TOPIC No.9-4−4 旧石器ねつ造事件)

01.旧石器捏造事件 byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
02."神の手"事件情報局
03.前・中期旧石器問題調査研究特別委員会報告 by日本考古学協会
04.「旧石器発掘ねつ造」事件/新聞記事類以外のさまざまな反応と対応 by閼伽出甕
座散乱木遺跡発掘調査団<公式ホームページ>

「ねつ造証明できず」 聖嶽洞穴遺跡で考古学協会

2003年10月26日 The Sankei Shimbun

 大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴の遺跡調査をめぐり、ねつ造があったと「週刊文春」が報じた問題で、日本考古学協会は25日、「ねつ造の否定あるいは肯定のいずれも証明するに至らなかった」とする報告書を発表した。

 同遺跡をめぐっては、第一次調査団長だった賀川光夫・別府大名誉教授が、疑惑報道に抗議して自殺。遺族が文芸春秋に損害賠償などを求める訴訟を起こし、一審は遺族の訴えを認めた。現在、福岡高裁で係争中。

 日本考古学協会は賀川名誉教授の自殺後、調査検討委員会を設置し、現地調査を行い、資料や報告書類などを詳細に検討した。

 その結果、遺跡は後世に掘り返されたようになっており、ねつ造がなくとも違う時代の遺物の混在は十分に起こりうると判断。ねつ造があったかどうかの判定は困難と結論づけた。

 聖嶽洞穴は1962年の調査で旧石器時代の遺跡と報告されたが、99年に再調査。「旧石器時代の遺跡と確認できない」とされた。

 週刊文春は2001年1−3月、記事や見出しで賀川名誉教授がねつ造したかのように記述。賀川名誉教授は3月、報道に抗議して自殺した。

旧石器ねつ造:藤村前副理事長を告発

2003年09月01日[毎日新聞]Mainichi INTERACTIVE

 旧石器発掘ねつ造問題で、奥野正男・元宮崎公立大教授(考古学)は1日、ねつ造を認めた藤村新一・前東北旧石器文化研究所副理事長について、偽計業務妨害容疑の告発状を仙台地検に出した。

 告発状によると、藤村前副理事長は00年10月22日と27日、宮城県築館町の上高森遺跡で、自分で事前に埋めた石器を掘り出し、発掘をねつ造した。国や自治体は再調査や教科書の回収などを迫られ、埋蔵文化行政の業務が妨害された。

 奥野氏は「藤村氏がかかわった遺跡すべてについて告発したいが、時効(偽計業務妨害罪は3年)の問題があった。これだけのことをして法的責任を問われないのはおかしい」と話した。【野原大輔】

旧石器ねつ造:七曲遺跡のレプリカ撤去 栃木・那須歴史探訪館

2003年05月25日[毎日新聞]Mainichi INTERACTIVE

 旧石器発掘ねつ造問題で、日本考古学協会が24日、東北旧石器文化研究所の藤村新一・前副理事長が関与した162遺跡のねつ造を断定する最終報告をしたことを受け、栃木県那須町立「那須歴史探訪館」(館長・小山田公男町教育長)は25日、同町の「七曲(ななまがり)遺跡」で、藤村氏が参加した調査で発掘した石器8点のレプリカを撤去した。年表や資料の関連部分も削除する。

 同遺跡は89年10月、地元の学芸員が地表で石器を発見。同11月、藤村氏が石器8点を掘り出し、約4万5000年前の中期旧石器時代の遺跡とされた。同館は00年10月の開館と同時に目玉資料として8点のレプリカを展示してきたが、考古学協会は最終報告で8点をねつ造と断定した。

 小山田町教育長は「考古学協会の判断を待っていたが、大変な発見と信用して展示してきたので残念」と話している。 【柴田光二】

“藤村遺跡”すべてねつ造、考古学協会が断定

2003/05/23 読売新聞 Yomiuri On-Line

 旧石器ねつ造問題の検証を続けていた日本考古学協会(会長・甘粕健新潟大名誉教授)は、東北旧石器文化研究所の藤村新一前副理事長が関与した遺跡の採取・発掘資料について、すべてねつ造と断定した。24日の総会で最終報告として発表する。

 学会が“藤村遺跡”のすべてを正式に否定することで、教科書の書き換えなど社会的な混乱を引き起こしてきたねつ造問題は最終的に決着をみる。これで、約70万年前にまでさかのぼるとされてきた日本列島の人類の起源は、現時点では約5―4万年前にとどまることになる。今後は、学界の改革と新たな前・中期旧石器研究の構築が課題となる。

 最終報告では、「藤村新一が『発見』あるいは関与した『遺跡』約186カ所は、『前・中期旧石器』にかぎらず、後期旧石器・縄文にいたるまで彼による捏造(ねつぞう)であり、学術的資料としては無効である」と明快に全面否定する。

 昨年の総会では、検証を行った30遺跡についてのみ、「学術的資料として扱うことは不可能」とする見解にとどまっていた。しかし、日本の前期旧石器研究の原点だった宮城県の座散乱木(ざざらぎ)遺跡(昨年12月、国史跡の指定解除)を検証発掘した結果、ねつ造を否定する材料が全く見あたらなかったことなどから、今回の判断に至った。

 さらに報告では、藤村氏がねつ造を行った動機についても踏み込んで考察。当初、同氏が述べた「プレッシャー」や「魔が差した」などの理由を否定し、「学問的な探求心ではなく、名声の獲得を目的とする行為であった可能性がつよい」と結論付ける。

 ねつ造を許した学界の責任や原因にも具体的に言及。今回の事件を教訓とし、「学問的論議に慣れる環境づくりに取り組む」必要性を強調する。

 同協会は一昨年5月に、この問題を論議する「前・中期旧石器問題調査研究特別委員会」を発足させ、2年間にわたって、遺跡や遺物の検証を続けてきた。今後は、来年カナダで開催される米国考古学会の席上、検証結果を報告、国際的な理解を得る方針だ。

「ねつ造証明できず」 聖嶽洞穴遺跡で考古学協会

2003年10月26日 The Sankei Shimbun

 大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴の遺跡調査をめぐり、ねつ造があったと「週刊文春」が報じた問題で、日本考古学協会は25日、「ねつ造の否定あるいは肯定のいずれも証明するに至らなかった」とする報告書を発表した。

 同遺跡をめぐっては、第一次調査団長だった賀川光夫・別府大名誉教授が、疑惑報道に抗議して自殺。遺族が文芸春秋に損害賠償などを求める訴訟を起こし、一審は遺族の訴えを認めた。現在、福岡高裁で係争中。

 日本考古学協会は賀川名誉教授の自殺後、調査検討委員会を設置し、現地調査を行い、資料や報告書類などを詳細に検討した。

 その結果、遺跡は後世に掘り返されたようになっており、ねつ造がなくとも違う時代の遺物の混在は十分に起こりうると判断。ねつ造があったかどうかの判定は困難と結論づけた。

 聖嶽洞穴は1962年の調査で旧石器時代の遺跡と報告されたが、99年に再調査。「旧石器時代の遺跡と確認できない」とされた。

 週刊文春は2001年1−3月、記事や見出しで賀川名誉教授がねつ造したかのように記述。賀川名誉教授は3月、報道に抗議して自殺した。

損害賠償訴訟:遺跡ねつ造報道で敗訴の文春が控訴 福岡高裁

2003年05月19日 [毎日新聞]Mainichi INTERACTIVE

 大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴遺跡のねつ造報道をめぐる損害賠償請求訴訟で敗訴した文芸春秋(東京)は19日、報道に抗議して自殺した別府大名誉教授の遺族側の主張を認めた大分地裁判決を不服として福岡高裁に控訴した。

 文春側の代理人は「事実認定に誤りがある」としている。

ねつ造「座散乱木」史跡解除を官報告示

2002年12月09日 Yomiuri On-Line

 遠山文部科学相は9日、発掘のねつ造が明らかになった宮城県岩出山町の座散乱木遺跡について、国の史跡指定解除を官報告示した。同遺跡は、東北旧石器文化研究所の藤村新一・元副理事長によるねつ造が発覚した遺跡の中で、唯一国の史跡に指定されていたが、9日付で正式に史跡から除外された。

旧石器ねつ造、宮城・座散乱木遺跡の史跡指定解除へ

2002年05月27日 Yomiuri On-Line

 文部科学省は27日、日本考古学協会(甘粕健会長)が東北旧石器文化研究所の藤村新一前副理事長が関与した前・中期旧石器時代の遺跡などを「学術的資料として扱うことは不可能」とする見解をまとめたのを受け、藤村氏が関与した宮城県岩出山町の座散乱木(ざざらぎ)遺跡について、史跡指定の解除を検討する方針を固めた。文科省は近く現地調査や関係者からの意見聴取を行い、ねつ造と判断すれば、文部科学相の諮問機関、文化審議会(高階秀爾会長)に指定解除を諮問する見通しだ。

 藤村氏が発掘や踏査に関与した遺跡は、北海道から関東地方まで200か所近くあると見られる。このうち座散乱木遺跡だけが国指定の史跡となっている。

日本考古学協会のねつ造検証作業部会が開かれる

-2001年9月23日(日)- KHB 東日本放送
 日本考古学協会のねつ造検証作業部会が開かれ、上高森遺跡で発掘ねつ造を認めた藤村新一氏のコレクションを 検証しました。

 築館町の上高森遺跡の発掘ねつ造問題では、日本考古学協会や宮城県考古学協会などで調査団を結成し、11月初旬から遺跡の再検証を行うことが決まっています。

 再検証を前に日本考古学協会のねつ造検証作業部会が開かれ、藤村新一氏のコレクション1290点と上高森遺跡の捏造が認められた資料などの検証が行われました。きょうの部会には大学教授など15人程が参加し、藤村氏のコレクションを1つ1つ手にとっては、石器の特徴を調べていきました。日本考古学協会ではコレクションと他の遺跡から発掘された石器に表面にきずがついているなど類似している点も多くより詳細な検証が必要だとしています。

「聖嶽」「牛川」の人骨も議論 21日に都内でシンポ

2001/01/19[毎日新聞]

 東北旧石器文化研究所の藤村新一・前副理事長による旧石器発掘ねつ造問題を受けて、「前期旧石器問題を考える」と題したシンポジウムが21日、東京都内で開かれる。当日は今回のねつ造問題のほか、国内で唯一、旧石器時代の人骨と石器が一緒に出土したとされる大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴などに対する疑問も、考古学、人類学の専門家の間で議論される。この洞穴から発掘された人骨は、「聖嶽人」として複数の高校日本史教科書などに紹介されており、考古学界への影響も大きい。藤村氏が発掘に関与していないこうした遺跡も含め、シンポジウムの議論は日本の考古学の見直しにつながる第一歩になりそうだ。

 聖嶽人の人骨について疑問を提起するのは、国立科学博物館の馬場悠男(ひさお)・人類研究部長。馬場氏は人骨の形態から「原始的特徴は見られず、さらに更新世や縄文時代に由来する可能性も低い。それ以降の時代のものとみられ、江戸時代の人骨の中に、この骨片と似ているものが多い」と語る。

 聖嶽洞穴は石灰岩鍾乳洞で、1962年に日本考古学協会の調査団が後期旧石器時代後半(約1万4000年前)の石器と後頭骨などを発見した。国内の旧石器時代の遺跡で人骨が発見された例は少なく、石器類と一緒に見つかったのは聖嶽洞穴だけ。日本人の起源を解明する貴重な資料とされ、高校日本史教科書26点のうち23点、中学社会科歴史的分野の教科書7点のうち1点に掲載されている。

 99年12月から37年ぶりに発掘調査団(団長・橘昌信別府大教授)が再調査に入り、新たに発掘した人骨については昨年8月、フッ素含有量の測定などにより、旧石器時代よりも新しいものと結論付け、さらに「頭骨についても年代の再検討が必要」としていた。

 馬場氏はまた、愛知県豊橋市で57年に発見された「牛川人骨」についても、「人骨ではない。ナウマンゾウの子供の腓骨(ひこつ)の可能性がある」と指摘する。馬場氏は「これまでもこうした指摘は重ねてきたが、今回、シンポジウムという公の場で考古学者と議論できる意義は大きい」と話している。

 シンポジウムは午後1時から、千代田区一ツ橋2の6の2の日本教育会館で。文部科学省科学研究費特定領域研究「日本人および日本文化の起源に関する学際的研究」考古学班の主催で、毎日新聞社が後援する。入場無料で、資料代500円。入場希望の受け付けはすでに終了している。 【旧石器遺跡取材班】

80年代発掘にも不審点/ 旧石器遺跡ねつ造

2000.11.18 The Sankei Shimbun

 宮城県・上高森遺跡などで出土品ねつ造問題を起こした東北旧石器文化研究所の藤村新一前副理事長(50)が、前・中期旧石器時代の調査研究が本格化したばかりの一九八三年、宮城県大和町の中峰C遺跡で一人のときだけ重要な石器発見を繰り返し、遺跡の時代をさかのぼらせる端緒をつくっていたことが十八日、関係者の話などで分かった。

 最近発掘された遺跡だけでなく初期の遺跡でも不審点が浮かんだことで、文化庁や宮城県、考古学関係者は当時の発掘調査の抜本的見直しと各遺跡の再調査をさらに迫られそうだ。

 関係者や当時の調査報告書によると、同遺跡は八三年四月、県教委調査団が発掘を開始。当初は平安時代の集落跡が中心とみられていたが、五月にほぼ調査を終えた近くの中峰A遺跡で平安の集落跡の現地説明会が行われた際、見学に来ていた藤村氏が調査団のいない中峰C遺跡から一人で旧石器を発見した。

 調査団がそれ以前に試みた調査では全く旧石器が見つかっていなかったが、この発見を機に急にまとまって出土し始めたという。

 さらに七月になって、調査団がそれ以上の発掘をあきらめて撤収準備中、ただ一人残って発掘していた藤村氏が新たに同遺跡の底辺層から石器三点を発見。これがきっかけで、調査団がその十センチ下の地層から石器三十数点を確認した。

 その後八月十二日までの約一カ月間、ベルトコンベヤーまで導入して作業を続けたが、石器は見つからなかった。お盆明けの八月十七日、一通り発掘が行われていた場所から石器が四十点以上見つかり、調査団を驚かせたという。

 当時の調査団メンバーは「当時は不審に思わなかった。ねつ造問題が発覚してあらためて考えると、会社の昼休み時間などを利用して来ていた藤村氏がなぜいつも第一発見者で、あれだけ全員で掘ったのに出土がなく、休日を挟んで急に石器が見つかったのか不思議だ」と話している。

 中峰C遺跡の地質年代は約十四万年前から三十七万年前とされ、やはり藤村氏が石器発見に中心的な役割を担った同県の座散乱木、馬場壇A両遺跡などとともに、日本にも前・中期旧石器時代が存在したことを裏付ける遺跡とされた。

発掘ねつ造問題の波紋/9都道県、186遺跡に関与

<2000年12月18日(月)>山陰中央新報「追跡2000」

 枯れススキと裸の木々に囲まれた丘陵に、明るいブルーのシートが目を引く。宮城県築舘町の上高森遺跡。東北旧石器文化研究所の藤村新一・前副理事長(50)による発掘ねつ造の現場は今、埋め戻されて冷え切った空気の中、小鳥のさえずりだけが響く。

本格検証は来春以降
 大きく揺らいだ日本考古学への信頼回復に向け、学界を代表する日本考古学協会は11月、特別委員会の設置を決定した。同協会のほか、地質学など他学会の研究者らも含めた検証に乗り出す方針。しかし、ねつ造があったもう一つの総進不動坂遺跡(北海道新十津川町)も露出面が土のうで覆われており、両遺跡の本格的な検証作業は来春以降になる見通しだ。

 「不正が完全になかったと証明されるまで土地への出入りを禁じます」。埼玉県秩父市の小鹿坂遺跡に地権者がこんな看板を立てた。文化庁の調査では、藤村氏が関与した遺跡は9都道県186遺跡に上がる。

困難な確認作業
 埼玉県、東京都などの自治体も検証に向け始動したが、埼玉県文化財保護課の井上肇専門調査員は「このような発掘調査の確認をやったことがある機関はないのではないか」と作業の難しさを指摘する。

 旧石器研究者らは福島県で23、24の両日、藤村氏が発掘に関与した旧石器についての討論会を開く。しかし今後、検証方法や範囲などさまざまな面で困難が予想される。

本人は”謹慎”中
 教科書や博物館にも波紋が広がった。上高森遺跡を扱った高校日本史教科書の出版6社のうち5社が関連記述の訂正に動く。

 東北歴史博物館(宮城県多賀城市)は上高森世紀の石器レプリカ展示の前に「調査中」の掲示を今も置いたまま。展示を撤去した東京国立博物館の担当者は「疑わしい状況は変わっていない。再展示は難しい」

 藤村氏本人は「精神が不安定で事情聴衆にも応じられない状態。行方も分からない」(同研究所・鎌田俊昭理事長)という。関係者の1人は「妻子と離れ、知人を頼って宮城県内で”謹慎”しているらしい」と明かした。

一口メモ
旧石器発掘ねつ造
 藤村新一氏が上高森、総進不動坂両遺跡に計94点の石器を埋めていたことが11月、発覚。藤村氏らは福島県の一斗内松葉山遺跡で60万年以前の地層から石器を”発見”するなど9都道県の遺跡を調査した。同氏は他遺跡でのねつ造を否定したが、関与した遺跡を抱える自治体などが再検証に動き始めた。

ねつ造問題で理事長謝罪 旧石器文化研、築館町に

2000/11/06 信濃毎日新聞

 宮城県の上高森遺跡(築館町)の石器発掘ねつ造問題で、東北旧石器文化研究所(同県多賀城市)の鎌田俊昭理事長は六日、築館町役場を訪れ、同遺跡の調査団長を務めた藤村新一・研究所前副理事長のねつ造について経過を説明、謝罪した。

 鎌田理事長は、不在の千葉徳穂町長に代わって対応した佐藤清彦助役に「個人がやったこととはいえ、組織としての責任がある」と目に涙を浮かべて謝った。

 佐藤助役は「非常に残念だ。町としては、昨年まではねつ造はなかったという言葉を信じたい」と答え「(これまでの発掘内容を)検証して今までの成果が正当だったと証明してほしい」と要望した。

 築館町は一九九八年から毎年、研究所に発掘調査の助成金五十万円を支給。今年は今月十日が支払い期限だが当面、支給を差し止めるという。

 千葉町長はねつ造発覚後「(ねつ造が)上高森遺跡の価値を全否定するものではないと思う。研究者が遺跡の学術的価値を認めるのなら、今後も調査を続けてほしい。町も支援していきたい」と述べた。

 また、研究所理事の梶原洋・東北福祉大教授は、藤村前副理事長が手掛けた「袖原3遺跡」がある山形県尾花沢市で市教委などに説明した。(共同)

石器発掘ねつ造で文部省に教科書訂正を申請

(2000年11月23日)YOMIURI-OnLine

 東北旧石器文化研究所の藤村新一前副理事長による旧石器発掘ねつ造問題で、教科書会社「実教出版」(東京都千代田区)は二十三日までに、同社の高校日本史教科書から、ねつ造が明らかになった宮城県の上高森遺跡に関する記述の削除を決め、文部省に訂正を申請した。この問題で教科書記述の訂正申請が行われたのは初めて。今後、他の会社も申請する見通しだ。

 訂正が申請されたのは「高校日本史A」。上高森遺跡について「旧石器時代前期にあたる約六十万年前の石器が発見されている」との記述があり、同省に認められれば、来年度から使われる教科書から削除される見通し。

 同社では、別の二冊の「高校日本史B」の上高森遺跡に関する記述も、訂正申請を検討している。

教科書会社 訂正申請決断する会社が出始める

(2000/11/18) Mainichi Interactive
 東北旧石器文化研究所の藤村新一・前副理事長(50)の遺跡ねつ造問題で、舞台となった上高森遺跡(宮城県)の記述のある日本史教科書を発行する教科書会社が、来年4月から供給する教科書について、文部省への訂正申請を決め始めた。山川出版社(東京都千代田区)が訂正を決め、インターネットのホームページで告知したほか、実教出版(同)も執筆者を集めた会議で訂正や削除を決めた。学会などの再調査の結果を待って、ぎりぎりまで印刷を延ばす社もあり、ねつ造をめぐる教科書の混乱は尾を引きそうだ。 【旧石器遺跡取材班】

石器発掘ねつ造問題で、研究所理事長らが「おわび行脚」

2000.11.06(13:06)asahi.com
 宮城県築館町の上高森遺跡などで調査団長を務めた民間研究団体「東北旧石器文化研究所」の藤村新一副理事長(50)=5日付で除名=が石器の発掘をねつ造していた問題で、同研究所の鎌田俊昭理事長と梶原洋・東北福祉大教授は6日、築館町や山形県尾花沢市など藤村氏がかかわった遺跡のある関係者に経緯を説明しに出向いた。鎌田理事長らは、藤村氏が行ったねつ造は上高森と総進不動坂(そうしんふどうざか)遺跡の今年の発掘分だけで、それ以外には工作がなかったことを説明した。鎌田理事長は「(藤村氏らの)これまでの発掘の成果に向けられる疑惑を解き、調査を再開できるようにしたい」と話している。

 鎌田理事長は午前9時半ごろ、築館町役場で佐藤清彦助役と会い、謝罪した。鎌田理事長が「すべての発見が否定されたわけではない」と理解を求めたのに対し、佐藤助役は「町民の期待も大きかったので、今回の件は残念だ。去年までの調査は問題ないと思いたい」と答えた。

 同町ではこの日朝、緊急の課長級以上の会議を開き、発掘調査への助成金を今年度はカットし、来年度以降は今後の検証作業を待って検討することを決めた。

 梶原教授は午前10時すぎ、山形県尾花沢市で小野紀男市長に事実関係を報告し、「大きな迷惑をかけてすみません」と頭を下げた。

 梶原教授が「2つ以外は信念にかけて、やっていないと信じている」と話したのに対し、小野市長は「もしかすると、と思っているが、信じるしかない。すごい夢のある話だったのに、残念だ」と語った。同市教委は第三者的な立場の人も参加させての再調査も検討するという。

 同研究所は、ねつ造を認めた藤村副理事長を5日付で除名処分にした。鎌田理事長は「今後は、研究所の活動に関与させない」と話している。


上高森遺跡で検証発掘開始/旧石器発掘ねつ造問題で

2001/10/29山陽新聞社

 東北旧石器文化研究所(宮城県多賀城市)の藤村新一・前副理事長による旧石器発掘ねつ造問題で、日本考古学協会などの調査団は29日午前、ねつ造発覚の舞台となった上高森遺跡(同県築館町)の検証のため発掘調査を始めた。調査は11月11日までで、来年3月をめどに報告書をまとめる予定。調査は、考古学協会と宮城県考古学会、東北日本の旧石器文化を語る会の3団体で組織した「検証発掘調査団」(団長・佐川正敏東北学院大教授)が担当。1993年から昨年まで行われた1−6次調査の650平方メートルを中心に、周辺も合わせ計850平方メートルを調べる。

特報・上高森遺跡:藤村調査団長が旧石器発掘ねつ造

(2000年11月5日) MAINICHI INTERACTIVE

 日本に70万年以上前の前期旧石器文化が存在したことを証明したとして、世界的に注目を集めている宮城県築館町の上高森(かみたかもり)遺跡で、第6次発掘調査中の10月22日早朝、調査団長である東北旧石器文化研究所の藤村新一副理事長(50)が一人で誰(だれ)もいない現場で穴を掘り、石器を埋めるところを毎日新聞はビデオ撮影し、確認した。調査団は同27日、「70万年以前や約60万年前の石器を発見」と発表したが、藤村副理事長は4日、毎日新聞の取材に対し、石器を埋めていたことを認めた。さらに、同遺跡で今年、発見された石器の大部分のほか、前期旧石器時代の遺跡とされている北海道新十津川町の総進不動坂(そうしんふどうざか)遺跡で今年、見つかった石器の発掘すべてが自分の工作だった事実を明らかにした。上高森遺跡は高校の日本史教科書に1998年版から記載されているが、今回の2遺跡でのねつ造発覚で、遺跡の信ぴょう性が大きく揺らぎ、我が国の前期旧石器時代に関する研究は根底から見直しを迫られる可能性が出てきた。 【旧石器遺跡取材班】

 上高森遺跡の発掘は93年に始まり、今回は、同研究所と東北福祉大学で編成した調査団が10月20日から11日間、実施した。

 藤村副理事長は調査3日目の22日午前6時18分、発掘現場に姿を現した。周囲を見渡しながら、しゃがみこみ、まず移植ゴテで地面に穴を掘った。続いて、着ていたマウンテンパーカのポケットから出したポリ袋から石器数個を一気に穴の中に落とし入れた。その石器を今度は右手で丁寧に並べ直し、埋め戻した。さらに、土をかぶせた上を左足で何度も踏みつけて固め、再び移植ゴテで地面が平らになるようにならした。同様の行為を少なくとも6カ所で行った。

 発掘作業は通常、午前9時に開始されるため、周囲には誰もいなかった。

 調査団は同27日、記者会見し、約60万年前の原人の建物遺構とされる柱穴跡などのほか、石器を規則的に並べた「埋納遺構」6カ所と同遺構以外で、70万年以前を含む31点が見つかったと発表した。

 藤村副理事長は4日夜、仙台市内で毎日新聞の取材に応じた。ビデオを見た藤村副理事長は最初、うつむいたまま何も話さなかったが、約10分後、「あなたが埋めたのか」という問いにうなずいた。さらに「埼玉県の小鹿坂(おがさか)遺跡などに比べて成果が上がっていないので、何かしなければならないと思った。魔が差した」と語った。埋めたのは藤村副理事長が個人的に集めた石器コレクションだった。

 さらに、上高森遺跡については、今年見つかった六つの埋納遺構と石器31点のうち、27点を埋めたことを認め、総進不動坂遺跡については、今年発掘された石器29点のすべてがねつ造だったと打ち明けた。

 総進不動坂遺跡は98年、藤村副理事長が石器4点を発見したことから発掘が始まり、今年は同研究所、東北福祉大、札幌国際大の合同調査団が8月28日から9月7日まで調査をした。

 石器の年代は埋まっていた地層の年代と形状から判断されるが、藤村理事長が属する学派は地層年代を優先させていた。石器自体で鑑定する方法はまだ、確立されていない。

 藤村副理事長は仙台市内の高校を卒業後、独学で考古学の世界に入った。72年に本格的に発掘を始め、宮城県岩出山町の座散乱木(ざざらぎ)遺跡で81年、当時の最古記録を1万年以上更新する4万数千年前の石器を発見したのを皮切りに、次々と日本最古記録を塗り替える石器を発見してきた。

 この功績が認められ、92年、民間の考古学研究者に贈られる「相沢忠洋賞」の第1回の受賞者となったほか、「石器の神様」「ゴッドハンド(神の手)」などと呼ばれていた。だが、一部の研究者からは藤村副理事長が発見する石器の時代認定に疑問を投げかける声も出ていた。

▽上高森遺跡 宮城県築館町で1992年、東北旧石器文化研究所の鎌田俊昭理事長と藤村新一副理事長が発見した13万年以上前の前期旧石器時代の遺跡とされ、標高約90メートルの丘陵地に位置する。同研究所と東北福祉大考古学研究会が協力し、93年に発掘調査を始めた。今年まで6次にわたる調査で、日本の人類史が70万年以上前までさかのぼれることを実証した画期的な遺跡とされる。

 調査団の発表によると、93〜95年の調査で、約40万年前の地層からへら形石器などが出土。さらに約50万年前の地層からもへら形石器、クリーバー(握斧)のほか、石器を規則的に並べた埋納遺構が見つかった。98年には約60万年前の地層から石器が見つかり、国内最古記録を更新。

 昨年は約60万年前の地層から石器埋納遺構が見つかり、調査団は「世界に類例がない古さ」と発表。約70万年以上前の地層からも石器1点が見つかり、注目を集めた。

 ▽おことわり 毎日新聞社は今回の取材に当たり、常時、開放されている遺跡の発掘現場に限定し、あらかじめビデオカメラと写真機材を据えて取材を行いました。考古学研究に極めて重大な影響を及ぼす行為の真偽を確認するには、発掘現場において本人の動静を確実にとらえることが不可欠と判断したためです。


60万年超える最古の石器か 宮城の上高森遺跡

October 30, 1999

 旧石器時代の上高森遺跡(宮城県築館町)を調査している民間の研究団体「東北旧石器文化研究所」などは29日、60万年前とみられる日本最古の石器が出土した地層より約1.5―3メートル深い、さらに古い地層から計25点の石器が出土したと発表した。地層の年代は今後詳しく調べるが、調査団は「60万年前をはるかにさかのぼる可能性が高い」としている。

 発表によると、これまでより3メートル深い層から出土したのは、物を切る際などに使ったとみられる石英製と碧玉(へきぎょく)製の石器1点ずつと、石器の基になる石核で、長さが5―3センチ、幅が4―3センチほどだった。


人為的工作の説明に聴き入る 一斗内松葉山遺跡

2001/05/10 MAINICHI INTERACTIVE

福島でもねつ造か/新たに発見の石器2点/一斗内松葉山遺跡

2001年5月8日(火)山陰中央新報

 東北旧石器文化研究所の藤村新一前副理事長(51)による石器発掘ねつ造問題で、再調査が行われた福島県安達町の一斗内松葉山遺跡で今月初め、新たに石器2点が見つかった。石器を検証した専門家らでつくる調査指導委員会(渡辺一雄委員長)は7日「古い地層から出土したと考えるには極めて不自然。人為的に石器を埋め込んだ可能性は残る」と発表、ねつ造の疑いを指摘した。

 藤村氏は宮城県の上高森遺跡と北海道の総進不動坂遺跡での発掘ねつ造を認めたが「2遺跡以外のねつ造はない」としていた。藤村氏が発掘に関与した各地の遺跡の検証に、あらためて波紋が広がりそうだ。

 一斗内松葉山遺跡では、ねつ造問題の発覚で4月から再調査を開始。出土品がなく、ねつ造の有無について結論を出せずに調査を終える予定だったが、調査を記録する測量で、藤村氏らが石器を発掘した場所を精査中に石器を発見した。

 1日に縦1センチ、横2センチの黒みがかった石器、2日に縦3センチ、横5センチの赤褐色の石器が、藤村氏らの発掘場所からそれぞれ30-50センチ離れたのり面の浅い場所で見つかった。黒みがかった石器は作業員が掘ったが、赤褐色の石器は土中にとどめた。

 調査指導委は二点とも50万年以上前の地層から見つかったとしたが、赤褐色の石器で(1)先端部以外は土に密着していない(2)長期間埋まっていれば石と土の接触地面に付くはずの凸凹がない(3)付着するはずのない色の異なる土が付いている-などの不自然さを指摘。

 黒みがかった石器が埋まっていたとみられる場所の土も、周囲より軟らかい別の土と考えられ「通常では起こり得ない状況で、人為的に手が加えられた可能性がある」と判断した。

 今後発掘する日本考古学協会の特別調査委員会が、付着した土などを科学的に分析する。

一斗内松葉山遺跡を再発掘

2001年4月10日(火)福島民放

 東北旧石器文化研究所の藤村新一前副理事長による石器発掘ねつ造問題で、安達町教委は九日から、町内の一斗内松葉山(いっとうちまつばやま)遺跡の試掘確認調査を始めた。藤村前副理事長がかかわった遺跡としては、再発掘による全国で初めての“検証”で、二十七日まで継続する。

 十日から、作業員十人と町教委職員らが発掘作業を進める。遺構や遺物が見つかった場合は慎重に資料を保存し、同時に年代の測定や分析をあらためて専門家に委託する。十八日には中間報告を兼ね、第二回調査指導委員会を開く。

日本最古級の石器が出土

1999年12月17日 時事通信社

 宮城県の民間考古学団体「東北旧石器文化研究所」は17日までに、福島県安達町の一斗内松葉山遺跡の、65万〜60万年前より古い火山灰層から、日本最古級の石器計14点を発見したことを明らかにした。宮城県築館町の上高森遺跡で10月、60万年前を大きくさかのぼる石器群が出土し日本最古とみられているが、これと同年代の石器の可能性もあり、地質学者らによる年代測定結果が注目される。

国内最古級の石器、上高森遺跡に匹敵−福島県安達町

毎日新聞社 12月17日

 民間の考古学研究団体「東北旧石器文化研究所」(宮城県多賀城市、鎌田俊昭代表)と、東北福祉大考古学研究会(仙台市、会長・梶原洋教授)の合同調査団が17日午前、福島県安達町油井の民有地で、58〜69万年前とみられる地層の約3メートル下から石器類を発見した、と発表した。同調査団は今年11月、宮城県築館町の上高森遺跡で約80万年前の地層から日本最古とみられる石器を発見しているが、「今回の石器は、上高森の石器と並び、最古の可能性がある」と分析している。

 調査団が同日、現地で記者会見して発表した。見つかったのは、旧石器時代に動物の皮をはぐのに使ったとみられるサイドスクレイパー(一辺約3センチの三角形状)など14点。

 同調査団が今年10月初め、同町内の畑で古い地層が高さ約5メート ルの斜面として露出しているところを掘り進めた結果、火山灰層から発見した。

 梶原教授は「発見地は、ほかの遺跡に比べ、火山灰のたい積状態がよ く、年代特定がしやすかった。見つかった石器は人類の進化の解明につながるだろう」と語った。


岩泉・瓢箪穴遺跡検証 旧石器75点ねつ造

2002年01月15日 岩手日報

「中期」の証拠出ず

 岩泉町の瓢箪穴遺跡の出土石器を検証している日本考古学協会の旧石器問題調査研究特別委員会第一作業部会(遺物検証担当、部会長・小野昭東京都立大教授)は十四日、東北旧石器文化研究所の藤村新一・前副理事長がかかわった一九九五年以降のすべての出土石器七十六点のうち、七十五点は別の場所から持ち込まれ、ねつ造された疑いが濃いことを明らかにした。

 同日、同町民会館で記者会見した小野部会長らは「中期旧石器時代の証拠は一つも見いだせなかった」として「人類の痕跡が残る国内最古の洞穴遺跡」とは言えなくなるとの認識を示す一方で「後期旧石器時代終末(約一万数千年前)以降の遺跡としての重要性は変わらない」と強調した。

 石器の検討は同部会と岩手考古学会(瀬川司男会長)合同で十三日から行われ、県教委の小田野哲憲文化財保護監らが立ち会った。 検証は、(1)石器の形状(2)「ガジリ」と呼ばれる不自然な新しい欠損(3)農機具などの接触を示す線状痕(4)縄文時代以降の石器製作技法である加熱処理(5)石灰華(石灰成分)の付着具合--の五項目から多角的に行った。 (2)〜(4)は、自然状態の旧石器時代の石器にはありえない痕跡であり、(5)は石灰地層である瓢箪穴特有の付着物を指す。

 結果は、九六年に約一万二千年前の地層から出土した磨製石斧一点を除く七十五点が五項目のいずれかに該当。

 小野部会長は「七十五点は疑義がある。つまり駄目ということ。すべての項目に抵触する石器さえいくつもあった」と説明。七十五点は別の遺跡から持ち込まれた縄文時代などの石器--との見方を示した。

 ねつ造の具体的な解明や"埋め残し"石器を除去するためには遺跡の検証発掘が必要。岩手考古学会の瀬川会長は「日本考古学協会とも連携しながら検証発掘を行いたい」と語った。

貴重な洞穴遺跡価値は減らない

 小野昭・日本考古学協会旧石器間題調査研究特別委員会第一作業部会長 (東京都立大教授)の話

瓢箪穴遺跡が後期旧石器時代終末から縄文、弥生時代にかけての重要な洞穴遺跡であることは間違いない。中期旧石器時代とされていた石器については残念な結果になったが、その部分を除けば遺跡の価値が減ずることはない--というのが検証メンバーの共通認識だ

「瓢箪穴はねつ造ない」 理事長が岩泉町に説明

(2001/11/06)信濃毎日新聞

 宮城県の上高森遺跡などの石器発掘ねつ造問題で、東北旧石器文化研究所の鎌田俊昭理事長は六日、岩手県岩泉町教育委員会を訪れ、ねつ造を認めた藤村新一・前副理事長(50)が団長として調査を進めていた岩泉町の瓢箪(ひょうたん)穴遺跡について「ねつ造は絶対にない」と説明した。

 鎌田氏は瓢箪穴遺跡について「全国的に見ても貴重な遺跡で、ぜひ調査を継続したい」としたが、岩泉町の鳥羽彊教育長は「ねつ造はないと言われても、不安感は残る。第三者の検証を経なければ支援できないだろう」と不信感を表した。

 鎌田理事長は「瓢箪穴遺跡は硬い石灰岩質で、上高森のようにあらかじめ石器を埋めることもできない。なるべく早く大学関係者や考古学者などの第三者を交え、再調査をして疑いを晴らしたい」と話した。

 瓢箪穴遺跡は日本最古の洞穴遺跡といわれ、同研究所などが国内最古の化石人骨の発見を目指し、一九九五年から毎年春に発掘。岩泉町は調査団に、これまで計三百二十万円を補助、土の処理代など約千五百万円を支出しているという。(共同)

ひょうたん穴遺跡(岩手県岩泉町)

 岩手県下閉伊郡岩泉町下岩泉にあるひょうたん穴遺跡は,北上山地で旧石器時代の人類の化石を発見するための最も有望な洞穴の1つである.1995年より東北旧石器文化研究所や東北福祉大学などを中心とする研究グループによって発掘調査が開始された.この遺跡の堆積物は洞穴の形成期をもとに約30万年前以降のものと推定されている.(ひょうたん穴遺跡調査団,1996MS)

「ひょうたん穴」遺跡

by 岩手考古学会

第5次 ひょうたん穴洞穴発掘調査のお知らせ1999年4月29日〜5月10日by 日本洞窟学会
 岩手県下閉伊郡岩泉町のひょうたん穴洞穴の発掘調査。この遺跡では、これまでに石器や動物骨が発見されており、 今後、極東の中期旧石器時代以前の人類化石を発見することなどを目的に調査を行っている。


「秩父原人大丈夫?」藤村氏関与の遺跡でフォーラム

2000.11.11(13:33)asahi.com
 旧石器の発掘ねつ造事件で考古学界が揺れるなか、埼玉県秩父市で11日、「前期旧石器フォーラム」が開かれた。秩父市には約50万年前の建物跡とみられる痕跡が2月に見つかった小鹿坂(おがさか)遺跡があり、石器発掘をねつ造した藤村新一・東北旧石器文化研究所元副理事長がその発掘にかかわっていた。フォーラムでは午後から鎌田俊昭・同研究所理事長が今回の問題の経緯を説明する予定だ。会場に集まった考古学ファンからは「秩父原人は本当にいたのか」という声もあがっていた。

 フォーラムは小鹿坂遺跡やその近くの長尾根遺跡で旧石器時代の石器や穴などが相次いで発見されたことを受け、秩父市が企画した。当初は藤村氏の基調報告も予定していたが、ねつ造が発覚した後、市が出席を断った。

 フォーラムは午前9時半から秩父宮記念市民会館で始まり、研究者や市民、考古学ファンら計約1000人が集まった。

 内田全一秩父市長は「地元として、発掘事業に最大の信頼を寄せており、報道直後のフォーラムは時宜を得たもの」とあいさつ。ドイツの遺跡についての講演などに続き、午後からはパネルディスカッションがある。鎌田理事長は開会前「今回は(ねつ造問題の)経過だけを報告する」と話した。

 埼玉県教委は小鹿坂、長尾根両遺跡の発掘に不正がなかったかどうか検証作業を進めている。石器が出土した23地点のうち7地点の調査を終えたが、「疑惑はない」と判断したのは1地点だけだった。
秩父原人ねつ造遺跡

秩父市の小鹿坂遺跡で現地説明会、見学者殺到

3:22p.m. JST February 26, 2000

 日本最古の約50万年前の建物跡とみられる穴や石器が見つかった埼玉県秩父市の前期旧石器時代の「小鹿坂遺跡」で26日、現地説明会が開かれた。予想以上の見学客のため、説明会は予定より1時間繰り上げられて午前9時半から始まり、午後零時半までに約4200人が訪れた。世界的にも貴重といわれる遺跡を一目見ようと、5、60代を中心とした考古学ファンや休みを利用した親子連れが続々と足を運び、太古の「秩父原人」に思いをはせた。

 小鹿坂遺跡では、縦3メートル、横8メートルほどに、建物跡とみられる5角形に整然と並んだ穴2組10カ所や、石器を集めて納めた埋納遺構3カ所、石器38点が見つかっている。

 説明会は、足場が狭いため見学者を30人程度に分け、埼玉県埋蔵文化財調査事業団の職員が5―10分ずつ説明した。

 見学者は、柱穴の間隔が日当たりのいい南向きにやや広くなっている点や、縄文時代の石器などとそん色ない石器の精密さ、埋納遺構に石器を貯蔵した原人の知恵などに感心した様子で説明に聴き入っていた。

原人にロマン求め2000人

2000年02月26日

 日本で初めて50万年前の生活遺構が出土した、埼玉県秩父市の小鹿坂(おがさか)遺跡で26日、現地説明会が開かれ、午前中だけで2000人を超える考古学ファンが専門家の説明に耳を傾けて太古の原人の生活に思いをはせた。

 約30平方メートルの平たんな地面には、柱穴とみられる穴10個がくっきりと見え、石器が埋まっていた遺構には、出土時のままに石器も並べられた。

埼玉・小鹿坂遺跡で日本最古の生活遺構発見

7:03p.m. JST February 21, 2000

 約50万年前の原人の建物跡とみられる柱の跡のような穴や石器30点が、埼玉県秩父市の前期旧石器時代の小鹿坂(おがさか)遺跡から出土した、と埼玉県教委が21日、発表した。ほぼ正五角形に並んだ穴が4メートルほど離れて2組計10個ある。前期旧石器時代の遺跡は、宮城県築館町の上高森遺跡(約60万年前)など東北地方を中心に10カ所以上あるが、建造物とみられる痕跡を示すものは初めてで、日本最古と推定される。研究者は、原人の知恵や技術力を示す可能性があるとみている。

 北京原人とほぼ同時代の生活遺構といえる穴は、昨年12月から調査していた埼玉県埋蔵文化財調査事業団統括調査員の栗島義明さん(41)と、東北旧石器文化研究所(宮城県)の藤村新一さん(49)らが2月上旬、秩父鉄道・秩父駅から約3キロ西の丘陵地帯で発見した。

 標高約370メートルの隆起した多摩ロームの軽石層の下にあり、片方が約40センチ、もう一方が約70センチ間隔で、正五角形のように並んでいた。穴の大きさは、西寄りが直径約10センチ、深さ約15センチ。もう一方が直径約20センチで、深さはまだ測定されていない。研究者らは、これらの穴について何らかの建物の柱の跡とみている。堆積(たいせき)した地層の土中鉱物の分析などで、発見された層の上が約41万―43万年前、下が50万―60万年前だったことから、約50万年前と推定している。

 約1.5キロ南には、昨年6月に約35万年前と見られる石器3点が出土した長尾根遺跡があり、一帯は前期旧石器時代の生活拠点の1つであったとみられている。

 2組の五角形に並んだ穴の間では石器7点も見つかった。長さ50センチ、幅40センチ、深さ5センチの「埋納遺構」らしい別の穴中に寄せ集めて埋められていた。

 こうした「埋納遺構」が見つかったのは、前期旧石器時代としては上高森遺跡に次いで2例目だという。石器は五角形の穴に囲まれた所からも7点ずつ見つかったほか、周辺に9点あった。

 出土した石器は、関東地方では産出されない、けつ岩や鉄石英でできており、東北地方などとの交流をうかがわせる。熱で変色している石器もあり、火を使っていたともみられる。

秩父原人の墓? 35万年前の「穴」発見

2000.07.29. asahi.com

 埼玉県秩父市にある約35万年前(前期旧石器時代)の長尾根遺跡で、当時の「原人」が掘ったとみられる大きなだ円形の土壙(どこう)(穴)が2つ見つかった、と埼玉県教委が28日付で発表した。

 このうち1つからは、へら状石器など石器3点が出土している。同遺跡の1.5キロ北にある小鹿坂(おがさか)遺跡では今年2月、約50万年前とみられる、秩父原人の建物跡らしい穴が発見されており、県教委は、石器を副葬品とした原人の「墓」の可能性があるとみている。墓だとすると、これほど古い時代のものは世界的にも例がなく、研究者は「埋葬が行われていたとすれば、原人の精神的水準の高さを示す大きな証拠」と指摘している。

 穴は地表から約2メートル下にある多摩ロームの軽石層の下から出土した。1つが長径約130センチ、短径約90センチ、深さ約60センチ。もう1つが長径約90センチ、短径約60センチ、深さ約30センチ。

 小さい穴から約5センチのへら状2点、なた型1点の石器3点が見つかった。材質はすべてけつ岩だった。

 穴が見つかったのは、西武秩父駅から約3キロ西にある丘陵地帯の標高約390メートル地点。昨年6月に動物の肉を切る石器3点が出土した場所の南側に隣接する。

 県埋蔵文化財調査事業団の栗島義明・統括調査員(42)と発掘事業の調査指導委員である藤村新一・東北旧石器文化研究所副所長(50)が26日午前、石器を埋めて保管したとされる石器埋納遺構の分布調査中に穴を見つけ、底から石器を掘り当てた。周辺からは15カ所の石器埋納遺構が発掘されており、うち2カ所から石器8点が見つかっていた。

 栗島調査員は、(1)穴の形や大きさが縄文時代(1万3000―2400年前)の屈葬墓の構造と似ている(2)穴の底が黒い有機の土(3)当時としては貴重な石器が穴に入っている――などの特徴を理由に、墓だった可能性があるとしている。

 一帯は骨が溶ける酸性土壌で人骨の発見は難しいため、今後は穴の土中成分の分析などを進める予定。

 研究者らによると、旧石器時代の墓としては約6万年前のイラク・シャニダール遺跡のネアンデルタール人の墓などが世界最古といわれている。国内では、はさみ山遺跡(大阪府藤井寺市)など約2万年前のものが最古とされ、今回の穴が墓とすれば、大きく時代をさかのぼることになる。

    ◇

 <安蒜(あんびる)政雄・明治大教授(考古学)の話> 土壙と周辺の石器埋納遺構とで大きさを掘り分けていることから、違う用途であっただろうことは想像できる。生活レベルの高さを証明しており、墓の可能性も考えられるが、土中の脂肪酸分析などもう少し判断材料がほしい。


約30万年前の前期旧石器など発見 群馬・沼田市

2000.07.18 asahi.com

 群馬県沼田市の下川田入沢遺跡から、約30万年前の前期旧石器時代のものとみられる石器、はく片など10点を見つけたと、日本考古学協会員の関矢晃さん(58)=前橋市=と、東北旧石器文化研究所の藤村新一さん(50)=宮城県富谷町=が18日、発表した。同じ年代の石器は宮城県など東北地方で発見例が多く、埼玉県秩父市の長尾根遺跡でも昨年、藤村さんと同県埋蔵文化財調査事業団の職員が見つけた。今回の発見について、藤村さんは「当時の生活圏が日本列島に広く分布していた可能性を示している」としている。

 見つかったのは、なたのような使い方をするクリーバー状石器(縦9.3センチ、横6.6センチ、厚さ2.2センチ)など石器4点と、はく片など6点。珪質(けいしつ)凝灰岩(ぎょうかいがん)や珪岩を加工したとみられる。関矢さんらによると、35万年前と30万年前の地層に挟まれた約2メートルの地層に点在していた。

 発掘現場は、市街地から5キロほど離れた山林の道路わきの切り通し。火山灰がたい積していることに目をつけ、5月末から調べていた。11月に調査団を結成し、本格的に調べる準備を進めている。

 旧石器に詳しい東北福祉大の梶原洋教授は「東北や埼玉の石器と比較するうえで、貴重な発見だ」と話している。

 国内でこれまでに発見された前期旧石器時代の石器では、宮城県上高森遺跡で見つかった60万年前のものなどがある。


北海道に原人渡来の可能性

1999年08月09日 共同通信社

長崎潤一札幌国際大助教授らのグループは9日、北海道・新十津川町の総進不動坂遺跡から、30万〜20万年前の前期旧石器時代のものとみられる石器3点が見つかったと発表した。「北海道にも原人が渡来していた可能性が高くなった」としている。見つかったのは、長さ約4センチほどの両面加工尖頭(せんとう)器。ものを刺すための道具のようで、前期旧石器時代特有のものという。

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