TOPIC No.9-14 渡来人/古代豪族 秦氏(はたうじ)

01 北武蔵・幡羅郡と渡来文化
02 秦氏と秦野 by秦野エイト会
03 秦氏(はたうじ) byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
04 秦河勝(はた の かわかつ) byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
05 秦氏 by日本の苗字7000傑 姓氏類別大観
06 秦氏の末裔 渡来人秦氏と広隆寺の関係
07 秦氏 (2007/01/26) by東京の京にゃんこと京ねずみの京都観光見聞録
08 洛西に秦氏をたずねて1 by平安京探偵団
09 秦楽寺(じんらくじ)byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
10 21.秦氏の神社創建 by高校生のためのおもしろ歴史教室
11 秦氏とユダヤ王族の関係 by日本とユダヤのハ−モニ−
12 大秦寺(だいしんじ)byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 
13 赤穂に移り住んだアコー港から来たアッシリア人(2008-03-22) by中山道を歩こう
14 秦氏について 氏族別渡来人情報 by渡来人研究会
15 秦氏に関するメモ 2007/10/30 by鞍馬寺 貴船 M君
16 秦氏の謎 by kitunoの謎シリ−ズ
17 秦氏(はたし) by都市史01
18 秦氏(はたうじ)

渡来人:4〜7世紀ごろに朝鮮・中国から日本に移住してきた人々


『高楠順次郎博士によれば、兵庫県赤穂市の坂越(さこし)の港に秦氏という渡来人一族が到着したという。

坂越町にある大避(おおさけ)神社には、秦氏の族長、秦河勝(はた の かわかつ)が自分で彫った雅楽のお面がある。彫りの深い顔で、鼻が高くかぎ鼻で、頭上には天使のようなものが守っていた。しかも雅楽は元々中近東からやってきた音楽だと言う。』

秦氏 by出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)[1]。

 また一説には五胡十六国時代に?族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。

 この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、「秦」つながりで渡来した人々が勝手に「秦」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はないが、根拠は少なく今後検証の必要がある。

 ハタ(古くはハダ)という読みについては朝鮮語のパダ(海)によるとする説のほか、機織や、新羅の波旦という地名と結び付ける説もある。

 その後、大和のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。

 雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が各地の秦部、秦人の統率者となったという。欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となり大蔵掾に任ぜられたといい、本宗家は朝廷の財務官僚として活動したらしい。

脚注[1]

 日本書紀の記述は次のようなものである。

 応神天皇十四年、弓月君が百済から来て、天皇に奏上した。「私の国の百二十県の人民が帰化を求めています。しかし新羅人が拒んでいるので、みな加羅国に留まっています。」

 天皇は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を遣わして、加羅国の弓月の民を召されたが、三年を経ても襲津彦は帰らなかった。

 応神天皇十六年、天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。

 天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進めて新羅の国境に臨んだ。新羅王は恐れて、その罪に服した。二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に帰ってきた。


飛鳥時代の竪穴住居跡10棟分 右京・村ノ内町遺跡で見つかる

2010年05月26日 Kyoto Shimbun

 村ノ内町遺跡で見つかった縄文時代の竪穴住居跡(骨組みは市埋蔵文化財研究所によるイメージ復元)=京都市右京区常盤出口町

 京都市右京区常盤出口町の村ノ内町遺跡で26日、市埋蔵文化財研究所の発掘調査により飛鳥時代の竪穴住居跡10棟分が見つかった。近くの渡来系豪族・秦氏の氏寺とされる広隆寺が、造営されたとみられる時期と重なっており、市埋文研は「当時の周辺の様子を知る手がかりになる」としている。

 見つかったのは一辺が3〜5・5メートルの方形をした住居跡。7世紀前半ごろとみられ、住居を囲う溝の状況から、ほぼ同じ場所で1、2回建て替えられていたことが分かった。また3棟の内部に煮炊きにより土が焼けた跡があったが、据え付け式のかまど跡はなく、渡来人が持ち込んだとされる移動式かまどを使用していたとみられる。

 同時代の住居跡は広隆寺周辺で多数見つかっているが、寺から北東約300メートルに位置する村ノ内町遺跡内で見つかったのは初めて。市埋文研は「太秦を中心とした当時の集落がより広範囲だったことが明らかになった」としている。

 住宅建設に伴い、今月初めから約250平方メートルを調査していた。29日午前10時から現地説明会を行う。問い合わせは現地事務所Tel:090(9713)8715。

飛鳥時代の北野廃寺跡など紹介 京都市、文化財ブックス発行

2010年04月27日(火) Kyoto Shimbun

 古代寺院をテーマにした文化財ブックス

 京都市はこのほど、平安京以前の京都に存在し、数々の謎に包まれた古代寺院の発掘調査成果を掲載する「市文化財ブックス24集」を発行した。

 飛鳥時代に建ち、市内最古の寺とされる北野廃寺跡(上京区)や、八坂の塔で有名な法観寺(東山区)など、16の寺や遺跡から見つかった建物跡や瓦などが、豊富な写真で紹介されている。

 広隆寺と並ぶ秦氏の氏寺と考えられている北野廃寺をはじめ、正体不明の遺跡も多く、市は「古代のミステリーを楽しんで」としている。A4判、111ページ。市考古資料館(上京区)などで販売している。1500円。

【ウオーキングナビ】健康づくりの"第一歩" 嵐山から太秦、花園を散策

2010年04月22日 産経関西

静かに過ごせる隠れ名所「鹿王院」

 観光都市、京都。1100年間、都であり続けただけに、長い歴史を物語る文化財をたくさん抱え、世界の人を魅了してやまない名所が至る所にある。一方、名所を少し離れただけで静かに過ごせる隠れ名所があるのもまた京都の魅力。ある晴天に恵まれた春の一日、陽気に駆られて京都有数の桜の名所として知られる嵐山をスタートに、太秦(うずまさ)から花園までを歩くぶらり旅に出てみた。(園田和洋)

 阪急・嵐山駅を出て桂川方向に進む。嵐山公園の桜は満開で、そこから見る渡月橋の姿はまた格別。橋を渡る。やはり桜の観光シーズン。平日とはいえ橋の上は人でいっぱいだ。

 そんな中、振り返って嵐山を見ると、濃い緑の中に満開の桜が存在を主張するように白い斑点があちらこちらで確認できた。渡月橋は鎌倉時代、亀山上皇が橋の上を移動する月を見て名付けたというが、昔は今より約150メートル上流に架かっていた。

 少し北へと歩き、京福・嵐山駅を過ぎたところで東へと進む。曲がっただけで人の数がぐっと減り、ここからペースもあがる。10分ほど歩いただろうか。室町時代、足利義満が創建した鹿王(ろくおう)院に着く。

 静かな住宅街の一角、古びた門が風情を漂わせる。門をくぐり、長い参道を経て枯れ山水の庭園をしばし鑑賞する。庭の奥に建つ舎利殿の横にはさきほど間近にみた嵐山が望める。嵐山からわずかのところで心静かなひとときを過ごせたのはありがたい。

 離れたくない気分を振り切って、次の目的地の車折(くるまざき)神社へ。社前で後嵯峨天皇の牛車の一部が壊れて動かなくなり、門前の石を車折石と呼んだことが名前の由来。

 渡月橋もそうだが、社寺や名所の由来に、天皇や皇室の名前が結構出てくるところに、京都の歴史の奥深さがある。

 三条通沿いの境内は意外と広くて明るい。商売繁盛、売掛金回収に御利益があるとされる。このほか、境内にある芸能神社の周囲に並べられた有名人の名前が書かれた玉垣を見ていくのも楽しい。

 帷子(かたびら)の辻から太秦まで大映通り商店街を歩く。かつてはこの近くに大映映画の撮影所が、今は松竹の撮影所が建つ映画の街。フィルムに見立ててペイントした道に商店街の心意気を感じさせる。

 太秦の交差点で京福と広隆寺の門というおなじみの光景を見ながら通過。三条通を東へ進むと、全国的に珍しい三本柱の鳥居を持つ木島神社(蚕(かいこ)ノ社(やしろ))前に出た。

 古代、この地に勢力を持った秦氏創建の神社で、三本柱の意味は一方が秦氏ゆかりの松尾大社を向いているとか、秦氏=キリスト教徒説とかがあるが、結局は不明のままだ。

 最後は法金剛院。平安時代の庭園と仏像が残る古寺。訪ねたときは池の周囲の桜が満開だったが、梅雨の時期はアジサイ、夏はハスの花などが楽しめる。

 カメラ好きの筆者もその時期には、ここで写真撮影していることだろう。

始皇帝も驚く“日本のハリウッド” 恐るべし!!太秦

2010.04.17 MSN産経新聞

秦始皇帝が祭神という大酒神社 【検定1級記者が語る京都】

 右京区太秦にある大酒(おおさけ)神社の鳥居前。ここで、右に見える木製の由緒書に書かれたご祭神の名前をよーく見てほしい。なんと中国史上初めて皇帝と称した「秦始皇帝」の名前が見えるのには恐れ入った。

 大酒神社はかつて広隆寺の鎮守として寺の境内にあったものの、明治時代の廃仏毀(棄)釈の影響で今は寺の脇に。嵐電の太秦広隆寺駅から映画村に向かう途中なので多くの観光客が神社の横を通っているわけだが、神社の存在に気づかない人も多い。

 そういえば、不定期に行われる、不思議な面をかぶったマダラ神が牛にまたがって練り歩く京都三大奇祭祭のひとつ、広隆寺の「牛祭り」もかつては大酒神社の祭礼だった。

 太秦というと、国宝第1号の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像で有名な広隆寺などに代表されるように、平安京遷都以前から秦氏の本拠地として知られる。

 その秦氏の祖先で、養蚕と機織りの技術を伝えた弓月君(ゆづきのきみ)が秦始皇帝の子孫と主張していたということもかかわっていると思われる。

 この神社から帷子(かたびら)ノ辻に向かって歩くこと約10分のところに秦氏の墓とされる「蛇塚(へびづか)古墳」がある。6世紀末から7世紀初めごろに築造された前方後円墳で全長は75メートルとされている。

 「日本のハリウッド」ともいわれる太秦にふさわしく、松竹の撮影所の裏、住宅に囲まれるかたちで巨大で荒々しい岩がいくつも積み上げられた石室が残る。その規模は奈良・石舞台古墳に匹敵するといい、当時の権力の強大さがしのばれる。

 太秦周辺には市内中心部や東山とはひと味違った歴史が楽しめる。変わった地名も多い。ある休日、小学6年生の娘から「なぜ『太秦』を『うずまさ』って読むの?」って尋ねられ、考え込んでしまった。

 京都検定テキストには秦氏が朝廷に献上する絹をうずたかく積んだとか、絹糸が巴うずの形をしていたとかいった説が紹介されていた。その辺の内容は頭にはあったが、字と読み方が一致しない。要するに子供に説明しづらい。太秦は大人泣かせの所でもある。

 恐るべし!! 太秦。(園田和洋)

広隆寺

 広隆寺 (こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦(うずまさ)にある寺院。宗派は真言宗系単立。山号を蜂岡山と称する。蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)[1]、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。帰化人系の氏族である秦(はた)氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。

大酒神社(おおさけじんじゃ): 秦氏の総鎮守

 『記紀』によると雄略天皇治世期の頃(5c末)、弓月王の孫に秦酒公という人物がいたというのですが、彼は秦氏の一族を率いて養蚕事業に従事して莫大な成果をあげたので、朝廷から「禹豆麻佐(うぶまさ/ウヅマサ。蚕が益々埋まるの意)」の称号を授かったといいます。これが後に秦氏の本拠地・太秦(ウズマサ)地域の語源となったのでした。

広隆寺の牛祭り

 この祭りの主役は、摩多羅神という神です。しかし、大酒神社の祭神にこのような神は入っていませんし、実はこの神、仏典などにも記載されていない詳細不明の神なのです。インドの神・仏教の守護神・道教の神・・・など、色んな説が唱えられていますが、「牛祭り」の意味同様、定説は未だもってありません。

 しかし、その中でも注目したい説として「摩多羅神=道祖神」説があります。その根拠には色んなものがありますが、摩多羅神の面が天狗面と酷似しており、天狗というのは男根の象徴で、それは性シンボルとしての道祖神であることを示しているからだとか、太秦と関連の深い秦河勝は猿楽(能楽)の創始者といわれており、そこから中近世の人々が「猿=猿田彦神=道祖神」と結び付けたのではないか、など様々です。

摩多羅神の語源は、ヘブル語でオシラー女神か

 摩多羅(マタラ)とは、摩(マ)と多羅(タラ)とに分けてみよう。すると、見えてくることがある。摩はマー(Ma)、多羅はターラー(Tara)。

 ○摩多羅神の語源は、ヘブル語でオシラー女神か  マ(Ma)はインド・ヨーロッパ諸語で母親を意味する基本的音節で、Ma・Maは母親の乳房をないし、母親を意味している。アイヌ語では女性を意味する語音である。シュメールのアッカドの太女神はママ、マミ、マミトゥという。

 *ヘブル語のばあい、「MA」は、液体=Mと、誕生=Aの意味で、聖なるしるし(メム−アフレ)として、霊験あらたかな護身の力があった。この二文字は紀元前9世紀の初めからユダヤ人の護符にされていた。MAは太母神の呪力をもっていたわけである。ペルシャ人は母性霊をムゥルダト−アメレタト(MA)と呼び、死と再生を司る。

 ○摩多羅神の語源はサンスクリット語?  多羅は、通説的には多羅菩薩、Tara(ターラー)、つまりチベットの緑ターラーと白ターラー、神秘的で魅力的な観音(アボロキティ・シュバラー)で、衆生を苦しみから救う救度仏母として崇拝される。原語ターラーとは、眼、瞳(ひとみ)のことで、仏典では眼精・瞳子・妙目精などと訳された。 ターラーは、その瞳から大光明を放つ。 ターラーはまた、星という意味があり、この女尊はチベットのタンカ(タペストリー)に星の輝く夜空を背景に描かれる。タ-ラーは、めずらしい夜の女神である。

 そもそも、太秦のこの牛祭は夜祭りであり、真っ暗になってからはじまる。この太秦の摩多羅神は唐模様の頭巾をかぶっておられ、その頭巾に北斗七星が描かれる。 ターラーにとっては夜こそふさわしい。 ターラーは救いと夜空に輝く星の意味を併せ持った境界神である。

  偉大なる女神ターラー(TARA)にはサンスクリット語で語源的には川を横切る、運ぶ、超越するなど、また、解放する、逃れるなどの意味がある。 そして、ターラーが救度菩薩といわれるのも冥界との境界においてこの女神が援助の手をさしのべてくれると信じられているからである。その意味で、ターラーは純粋な「境界神」であり、両性を併せもつ「超性」の菩薩である。

 ラテン語のTER−MINUSは境界、制限、終局、限界などの意味があり、ローマ神話ではテルミヌスの神の語源となった。また、TARAはサンスクリット語のSTRIに由来しており、「まき散らす、拡大する、拡散する」などの意味があり、英語ではSTARになった。星とターラは切ることが難しいのである。

 摩多羅はシュメール・インド・中国秦山をへてやってきた牛母女神? 広隆寺では摩咤羅神の字が当てられ、「まだら」と読み下されている。

   一方、北斗七星があるということは道教に習合されて日本に来たことになるのだろうか。烏帽子には、北斗七星(北極星)が描かれている。なぜ北斗七星があるのか・・実はきわめて重要なことなのである。北斗七星太一を象徴し、神々の神、万物をすべる神を意味し、皇帝の位を意味するからである。北斗七星の意味はすこぶる大きいことが後に分かってくる。

  慈覚大師円仁(えんにん)が唐からこの摩多羅神を持帰ったという伝承がある。この伝えによると、円仁(794−964)が、唐から日本に帰る船の中に念仏の守護神として現れたとされる。「渓嵐拾葉集」では、摩多羅神は「吾は障礙神である。吾を祀らなければ、往生の願いは達せられないであろう」と告げたという。帰朝した円仁は、その後、常行三昧堂の念仏の守護神として祀った。確かに、中国から渡来した神名であることだけは確かなようだ。そもそも、入唐八家といわれる円仁はサンスクリットの音韻を中国語を通して音読できた。悉曇学(しったん学)の祖というべき貴重な人物だった。

  そこで摩多羅が円仁が招来したと言われることから、この摩多羅はどうしてもサンスクリットの音韻を踏んだものだろう。サンスクリット語で「Matr」は、「MatrーVeda(Vedaは神)」というと、これが「神母」となる。Matrは、そもそも雌牛の意味を持っている。そして、さらに母という意味を合わせて持つ。なんと、Veda、神と連結させると、神母(地母神)になる。 「Matr」は、5母音を踏む日本語に転化するとマータラになる。マータラ・ヴェーダ。それにしても、あまりにも見事な訳語がたち現れて来た。一語で、雌牛という意味と母という意味がある。その両義性がなんとこの「Matr」一語で出てくる。まさに、なにゆえに「牛祭」と呼ばれるようになったのか、そしてMATARAがなにゆえに神名なのか、もうこれ以上言う必要もだろう。

 『武宗は堂塔を廃却し、聖教を焼き払い、僧尼を環俗させた。長安に滞在していた円仁は役人に追われ市中の堂に逃げ込こみ、仏像の間に身を隠した。そして、不動明王を心中に念じて、難を逃れようと動かないで、じっとしていた。役人は堂内をくまなく探したが、円仁は見つからなかった。探しあぐねた役人はふと新しい不動明王があるのに気がつき、不審に思い抱きおろして見ると、それは円仁に姿を変えた。円仁は元の姿に戻っていた。驚いた役人は出来事を武宗に報告したところ、武宗は「他国の聖(ひじり)である。速やかに追い払うべし」と命じ、円仁は郊外に逃れることができた。(慈覚大師伝)』 以上は武宗の会昌の廃仏に遭遇したときの逸話。45歳から54歳の9年間、唐に滞在し、この間の日記が「入唐求法巡礼記」で、故ライシャワー博士の研究テーマとなった。世界三大紀行の一つと評価されている。

木嶋坐天照御魂神社(このしまにいますあまてるみたま)

 祭神は、「天御中主命(アメノミナカヌシノカミ)」「大国魂神(大国主命)」「穂々出見命(ホホデミノミコト)」「鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)」です。

 通称 木嶋神社(このしまじんじゃ)。また、本殿東側に織物の始祖を祀る蚕養(こかい)社、通称「蚕ノ社」(かいこのやしろ)があって、大酒神社の元社だという説がある。

 社殿の西にかつては湧水が豊富であった「元糺の池」(もとただすのいけ)という池の中に三柱鳥居(三ッ鳥居)がある。柱が三本で三正面、上からの形は三角形となっている鳥居は珍しい存在であり京都三鳥居の一つとされている。これも起源不明ながら現存するものは天保2年(1831年)に再興されたものである。


備中温羅


五重塔バックに演奏や舞 総社・国分寺で幽玄世界楽しむ

2010年05月04日 山陽新聞地域ニュース

ライトアップされた五重塔をバックに演奏する備中温羅太鼓

 総社市上林の備中国分寺で3日夜、国重文の五重塔をライトアップし、伝統芸能を披露する「春の吉備路 幻想の響宴」(同市観光協会主催)が開かれた。

 日没直後の午後7時、五重塔の周りに設置した照明が点灯。境内の特設ステージに地元の和太鼓グループ・備中温羅(うら)太鼓や日本舞踊、神楽などの5団体が登場し、夕闇に浮かび上がった五重塔をバックに、迫力ある演奏と躍動感あふれる舞を繰り広げた。

 大勢の家族連れらが訪れ、光と音の織りなす幽玄の世界に浸っていた。

 ライトアップは4、5日も日没から午後10時まで行う。5日は午後5時から、市内外の和太鼓グループによるライブがある。問い合わせは吉備路観光案内センター(0866(92)1211)。

うらじゃやコンサートなど多彩 岡山・西川でハーモニーフェスタ

2010年05月02日 山陽新聞地域ニュース

 岡山市中心部の西川緑道公園と下石井公園で2日、「花・緑ハーモニーフェスタin西川」が始まり、大勢の親子連れらが訪れた。

 うらじゃおどりのPRイベントが開かれた下石井公園では、昨年のおかやま桃太郎まつりで最優秀賞(原曲の部)を獲得した「鬼羅」など12の踊り連が登場。ステージや路上で趣向を凝らした舞を披露し、来場者に振り付け指導も行った。

 緑道公園にはオープンカフェが設けられ、カップルらがジャズやギターなどのコンサートに耳を傾けていた。

 最終日の3日も各種コンサートなどがあり、下石井公園で「西川緑道まつり」が開かれる。

 同フェスタは、昨年の全国都市緑化おかやまフェア期間中の市民提案協働事業として初めて開催され、今年で2年目。

うらじゃ

 by フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 うらじゃとは、岡山県岡山市中心部にて行われている、鬼神温羅(うら)の伝説を元にしたお祭りであり、それに使用される楽曲。また、それに合わせて行われる踊り。             -------------------------------------

 岡山市西部と総社市東部にまたがる地帯では、昔から桃太郎伝説のルーツともいうべき吉備津彦命(きびつひこのみこと)の鬼退治にまつわる説話が語り伝えられています。それが「温羅(うら)伝説」と言われるものです。

うらじゃおどりにミッキー登場 政令市岡山1周年記念などで

2010年04月06日 山陽新聞地域ニュース

 岡山青年会議所(岡山JC、岡山市北区厚生町)は6日、同市中心部で開かれる「おかやま桃太郎まつり」(7月31日、8月1日)の「うらじゃおどり」(8月1日)に、東京ディズニーリゾート(TDR、千葉県浦安市)のキャラクターをスペシャルゲストとして招待すると発表した。

 ミッキーマウスをはじめディズニーの6キャラクターが参加。TDRの特別仕様車「ドリームクルーザーII」に乗り、踊り連が参加するパレードの最終組として岡山市役所筋を午後7時10分から約30分行進する。

 ディズニーの楽曲に、うらじゃおどりの曲の一部を取り入れた音楽も制作中といい、ミッキーたちは曲に合わせてオリジナルの振り付けも披露する予定。

 岡山市の政令指定都市移行1周年と、岡山JC創立60周年記念事業の一環として企画。梶原康彦うらじゃ実行委員長は「ディズニーとの“共演”が、うらじゃの集客や認知度アップの起爆剤になれば」と話している。

ももっちが行く 体験!発見!おかやま「備中温羅太鼓に挑戦!の巻」

2010/02/12 もっちが行く 体験!発見!おかやま

 太鼓のメインリズムは吉備路の桃太郎伝説にちなみ,温羅と吉備津彦命の戦の様子を表現している。

うらじゃおどり、過去最多6200人乱舞 「おかやま桃太郎まつり」

2009年08月03日  山陽新聞地域ニュース

 「おかやま桃太郎まつり」は2日、岡山市役所筋をメーン会場に、伝説の鬼神・温羅(うら)にちなんだうらじゃおどりが繰り広げられた。過去最多の138団体、約6200人の踊り手たちが激しく乱舞。 2日間にわたる真夏の祭典は幕を閉じた。

 交通規制された市役所筋は延長約680メートルの巨大ステージと化し、派手なメーク、衣装の踊り連が各所に設けられた演舞場から集結。炎天下のパレードでは、滴る汗もそのままに気合のこもった踊りを披露した。夜の総おどりでクライマックスを迎え、「うらじゃ」「うらじゃ」の掛け声が何度も市街地にこだました。

 山陽新聞社さん太広場(岡山市北区柳町)などでは前日に続き、ファミリーフェスタもあり、昔遊びや人気アニメのキャラクターショー、岡山県産白桃の即売といった各コーナーに大勢の家族連れらが詰めかけた。

岡山県温羅まつり 総社市

2003.11.02 


「アメノヒボコ」伝説裏付け? 縄蓆文土器破片を確認

2009年07月03日 新日本海新聞

北但馬では初めて確認された縄蓆文のある土器片=1日、豊岡市神美台の市立出土文化財管理センター

 兵庫県の豊岡市教委は1日、市内2カ所の遺跡から出土していた土器片が、渡来人が使用していた5世紀後半の縄蓆文(じょうせきもん)土器の破片だったことを確認したと発表した。縄蓆文のある土器片の発見は北但馬では初めて。市教委では、朝鮮半島から日本に渡ってきた渡来人「アメノヒボコ」の伝説につながる貴重な資料としている。

 同市中谷の中谷貝塚と同市土渕(ひじうち)の八坂神社古墳から出土していた計13の土器片を、企画展出展のため専門家が鑑定したところ縄蓆文土器の破片であることが分かった。それぞれ中サイズの甕(かめ)か壺(つぼ)の破片とみられる。

 縄蓆文は、土器の成型技法によって生まれる表面模様の一つで、朝鮮半島三国時代(4〜6世紀)の韓式土器の特徴的技法。縄蓆文土器を焼いた窯は日本ではほとんど見つかっておらず、確認された土器片が甕か壺といった実用品であることから、市教委では渡来人が直接持ち込んだものと判断している。

 県内では、播磨地域を中心に約20例の縄蓆文土器の出土が確認されているが、アメノヒボコの伝説の舞台となった但馬地域では、朝来市で1例が確認されている程度で、極めて少ないのが現状だった。

 今回の発見で北但馬地域でも確実に朝鮮半島系の渡来人の存在を示す資料が得られたことになり、市教委では今後の研究に期待を寄せている。

 今回確認された縄蓆文のある土器片は、11日から9月6日まで、同市日高町の但馬国府・国分寺館で開かれる展覧会「アメノヒボコの考古学」(県立考古博物館など主催)で展示する。

「アメノヒボコ」伝説 色鮮やかに 高校生らが表現

2009/06/27 神戸新聞

アメノヒボコの但馬での奮闘ぶりを描いた高校生=豊岡市出石町下谷、出石高校

 5〜6世紀に朝鮮半島から渡来、円山川河口(豊岡市)に現在の豊岡盆地を切り開いたとされるなど、数々の伝説を残しながら、実像は不明な「天日槍(アメノヒボコ)」。ゆかりの深い但馬と播磨の高校生が、自由な発想でその波乱の“生涯”を描いた絵と、兵庫県内で見つかった渡来系出土品を並べて紹介する企画展が7月11日、同市日高町の但馬国府・国分寺館で始まる。題して「アメノヒボコの考古学」。「ヒボコ伝説から、考古学への関心、古代への夢を膨らませてほしい」と関係者は話す。(大山伸一郎)

 ヒボコは、居を構えた但馬に大陸の進んだ技術を伝えただけでなく、播磨国風土記にも登場。兵庫を舞台にさまざまな伝説を残している。

 ヒボコがまつられている出石神社(同市出石町)に近い出石高校美術部の生徒9人は、ヒボコ伝説について、あらためて学習を重ねた。地元有力者の娘と結婚し、度重なる水害に悩んでいた但馬のために治水工事に取り組んだヒボコの功績や奮闘ぶりを、パステル画で表現。同神社の祭神となるまでを、B3判の木版9枚に描いた。

 播磨での伝承を中心に描いたのは、播磨南高校(播磨町)の芸術類型美術専攻2年9人。播磨国風土記によると、ヒボコは播磨の神・伊和大神(いわのおおかみ)と現在の宍粟市の土地をめぐって争い、その結果、但馬と播磨の境界が定まったという。これらの伝説などを県立考古博物館(同)の学芸員から学び、同サイズのアクリル画に仕上げた。

 一方、高校生の作品と一緒に紹介される出土品は、豊岡市出石町など県北部などで見つかった弥生時代から古墳時代の渡来人の足跡をうかがわせる品々。日本を目指すヒボコの船団を描いたのではないかとされる「船団線刻画」や大陸から朝鮮半島を経由して渡ってきたという「方銘四獣鏡(ほうめいしじゅうきょう)」、当時の日本では高度な技術だった「初期須恵器」など300点以上を展示する。

 ヒボコが大蛇と戦う様子を描いた出石高校の戸田早苗さん(16)は「見本となるものがないので難しかったけど、その分イメージを膨らませて楽しく描けました」と満足した様子。7月12日の講演会で考古学の視点からヒボコを語る瀬戸谷晧・豊岡市出土文化財管理センター長は「脚色もある伝説と、とっつきにくい考古学。どちらも想像力が大事。企画展でヒボコや考古学の魅力を感じとってほしい」と話す。同展は9月6日まで。

 【天日槍(アメノヒボコ)】 古事記や日本書紀によると、新羅国の王子だったアメノヒボコは瀬戸内を通って播磨、近江、若狭を経て但馬に入ったとされる。播磨先住の神と土地を争い、宍粟市には「奪谷(うばいだに)」と名の付いた土地もある。大陸の土器作りや製鉄文化をもたらし、かつて泥の海だった豊岡盆地から水を日本海に流し出す掘削作業を行ったとされ、今でも出石神社ではそれにちなむ祭り「幟(のぼり)まわし」が5月に開かれる。

「古代史写 真紀行 天日槍と渡来人の足跡」 チョチヒュン著

2006年02月06日「神戸新聞」

天日槍の足跡たどる 大阪の在日カメラマン5年かけて写真集

 「古事記」「日本書紀」で古代朝鮮からの渡来人として登場する天日槍(あめのひぼこ)の足跡をたどる写 真集「古代史写真紀行 天日槍と渡来人の足跡」を、大阪の在日コリアンのカメラマン、チョチヒュンさんが出版した。今も各地に残る史跡を訪ね、日本と朝鮮の奥深い関係を見つめ直す力作だ。

 天日槍とは妻を追って古代日本に渡来した新羅の王子とされ、九州北部から瀬戸内海を経て近畿周辺に至り、兵庫県の但馬地方に居を定めたと伝えられる。優れた技術と文化を持った渡来人集団の神格化された象徴とみられ、それをまつる出石神社をはじめ、各地に神社や史跡が残る。  チョさんは五年をかけそのルートをたどり、同神社などを撮影した約百枚のカラー写 真と、故事を説明する文章で写真集を編集。「日本の風景に色濃く残る古代朝鮮の面 影を、取材の過程でリアルに実感した」と語る。

 チョさんは一九三八年に韓国・済州島で生まれ、十歳で日本へ渡った在日一世。当初の十年を過ごした"在日の街"大阪・猪飼野は、古くは「日本書紀」に名が登場する渡来人の集落だった。チョさんはこの街の風景を撮った「猪飼野」や、被差別 部落に暮らす人々の表情を取材した「部落」などの写真集で知られる。

 「日本の歴史の裏側には常に、ある集団や民族への差別がある。だが、東大寺の大仏が渡来人の手によるのは明らかなように、彼らは日本の文化に大きな役割を果たした。日本の中の朝鮮の存在を、渡来人の歴史に確かめたいと考えた」  猪飼野という地名は、約三十年前に町名変更で消滅した。だが近くには、天日槍が後を追った妻をまつったとも伝えられる比売許曾神社もある。「地名とは物を伴わない遺跡。地名の抹消は、いわば歴史の抹殺だ。だが土地には、消すことのできない記憶がある」

 写真集には古代史研究の上田正昭氏が「渡来の人びとの文化を、あざやかによみがえさせる」と記した序文を寄せた。  チョさんは「今の『在日』も、近代百年ばかりでなく、古代から続く渡来人の歴史に位 置付けられることを、若い世代に伝えたい」と話している。


右京同胞長寿会「歴史探訪ワークショップ

2008.06.20 朝鮮新報

いつまでも元気に勉強

 6日、京都・右京同胞長寿会の「歴史探訪ワークショップ」が行われた。

 歴史探訪ワークショップは、古代朝鮮半島から日本に渡来し活躍した秦氏と関連する史跡を、林春基・右京同胞長寿会会長の説明を交えながら歴史の勉強をしつつ散策し、いつまでも健康で長生きしようと企画された。

 この日は、京都市西京区上ノ山古墳、松尾大社前の洛西用水竣工記念碑、桂川畔の一之井堰碑、京都市右京区の太秦広隆寺、天塚古墳等を巡った。桂川畔での昼食時には、参加者たちは朝鮮の歌を歌いながら楽しいひとときを過ごした。【右京分局】

景教

2007年08月30日 lifestream community

 日本にキリスト教が伝来したのは、16世紀のフランシスコ・ザビエルから、と学校では教わります。日本の伝統宗教と異なる西洋の宗教が、近世の頃になって初めて南蛮の渡来人によって伝えられた、という図式です。

 私はクリスチャンになった頃、神様は、どうして16世紀に至るまで日本を放っておかれたのだろうと、疑問を持っていました。創造主なる神様は、すべての人を愛し、「全世界に神の国の福音を伝えなさい」と命じられました。1世紀の出来事が16世紀になって初めて伝わるというのは、いくら昔の話でも、時間がかかり過ぎのように思えます。

 実は多くの人々が、16世紀よりもずっと以前に、キリスト教が伝来していた可能性を指摘しています。それは、中国に伝来したネストリウス派というキリスト教で、「景教」とも呼ばれます。

 ローマ帝国の国教とされたキリスト教会には、5人の総主教が置かれました。そのうちの一人、コンスタンティノポリスの総主教ネストリウスは、神学論争に破れ、431年のエペソ公会議において異端とされ、追放処分になります。彼は、マリアを「神の母」と呼ぶことに反対したということですから、今のプロテスタントの立場に近いのではないでしょうか。

 シリア経由でエジプトに流されたネストリウスは、そこで客死しますが、彼の教えはシリアのクリスチャンたちに受け継がれ、ササン朝ペルシアに広まり、その後、インド、中央アジア、シベリア、中国まで伝えられたようです。

 中国に伝来したのは、唐の太宗の時代で635年。太宗は宣教団を宮中に歓迎し、布教を認め、3年後には長安に教会が設立されました。当初、「波斯経教(ペルシア教)」と呼ばれた教えは、後に「大秦景教(ローマの輝ける宗教)」と改称され、教会名も「波斯寺」から「大秦寺」となります。781年には、中国全土に広がった景教流行の記念碑が長安に建立されました。真言宗の開祖・空海を含む遣唐使たちも、景教に接する機会があったのではないかと言われています。

 日本に伝来した可能性が高いのは、736年、聖武天皇・光明皇后の時代です。景教徒で医者だった李密翳(りみつえい)というペルシア人宣教師が来日し、皇室に景教を伝えたようだとのこと。李密翳は天皇から位が授けられ、その後、景教用語が宮中の記録に使われるようになったり、皇后がたいへん熱心に福祉活動に力を注いだりしているそうです。(ただ一般には、これは仏教への篤い帰依によるものと理解されていますね。)

 もしこの景教の伝来が事実なら、8世紀には、日本にキリスト教が伝わっていたことになります。それより以前に渡来した人々の中に、景教徒がいたと主張する人たちもいます。正式な記録には残っていないけれども、ひょっとしたら私たちの知らないところで、神様は日本に使者を遣わし、福音を伝えていたかもしれませんね。

 「イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』」(マルコ16:15、新改訳第3版)

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