的にも関心を呼んだ。

 2次調査で3万年以上前の旧石器は見つからなかったが、調査は来年度も実施する。同遺跡は現在、振り出しに戻った旧石器研究の標準となる存在であり、貴重な研究対象として活用を続ける。

 金取遺跡を発見した盛岡市の民間考古学研究者武田良夫さん(69)は、今年の第56回岩手日報文化賞(学芸部門)を受賞した。

 ●世界遺産登録推進へも弾み

 平泉町の金鶏山が11月、文化審議会で国史跡指定の答申を受けた。金鶏山は中尊寺と毛越寺の間にあり、平泉の都市計画の基準点として、また景観上も重要な存在。今の私たちも実感できる平泉のシンボルでもある。

 国史跡に指定されると、2008年度のユネスコ世界遺産本登録を目指す「平泉の文化遺産」の核心地域(コアゾーン)になる。世界遺産の本登録審査は、広範囲な文化的景観を重視する傾向にあり、コアゾーン拡大は登録推進の弾みとなる。

 今年は志波城(盛岡市)が築かれて1200年の節目の年。昨年の胆沢城造営・阿弖流為(あてるい)没後1200年のときのような盛り上がりはなかったが、シンポジウムや規模を拡大しての志波城まつりなど記念行事を繰り広げた。

 志波城跡に関する市の施策で最も評価されているのは、史跡整備の取り組み。威容を誇る外郭南門、築地塀に加え、今年は政庁南門も復元された。ただし、活用の現状はやや物足りなく、もっと知恵を絞ってほしい。

 ●埋蔵文化財展巡回が終了へ

 発掘調査関連では、金附(かねつき)遺跡(北上市)が全国的にも珍しい弥生時代の大規模な石器製作のムラ。西川目、堰向(せきむかい)U遺跡(北上市)は、平安時代の大規模集落跡。芋田(いもだ)U遺跡(玉山村)も平安時代の有力者が住んだとみられる中心集落跡。山口館跡(やまぐちたてあと)(宮古市)からは戦国時代末の堅牢(けんろう)な堀跡が見つかった。

 水沢市の林前(はやしまえ)U遺跡は、南側で戦国時代の集落跡、北側で平安時代の倉庫群跡が見つかり、ともに類例の乏しい貴重な成果となった。上須々孫館跡(かみすすまごだてあと)(北上市)からは経塚2基と中からほぼ完形の渥美産と須恵器系のつぼ計3個(12世紀後半から末)が出土、注目を集めた。

 県文化振興事業団埋蔵文化財センターなどが主催し、県内各地で巡回開催してきた埋蔵文化財展は、今年の江刺市開催(14日まで)で25年の歴史に幕を下ろす。来年以降は盛岡市内で続ける方向というが、巡回展の意義は小さくなかっただけに残念な知らせだった。(細田 清)

第56回岩手日報文化賞・学芸部門 宮守・金取遺跡の発見者 武田良夫さん

2003年11月03日 岩 手 日 報

 「発掘は1人ではできない。賞はグループとしていただけるのならとも思ったが、これが仲間を代表して、ということになるのでしょうか」。権威とは無縁の在野の研究者は、終始はにかみを消さず受賞の弁を語る。

 終戦後間もない小学生高学年のころ、当時住んでいた宮古市内の縄文遺跡で土器片を初めて手にしたのが、現在に至る出発点。盛岡一高を卒業後郵便局員となり、職業人として定年まで勤め上げる一方、自由だが孤独でもある場所に立ち、考古学を探究し続けてきた。

 「発掘はパズルゲーム。ロマンなんて考えたことはない。警察の鑑識みたいなものでしょう」。とは言いながら「遺跡を掘るときは、この本(遺跡)を初めて読むのが私なんだと思う」とも。冷静な胸の内に、やはりロマンが潜んでいる。

 日本考古学協会が今年7月、現時点で国内最古と認定した宮守村達曽部の金取遺跡の発見者。今からちょうど20年前の1983年11月。当時勤務していた遠野郵便局から盛岡の自宅に帰る途中、眠気覚ましに車を止めた付近の地層から打製石斧(せきふ)を見つけた瞬間こそ、金取遺跡を数万年の眠りから呼び覚ました瞬間だった。

 翌年、菊池強一さん(前西和賀高校長)を団長に行われた発掘調査の確かさは、2000年に旧石器ねつ造問題が発覚して、あらためて評価を集めた。金取遺跡はこの年代の標準となり、本人いわく「2度目の発見を迎えたかの様相」に。今夏の二次調査も全国的に注目の的となった。

 「遺跡は日詰気仙沼構造線にあり、10万年の地層が最も厚くても1・5メートルの範囲に収まっている。こんなに条件のよい場所はなく、今でももう少し資料が出ないかと思っている」。金取通いはすでに200回を数える。

 旧石器時代から縄文時代草創期・早期が関心の焦点。岩洞湖小石川遺跡(玉山村)など県内の数々の旧石器遺跡、古代では永福寺山遺跡(盛岡市)などで地道に成果を積み上げ、学会などで全国に向け発表してきた。

 自身をアマチュアと称するが、自負もある。「現在は発掘調査が公務員の仕事になっているが、アマチュアが貢献できることはまだある。遺跡を見る(確かな)目は、多ければ多いほどいいわけですから」。

金取 遺跡

2003年09月21日(日)第14回えみし文化ゼミナール(宮古)のまとめ

金取遺跡:石20点を発見 石器か自然石か 調査期間を延長

2003年09月11日[毎日新聞]Mainichi INTERACTIVE

 日本最古の遺跡の可能性がある「金取(かねどり)遺跡」(岩手県宮守村)を発掘していた調査委員会(委員長・佐々木広村長)は11日、中期旧石器時代(13万〜3万年前)にあたる約4万年前と推定される地層から石約20点を発見したと発表した。だが、人為的に作られた石器か自然石か不明のため、調査委は16日までだった調査期間を3日程度延長し、発掘を続ける。

 調査委によると、石は大きいもので5センチ程度。まだ泥を落としておらず、十分な検証ができていないという。出土した地層の年代を特定する作業も進める。調査を指導する委員会委員長の阿部朝衛帝京大助教授は「石や地層をきちんと分析し、来年3月までに結論を出したい」と話している。

 金取遺跡は84年、9万〜4万年前と推定される地層から石器約40点などが見つかった。旧石器発掘ねつ造の前東北旧石器文化研究所副理事長も関与していないため、改めて発掘が行われている。【苅田伸宏】

岩手・金取遺跡 旧人の石器確認 出土地層9―8万年前 国内最古

2003.07.07 西日本新聞

 岩手県宮守村の金取遺跡で石器が出土した地層が、九万―八万年前に堆積(たいせき)した火山灰であることが六日、日本考古学協会の調査で分かった。協会はこの時期に生活した人類が使用した石器とみており、現時点で確認されたものの中では日本最古となる。

 日本列島の人類史は約七十万年前にさかのぼるとされていたが、旧石器発掘ねつ造問題で東北旧石器文化研究所の前副理事長の関与遺跡が学術的価値を否定され、年代確認された遺跡は約四万年前に戻っていた。調査結果は列島に旧人がいたことを示し、アジア大陸の石器文化との関連を研究する上でも貴重な資料と期待されている。金取遺跡は一九八四年に発掘調査が行われ、年代の違う四つの地層から石器が出土。最も古いとみられる地層では、石斧(せきふ)やスクレイパー(削器)など石器九点が確認されていた。

 考古学協会はねつ造問題の検証と並行して、各地の「前・中期旧石器時代」(三万年以上前)とみられる遺跡や石器も再検討。金取遺跡も三回現地調査し、採取した火山灰の年代測定を自然科学分野の専門家に依頼し分析を進めてきた。

 緑色普通角閃石(かくせんせき)や斜方輝石、ジルコンなどの鉱物の成分、火山ガラスの形状や屈折率を調べた結果、石器が出土した最下層は九万―八万年前に九州から北海道まで飛散した「阿蘇4火山灰」であることが判明。

 上層の「村崎野軽石」(約七万年前)や下層の「北原火山灰」(約九万年前)などの堆積状況もはっきりと確認された。石器もアジア大陸で出土している同時期の形状と類似する点が多いという。

 調査の中心となった同志社大の松藤和人教授は「最終的な報告ではなく予備的な分析の結果。現在進行形で調査を進めており、結論がまとまったら学会で報告したい」と話している。

                ◇

 ●氷河期 大陸から移動か

 岩手県・金取遺跡で石器が出土した一番下の地層が九万―八万年前と確認されたことは、アフリカを起源とする人類が当時アジア大陸の東端に到達し、ヨーロッパのネアンデルタール人に当たる旧人が日本列島に存在していたことを意味する。

 この時代は海水面が高く、日本列島は今と同じように大陸と隔絶されていた。当時の人類が海を渡った痕跡は世界的に残っておらず、大陸と地続きだった十八万―十三万年前の氷河期に、食料や住みやすい環境を求めて移動したと推測される。

 今年五月、金取とほぼ同じ北緯にある韓国の全谷里(チョンゴンニ)遺跡の石器が、火山灰分析や地質学的な地層の編年調査で、三十万年前後にさかのぼることが明らかにされた。

 日本列島でもトウヨウゾウなどこの年代のほ乳動物の化石が見つかっており、動物の往来があったのは確実だ。同じころに朝鮮半島で人類が生活していたのなら、地続きの日本列島に金取よりも古い遺跡が存在していてもおかしくない。

 東大の佐藤宏之・助教授(考古学)は「金取の年代測定の結果はほぼ予想通りだが、自然科学的な分析方法で裏付けられたことは大きな成果だ。前・中期旧石器研究は(前副理事長の)非関与遺跡を軸に展開されるが、今後の調査によってはさらに古い遺跡が見つかる可能性もある」と期待している。

金取 遺跡 岩手日報(2003/07/07)の記事

by ブナ林と古代史

金取遺跡(かねどりいせき)

2003年07月07日 西日本新聞 WORD Box

 岩手県宮守村の北上山地の丘陵にある遺跡。1984年に民間の考古学研究者が石斧(せきふ)を発見、発掘調査で4万年余り前の地層から石器31点、その下層から石器9点が出土。縄文時代と「後期・中期旧石器時代」の遺跡とされ、発掘ねつ造問題の発覚後は、国内最古の可能性を指摘されていた。 7月下旬から、岩手県教育委員会と宮守村が中心となって再発掘調査が実施される

岩手・金取遺跡が国内最古 石器出土層9−8万年前

2003/07/06 【共同通信 】

 岩手県宮守村の金取遺跡で石器が出土した地層が、9万−8万年前に堆積(たいせき)した火山灰であることが6日、日本考古学協会の調査で分かった。協会はこの時期に生活した人類が使用した石器とみており、現時点で確認されたものの中では日本最古となる。

 日本列島の人類史は約70万年前にさかのぼるとされていたが、旧石器発掘ねつ造問題で東北旧石器文化研究所の前副理事長の関与遺跡が学術的価値を否定され、年代確認された遺跡は約4万年前に戻っていた。調査結果は列島に旧人がいたことを示し、アジア大陸の石器文化との関連を研究する上でも貴重な資料と期待されている。

 金取遺跡は1984年に発掘調査が行われ、年代の違う4つの地層から石器が出土。最も古いとみられる地層では、石斧(せきふ)やスクレイパー(削器)など石器9点が確認されていた。  考古学協会はねつ造問題の検証と並行して、各地の「前・中期旧石器時代」(3万年以上前)とみられる遺跡や石器も再検討。金取遺跡も3回現地調査し、採取した火山灰の年代測定を自然科学分野の専門家に依頼し分析を進めてきた。

日本最古はどの遺跡?/ねつ造の後遺症続く

2003年01月25日 陸奥日報

 国史跡として最古とされていた座散乱木(ざざらぎ)遺跡=宮城県岩出山町。それもねつ造と分かり、文化庁は昨年十二月、指定を取り消した。二○○○年秋の「旧石器発掘ねつ造」発覚まで、東北地方を中心に世界的にもまれな“大発見“が相次ぎ、一時は六十万年以前にさかのぼった日本列島の人類史。それがどれも水の泡となって、考古学界は研究のベースになる遺跡年代の再構築を迫られている。

 ▽むなしい脚光

 約四万五千年前の地層から石器六十三点が出土したとして座散乱木が国史跡に指定されたのは一九九七年。三万−三万五千年以上前の前・中期旧石器時代が日本にあったことを証明したとして脚光を浴びた。

 近年の研究で中期旧石器時代の存在は揺るがないとされているものの、座散乱木は昨年の再調査で「聖地」の地位を失った。同時代の石器が一点も出ないばかりか、地層は人が住めない火砕流の堆積(たいせき)層だった。

 千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館。「日本文化のあけぼの」と題したコーナーに、三万五千年前の地層から出土した西之台B遺跡(東京)の石器が展示されている。

 現時点で国内最古級とされるが、同博物館の春成秀爾教授は「ほかにも古い年代の石器が多数確認されている」と話す。

 ▽有力な金取遺跡

 特に国内最古の可能性があるのは岩手県宮守村の金取遺跡。年代に八万−三万八千年前との幅はあるものの、ここを最古とみる研究者は多く、遺跡がある宮守村にはねつ造発覚後、全国の大学や研究機関から発掘要請が殺到。同村は今夏、年代の確定作業を含めた発掘調査を実施する方針だ。

 このほか野尻湖立が鼻遺跡(長野)の石器やナウマンゾウの骨角器は四万八千年前。石子原(同)、後牟田遺跡(宮崎)が四万年前とされ、西之台Bと同じ三万五千年前の中山谷(東京)、吉岡(神奈川)、立切(鹿児島)なども地層から年代は確実とされている。

 ねつ造発覚前から一連の大発見に懐疑的だった東京都文化課の小田静夫学芸員も、各遺跡の評価は春成教授とほぼ同じ見解。ただ、金取遺跡の最古については「何とも言えない」と慎重だ。

 年代測定の方法によって大きな誤差や全く別の数値が出ることがあり、小田氏の懸念もその点にある。一方で、一人の研究者が学界全体を陥れた混乱の後遺症は大きく「最古」の年代整理への道は険しそうだ。

 小田氏は「ねつ造事件を教訓に、すべての研究者が納得できる発掘態勢と報告が求められるだろう」と指摘している。


[【特集】多摩NT30年を検証 ]

2001.11.01 多摩ニュータウン タイムズ

多摩ニュータウン30年を検証-A 遺跡発掘調査がもたらしたものU

 その後、遺跡は相次いで発見され昭和47年に再度実施した分布調査では512ヶ所に増加し、最終的には964ヶ所にまで及んだ。

 途中、昭和40年代後半には自然保護、公害、住宅の需要動向の変化などにより多摩ニュータウン事業は建設を中断、開発計画の見直しをせまられる。その他予期せぬ問題で調査が中断したことも大幅な遅れにつながった。調査員は研究のための時間も取れず、とにかく現場へと向かい発掘し続けた。もちろん、土日の休みなどなかった。

 多摩ニュータウン開発が行われたこの時期は、埋蔵文化財保護行政も、いわば、黎明期にあり制度的にも確立されていなかった。しかも高度成長期にあって都内各所で頻発する埋蔵文化財の緊急調査に出動する必要から多摩ニュータウンの遺跡調査が手薄になり、読売新聞に報道された昭和50年代初めの頃は開発事業と遺跡調査の間がまさにドロ沼化していた時期にあたる。

 多摩丘陵の大規模かつ長期にわたる遺跡調査は「多摩ニュータウン方式」と呼ばれ全国の遺跡調査の手本となった。しかし「多摩ニュータウン遺跡調査会」には、どうしても任意団体であるがゆえの限界があり長期化するに従って調査員の身分保証やその数の確保が難しい現実となってきた。

 昭和55年、開発の整合をはかる目的で財団法人東京都埋蔵文化財センターが設立される。ほとんどの運営経費を事業者が負担することになりセンターは当分の間、ニュータウン区域内の遺跡だけを調査することとなった。職員の雇用条件が改善され、機材を導入、調査人数も大幅に増えて機動力も高まった。それからの発掘調査は順調に進んでいった。

 縄文時代を中心に多摩丘陵一帯に最終的には1000ヶ所近くにも及ぶ膨大な遺跡発掘の作業、そこから出土した土器片などの水洗い、注記、拓本、復元、記録など。これらの仕事を多い時で毎日千人くらいの人たちが手伝った。その中で、土の扱いに慣れ、昔の地形を熟知していている地元の人々は調査員たちにとって強い力となった。

多摩ニュータウン遺跡 −No.471-B遺跡−

2001.05.10 東京都埋蔵文化財センター

 上・下層石器群の出土層位は武蔵野ローム層であること、石器群の出土層位の上・下位にはフィッション・トラック年代測定で49,000±5,000BPの値を示す新期箱根起源の東京パミスが位置することから、中期旧石器時代に属する石器群であると位置づけられる。

多摩ニュータウンNo.471−B遺跡出土石器に関する調査報告について

by多摩ニュータウンNo.471-B遺跡調査委員会

平成13年12月11日by 東京都埋蔵文化財センター

3 いわゆる「藤村関連遺跡」としての取り扱いについては、この遺跡から出土した石器の検証について、上記東京都の「調査委員会」が既に検証結果を公表しています。委員会の結論としては、「No.471−B遺跡の石器群が、他の異なる時期の石器群を混えたものであったり、明らかに後世に他地域から持ち込まれたものであるとの見解には至らなかった。しかし、多くの疑問点や不自然な状況などから、約5万年前の石器群という、これまでの評価をそのまま首肯することも困難である」とされています。

 ここにその報告書を同封いたしますので、先にお送りしました本報告害と併せてご参照されますようお願いいたします。

 なお、東京都教育委員会においては、東京都指定有形文化財に指定されていた当該遺跡から出土した石器について、東京都文化財保護審議会に諮問のうえ、平成13年10月25日に指定解除を行っています。


山下町第1洞穴出土の旧石器について

(2003.6)小田静夫 by黒潮圏の考古学

日本最古の人骨出土、洞穴遺跡がピンチ

2005/03/07 asahi.com

那覇の私有地、管理届かず

 3万年以上前にさかのぼる日本最古の人骨が見つかった那覇市の山下町第1洞穴遺跡が危機に瀕(ひん)している。沖縄県指定史跡だが説明板はブロックやビニールシートに覆われ、洞内や周囲には岩が積まれて見学もできない状態だ。日本人のルーツ解明につながるともいわれる同遺跡の現状に、行政の管理責任や文化財保護のモラルを問う声があがっている。

 山下町第1洞穴は那覇市内の住宅地内にあり、60年代に発掘調査された。子供の大腿(だいたい)骨などが見つかり、洞内にあった木炭の年代測定で旧石器時代の3万2千年前の人骨とされている。日本人の祖先は南方から南西諸島をへて本土にたどりついたとする説もあり、日本人の起源を探る重要遺跡だ。69年に県史跡に指定された。

 ところが現在、洞穴内や周辺には無数の岩が積まれ、遺跡前の3枚の説明板もビニールシートやブロックに遮られて見ることもままならない。

 同遺跡は私有地。土地の境界をめぐるもめ事が起こったことに加え、部屋の増築や通路の改修もできないと不満を募らせた地権者が昨年、岩を積み上げたり、塀を作ったりした。「以前から行政が買い上げてくれると聞いていたのに、何もしてくれない。もう当てにしない」と地権者は言う。

 地元の文化愛好家団体「うるくの歴史と文化を語る会」の金城新栄さん(67)も「これじゃ恥ずかしくて見学者の案内もできない。行政は真剣に対処してほしい」と嘆き、管理する那覇市に改善を申し入れた。

 県文化財保護条例によると、県史跡を現状変更や解除する場合は県教育委員会の判断が必要。だが、地権者からその申請はない。県文化課は「増築するなら史跡に影響を与えないようにと頼んできたのだが。指定解除を求められても、遺跡を守るためにはできない」と頭を抱える。

那覇市住宅地の洞窟遺跡、ピンチ 私有地で管理届かず

2005/03/05 asahi.com

 3万年以上前にさかのぼる日本最古の人骨が見つかった那覇市の山下町第1洞穴遺跡が危機に瀕(ひん)している。沖縄県指定史跡だが説明板はブロックやビニールシートに覆われ、洞内や周囲には岩が積まれて見学もできない状態だ。日本人のルーツ解明につながるともいわれる同遺跡の現状に、行政の管理責任や文化財保護のモラルを問う声があがっている。

 山下町第1洞穴は那覇市内の住宅地内にあり、60年代に発掘調査された。子供の大腿(だいたい)骨などが見つかり、洞内にあった木炭の年代測定で旧石器時代の3万2000年前の人骨とされている。同県具志頭(ぐしかみ)村の港川人(約1万8000年前)などと合わせて、日本人の祖先は南方から南西諸島をへて本土にたどりついたとする説もあり、日本人の起源を探る重要遺跡だ。69年に県史跡に指定された。

 ところが現在、洞穴内や周辺には無数の岩が積まれ、遺跡前の3枚の説明板もビニールシートやブロックに遮られて見ることもままならない。

 同遺跡は私有地。土地の境界をめぐるもめ事が起こったことに加え、部屋の増築や通路の改修もできないと不満を募らせた地権者が昨年、岩を積み上げたり、塀を作ったりした。「以前から行政が買い上げてくれると聞いていたのに、何もしてくれない。もう当てにしない」と地権者は言う。

 地元の文化愛好家団体「うるくの歴史と文化を語る会」の金城新栄さん(67)も「これじゃ恥ずかしくて見学者の案内もできない。行政は真剣に対処してほしい」と嘆き、管理する那覇市に改善を申し入れた。

 県文化財保護条例によると、県史跡を現状変更や解除する場合は県教育委員会の判断が必要。だが、地権者からその申請はない。県文化課は「増築するなら史跡に影響を与えないようにと頼んできたのだが。指定解除を求められても、遺跡を守るためにはできない」と頭を抱える。

山下町第1洞穴遺跡

 那覇市山下町にある洪積世の時代の人骨が出土した遺跡。国場川に面する石灰岩丘陵の中腹に位置し、1962年、1968年に発掘調査が行われた。この遺跡からは、鹿の骨や角の化石とともに8歳程度の女児と推定される人骨の一部が出土しているが、これらは今からおよそ3万2000年前、旧石器時代に生活していた人々の化石であった。日本列島では、後期更新世後半(約4万年〜1万年前)の人類の化石骨がいくつか発見されているが、その大部分は、人骨の保存に適した石灰岩地帯が多い沖縄から出土している。この人骨発見により、日本列島に後期更新世後半の人類の存在が明らかにされ、日本ばかりではく人類の移動または進化を探るにあたり東アジアにおいても重要な資料とされている。


薩南・奄美諸島の旧石器

-Palaeolithic Sites in the Amami and Satsunanislands-

 鹿児島県の奄美諸島と薩南諸島では、旧石器時代の石器が発見されている。

 種子島の立切遺跡・横峯C遺跡は、ともに今から約3万年前の遺跡で、多種の旧石器のほか、たき火跡や貯蔵穴とされる土坑などの生活跡が発見された。奄美大島の土浜ヤーヤ遺跡と喜子川遺跡では、数点の剥片石器が出土している。徳之島の天城遺跡では、チャート製の台形石器のほか各種の旧石器がまとまって発見され、同じく徳之島のガラ竿遺跡では、今から約2万5千年以上前の磨石が2点出土している。

 これらの旧石器時代の遺跡は、おもに見晴らしのよい石灰岩台地上の縁辺部に位置している。

種子島の横峯C遺跡

鹿児島県上野原縄文の森


高井戸東遺跡

2006年01月27日 東奥日報

 東京都杉並区の神田川北岸にある旧石器時代から縄文、古墳時代、中近世に至る重層的複合遺跡。杉並清掃工場建設に伴う1976年の大規模調査以降、数度の発掘調査でこれまでに約3万年前とみられる磨製石斧(せきふ)などの石器が出土している。今回の調査地は遺跡全体の西端に近い区域で、約9千点の遺物のうち、50―60点の石器の出土があった。

3万2000年前、日本最古の建築木材出土 都内の旧石器時代遺跡

2006/01/06 The Sankei Shimbun

 東京都杉並区教育委員会は27日、同区の「高井戸東遺跡」から約3万2000年前の旧石器時代の炭化した大型木片(炭化材)を発掘した、と発表した。同教委は「人が生活した遺跡で見つかった木片としては日本最古。同じ地層から出土した磨製石斧(せきふ)などの石器群も同年代で最古級と分かる」としている。

 区教委によると、調査区域では、地表から約2メートルの層に米粒大の炭化物が集中して見つかる場所が5カ所ほぼ直線上に並び、うち3カ所から炭化材を発見。最も大きい木片は土中に斜めに埋まり、長さ約20センチ、太さ約16センチで、外面が黒く焼けていた。

 さらに同じ地層から磨製石斧1点とナイフ型の石器3点が見つかった。

 放射線炭素年代測定を行った結果、木材は約3万2000年前のものと判明。マツ科トウヒ属の針葉樹で、同教委は「現在より気温が5、6度低い寒冷地の木で、当時の自然環境の復元にも大きな資料だ」としている。

 区教委は昨年7月から高井戸小の校庭で、校舎移転に伴う遺跡の発掘調査を実施。約2000平方メートルを調査した。

 調査を担当した小田静夫(おだ・しずお)東京大講師(63)=文化人類学=は「根は見つかっておらず、太さから建築材とみられる。石斧で付近の木を伐採したのではないか。現在、3万年以前といわれる遺跡でも年代測定に誤差などのあるケースが多く、正確に木材と石器の年代が分かる、旧石器研究に大変貴重な資料だ」としている。(共同)

No.9-4-3 後期旧石器時代(3万年前〜1万2千年前)

- 約二万年前に最寒冷となったビュルム氷期 -


3万年前のマンモス化石

1999年12月16日

 北海道湧別町(ゆうべつちょう)で約3万年前の最終氷期のものとみられるマンモスのきゅう歯化石が発見されていたことが16日分かった。北海道でマンモスの化石が見つかったのは9例目で、今回見つかったのは最も新しいものという。見つかったのはシベリアや中国大陸などに約1万年前まで生息していたとされるケブカマンモスの左下顎(したあご)のきゅう歯部分。


笠懸野岩宿文化資料館(岩宿博物館)

岩宿遺跡:旧石器時代末期とみられる黒曜石の槍先形尖頭器発掘

(2001-07-25)[毎日新聞]Mainichi Interactive

 日本の旧石器時代の存在を裏付けた群馬県笠懸町阿左美の「岩宿遺跡」(国の指定史跡)から北東約100メートルの「岩宿2遺跡」から、1万6000〜1万7000年前の同時代末期のものと推定される黒曜石で作られた槍先形尖頭器(やりさきがたせんとうき)が25日までに、町教委による発掘調査で発掘された。民間の考古学者、故相沢忠洋さん(1926〜89)が49年に同形の尖頭器を発見して以来約50年ぶりの出土で、町教委は「岩宿に旧石器時代の石槍文化が存在したことを証明する貴重な発見」としている。

 尖頭器は、長さ4・3センチ、幅2・5センチ、厚さ7ミリで、一方の先がとがっただ円形。深さ約1・2メートルの関東ローム層から出土した。この他、町教委は、ナイフ形石器や石刃など過去最高の計約500点を発掘した。

 ■安蒜政雄・明治大教授(考古学)の話 槍先形尖頭器は相沢氏が発見した当時、出土した地層が特定できなかった。今回、年代が明確になり、石槍文化があったことが証明された。当時の生活や社会を知るうえでも重要な遺跡であることが改めて分かった。ねつ造問題で信頼が揺れている旧石器時代研究にとっても、原点に返るという意味で喜ばしい

岩宿遺跡発掘50年でシンポ

1999年10月23日 共同通信社

 日本にも旧石器時代があったことを初めて実証した岩宿遺跡の発掘から50年になるのを記念したシンポジウムが23日、2日間の日程で、同遺跡のある群馬県笠懸町で開かれた。シンポジウムには約100人が参加。「岩宿発掘50年の成果と今後の展望」をテーマに研究者4人が基調講演した。

相沢忠洋記念館



「ねつ造証明できず」 聖嶽洞穴遺跡で考古学協会

2003年10月26日 The Sankei Shimbun

 大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴の遺跡調査をめぐり、ねつ造があったと「週刊文春」が報じた問題で、日本考古学協会は25日、「ねつ造の否定あるいは肯定のいずれも証明するに至らなかった」とする報告書を発表した。

 同遺跡をめぐっては、第一次調査団長だった賀川光夫・別府大名誉教授が、疑惑報道に抗議して自殺。遺族が文芸春秋に損害賠償などを求める訴訟を起こし、一審は遺族の訴えを認めた。現在、福岡高裁で係争中。

 日本考古学協会は賀川名誉教授の自殺後、調査検討委員会を設置し、現地調査を行い、資料や報告書類などを詳細に検討した。

 その結果、遺跡は後世に掘り返されたようになっており、ねつ造がなくとも違う時代の遺物の混在は十分に起こりうると判断。ねつ造があったかどうかの判定は困難と結論づけた。

 聖嶽洞穴は1962年の調査で旧石器時代の遺跡と報告されたが、99年に再調査。「旧石器時代の遺跡と確認できない」とされた。

 週刊文春は2001年1−3月、記事や見出しで賀川名誉教授がねつ造したかのように記述。賀川名誉教授は3月、報道に抗議して自殺した。

損害賠償訴訟:遺跡ねつ造報道で敗訴の文春が控訴 福岡高裁

2003年05月19日[毎日新聞]Mainichi INTERACTIVE

 大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴遺跡のねつ造報道をめぐる損害賠償請求訴訟で敗訴した文芸春秋(東京)は19日、報道に抗議して自殺した別府大名誉教授の遺族側の主張を認めた大分地裁判決を不服として福岡高裁に控訴した。

 文春側の代理人は「事実認定に誤りがある」としている。

遺跡ねつ造疑惑 「聖嶽」報道に賠償命令 大分地裁 文春敗訴

2003年05月15日(西日本新聞)YAHOO! NEWS

 大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴遺跡にねつ造疑惑があるとする週刊文春の報道に抗議して自殺した賀川(かがわ)光夫・別府大名誉教授=当時(78)=の遺族が、記事は名誉棄損にあたるとして、同誌発行元の文芸春秋と木俣正剛編集長らに約五千五百万円の損害賠償と謝罪広告掲載を求めた訴訟の判決が十五日、大分地裁であった。須田啓之裁判長は「ねつ造に関与したという証明も理由もなく、賀川氏の社会的評価を著しく低下させ、自殺を決意するほどの多大な精神的苦痛を与えた」として、六百六十万円の賠償と謝罪広告掲載を命じた。文芸春秋側は同日、控訴する意向を明らかにした。

 判決によると、週刊文春は二〇〇一年一月から三月まで計三回にわたって、同遺跡について「“第二の神の手”が聖嶽周辺にいる」「聖嶽遺跡の石器は別の四遺跡から集められていた」などと報道。発掘調査を担当した賀川氏は、同年三月九日に「死をもって抗議する」との遺書を残し、自宅で自殺した。

 裁判では(1)記事が賀川氏のねつ造と断定しているか(2)ねつ造と指摘するだけの事実があったか―を主な争点に、原告は「ねつ造を裏付ける証拠はなく、不十分な取材で自殺に追い込まれた」と主張。文春側は「記事は研究成果をまとめたもので、遺跡の発掘状況からすれば、賀川氏らの調査団にねつ造疑惑があるとする相当の理由もあった」と反論した。

 須田裁判長は判決で、同遺跡について「第一次調査団関係者らによって石器がねつ造され、または作為的に置かれていた可能性も考えられないではない」とし「記事は賀川氏がねつ造者と断定はしていない」と指摘。

 その上で「記事は一般の読者が普通の読み方をすれば、賀川氏がねつ造に関与した疑いがあるとの印象を与える」と判断。「記者は、賀川氏自ら遺跡の問題点を指摘しているのを知っており、第一次調査団参加者に聴くなどすれば、賀川氏のねつ造関与に疑問を抱くことは可能だった」と、取材の問題点にも言及した。

取材のずさんさ断罪

 ▼賀川名誉教授の遺族弁護団の話 判決は、週刊文春の報道が、賀川氏に対する名誉棄損に当たることを正面から認めた画期的な判決。記事の内容が虚偽であると認めただけでなく、取材方法のずさんさなどを断罪しており高く評価できる。

控訴せざるを得ない

 ▼文芸春秋の話 賀川氏の自死は痛ましいことと思うが、小誌記事に原因ありとされるのは心外。聖嶽遺跡に作為があることの検証を試みたのであり、賀川氏の行為とは一行も書いていない。判決はこの点をあまりに情緒的に混同しており、控訴せざるを得ない。

ワードBOX=聖嶽洞穴遺跡

 大分県本匠村の番匠川支流の絶壁にある鍾乳洞穴遺跡。1962年、賀川光夫・別府大名誉教授が中心となって行われた日本考古学協会・特別委員会の発掘調査(第1次調査)で、後期旧石器時代の化石人骨と黒曜石製の旧石器が同時に出土。こうした遺跡は日本唯一で、大陸との関係や古代人の生活様式を解明する手がかりになるとして注目され、高校の歴史教科書にも取り上げられた。しかし、99年に行われた第2次調査で、人骨は旧石器時代よりも新しいことが判明。人骨が出土したとする地層の年代も旧石器時代とはいえず「発掘された旧石器は混入された可能性が高い」などとする報告書がまとめられた。このため、考古学協会が現在、遺跡の検討作業を進めている。

賀川さんの遺族が名誉棄損で文芸春秋社など提訴へ

2001/09/17 合同新聞

 週刊文春による聖嶽洞穴(本匠村)のねつ造疑惑報道に抗議し、今年三月に自殺した別府大学名誉教授賀川光夫さん(78)=当時=の遺族三人は十五日、「何の根拠もないまま、ねつ造に関与したかのような報道をされ、名誉を棄損された」として同誌を発行する文芸春秋社などを相手に、 謝罪広告の掲載と損害賠償を求める訴訟を大分地裁に起こす考えを明らかにした。

同日、大分市内で弁護団(代表・徳田靖之弁護士・三十人)を結成、十一月一日の提訴を目指している。

 遺族側は賀川さんの死後、同社に報道への経緯説明を求めて話し合った。 しかし、納得のいく説明はなく、再度の話し合いも断られたことから提訴に踏み切ることにしたという。

 原告の長男洋さん(45)と二男真さん(39)は「父の人格が傷つけられ、学者としての人権が侵されたことは許し難い。 すべての努力が一つの心ない報道で壊された」と心境を述べた。

 徳田弁護士は「人格高潔な素晴らしい人が、死に追いやられたことに対し、名誉を回復するとともに安易な報道に警鐘を鳴らしたい」と話した。 さらに県弁護士会員の半数近くが加わる“異例”の大弁護団になったことについて、「賀川さんに加えられた屈辱は、大分そのものが受けたという思いがあるからではないか」と説明した。

 週刊文春の木俣正剛編集長は「小誌の報道の真実性は、その後の学術調査報告書によって裏付けられたものと確信しております」とコメントを出した。

 週刊文春は今年一月から三月までの三回と、賀川さんの死後一回の計四回にわたって、聖嶽(ひじりだき)関係の記事を掲載した。

 最初の記事は一月二十五日号。「『第二の神の手』が大分『聖嶽人』周辺にいる!?」と、賀川さんが団長を務めた約四十年前の調査に「ねつ造」疑惑の目を向けた。 二月一日号と三月十五日号で、「ねつ造」を断定する記事を掲載。 「あたかも賀川さんが関与したかのような内容だった」(弁護団)。

 賀川さんは、これら週刊誌の記事に抗議。三回目の記事が出た直後の三月九日夜、日出町内の自宅で自殺した。 週刊文春はさらに三月二十二日号でも、聖嶽の記事を掲載した

 聖嶽洞穴は一九六二年に調査され、国内で唯一、旧石器時代の石器と人骨が一緒に出土した遺跡とされた。 しかし、九九年の再調査では、その評価が疑問視されている。

「名誉棄損」と文春を提訴/自殺した名誉教授の遺族

2001/09/15 山陽新聞社

 大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴の遺跡調査で「週刊文春」がねつ造の疑いがあると報じたことに抗議し自殺した賀川光夫・別府大名誉教授=当時(78)=の遺族が15日、大分市で会見し「名誉を棄損された」として出版元の文芸春秋(東京都千代田区)と週刊文春の木俣正剛編集長らに、損害賠償と謝罪広告を求める訴えを大分地裁に起こすことを明らかにした。

 遺族は今後、賠償請求額を決め、11月1日に提訴する方針。

 遺族は、週刊文春が今年1月から3月にかけ聖嶽洞穴について書いた計4回の記事や見出しで、事実に反して賀川名誉教授の行為と結びつけるような形で「ねつ造だった」「神の手」と記述したため、自殺に追い込まれるほどの精神的苦痛を受けたと主張している。

聖嶽洞穴遺跡:「旧石器時代でない」 再調査報告書

[毎日新聞] 2001年06月20日 by Mainichi INTERACTIVE

 国内で唯一、旧石器時代の人骨と石器が出土したとされ、教科書にも掲載されている大分県本匠(ほんじょう)村の「聖嶽(ひじりだき)洞穴遺跡」の再調査をした国立歴史民俗博物館は「石器に縄文時代のものが混在し、人骨の鑑定結果も室町時代以降の時期を示すなど不自然な点が多くあり、少なくとも旧石器時代の遺跡と認めることはできない」とする報告書をまとめ、刊行した。この問題は、東北旧石器文化研究所前副理事長の旧石器ねつ造疑惑と並行して取りざたされ、最初の発掘調査に携わった賀川光夫・別府大学名誉教授が週刊誌に“ねつ造”と書かれたことを苦に今年3月、自殺するなど社会問題となっていた。

 同遺跡は本匠村宇津々の尾根突端にあり、1961年に縄文以降の現代人の骨より厚い人の後頭部の骨の破片が、黒曜石製の石器数点を伴って出土したことから、一躍有名になった。発掘調査は62年以降も続けられたが、後頭部骨は旧石器時代人の特徴を示し、出土した細石器も旧石器時代のものという見方が定着した。

 しかし、99年になって別府大と国立歴史民俗博物館が中心になって再調査したところ、新たに見つかったろっ骨、足の指、歯などが、フッ素分析や放射性炭素による年代測定の結果、いずれも室町時代以降、江戸時代を中心にした骨ということがわかり、従来の説に大きな疑問を投げかけた。

 報告書はA4判114ページ。61〜62年の第1次調査、99年の第2次調査の経過を集約し、第2次調査に参加した各研究者の見解がまとめてある。

 この中で、遺跡の年代を旧石器時代とみる根拠になった石器について、調査団副団長の春成秀爾・国立歴史民俗博物館教授は(1)前回は洞穴内の1カ所で6点見つかったのに、今回は2点しか見つからず、それがあった地層には中世の人骨や動物の骨も交じっていた(2)前回見つかった石器は西北九州の黒曜石製で、縄文時代のものも交じる(3)発掘以前に農工具などでついた傷があった――などの不自然な点が多いことから「本来洞穴内にあったのではなく、いずれかの時点で混入したと考える方が自然」と結論付けている。

 ただし、第2次発掘調査団長の橘昌信・別府大学教授は元々聖嶽洞穴にあった石器である可能性に言及し、混入説に否定的な見解を示す。

 聖嶽洞穴出土の後頭部人骨については、馬場悠男・国立博物館人類研究部長が「側頭線や最上項線の発達が現代人に近いなどの特徴もある。江戸時代の人骨にも骨が厚かった事例もあり、ただちに旧石器時代人とみなすことはできない」と記述し、中国の山頂洞人(1〜2万年前)と同じような特徴があるとした最初の調査での見解を否定している。

 報告書をまとめた春成教授は「人骨、石器それぞれが一見して旧石器時代の可能性を示したことから、確かな検証もなしに考古学者、人類学者の見解が一人歩きしてしまった」と締めくくっている。 【塩満温】

聖獄洞穴資料集

<聖嶽遺跡>考古学協会が調査へ 大分県考古学会は文春に抗議

2001年06月09日 by Mainichi INTERACTIVE
 大分県本匠村の聖嶽洞穴の出土石器を巡る週刊文春のねつ造疑惑報道について、日本考古学協会の聖嶽遺跡問題調査委は9日、遺物などの評価を調べ、公表することを明らかにした来年発行する機関誌「日本考古学」に結果を発表する方針。委員長は「週刊文春の報道に対しては研究論文をもって答える形を取りたい」と話す。

「聖嶽」再評価/地道に冷静に

by西日本新聞社

賀川別府大名誉教授が自殺 考古学者、聖嶽洞穴を調査

(共同)2001年03月10日(土)by信濃毎日新聞
 九日午後十時十分ごろ、大分県日出町豊岡六一○○ノ三二八の自宅で、考古学者で別府大名誉教授の賀川光夫さん(78)が首をつって死亡しているのを妻のトシコさん(77)が見つけた。遺書が数通残されており、日出署は自殺とみている。

 十日午後、記者会見した遺族によると、遺書には「自ら追究してきた学問にやましいことはない。それをねつ造されるような形で書かれ、ひぼうされたことに学者の信念で死をもって抗議したい」などと、発掘調査をめぐる報道に不満を持っていたことが書かれていた。

 賀川さんは一九二三年栃木県生まれ。日大文学部卒業後、別府大講師などを経て、五八年同大教授。八七年から同大学長を務めたほか、大分県考古学会会長などを歴任。縄文時代の後期・晩期にも農耕があったとの説を提唱した。

 六二年には、全国で唯一、旧石器時代の人骨と石器がともに出土したとされる大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴の発掘調査団長を務めた。

 同洞穴をめぐっては、別府大が六日、調査団が発見した石器の中に縄文時代のものが交じっていたと発表、遺跡そのものの信頼性に疑問が指摘された。一部週刊誌で今年一月、同洞穴の調査にねつ造の疑いがあると報道された後、自宅に嫌がらせの電話などが相次ぎ、賀川さんは最近「疲れた」と言っていた。

 十日の記者会見で長男の洋さん(45)は「父の学問上の間違いに対する批判はあろうが、学問を追究する姿勢を興味本位の記事にするのはやめてほしい」と、一部の報道に対して抗議した。

 日出署の調べでは、書斎の棚にロープのようなものを掛け、首をつっていた。トシコさんと直前まで一緒におり、二階の書斎に上がった直後に自殺したとみられる。

 日出町の自宅には九日深夜から、大学関係者などが駆け付けた。

聖嶽洞穴遺跡

2001.3.14…2001.3.28 前期旧石器論争 sessions and index by日本の考古学リソースのデジタル化

<聖嶽洞穴>出土石器に縄文が交じる 教科書書き換えも 大分

(2001年03月07日)by News.Walkerplus.com
 「国内で唯一旧石器時代の人骨と石器が一緒に出土した」とされ、教科書にも「旧石器人骨が出土した」と記載される大分県の聖嶽洞穴の出土石器に縄文時代のものが交じっていることが明らかになった。別府大が6日、発表した。この結果、聖嶽洞穴人骨を旧石器時代と特定できなくなり、一部の教科書は書き換えが迫られる。(毎日新聞)

石器が倍増、他遺跡のものが混入か=大分・聖嶽洞穴

2001年 02月25日[時事通信社]

 国内で唯一、旧石器時代の人骨と石器が同時に出土したとされる大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴で、約40年前の別府大学による発掘調査時に報告された石器は14点なのに、同大で現在「聖嶽出土」として保管されている石器は26点に増えていることが、25日までに分かった。

 同大では出土品の展示や貸し借りの際に、別の遺跡の石器が混入したのではないかとみているが、学術的価値が高いとして教科書にも掲載されている遺跡だけに、ずさんな管理が問題になりそうだ。 

幻の聖嶽人

2000年8月

 2000年8月28日の新聞各紙やTVなどで、大分県聖嶽洞穴で昨年調査、発掘された人骨が当初の発表された旧石器時代のものではないと報道されました。

旧石器出土はかく乱層 嶽洞穴評価見直し

2000/01/03 北日本新聞

 全国で唯一、約一万五千年前の後期旧石器時代の人骨と石器が同じ地層から出土したとされる大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴について、一九六二年の初調査以来、研究主体となってきた別府大は六日、石器が出土したのは別の時代の石器も交じるかく乱層だったと発表した。

 また、洞穴で採集した石器の一部を紛失したり、他の遺跡の石器が混入したりするなど、大学の管理にずさんな点があったことも明らかになった。

 石器を検討した西南学院大の高倉洋彰教授(考古学)は「旧石器時代の遺跡としての評価は見直さざるを得ない」としており、全国的な注目を集めてきた遺跡の信頼性が大きく揺らぐ結果になった。

 別府大が聖嶽洞穴の出土品として保管している二十七点の石器について、調査関係者への聴き取り調査などで検討したところ、同洞穴出土とはっきり確認できたのは十四点だけだった。そのうち、旧石器時代のものと認められるのは四点で、七点は縄文時代後期―晩期のものと判明した。

 また紛失した石器が二点ある一方で、峠山(とうげやま)遺跡(福岡県)など他の遺跡のもの二点が混入していたことが分かった。

 中村賢二郎学長は「教育・研究機関として誠に遺憾だ。史料管理体制の改善を図りたい」としている。

 六二年に出土した人骨は、石器と同じ地層とされているが、石器出土地点とは離れた所から出土しており、今後検討される。ただ、地層による年代推定の根拠が崩れたことで高倉教授は「人骨そのものの年代も怪しくなった」と言っている。

 同洞穴では九九年末に再調査が行われ、調査団(団長・橘昌信別府大教授)が近く調査報告書を発表の予定。だが調査結果をまとめる中で、保管されている石器の数が六二年当時の報告と違っていることが明らかになり、同大が学内で検討委員会を組織し、検証作業を進めていた。(共同)

大分・聖嶽洞穴で旧石器人骨と石器を新たに発見

December 20, 1999

 全国で唯一、旧石器と人骨が一緒に見つかった大分県本匠村の「聖嶽(ひじりだき)洞穴」を調査している「聖嶽洞穴発掘調査団」(団長、橘昌信・別府大教授)は20日、後期旧石器時代(1万4、5000年前)とみられる細石器と人骨を新たに発見したと発表した。同洞穴の調査は1962年に人骨などが見つかって以来、37年ぶり。旧石器人骨の出土は全国でもきわめて少なく、日本人のルーツ解明の貴重な資料となりそうだ。

 同洞穴は、標高約240メートルの岩壁に口を開ける石灰岩鍾乳洞で、今回、奥行き約45メートルの洞内を13区に分けて調査。入り口から16メートルまでの調査区から、最大で3.6センチ程度の、足の指の骨一部や頭がい骨片、ろっ骨の一部、奥歯の4点が出土した。

 同時に、旧石器時代の台形様石器と細石刃も見つかった。材質は佐賀県の腰岳産の黒曜石とみられる。調査団は今後、「人骨のフッ素含有量や放射性炭素などを調べ、より正確な年代を明らかにしたい」としている。

 同洞穴では62年に後期旧石器時代後半の人骨と石器が同時に見つかっている。

 これまで全国で確認されている旧石器時代遺跡は約5000カ所にのぼるが、旧石器人の骨は約10カ所でしか見つかっておらず、視察した馬場悠男・国立科学博物館人類研究部長は「古い人骨が出たこと自体に大きな意味がある」としている。

 遺跡の性格について、橘団長は「幅が狭く、真っ暗なことから生活の場とは考えにくい。これまで獣骨が皆無なので墓の可能性もある」という。ただ、骨がばらばらで、墓地として利用したか、ほかの地から流されてきた可能性もあるとしている。

旧石器時代の人骨が出土

1999年12月20日 共同通信社

 1962年に後期旧石器時代後半、(1万5000年前ごろ)の人骨と石器が一緒に出土した大分県本匠村の聖嶽洞穴で、新たに同時代の足指の骨など4点が見つかったと20日、同洞穴発掘調査団,(団長・橘昌信別府大教授)が発表した。橘団長は「ほかにも人骨らしいものを数十点採取した。骨格の特徴を中国大陸の旧石器人と比較し日本人のルーツを探りたい」と話している。


水迫遺跡 旧石器住居跡新たに3基/指宿市教委調査報告書

2004/06/12 (南日本新聞ニュースピックアップ) by考古学ニュース

−否定論文も再検証

 後期旧石器時代(1万5千年前)の集落跡が見つかっていた指宿市西方の水迫遺跡で、新たに同時代の住居跡とみられる3基の竪穴遺構が発見された。同市教育委員会はこのほど発行した発掘調査報告書で「(集落跡と)同様な遺構群が広がっていることが確認できた」としている。

 同遺跡では、1999年度から2000年度にかけて、同時代の住居跡とみられる竪穴遺構7基や道跡3条などが見つかった。移動生活が定説の時代で「定住生活の起源を知る貴重な発見」として注目された。同教委は集落跡の広がりを確認するため、南西側4カ所に調査区域(合計約450平方メートル)を設け、01年度から2年かけて発掘調査を実施していた。

 新たな3基の住居跡は、集落跡の西約20メートルの調査区域(約130平方メートル)から見つかった。一辺1.5−3メートルの大小の方形で、重なり合っていた。形状に規格性があり、底が平らなことから「人為的に掘削された遺構」と判断。テントのような上部構造物を建てるための杭(くい)穴も伴い、これまで発見された住居跡と「類似した遺構」とみている。

 同区域からはほかに、部分的な発見で住居跡と推定できない竪穴遺構2基と、土坑2基も見つかっている。

 また集落跡から南西約100メートルの調査区域(約120平方メートル)から同時代の杭穴5基が見つかった。石器などの出土状況や地形も考慮し、集落群の広がりを約6500平方メートルと初めて推測した。

 鹿児島国際大学の上村俊雄教授(日本考古学)は「この時代の集落跡としては国内最大規模。住居跡の重なりは、そこが住みやすい場所だったことの証で、定住を裏付ける」と評価する。

 同遺跡の住居跡7基と道跡3条は昨年末、日本旧石器学会長の稲田孝司氏(岡山大学教授)が論文で「地層の乱れか自然地形を誤認したもの」と否定していた。同教委は同報告書で、過去の調査についても詳細に再検証し、「遺構が形成されないような条件は存在しない」として住居跡とあらためて確認している。

 鳥取環境大学の浅川滋男教授(建築史)は「多面的な分析からみて、今回の発見は住居跡の可能性が高い。だが反論があるなか、さらなる確証が必要」と話している。

旧石器時代住居遺構の批判的検討

2004/01/22 時空の鍵穴 DMZ 投稿者---アームチェア(17:21:53)

 南日本新聞によれば、出水・上場遺跡と指宿・水迫遺跡の旧石器時代住居説を、旧石器学会会長が論文で否定と報道された。これは『考古学研究』50-3に掲載された稲田孝司氏の「日本における旧石器時代住居遺構の批判的検討」(pp.85--101)を受けての報道である。同論文を直接手にする機会は、おそらく購読者(会員)や埋文関係者に限られるけれども、新聞での報道は地元での反響を伝えている(と共に、報道自体が地元での反響になっている)。

 旧石器時代の住居遺構の判断は、縄文時代(少なくとも早期以降)と異なり、極めて困難が予想される。周氷河地域では地層の擾乱が通有でもある。稲田氏は判断の条件を3点あげている(稲田1988)。(一部摘記)

 1)一定の構造を持ち、それが安定した状態にあること。

 2)旧石器時代と判定可能な遺物を伴い、住居構造と遺物分布に有機的な関連がみられる。

 3)住居の上を安定した無遺物層が覆い、新しい時代の遺構遺物との見分けが明確なこと。

 そこで再検討された(住居を伴うとされていた)遺跡は、鹿児島県上場遺跡、群馬県小暮東新山遺跡、福岡県椎木山遺跡、鹿児島県水迫遺跡である。

 特に水迫遺跡例は情報も詳しく、慎重かつ詳細に検討されている。また疑問点や問題点を指摘したとは言っても、「最終判断というより、むしろそうした再検討への足がかりとして役立つことを期待したい」と締めくくられている。

 旧石器時代の住居遺構の有無は、慎重に検討されるべき問題である。調査結果の報告と、確定判断の落差を、改めて思わざるをえない。

鹿児島県水迫遺跡で旧石器時代の集落発見

December 24, 1999 邪馬台国大研究

 鹿児島県指宿市教委は24日午前、市内の「水迫(みずさこ)遺跡」で、後期旧石器時代終末(約1万5000年前)の竪穴住居群や道路状遺構、石器製作場、杭列(くいれつ)などがまとまって出土し、定住化へ向かう「集落」がすでに旧石器時代にあった可能性が強い、と発表した。国内で旧石器時代の生活遺構がこれだけまとまって出土した例はないという。これまで旧石器時代は獲物を追い求めて転々と移動するキャンプ的な暮らしで、1カ所に長期間住むようになるのは縄文時代からと考えられてきたが、この発見は従来の定説を覆す画期的なものとなりそうだ。

 水迫遺跡は台地にあり、広域農道の工事のため、今年度から調査している。遺構群は350平方メートルの中に、竪穴住居跡2棟分がある。同じ地層に「野岳型」と呼ばれる細石核があったことから、後期旧石器時代終末の遺構と断定した。

 同教委によると、杭列の性格は不明だが、境界線を示す柵列(さくれつ)の可能性があるという。また、道跡は幅50センチから2メートル、長さ12メートル。石器製作場は住居西側にあった。いずれも同じ時期の遺構とみている。

 これまで発見された旧石器時代の可能性がある住居跡は、「はさみ山遺跡」(大阪府藤井寺市)や「田名向原遺跡」(神奈川県相模原市)、「小暮東新山遺跡」(群馬県富士見村)など全国でも30例に満たない。

 南九州では近年、上野原遺跡(鹿児島県国分市)など縄文早期や草創期の先進的な縄文文化が栄えていたことがわかり始め、立切遺跡(同県種子島)などさらに古い旧石器遺跡も相次いで発見されている。水迫遺跡は今年11月までに、縄文草創期の土器が出土していた。


雫石町に旧石器時代の遺跡 台形様石器など出土

2006年05月18日 盛岡タイムス

 雫石町教育委員会が町内の板橋V遺跡で今年3月に行った緊急発掘調査で、旧石器時代の遺物が発見され、雫石川流域にも旧石器時代の遺跡が存在することが明らかになった。見つかったのは台形様石器と呼ばれる石器4点、未製品の石斧(せきふ)1点、製品をつくる過程で出た残りの剥片(はくへん)など総数は100点以上になる。含有地層の年代などから石器は1万3千年から3万年前のものとみられる。

 同遺跡の現地および遺物指導を行い、金取遺跡などの鑑定にも携わった日本考古学協会員の菊池強一氏は「日本の旧石器時代の移り変わりを知る上で貴重な資料となる」と話す。石器を含有していた地層に学問的な裏付けがあることから、4万〜5万年前の日本最古とされる金取遺跡(旧宮守村)など他遺跡と比較分析する上で、今後板橋V遺跡が貴重な基準になるという。

 遺跡は同町板橋の国道46号から100メートルほど入った水田の中にあり、2000年の遺跡分布調査で縄文遺跡として確定していた。会社事務所の建設計画に伴い昨年12月に行った試掘調査で旧石器時代とみられる粘土層から剥片3点が出土。1月に範囲を広げて再度試掘調査を行った結果、新たに16点の剥片類が出土した。

 2回の試掘調査で旧石器時代の遺跡である可能性が高まったことから遺跡の保存について事業者と協議を進めたが、開発による影響が避けられないことから建物建設の範囲で緊急発掘調査した。

 調査区域は水田などの造成に伴い上部の地層が削られていたが、今回見つかった遺物はすべて年代を判断する上で目安となる小岩井浮石層と呼ばれる岩手山の火山灰などを含む約1万3千年前の地層よりも下の粘土層から発見されており、そのことが旧石器時代の遺跡と判断する根拠の一つになった。

 同遺跡の時代は後期旧石器時代の中でも早い段階であることが予想され、およそ3万年前後までさかのぼる可能性もあるという。同遺跡の現地調査は3月で終了し、今後は遺跡の土や出土遺物の分析などが行われる。

 町教委事務局の柴田慈幸社会教育主事は「できるだけ多くの人に見てもらう機会をつくりたい」と話す。町では今後、雫石町歴史民俗資料館などでの展示を予定している。


宮島に新たな遺跡 清盛以前、祭祀の可能性

2005/01/01 中国新聞地域ニュース

 ■鏡や勾玉など出土

 広島県宮島町西部の大川浦一帯で、旧石器時代末期の一万二、三千年前から平安時代にかけての約千点の考古資料をアマチュア研究家が発見し、広島大考古学研究室の調査で、古代の島の中心地とみられる新たな遺跡と分かった。世界文化遺産・厳島神社の礎を築いた平清盛の時代に先立つ十世紀前後の鏡も含まれ、厳島信仰の源流の一つとなる祭祀(さいし)が営まれた可能性がある。謎の多い宮島の古代史に迫る手掛かりとして広島大は今年から本格調査に入る。

 広島県大野町の荒木亮司さん(29)が見つけた。厳島神社の約五キロ南西に当たる大川浦と周辺を二〇〇〇年から歩き、海岸に露出する土器や石器などを拾い集めてきた。台風や高潮で海岸が浸食され、遺構面が次々と現れたらしい。

 広島大大学院文学研究科の古瀬清秀教授らが分析。土器などは縄文から平安時代までほぼ連続しており、瀬戸内海ができて宮島が島になった時期(約六千年前)よりずっと前から、大川浦が人間の営みの拠点だったことが浮き彫りになった。

 中でも出土した国産鏡「瑞花双鳥八稜(りょう)鏡」(直径約八・五センチ)は平安時代中―後期に盛んに各地の祭祀で使われた。須恵器(七―八世紀)や製塩土器(八―九世紀)の出土も他の祭祀遺跡と共通しているという。

 荒木さんは一・五キロ北東の海岸でも五世紀ごろ祭祀に使ったらしい「滑石製勾玉(まがたま)」(長さ約四センチ)を一個拾っており、島の西部が古くからの信仰の場だった可能性もある。

 勾玉の意味にも注目

 椙山林継・国学院大日本文化研究所長(祭祀考古学)の話 清盛以前の厳島信仰を考える遺跡はこれまでなく、重要な発見だ。祭祀と製塩、海上交易は密接な関係があり、鏡を考えるとほぼ祭祀遺跡だと言っていいだろう。勾玉の意味にも注目すべきだ。

 古代の宮島 弥山の山岳信仰で、昔から人が住まない神の島だったと言い伝えられる。593年創建と伝えられる厳島神社が12世紀に平家の加護で発展するまでの歴史はよく分かっていない。戦後、縄文、弥生時代などの遺跡が海岸沿いに発見されたが、祭祀と直接関係するものは出土していなかった。

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