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ズルい先生





「あとは座間(ざま)だけだぞ」



二年の追認考査の会場となっている視聴覚教室で、いつまでも退出しない一人の女子生徒に俺は声をかけた。

視聴覚教室の席は、階段上になっていて、座間は教室の中央を横断する通路に面した席に座っていた。
座間はちらりと俺を見下ろして、それからゆっくりと辺りを見渡すと、何事もなかったかのように、再び解答用紙に目を落とした。こっちのことを気にかけることもなく、じっと見つめている。

俺は小さく息をはいた。

二年生三学期の追認考査。他の教科は昨日までに全て終わっている。
事実上、今日が最後。これを落とせば、確実に進級できなくなる。

進級には全ての履修科目の単位認定と、三分の一以上の出席日数が必要だ。単位の認定には、各科目とも30点以上が必要となる。しかし、実際のところ、30点未満の科目については、追認考査を実施するという措置があり、学年の一割はこれを受けて進級しているのが現実である。合格すれば、なんとか単位は認められるものの、5段階評定の2になってしまう。それでも単に進級だけを目的としている生徒にとっては有り難い規定であることに変わりはない。

俺は、座間が一年の時に数学を見ていた。決して出来の悪い生徒ではなかったと思う。どちらかと言えば、要領も良く、全てをそつなくやり遂げる優秀な生徒だった。こんな断崖絶壁の追認考査を受けるようなタイプではないはずだ。何故彼女がここにいるのだろう。俺の知らないこの一年の間に何かあったんだろうか?
今回の追認者名簿を目にして、いたく不思議な思いと、興味を掻き立てられた。

俺は結局、二年生になってからの座間の成績を調べ上げてしまった。逆に調べられるのは成績くらいのもので、座間の家庭事情がどうなっているのか、その詳細は知る由もない。

確か、座間には昨年卒業した兄がいるはずだった。新任教師だった俺が副担で入ったクラスにいたので良く覚えている。あのクラスは、学年でも一番問題が少ないといってもよかった。それは、決して担任や生徒の出来が良かったからではない。座間の兄がタイミング良くクラスの人間をコントロールしていたからだ。……人当たりは良いが、かなり計算高い奴、俺が感じた座間の兄の印象だった。何も考えていない一般生徒のように振る舞いながら、いつの間にか相手の手の内を全て把握し、時期を見て、ぐうの音も出ない程の最良の策を講じる。俺はたった一年で、そんな局面を何度か目の当たりにした。

二年になってからの座間の成績を見て、俺は即座にあの兄と同じ印象を感じた。
座間には、あの兄と同じ血が流れている。そう考えて、もう一度座間の成績を見てみると、他のものには決して見破られないような「作為」がひしひしと伝わってきた。

座間の成績が落ち始めたのは二年になって直ぐのようだった。一学期は、15科目のうち、7科目で考査を受けている。どれも最終的には合格。最高は35点。二学期はさらに、3科目増えて、10科目の考査を受けていた。受ける教科は増えたものの、最終的には合格している。最高は……やはり35点だった。この度も10科目で考査を受けている。今日までの科目は全て合格。今日の数学Aにさえ合格すれば、座間は三年生に進級できるはずだ。

少しずつ落ちてきている成績。今のところは追認考査を受けることで不認定をしのいでいる。いや、しのいでいるように見せかけている。座間は成績をうまくコントロールしているに違いない。だんだんとその考えが確信めいたものに変わっていく。

だが、座間は何のためにこんなことをしているのだろうか。

ただ単に成績を落として両親にでも心配をかけたいのか。そんな子供じみたことを座間がするだろうか。では、成績を落とすことの本当の意味は何なんだ? 

俺は座間という人間を理解しようと、今一度食い入るようにその容姿を観察した。


今時珍しいくらいに清楚な雰囲気を持っているのは一年の頃とあまり変わりない。しかし、幼かった顔の輪郭は着実に大人のそれに変わりつつあった。髪は長くなり肩まで伸ばしているが、両サイドが顔にかからないよう後ろで綺麗にまとめている。制服にも乱れがなく、胸元の紐はお手本のように蝶々結びされていた。まっすぐに伸ばした背筋が、育ちの良さを滲み出している。長い睫は、日本人形のようだ。その瞼が時に閉じたり開いたり…閉じたり…。


不意に、自分の体に変化を覚えた。


耳が……火照っていないか。


あらためて認識する自分の反応は、これまでにも何度か体験したものである。


そして、その所以を理解して……動揺した。俺は……何て反応を……。





思いも掛けない生徒がいることに興味を持ったのは事実だ。

だからといって、ここまで入れ込んで調べる必要はなかったのかもしれない。

でも、それでも、座間が、彼女が、何を考えているのか、それを知りたいと思った。


俺は試験中にも関わらず、この動揺を消し去りたくて、胸ポケットからシガレットケースを取り出した。そこにはライターと煙草が一本入っている。座間がいるにもかかわらず、俺はライターの火を付けた。


「先生。校内は禁煙です」


久しぶりに聞いた座間の凜とした声。俺は煙草をくわえたまま、段上にいる座間の一つ前の席までゆっくりと歩いて行った。腕を組んで机に腰掛ける。そうすると座間の目線と同じ高さになった。


俺は、この考査が始まる直前、座間のことをもう一つ調べた。それは出席日数。二年生になって座間は随分と休みがちになったようだ。週に一日二日は必ず休んでいる。だが、このまま行けば、必要な出席日数の三分の一を超えることはないだろう。あくまで、このままのペースで出席すればの話だ……。


あきらかな作為……。


怪訝な顔をする座間を見ながら、俺はさらに今朝、出席簿をとりまとめる振りをして、座間の担任に雑談っぽく話しかけた時のことを思い浮かべた。

「東堂先生。座間は、休みがちですね。何か理由でもあるんですかね」

「あー、座間かぁ。あいつの母親ね、入院してるらしいよ。日数には気を付けるよう本人には言ってあるんだけどね……」


母親が入院しているのは本当かもしれない。でも、それが直接の理由ではないだろう。座間の家はそれなりに裕福なはずだ。いったいどうしたいんだろうか。ただ単に、この最後の追認考査でもぎりぎりの点数で合格し、そのまま進級するつもりだけなのだろうか。

そんなことをする意味が分からなかった。多分違う。もし、本当にそんな単純なことなら、さっさと解答用紙に必要な点数分を書き込んで退出すればいいのだ。


座間は、迷っている……。


「うちの高校、どうやったら進級できるか知ってるか?」


座間は眉根を寄せて、不思議そうな顔をした。


「何がいいたいのか……」


睨みをきかした俺の顔に、座間は少し怖じ気づいたのか一旦言葉を切った。そして、しぶしぶと念仏のように答える。

「……一つ、当該学年の履修科目すべてが単位認定されていること。一つ、各科目が全て30点以上であること。一つ、欠席日数が年間出席日数の三分の一以上であること」


やはり……知ってるんだな。


「そうだ」

俺は、目線を解答用紙に移した。書き込みのある部分を見てみる。声を出して笑ってしまいそうだった。30点に後一歩足らない。座間は、後一問の解答欄にシャーペンの先を置いたままの状態だった。

俺の目線の意味することを瞬時に理解した座間は、解答用紙を手で覆い隠そうとした。驚くほど顔が蒼白になっている。

「座間、学校が楽しくないの?」

「そんなことありません……好きです」

「友達もいるよね、彩美とか、真希とか」

「……はい」

「このままじゃ、一緒に進級できないよ」

「……仕方……ありません」

「卒業もできないよ」

「……結果がそうなら……受け入れるだけです」


「……結果……ね」


俺は、口から煙草を取って、それを握りつぶした。その拳をそのまま膝の上においてしばらく考える。座間は、何かの理由で原級留置を考えているのだろう。

座間が悩んで出した結論ならしようがない気もした。だが、座間は今もまだ、ぎりぎりのところで迷っている。進学したい気持ちも残っているのだ。

俺は、再び座間の長い睫を見た。その瞼が時に閉じたり開いたり……自分の胸が……熱く高鳴った。このエロじじぃが……と、自分に突っ込みを入れたくなってしまう。


俺は、座間にとことん関わる覚悟を決めた。


握りつぶした煙草をシガレットケースに突っ込んで、「座間!」と呼びかけた。

座間は、びくりとしてこちらを向く。

「……はい」

「シャーペンよこしな」

俺は座間から無理矢理シャーペンを取り上げて、座間の何も書かれていない解答欄の一つに「213」と書き込んだ。そして、その用紙を持って、教壇まで下り、ほかの解答用紙と一緒にする。その束を持ったまま、視聴覚教室の扉まで歩いていった。扉に手をかけたところで振り返り座間を見る。座間は、あっけにとられたままだ。初な娘(やつ)。


「座間、考査は終わりだ。帰りな」


「先生……何を……」

言葉無く俺を見つめたままだった座間は、やっとのことでそれだけを言った。

「お前の兄貴に言っておいてくれないか。妹に目を付けたとね」

座間の顔が真っ赤になる。いい気味だ。俺の心臓に火を付けた罰と思え。そして、俺はさらに追い打ちの言葉を投げかけた。

「俺は来年、三年の主担任を受け持つ予定なんだ。お前のクラスを受け持つこともあるだろうな。その時は覚悟しとけよ。俺のクラスで赤点くらうなんざ、絶対許さない」

座間は、唇をかみしめ、俺を睨みつけた。いや、正確には俺ではない。俺を非難できない自分自身を睨み付けているのだろう。だが、座間は、このまま引き下がりはしないはずだ。あの兄と同じなら……きっと俺に食らいついてくる。そのとき俺は……お前を……。


久しぶりの高揚に喜々としながら、俺は座間を一人残して視聴覚教室を後にした。