TOPIC No.9-12 宗像大社/「海の正倉院」沖ノ島(「お言わずさま」と呼ばれた島)

01 沖の島・祭祀遺跡 by邪馬台国大研究
02 神の島の祭り〈前編〉宗像大社沖津宮現地大祭(2002年版)
03 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群 byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
04 宗像大社 byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
05 宗像大社
06 宗像大社神宝館
07 沖の島と関連遺産群
08 沖の島を世界遺産に
09 「宗像大社と沖ノ島」〜世界遺産登録への是非を問う〜
10 神の島・沖ノ島に行く
11 むなかたヒストリー探検隊 -沖ノ島特集-
12 宗像(胸形・宗形)氏
13 宗像三女神
14 宗像三女神  byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
15 宗像三女神と国生み物語
16 宗像大社「みあれ祭」
17 沖ノ島、一般の上陸全面禁止へ 現地大祭を中止 2017年07月15日 朝日新聞デジタル


沖ノ島の沖津宮 - 多紀理毘売命(たきりびめ) 別名 奥津島比売命(おきつしまひめ)

大島の中津宮 - 市寸島比売命(いちきしまひめ) 別名 狭依毘売(さよりびめ)

田島の辺津宮(へつみや) - 多岐都比売命(たぎつひめ)

この三社を総称して宗像三社と呼んでいる。

 玄界灘に浮かぶ沖ノ島に沖津宮があり、田心姫を祭っている。この島には古代の祭祀跡があり、出土品は一括して国宝に指定されている(宗像大社所有)。

『古事記』に「この三柱の神は、胸形君等のもち拝(いつ)く三前(みまえ)の大神なり」とあり、胸形氏ら海人集団の祭る神であった。 (byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 「魏志・倭人伝」に、「倭の水人の男子は、大人も子供も顔や身体に文身していた」とあるが、「胸形」とは、胸に文身(入墨)をしている意だともいう。阿曇氏や久米氏は目の周りだったが、部族によって、入墨の場所が違うのかもしれない。

 また、「ムナカタ」は「ミナカタ」、つまり「水辺」の意味とも言われる。 そうなると、出雲の国譲りで諏訪に追われた建御名方神(たけみなかたのかみ)は、宗像氏ということになるかもしれない。

 実際、宗像氏の祖神である大国主命は、建御名方神の父であり、通説では建御名方神の母は、越の沼河比売命と言われるが、宗像三女神の一人、多紀理毘売命なのかもしれない。

 海人の行動範囲を考えれば、同神と言うことも出来るのではないかと思う。 「防人日記」によると、宗像大神が天降り、青い玉を奥津宮に、紫の玉を中津宮に、八咫の鏡を辺津宮に、それぞれ御神体として納め祀ったという。越の沼河比売命は、翡翠の産地、糸魚川の姫神であり、「玉」というの共通点がある。実際に、対馬の志多留の貝塚から発見された翡翠は、糸魚川産と断定されており、沖ノ島で発掘された勾玉も、糸魚川産の可能性がある。

 宗像氏には、初期には典薬や医師が多いが、中世には蒙古襲来などで活躍した武士が多く、足利尊氏や大内義興に属して活躍している。(by宗像(胸形・宗形)氏)


「海の正倉院」修復国宝25点公開 沖ノ島

2018.3.21 産経WEST

 宗像大社(福岡県宗像市)は21日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に昨年登録された沖ノ島での出土品のうち、修復作業を終えた金銅製の琴や馬具など国宝計25点を報道陣に公開した。

 代表的なものは「金銅製雛型五弦琴」で長さ約27センチ、幅約7センチ。7世紀ごろに行われた祭祀のささげ物とみられる。裏側に亀裂が見つかり、委託業者が検査した上で、さび取りや補強を施した。

 宗像大社は、平成27年度から10年かけて劣化が激しい出土品の修復を進めている。29年度までの3年間で275点の作業が完了。修復後の亀裂などを抑えるため、シリコーンで型取りした専用台も製作したという。

 葦津幹之権宮司は「世界遺産登録によって(出土品は)世界の神宝となった。今後も修復作業を継続したい」と強調した。修復品は7月に宗像大社内で一般公開される。

 沖ノ島では4〜9世紀に大陸との交流成就を祈る祭祀が行われた。その奉納品などが手つかずで残されていることから「海の正倉院」とも呼ばれ、出土品約8万点が国宝に指定されている。

沖ノ島、一般人の上陸全面禁止へ 世界遺産登録/h3>2017/7/15 日本経済新聞社

 宗像大社(福岡県宗像市)は15日、世界文化遺産に登録された沖ノ島(同市)で年に1回公募で選ばれた人が上陸して参拝できる「現地大祭」について、来年以降は上陸を認めないで実施することを決めた。登録により資産の一層の保護が必要になったことなどを受け、規制を強化する。

 沖ノ島は宗像大社の社有地で島全体がご神体とされ、上陸は禁じられている。5月の現地大祭時のみ、全国から選ばれた約200人が島内の宗像大社沖津宮に参拝できることになっていた。規制強化で島への一般人の上陸は全面的に禁止されることになる。

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は9日の世界遺産登録の決定時に、島への不法上陸や接近について対策を取るよう勧告しており、大社が対応を検討していた。沖津宮の社殿の改修工事を実施することもあり、一般人の受け入れを見送ることにした。

 大社は九州本土にある宗像大社辺津宮(同市)などで現地大祭の代わりに、一般参拝が可能な神事を行うことも検討している。

【沖ノ島・世界遺産へ】神宿る海の正倉院 厳格な禁忌、守られた宝物

2017.5.6 産経ニュ−ス

 純金製指輪やカットグラス片。古代の貴重な舶載品は千数百年もの間、絶海と禁忌に守られた島に眠っていた。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産への登録が勧告された「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」は、沖ノ島で始まった古代祭祀(さいし)の変遷を物語る貴重な遺跡だ。

■たたりの言い伝えも

 福岡県宗像市沖約60キロ。玄界灘のほぼ中央に位置する沖ノ島は日本と朝鮮半島・大陸を結ぶ航路の守り神として信仰されてきた。入島制限など厳格な禁忌に守られ、おびただしい数の奉献品が手つかずで残った。

 現在も島自体が宗像大社の「沖津宮」。女人禁制で知られ、一般の男性も年に一度、200人に限り参拝が許される。10日交代で常駐する神職1人も含め、上陸前に海で心身を清める禊(みそぎ)をしなければならない。

 地元漁師が停泊しても「おいわずさま」「一木一草たりとも持ち出してはならない」という掟(おきて)が守られる。島で見聞きしたことを口外すれば、たたりが起きるという言い伝えもある。

 「子供のころその島の名前は知らなかったが、玄界灘の沖合に“宝の島”があるということはお伽話(とぎばなし)のように聞かされていたものである」(小学館「神の島 沖ノ島」)

 福岡県出身で作家、写真家の藤原新也さんは著書で60年以上前のエピソードを紹介している。実家の旅館に泊まった行商人が高熱を発し、沖ノ島の土器を手放すまで苦しみ続けた。土器は、島から持ち出した漁師の船に魚が揚がらなくなったため、行商人が譲り受けたものだったという。

■再興尽力した“海賊”

 “宝の島”が広く知れ渡るようになったのは、昭和29〜46年に実施された発掘調査だ。作家、百田尚樹氏の「海賊とよばれた男」のモデルとなった出光佐三氏が中心となり、宗像大社再興資金の獲得に向け、由緒を明らかにする神社史編纂(へんさん)の一環として行われた。

 沖ノ島の祭祀は岩の上や陰などで行われ、当時貴重だった鏡が岩の間に供えられた状態で多量に発見された。岩陰の枯れ葉の下からは海を越えてもたらされた奉献品が当時のまま見つかり、大社の神域にある神宝館に収蔵された。「海の正倉院」と呼ばれる由縁だ。

 宗像大社広報担当の権禰宜(ごんねぎ)、鈴木祥裕さんは「1千年先まで守るには、祈りの場であり人が入る島ではないと不特定多数に伝えられるかが課題」と話した。

出土品8万点が国宝に 沖ノ島が「海の正倉院」と呼ばれる理由

2015.09.30 週刊ポスト2015年10月9日号

 2017年の世界遺産登録の候補地として注目を集める福岡の玄界灘の孤島・沖ノ島では、4世紀頃から9世紀末まで盛大な祭祀が繰り返されてきた。戦後、沖ノ島への本格的な学術調査によって約8万点の奉納品が出土し、すべてが国宝に指定された。その数もさることながら、種類もまた多岐にわたった。

 沖ノ島からは銅鏡、鉄剣、勾玉など、古代の祭具が数多く発見され、この島が国家あげての祭祀場だったことを物語っている。純金製の指輪や金銅製の装飾品、ペルシアのカットグラス碗など、アジア大陸から船でもたらされた宝物も少なくない。

 また、様々な土器や人形、舟形も含まれ、当時の日本と世界を結ぶ証として、沖ノ島は「海の正倉院」と呼ばれようになった。現在、これらの宝物は九州本土の辺津宮にある「神宝館」に所蔵、展示される。

 驚くべきことは、発見された宝物は「発掘」されたのではなく、表面採集──置かれたものを拾い集めたにすぎないという事実である。今も島を歩けば散乱した土器の破片を目にすることができる。そして、想像を超える数の宝物が、まだ土中深く眠るといわれている。

立ち入り禁止ゾーン潜入SP!!

2010年04月01日放送分 奇跡体験!アンビリバボー:Fuji TV

 次の立ち入り禁止スポットは、福岡県の沖ノ島。玄界灘の中心に位置する絶海の孤島・沖ノ島も、一般人はほとんど立ち入ることは出来ない。我々は、福岡県にある、沖ノ島の所有者である宗像大社を訪れ、その理由を聞いた。

 なんと沖ノ島は、島全体がご神体として崇められている、神の島であるという。近年の調査で、沖ノ島の古代遺跡からから、8万点もの神宝が発見されており、海の正倉院と呼ばれている場所だった。実は、沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮、宗像市の辺津宮、三つの総称が『宗像大社』であり、住人のいない沖ノ島で、宗像大社の神主が交代で一人で島を守り、一般人は入ることが出来ないという。

 無数の国宝に囲まれた、霊験あらたかな神の島、沖ノ島。神社の関係者以外は立ち入り禁止であり、一般人が入ることが難しいという。我々スタッフも島に上陸し、取材することは不可能だと思われた・・・だが。その日、我々スタッフは、玄界灘を行く船の上いた。

 実は、何度か交渉を重ねた結果、沖ノ島上陸の可能性が浮上。我々アンビリバボー取材班は、福岡のとある港から60キロ離れた、沖ノ島を目指していたのである。

 島自体がご神体とされる沖ノ島。荘厳な空気が漂っている。だが、島の入り口にある鳥居をくぐり、ご神体である沖津宮に行くには、ある過酷な条件をクリアしなければならなかった。

 衣服を脱ぎ始めるスタッフ。生まれたままの姿となり・・・そして、海の中へと入っていった。島に入るためには、裸になり身を清めなければならなかった・・・それは、神職であっても欠かすことの出来ない沖ノ島の厳重な掟だった。

 ついに我々アンビリバボースタッフは、普段、一般人が中々入ることが出来ない、沖ノ島に上陸、沖ノ島の神が祀られている沖津宮へと向かった。だが・・・沖津宮への道のりは遠かった。 400段以上の急な石段を登り・・・我々はついに、霊験あらたかな神の島、沖ノ島の信仰の中心である沖津宮へ到着した。

 まずは沖ノ島に上陸を許してくれた、沖津宮の神へ参拝。神の島である沖ノ島に上陸した者は、キチンと礼儀を尽くさなければならないのだ。

 さらに沖ノ島には、それ以外にも数々の厳しい掟があった。島にあるもの・・・木や草、石なども一切持ち出しが禁止。さらに、なんと、沖ノ島は女人禁制の島だった。

 女性は、海で身を清めたとしても、沖ノ島に入ることを禁じられているのだ。一体それはなぜなのか?女人禁制の理由、それは沖ノの神様と深い関係があった。沖ノ島の歴史は古く、4世紀頃から、国家の安泰と海路の安全を祈って、大和朝廷による国家的祭祀がとり行われてきた。沖津宮周辺にある23カ所の祭祀遺跡には、古代祭祀の痕跡が残されており、今も古代の土器などが、そこに見ることができる。 1954年から、沖ノ島の大規模な発掘調査が行われ、およそ8万点にも及ぶ貴重な神宝が出土、それら全てが国宝に指定されている。海の正倉院とも呼ばれる沖ノ島。そんな貴重な神の島だからこそ、厳しい掟によって立ち入りが制限されているのだ。

 だが、女性の立ち入りが禁止されているのは、なぜなのか?沖ノ島が女人禁制の理由・・・それは、沖津宮に祀られている神様が、田心姫神(たごりひめがみ)という、女性の神だったからである。近年、世界遺産の暫定リストに入り、その重要性が世界的にも認められ始めている沖ノ島。厳格な掟によって守り続けられてきた神の島は、今もその神秘性を失うことなく、存在していた。

沖ノ島 古代交流の証人

2010年03月15日 asahi.com マイタウン福岡・北九州

 ■九州歴史資料館長/西谷 正さん(71)

 2009年にユネスコの世界遺産への推薦に向けた国内暫定リストに「宗像・沖ノ島と関連遺産群」が記載され、1年が過ぎた。この間、県や宗像市、福津市は専門家会議を設け、登録に向けて議論を続けている。一連の遺産にはどんな価値があるのか、世界遺産登録に向け取り組むべき課題は何か。専門家会議の委員長、西谷正・九州歴史資料館長に話を聞いた。

 ――遺産の価値、魅力は

 沖ノ島の祭祀(さい・し)跡は、大和政権が、中国や韓国と国家レベルで交流する際に、航海安全や対外交渉の成功を祈る国家祭祀の場所だった。祭祀跡から見つかった奉献品約8万点は、金の指輪やササン朝ペルシャのものとみられるカットグラスの破片など、どれも地方豪族レベルでは手に入らない超一級品。当時の中央政権の強い関与があったことが分かる。古代東アジアの壮大な国際交流を知る貴重な手がかりでもあり、人類共通の遺産として世界遺産にふさわしい。

 ――沖ノ島は今現在も信仰が根付いている

 島は今も女人禁制で、かつて島で見聞きしたことは外に絶対漏らしてはいけなかったほどだ。島内は、人の手が入っていない原生林や祭祀に使われた巨大な岩があるなど、神聖な雰囲気だ。これまで古代東アジアの交流史を研究し、その中で島の価値は知っていたつもりだが、現場に行くたびに、島の信仰や遺産を守り、後世に伝えなければとの思いになる。

 ――暫定リスト記載後、専門家会議が発足した。会議の役割は何か

 世界遺産の登録実現に向けて、遺産群の学問的な検討を6人の委員で行い、国がユネスコの世界遺産委員会に提出する推薦書に反映させる。遺産の名称や構成遺産を何にするか、遺産のセールスポイントをどこに絞るかといった議論を行うのだが、まだ意見集約の段階で、登山で言えば1、2合目。遺産名でさえ、今後の議論で変わる可能性だってある。

 ただ、会議のメンバーは九州国立博物館の三輪嘉六館長や人間文化研究機構の金田章裕機構長らで、各分野の国内ではこれ以上求められない最高のスタッフが集まっている。最終的には、有意義な結論を得られるだろう。

 ――今年1月に福岡市であった遺産に関する国際シンポジウムは好評だった

 韓国、中国などから国を代表する学者が集まり、遺産群の価値、重要性を認識してもらったほか、世界遺産の登録に向けた前向きの提言もあり、登録に追い風を感じた。

 ――印象に残った話は

 中国にある中国社会科学院考古研究所の所長の話は面白かった。航海安全を願う中国の海の女神「媽祖(ま・そ)」の信仰を取り上げ、沖ノ島の海洋信仰と比較。いずれも航海安全を願う点で共通しているが、媽祖信仰が民間信仰なのに対し、沖ノ島は信仰が国家レベルまで発展した事例だと指摘した。これにより、沖ノ島の信仰の特異性が浮かび上がった。

 今後、同様に海外との比較研究を通じて、遺産群の独自性を示し、世界遺産に値するというメッセージを示していく必要があるだろう。

 ――シンポジウムには700人近くの市民が集まった。

 県民の関心の高さをうかがわせる。世界遺産に提案するのだから、国民的な高い支持と認知度は必要。ただ、そういう意味では全国的な知名度はまだまだ低い。専門家会議で研究を進める一方、今回のような国際シンポジウムや奉献品の展示会などを首都圏や関西で開き、国民の関心や理解を高める必要がある。 (聞き手・河村能宏)

 ◇ にしたに・ただし ◇

 九州大名誉教授(東アジア考古学)。1938年、大阪府生まれ。京都大大学院を修了。奈良国立文化財研究所、福岡県教委を経て、九州大へ。2002年退官。08年から九州歴史資料館長。著書に「韓国考古通信」「魏志倭人伝の考古学」などがある。

 ・・宗像・沖ノ島と関連遺産群・・

 玄界灘に浮かぶ絶海の孤島、沖ノ島の祭祀跡と、その信仰を継承する宗像大社、祭祀を支えた宗像(胸形)氏の古墳群などで構成する。沖ノ島は4〜10世紀に、中国や韓国との対外交渉の際の航海安全などを願う国家的祭祀の舞台だったとされる。祭祀に供えられた三角縁神獣鏡や金銅製龍頭など約8万点の奉納品はすべて国宝。「海の正倉院」とも言われている。

第62回式年遷宮記念 伊勢神宮と神々の美術

2009年09月19日-11月09日 大阪歴史博物館−特別展

 1.海の正倉院、沖ノ島

 2.沖ノ島の土器

 (略)

 5.国宝 金銅高機をめぐって

海の正倉院・沖ノ島 守り継がれる神秘の島

2009.08.14 MSN産経新聞

 玄界灘の中央に浮かぶ絶海の孤島・沖ノ島。「海の正倉院」と呼ばれるこの島から出土した5つの国宝が、東京・上野の東京国立博物館で開催中の「伊勢神宮と神々の美術」展で公開されている。中でもミニチュアの織機「金銅高機(こんどうたかはた)」は伊勢神宮の古神宝の高機に類似していることで知られている。伊勢神宮とのゆかりを求め、沖ノ島に足を運んだ。(石坂太一)

 沖ノ島は福岡県宗像(むなかた)市の北西約60キロの洋上にある東西約1キロ、南北約500メートル、周囲約4キロの小島。同市の神湊(こうのみなと)港から小舟で約1時間。垂直に切り立った断崖(だんがい)が四方を囲み、外界からの訪問者を拒む。

 伊勢神宮に祭られている天照大神(あまてらすおおみかみ)の神勅(しんちよく)により田心(たごり)、湍津(たぎつ)、市杵島(いちきしま)の三姫神が宗像に降り立ったとされ、それぞれ沖ノ島の沖津宮(おきつみや)、同じ玄界灘にある大島の中津(なかつ)宮、本土の辺津(へつ)宮に祭られ、宗像大社と総称されている。

 沖ノ島には、神職14人が1人ずつ10日交代で社務所に常駐する以外、住民はいない。「女人禁制」「一木一草たりとも島外への持ち出し禁止」などの掟(おきて)があり、一般人の入島は厳しく制限されている。島に着くと、神職、吉野理(ただし)さんに「まず身を清めてもらいます」と言われた。島に上陸する者は社務所脇の浅瀬で禊(みそぎ)をするのが決まりだという。

 禊を終えて島中央へ。参道脇の森にある8〜10世紀の祭祀(さいし)遺跡「1号遺跡」(通称)には、多くの土器の破片がちらばる。島出土の遺物約8万点はすべて国宝に指定されており、「海の正倉院」の異名もうなずける。

 さらに進むと、高さ10メートルはある巨大な岩群が出現する。4〜10世紀まで祭祀が行われたそうで、岩と岩の間に沖津宮の社殿がひっそりとたたずんでいた。近くでは8世紀に作られた「金銅高機」も出土した。

 社殿は10畳ほどの広さで、天照大神の神勅「奉助天孫而(あめみまをたすけまつりて)、爲天孫所祭(あめみまにいつかれよ)」が記された額が掲げられている。

 吉野さんが献魚を供え、国家安寧を祈る「日供祭(につくさい)」が始まると、祝詞が社殿や周囲の巨岩にこだました。「掟を守ることが、島を守ることにつながる」と吉野さん。神秘的な雰囲気に心を奪われ、何度も社殿を振り返りながら参道を下りた。

宗像大社:127代宮司に高向さん 「沖ノ島の禁制に理解を」 /福岡

2009年07月17日 毎日新聞〔福岡都市圏版〕

 交通安全の神様として知られる宗像市田島、宗像大社の神島定宮司(64)の後任に権宮司、高向(たかむく)正秀さん(60)が就任した。今月1日付の就任で、10日、神社本庁(東京)での辞令交付式に続き、皇居に参内して記帳した。

 高向新宮司は延喜14(914)年に就任した初代宗像大宮司、宗形清氏から数えて127代目に当たる。73年皇学館大文学部卒。77年に伊勢神宮から宗像大社の権祢宜(ねぎ)に就いた。広報課長、祭儀部長などを経て03年4月から権宮司を務めていた。

 宗像大社は田心(たごり)姫神ら宗像3女神を祭る総本宮で全国に約6400社の末社がある。年間の参拝客は約180万人。大社が所有する沖ノ島などは世界遺産登録を目指している。

 高向新宮司は「沖ノ島の女人禁制など神代の昔から守り続けてきたおきてを壊すことはできない」と理解を求めている。【中原剛】

世界遺産:沖ノ島を登録に 推薦書の素案作りへ−−専門会議初会合 /福岡

2009年06月18日 毎日新聞 〔福岡都市圏版〕

 世界遺産登録を目指す「宗像・沖ノ島と関連遺産群」の第1回専門家会議が17日、福津市文化会館であった。コンセプト、構成資産や名称などの課題、問題点について共通認識を深め、5、6年かけて推薦書の素案を作ることなどを確認した。

 会議は6人で構成。委員長に西谷正・九州歴史資料館長(考古学)、副委員長に佐藤信・東京大大学院教授(古代史)を選んだ。

 会議後の会見で西谷委員長は「世界の人に分かりやすいコンセプトにする必要がある」とした上で「国家的祭祀(さいし)の場の沖ノ島と、それを支えた古墳群を同列にするとピントがぶれる。簡潔な名称を考えるべきだ」との意見が出たことを明かした。

 専門家会議は今後、年2回のペースで開く。10年春に国内外の専門家を招いてシンポジウムを開催し、海外から見た沖ノ島の祭祀遺跡の位置付けや世界遺産としての普遍的価値などを検討する予定。【中原剛】

最新の研究成果基に描く 「古代の福岡」発刊 アクロス福岡文化誌第3弾 20日から連続講座

2009年06月17日 西日本新聞朝刊

発刊されたアクロス福岡文化誌3「古代の福岡」

 福岡の地域・伝統文化の発掘や保存に取り組むアクロス福岡文化誌編纂(へんさん)委員会(会長・武野要子福岡大名誉教授)が、文化誌シリーズの第3弾となる「古代の福岡」(海鳥社)を発刊した。第一線の研究者たちが、大陸と日本をつなぐ拠点・福岡の古代史を実証的かつダイナミックに描く。

 本編は「倭人(わじん)伝のクニグニ」「王たちの交流と古墳群」「西都・大宰府と対外関係」の3部構成。邪馬台国の謎をはじめ、中国の史書「魏志倭人伝」に登場するクニの姿や神秘的な沖ノ島祭祀(さいし)(宗像市)、栄華を誇った大宰府の影響力などに、文化財調査の最新の成果を踏まえて迫る。

 総説「古代福岡の歩みと対外交流」を西谷正・九州歴史資料館館長が執筆、巻末の「福岡考古学者列伝」なども興味深い。A5判、オールカラーで176ページ。1890円。県内の主要書店で販売している。問い合わせは、アクロス福岡文化広報グループ=092(725)9115。

            ◇   ◇

 「古代の福岡」の刊行に合わせ、アクロス福岡は連続講座「古代福岡に実った稲穂」(3回)を20日に開講する。案内役は小郡市埋蔵文化財調査センターの山崎頼人技師。社会や文化を劇的に発展させ、魏志倭人伝のクニの形成にも結び付いた稲作伝来の過程を現地ツアーを交えてたどる。

 第1回は20日午後2時からの「稲穂は実ったのか‐弥生水田の発見と稲作の技術を探る」。稲作がどのように伝わり、広まったのかを具体例を通して考える。第2回は7月18日午後2時からの「稲作伝来による社会の変化‐近年の調査からみた環濠(かんごう)集落像」。稲作がもたらした水や土地をめぐる争い、貧富の差に起因する戦いの実像に考古学的手法で迫る。

 第3回は9月13日午前9時出発のツアー「稲作の広がりと『倭人伝』への道程」。小郡市埋蔵文化財調査センター、弥生時代の環濠集落跡で国史跡の平塚川添遺跡(朝倉市)などを巡る。

 第1、2回はアクロス福岡セミナー室(福岡市中央区天神)で、受講料1000円。第3回は日本銀行福岡支店(同)前集合で、バス代込みの受講料4000円。個別の参加も可。申し込み・問い合わせは、アクロス福岡文化観光情報ひろば=092(725)9100。

年一度の上陸許可、沖ノ島参拝に全国から260人

2009年05月28日 読売新聞 YOMIURI On-Line

海でみそぎを行い身を清める参拝者=西田忠裕撮影

 世界文化遺産の国内候補地「宗像・沖ノ島と関連遺産群」の構成遺産の一つ、宗像市の沖ノ島で27日、宗像大社沖津宮の現地大祭が行われ、全国から約260人が参拝に訪れた。

 沖ノ島は本土の沖約60キロの玄界灘に浮かぶ周囲約4キロの孤島で、古来、海上交通の安全を祈る祭祀(さいし)が営まれた。今も女人禁制で、年一度、この大祭に限って参拝客の上陸が許される。

 参拝客は同日朝、同市の大島を出港し、1時間半かけて島に渡った。直ちに裸になって海に入り、身を清めるみそぎを行った後、沖津宮で祈りをささげた。初めて参拝した岐阜市の設計会社社長、酒井稔さん(45)は「史跡を見ると当時の祭事の様子が目に浮かぶようでした」と話していた。

沖ノ島近海「日本海海戦」104年 砲声の記憶 今なお

2009年05月27日 西日本新聞夕刊

沖ノ島の神職だった父・市五郎さんの写真を見つめる佐藤千里さん

福津市渡の東郷公園に立つ「日本海海戦紀念碑」

 1905(明治38)年、玄界灘に浮かぶ沖ノ島(福岡県宗像市)近海で日本とロシアの艦隊が戦った「日本海海戦」から27日で、104年を迎えた。海戦を同島から民間人として唯一目撃した少年がいた。司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に実名で登場する故佐藤市五郎さん(1889‐1974)。その三男千里さん(84)が今、同島を望む宗像市大島に住んでいる。海戦の記憶と寄り添い続けた父親の“その後”を千里さんに聞いた。

 ●目撃者の三男 佐藤千里さん 平和への願い継ぐ

 市五郎さんは大島生まれ。宗像大社(同市田島)の神域である沖ノ島で神職に仕えていた時、海戦を目撃した。小説には「満18歳」とあるが、実際は16歳だった。

 その日の光景は、市五郎さんが日課として書いた社務所の日誌に詳しい。天候は「西風強曇天霧霞(かすみ)」。悪天候の中、午後から「砲声が盛んに聞こえ」、島の西方をロシアのバルチック艦隊や日本の艦船が通過、ロシア艦船2隻が火災を起こした様子などが生々しく記されている。

 沖ノ島の高台には、海軍が監視用の望楼を設置し、兵隊が駐在していた。市五郎さんは兵隊に「望楼に来るな」と言われ、大きな木に登って艦船を見た。「強風で船と通信をする信号旗が吹っ飛んだ。兵隊さんに頼まれ捜し回った」と話していたという。

 海戦後は、警察官として福岡県内で勤務し、各地の学校に招かれては国威発揚のため目撃談を語った。44年、家族と大島に帰郷後、漁協職員だった千里さんに「沖ノ島で生活したい」と語り、57年ごろ、神職として願いをかなえた。

 そのころ、日本海海戦の日本人戦死者を毎年慰霊してきた沖ノ島の現地大祭は、日露双方の戦死者の慰霊祭に変化していた。

 祭典後の直会(なおらい)で海戦の目撃談をしばしば語ったという市五郎さんについて、千里さんは「戦前とは異なり戦意高揚の内容を嫌い、平和への願いを伝えたいようだった」と振り返る。「目の前で見た(海戦の)ことを残したい。沖ノ島に顕彰碑を建てたい」。胃がんで亡くなる前、市五郎さんはそう話した。

 千里さんは最後に、玄界灘に臨む福津市渡の東郷公園にある「日本海海戦紀念碑」(34年建立)のスプレーによる落書きに触れた。「恥ずかしい話。戦争の記憶は風化させたら駄目。勝ち負けの問題ではなく、国を守るため戦わざるを得なかった人たちには、いつまでも感謝の念を持たないと」 (宗像支局・吉丸宣孝)

「海の正倉院」に開発余波? 福岡空港海上案に懸念の声 世界遺産目指す沖ノ島

2009年03月17日 (2009/03/06付 西日本新聞夕刊)

 滑走路増設か新空港建設か。福岡県の麻生渡知事が26日に地元として態度を表明する福岡空港の過密化対策。その行方を「海の正倉院」と呼ばれる宗像・沖ノ島と関連遺産群(同県宗像、福津市)の世界遺産登録を目指す人たちが注視している。新空港案なら遺産群から10キロ足らずの新宮町沖の海上で大規模開発が行われ、古代から守り継がれる海洋信仰遺跡としての評価に影響を及ぼす恐れもあるためだ。

 沖ノ島と関連遺産群は昨年9月、世界文化遺産の国内候補として暫定リスト入りを果たした。

 古代、航海の安全を祈る国家的祭(さい)祀(し)の場だった玄界灘の孤島・沖ノ島と沿岸の関連遺跡。島は女人禁制や一般人上陸禁止などのタブーが今も残り、漁業者たちの信仰の対象となっている。文化庁は「日本固有の自然崇拝思想の原初的な形態を残すのみならず、その祭祀行為が現在も継続している資産」と評価した。

 ただ、検討課題の1つに「今なお固有の海洋信仰として継承されている文化的伝統の無2の物証であることを明確化すること」を挙げていた。

 世界遺産に詳しい民間シンクタンク「世界遺産総合研究所」(広島市)の古田陽(はる)久(ひさ)所長は「沖ノ島を中心とした海洋信仰に関する古代のタブーや習俗が生きていると説明する一方で、周辺海域で大規模開発が行われれば、登録条件となる真実性や完全性を疑問視される可能性がある」と説く。

 国土交通省九州地方整備局の空港PT室によると、新空港案は新宮沖に約510ヘクタールの埋め立て地をつくり、3000メートルの滑走路2本を建設する。

 滑走路増設案より発着処理能力は年間3万回多く、24時間利用も可能。ただ、工期は9年(増設案7年)、費用は9200億円(同2000億円)の巨大事業になる。

 「県などの地元自治体から暫定リスト登録の申請があった際は、海上空港建設案の情報は入っていなかった」。文化庁の世界文化遺産特別委員会で審査を担当したワーキンググループの座長、金(きん)田(だ)章裕・人間文化研究機構長は打ち明ける。

 ユネスコ(国連教育科学文化機関)への具体的な登録申請範囲は未定で「海上空港建設が大きな障害になるかもしれないし、ならないかもしれない」と金田座長。その上で「海洋信仰遺産の近くで大規模開発が行われると、審査機関への説明がつかなくなる可能性はある」と指摘する。

 これに対し、空港PT室は「1月まで行ったパブリックインボルブメント(市民の意見を計画に反映させる仕組み)で懸念の声が寄せられたことはあるが、まだ文化庁などと協議できる段階でない。必要があれば対応を検討する」という。

 古田所長は「遺産保護と開発は相反する行為。空港建設が登録に影響しないか、双方の関係機関同士で十分に話し合うべきだ」と話している。 (社会部・坂本信博)

神の宿る島で年1度の大祭 全国から250人参拝

2008年05月27日 中国新聞ニュ−ス

 古代からの信仰の場で、現在も「神の宿る島」として一般人の上陸が制限されている玄界灘の孤島、沖ノ島(福岡県宗像市)で27日、宗像大社沖津宮の現地大祭が開かれ、全国から集まった約250人が年に1度の参拝を行った。

 沖ノ島は博多港から約70キロ。玄界灘のほぼ中央に位置し、普段は宗像大社の神職1人が滞在するのみ。女人禁制で、島からは水を除いて一切何も持ち出してはいけないなど、古来からのしきたりが残っている。

 船で上陸した参拝者らは、全裸で海に入って身を清めてから、山の中腹にある沖津宮へ。権宮司が国家安泰を祈る祝詞をあげ、参拝者は玉ぐしやお供え物を奉納した。

 大祭は日露戦争末期の1905年5月、沖ノ島近海で起きた日本海海戦の戦勝記念と戦没者慰霊が起源。

 沖ノ島では古墳時代から国家祭祀が行われ、4−10世紀初頭の遺跡からペルシャ製カットグラスなど貴重な遺物が出土。「海の正倉院」と呼ばれ、県や市が世界遺産登録を目指している。

宗像・沖ノ島 宇佐・国東文化 世界遺産入りへ再提案 文化庁に提出

2007年12月26日 西日本新聞朝刊

 「宗像・沖ノ島と関連遺産群」の世界遺産登録を目指す福岡県、同県宗像、福津両市と、同様に「宇佐・国東文化」の登録を目指す大分県、同県宇佐市など5市は25日、国内暫定リスト入りに向けた提案書をそれぞれ文化庁に提出した。

 いずれも「継続審査」扱いとなった昨年に続く2度目の申請。文化庁から指摘された課題点を見直して再提出した。

 沖ノ島(宗像市)は「海の正倉院」と称される孤島。昨年は、海洋文化との関係を踏まえた他神社との関連性再検討などが必要とされており、今回は「東アジア最大級の祭祀(さいし)遺跡で、神道の崇拝形態の変遷を確認できる」などと訴えている。

 「宇佐・国東」は宇佐神宮(宇佐市)などで構成。昨年は、他地域にも類似テーマの提案があるなどと指摘されたため、主題を「『神仏習合』の原風景」と明確化。日本最大の宗教改革と位置付けられる神仏習合が同地で8世紀ごろいち早く発生・発展し、当時の文化財や習俗が多く残っていると強調している。

 国内暫定リストの追加選定をめぐっては現在、全国から計33件が提案されており、文化庁は来年6月ごろまでに審査結果をまとめる予定。

「沖ノ島絶大な価値」  世界遺産登録へシンポ

2007年12月25日 読売新聞Yomiuri On-Line

地元市長ら,きょう文化庁に提案書

 国宝約8万点が出土し「海の正倉院」と呼ばれる宗像市の沖ノ島や宗像大社、福津市の古墳群などを世界遺産にしようと、東京・早稲田の早稲田大国際会議場で24日に開かれた「宗像・沖ノ島と関連遺産群 東京シンポジウム」(宗像市、福津市、県教委主催)。同大客員教授の吉村作治・サイバー大学長ら学者5人が、首都圏などから集まった約450人の参加者に、島の世界的価値を訴えた。

 「世界遺産から見た沖ノ島」のテーマで基調講演した吉村学長は、専門のエジプト考古学にまつわる話題を織り交ぜながら「6年前から沖ノ島を世界遺産に、と考えてきた。登録されることを心から祈っている」と語った。

 また、特別講演に立った中川武・早稲田大理工学術院建築学科教授は、「沖ノ島の自然崇拝が宗像大社に継承、発展し、今に生きているところに世界遺産としての絶大な価値がある」と強調した。

 「古代東アジアの交流と沖ノ島祭祀(さいし)」と題したパネルディスカッションも行われ、日本考古学協会長の西谷正・九州大名誉教授、杉山林継・国学院大教授、白石太一郎・奈良大教授が登壇。「沖ノ島の祭祀は、原始信仰の在り方を考える上で貴重だ」「沖ノ島を中継点として日本と世界がつながっていた、という意味でも重要な遺産といえる」「さらに発掘すれば、80万点は出土するのではないか」などと語った。

 神奈川県藤沢市から参加した主婦野沢美智子さん(64)は「さまざまな専門分野の人が沖ノ島をテーマに集まり、登録への思いを語った点が興味深かった」と話していた。

 宗像市の谷井博美市長と福津市の池浦順文市長、楢崎洋二郎・県教育次長は25日、登録に向けた提案書を文化庁に提出する。谷井市長は「力強いエールをもらい、登録への自信を得た。さらなる支援、援助をお願いしたい」と話していた。

沖ノ島の世界遺産目指し東京でシンポ、吉村作治氏ら参加

2007年12月24日 読売新聞 Yomiuri On-Line

 出土品約8万点が国宝に指定され、「海の正倉院」とも呼ばれる沖ノ島(福岡県宗像市)の国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界遺産登録を目指した「宗像・沖ノ島と関連遺産群 東京シンポジウム」が24日、東京・新宿区の早稲田大国際会議場で開かれた。登録運動に取り組む宗像市、隣接する福津市、福岡県教委が、沖ノ島の世界的価値を検証し、認知度を高めようと初めて主催し、考古学ファンら約450人が参加した。

 沖ノ島は、宗像市沖の玄界灘に浮かぶ周囲約4キロの孤島。4〜10世紀にかけ、日本と大陸を結ぶ海上交通の要衝として、国家的祭祀(さいし)の場所となった。朝鮮半島の新羅からもたらされた金の指輪、ペルシャから伝来したカットグラス片などが見つかっている。

 シンポで、沖ノ島に上陸した経験を持つ吉村作治・サイバー大学(福岡市)学長が基調講演。「日本文化の起源を暗示し、古来の伝統を具現しているのが沖ノ島であり、知れば知るほど興味が深まっていく。世界遺産認定に値する」と述べた。その後「古代東アジアの交流と沖ノ島祭祀」と題したパネル討論があり、考古学者ら3人が話し合った。

「沖ノ島」世界遺産再挑戦 日中韓の学者ら 歴史的価値探り初のシンポ

2007年12月03日 西日本新聞朝刊

 国際色豊かな出土品から「海の正倉院」と呼ばれ、世界遺産登録を目指している福岡県宗像市の孤島・沖ノ島とその関連遺産群について、日本、中国、韓国の学者による初のシンポジウムが2日、同県太宰府市の九州国立博物館であり、東アジア史における沖ノ島の位置などを論じ合った。

 玄界灘に浮かぶ沖ノ島は、航海の安全などを願い、古代日本の国家的祭祀(さいし)が行われた島。現在も「神宿る島」として信仰され、宗像、福津両市には沖ノ島祭祀にかかわった胸形(むなかた)(宗像)一族の墓とされる古墳群も残る。

 シンポは、同県教委と両市の主催で約300人が出席。中国社会科学院考古研究所の王仲殊教授や、沖ノ島の発掘調査に当たった小田富士雄・福岡大学名誉教授ら6人が講演した。

 この中で韓国の朴廣春(パクカンチュン)・東亜大学校博物館長は、沖ノ島の出土品に古代日本と対立した新羅の最高級工芸品があることから、「磐井の乱」との関連に着目。「新羅から磐井に使臣が派遣され、沖ノ島で磐井の側近とともに祭祀を行った可能性がある」と指摘した。

 パネルディスカッションでは、西谷正・九州大学名誉教授が司会を務めて意見交換。出土品のカットグラスが沖ノ島に至るルートなどを考えた。

 「沖ノ島と関連遺産群」は1月、国内候補地入りの選定に漏れ、世界的な価値の検証などを文化庁に求められた。同県教委などは今月24日に東京で同様のシンポジウムを開き25日、同庁へ提案書を再提出する。

いのちのたび博物館」開館5周年 八幡東区 原点見直す企画展 旧館27年の特別展資料展示

2007年11月11日 西日本新聞朝刊

 八幡東区の北九州市立「いのちのたび博物館」は開館5周年を記念し、前身の旧歴史博物館時代の特別展を回顧する「博物館の軌跡1975−2002」展を開いている。旧博物館が開館以来、毎年独自に開いてきた特別展の資料を紹介。27年間の歩みを振り返っている。

 歴史博物館は1975年、中央図書館などとの併設で小倉北区に開館し、8年後に考古部門が考古博物館として独立。2002年11月、両館に旧自然史博物館(81年開館)を加えた3館が一体となって、現在のいのちのたび博物館が発足した。

 旧歴史博物館時代、特別展用の個室がなかったため巡回展の誘致ができず、すべて同館学芸員が独自企画を立案。毎年秋の展示会をはじめ27年間で60回を超える特別展を開いてきた。企画によって、貴重な資料が博物館にもたらされることもあったという。

 3階展示室で開いている今回の企画展では、旧館時代初の特別展・宗像・沖ノ島遺宝展や豊前修験道求菩提(くぼて)展、北九州甲冑(かっちゅう)展などの展示品、ポスターを並べた。永尾正剛歴史課長は「当初を振り返ることであらためて博物館活動の精神を受け継いでいきたい」と話している。12月24日まで開催。入場料は一般500円、高校・大学生300円、小・中学生200円。

歴史も自然も宝の山…世界遺産目指す沖ノ島

2007年08月23日 読売新聞 Yomiuri On-Line

 福岡県宗像市の沖約60キロの玄界灘に浮かぶ沖ノ島(宗像市)を「世界遺産」に登録しようと、宗像市、隣接する福津市、福岡県の3者が活動を強化している。この孤島は古来、海上交通の安全を祈る国家的祭祀(さいし)が行われ、大陸との交流を示す貴重な品々が多く出土していることから「海の正倉院」とも呼ばれる。島はどんな歴史を背負い、どんな価値があるのか。県などによる現地視察に同行した。

 8日朝、福津市の福間漁港から貸し切りの瀬渡し船「恵比寿丸」に乗った。参加者は谷井博美・宗像市長、森山良一・県教育長、3者の文化財担当者ら計71人。

 乗船して約1時間。沖ノ島が目の前に現れた。東西約1・5キロ、南北約0・5キロ、周囲約4キロ。海上からは標高243メートルの「一ノ岳」がそそり立っているように見える。

 島は宗像大社(宗像市)が所有する神域で、一般の人が島に渡れるのは原則、毎年5月27日にある「沖津宮現地大祭」の時だけ。参加者は公募で選ばれた男性約200人に限られるという。視察は3者の関係者が直接訪れることで島を体感し、共通認識を深めようと、宗像大社の特別な許可を得て企画された。

 ◆神職が10日交代で滞在

沖津宮社殿の周りにある巨岩。祭祀跡が今も残る 着いてすぐ、みそぎが始まった。参加者全員が服をすべて脱ぎ、海水につかって身を清めた。コバルトブルーの海は、どこまでも澄んでいた。

 体についた海水をわき水で洗い流した後、一ノ岳中腹にあり、大社の祭神「田心姫神(たごりひめのかみ)」をまつる沖津宮を目指した。400段の急な石段。厳しい残暑で汗がとまらない。

 15分ほど歩いただろうか。息絶え絶えになりながら、沖津宮の社殿にたどり着いた。同宮には島の唯一の“住民”である大社の神職が10日交代で滞在している。この日、出迎えてくれたのは、御床(みとこ)直之権禰宜(ごんねぎ)(30)。「毎朝、浜辺でみそぎをし、社殿で米や酒をささげます。島に寄港した漁師さんが、魚を奉納してくれることもありますよ」と話す。

 ◆出土品は12万点、うち8万点が国宝

 周りは巨石の群れ。高さは10メートル近く。その岩陰や岩上などが、祭祀の場として選ばれていたという。

 視察団メンバーと一緒に、巨石の周囲を歩いたり、岩の上によじ登ったりしてみた。土器の破片らしきものがあちこちに散らばっている。「金の指輪や馬具などが見つかりました」。宗像市市民活動推進課の文化財担当、安部裕久さん(48)が、岩陰を指さしながら教えてくれた。

 沖ノ島の出土品は4〜9世紀の鏡や土器など約12万点に及び、うち8万点が国宝。大和朝廷以降の国家が朝鮮半島や大陸に使節を派遣したり、外交を執り行ったりした際、島で営まれた祭祀で神にささげられた宝物とみられる。

 国宝には、ガラス製の小玉、ミニチュアの琴と織機のほか、朝鮮半島の新羅からもたらされた金製の指輪や馬具、中国の東魏時代につくられた金銅製の龍頭、ペルシャから伝来したカットグラス片などがある。島全体が国の史跡だ。

 ◆「国宝級の遺物がもっと出てくるはず」

 今回の視察から3日後の11日、宗像市内で開かれた小田富士雄・福岡大名誉教授による講演会「宗像・沖ノ島の古代」を聞いた。1954〜71年に3次にわたって行われた沖ノ島の調査に参加した小田さんは、「まるで宝の山にいるようでした」と振り返った。「国家が祭祀を営んだ場所として、沖ノ島は第一級の遺跡との折り紙がついている。(祭祀跡を)全部掘れば、国宝級の遺物がもっと出てくるはず」と明言。手つかずのままになっている「黄金谷」という場所もあると指摘した。

 ◆原始林など手付かずの自然も

 「神が宿る島」として一般の立ち入りが厳しく制限されてきたこともあり、原始林など手付かずの自然が残っているのも特徴だ。

 島は対馬暖流の影響を受けて気温が高く、西日本特有の暖帯林を形づくっている。林を構成するのは、葉の表面が日光を受けて光るタブノキなどの照葉樹。島を覆う照葉樹林は1926年、「沖ノ島原始林」として国の天然記念物に指定された。ビロウ、オオタニワタリといった亜熱帯植物の分布北限でもある。

 東南アジアなどから渡ってくるオオミズナギドリや、絶滅の恐れがあるヒメクロウミツバメ、カンムリウミスズメの営巣地としても知られる。

 ◆体にしみ通る「御神水」

 島に渡る前、「厳守事項」と書かれた用紙を受け取った。それにはこんなことが列記されていた。

 〈1〉婦女子の渡島を禁ず〈2〉上陸後直ちに海中でのみそぎを行う〈3〉沖津宮の参拝を行う〈4〉一木一草一石たりとも島外へ持ち出さない〈5〉宗像大社神職の指示に従う――。

 午後1時ごろ、島を離れた。船上でペットボトルに詰めておいた島のわき水「御神水」を飲んだ。島外へ持ち出してもよい、ただ一つの例外だ。暑さでまいっていた体に、じんわりとしみ通った。

 沖ノ島が歴史的にも自然環境の面でも、大きな価値を持つことは分かった。一方で気になるのは、知名度が一般的に低い点と、女人禁制などの厳守事項が人々に理解してもらえるか、という点だ。世界遺産への登録には、自治体や研究者、市民らが知恵を出し合い、島の成り立ちへの理解を深めてもらうよう努力することが不可欠と感じた。

世界遺産

1972年の国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)総会で採択された世界遺産条約に基づき、世界遺産リストに登録された遺跡や景観、自然などを指す。「人類が共有すべき顕著で普遍的な価値」を持つことが前提となる。現在、日本の14件を含め851件が登録されている。文化遺産、自然遺産、文化と自然の両方を兼ね備える複合遺産の三つに分かれ、沖ノ島は「沖ノ島と関連遺産群」として文化遺産の登録を目指している。

(2)宗像大社沖津宮 秘儀の島国宝8万点出土

出雲に集う神宝 古代出雲歴史博物館の特別展 読売新聞 Yomiuri On-Line

国宝・金銅製高機(奈良〜平安時代、宗像大社蔵)

 特別展示室の冒頭を飾るのは、福岡・宗像大社沖津宮(むなかたたいしゃおきつみや)の神宝約370点。複製品2点を除き、いずれも国宝である。

 沖津宮は沖合約60キロの沖ノ島にあり、島自体がご神体で、今でも一般の立ち入りは許されていない。江戸時代には、島で見聞きしたことを話してはならない「不言様(おいわずさま)」の掟(おきて)が定められていた。

 3次にわたる学術調査の結果、島には最も大きいもので高さ十数メートルの巨岩群があり、岩陰や岩の上、近くの平地から、鏡や腕輪形石製品、鉄製刀剣類など多種多様な宝器・祭器約12万点が出土した。このうち約8万点は国宝に指定された。

 中国、朝鮮半島との外交交渉が活発化する古墳時代から、遣唐使が廃止される平安時代までの約500年間、幾度となく大和政権による祭祀(さいし)が営まれ、外交交渉の成功と航海の安全を祈ったと考えられる。

 古墳時代の神宝では、龍と鳳凰(ほうおう)が彩りを添える青銅鏡、碧玉(へきぎょく)やメノウ製の玉類をはじめ、多様な武器・武具類が目をひく。渡来品と思われる金銅装馬具もある。奈良時代から平安時代では、精巧に作られた金銅製の機織り機や五弦琴、紡績具のミニチュアなどが注目される。

 どれもが千年以上の時を超えた、はるかな神宝の源流を私たちに物語るようである。(専門学芸員 錦田剛志)

2006年5〜7月心象風月 神の宿る風景

 月刊誌の連載「古事記を旅する」の取材で、神話にゆかりの地や神社を訪ねる機会が多い。しばしば出くわすのが、ご神体、神のより代として祭られている巨大な岩石(磐座)である。

 それは、海の中に立つ岩だったり、山の中腹にそびえる岩壁だったりする。あるいは、海岸の洞窟や奇妙な形をした大岩の場合もある。

 神主さんの唱える祝詞の決まり文句の一つに、「堅磐(かきわ)に常磐に」という言葉がある。堅い岩や変わらない岩のように「いつまでも」「どっしりと」とかの意味で、永遠性や不動性をたたえる表現だ。その岩石の上や傍らで、かつては神を迎える儀礼が行われた。

 前々回とり上げた柱の話では、大地と天空の両方につながっていることが必要だと説明したが、それは、岩の場合も同じである。ただし、天空の方は主に柱が分担し、岩石は大地の力を引き出すのではないだろうか。

 これは、岩がしばしば「磐根(いわね)」「石根(いわね)」と呼ばれることからの推測である。岩は、大地に深く根を張り、その根を通して大地の神々とつながることができると古代人は考えたのではなかろうか。

 最も有名な磐座の一つとして、玄界灘に浮かぶ沖ノ島の祭祀遺跡がある。一九五四(昭和二十九)年から十五年以上も調査が行われ、四―八世紀にかけての膨大な量の祭祀遺物が出土。それ以来、この島は「海の正倉院」と呼ばれている。

 時代が古い遺物は巨大な岩石の上から、時代が下ると岩陰から見つかった。理由は分からないが、岩の上から岩の下へ祭祀の場所を移したのである。

 沖ノ島は、九州と朝鮮半島とをつなぐ航路上にあり、航海の安全を祈る島であった。荒れ狂う海を無事に渡るには、揺るぎない岩石の上で神を祭ることが必要だったのだろう。もちろん玄界灘の孤島は、船乗りにとって、とても重要な目印であった。

 沖ノ島には、今も宗像大社(福岡県宗像市)の「沖津宮」が祭られている。無人の神の島で、神職一人が交代で田心姫(たごりひめ)神を守りながら、この島で繁殖している海鳥のオオミズナギドリといっしょに暮らしている。

御座船」出迎え 「みあれ祭」 漁船400隻

2005/10/01 西日本新聞

 宗像大社(福岡県宗像市)の秋季大祭が一日朝、大漁船団による海上神幸「みあれ祭」で幕を開け、大漁旗などをはためかせた約四百隻が、玄界灘に浮かぶ大島から対岸の同市神湊まで、勇壮にパレードした。

 みあれ祭は、沖津宮(同市・沖ノ島)、中津宮(同・大島)、辺津宮(同市)の宗像大社三女神が年に一度、辺津宮にそろい、海の安全や豊漁、五穀豊穣(ほうじょう)などを祈願する神事。

 宗像、粕屋、遠賀の各地区から集まった漁船団は午前九時半、花火を合図に大島港を出港。沖津宮、中津宮のみこしを載せた二隻の「御座船」を中心に進み、約一時間後、神湊港に着いた。

 同港の沖では、今回初めて辺津宮のみこしを載せた「御座船」が出迎え。三隻の周囲を漁船団が円を描くように航行し、それぞれの母港へ戻っていった。

 秋季大祭は三日まで。二日は流鏑馬(やぶさめ)神事(午前八時)、三日は翁舞(おきなまい)(同十一時)があり、六百三十年ぶりに復活する神事「高宮神奈備祭(たかみやかんなびさい)」(午後六時)で締めくくる。

大漁旗400隻玄界灘疾走 宗像大社「みあれ祭」

2004/10/01 西日本新聞

 約七百五十年前から続く宗像大社(福岡県宗像市)の秋季大祭が一日朝、同市沖の玄界灘を満艦飾の漁船約四百隻がパレードする海上神幸「みあれ祭(御生れ祭) 」で幕を開けた。

 みあれ祭は、沖津宮(大島村・沖ノ島)と中津宮(同・大島)、辺津宮(宗像市)の宗像大社三女神が、辺津宮で年に一度の再会を果たすという神事で、豊漁や海の安全を祈願する。

 玄界灘沿岸の宗像、粕屋、遠賀地区などから集まった漁船団は、晴れ上がった秋の海に大漁旗やのぼりをなびかせ、午前九時半に大島港を出港。沖津宮と中津宮のみこしを載せた二隻の御座船を守るように、対岸の神湊漁港まで約十キロにわたって勇壮な海上絵巻を繰り広げた。同大社の秋季大祭は三日まで開かれ、二日午前八時からは境内で流鏑馬(やぶさめ)神事がある。

(「みあれ」とは新しい霊力をいただくという意味だそうです。)

〈5〉長政の命で沖ノ島探検

2004/08/28 読売新聞 Yomiuri On-Line

 1604年にマカオ留学から帰国した中浦ジュリアンは博多教会に赴任した。

 イエズス会年報によれば、藩主黒田長政はこの年4月に行われた父シメアン如水(じょすい)のキリシタン葬をきっかけに教会に好意を寄せるようになっていた。長政は「蝋燭(ろうそく)を手に墓所まで遺体に付き従った。キリシタンたちの埋葬の仕方、敬虔(けいけん)さ、美しさとしつらえを飽くことなく褒めた」という。

 興味深いことに、当時の日本人は庶民から大名まで、キリスト教の葬儀が気に入っていた。

 「日本人が大いに重んじていることの一つは、死者に対してなされる葬儀の豪華さである。多くの異教徒がキリシタンになる理由の一つがそうしたことによる場合が少なくない」(フロイス『日本史』)

 宮崎賢太郎・長崎純心大教授(キリシタン史)は当時の庶民の信仰について、「一度に100人単位で受洗しているが、本当にカトリックの教義を理解していたかは疑問で、現世利益つまり御利益のある神様の一つとして信仰していたふしがある」と指摘する。

 ジュリアンは1608年に伊東マンショ、原マルチノとともに司祭に叙階された。かつての少年使節も41歳前後となっていた。

 彼が博多に在任中、長政はキリシタンに命じて沖ノ島(福岡県大島村)を探検させている。これはロドリゲス・ジランによる1609年年報のほか、貝原益軒『筑前国続諸社縁起』にも記載があり、同じ事件の評価が立場によっていかに異なるか比べることができる。

 沖ノ島は不言様(おいわずさま)と呼ばれ、現在も一木一草さえも島外に持ち出すことを禁じられている。この禁忌は当時すでに存在していたようで、みな神罰を恐れ島に行くことを嫌がった。そこで長政は「キリシタンは神を恐れぬ」からと、平戸藩から亡命した籠手田(こてだ)ジェロニモを抜擢(ばってき)した。

 「(籠手田は)金目の物や値打ちのありそうな物を集め、偶像の神殿に行きそれを粉々にした。一行が神罰を受けると予言した人々は赤面し、それまで偶像に対して抱いていた敬意を我らの教えに対して抱くようになった」(1609年年報)

 一方、益軒の『筑前国続諸社縁起』では、経緯はほぼ同じだが、後日談として神の祟(たた)りを伝えている。福岡城に保管していた神宝が「頻(しきり)に鳴動」「おりおり光物など飛出候」したため、長政は神宝を島に戻すようキリシタンに命じた。ところが、

 彼者どもにも何ぞ甚だしき御祟りありけるにや、国主の仰(おおせ)なれば、1度は相勤め候。もはやこの上は御免被遊(ごめんあそばせられ)候へと、頻に御ことわり申上る

 結局長政は神職に命じて返還させている。

 結局長政は神職に命じて返還させている。

 このとき島の谷に埋められた「金の機物」を連想させるのが宗像大社神宝館(宗像市)の金銅製高機だ。昭和の調査前から本土の辺津宮(へつみや)に伝来していることから、黒田藩が寛永16年(1639年)に沖ノ島に番所を置いてから再び持ち出されたのかもしれない。

 ジュリアンがこの件に関与したかは不明だが、1610年に籠手田の一家来が設けた男子に洗礼を授けた記録があるから彼が籠手田と親しかったことは間違いない。長政もしばしば教会を訪れているから面識はあったはずだ。博多教会では08〜11年に計1050人が洗礼を受けた。

 しかし徳川禁教令を受けて教会は1613年に破壊された。すでにマンショは前年に長崎で病死。副管区長秘書を務めるマルチノも翌年マカオに出国し、2度と祖国に戻ることはなかった(29年死去)。ジュリアンは国内残留を決意する。


日本史についての雑文その196 宗像三女神

KNブログ

 さて東南アジア系海洋民の活動領域である有明海に注ぐ河川としては、南から緑川、白川と続き、更に北にいくと菊池川の河口が玉名市において開いています。この菊池川の上流域の「山都」に相当するのは菊池温泉のあたりで、ここも古くから名族である菊池氏によって栄えた場所です。

 この菊池川の最上流は熊本と大分の県境の兵戸峠の徒歩行程を挟んで川原川に乗り換えて、北向きに下っていくうちに大山川に名を変えて、日田市から筑後川となって西へ向かい、久留米市などを通過して有明海の最北部に注ぐことになります。

 有明海の最北部の筑後川河口の少し南には矢部川の河口が開いており、矢部川を遡ると八女市を通り、更に最上流部に達すると福岡と大分の県境の竹原峠を徒歩で越えてから鯛生川を下る流れに乗り換えて、鯛生川は川原川と合体して大山川となり、日田で筑後川になって有明海に向けて下ることになります。

 また、この筑後川に合流する大山川に川原川や鯛生川よりも少し下流で注ぐ杖立川の上流を遡ると、阿蘇山の北麓で黒川の上流から下っていく流れに乗り換えることも出来ます。この黒川は阿蘇山の西で白川に合流し、白川は先述のように熊本市を通って有明海に注ぎます。ただ、このルートは乗り換え地点の阿蘇山北麓が崩落の危険などもあってリスクの高いルートでもあります。ちなみに肥後国一宮の阿蘇神社はこの阿蘇山のカルデラ内の北側にあり、古くから阿蘇山は霊峰として信仰の対象となっていました。

 筑後川は九州地方最大の河川で、しかも河口が極端な閉鎖海域である有明海に開いていますから、河口部には大規模な干潟が形成されます。古代においては久留米より下流は干潟ないしは海中であったと思われます。というか、有明海沿いの現在の平野部は古代においてはほとんど干潟で、外海から入ってきた船は干潟の最も沖合の部分で小船に荷物を移し変える必要があったと思われます。

 特にこの筑後川の下流域の現在では筑紫平野や佐賀平野となっている大湿地帯には大小の河川が注いでおり、これらの河川は現在では筑後川の支流になっているものも少なくありません。そうした支流沿いや筑後川本流沿いの干潟より少し上流部分には弥生時代の共同体の遺跡が数多く存在し、吉野ヶ里遺跡などもそうした遺跡のうちの一つです。

 そうした筑後川によって形成される下流域の湿地帯と陸地部分の境目にあたる久留米市の高良山の北麓には筑後国一宮の高良神社があり、干潟や河川の航行安全や、陸地部分の開墾や豊穣の守護神となっていました。

 また、佐賀県の千栗八幡宮は肥前一宮ですが、ほとんど福岡県との境にあり、筑紫平野の低湿地帯と陸地との境目の佐賀側のほうにあり、高良神社と一緒になって両側から筑後川下流の大湿地帯を挟み込んで見下ろす位置にあり、この神社も航行や豊穣の守護神であったと思われます。

 また筑後川より南で有明海沿いの低湿地帯に流れ込む矢部川の河口近くには現在の八女市があり、ここにも古代から共同体が築かれていました。また湿地帯の現在の佐賀平野部分からは六角川を北西に遡ると、武雄温泉の戸坂峠を越えて松浦川に乗り換えて唐津湾まで下っていくことが出来ます。この松浦川の下流付近とその北西にある東松浦半島あたりが古代におけるマツロ国(末盧国)の領域で、北にある壱岐島へと真っ直ぐ延びた東松浦半島の先端の沖合いに浮かぶ加部島の島内東側に田島神社があり、航海安全の神で、唐津湾から玄界灘へ出て壱岐島へ向かう船を見守るような位置にあります。

 また、現在では久留米の高良神社付近で北から下ってきた宝満川が筑後川に合流してから有明海に注いでいますが、古代においてはその辺りから低湿地帯が始まっていたので、おそらく宝満川も低湿地帯に直接注いでいたと思われます。その宝満川を逆に上流を北へ向けて遡ると、大宰府市の大宰府天満宮の北側で御笠川の上流部に歩いて乗り換えることが出来、御笠川はそこから北上して博多の市街地を通って博多湾の中央部へ注ぎ玄界灘へ出て行きます。

 東西に広がった博多湾の東端には香椎宮があり、ここは神功皇后、つまりオキナガタラシヒメの三韓征伐の際の前線基地であった場所で、それ以前の弥生時代から軍事的な要所であったと推測されます。

 この香椎宮の西側で博多湾に注ぐ主な河川は東から順に、多々良川、宇美川、御笠川、那珂川で、宇美川の下流沿いで博多湾の海岸近くには筑前国一宮で日本三大八幡神社の一つである筥崎宮があります。

 宇美川の上流の宇美市も古代から栄えた場所で上流沿いには宇美八幡宮があります。これも八幡宮ですが、八幡宮は南洋系海洋民の海人氏の祖霊で、弥生時代においてはこの宇美川沿いを含む北九州エリアは東南アジア系海洋民のテリトリーでしたから、後にオキナガタラシヒメの時代以降にこの地に海人氏、つまり天皇家の勢力が及ぶようになってから八幡宮が分社されてきたのでしょうけれど、おそらくこの筥崎宮や宇美八幡宮の作られた場所はそれ以前から航海安全の信仰が行われていた場所であったと思われます。

 宇美八幡宮は日本書紀の記述ではオキナガタラシヒメがホムタ大王、つまり応神天皇を産んだ地であり、それで「宇美(産み)」という地名になったとされていますが、日本書紀の地名起源譚は眉唾ものが多いし、その上、このホムタ大王出生に関する日本書紀の記述には作為的な歪曲がある可能性が高く、あまり信用できません。この地はそれ以前の弥生時代から宇美と呼ばれており、その語源はおそらく「海」であり、この地で海洋神や航海神が信仰されていたのだと思われます。そういう下地があって同じく航海に縁のある八幡宮が持ってこられたのだと思います。

 筥崎宮と同じく筑前国の一宮とされる住吉神社は博多湾の海岸線の真ん中にあり、那珂川の河口近くにあります。現在の福岡市の中心部でキャナルシティのほど近くにあります。住吉神もオキナガタラシヒメに関係の深い神で、日本書紀では三韓征伐の際に筑紫でオキナガタラシヒメに憑依して現れた神ということになっています。つまりは筑紫地方の古来からの航海神であったのでしょう。それが三韓征伐時の縁で天皇家が崇拝するところとなり、大阪にも航海神としての住吉神を祀る住吉大社が作られたわけで、もともとはこの福岡の住吉神信仰のほうが元祖ということになります。

 博多湾の航海神としては、博多湾の沖合いの海上にある志賀島の南東岸にある志賀海神社も有名で、海の神である綿津美三神を祀ります。また博多湾の北方にある宗像市には最も有名な海上交通安全の神である宗像三女神を祀る宗像神社があります。その辺津宮は宗像市内を流れる釣川の河口付近にあり玄界灘に面しており、中津宮はその沖合いに浮かぶ筑前大島にあります。そして沖津宮は更にその延長線上の玄界灘の遥か海上に浮かぶ沖ノ島という小島にあり、この沖ノ島全体が宗像三女神のご神体となっています。

 この沖ノ島は九州本土から対馬への中間点ぐらいにあり、宗像三女神への信仰は明らかに対馬や壱岐などを経由した対朝鮮半島の航海路の安全を祈る信仰であったことが分かります。もちろん対馬や壱岐にも航海神信仰は存在し、壱岐国一宮の住吉神社は壱岐島北側に対馬方面に向いて建てられており、対馬国一宮の海神神社はもともとは木坂八幡宮といって、朝鮮半島へ向けて上島の西海岸線に建てられています。住吉神も八幡神も航海神の属性を有しており、元来、対馬でも壱岐でも航海神信仰が行われていたことが推測されます。

 この北九州の玄界灘エリアで活動していた海洋民は、東シナ海から対馬海流に乗ってやって来た東南アジア系の海洋民の部族で、もともとはスンダランドからシナ大陸沿岸伝いに北上してきたグループです。そういう人達の一部が長江下流域にまで達して東シナ海に出て対馬海流に乗って五島列島や西九州、北九州、日本海側に散らばっていったのです。

 同じ部族でシナ大陸に残った人達は戦国時代以降、シナ帝国が勢力を拡大して南下してくるにつれて、それに押されて南下して広東省や福建省、そして福建省から台湾へも移住していくようになりました。

 ところがこの広東、福建、台湾などでは航海安全の女神への信仰が盛んで、おそらく元来の東南アジア系海洋民の航海神は女神であったようで、となると、北九州地方における様々な種類の航海神信仰も、その原初の形に最も近いものは宗像三女神への信仰なのではないでしょうか。そしてそれらの中から宗像三女神と違って男神に変えて畿内方面に分霊されたのが住吉三神であったのでしょう。

 これらの玄界灘エリアの航海神への信仰は太古から存在したのでしょうけれど、特に盛んになったのはおそらく紀元前100年ぐらいから始まった朝鮮半島南端の真番郡との交易開始以降、シナ帝国との取引が増えてからのことでしょう。この過程において御笠川や那珂川、宇美川の中下流域、つまり博多湾岸の東半分の領域において交易用の物資の運搬を通じて統合し発展したのがナ国(奴国)であり、博多湾岸の西端から糸原半島にかけて対外的窓口として発展したのがイト国(伊都国)でした。そしてこのナ国とイト国が統合して更に周辺の小国とも連合して、「倭国」と呼べる北九州の国家連合の単位までも作るようになっていくのです。

 玄界灘は日本海の南端に位置することになりますが、日本海岸というのは太平洋岸に比べて波当たりが極端に激しくないので岩礁海岸よりも砂浜が形成されることが多く、入り江や島の対岸などの波の影響の特に少なくなる海域では干潟が形成される傾向も強かったといえますが、それらの傾向も一概のものではなく、河川の有無や規模の大小、海岸地形などの要素によって結果は大きく変わってくるのでした。

 そして、これらの北九州の倭人の諸国家では、朝鮮半島のシナ帝国直轄地から輸入した銅製の鏡、鉄製の剣、玉という宝石で作った勾玉などが王権を象徴する威信財として重宝されるようになり、王権継承に不可欠なものとなっていくのです。

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