TOPIC No.9-5-2 世界四大文明


メソポタミア文明(紀元前9,000年頃-)/ エジプト文明(紀元前3,000年頃-)
インダス文明(紀元前2500年〜1500年頃)/ 黄河文明(紀元前7,000年頃-)
01. 世界四大文明 by フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
02. 4大文明の見直しで見えてきたこと 田野健(40 東京 監理)2002/12/05
03 世界文明総図 by 文明法則史学研究所
04. 文明誕生 by世界史講義録 (2002/2/19改稿)

メソポタミア文明(紀元前9,000年頃-)

(Mesopotamia、ギリシャ語で「複数の河の間」)は、チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野であり、過去のペルシアの一部、現在のイラクにあたる。

01. メソポタミア( Mesopotamia)byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
02. メソポタミア文明 -シュメール人-(2002/2/20改稿) by世界史講義録
03. メソポタミア文明をめぐるミステリーはこんなに面白い!(2017-06-23)  by趣味時間
04. 人類は宇宙人の奴隷として創造された! オクスフォード大教授「シュメール文明を調る
 ほど古代宇宙飛行士説にたどり着く」2016/12/28 TOCANA byニコニコニュ−ス
05. (1)メソポタミアと小アジア by世界史ノート(古代編)
06. シュメール byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
07.  謎のシュメール文明 〜神々からの贈り物か?その起源と繁栄の謎〜 by 古代の不思議
08. バビロニア(Babylonia) byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
09. ヒッタイト(Hittites) byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
10. アッシリア(Assyria) byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


シリアで9千年前の井戸 東大グループ発見

2009/03/14 中国新聞ニュ−ス

 シリア北東部の新石器時代の集落遺跡「テル・セクル・アルアヘイマル」で約九千年前に使われていた井戸の遺構を、東大総合研究博物館の西秋良宏にしあき・よしひろ教授(先史考古学)らのグループが十四日までに発見した。飲料水など「浄水」が目的とみられ、西秋教授によると、この目的の井戸としては世界最古の可能性がある。同グループは「人類の衛生概念の発展を示し貴重」としている。

 グループによると、九千年以上前の井戸の発掘例は世界でわずかしかなく、浄水を得ようとした井戸では約八千年前のイスラエルのものが最古とされていたという。

 井戸は昨年八月、約四ヘクタールの集落跡北部で発見。直径約二・五メートル、深さ約四メートルで、底部には儀礼に使われたと推察される直径十―二十センチの円形の石器十数個が置かれていた。遺構の約百メートル先にユーフラテス川の支流があることから、単に水を得ようとしたのでなく、浄水を求めたと判断した。

 人類が農耕・牧畜で定住化を進めた約九千年前の北メソポタミア地域では、住居の床を入念に掃除した跡が見られるなど、衛生概念が発展しつつあったといい、西秋教授は「集落の人口が増え、疫病などを恐れ、きれいな水を入手しようとしたのではないか」と話している。

 調査結果は十四日、東京都豊島区の古代オリエント博物館で開かれる「第十六回西アジア発掘調査報告会」で発表される。(共同=高山裕康)

くさび形文字の文書50点発見 日本調査隊、シリアで

2005年03月27日 asahi.com

 シリア北東部のテル・タバン遺跡で、日本のシリア・テル・タバン発掘調査隊(隊長・沼本〈ぬもと〉宏俊国士舘大助教授)が先月、約3100年前のくさび形文字が刻まれた粘土板文書約50点を発見した。日本の調査隊が、一度にこれほど大量の文書を見つけたのは初めて。文書はシリアのダマスカス博物館で保存・修復中で、この夏にも日本人研究者によって内容が解読される。

 沼本助教授は84年、日本人として初めてくさび形文字が刻まれた粘土板をイラクで発見、これまでに粘土板や碑文など約70点を発掘している。イラク国境近くでの発掘は、「武装テロの危険など治安が心配で、緊張の連続だった」という。

 新発見の50点は6〜7センチ角ほどで、中には粘土製の封筒の中に入ったままの文書もあった。同隊は97年から調査を続けており、これまでに円筒形碑文片9点と粘土板文書片1点を発掘している。

 見つかった場所は、メソポタミア文明を築き、世界最古の帝国のひとつとされるアッシリアの地方領主の宮殿跡。アッシリアの西方進出の拠点である地方都市「タビテ」の宮殿だった可能性が高いと考えられている。

 粘土板文書は行政文書とみられ、古代帝国の統治の実態を解明する手がかりになると期待される。遺構床面からは、宮殿が紀元前12世紀中頃に建設されたことを示す銘文も見つかった。

 アッシリアは紀元前2000年ごろから同609年まで、チグリス川中流域を中心に発展した軍事国家。紀元前8世紀にはペルシャ湾岸からエジプトまで征服し、全オリエントを統一する世界帝国を築いた。強力な中央集権システムは、発見された粘土板文書の時代につくられたとみられている。

 解読にあたる山田重郎筑波大助教授(アッシリア学)は「アッシリアは多民族支配をし、富を中央に集中させる複雑な官僚機構をもった最古の帝国のひとつ。発見された文書は、その統治のシステムを地方から裏付ける貴重な資料として期待できる」と話している。

 《くさび形文字文書》 くさび形文字が刻まれた古代オリエントの文書は、粘土板や碑文で約50万点見つかっている。アッシリア関係は数万点あり、文字の解読は19世紀後半から20世紀にかけて飛躍的に進んだ。ただ、文書の発見は首都が置かれたイラク北部に集中しており、紀元前12世紀以前の地方都市の遺跡から行政文書などが見つかるのは珍しい。

紀元前2700年ごろの青銅器工場跡 ヨルダン

2002年06月26日 The Sankei Shimbun

 米カリフォルニア大などの調査チームは25日、紀元前2700年ごろの大規模な青銅器工場跡をヨルダンの砂漠地帯で発見したと発表した。

 同チームを率いた考古学者トーマス・レビー氏は「この地域で発掘された青銅器工場としては最大級で、古代都市で工芸品が果たした役割を知る上で貴重な発見」としている。

 発掘現場は死海の南約50キロの砂漠地帯。おのやのみなどの鋳型数百個のほか、石のハンマーやかなどこなど数千個が確認された。

 工場には約70の部屋のほか通路や中庭があり、多くの職人が極めて専門的に仕事を進めていたらしい。工場建設後、間もなくの大地震で崩壊したとみられるが、水はけの良い砂岩台地に埋まっていたため保存状態は良好という。

 調査チームは、今回発見された製品とエジプトなど周辺地域で発見されている青銅器などとを比較、製品の交易ルートを解明したいとしている。(共同)

エジプト文明(紀元前3500年前)


01. エジプト文明 -「エジプトはナイルの賜物」- (20020227改稿) by世界史講義録
02. 古代エジプト文明 byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
03. 古代エジプトの医学力すごい!革新的な10の衛生学 2016年11月09日
 byカラパイア(karapaia)

古代エジプトの船の墓場を発掘、壁に120隻の絵

3800年前のエジプト王の葬儀に使われた船が埋められていた?
2016.11.10 NATIONAL GEOGRAPHIC NEWS

 ナイル川西岸に位置する古代エジプトの聖地アビドスで、黄金の砂の下から、日干しれんがで造られた船の墓場が姿を現し、その内壁に数多くの船の絵が刻まれているのが発見された。紀元前1840年頃のものだと考えられている。(参考記事:「南仏で発見 古代ローマの沈没船」)

 この構造物は、第12王朝のセンウセルト3世の埋葬地にあり、王墓のすぐ隣に位置する。今回の発見で、王の葬儀に関する新たな情報が明らかになった。

発見は100年以上前

 この構造物が最初に発見されたのは、1901年から02年にかけての冬だった。英国の考古学者アーサー・ウェイゴールが半円筒形の天井と内壁の上部を発掘した。船をモチーフにした装飾が初めて発見されたのも、そのときだ。しかし、発掘団が天井の中心部分の下にある砂を取り除こうとしたところ、天井が崩壊し、発掘を断念することになった。

 そして最近になり、米ペンシルベニア大学のジョセフ・ウェグナー氏が率いる考古学者のチームが、エジプト考古大臣の協力を得て、縦20メートル、横4メートルの広間の発掘に当たることになった。この発掘調査は、米ナショナル ジオグラフィック協会からの支援も受けている。

 しっくいで丁寧に白く塗られた壁には、120隻以上の船が描かれていた。三日月形の輪郭だけという単純な船もあれば、マストや帆、漕ぎ手まで描かれた精巧な船もあり、どれ一つとして同じものはない。ほとんどは密集して描かれ、重なり合っているものも多い。

 当初、ウェグナー氏のチームは、この構造物が造られた目的がわからなかった。「とても不思議でした。墓だと思っていましたから」とウェグナー氏は話す。しかし、発見した手がかりから、王の葬儀に使われた大型の木造船を埋めるために造られた可能性があることがわかってきた。これはエジプト最古の王朝までさかのぼる伝統とも一致する。(参考記事:「謎が深まる建造目的、第2の太陽の船」)

過去にも似た構造物を発見

 ウェグナー氏が大学院生だった頃に参加したアビドスの発掘では、紀元前3000年頃に造られた14隻の木造船が発見された。なかには長さ23メートル近い大きな船もあり、すべて第1王朝時代の葬祭殿の外側に並んだ日干しれんがの構造物に収められていた。

 南アビドスと呼ばれる今回の発掘現場でウェグナー氏が発見したのは、それと似た構造物だ。

 発掘隊が船の壁画がある建造物の床を探すために試掘したところ、船体を収めるのにちょうどいい緩やかなカーブが見つかった。さらに、腐敗や昆虫による被害でぼろぼろになった木片も出土した。

 ウェグナー氏は、古代に木材目当ての盗掘に遭った船の遺物ではないかと考えている。船は王家に関連するものであるため、レバノンから運ばれてきた高級なスギの木が使われていたはずだ。これには盗み出すだけの十分な価値がある。樹木が少ないエジプトであれば、なおさらだ。

 船は第12王朝の最盛期に造られたと考えられている。この時代、エジプトは北方のレバント(地中海東岸)や南方のヌビア(現在のエジプト南部やスーダン北部)に軍隊を送り込んでいた。エジプトには莫大な富と力があり、王にはどんな建造物でも建てられる財力があったはずだ。埋葬地の候補として建造された場所も、1カ所ではなかった。それぞれに莫大な資金がつぎ込まれ、設計もまったく異なるものだった。

ピラミッド型の墓も造っていた

 センウセルト3世はエジプトの北部から国を統治し、墓の一つも北部にあった。この王が首都としたイチタウイは、アビドスから450キロほど北に位置したと考えられている。イチタウイの正確な場所は不明だが、最近、ナショナル ジオグラフィックのエクスプローラーであるサラ・パーカック氏が衛星写真から候補地を見つけている。伝統に従い、センウセルト3世もそこからほど近いダハシュールにピラミッド型の墓をもっていた。有名なギザのピラミッドからもそう遠くない場所だが、王はそのピラミッドに埋葬されていないようだ。(参考記事:「ピラミッド・タウンの船乗りたち」)

 センウセルト3世は、それとは別に、アビドスにも墓やそれに関連する建造物を準備させていた。アビドスはイチタウイからはるか南にあり、この時代にはすでに古代の聖地と考えられていた。神話にある来世の神オシリスの墓があり、長いこと重要な巡礼地となっていた場所でもある。(参考記事:「古代エジプトの聖地、アビドス」)

「センウセルト3世は、オシリスの信仰に興味をもっていました。アビドスの主神殿で信仰されていたのがオシリスです」とウェグナー氏は話す。この頃、センウセルト3世は最終的に自らの埋葬地となる場所を建造していた。実際、それと同時期に、高官たちにオシリスの神殿を改築するよう命じている。

 王墓は、かつてアヌビスの山と呼ばれていた崖の下の岩盤を深く掘削した場所にあった。アヌビスはジャッカルの頭をもつ神で、ミイラづくりとも関連があるとされる。ウェグナー氏のチームもその近辺で発掘調査を実施し、壮麗な石棺を発見している。石棺は空で、移動された形跡があるものの、ほかの手がかりと合わせて考えた結果、センウセルト3世はアビドスに埋葬されたと、チームは考えている。(参考記事:「古代エジプトのビール醸造者の墓を発見」)

遺体は船で運ばれたか

 王がアビドス以外の場所で死んだのはほぼ確実で、その場合、遺体をアビドスに運んでこなければならない。ナイル川を利用して運ばれたと考えるのが妥当だろう。ウェグナー氏は、亡くなったばかりの王の遺体を運ぶ船とともに、何隻もの船列が川を上ってゆく姿を想像する。

 葬儀の中で、そうした船のうち少なくとも1隻が、日干しれんが造りの地下建造物まで運ばれたのだろう。

 そして、多くの参列者が王の死を悼んで、この部屋に船の壁画を残したのではないか。

 センウセルト3世は生前から埋葬地の準備を進めていたが、それは埋葬の習慣が大きく変化する兆候となるものだった。王をピラミッドに埋葬する習慣は紀元前1500年頃まで続いたが、その後、墓を隠すという考え方が広まってゆく。エジプトに再び黄金時代が訪れる新王国時代には、支配者たちの墓は王家の谷に隠されるようになった。その頃には、船を埋める伝統は完全に姿を消すことになる。(参考記事:「古代エジプト 王者のペット」)

 王家の谷での最も有名な発見はツタンカーメン王の墓だ。そこからは、精巧に作られた船の模型も見つかっている。その役割はセンウセルト3世の実物大の船と同じで、死んだ王が来世に向かうためのものだ。細かな形態こそ時代の流れとともに変化したが、永遠の生命に向かうための準備は30の王朝、約3000年を通して続くことになった。(参考記事:「ある難破船の数奇な運命」)

文=A. R. Williams/訳=鈴木和博

古代の墓からミイラ30体 カイロ郊外で発見

2009年02月10日 中国新聞ニュ−ス

 【カイロ9日共同】エジプト考古最高評議会は9日、カイロ郊外サッカラ遺跡で4千数百年前にさかのぼる古代エジプトの墓を新たに発見、中から約2600年前のミイラなど約30体を発見したと発表した。

 同評議会のザヒ・ハワス事務局長によると、墓の中には深さ約11メートルの井戸があり、その底に複数のひつぎを発見。ひつぎの覆いを取り除いたところ、紀元前640年ごろのミイラが完全な形で納められていた。約30体のミイラの一部はひつぎなどに、残りは壁のくぼみに安置されていた。

 AP通信によると、事務局長は井戸について「ミイラの安置所だったのだろう」と話している。

 サッカラは古代エジプトの墓域で、世界最古の巨大石造物とされる「階段ピラミッド」などの遺跡で知られる。

ピラミッド 潮田道夫(論説室)

2005年04月22日 毎日新聞 Mainichi INTERACTIVE

 古代エジプトでは7月から10月にかけ、ナイル川がはんらんして農耕ができない。ピラミッドはその間の失業対策としておこなわれた大公共事業だった。オックスフォード大学のメンデルスゾーン教授による新説はいまや定説のようだ。

 それまでは、ギリシャの歴史家ヘロドトスが唱えた奴隷による強制労働説が信じられていた。だが、建設労働者の居住跡を調査すると、彼らは奴隷ではなく家族生活を営み、労働の後にはビールさえ飲んでいた。

 さらに、ピラミッドは王の墓でもないらしい。ピラミッドはなにかの便益を期待しての構造物ではなかった。極論すれば無用の長物らしい。

 無用の長物といえば、エコノミストのリチャード・クー氏が昔こんなことを言っていた。

 役に立つ橋を造れば便利になるが、一方でフェリー業者の失業を招く。無用の長物なら失業する者はいない。需給ギャップを埋めるための景気対策としては、総供給に影響をあたえず総需要を増やす無用の長物を造るのがいい。

 とすれば、ピラミッドも一考に値する。早稲田大学の吉村作治教授によれば、ピラミッドの時代が終わると、大神殿さらには運河が建設された。運河は農地を増やす有用な試みだったが評判は悪かった。

 そうだろう。こどもに「これはお父さんが造った」と自慢するのに運河では気合がはいらない。ピラミッドが一番だ。

 いま、あちこちで便益不明、採算度外視の地方空港造りが進んでいるが、ピラミッドにしたらどうか。維持費も運営費もかからないだけマシであろう。(論説室)

2600年前のミイラ発見 エジプト

2005/03/02 The Sankei Shimbun

 ロイター通信によると、ピラミッドがあるカイロ郊外のサッカラ遺跡で2日までに、約2600年前の古代エジプト第26王朝の男性2体、女性1体のミイラが見つかった。男性の1体について、エジプト考古庁はこの時代のものでは最も保存状態が良いミイラの1つだとしている。

 遺跡を調査していたオーストラリアの考古学者グループが先月末、発見した。

 男性のミイラ2体が納められていたひつぎは、あごひげを生やした人間の形で、中のミイラは頭からひざまで装飾用のビーズをあしらった網で覆われていた。(共同)

ツタンカーメン死因解明へ ミイラのDNAなど調査

2004/11/14 The Sankei Shimbun

 黄金の仮面で知られる約3300年前の古代エジプト第18王朝の少年王、ツタンカーメンの死因を解明するため、エジプト政府は、同国南部ルクソールの墓からミイラを運び出し、エックス線やDNA検査で詳しく調べることを決めた。中東通信が13日報じた。

 中東通信によると、同王のミイラが墓から移送されるのは1922年の発見以来初めて。

 調査を行うのはエジプト考古庁と米国の研究チーム。今月中にもミイラをカイロ博物館に移送、頭蓋(ずがい)骨や肋骨(ろっこつ)を立体的に撮影できるエックス線装置などを使い、死因の特定を目指す。年内には調査を終える見通し。

 ロイター通信によると、責任者のザヒ・ハワス氏は「調査で病気やけがの有無、正確な年齢が分かる。自然死か殺害されたのかも答えが出るだろう」と期待している。

 ツタンカーメンはわずか8歳で即位し18歳で死亡したとされる。政権の混乱期に毒殺や撲殺されたとの説もある。

 王墓は英国のハワード・カーターらがルクソール西岸の「王家の谷」で発見。ほとんど盗掘にあっておらず、黄金の仮面や玉座、装飾品など多くの副葬品が残っていたことで有名。発掘に携わった者が相次いで死亡したことでも知られ、当時、墓の内部に病原菌などがあったのではないかと考えた専門家もいた。(共同)

「ミイラの谷」から発掘の102体、2300年ぶり陽光

2000.06.17 asahi.com

 エジプト・カイロ西方約400キロのバハレーヤ・オアシスにある「ミイラの谷」で新たに発掘されたミイラ102体が、このほど外国人記者団に公開された。約2300年前のものと見られ、深さ4メートルの墓地7カ所で、子供を含めた大小のミイラが横1列に並んで眠っていた。

 このオアシスは古代ギリシャ・マケドニアのアレキサンダー大王時代前後から、オリーブやナツメヤシの産地として栄えた。エジプト考古学最高評議会による発掘は昨年から本格化。約6平方キロの墓地には、貴族を中心に1万体以上のミイラが埋葬されていると推定されており、ナイル川から遠く離れた古代文明を知る上で大きな手がかりになりそうだ。

2600年前の王女? パキスタン警察がミイラ押収

2000.10.28 asahi.com

 パキスタン警察当局は26日、黄金の装身具を身につけた女性のミイラを、国立カラチ博物館で報道関係者に公開した。美術品を違法に売りさばく故買商グループが絡んだ殺人事件の捜査で押収した。ミイラは約2600年前のものと推定され、専門家は古代エジプト王朝の王女ではないかとみているが、詳しいことはわかっていない。

 カラチからの報道によると、ミイラは同国南西部にあるクエッタの民家の家宅捜索でみつかった。クエッタはイランやアフガニスタン国境に近い。警察当局は、国境地帯の族長が故買グループにかかわっていることから、どちらかの国を経由して密輸したとみている。

 パキスタンの考古学者の鑑定では、ミイラは紀元前600年の古代エジプト王朝様式だが、ひつぎに書かれている文字は古代ペルシャ語だった。ペルシャに嫁いだ王女の死後、遺体がエジプトに返されてミイラにされ、再びペルシャに戻されたのではないかという。

 ミイラの値打ちは1億円を超えるとされ、警察当局は背後に大規模な犯罪組織があるとみている。

金ぱくで覆われたミイラを発見 エジプトの墳墓群で

June 13, 1999 asahi.com(時事)

 12日付のエジプト各紙によると、同国の考古学調査隊はこのほど、カイロ南西約300キロの砂漠地帯のバハレイヤ・オアシスにある横穴式の大規模な墳墓群で、約2000年前に古代エジプトがローマに征服された時代前後のものとみられる保存状態の良いミイラ約200体を発見した。

 調査は4年前から行われ、計4つの墳墓からそれぞれ約50体のミイラが見つかった。頭部が金ぱくで覆われた貴族のものとみられるミイラもあった。ひつぎには古代エジプトの神々が刻印されているほか、ギリシャのコインも発見され、エジプト文明とギリシャ・ローマ文明の融和をうかがわせている。

 隊長のザヒ・ハワス博士(ギザ考古局長)によれば、墳墓群は長さ6キロと極めて大規模で、まだ1万体以上のミイラが眠っている可能性が大きく、さらに発掘を続けるという。

クフ王ピラミッド、王妃の間上方に秘密の部屋?

2002年09月19日 Yomiuri On-Line

 カイロ郊外ギザの3大ピラミッドで最大の「クフ王のピラミッド」(高さ147メートル)の内部に、これまで発見されていない「秘密の部屋」が存在する可能性があることが、エジプト政府などからなる調査チームにより明らかになった。18日付エジプト紙「アル・アハラム」が伝えた。ピラミッド底部付近にある「王妃の間」と呼ばれる部屋から斜め上方に伸びる通気孔をカメラ付きの小型ロボットで探査したところ二重の石の扉の向こうに、未発見の部屋があることが分かった。調査関係者は、「副葬品が置かれた部屋が存在する可能性がある」と指摘、調査チームは、今後1年かけて、実態を解明することになった。(カイロ支局)

古代エジプトの石像、自転車立てに使われていた

2000年02月04日 [ロンドン 4日 ロイター]
 

 英国南部のサウザンプトンにある博物館で、自転車立てに使われていた石が、実は約3000年前に作られたエジプトの石像の一部であることが分かった。 展覧会の準備を進めていたエジプト学者が、この博物館の地下室で発見したもの。 学芸員の1人は、「今まで誰もこの石の価値を図る手がかりを持っていなかった」と興奮気味に話している。

最古の「太陽の船」発見 エジプト南部で米調査隊

2000.10.26 asahi.com

 エジプト・カイロの南約400キロにあるナイル川沿いの町アビドスで、約5000年前のエジプト第一王朝期(紀元前3000年ごろ)の墳墓群を調査していた米国調査隊がこのほど、木造船の遺構を発見した。ファラオが来世に旅立つための「太陽の船」として副葬されたとみられ、カイロ郊外・ギザの「クフ王ピラミッド」(第四王朝)わきで見つかった約4500年前の船を数世紀さかのぼる同国最古の船とみられる。

 木造船の大きさは全長23メートル、幅2メートル、深さ75センチ。木材はエジプト産ではなく、レバノンスギを使ったものとみられる。現場周辺では、日干しれんがで造られた「船置き場」とみられる遺構が計14カ所見つかっており、その1つから発見された。

 現地事務所のヤヒア・マスリ所長は朝日新聞に対し、「太陽の船という概念が初期王朝の段階からあったことを裏付ける重要な発見だ。大きさや建材からエジプトが当時から巨大な木造船の建造技術を持ち、活発な貿易をしていたこともわかる」と話している。

クレオパトラ自筆文書?発見/独紙報道

2000.10.24【ベルリン23日=共同】

 二十三日付のドイツ大衆紙BZは、ベルリンのエジプト博物館が収蔵していた古代エジプトの文書の中から、クレオパトラの自筆とみられる命令書を発見したと報じた=写真(共同)。同紙によると、クレオパトラの自筆文書の存在が明らかになったのは初めて。

 同博物館当局者は二十三日、報道内容を大筋で認め「二十六日に記者会見を開き詳細について説明する」と述べた。

 BZによると、命令書は古代エジプトで使われていたパピルス紙に書かれており、カニディウスというローマの軍人にわいろを贈ることを命じる内容。ギリシャ語で「そのように計らえ」との記載があり、クレオパトラが書いたものだとしている。

 同紙によると、文書は百年以上前から博物館の書庫に眠っていたが、最近、オランダ人研究者の調査によって、紀元前三一年のアクティウムの海戦の直前に、クレオパトラ自身によって書かれた命令書であることが分かったとしている。

 文書の内容から、クレオパトラがカニディウスにわいろを贈り、ローマの将軍アントニウスに参戦を促すよう働き掛けたとみられるという。この海戦では、クレオパトラとその愛人アントニウスが、後に初代ローマ皇帝となるオクタビアヌスと戦って敗れた。


インダス文明(紀元前2,600年〜1,800年前)

インド・パキスタン・アフガニスタンのインダス川および並行して流れていたとされる
ガッガル・ハークラー川周辺に栄えた文明

01. インダス文明  byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
02. メヘルガル(Mehrgarh)紀元前7000年-紀元前2500年 
 byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
03. 王がいない!?不思議に満ちたインダス文明をひもとく 2017-06-23 by趣味時間
04. 25.インダス文明 平成22年04月24日作成 第064話 
 by高校生のためのおもしろ歴史教室
05. 【パキスタン】世界遺産「モヘンジョ=ダロ」の観光ガイド
 :インダス文明の巨大都市遺跡を徹底解説 byトラベルブック

インダス文明で新発見、女性優位と暴力

2013.04.30 NATIONAL GEOGRAPHIC NEWS

 今からおよそ4000年前に、現在のパキスタンからインド西部の一帯に栄えたインダス文明。都市計画の行き届いた居住地をはじめ、精巧な宝飾品や、当時としては最高度の排水溝設備など、極めて高かった文明の水準がうかがわれる。だが、文明を築き恩恵を享受していた人々については、今なお多くが謎に包まれている。 都市を築いた世界最古の文明の1つ、インダス文明では文字も使われていたが、未だ解読には至っていない。ビーズや陶片などの工芸品を丹念に調査し、さまざまな手掛かりを得ようと努力が続いている。

 別の視点からの取り組みが求められている中、墓地の遺跡から発掘された人骨に注目が集まっている。最新の研究結果によると、都市の人口構成に関する興味深い事実が示された。

 アメリカ、ウィスコンシン大学マディソン校のマーク・ケノイヤー(Mark Kenoyer)氏を中心とする研究グループは、インダス文明の中心都市の1つ、ハラッパーを調査対象に定めた。当時、約8万人の人口を抱えるインダス文明最大かつ最強の都市で、紀元前2550年から2030年頃の墓地遺跡から人骨を発掘、歯の化学組成を分析した。埋葬者の多くが他の土地で育った人々で、各地から来た複数の民族が混在する都市の様子が明らかになった。

 インダス地方は広範囲におよび、各地から商売などを目的に多数の人々が訪れた可能性は高い。外来者の多くは男性で、中には伴侶を求める人もいたらしく、ハラッパーの先住民女性の隣に埋葬されている例も多いという。調査は予備段階にすぎないが、妻の家への婿入りを示唆するには十分な結果である。南アジアでは古来から妻が夫の家に嫁ぐ風習が一般的だが、女系優位の社会制度が存在した可能性があるとケノイヤー氏は話す。

 今回の研究結果について、インダス文明に詳しいアメリカ、ケース・ウェスタン・リザーブ大学のジェームズ・シェーファー(James Shaffer)氏は、ハラッパーの社会構造に関する「数少ない現実的な洞察の1つ」であり、画期的な成果だと評価している。もし事実とすれば男女の社会的立場が入れ替わることになり、インダス地方の社会構造と他の古代文明との違いが明らかになる可能性もあるとシェーファー氏は言う。メソポタミア文明などの古い文献では、女性は男性に対して常に従属的な立場にあったことが知られている。

 一方、古代エジプト文明やメソポタミア文明と決定的に異なる特徴が、発掘当初から指摘されている。それは、暴力的な行為の痕跡がほとんど認められないという点だ。インダス文明の諸都市には大規模な破壊行為の跡がなく、戦争にまつわる記録も残っていない。平和な文明だったと考える専門家は多いが、ケノイヤー氏とは別の研究グループが行った最新の調査からは、陰惨な側面が顕わになっている。

 アメリカ、アパラチアン州立大学のグウェン・ロビンス・シュグ(Gwen Robbins Schug)氏を中心とする研究グループは、ケノイヤー氏の調査対象より約1000年後の、紀元前1900〜1700年頃と見られる人骨に注目した。その頭蓋骨から、棍棒のような武器でたたき割られた4〜6歳前後の小児、激しい殴打によって陥没した成人女性、鼻骨を折られ鋭利な刃物で額に傷を負った中年男性など、当時ハラッパーには残忍な暴力の犠牲となった住人が何人もいた事実が明らかになった。

 18人分の人骨で、負傷の跡が認められた頭蓋骨は半数近くに上る。埋葬された時期は、インダス文明が衰退し始め、ハラッパーからも人々が離れていった年代に適合し、何らかの因果関係の可能性が疑われるが、文明崩壊の原因については今なお活発な議論が続いている。

 分析が進めば、謎が解明される期待も高まる。だがインダスの人々は、今はまだその真実を語ろうとはしない。  シュグ氏らの研究結果は、「International Journal of Paleopathology」誌に、ケノイヤー氏らの研究結果は、「Journal of Archaeological Science」誌に掲載される予定。 文=Traci Watson


5000年前の遺跡、大地震に耐える インド

2001.02.05(13:09)asahi.com
 「5000年前の遺跡は無事。数年前に建てた発掘隊の小屋は倒壊」。インド紙インディアン・エキスプレス紙は、同国最大のインダス文明都市であるグジャラート州のドーラビーラ遺跡が、インド西部地震に無傷で耐えたことを1面で報じた。

 同紙は現地から「遺跡は無事で、城壁内の城塞(じょうさい)や町にもまったく被害がない」と強調した。一方、インド政府考古局が発掘隊員用に建てた小屋や、近くの村の家は軒並み倒れてしまった。

 同遺跡は紀元前3000年前後の建築で、ほぼ700メートル四方。主要部は石とれんがの分厚い壁で造られている。パキスタンにあるモヘンジョダロ、ハラッパにつぐ規模を誇り、インド政府は世界遺産に申請している。

インダス文明の街、発掘 インドのドーラビーラ遺跡

06:11a.m. JST March 04, 2000
 インド政府考古局は3日までに、紀元前3000年から同1500年までのインダス文明の都市構造がほぼ完全に残る、西部グジャラート州ドーラビーラ遺跡の主要部を発掘した。東西781メートル、南北630メートルの外壁の中に城塞(じょうさい)や公共広場、住宅街が整然とならび、水道施設が完備している。規模や年代がパキスタンのモヘンジョダロ、ハラッパ両遺跡に匹敵する古代都市で、当時の都市の全体像と発展の様子を初めて解明できると注目されている。インダス文字の解読につながると期待される「看板」や印章200点以上、土偶、多数の土器も出土した。

 遺跡はパキスタン国境近く、カッチ湿原に浮かぶカディール島にある。発掘隊長のR・S・ビシュット博士らによると、街は49の区画に区切られている。支配層が住んだとみられる城塞は町の南部にあり、縦118メートル、横151メートル。厚い城壁に囲まれている。街全体も城塞も縦横が約4対5に設計されている。

 城塞の内部は、東西に走る大通りで2分され、南側にインダス文明で最大とされる直径4.1メートルの石組みの井戸がある。上端に足場があり、水をくみ上げれば、足場に開けた穴から水路を経て貯水槽に水が流れる仕組みになっている。

 幅0.5メートル、高さ1.7メートルの石造の上水道が大通りの地下に延びる。貯水槽は16カ所以上あり、外壁内部の面積の1割を占める。

 城塞の北門は、計7つの門のうち最も壮大で、屈曲した石造の階段を下りてゆく。出口近くの地中に、縦37センチ、横27センチの白いインダス文字が10字、横に並んでいた。木の板に埋め込まれていたらしく、板の端の跡があった。「世界最古の看板」が門に掲げてあった、とみられている。

 約400種類あるインダス文字は、印章に数文字だけ彫られているのが普通で、意味の推定が難しく、4大文明の中で未解明のなぞとして残っている。研究者たちは、この文字が都市名か王の名前であったとみて、読み解く有力なかぎにならないかと期待している。

 北門の外に幅47メートル、長さ283メートルの広場が姿を現す。両側に観客席らしい段つきの斜面があり、発掘隊は「世界最古の競技場」と呼ぶ。ビシュット博士は「競技や祭り、集会、交易など多目的に使われたのではないか」と話す。

 「競技場」の北には、街路で区切られて住宅街が広がる。考古局は、ドーラビーラの建設を、れんがの違いなどから7期に分けている。城塞に埋もれている第1期は、出土した土器を年代確定ずみの他の遺跡と比較して紀元前3000年と推定した。都市が放棄されるまでの1500年の変遷を、今後の発掘で追えるという。

黄河文明(紀元前7,000年-1,600年頃)/ 長江文明(紀元前14,000年-1,000年頃)


01. 中国文明の謎 NHKスペッシャル
02. 中国古代文明側の可能性追求――遼寧省錦州市のY染色体ハプログループC1a1の由来はどこにある? 2017-12-15 知識探偵クエビコ
03. 黄河流域で彩陶文化(黄河文明) by理解する 世 界 史
04. 中国文明  byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
05. 黄河文明  byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
06. 長江文明  byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中国で6000年前の茶畑か 田螺山遺跡、栽培起源示す

2008年11月29日 中国新聞ニュ−ス

 中国浙江省の初期稲作集落跡・田螺山遺跡で、6000−5500年前の地層から世界最古の茶畑とみられる遺構が見つかり、金沢大の中村慎一教授(考古学)らの日中共同研究グループがこのほど、金沢市で開かれた成果報告会で発表した。

 茶は中国・雲南地方が野生種の発祥地とされるが、紀元前1世紀(前漢)の文献の記述が最も古く、それ以前の状況は分かっていない。今回の発見は、茶が予想以上に前から親しまれていた可能性を示すとともに、栽培の起源を探る上で貴重な成果となりそうだ。

 共同研究グループによると、当時の地表に掘られた縦約3メートル、横約2メートルの穴の中から、木の根が10数株出土。低湿地で保存状態が良く、顕微鏡で組織を調べたところ、ツバキ属と分かった。列状に並んでおり、植樹されたとみられる。約5メートル離れた場所でも同様のものが見つかった。

 ツバキ属にはツバキやサザンカ、茶の木がある。研究グループは、つばき油の採取には樹木数が少なすぎると判断。樹高がかなり低そうで葉を摘むのに適しているなどとして、茶の木の可能性が高く、数メートルおきにまとめて植えた茶畑と推定した。

中国で遺跡から7000年前の絵文字か?

2006/02/27 The Sankei Shimbun

 中国安徽省蚌埠市でこのほど、約7000年前の新石器時代の遺跡から、風景や人々の生活などを表現した文字のような絵や記号が大量に見つかった。新華社が26日までに報じた。

 専門家は、3000年以上前の中国最古の文字とされる「甲骨文字」を大きくさかのぼる漢字のルーツのひとつとみている。

 同省考古研究所の研究者らによると、破片は600点以上あり、山や川、太陽、動植物、狩猟、養蚕など多様なテーマを描写。当時の衣食住の状況から、宗教、信仰まで示しているという。

 主に器の外側の底の見えにくい部分に刻まれており、装飾ではなく、特別な意味や目的があったとみられる。研究者は「簡潔で生き生きとし、文字としての特徴を備えている」と指摘している。

 遺跡は1980年代から発掘が続けられてきた。他の遺跡でも同様の記号などが見つかっており、一定の範囲の社会で通用していた可能性がある。

 中国では昨年も、寧夏回族自治区で1万年以上前のものとみられる大量の絵文字が見つかったと報じられている。(共同)

中国河南省で2000年前の大規模農村遺跡発見

2006/02/21 The Sankei Shimbun

≪前漢末期≫

 中国河南省内黄県の三楊庄で、約2000年前に洪水による土砂で埋まった前漢時代(紀元前202―後8年)末期の大規模な農村遺跡が、同省文物管理局の発掘調査で21日までに見つかった。中国各紙が伝えた。火山の大噴火で埋没したイタリアの都市国家ポンペイの遺跡と匹敵する遺跡という。

 黄河流域に位置する遺跡には当時の生活用具や広大な農地が残されており、中国農業史を書き換える可能性もあるという。

 同文物管理局などによると、遺跡は2003年夏から発掘が続けられており、瓦屋根のある家屋7カ所のうち4カ所の発掘が終了。農地は家屋の前にあり、周囲には水路があった。池や道路なども発掘された。

 家屋はいずれも縦20メートル、横14メートル前後の長方形の敷地に瓦屋根の建物が2列に並んでおり、当時のままの姿で発掘。井戸やトイレもあった。おわんや盆などの生活用具も出土、当時の民衆の生活ぶりが分かる初めての遺跡としている。(共同)

世界最古の麺、中国・青海省の遺跡で発見

2005年10月13日 読売新聞 Yomiuri On-Line

 中国・青海省の新石器時代の遺跡から「世界最古の麺(めん)」が見つかり、中国科学院が13日付の英科学誌ネイチャーで発表した。

 この遺跡は約4000年前に黄河の洪水などで埋まったとされ、“中国のポンペイ”とも呼ばれる住居跡。研究チームが、3メートルの堆積(たいせき)層の下から掘り出した土器に、ラーメンに似た直径3ミリ、長さ50センチの黄色い細麺が入っていた。これまで、麺は約2000年の歴史があると言われていた。

「最古の文字」を発見 寧夏回族自治区でと中国紙

2005/10/07 The Sankei Shimbun

 中国寧夏回族自治区の西北第2民族学院は、同自治区中衛の岩に中国最古の文字が書かれているのを発見したと発表、このほど一部を公開した。6日付の中国紙が伝えた。

 中国紙などによると、岩から狩猟や祭儀、月、太陽などを記した約8400個の図形が発見された。その後の調査でうち約1500個が古代文字であることが分かったが、大多数は判読不能という。専門家は1万8000―1万年前に描かれたとしている。(共同)

「甲骨文字の数千年前」中国最古?絵文字発見

2005年10月07日 読売新聞 Yomiuri On-Line

 【北京=藤野彰】新華社通信は5日、中国西北部の寧夏回族自治区で、国内最古と見られる絵文字が発見されたと伝えた。

 専門家は、漢字の原型にあたる、殷代(紀元前17〜同11世紀)の甲骨文字より数千年さかのぼる時代のものと推測している。

 絵文字が見つかったのは、寧夏西部の中衛市大麦地地区。同地区の岩壁では、旧石器時代後期(約2万年前)以降に描かれたと見られる岩絵8453点が発見されており、地元の西北第2民族学院岩絵研究センターが調査したところ、原始的な文字の形態をしている絵文字約1500点が確認された。

 調査結果は上海古籍出版社の古文字専門家、劉景雲氏が鑑定、最終的に「文字史書き換えの可能性もある」との結論に至ったという。

 岩絵は太陽、月、星の形や狩猟、放牧、舞踊などの様子を図案化しており、絵文字と認定されたものは陶文(土器の表面に記された文字)や甲骨文字と似通った形をしている。中には二つ以上の象形を組み合わせたものや、会意、指事文字などの要素を含むものもあるという。ただ、解読できた絵文字はごく一部に過ぎず、ほとんどはまだ意味が判明していない。

 文字の発明をめぐっては、紀元前3500年ごろメソポタミアのシュメール人が発明したくさび形文字を最古とするなど、諸説がある。

世界最古、1万年前の栽培稲発見 中国長江下流の遺跡

2005/01/22 The Sankei Shimbun

 中国の国営通信、新華社は22日、中国の長江(揚子江)下流の新石器時代の上山遺跡(浙江省浦江)から、約1万年前の世界最古の栽培稲が見つかった、と伝えた。

 新華社電によると、これまで最古の栽培稲は長江中流の遺跡などで見つかった8000年前のものとされており、稲作の起源はさらに約2000年さかのぼることになる。

 同省の考古学研究所などが調査した結果、上山遺跡で約1万年前の土器とともに大量の稲のもみ殻が出土。もみ殻を調べたところ、野生種より長さが短く、幅は逆に太い栽培稲の特徴が確認できたという。

 専門家は今回の結果について「長江下流が稲作の発祥地の一つであることを裏付けた」との見方を示した。

 中国では1990年代に長江中流域の玉蟾岩遺跡(湖南省)や仙人洞(江西省)で1万年以前とされるもみ殻も見つかっているが、栽培種か野生種か明確でないことなどから、稲作の起源とはされていない。(共同)

世界最古9000年前の酒醸造の証拠、中国で発見

2004/12/07 読売新聞 Yomiuri On-Line

 【ワシントン=笹沢教一】米ペンシルベニア大などの研究チームが、中国河南省の遺跡で発見された約9000年前の壷(つぼ)から、世界最古の酒の醸造かすと見られる残留物を検出した。

 残留物には、米やブドウ、ハチミツ、香草などの成分が含まれていた。日本の縄文時代早期に当たる時期に、中国ではすでに醸造酒が作られていたことを示す貴重な証拠だとしている。

 研究チームは、遺跡から出土した壺(土器)の破片などの試料に付着していた残留物を分析、化学成分を特定した。

 味などは不明だが、米を主成分に、ブドウや香草類が風味付けに使われたと推定され、「香りあふれる紹興酒を思い起こさせる」(研究チーム)という。この遺跡からは、発酵飲料を入れるのに適したくびれた壺が出土することから、これまでも酒造の可能性が指摘されていたが、直接の証拠が確認されたのは初めて。

 成果は6日付の米科学アカデミー紀要電子版に発表した。

夏王朝初期の都跡か 中国・河南省で発見

2004/10/08 asahi.com

 中国河南省新密市の「新砦遺跡」から、伝説上で最古の夏王朝(紀元前21世紀〜同16世紀)で最初に造られたとみられる都跡がこのほど発見された。国営新華社通信が8日伝えた。

 今年7月には同省偃師市の「二里頭遺跡」から大規模宮殿を持つ夏代の都市遺跡が見つかり、中国最古の都市とされてきた。今回発見された都跡は二里頭遺跡よりもさらに300年以上もさかのぼり、約4000年前から約3900年前に造られたとみられる。

 発掘作業を進めてきた中国社会科学院考古研究所は「夏王朝初期の帝王・啓が造った都の可能性が高い」と指摘。「中国の国家起源や中華文明形成を探る上で重大な意義がある」と強調した。(時事)

夏王朝の宮殿か、中国河南省で古代都市跡発見

2004/07/22 読売新聞 Yomiuri On-Line

 【北京=竹腰雅彦】中国国営新華社通信は20日、中国の伝説で最古の王朝とされる夏王朝(紀元前21世紀―同16世紀ごろ)の中心地とみられてきた河南省偃師(えんし)市の「二里頭遺跡」で、大規模な宮殿を持つ、3600年以上前の古代都市跡が発見されたと伝えた。

 中国社会科学院は「中国最古の都市」としており、夏王朝の実在を裏付ける発見として注目される。

 偃師市は洛陽市東隣の黄河中流域に位置。二里頭遺跡の面積は少なくとも300万平方メートルで、確認された都市跡は約10万平方メートルに及ぶ。

 昨春以降の調査の結果、古代都市跡の中にある宮殿跡は、東西約300メートル、南北約360―370メートルで、幅2メートルの城壁も確認された。宮殿内の四方には幅10―20メートルの道路が縦横に張り巡らされ、大型の建築群が計画的に配置されていたという。

 また、遺跡からは祭祀(さいし)に用いたと見られる青銅器や、中国最古とみられる車輪の跡も見つかった。

 社会科学院の調査担当者は、「明確な計画に基づいた中国最古の都市で、中国の古代都市制度の源流」と話している。

 中国歴代王朝のうち実在が確認されているのは、殷墟(いんきょ)や甲骨文字の発見で社会構造が明らかになった「殷」(紀元前16世紀―同11世紀)までで、殷に先立つとされる夏王朝については実在が証明されていない。

河南:中国最古の夏王朝が実在?車輪跡も発見

2004/07/21 中国情報局

 中国社会科学院考古研究所は20日、河南(かなん)省・偃師(えんし)市の二里頭遺跡で3600年以上前の古代都市遺跡を発見したと発表した。同遺跡からは、儀式などに使う青銅器や車輪跡などが発掘された。中国新聞社が伝えた。

 発見された古代都市遺跡は、中国最古の王朝と言われる「夏」(紀元前21−16世紀)のものと推測されている。また、同遺跡からは、中国の車輪利用の起源となる重要資料も発掘され、考古学界では画期的な発見と歓迎されているという。

 1990年代、二里頭遺跡では、殷王朝に匹敵する大規模な宮殿、住居などの建築物が発見されていた。同遺跡では、青銅器が本格的に使用されるなど、高度な文化が根付いていたことも証明済み。同遺跡は、中国の「夏王朝」の中心地とみられており、今回の発見は、「夏王朝」の実在を裏付ける重要証拠となりそうだ。(編集担当:田村まどか) 

始皇帝陵の巨大地下宮殿を確認

2003年11月28日 The Sankei Shimbun

 中国陜西省西安市の秦の始皇帝陵(東西345メートル、南北350メートル)を、同省文物考古研究所と中国地質調査局が、電気探査などのハイテク技術で調査した結果、墳丘の地下約30メートルの地点に巨大な「地下宮殿」や墓室が存在することを28日までに確認した。

 地下宮殿の存在はこれまでのボーリング調査などで予測されていたが、具体的な規模や構造が判明したのは初めて。飯島武次・駒沢大教授(東洋考古学)は「世界最大の『地下宮殿』であり、これまでの調査を一歩前進させた」と評価している。

 始皇帝陵の発掘は、巨額の費用がかかる上、保存技術が不十分なため、実現の見通しは立っておらず、今回は始皇帝陵の保護計画を制定するための調査という。

 同研究所などによると、地下宮殿は東西170メートル、南北145メートルの規模で、中央には石灰岩でつくった墓室(東西80メートル、南北約50メートル、高さ15メートル)があるとみられる。

 また、地下宮殿には大量の水銀が流し込まれていたことも判明。司馬遷の史記には始皇帝陵について「水銀の川や海がある」との記述があり、これを裏付ける結果だ。

 このほか、墓室を守るように周囲には厚さ16−22メートルの頑丈な壁が巡らされており、内部の墓室は壊れていないとの測定結果も出た。

 同研究所の秦始皇陵考古隊の段清波隊長は「始皇帝陵の研究に初めて総合的な科学的データを提供した」と話した。

 調査は昨年11月から実施。地表から電流を地中に流し、地下の構造物や地層の変化で異なる導電率を計測する方法など地球物理学のハイテク技術を応用して行われた。(共同)

中国で3000年前の都市遺跡

2000年01月08日【北京・共同】

 中国国営通信、新華社は7日、中国の古代王朝である殷の都として世界的に有名な殷墟(河南省安陽市)よりもさらに時代をさかのぼる3300年前の殷の都市遺跡が殷墟の近接地で見つかったと伝えた。殷は紀元前16世紀から同11世紀まで続いたとされ、殷墟は殷代最後の都とされる。遺跡は地下約2.5メートルから出土し、長さ約2キロに及ぶ城壁跡や住居跡、墓、陶器など。

大規模な舟形木棺群 中国・成都で出土/2500年前、蜀の王族墓か

2000.12.25【北京25日=共同】 The Sankei Shimbun
長江上流文明、ナゾ解明へ

 中国四川省成都市でこのほど、過去に発見例のない巨大な舟形・丸太彫り木棺群が見つかった。約二千五百年前の春秋時代晩期から戦国時代早期の古代独立国家、蜀の王族か王の家族の墓とみられる。中国史の表舞台、中原(黄河流域)に比べ未解明の長江(揚子江)上流の古代文明のなぞを解く重要な手がかりとなる。

 長江上流の遺跡としては、一九八六年に独特な青銅製の仮面が出土した四川省広漢市の三星堆遺跡(約四千八百−三千年前)に次ぐ大発見で、独自文化を持つ蜀が現在の成都付近を都として繁栄していたことを裏付けるものだ。

 発掘に当たった成都市文物考古研究所の王毅所長らによると、墓跡が見つかったのは成都市中心部の建設現場。今年七月末からの発掘作業により、深さ約四メートル、縦二十メートル、横三十メートルの墓跡から最長一八・八メートルの四つの巨大な舟形木棺や丸太彫り木棺などが計十七個見つかった。当初は三十を超す木棺があったと推定される。

 木棺は直径一・六−二メートルのクスノキをくりぬき、ふた付き。すべて北東方向に先端を向け平行に並んでいた。墓跡の周囲では柱を立てるための木製の基礎も見つかり、上部に大きな建築物があったもよう。

 舟形木棺は四川省の巴蜀文化の特徴だが、木棺がこれほど巨大で、規模の大きい墓跡の発見は初めて。

跡からは四十歳前後の成人から七−八歳の子供まで殉葬者とみられる男女十体の遺骨も見つかり、DNA鑑定による蜀の民族の解明も期待される。

 漆器や陶器、青銅器など大量の副葬品も出土。漆器の「案」(机)の竜の文様が春秋晩期−戦国早期の青銅器とよく似ている。王墓に特徴的な副葬品、編鐘(多数の青銅の鐘をつり下げた古楽器)の漆座(漆器の台)も見つかったことから、同時期の王族か王の家族の墓とみられている。

長江文明は存在した

 菅谷文則・滋賀県立大教授(中国考古学)の話 「中国中央の中原(黄河流域)文化の影響をほとんど受けておらず、(四大文明と並ぶ)第五の文明といわれる長江(揚子江)文明の存在が想定できると思う。大量の舟形木棺群による埋葬の習慣は戦国時代から漢代初期にかけて四川省のほか、広西チワン族自治区、福建省などにもあった。これら長江流域から南方の諸民族が形成したと(文献に)伝えられる百越文化が長江文明の実態だろう。百越文化は海を越えて日本に影響を与えた。日本で古墳時代(四世紀以降)に出土する舟形の棺は日本人が先祖返りしてつくったものかもしれない」

舟形木棺の原型

 樋口隆康・奈良県立橿原考古学研究所長の話 「すごい遺跡だ。古代の蜀の文化を研究する上で重要な発見だ。中国で舟形木棺がこれほど大量に出た例はない。日本へ、直接影響があったのかどうかは分からないが、(中国や日本、朝鮮半島で出土する)舟形木棺の原点の可能性もある。漆器も多数、出土したようだが、四川省は、漆器生産の原点として注目しており、非常に興味深い発見。長江文明は、これまで中・下流の遺跡を中心に研究してきたが、上流も重視しなければならない」

 ■春秋戦国時代の蜀 中国の西周時代(紀元前十一世紀−同七七一年)の後期から、蚕叢(さんそう)を始祖とし、現在の四川省成都付近を都として栄えた古代国家。開明王朝十二代が続いたが、紀元前三一六年、秦に滅ぼされた。当時の蜀の民族や社会、文化など詳しいことは分かっていない。その後は秦が蜀郡を置いてこの地を支配。約五百年後に始まる三国時代に劉備が成都で蜀漢を起こした。

彩色の武人俑が初出土

1999年08月11日 【上海・共同通信社】

 中国陜西省西安市近郊の臨潼県にある秦王朝・始皇帝(紀元前259年〜210年)の兵馬俑坑からこのほど、2200年以上前の制作当時にほどこされた彩色がほぼそのまま残る武人俑6体が初めて発掘され、中国考古学界の注目を集めている。専門紙「中国文物報」が報じた。

 兵馬俑はもともとすべて彩色されていたが、これまでは灰色と化した俑しか出土していなかった。

植樹作業で漢代の兵馬俑発見、100体以上…山東省

2002年12月03日 Yomiuri On-Line

 【北京3日=杉山祐之】中国山東省中部・章丘市の農村で先月23日、村の住民が植樹用の穴掘り作業中、つるはしに当たった石のようなものを掘り出すと、「馬の頭部」が現れた。村当局の連絡を受けた考古学専門家が周辺を発掘したところ、2日までに、漢代の兵馬俑100体以上が埋まっているのが確認された。

 3日付の「中国青年報」紙などが報じたもので、兵馬俑は、長さ約9・7メートル、幅約1・9メートル、深さ約70センチの大きさに掘られた穴に置かれていた。身分の高い人物の副葬品と見られている。

 俑全体は、騎馬隊、車馬隊、歩兵隊で構成され、漢代の礼式通りに配置されていた。保存状態は極めて良好で、彩色が残っているという。また、赤い花柄模様を描いた鼓など他の副葬品も、同時に発見された。

 発掘作業にあたった考古学専門家チームの崔大庸・隊長は、漢代の様式を忠実に再現し、写実性、芸術性にも優れた同兵馬俑を高く評価、「(これまで石などに描かれたものしか存在しなかった)漢代の情景、部隊配列などが、初めて『実物』として出土した。極めて重要な学術的価値がある」としている。

 一方、同紙が「つるはしの大発見」と報じた今回の兵馬俑発見の経緯は、世界的に知られる陝西省西安の秦始皇帝兵馬俑と似通っている。同兵馬俑は、1974年、井戸を掘っていた農民が偶然見つけた。

楚王陵で鋳造鋼の武器発見

2000年01月21日 【上海・共同】

 上海紙、文匯報は21日、中国江蘇省徐州にある漢代(紀元前206年〜220年)の楚王陵で、製錬された鍛造鋼による武器が発見されたと報じた。楚王陵は、紀元前154年以前に造られたため、武器は2150年以上前のものとみられるとしている。

 発見されたのは青銅と鉄の刀剣、矛など武器数百点。

西周時代の馬俑を発見 中国・山西省

August 21, 1999 asahi.com(時事)

 中国の新華社通信は21日、山西省曲峨県で最近出土した土製素焼きの馬と馬車が、西周時代(紀元前11世紀―同771年)に作られたことが判明したと報じた。陜西省西安市郊外にある有名な秦始皇帝陵の兵馬俑(へいばよう)より、600年以上前のものという。 。

NHK取材班が中国で撮影中に博物館所蔵品を破損

2000.09.07 asahi.com

 NHKは7日、中国の浙江省博物館で7月29日に行っていた撮影中、「国家一級文物」の指定を受けている所蔵品の一部を誤って破損した、と明らかにした。上海紙がこの問題をとりあげ、中国政府が「価値の高い文物の撮影は慎重に実施するように」と全国に通達を出したと報じたのを受けたもので、NHKは現在、中国側と補償問題などを話し合っているという。

 破損させた所蔵品は、浙江省・河姆渡遺跡から出土した「帯藤条骨相」という7000年前の農具。全長約20センチで骨と木とフジのつるでできており、スコップとして使われたと見られる。当時稲作が行われたことを示し、農具の構造を知ることができる点でも貴重だ。

 NHKによると、今回の撮影は、来年度放送予定のNHKスペシャル「日本人はるかな旅」のためで、撮影中に照明器具の一部が落下、はねて遺物に当たり、木とフジのつるの部分が破損した。

 NHKの天城靭彦スペシャル番組部長は「貴重な品を傷つけ、中国の関係者におわびするとともに、誠意をもって話し合いを続けている」としている。

HOMEBACK