TOPIC No. 9-11 浦島太郎

01  浦島太郎と竜宮伝説 浦島太郎は「竜宮」へ行ったのか? by中原中也とダダイズム、
 京都時代 日本史探訪・オノコロ共和国
02 浦島太郎はどこへ行ったのか 橋 大輔 (著) 新潮社 (2005/8/24) by読書メーター
03 浦島伝説の謎を解く by長井俊哉ドットコム
04 浦島太郎 byお伽草子
05 浦島太郎伝説 by古代史の扉
06 浦島太郎の原型/風土記・万葉集 by 投資を楽しむ♪
07 かながわ浦島太郎PJ (2010.4.20 OPEN)
08 浦島太郎伝説関係資料 byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
09 (68)“紫の雲が出る山があり浦島太郎伝説が残る半島” from讃岐の風土記 by 出来屋
10 浦島太郎探検隊
11 浦島太郎 by民話想 -円環伝承-
12 浦島太郎 byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

伝承・祭られている神社仏閣

観福寿寺(神奈川県横浜市神奈川区)

 残念ながら明治時代に焼けてしまった。また、乙姫が枝に光を照らした松も大正時代まで残っていた。慶運寺に聖観世音菩薩像が現在も残っている。

伊雑宮(三重県志摩市) 龍宮伝説

 竜宮から戻った海女が持ち帰ったと云われる玉手箱が保管されている。中には小さな蚊帳が入っていると言われている。

浦嶋神社(宇良神社;京都府与謝郡伊根町)

 浦島伝説の中では最も古いとされる丹後国風土記逸文ゆかりの地域にある。社伝では天長2年(825年)に創建。丹後半島にはこのほかにも浦島伝説に基づく神社がある。

浦嶋神社、籠神社の配置 by全ては古事記の中に

 籠(この)神社は天照大神が伊勢におさまる前に鎮座していた、いわゆる元伊勢の一つで、また、現在の伊勢神宮の外宮(げくう)に祀られている豊受(とようけの)大神は、元々、籠(この)神社に祀られていたものを遷座したものです。

浦島神社(香川県三豊市)

 荘内半島一帯には、太郎が生まれたという生里、箱から出た煙がかかった紫雲出山ほかたくさんの浦島伝説に基づく地名が点在している。太郎が助けた亀が祭られている亀戎社もある。

寝覚の床臨川寺(長野県上松町) 寝覚の床は竜宮城から戻った浦島太郎が玉手箱を開けた場所といわれ、中央の岩の上には浦島堂が建つ。臨川寺は、浦島太郎が使っていたとされる釣竿を所蔵する。境内からは景勝寝覚の床を見下ろす。


【ほんとかいね そうなんや】

「竜宮祭」桂浜パレード…高知

2010年05月03日 読売新聞 YOMIURI On-Line

 高知市の桂浜で2日、「竜宮祭」=写真=が行われ、浦島太郎の仮装パレードや、砂浜にはためく鮮やかな大漁旗が、ゴールデンウイークで県内外から訪れた大勢の観光客の目を楽しませた。

 竜宮祭は、竜王岬の海津見(わだつみ)神社で旧暦3月15日に行われてきた祭り。「竜宮さん」と呼ばれ、地元の漁師が飲食などで祝ったが、半世紀前からは神事のみとなり、2008年に発足した「桂浜再生促進協議会」(会長=森健志郎・県立坂本龍馬記念館長)が、かつてのにぎわいを復活させた。

 仮装行列では、近くの浦戸小の児童ら約30人が、浦島太郎や乙姫様、ペンギンなどにふんして登場。竜王岬から坂本龍馬像前まで浜辺の遊歩道をパレードし、観光客から「かわいい」「僕もペンギンになりたい」などと歓声が上がっていた。

 松山市の山口将人さん(28)は、「にぎやかなパレードでぱっと目を引く。地域の頑張りが伝わってきますね」と笑顔を見せていた。

【ほんとかいね そうなんや】

舞踊の会:「ひとときの夢みて」 寿覚会、大分・中津で18日 /福岡

2010年4月15日 毎日新聞〔京築版〕

 日本舞踊の普及と後進の育成に取り組んでいる「寿覚会」(会主・花柳寿覚さん)による「舞踊の会」が18日午前10時半から、大分県中津市の中津文化会館である。豊前市、同市教委、同市芸術文化振興協会、中津市、同市教委、毎日新聞社の後援で、入場料は3500円。

 花柳寿覚さんは、日舞の中で最も伝統と格式高いとされる花柳流を極め、68年に豊麻衣会を発足。85年に「寿覚会」に改め、豊前市を活動の拠点に日舞の伝承者として後進の育成などに取り組み、地域の文化振興に貢献している。

 舞踊の会には17人が出場。日舞の代表的見本の「藤娘」、雨を通じて見た江戸の四季を描いた「雨の四季」、浦島太郎の伝説を題材にした「浦島」など18の出し物を演じる。寿覚さんは「舞台の上で繰り広げられる美しく、和やかな世界を見てひとときの夢をみてほしい」と話している。【陣内毅】

【ほんとかいね そうなんや】

110 伝説呼ぶ謎の“巨石群”

2007年11月10日 中日新聞

 金沢の近郊、白山市に“ストーンサークル”らしき謎の遺跡があるという。世界的にはイギリスの「ストーンヘンジ」が有名だが、白山のものも不思議な伝説も秘めているらしい。早速出かけてみた。

 金沢市から北陸自動車道を経由し、約三十分の距離にある白山市石立町。住宅街の真ん中に石でできた遺跡「石ノ木塚(いしのきづか)」があった。高さ一メートルに満たない四つの石が正方形状に並び、その中心には一・七メートルほどの巨石が立っている。大きさは四メートル四方というところだろう。

 周囲は住宅や田畑ばかりで、その存在は異様。いつごろから、何のために立っているのか。近くに住む七十代の女性に聞くと「昔からあるけど誰がつくったんか知らん。浦島太郎に関係があるなんて人もいるけど…」。

 そこで、過去に発掘調査を行った白山市教育委員会に聞いてみた。資料によると、塚は町名「石立」の由来になり、一六〇五(慶長十)年には加賀藩の三代藩主前田利常、一八四〇(天保十一)年には同藩の元書物奉行津田鳳卿が調査したこともあるという。

 同市の一九九四年までの調査で、建てられた時期は十世紀後半から十一世紀前半ごろとみられ、もともと石はどれも現在より四十−五十センチほど背が高く、正方形に置かれた四つの石はほぼ正しく東西南北の方位にあることなどがわかった。

 だが、肝心の石が立てられた理由は分かっていない。そのためか塚には多くの伝説が残る。その一つが「浦島太郎」だ。

 地元の笠間公民館によると、竜宮城に五人の子を残して村へ帰ってきた浦島太郎は玉手箱を開けて老人になり、子どものことを思いながら息を引き取った。すると翌朝、子どもの数と同じ五本の石柱が地面から生え、村人は子どもが供養のために墓石を立てたのだと信じたという。

 ほかにも、遺跡の石は出雲(島根県)から運ばれてきたとか、源頼朝に追われた義経の従者・弁慶が立石を引き抜こうとして石に手形が残ったとか…。数多くの伝説が語り継がれている。

 大がかりな調査は九四年以降、行われていないといい「理由は今後も分からないかもしれませんね」と同市教委文化課。地元住民は伝説を紙芝居にして、地元の催しで上演しているという。約千年前から残る謎は、このまま謎として語り継がれていくことだろう。

【名古屋市】昔の“マンガ”60点並ぶ

2006/10/11 Shikoku News

東区で「日本むかし話」展

 浦島太郎や一寸法師など「昔話」として親しまれている御伽草子(おとぎぞうし)の絵巻や絵本を集めた「絵で楽しむ日本むかし話」展(徳川美術館、中日新聞社など主催)が、名古屋市東区徳川町の市蓬左文庫で開かれている。11月5日まで。

 御伽草子は室町から江戸時代にかけて広まった物語で、神仏への信仰から、動物や虫が主人公になって活躍する物語、恋愛物、庶民の立身出世など内容は多岐にわたる。絵巻や絵本の形で絵画化されたものが多く、せりふが書き込まれた作品はさながら現代の少年少女漫画のよう。

 全国から集めた貴重な作品約60点を展示。重要文化財の掃墨(はいずみ)物語絵巻は、突然の僧の来訪に慌てた娘がおしろいとまゆ墨を間違えて化粧してしまう。その真っ黒な顔を見て鬼だと思った僧は逃げ出し、世の無常を悟った娘は出家してしまう物語。絵巻では、鏡に映った自分の顔を見て卒倒する娘の場面が色鮮やかに描かれている。

 ほかにも、日本版シンデレラストーリーといえる「鉢かづき絵巻」、ネズミの嫁入りを描いた「鼠草子絵巻」など、ユニークでかわいらしい作品がずらりと並んでいる。

 月曜休館。観覧料は一般1200円、高大生700円。小中学生500円。  (加藤美喜)

童画家・池原昭治さん、児童に民話の魅力紹介

2006/10/11 Shikoku News

 香川県高松市鬼無町の鬼無小学校(井本正隆校長)で十一日、「まんが日本昔ばなし」でおなじみの童画家、池原昭治さん(67)の講演会があった。児童は池原さんが紹介する全国各地に伝わる昔話や目の前で描かれる「桃太郎」などの絵に、民話の魅力を感じ取っていた。

 同小のある鬼無地区は桃太郎の伝説が伝わっており、池原さんの講演を通して民話の素晴らしさや地域の歴史に関心を深めるのが目的。三―六年生と保護者計約二百人が参加した。

 池原さんは「桃太郎」や「浦島太郎」など香川にゆかりのある昔話を取り上げ、その場で画用紙に印象的な一場面を描いた。流れるような筆遣いで書き上げる動物や風景の完成度に、児童からは「すごい」「かわいい」と声が上がっていた。

 池原さんは関東や四国に伝わる民話も紹介し、「さまざまな昔話や地元に伝わる民話を大切にしてください」と呼び掛けた。六年生の四宮千穂さん(11)は「知らない話をたくさん聞けて楽しかった。いろいろな民話を調べてみたい」と声を弾ませていた。


ロビンソン漂流記の島で“財宝”騒ぎ…発掘許可待ち

2005年10月03日 読売新聞 Yomiuri On-Line

 小説「ロビンソン・クルーソー漂流記」の舞台となった太平洋に浮かぶ南米チリ領のロビンソン・クルーソー島が“お宝騒ぎ”に沸いている。

 チリの警備会社が9月26日、地底探査ロボットを使った調査の結果、宝石や金貨など莫大(ばくだい)な財宝のありかを突き止めたと発表したため。同社によると、価値は100億ドル(約1兆1400億円)に相当し、当局の発掘許可待ちの状態だ。

 海賊が数世紀にわたって略奪した財宝を、スペインの航海士が1715年に同島内に埋め、その後、英国の船乗りがこれを発見し、島内の別の場所に埋め直したとの言い伝えが残っている。これまでも、“トレジャー・ハンター”が幾度となく挑戦したが、発見には至らなかったという。

 漁師を中心とする島民約600人は宝探しの話題で持ち切り。当局者が、皮算用をする島民に、過去の失敗例を示し、「夢を見るのはまだ早い」と平静を呼びかける事態となっている。

 同島は、日本人探検家、高橋大輔さん(38)率いる国際学術調査チームが、小説のモデルとなったイギリス人船乗りの約300年前の住居跡と見られる遺跡を発見したことが「ナショナルジオグラフィック」誌に掲載され話題になったばかり。(リオデジャネイロ 中島慎一郎)

日本人探検家率いる調査チーム ロビンソン・クルーソーの住居跡を発見

2005年09月15日 日経BP

 日本人探検家、高橋大輔(38歳)率いる国際学術調査チーム(日本、英国スコットランド、チリ)は、ナショナル ジオグラフィック協会(本部:米国ワシントンD.C.)の支援を受けて南米チリの700キロ沖合に浮かぶ孤島を発掘調査し、冒険小説『ロビンソン・クルーソー漂流記』のモデルとなった人物が4年4カ月の間、この島で一人暮らした住居跡を発見しました。

 モデルとなったスコットランド人の船乗り、アレクサンダー・セルカークは、今から300年前の1704年にこのフアン・フェルナンデス島(1966年にロビンソン・クルーソー島に改名)に置き去りにされました。その後4年4カ月を自給自足で暮らし、1709年に海賊船団に助けられます。

 ロビンソン・クルーソー漂流記は、このセルカークをモデルに英国の作家デフォーが1719年に発表した物語です。ただし、セルカークが実際に島内のどこでどんな暮らしをしていたかは分かっていませんでした。

 高橋は1992年からその謎を追い続け、2001年にセルカークの住居跡らしき遺跡を発見。今回、ナショナル ジオグラフィック協会の支援を受けて、2005年1月〜2月にスコットランド博物館の考古学者デイビッド・コールドウェル博士やチリの考古学者ら5人からなる調査チームを組織し、発掘調査を実施しました。

 当初、住居跡と想定していた遺跡は、セルカークが生活した時期より後にスペイン人が建造したものと判明しましたが、さらにその下層から焚き火跡と柱の跡が見つかり、当時の航海道具の一つであるディバイダー(割りコンパス)の断片も発掘されました。 焚き火跡から抽出した土壌を炭素分析したところ、セルカークの滞在時期に該当したこと、また当時、航海道具を持参して同島に滞在したという記録があるのはセルカークだけであることから、この遺跡がセルカークの住居跡であることにほぼ間違いないことがわかりました。

 今回、共同で発掘調査を行ったスコットランド博物館のコールドウェル博士は、「これまでにも当時の沈没船から見つかったディバイダーを調べたことがある。今回の断片はその形状や組成からディバイダーに間違いないでしょう」と話しています。

“ロビンソン”の住居跡? 南米・チリ沖の孤島で発見

2005/09/15 The Sankei Shimbun

 英国の冒険小説『ロビンソン・クルーソー漂流記』のモデルとされるスコットランド人航海長、アレクサンダー・セルカークが、4年4カ月にわたりサバイバル生活を送ったとみられる小屋跡が、南太平洋の孤島で見つかった。

 発見したのは秋田県在住の探検家、高橋大輔(たかはし・だいすけ)氏や英国人考古学者らの調査チームで、発見経緯は30日発売のナショナルジオグラフィック誌に発表される。

 住居跡があったのは、南米チリの沖約670キロにある「ロビンソン・クルーソー島」。

 セルカークは1704年、乗っていた船内の権力抗争に巻き込まれ、当時無人島だった同島に置き去りにされた。09年に英国船に助けられるまで、ヤギを捕まえて食料にし、皮で衣服を作って生き延びたという。

 高橋氏らは、島の古老の話から山の中腹にある石造りの建物に着目、今年1−2月に発掘した。

 建物は1750年ごろから定住したスペイン人のものだったが、建物下から、たき火跡や柱の穴を発見。たき火跡にあった炭の年代は放射性炭素の測定で、セルカークの滞在時期に近いことが分かった。さらに、たき火跡付近からコンパスに似た航海道具「ディバイダー」の一部とみられる長さ16ミリの銅片が出土。

 高橋氏は、セルカークを救出した英国人船長の記録などから、スペイン人の定住以前に航海道具を持って住んだのはセルカーク以外にいない、としている。

 高橋氏は「山の中腹に住居を造り、助けの船を待って、海を見続けたのではないか。小説以上に厳しいサバイバル生活を生き抜いた生身のロビンソンを見つけ出せた」と話している。

 <ロビンソン・クルーソー> 英国人作家、ダニエル・デフォーが1719年に発表した小説の主人公。航海の途中で遭難し、無人島に漂着して28年間過ごした冒険物語は世界各国で訳され、日本にも江戸時代にオランダ語訳が伝わった。モデルとされるアレクサンダー・セルカーク(1676−1721年)は英国王の許可を得て海賊行為をした船の航海長だったが、無人島に置き去りにされ、ヤギや木の葉を食べるサバイバル生活を送った。(共同)

日本人探検家、「ロビンソン・クルーソー」の住居跡を発見

 byナショナル ジオグラフィック日本版

100回記念スペシャル 浦島太郎伝説の真実

2000/09/14 奇跡体験!アンビリバボーFuji TV

第一章 浦島伝説の真実

 小さい頃に、日本人が必ず聞くおとぎ話の数々。その中でも、浦島太郎は誰もが知っているであろう。単なる空想話と思われているこの話、本当は彼は実在したのではないかというのだ。

 おとぎ話の中でも、浦島太郎の話は最も古い歴史を持つ。8世紀に成立した、最も古い歴史資料である「風土記」や「日本書紀」にも登場するのである。ここに記されている話は、もともとは口で伝えられてきた伝説を記したものである。おとぎ話の『浦島太郎』は、浦島伝説として伝えられてきた。伝説として口で伝えられてきたということが、実は重要なのである。

 日本の昔話や民話研究の第一人者である昭和女子大の西本教授は「伝説が生まれるには、それを支える人や、イメージとなる場所や体験など、伝説として伝えられる理由がある」という。伝説を頭から作りごとだといって否定はできないというのだ。では、浦島伝説の背後には、どのような事実があったのであろうか?また、浦島太郎は実在したのであろうか?

 京都府与謝郡・伊根町。一階が船のガレージとなった舟屋と呼ばれる独特の家屋が海に面して建ち並ぶ、風情のある場所だ。古い文献で、浦島太郎の故郷とされるのがこの近辺である。

 浦島太郎が実在していたのが6〜7世紀頃、竜宮城から戻ったのは9世紀頃と伝えられている。彼が住んでいたと言われるのは丹後の国の水江、それは、舟屋の立ち並ぶ伊根湾のほど近くで、そこには浦島太郎の名前を今に残す浦島漁港がある。

 そのすぐそばには、数奇な運命をたどった浦島太郎を奉る宇良神社がある。今から1200年前に建てられたこの神社は、別名浦嶋神社と呼ばれている。ここには伝説に欠かせない海亀の甲羅が奉られている。また、『浦嶋明神縁起絵巻』という絵巻があり、絵物語によって浦嶋伝説を伝えている。この絵巻は古い浦嶋伝説をもとに描かれており、我々に馴染みのものとは少し異なっていた。

 浦島太郎は釣りをしていたが、魚は全く釣れなかった。三日三晩舟で過ごした彼は、ついに竿に手応えを感じる。しかし、釣れたのはなんと亀だった。オリジナルの話では、浦島は亀を助けたのではなく釣りあげたのだった。

 彼は舟の上で寝てしまった。目を覚ますと、なんと亀は美しい娘に変わっていた。2人は前世で深く結ばれており、娘は浦島に自分の住む世界に来て欲しいと言う。気持ちを理解した浦島は、娘の言う通り目を閉じた。次に目を開けると、そこはもう娘の住む世界の入り口で、我々の住む世界とは別のものだった。彼女によれば、2人が向かっているのは常世(とこよ)の国と呼ばれる、ユートピアのような場所とされた。

 娘の後についてゆくと、やがて2人の目の前に滝が現れた。2人は滝のそばを抜け常世の国へと入っていったという。

 常世の国に入った浦島は、その国の住人になるための儀式を受け、晴れて結ばれた2人は幸せな日々を過ごす。月日が流れるのも忘れるほどのユートピアでの日々。しかし、しばらくすると浦島は故郷が恋しくなってしまう。故郷に帰る決意をした浦島に、娘は玉手箱を渡す。そして、娘のことを忘れず、もう一度ここに戻ってきたいのなら、決して開けてはならないと言った。

 だが、現実に帰った浦島は愕然とする。故郷では何百年もの時が過ぎており、全てが変わり果てていたのだ。絶望と孤独に打ちのめされ、放心状態となった浦島は娘との約束を忘れて玉手箱を開けてしまう。そして、箱から出てきた白い煙を浴びて老人になってしまうのである。

 オリジナルの浦島伝説に亀の恩返しという話はなかった。しかし、亀と出会い、時間の感覚を失う場所へ行き、玉手箱の煙で年老いていくというモチーフは同じであった。果たして、オリジナルの浦島伝説はどうやって生まれたのか。何かもとになった出来事があったのだろうか?

 一説には、京都の若者が当時交流のあった中国に行った時の体験が元になっているのではないかとするものもある。また、漁をしていた舟が現在の沖縄である「琉球王国」に流れ着いた時の体験ではないかともいわれる。確かに琉球と竜宮は音が似ている。しかし、象徴となる亀や、滝の向こうにある時間の感覚を失う場所、そして玉手箱の煙といった説明しきれない謎が多く残る。

 我々が取材を進めていると、ある一つの驚くべき情報が寄せられた。札幌に住むプロダイバーの本間公也さんによると、8年前に太平洋で海洋生物の調査中に偶然その話を耳にしたという。

 以前本間さんが行ったことのある島には、昔から外には絶対に出してはいけない、タブー視されている伝説があるという。その伝説の一部を、本間さんは耳にしたのだ。その内容とは、竜宮城のような秘密の場所があるという言い伝えだった。その島とは、日本から南東へ3700キロの南海の孤島、ミクロネシアのポナペ島,/A>だった。

 さらに詳しく調べたいと思った本間さんだったが、島の人は祟りがあるといって誰も話したがらなかった。そんな時、幸運にも本間さんは酋長の称号を持つ人物と知り合うことになり、話を聞くことができたという。

 その人物とは、ポナペ島の優れた歴史研究家、マサオ・ハドレー氏だった。彼は、なんと浦島太郎のルーツはポナペ島にあると断言したというのだ。ところが彼は、本間さんと話をした直後の1993年に亡くなっている。はたして祟りと関係があるのだろうか?

 ところで、ポナペ島に日本から昔の小さな舟で流れ着く可能性はあるのだろうか?可能性はある。漁に出た舟が沖に出て黒潮にのり南下、さらに太平洋をぐるっと回る北太平洋環流にのると、ポナペ島の方向に流されるのである。

 江戸時代には、房総沖から45日かかって、ポナペ島よりさらに遠いパラオに漂着した記録が残っている。一方、帰りも北太平洋環流にのって流されさらに黒潮にのり、日本海側に流されれば浦島の故郷といわれた場所に着くことができる。

 本間さんの情報から浦島伝説の真実をつきとめるため、我々取材班はポナペ島に向かうことにした。このときは、まだ常識を大きく覆す驚愕の発見をすることになるとは、思ってもいなかったのである…。

100回記念スペシャル 浦島太郎伝説の真実

2000/09/14 奇跡体験!アンビリバボーFuji TV

第二章 語られることのない伝説

 ミクロネシア連邦の中央政府の置かれたポナペ島は、人口およそ3万人、直径約20キロの島で、この小さな島にはひときわ目立つ奇怪な岩がある。それが島のシンボルであるソケースロックである。ポナペ語で『我々の他には誰もいない』という意味である。まるでよそ者が来ることを深く拒んでいるようだ。

 手始めに我々は、現地で唯一この島の歴史を伝える民族博物館、ポンペイリトルキニ博物館をたずねた。そこに展示された写真などは、南国と言われると思い出すイメージそのものであった。しかし、トロピカルコスチュームと呼ばれる昔の衣装を展示したコーナーで、我々はある発見をした。

 そこに展示されていた腰蓑は、昔から描かれる浦島太郎の絵で彼が身につけていたものと酷似していた。浦島太郎は、昔なぜか南国風の衣装を身につけていたのだ。他にも、彼が持っていた魚を入れるびくも発見できた。

 この島は浦島伝説に何か関係があるかもしれない、そんな期待を胸に、我々は歴史保存局局長のエメンシオ・スペリアム氏を訪ねた。彼はポナペ島の歴史の専門家で、かつてポナペ島に浦島太郎と思われる日本人が流れ着いたというような伝説や記録が残っているかを聞いてみた。

 エメンシオ氏によると、ポナペ島には言葉はあっても文字がなかったので、古い記録文書は残されていないという。文字を使うようになったのは100年ほど前で、発音をアルファベットに当てはめるようになってからなので、昔の出来事は口伝によって伝えられてきているのだそうだ。そして、その口伝はよその人に話すと悪いことが起こるとされているという。

 ポナペ語に、「常世」「玉手箱」など、浦島伝説に出てくる言葉に似た音を持つ言葉がないかを聞いてみると、それはないという。しかし、亀はポナペでは神聖な動物とされており、また煙に関しては、客をもてなす石焼き(積み上げた石の上で食べ物を焼く)から出る煙は命を運ぶ象徴とされているという。

 このエメンシオ氏の言葉に、我々はこの島にはきっと浦島伝説の謎を解く何かがあると感じ、次に、日本語がわかる村の長老がいるという村を訪ねた。長老の名はアキオ・ベルナルドさん(76歳)という。日本人の名前のようだが、生粋のポナペ人である。

 ポナペ島は1914年から太平洋戦争の終わりまで、日本軍の統治下にあった。そのため、ベルナルドさんは日本語を話せるし、また日本の先生に教わったという昔話の一つとして浦島太郎の話も知っていた。そして彼は、驚くべき言葉を口にした。「このポナペの島ね、竜宮城あります、ナン・マドール(Nan-Moadol)に…」。

 「ある人がそこに行きました。そして、下の殿様に命令された。上に上がった時、誰にも話すな、下のこと話すな」。それ以上のことを、ついにベルナルドさんは話してくれなかった。彼の言う下とは、一体何のことなのだろうか?

 我々はすぐさまナン・マドールに向かったのだが、その途中で歴史の痕跡を見ることが出来た。実はポナペは、日本に占領される以前にもスペインやドイツの統治下に置かれていたことがあり、砦や教会、日本軍の戦車などが残されているのだ。そしてナン・マドールはそうした外国の力が入る以前に、ポナペを治めた王朝の遺跡なのだ。

 遺跡は、ポナペ島南東の小さな島の浅瀬にあった。初めは海の上に森が浮かんでいるような、なんとも不思議な光景が広がり、かつての権力者たちの都の痕跡は見つけだせなかった。しかし、よく見ると柱状の玄武岩を幾層にも組み上げて築かれた人工の島があることがわかった。

 今ではそのほとんどがマングローブに覆われ分かりにくくなっているが、縦600m、横1200mの広大な敷地には92の大小の人工の島があるという。10m四方の小さなものから、50mを越える大きなものまで、それぞれが儀式を行う島、食料を蓄える島など、細かい役割が与えられていた。

 そしてここで、王侯貴族などの支配者階級と家臣たちが生活していたのだ。中でもひときわ大きい島が、22段の玄武岩を積み重ねた高さ8mの外壁が威圧的なナン・ドーワスと呼ばれる島だ。一辺が60mにもなるこの島の正面には、幅4mほどの石段があり、ここを通るのを許されたのは王侯貴族のみであったという。

 遺跡は浅瀬に高さ1m〜2mの玄武岩で外囲みを作り、その中に珊瑚を敷き詰めた上に、外壁となる柱状の玄武岩を幾層にも組み上げたものである。外壁の中がさらに二重になっていたり、二段の構造になっている島もある。

 作られた人工の陸地に、住居やお墓が建てられた。遺跡全体の建設には、1本数トンの柱状の玄武岩が、なんと数百万本使用されているという。ナン・マドール建設を描いた地元のある昔話では、これらの巨石は不思議な力で空中を運ばれたとされている。そしてそこにはなんと、亀との交流が描かれていたのだ。

 さらに遺跡のすぐ近くには、ケープロイの滝と呼ばれる滝があったのだ。ナン・マドールはやはり竜宮城だったのであろうか?  取材を進める中、ポナペ島独自の儀式というものがあり、それがある村で開かれるという。

 これはシャカオの儀式と呼ばれ、冠婚葬祭などの際に行われる。腰蓑を着けた男性が石の上でコショウ科の植物「シャカオ」の根を叩いてすりつぶし、さらにハイビスカスの幹の樹液を加えてしぼる。これを何度が繰り返すとできあがるドロドロの液体が、シャカオの飲み物である。

 これは年長者から飲むのだが、ピリっとした味で、心を落ち着かせる作用があるという。シャカオの儀式は、よそ者が仲間に入る時にも行われるという。オリジナルの浦島伝説では、浦島は仲間に入るための儀式を受けたとされている。

 浦島は娘と結ばれた後も、竜宮城で美酒に酔っている。彼の受けた儀式とは、シャカオの儀式だったのであろうか?

 早速この村の長老、カーロス・ソースさん(73歳)にインタビューをしてみた。そして、思い切って初めから核心をつく質問をした。ベルナルドさんの言っていた『下』の話をしてはいけない、というのは一体どういうことなのか?するとカーロスさんは一瞬考えた後、こう言った。

 「あそこには祟りがあるんだよ、恐ろしい祟りが」。その先は、口をつぐんだ。ナン・マドールには、はたしてどんな秘密がかくされているのであろうか?

100回記念スペシャル 浦島太郎伝説の真実

2000/09/14 奇跡体験!アンビリバボー by Fuji TV

第三章 開けてはいけなかったもの

 得体の知れないタブーを前に、取材は行き詰まってしまった。それは無理のないことだったのかもしれない。我々は、開けてはいけない玉手箱を開けようとしていたのだから。

 そんな中、何人もの聞き込みを経てたまたま出会った人物が、重要な証言をしてくれることになった。彼の名は、ウェンドリン・Y・ライノス氏(35歳)。

 彼に浦島太郎の絵本を見せると、腰蓑を見て、ポナペの古い民族衣装だといった。彼は、家に代々伝えられてきた貴重な伝説を聞かされて育ってきたという。そこで、長老たちの話すナン・マドール遺跡のタブーについて聞いてみたのだが、やはり彼も答えをためらっていた。

 我々は、日本の浦島伝説とポナペ島には強い関連があるとの確信があるのだが、ナン・マドールのタブーで調査が行き詰まっていることを正直にうち明けた。彼はしばらく考え込んだ。そして、かなりの葛藤を経た後、こう言った。「明日、ナン・マドール遺跡でお話ししましょう」。

 翌日、ライノス氏とは最大の島、ナン・ドーワスで会った。この島の意味は、「神聖にして冒すべからざる所」で、代々ポナペを治めてきた王たちの墓がある。墓のある石室の前で、彼はこんな話をした。この遺跡の調査に来た外国人が、発掘した遺骨を国に持ち帰ってしまったという。

 墓を荒らされた王族の幽霊たちは怒り狂っているので、ここに来ると祟りがあると住民は考えているようだ。この島の石室の下にも、王族の墓はあるという。では、長老の言っていた『下の世界』とは、地下にある石室で、祟りは王族の怒りなのであろうか?

 しかしライノス氏はそれを否定し、海辺の方へ向かい始めた。彼が目指していたのは、遺跡の海への出入口の場所だった。そこへ向かう途中、彼は「昔の王たちはポナペを支配する為、どうしてもこの場所に都を築く必要があった」と話した。

 海を前に、ライノス氏は語り始めた。ナン・マドールの意味は、ポナペ語で「天と地の間の場所」という意味で、地はポナペ島の住民が住む場所、間は王族貴族の住むこのナン・マドールを示した。そして、出口の先には、「天」の意味する場所があるという。王族たちは、その神聖なる天の近くで島を支配したのだ。

 天こそ、我々が求めていた核心だった。彼はついに、誰も話さなかったタブーについて口を開いた。

 この出口を出た所に、カーニムエイソと呼ばれる街が沈んでいると言われている。

 昔、ある男が海を泳いでいると亀に出会い、泳いでついていくと海底都市をみつけたというのだ。(聖なる都市)という意味のカーニムエイソは、むやみに話をすると祟りがあると言われている。さらに彼の次の言葉に、我々は鳥肌が立ってしまった。

 「その海底にあるカーニムエイソでは、時間の感覚がなくなってしまうんです」。  まさに浦島伝説ではないか!さらに、このカーニムエイソの先にはナカップ島というマングローブに覆われた小さな島があるのだが、ここはその昔、『ウラノシマ』と呼ばれていたというのだ。

 これらは、日本軍がポナペ島を占領するはるか以前から伝えられてきたことだった。それだけではない。カーニムエイソが沈んでいると伝えられている海域は、科学的にも特別な場所だった。

 これは本間さんらの海洋調査で明らかになったのだが、ナカップ島とナン・マドールの間には、時折強い磁気が発生する海域があるというのだ。調査中も機器の故障や、強い静電気を感じて鳥肌がたつということがあったと、本間さんは話していた。時間の感覚がなくなるというのは、強い磁場の影響なのか?

 カーニムエイソは本当に存在したのであろうか?我々は海底を調査することにした。海の中は、思った以上に見通しが悪い。ところが進んでいくと、先にぼんやりと巨大な影が見えてきた。5mはあろうかと思われる丸い柱だった。海底からまっすぐ伸びるこの柱は、明らかに不自然だった。

 調査を広げると、このような柱は合計19本見つかった。高さは、高いものでは7mほどもあった。また、比較的視界の開けた所の海底を見ると、あちらこちらに、ナン・マドール遺跡を作り上げたものと同じような巨石が横たわっていた。

 19本の石柱は、何かの規則性に従っているように、丸みを帯びて並んでいた。実はそれは、磁場の強い海域を囲むような並び方だったのだ。

 磁場の異常が見られる場所は、長い年月に渡って降り積もった堆積物で厚く覆われていた。仮に一万年前に沈んだ何かがそこにあっても、4mもの堆積物が上にあることになるという。

 ポナペ島で見つけた、浦島伝説との数多くの一致。ポナペ島で遙か昔に1人の男が体験した不思議な出来事が、浦島伝説の元になったと考えざるを得ない。そしてこの話が、ポナペ島にたどり着いた日本人が再び日本に持ち帰って伝わったかして、浦島伝説のオリジナルとなったのではないだろうか。

 ポナペの人たちは、もともとは自分の島の話を、日本軍に支配されている時に教えられ、それを日本の昔話として覚えているのだ。これは、歴史のいたずらというのだろうか。

 最後に残ったのは、玉手箱の謎である。ライノス氏は、カーニムエイソの伝説の最後をこう語ってくれた。「その男は海の底で、カーニムエイソでの体験を絶対話してはいけないと言われた。しかし、地上で彼は周りの人たちに話してしまったんですよ。その瞬間、男は死んでしまったのです」。男は、開けてはいけない玉手箱を開けてしまったのだ…。


ポンペイ島の海上遺跡 “ナン・マドール” が秘境すぎる…

2014年09月11日 byNAVERまとめ

ナン・マドール遺跡状況調査

2011/12/01 By 文化遺産国際協力コンソーシアム

ナン・マドール遺跡 Nan Madol Ruins 1997年2月16日公開 By Kiyomi TSUKADA(塚田 清実)--不明--

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