TOPIC No.2-74-3-5『やばいぞ日本』第5部 再生への処方箋日本産経新聞

01. 【やばいぞ日本】第5部 再生への処方箋 

【やばいぞ日本】第5部 再生への処方箋 夢と憧れの扉たたき続けた

2007.12.04 MSN産経新聞

 子供のころからの夢と憧(あこが)れだったロシアの名門ボリショイ・バレエ団入団を求め、毎日通い詰め、重い扉をたたき続けた。だが、建物の中にさえ入れてもらえない日々が過ぎていく。

 唯一の日本人ダンサー、横浜市出身の岩田守弘(もりひろ)さん(37)の苦闘の時代であった。

 1993年、バレエの神髄を学ぶため、ソ連に留学して4年目、「モリ」と呼ばれる彼は23歳だった。モリはその少し前、世界3大国際バレエ・コンクールである若手ダンサーの登竜門、モスクワ国際バレエ・コンクールで金賞を獲得した。その1年ほど前には全ロシアで唯一のバレエ・コンクール、アラベスクで最高のグランプリ大賞を史上初めて受賞した。

 所属していたバレエ団を辞め、背水の陣を敷いたそんなころ、思いだすのはいじめられた幼年時代だった。友達に1カ月くらい口をきいてもらえず苦しかった。「自分が強くなれば、いつか同じような子を助けてあげられる」。そう思って乗り越えた日々がよみがえった。約1年ほど通い続けたある日、チャンスが突然訪れた。

 研修生として入団を許されたのである。「ロミオとジュリエット」の道化役をもらった。

 だが、うまく踊れなかった。恩師は「ひどい舞台だ」と一言。情けなさと悔しさがこみ上げ、みんなが45分のレッスンを1日1回するところを、3レッスン連続で行った。帰宅後もビデオを見て必死にバレエの巨匠たちをまねて練習を重ねた。

 そのころ、外国人に冷ややかだったボリショイの伝統も、ソ連崩壊とともに変わった。契約制に移行し、95年に初めてオーディションが行われた。モリは主役で踊ることを許される「ソリスト」に選ばれた。

 だが、ソリストと言っても、舞台の数が少なかった。「よそ者」への冷ややかさは簡単にはなくなりはしなかった。

 ボリショイには、足が高く上がり、若くて実力あるダンサーが数多くいた。モリは166センチ。ロシア人と比べ小柄だ。主役が務まらないこともある。

 「つらいが事実です。でも、だからこそ、高く跳べるようになった。人には自分の持ち場がある。どんな小さな役でも一生懸命やれば、喜びは必ず見つけられます」

 モリは今、「バレエ衣装をまとったサムライ」(有力日刊紙イズベスチヤ)と紹介されている。これまでに200回以上の舞台をこなし、4年前からは中心的なダンサーである第1ソリストだ。約250人の踊り手を抱える世界最大のバレエ団で、わずか13人しかいない現在の地位を得た。その肉体は鍛え抜かれ、高い跳躍と鋭い回転はひと際目立つ。情感豊かで、時にユーモラスな演技は観客を魅了し、大きな拍手と「ブラボー」の熱い声援が送られる。

 ロシア・バレエ界の巨匠で、振付家のミハイル・ラブロフスキー氏はこう評価する。

 「モリは、拝金主義に侵されたロシア人ダンサーが失いつつある精神の力を信じている。その力は、肉体の力とは異なり無限だ。精神の力を重視したサムライの魂を宿した芸術家だ」

 日本に安住するより、思い切って外に飛び出し、自らを鍛えたモリに頑張りの秘訣(ひけつ)を尋ねると彼はこうほほえんだ。

 「どこからエネルギーが出てきたのでしょうか。美しいものに憧れていたんですね」(内藤泰朗)

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 ■「必ず孫悟空になるのだ」

 「京劇の虜(とりこ)になった苦行僧」(北京晨報)、「夢追人」(中国戯劇誌)といった見出しで、中国メディアから報じられている日本人の京劇俳優がいる。石山雄太さん(32)(本人提供)。京劇界の最高峰、中国京劇院(現・中国国家京劇院)メンバーで、初めての外国人京劇俳優だ。

 一人っ子世代の甘えた若者が増えている中国で、夢のために厳しい修業に耐え、異文化の壁を越えた石山さんのガッツは中国人にとっても新鮮だった。

 11月、天津外国語学院で開かれた第3回日中友好の声全中国日本語弁論グランドチャンピオン大会に、石山さんは特別審査委員として列席した。幕あいに、京劇「鬧天宮(とうてんきゅう)」(孫悟空大暴れ)の一部を披露した。

 そこには孫悟空がいた。如意棒をくるくる回しながら舞台の右へ左へ、はね回る。北京在住の作家・莫言氏が「石山の孫悟空は原作の精神を裏切ることなく大胆にアレンジを加えている」と絶賛したのもうなずける。

 石山さんは、中国一の日本語スピーカーの座を競う中国人学生たちにこうエールを送った。

 「京劇のせりふは先生の口移しで覚えるのですが、少しでも発音を間違うと、先生から太鼓のバチで口をつつかれる。何度も間違い、口の端が切れて血が流れます。でも、そうやって身につけた言葉は忘れることはありません」

 14年前、高校卒業と同時に中国の梨園(りえん)という異文化の極地に単身飛び込んだ無鉄砲な自分を思いだしたのか、顔が少し赤かった。

 東京・浅草生まれ。小さいころはぜんそく持ちの病弱な少年だった。小学生のとき、テレビ中継で偶然みた京劇の孫悟空に心を奪われた。「私のスーパースター。あんな孫悟空になりたい」と。

 近所の中国語教室に通い、大人にまじって地域の京劇研究会に参加した。高校は私立関東国際高校の中国語コースを選んだ。両親はあきれかえりつつ黙ってやりたいようにさせてくれた。

 1993年、京劇役者の養成機関である中国戯曲学院付属中学に留学した。

 修業は過酷を極めた。

 足をバーに縛って逆立ち45分。鼻血がぽたぽたと落ちてくる。自分が孫悟空を演じる姿を思い浮かべて踏ん張り続けた。

 孫悟空の役づくりを研究するため、休日には動物園に通った。「サルがモノを食べる表情やちょっとしたしぐさを見詰めていた。そのうち自分の五体にサルの感覚を染みこませるような感じになるのです」

 生活費も切りつめた。「ひざのぬけたズボンや片袖のとれたシャツなんか着ていたら、先輩が気の毒がってコートなどを譲ってくれた」

 付属中から大学まで8年の専門教育をうけて2002年、中国京劇院の入団テストにパスした。「今に至るまで、必ず孫悟空になるのだ、という思いが自分をささえてきた」

 石山さんはこうも語った。「ただ好きなことをやってきただけ。日本では好き勝手やっている若者がニートだ、フリーターだと嘆かれているけれど、自分も同じ」。それでも日本社会には自ら進路を選び、チャレンジできる自由があった、と振り返る。

 「まだまだ旅の途中の孫悟空」。始まったばかりの石山さんのドラマは、新しい世界に飛び込み挑戦しようという人たちに夢と勇気を与え続けている。(福島香織)

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 最終部は、海外で活躍する日本人などを追いながら、日本再生への処方箋(せん)を探る。

【やばいぞ日本】第5部 再生への処方箋(2)心意気の起業が実を結んだ

2007.12.05 MSN産経新聞

 米国の金融機関のどこも見向きもしなかった移民労働者向けの送金サービスのビジネスモデルをつくりあげた日本人がいる。枋迫篤昌(とちさこ・あつまさ)氏、54歳。

 「マイクロ(ごく小さな)」という名の通り、全世界の移民労働者とその家族に低利の少額無担保金融サービスを提供する「マイクロファイナンス」(MFIC)社長だ。

 ハーバード・ビジネススクールは来年2月、MFICを「国際起業コース」の教材として取り上げることにした。有力誌「アメリカン・バンカー」は6月、「MFICは送金ビジネスを一変させようとしている」と報じた。

 注目されているのは、これまで金融システムから排除されてきた3000万人以上にのぼる中南米系移民に徹底的に報いようという「枋迫モデル」だ。

 移民労働者の大半は銀行口座を持たない。現金でその日を暮らし、残る現金を国元の家族に送る。既存の送金業者は窓口を防弾ガラスと鉄格子でふさぎ、15%もの送金手数料をとる。地元で待つ妻は米ドルをメキシコ・ペソへ両替する為替手数料などで、さらに20%を費やす。200ドル送っても、家族には130ドルしか残らない。

 ところが枋迫モデルは、200ドルの送金手数料を3・5%に設定した。店と顧客を仕切るのはただのカウンターしかない。無担保小口融資もその一つだ。

 記者は首都ワシントンの中南米系居住区にあるMFICの店舗を訪ね、こんな利用者の声を聞いた。「私たちはこの国で初めて人間らしい扱いを受けた」(ボリビア人)、「ハリケーンで家を失った親戚(しんせき)のための資金を融資してくれた」(グアテマラ人)…。

 枋迫氏とは何者か。話は20年以上さかのぼる。東京銀行(当時、現三菱東京UFJ銀行)行員の枋迫氏のもとにメキシコ・インディオの行商人ホセさんから1通のはがきが届いた。

 「セニョール、『いつまた来るのか』と、あなたに尋ねたあの子は亡くなりました」

 枋迫氏は1979年、27歳の時、メキシコの古都グアナファトにスペイン語研修で留学していた。ホセさんとは道端で辞書片手にスペイン語で会話するうちに親しくなり家に招かれた。岩だらけの山の中腹、ワラで覆った小さな家。椅子(いす)代わりの岩に腰掛けると、スープやトルティーヤ(ひいたトウモロコシから作るメキシコの薄焼きパン)が出され、男の子3人を入れた家族全員と一緒に楽しんだ。

 山を下りようとすると、3歳の末の男の子が「帰らないで」と袖を引く。「だっておじさんがいるから半年ぶりでお肉が食べられたんだよ」と澄んだ大きな目で訴える。「そうか、スープに浮かぶ黒ずんだ紙切れのようなものが」と絶句した。

 自身の少年期が脳裏に浮かんだ。広島・尾道の田舎道を1時間かけてかよい通した幼稚園。小学校の給食代金袋を、母の背中を見て、出しそびれた。看護婦だった母親は「他人を外見だけで判断するものではありませんよ」とさとした。傷痍(しょうい)軍人の父親からは規律を教わった。

 同志社大から旧東銀に入行した枋迫氏は、貧しいインディオの家が点在する道すがら、こう思い立った。「底辺の人々のためになる金融サービスはできないものか」。少年の死を知って決意はいよいよ固まった。

 2003年、枋迫氏がワシントンでMFICを立ち上げたとき、応援したのは彼の心意気に感じた日本人たちであった。

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 ■「底辺の人たち助けたい」

 MFICへの出資者約110人のうち100人は日本人であった。出資金940万ドルのうち、870万ドルを占める。

 その一人、杉崎重光元国際通貨基金(IMF)副専務理事は「みんな枋迫氏の男のロマンについていこうと思った」と言う。

 「オイルマネー」で知られるアラブ首長国連邦(UAE)の外国為替送金公社の首脳はこう語った。

 「MFICのビジネスモデルはいかにも日本人らしい。戦争に敗れてすべて失ったのに、一個人も一企業も少しずつみんなおカネを集めて共存し見事に復興した。ぜひ、当方にも投資させてください」

 銀行、企業、官庁の主導で日本は高度成長を遂げたがバブル崩壊で大きくつまずいた。

 しかし、個々人に高い志を実行に移す決意があれば、他の日本人が呼応する。それが国際的に日本の価値を認めさせる。そんな力を日本人が失ってはいないことを枋迫氏の挑戦が示している。

 しかも、その挑戦は「縄張り」に食い込むことであった。MFICの主力事業の移民向け小口送金サービスについて、米国では大手の「ウエスタン・ユニオン(WU)」などの独壇場とされていた。WUはワシントンで強大な政治的影響力を持っていた。

 まさに巨人に立ち向かう大冒険といえるが、枋迫氏は「米金融界に受け入れられるため、まずワシントンの常識を身に付ける必要がある」と考えたという。

 創業する前にジョージ・ワシントン大学の経営管理学修士(MBA)夜間コースに通い、1年半でMBAを取得した。

 2003年のMFIC立ち上げ時には金融界の重鎮、ボルカー元米連邦準備制度理事会(FRB)議長にビジネスモデルを説明し、ボルカー氏の推薦でIMFなどの民間諮問機関「ブレトンウッズ委員会」の創設者グループの一員、J・オア氏をMFICの会長に迎えた。

 海外送金は、米中枢同時テロの「9・11」後に制定された「愛国者法」により、厳しくチェックされるが、オア氏は米議会の公聴会でMFICの送金システムの安全性を証言した。

 米国での移民労働者の融資潜在市場規模は年間で750億ドルにも上る。

 「私もいわば関西人。もったいないですよね」

 枋迫氏は無担保小口融資の発想を説明し、「相手の目を見ながら返済能力を見切るのが金融の王道」とも語る。

 固定客は9店舗、合計約5万人で、焦げ付いて償却せざるをえなかった割合は1・2%。約7%といわれる日本の消費者金融に比べて数段よい。

 米国での住宅バブル崩壊とともにつぶれた低所得者向け高金利型住宅ローン(サブプライムローン)との違いは鮮明だ。

 しかもMFICは送金決済ネットワークを独り占めにせず、広く世界の金融機関に開放した。同システムを導入した金融機関の数は急増を続け、最近時点では世界の90カ国、約3万の拠点がMFICシステムのネットで相互に結ばれた。

 途上国住民の10人のうち1人が移民労働者といわれ、受け入れている先進国ではフランスの暴動のように深刻な社会問題が起きている。移民向け金融は途上国の貧困問題の根幹にかかわる。

 枋迫さんが築いた「マイクロ」拠点は、そうした問題解決への巨大な実験になるかもしれない。移民労働者と同じ目線が日本モデルといえる枋迫モデルの強みである。(田村秀男)

【やばいぞ日本】第5部 再生への処方箋(3)「網の目」広げマラリア制圧

2007.12.06 MSN産経新聞

 かつて生活の必需品だった蚊帳を家庭で見ることはもう、わが国ではほとんどない。だが、日本の代表的な総合化学メーカー、住友化学ではいま、その蚊帳こそが「企業の顔」ともいうべき重要な製品に位置づけられている。

 東京都中央区新川の同社本社を訪れると、少女と蚊帳の写真の巨大パネルが受付に掲げられていた。

 ≪マラリア防圧へ。私たちが開発した防虫蚊帳が、アフリカの子供たちを守っています≫

 ホームページにも、真っ先に「アフリカのマラリア防止」の見出しで≪防虫剤を練り込んだ蚊帳「オリセットネット」を開発し、WHOが推進するキャンペーンに協力しています≫と書かれている。

 同社の大庭成弘専務(64)はオリセットネットについて「100億円強のビジネスなので、住友化学全体からすれば0・5%から0・6%。事業規模は大きくない」という。

 ただし、貢献度は金額だけでは測れない。マラリアは、病原体のマラリア原虫に感染した人の血を吸った蚊が媒介して広がる感染症で、年間3億人が発症し、100万人が死亡する。エイズ、結核と並ぶ世界3大感染症であり、アフリカでは子供の死因の1位。住友化学が開発した蚊帳により、そのマラリアの制圧に希望が出てきたのだ。

 「ハエ、カ、ゴキブリなどの駆除は住友化学50年来のビジネス。事業規模は小さいが、いわば本業の分野での社会貢献が企業のブランド価値を高め、社員や家族も会社に誇りを持っている」と大庭専務は強調する。

 半ば忘れられかけていた本業を生かすことが、地球規模の課題に対する貢献につながり、企業全体の士気を大きく高める。その経験はこれからの日本にとっても教訓的である。

 そのオリセットネットの開発者で、同社ベクターコントロール部の伊藤高明・技術普及課長(59)に話を聞いた。

 伊藤さんは1973年に入社した技術者で、夜間操業の工場用に防虫網戸の研究をしていた85年当時、「蚊帳に殺虫剤処理すると蚊の駆除に有効である」とする論文が世界で相次いで発表されたことから、殺虫剤を染みこませた素材で蚊帳を作る研究をこつこつと進めていた。

 当時の殺虫剤処理をした蚊帳は洗うと薬が流れてしまい、半年に1回、殺虫剤溶液に蚊帳を浸し直す再処理作業が必要だった。先進国の援助で大量に蚊帳の提供を受けても再処理費用までは手が回らず、途上国では結局、宝の持ち腐れである。

 一方、工場用の防虫網戸にはポリエチレン樹脂に殺虫剤を練り込み、それを糸にして網戸を作る技術が確立されていた。最低5年は効き目が持続、この間は再処理の必要もない。網戸の技術を転用することで素材の樹脂の売り上げも伸ばせるのではないか。そんな計算もあった。

 だが、ポリエチレン樹脂の蚊帳は、通気性の面でアフリカでは実用に適さない。平たく言えば、暑くて眠れないのだ。伊藤さんは実験と観察を繰り返し、決断した。

 「網の目を広げよう」

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 ■「利他の精神」本業を生かす

 殺虫剤を練り込んだオリセットネットの網の目は4ミリ幅。家庭用に使われる一般の蚊帳が2ミリ幅ということだから、面積では4倍の大きさになる。マラリア原虫を媒介するハマダラカは2ミリの穴だと通れないが、4ミリ幅なら通過できる。

 だが、蚊の習性として、網目をすっと通り抜けてはいかない。ネットにぽんぽんと突き当たるように飛んでき、そこに殺虫剤が練り込んであるので蚊帳の中に入る前に落ちていく。実験を重ね、通気性と蚊帳の機能の両方を追求したぎりぎりの選択が4ミリだった。

 住友化学は2000年、世界保健機関(WHO)から(1)オリセットネットの増産(2)アフリカへの技術移転−を依頼された。製品評価の結果、WHOがマラリア対策の有力な武器として認めたからだ。無償の技術移転にも「当時は社内的認知度が低く、ビジネスとしてはゼロに近かったので、貢献してもいいだろうということになった」と伊藤さんは振り返る。

 アフリカではマラリアが治っても、また次の年に蚊に刺され発病する人が多い。貧困がマラリアの流行を促す環境を生み出し、マラリアがさらに貧困の悪化に拍車をかける。

 そうした負の循環が蚊帳によって変わり、米国のNGOのニュースレターではタンザニアの農家の写真が紹介された。荒廃していた裏庭がオリセットネットの支給から1年後には、豊かな作物が実る畑になっていたという。

 「アフリカの蚊の原虫保有率は4%。月に100回蚊にかまれると4回感染する計算です。蚊に刺される機会を減らし、感染する人が減れば、蚊の原虫保有率も下がる」と伊藤さんは説明する。

 オリセットネットの工場は中国とベトナムに各1、タンザニアに2。タンザニアの1カ所は現地企業に技術を供与し、もう1カ所は現地企業と住友化学のジョイントベンチャーだ。原料の殺虫剤を練り込んだ樹脂ペレットは日本で製造し、海外4工場で糸にする。

 その糸を縫製して蚊帳に編む工程に人手がかかるので、住友化学はエチオピアなどでも新しい縫製工場の開設準備を進めている。

 タンザニアのアリューシャという町ではオリセットネットの工場が3000人から4000人の雇用を創出し、物流などへの波及効果も大きい。技術供与をきっかけに住友グループ各社でアフリカに小学校を造る社会貢献事業も生まれた。

 「アフリカに行くと、日本への信頼が厚いことを感じる」と大庭専務はいう。

 世界エイズ・結核・マラリア対策基金(世界基金)の存在も大きい。2000年の九州沖縄サミットで日本は、世界の3大感染症と闘うには途上国に新たな追加的資金の支援が必要だと呼びかけ、2年後に発足。コンセプトは日本が作ったといまも評価される。

 先進国の拠出金が世界基金を通じて途上国の感染症対策に生かされることで、途上国が自力では購入困難だったオリセットネットのマーケットが出現し、住友化学も最小限のビジネスモデルを維持しつつ国際貢献を果たすことができる。

 オリセットネットの年間生産量は3000万張。需要はアフリカだけで8000万張以上。「住友の創業の精神は自利利他、公私一如。企業は自分だけがもうけるのではなく、社会に貢献しなければならない」と大庭専務は話す。

 蚊帳の開発に必要だったのは最先端技術ではない。素材部門と害虫駆除の部門がそれぞれ持っていた技術を横断的に結びつけることで新たな飛躍があった。

 大切なのは必要性をつかむ想像力である。(宮田一雄)

【やばいぞ日本】第5部 再生への処方箋(4)「海賊退治になぜ動かない」

2007.12.07 MSN産経新聞

 海上で黒煙を上げている写真(米海軍提供)を見てほしい。東京の海運会社が所有するパナマ船籍のケミカルタンカー「ゴールデン・ノリ」(6253トン)を襲撃した海賊船のボートが撃沈されたときのものだ。

 海賊に乗っ取られたタンカーを追跡した多国籍軍所属の米駆逐艦「ポーター」が警告射撃のうえ、タンカーに曳航(えいこう)されていたボートを撃沈した。逃走用だった。10月28日、アフリカ大陸東端のソマリア沖で起きた海賊事件の経過である。

 ゴールデン・ノリは引火性のベンゼンなどの化学品を積み、シンガポールからヨーロッパへ向かう途中だった。乗員は韓国人2人、フィリピン人9人、ミャンマー人12人。日本人はいなかった。現在は身代金交渉中ともいわれ、海運会社は「詳しい状況は話せない」とほぼ沈黙を守っている。

 当時、海賊に襲撃されたのはゴールデン・ノリのほか、2隻の韓国漁船、1隻の台湾貨物船など計4隻だった。海賊が出没するこの海域は、スエズ運河を経由して、欧州とアジアを結ぶ海上交通路(シーレーン)に位置する。日夜、シーレーンの安全を守っているのは、米軍などの多国籍軍だということがおわかりいただけるだろうか。

 事件から5日後の11月2日、多国籍軍艦船に6年間、給油支援を展開してきた海上自衛隊の給油艦と護衛艦は撤収した。

 米太平洋艦隊の司令部があるハワイ・ホノルル。2年前から米海軍アドバイザーを務める戦略地政学者の北村淳氏(49)が驚いたのは、海賊事件への米メディアの扱いが日本に比べ、大きいうえ、「日本の船」「日本のタンカー」などと頻繁に紹介されていたことだ。

 この事件を契機に多国籍軍は海賊討伐に本腰を入れ始めた。

 この海域の海賊については、ソマリアの軍閥が後押しし、手に入れた身代金で武器を買い入れ、アルカーイダに横流ししていた。テロリストの資金源を絶つ絶好のチャンスである。

 11月27日には国際海事機関(IMO)が、ソマリア沖の海賊と武装強盗への対応を強化する決議を総会で採択した。この決議は国連に付託され、国連決議となる方向だ。

 世界がシーレーンの安全を守ろうと動いているのに、海賊事件の当事国であり、恩恵を受ける日本は多国籍軍から脱落したまま、動こうとしない。

 ハワイの大学院で教鞭(きょうべん)をとっている旧知の退役海軍大佐は北村氏にこう語った。

 「日本が憲法上の問題を抱えて海自が『実戦行動』を取れないことは承知しているが、撤収は常識的に理解できない。日本はもう何もしないのか」

 退役大佐は、海自の能力を高く評価し、日本が国際共同行動の一員の役割を果たすことで、「普通の国」になると期待していただけに、やりきれない表情をのぞかせたという。

 パールハーバーには12月5日現在、日本のイージス艦「金剛」と「あたご」が停泊している。米側から弾道ミサイル防衛システムを供与されている最中だ。こうした最新鋭のイージス艦を6隻(1隻は来年就役)保有し、哨戒機P3Cを100機稼働させられるのは米海軍以外には日本だけだ。

 海賊討伐のため、日本は護衛艦を出動させ、哨戒機による海上パトロールを実施できる能力を持っている。国会で審議中の新テロ特別措置法案は給油と給水に限定され、海自は、パトロールなどの任務を与えられない限り、対応できない。

 だが、国際社会は、なぜ日本が共に汗をかこうとしないのか、に目を凝らす。日本が今のままの内向きな姿勢では世界から取り残されかねないことを北村氏は危惧(きぐ)している。(鵜野光博、中静敬一郎)

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 ■海峡の「守り人」には信頼

 日本の最重要シーレーンの一つであるマラッカ海峡の航海の安全を18年にわたって守っているのは佐々木生治(せいじ)さん(56)だ。

 マレー半島とスマトラ島との間に延びる約1000キロのこの海峡を、中東諸国から日本に向かう石油タンカーの約8割が通過する。

 年間9万隻以上の外航船が航行するのに、航路幅は最小で約600メートルと非常に狭い。浅瀬や岩礁も多いため、大型船には交通の難所となっている。

 そのため海上で発光して位置を知らせる航路標識の重要性は高い。日本は1970年代に正確な海図作製に協力するとともに、財団法人マラッカ海峡協議会を通じ、約50カ所の標識のうち30カ所を寄贈した。佐々木さんはそのすべてで敷設前の海洋調査から工事、維持管理までを沿岸国とともに行ってきた。

 「標識の明かりが消えたら、安全のため一刻も早く直さなければならない。船の衝突や標識が壊れたという知らせが入れば、すぐに回収し、代わりの標識を入れるのが私の仕事」

 日々のメンテナンスも重要だ。同海峡の航路標識には巨大な灯台から人の背丈ほどのブイまで5種類がある。特に発光に必要な太陽電池の性能維持には気を使う。寿命が来た電池の取り換えだけではない。

 「大敵は鳥の糞(ふん)です。パネルに落ちても発電量が落ちる。鳥が来ない仕掛けを作り、鳥と知恵比べをしている」

 仕事はすべて、海峡を囲むインドネシア、マレーシア、シンガポールの船員との共同作業だ。一緒に仕事をしてきたインドネシアのイプール・シャイフル船長(43)はこう佐々木さんを評価する。

 「とにかく現場に向かい、3国の間に入る行動の人。設備も貧弱な現場ですべてがスムーズに進んだのは、ササキのリーダーシップによるものだ」

 生まれ育ちは「岩手県の山の中」。小学生になるまで海を見たことがなく、それが逆に海へのあこがれを募らせた。高校卒業後に海洋調査などを行う民間のコンサルタント会社に就職。シンガポール空港建設の現場指揮でマレー語を勉強し、1990年に「現地で意思疎通ができる即戦力」としてマラッカ海峡協議会に迎えられた。

 「着任当初は、常にカリカリ怒っていた」と笑う。出航時間を守らず、海に平気でペットボトルを捨てるインドネシア船員をどう指導するかが課題だった。

 ペットボトルで作ったリサイクルTシャツを船員に見せながら、「ゴミを捨てるな」と諭し、先頭を切って出航準備に当たるなどして自ら範を示した。

 マラッカ海峡は2004年に海賊事件が年間45件発生した。その後は減少傾向だが、「被害届がないものは相当数ある」と佐々木さん。反政府勢力も活動し、「人質にされないために現地風の名前で呼ばせ、軍人を雇ったこともあった」という。

 「いつか必ず」と思い定めた仕事がある。1944年7月、同海峡で英潜水艦に撃沈された伊166号の発見だ。2004年に超音波による最初の探索を行ったが、発見できなかった。

 「88人の乗員も沈んだまま。ご遺族が健在なうちに、必ずもう一度挑戦し、見つけ出したい」

 日本に帰国中でも、標識に事故があるとまずシンガポールから一報が佐々木さんに入る。佐々木さんは日本からインドネシアの基地に出動などの指示を出す。現地の信頼はこの上なく厚い。「ただ、長くやってきたおかげです」。シーレーンの守り人は、はにかむように笑った。(鵜野光博)

【やばいぞ日本】第5部 再生への処方箋(5)米に500万人の「日本びいき」

2007.12.08 MSN産経新聞

「Jポップ」がちりばめられたサンフランシスコのオフィスで、「日本売り込み」を練る堀淵さん「Jポップ」がちりばめられたサンフランシスコのオフィスで、「日本売り込み」を練る堀淵さん

 日常的に日本文化にふれ、興味を持ち、日本から刺激を受けている500万人の集団が、米国に生まれた。

 米国でのマンガ、アニメブームの仕掛け人といわれる堀淵清治(ほりぶちせいじ)さん(55)の見立てである。サンフランシスコのオフィスで、こう数字をあげて話し始めた。

 「SHONEN JUMP(少年ジャンプ、男子向けマンガ雑誌)が実売で月に20万〜30万部出ている。SHOJO BEAT(少女ビート、女子向け)は約3万部だ。それが最低3、4人には回し読みされていることが、読者アンケートから明らかになっている。つまり、約100万人の米国人が、僕らを通して毎月、日本の文化に触れているわけだ」

 「むろん、僕ら以外にもマンガは出版されているし、ゲームや映画といった他の分野経由での日本への関心も大きくなっている。ざっとひっくるめて、日本びいきの500万人くらいの集団が、米国に生まれたと考えていい」

 彼ら彼女らは、少々変わり者かもしれない。だが、平均年齢15歳と若く、日本に理解と親近感を持ち、そしておそらくは知的にも柔軟な層である。「この500万人のかたまり。日本にとって宝物だと思う」

 1975年に渡米。現地の大学を中退し、山中のコミューンで共同生活を送るなど、筋金入りのヒッピーだった堀淵さん。堅苦しい議論は性に合わないという。本来はミュージシャン志望だった。

 86年、日本のマンガを米国で売るという、当時は奇想天外に思えた理想を掲げ、社員4人だけで発足したビズメディアは、今、年商90億円を売り上げるまでに成長した。これまでに手がけたタイトルは「カムイ外伝」「ポケモン」「うる星やつら」などだ。

 今や一般書店の売り場を「グラフィック・ノベル」、つまり日本発祥のマンガが占拠する時代である。

 全米最大のマンガ、アニメの祭典「サンディエゴ・コミコン」には今年約13万人が押し寄せた。いわゆる「アメリカン・オタク」は米社会に着実に定着しつつある。

 もっとも創業当時は、そんなブームが来るとは想像もしなかった。

 「経済の効率化と合理化だけで動く現代米国は、文化的にはもはや不毛の地だ。若者たちは文化に飢えている。そこに、日本のポップカルチャー(大衆に好まれる文化)がすっぽりとはまった」

 堀淵さんは、ブームの背景をこう分析する。

 ただし、堀淵さんは、自分自身を「オタク」とも、マンガの伝道師とも思ったことはない。

 「確かにアニメ、マンガはおもしろい。だけどもっとおもしろいのは、そういうものを作り出す総合体としての日本という存在でしょう」

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 ■若者の文化的飢えを満たした

 「クール・ジャパン」などと、海外における日本のポップカルチャーへの熱狂が語られて久しい。

 だが一方で、それは特別なマニアに限られた熱狂を大写しに引き延ばしただけではないか、という懐疑も根強い。

 米国に出現した、日本びいきの「500万人のかたまり」。堀淵氏のいう、この集団について考えてみることは、もう少し正確に日本の存在感を測定するために役立つかもしれない。

 彼らはむろん、今の米社会の主流層ではない。マンガ、アニメといった文化自体が、「サブカルチャー」(社会の主流層ではない少数が担い手となる文化)として機能しているのは、米国でも変わりない。

 「“アメリカン・オタク”は日本と違って屈折していない、といわれるが、それは自分自身を自分がどう思っているかについての違いであって、周囲はやはり“ヘンな連中”とみている(笑)」

 とはいいながら、サブカルチャーに限ってみれば、日本の存在感は絶大だ、と堀淵氏はいう。

 「かつて米国はサブカルチャーの中心だった。それが効率化と合理化を追求する中で次第にその地位を失い、今や若者の欲求に応えるようなサブカルチャーが存在しない。だから、日本が受け入れられた」

 3億人に達する米国の総人口の中で、500万人といえば1・6%。この数字を多いと見るか、少ないと見るか。堀淵さんはいう。

 「産業としてみれば、この数字は微々たるものです。しかし、これからアメリカを背負っていく若い世代が、一部にしろ確実に、日本のおもしろさに触れている。それが、なにより重要だと思うんです」

 堀淵さんは最近、サンフランシスコ日本町に20億円の投資をもとに、最先端の日本文化を紹介する「J・POPセンター」を建設することを決めた。

 日本映画を上映するミニシアターや、東京のストリートファッションを紹介するブティック街が入る「日本のポップカルチャーの殿堂」となる予定だ。

 サンフランシスコの日本町は今ちょうど、再開発の波に洗われ、米資本が入り込む中で将来への不安も語られている。

 「J・POPセンター」の建設は、大きな希望を日系人社会に与えている。

 だが、堀淵さんは「恩返し」のつもりで日本町への進出を決めたわけではない。そもそもビズと地元日系社会とのかかわりはほとんどなかった。

 それに、日本の先端文化を売り込むには、停滞が著しく古くさい印象を与える日本町のイメージはむしろマイナスかもしれなかった。

 だが、堀淵さんは日本町にこだわった。単にマンガやアニメを売りたいのではない。なんとかしてアメリカ人に、日本というものを伝えたい。ならば、その場所は日本町以外にない…。

 「ダウンタウンのおしゃれなスポットにあったんではだめです。J・POPこそ、日本町になければならなかった」

 会社設立から20年あまり。無我夢中で走ってきた時期を過ぎ、「ここに来て、自分のミッション(使命)が見えてきた」と思うようになった。

 日本の未来にとって重要な意味を持つ「500万人のかたまり」に水をやり、花を咲かせていくこと。元ヒッピー青年がたどり着いた、意外に地道な結論である。(松尾理也

【やばいぞ日本】第5部 再生への処方箋(6)

2007.12.09 MSN産経新聞

 ■戦闘美少女に「日本」凝縮

 イタリアの大手紙「ラ・レパブリカ」が発行するカルチャー雑誌「XL」に、大阪出身のアートディレクター、Julie(ジュリ)さんの写真集「SAMURAI GIRL(サムライ・ガール)」が4ページにわたって取り上げられたのは、昨年4月だった。

 メード、ロリータファッション、セミヌードなど、さまざまなコスプレ(仮装)をした女の子と、秋葉原の街並みを合成した写真について、XLの記事はこう解説していた。

 「マンガやアニメの登場人物になりきる若者たちは、特異な存在ではない。実生活に幻想が溶け込んだ今の東京が表現されている」

 ファッション誌「VOGUE」や香港誌「MONDAY」も相次いで掲載し、写真集は世界的な注目を集めた。

 あどけない笑顔は10代の少女のようにもみえるジュリさん。年齢をたずねると「それは秘密に…」。本名もふせて、という。ミステリアスな雰囲気も魅力の一つなのだ。

 写真集を出すきっかけになったのは、1枚のコスプレ写真だった。「リボンの騎士」や「風の谷のナウシカ」「セーラームーン」など日本のマンガやアニメ、ゲームのキャラクターに欠かせない戦うヒロイン「戦闘美少女」たちをイメージした写真であった。

 ビキニのセクシーな衣装、首や腕に巻きつけた透明なチューブ、青白い光を放つ日本刀が、SFをほうふつさせる。

 「遊び半分で撮った1枚が評価されて、海外で写真集を出すことになるなんて…。夢にも思いませんでした」。ジュリさんはそう振り返る。

 子供のころからマンガが好きで、中学生のころはマンガ家になるのが夢だった。

 「クラスでは、地味な存在。放課後は図書館にこもって、マンガばかり描いていました」

 「ファイナルファンタジー」や「ドラゴンクエスト」など、ゲームの登場人物を題材にしたパロディーを描いては、同人誌に発表した。同人誌を売買するコミックマーケットには、必ず大好きなキャラクターのコスプレをして出かけたという。

 「写真を始めたのも、そのころから。マンガ家になるには実力が足りなかったけど、ダサいイメージのオタク文化をかっこよく撮りたいなぁと思うようになったんです」

 芸術系の大学に進学したものの、思っていた勉強ができず、1年で中退した。タレントなどを経験した後、本格的に写真の世界へ。

 転機が訪れたのは、フリーカメラマンとして下積み生活を送っていた4年前。作品が知人に紹介されたイタリア人編集者の目にとまり、こう誘われた。

 「あなたの作品に今の日本が詰まっている。イタリアで日本の写真集を作ってみないか」

 与えられたテーマは「日本らしさ」。漠然とした指示にとまどい、客観的に考えてみようと、イタリアに住むことにした。地元の若者と交流するなかで見えてきたのは、日本のマンガやアニメの浸透ぶりだ。

 「日本のアニメがほぼリアルタイムで放送されていることに驚きました。会話して盛り上がるのは『NARUTO(ナルト)』や『ONE PIECE(ワンピース)』といったマンガのことばかり。日本らしさって、歌舞伎とか芸者とか、伝統的なものかと思っていたけど、それだけじゃない。マンガ文化なんです」

 それが、ジュリさんの見つけた「答え」だった。

 ■「漢字と八百万の神々」パワー

 なぜ、日本のマンガがこれほど世界の若者を魅了するのか。

 京都精華大学マンガ学部長の牧野圭一氏は「『漢字』と『八百万(やおよろず)の神々』という日本固有の文化の帰結」と説明する。

 例えば、「重」という漢字がある。日本人なら文脈から「かさねる」「おもい」「え」「ジュウ」「チョウ」…と、瞬時に意味や読み方を判別できる。

 「マンガも漢字と同じ。読者は1コマの絵をみて、パッとその意味を読み取り、自由なイメージをふくらませる。そういう文化が背景にあるから、日本のマンガ家は1コマに必要以上の背景などを描き込まない。伝えたい内容だけを描く。結果的に外国人でも子供でもひと目で分かる伝達力のある作品になる」

 もう一つ。牧野氏は日本マンガの豊かなストーリー性について「森羅万象に神が宿るという日本固有の精神性が下地になっている」と指摘する。

 「偶像崇拝を禁止する一神教と異なり、日本は神様や神獣も自在に造形、擬人化する国。そんな寛容な風土がストーリーやキャラクターの自由な表現を可能にしているのではないか」

 例えば、欧米の悪魔といえば、人間にとって恐ろしい存在だが、日本の鬼や天狗(てんぐ)や閻魔(えんま)大王は、どことなく人間くさい存在として描かれる。「怖いものも決して排除しない。愛嬌(あいきょう)のあるキャラクターにしてしまう」。それは共生の思想といえるかもしれない。

 八百万の神々を崇(あが)めるように、外来のあらゆるものを許容し受け入れるのが日本文化の特性だ。そこから多様なストーリーが生まれる。「マンガを通して、世界の人々は知らず知らずのうち、日本の精神文化のとりこになっている」

 毎年夏、名古屋で開催される「世界コスプレサミット」は、日本のマンガ、アニメの世界的な人気ぶりを如実に表すイベントだ。

 5回目の今年は、独、伊、仏、スペイン、デンマーク、中国、韓国、タイ、シンガポール、メキシコ、ブラジル、日本の計12カ国が参加。予選を勝ち抜いた各国代表が2人1組で、衣装やパフォーマンスを競い合った。

 「各国の演技を見て驚かされるのは、マンガに関する豊富な知識と、流暢(りゅうちょう)な日本語」と、サミットを主催するテレビ愛知の加藤万理さん。

 今年優勝した仏代表は珠黎(しゅれい)こうゆさんのマンガ「ALICHINO(アリキーノ)」のコスプレで、「ガンダム」「ドラゴンボール」「デスノート」など日本の名作のパロディーを披露。約1万人の日本人ファンを沸かせた。

 日本語を学ぶ外国人も急増している。独立行政法人・国際交流基金の調査によると、平成18年の日本語学習者数は133カ国・地域で297万9820人。3年前(235万6745人)に比べて26%も増加した。

 同基金の日本語事業部長、嘉数勝美さんは「マンガやアニメが直接的な原因とはいえないが、海外の子供たちが日本語を学ぶ動機づけに役立っているのは間違いない」と指摘する。

 日本の魅力に気付いていないのは案外、日本人かもしれない。(大衡那美)

【やばいぞ日本】第5部 再生への処方箋(7)コメ作りは海外に飛び出した

2007.12.11 MSN産経新聞

 うまいコメづくりの適地は海外にもあるのだろうか。

 豊かな水と低地が広がり、適度な湿度が必要だ。地球儀をぐるりと回して、日本の北緯35度前後とはちょうど逆の「南緯35度」で探す。

 日本と気象条件がよく似ている南米ウルグアイにそれはあった。かつて米国のカリフォルニア州でコメづくりに励んだ田牧一郎さん(62)と、雑誌『農業経営者』の編集長、昆吉則さん(58)らが適地を絞り込んだ。

 なにかと政治が介入する日本を離れ、外地でジャポニカ米をつくる。日本人による日本向け逆輸出の試みだ。コメづくりの現場は今、政治の思惑を飛び越えて変化のスピードが速い。

 田牧さんに初めて会ったのはカリフォルニアの穀倉地帯だった。福島出身の彼が西海岸にやってきて1年が経過した1990年の暑い夏だ。

 「農業をむしばむ日本の食管制度と離れたかった」

 これが田牧さんを米国に向かわせた最大の理由だ。この年に初出荷した第1号米に「田牧」の名を冠した。

 田牧さんが日本を離れたのは農業疎開だった。耕作面積が狭く、政府の食糧管理制度でがんじがらめのコメづくりに嫌気がさした。郡山市では田植えから収穫まですべてを機械化した。だが、1枚の田んぼが狭すぎて機械力が発揮できない。広げようにも、食管制度に守られた兼業農家が土地を放さない。

 家族を説得して州都サクラメントから北へ1時間半のウイリアムス村で200エーカー(約80ヘクタール)の水田を手に入れた。

 食管制度とは戦時下にできた欠乏時代の法律で、そこに既得権益にぶら下がる人と組織がつくられた。1968年ごろからコメがあまりはじめ、減反政策でコメをつくるよりも転作奨励金をもらう方がもうかる時代があった。

 食管法も12年前になくなり、生産者が農協に頼らずとも台所への直送が可能になった。スーパーでよく見る「〇〇農園のトマト」「××農場のホウレンソウ」もそうだ。

 昆さんに言わせると、空腹の時代から過剰の時代に潮目が変わった。

 「いまや、女性のダイエットから見えてくるのは過剰の中の栄養失調でしょう。消費者が何を求めるかが重要なのに、政治はいまだに旧ソ連のコルホーズ(集団農場)のようなことをやっている」

 グラフを見ていただくと一目瞭然(りょうぜん)だ。日本、台湾、韓国、中国の1人当たりのコメ消費量はいずれも減少傾向にある。逆に、豚や鶏肉の消費量は右肩上がりに増える。

 食の多様化が進む日本では、欲しいモノなら高値でも買うが、欲しくないモノはタダでもいらないというぜいたくな消費行動に変わった。

 消費者を振り向かせるには知恵がいる。山形県庄内のコメ生産者、佐藤彰一さん(53)は、発想の転換としてこんな例をあげる。

 消費者が好んで買うコメは小ぶりの5キロ袋が多い。核家族化どころか、いまは夫婦2人の家庭が増えて、いかにも10キロ袋では多すぎる。それを都会の八百屋の店先で、158円のホウレンソウの隣に、やはり158円の2合袋(300グラム)のコメを並べる。

 「ホウレンソウを1カ月分も買う人はいない。コメもその日に食べる分だけを買いたい人がいるはずです」

 いわばパラダイム転換か。田牧さんは「田牧米」のブランドを米国人に売って、いまは日米をつなぐコメのコンサルタントをしている。その田牧さんと昆さんが組んで、ウルグアイなど海外で「メード・バイ・ジャパニーズ」を着々と進めている。

             ◇

 ■政治のおせっかいは農業に不要

 北にそびえる鳥海山に初冠雪があると、山形県の庄内平野に白鳥たちが舞い降りてくる。収穫を終えた後の田んぼで落ち穂拾いをするためであるという。

 そんな美しい田園風景の中で、いま、農業経営者たちを悩ます一大事が起きている。

 「何が“やばい”かといって、またも政治が農業に口出ししてきたことです。彼らがバラマキ農政に先祖返りしつつあることだ」

 庄内平野の真ん中で、8人のコメ農家が自立してつくった販売会社「米(べい)シスト庄内」の面々が口をそろえる。自身でもコメをつくる社長の佐藤彰一さん(53)に言わせるとこうだ。

 先の参院選では、財源が怪しいのに民主党が農家への直接支払いを約束して大勝した。単なる農家の政治離れなのに、彼らはバラマキ戦術が成功したように錯覚する。とたんに自民党の農林族が浮足立ってきたのだという。

 政治家は、コメ余りが農協などによる消費者のニーズを誤った結果だとは考えない。農林族は余った分を政府備蓄米の積み増しで吸収し、補助金を小規模農家に拡大して支持を引き戻そうとする。

 農家を生かさず殺さず、じいちゃん、ばあちゃんが細々とでも続けることが文字通り「票田」の維持につながる。自立の動きを無視し、農家が「政治に頼る仕組み」でつなぎ留めようとしている。

 佐藤さんはこの時代錯誤に憤る。日本のコメづくりは「つくったから買ってくれ」という時代から、「売れなければつくれない」時代へと大きく転換しているのだという。

 佐藤さんらが1998年に「米シスト庄内」を発足させたのは、山形県の新品種「はえぬき」ができて試食会を開いたことがきっかけだ。消費地を視察して、都内で売られている庄内産のササニシキも買ってきた。みんなで試食してみて、「これがササか」とあまりの違いに驚いた。

 生産者がどんなにうまいコメをつくっても、流通しだいでコメはとたんに劣化する。

 気の合う仲間の間で怒りをぶつけ合ううちに、農協から離れる決断をする。共同でコメの乾燥施設をつくり、まもなく「米シスト庄内」を組織して、直接販売を開始した。

 同じころに農協が4倍の規模の乾燥施設をつくった。ところが、米シストの固定資産税は183万円も徴収するのに、農協施設は公共性が高いからと無税だった。

 「正直ムカッとしたけど、この183万円分をいかにコスト削減で浮かすことができるかを考えた。おかげで、経営感覚をみがくことができた」

 8人がコメづくりで互いに競争し、力を合わせて販路を広げた。いまや経営面積は、稲作が東京ドーム20個分の93ヘクタールになり、ブルーベリー栽培にも乗り出して年間売り上げは2億3000万円にまで成長した。

 農業委員で養豚業を営む上野幸美さん(48)は、時の流れをしみじみと語った。つい最近、地元の農村青年部が自民党の大物農林族議員を招いたものの、会場にはたった40人しか集まらなかったという。

 「時代は変わりましたね。必要なのは、補助金ではなく自由です」(湯浅博)

【やばいぞ日本】第5部 再生への処方箋(8)鉄腕アトムの時代になった

2007.12.12 MSN産経新聞

 人の心を読むロボット開発で、世界を驚かせたのは、京都府の関西文化学術研究都市にある国際電気通信基礎技術研究所(ATR)脳情報研究所の川人(かわと)光男所長(54)らのグループだ。

 たとえば、じゃんけんで「ぐー」など頭に思い浮かべれば、内容に応じて脳内の血流や電磁場が変化する。その脳活動のパターンをfMRI(機能的磁気共鳴画像装置)という診断装置や脳磁場を測るMEG(脳磁計)で外部から読み取り、解析して何を考えているかを突き止める。

 MEGを用いると、解析時間がわずか0・001秒というリアルタイムに近い速さにまで能力を高められた。

 この方法を使えば、体の不自由な人が、自在に介助役のロボットを動かせるなど幅広い用途が考えられる。

 欧米では、脳に電極を埋め込む形で研究されているが、ATRの成果は脳を傷つけないという点でも画期的だ。

 「ロボットが日本の主要な次世代産業になってほしい。そのためには脳に相当する機能の開発がもっとも重要ですが、他の部分より研究が困難であるのも現実です」と川人さんは語る。

 東大理学部で物理を学んだが、その分野では解明されていない人間の「内なる世界」に興味を持った。そこで、計算理論が生かせる脳の基礎研究のためにロボットで脳を再現するという独自の発想にたどり着いた。小脳の機能などを解明する一方で、人の行動を学習して見まねするロボットなども開発し、理論を実証してきた。

 ロボットへの思いは強い。「月に人を送ったアポロ計画のように、鉄腕アトムをつくるというすばらしい夢があれば、ロボットに熱中する研究者が増える。産業としても発展するでしょう」。そんな思いで提唱した「アトム計画」を実現すべく、川人さんらが手がける秘蔵のロボットがある。

 「CB」と呼ばれ、ひざを伸ばした二足歩行など限りなく人間に近い能力を備えている。

 「今度はバッティングをさせてみたい」。生来の野球好きで、研究所の野球チームの監督もつとめるが、そのさいもロボットの機能と関連付けて考えてしまう、と笑う。

 ロボット研究には国際性も欠かせない。グループの公用語は英語である。なにしろ、研究者15人のうち8割が欧米などから来た外国人。研究会からランチタイムまで英会話が続く。

 「日本人は毎日大変でしょうが、国際感覚や連帯感は十分に養われますよ」。川人さん自身は留学経験こそないものの、国際学会などで積極的に交流の輪を広げてきた。その秘訣(ひけつ)は「相互の信頼感」という。

 米国ロボット工学の第一人者、クリストファー・アトキソン・カーネギーメロン大学教授もその一人で、現在も共同研究を続ける。ノーベル賞元選考委員長も斬新な業績に関心を寄せ、川人さんはノーベルフォーラムで招待講演を行った。近く国際神経回路学会の最高賞であるガボール賞を受ける。

 「人型ロボットに対する世界の見方が変わり、重要視されています。これからは、脳研究の道具として利用するほか、情報通信の端末や脳で操作するロボット(BMI)としての役割がメーンになる」と明言した。

 ロボットを敵ではなく味方と考えてきた日本人のやさしさと努力が、実を結ぼうとしている。

            ◇

 ■介護に省エネに広がる可能性

 自分の思い通りにロボットを操作する。必要な情報を提供し、困難な仕事を片付け、話し相手にもなってくれる。

 鉄腕アトムを夢のシンボルに続けられている日本の人型ロボット研究はこれまで、世界からは「なぜ経済的に非効率なものをつくるのか」と冷ややかにみられてきた。

 ところが、21世紀に入って二足歩行など人型ロボットの困難だった技術が確立され、人間と安全に共同作業できる可能性がみえはじめると事情は変わる。実用化に向けて経済産業省などの国家プロジェクトが組まれた。

 人間の能力を上回る単体のロボットは現段階ではできないため、当初、用途はエンタテインメントなどに限られるかにみえた。

 しかし、携帯電話やインターネットなどと連動した形のなじみやすい情報端末は、高度な情報環境を実現するユビキタス社会に役立ち、介護など高齢社会を支えるロボットも必要と用途が開けてきた。単独で判断して行動する能力は、すでに掃除ロボットなどに生かされている。

 最先端研究では、国際電気通信基礎技術研究所(ATR)のほか、筑波大学の山海嘉之教授のグループのロボットスーツ「HAL」が海外から注目されている。人体に装着するタイプで皮膚から生体の信号を検出し、意思を読み取って筋肉のサポートをする。

 体の不自由な人を抱えあげたり、リハビリに使ったりの用途が考えられる。

 ロボットの基本的な技術の3要素は、全体の機能をコントロールする脳(人工知能)、視覚など周囲の状況を察知する知覚(センサー)、手足を動かす筋肉(駆動装置)といわれる。

 ただ、人と違和感がなく安全に使うには、これらの機能をコンピューター製造のようにただ組み合わせるのではなく、1ミリの狂いもなくコンパクトに納める技術が必要だ。そこは自動車産業に代表される日本のお家芸だ。世界の産業ロボット生産の過半数を占める日本の実力がいかんなく発揮される。

 一方で多大な先進技術を組み込むロボット研究からは、予想外の機能を発揮する産業のシーズ(種子)を生むことにもなる。

 すでに自動車や家電製品に還元され、安全性の確保や消エネなど性能の向上に貢献している。

 こうしたロボット市場は産業ロボットを含め5000億円だ。それが、2025年には、産業分野が1兆4000億円、公共サービス分野が約5500億円、介護など医療福祉分野が約9300億円、家庭に入る生活関連分野が約3兆3000億円と、合計で6兆円以上の市場に拡大するとの予測がある。

 経済産業省の技術ロードマップによると、2010年ごろからの普及をめざしている。家庭に入ることから、「次世代ロボット」の安全性のガイドラインもまとめている。

 アトムに始まり、アトムに行き着く人型ロボットの研究開発は、日本がリーダーシップを取れるポジションにいることは確かだ。そのためには、いくつかのブレークスルー(現状打破)が必要だ。明確な理想を掲げ、ロボット工学、材料分野をはじめ、医学など関連分野が結集して開発にあたることが、それを可能にする。(坂口至徳)

【やばいぞ日本】第5部 再生への処方箋(9)「失敗しても格好いい」

2007.12.13 MSN産経新聞

 男は1枚の写真を凝視した。ユニホームを着た少年が写っている。スペインから届いたメール。「何か、ひと回り大きくなったみたいだ」。そして続けた。「10歳でプロ契約。不安だったけど、この姿を見ていると行かせてよかった…」

 少年は宮川類。山梨県南アルプス市に住む小学4年生は、6月下旬にスペインの名門サッカーチーム、アトレチコ・マドリードのセレクションに参加した。欧州を中心に集まった約250人の中から素質が認められ、“プロ”として異例の5年契約を結んだ。

 その間の滞在費、食費、授業料などすべてクラブが負担する。12歳以下のカテゴリーでチーム構成は約40人。日本人は類だけ。“金の卵”のためのエリート養成所、そして海外移籍だった。男は山梨に残った類の父、学さん(42)である。

 スペインは世界のトップクラスの選手が集結するサッカー王国だ。日本ではレアル・マドリードが有名で、かつてジダン、ベッカムらが在籍していた。類を支援するスペイン留学館、マドリード事務所代表の堀田正人氏は、中田英寿の代理人でもあったから事情をよく知る。

 「サッカーがうまいやつってのは、世界にゴマンといる。類だって日本なら“お山の大将”さ。けど、それでは伸びなくなっちゃう。危機感がないからソコで終わる。こっちはサッカーに命を懸けている。生き残るために必死だね」

 世界標準という言葉がある。ボーダーレスの時代、「世界と戦う」ことは日常化している。陸続きの欧州では、夢を求めて国境を越える挑戦は日常だ。

 そこに高度な競争が生まれ、レベルが上がる。四方を海に囲まれる日本は、いまだに孤立することが多い。

 類の世界。早いうちから“世界に触れる”ことで世界標準の人間育成を目指す大きな意味を持つ。これまでになかった“移籍”である。

 マドリード市郊外の新興住宅地の中にある練習場。類は往復2時間をかけて日本人学校に通いながらのサッカー漬け生活だ。「みんなうまい。こんな世界があったのかと。僕も、もっともっとうまくならなきゃ」。10歳の人生観さえ変えた。12歳以下といえ、ボールを奪うボディーコンタクトは激しく、そして類の体はアザだらけ…。

 「コラッ笑うな!」。堀田氏が怒鳴った。日本人の優しさか、ボールを奪われたとき、テレ笑いした。「甘っちょろいよ。他のやつは目つきも鋭く、エゴが強い。類は目立つ意識も薄いよ。けどね、3カ月でずいぶん、たくましくなった」

 言葉の壁がある。子供の脳は吸収が早い。日常会話なら問題なくこなしている。14チームで構成されるリーグ、毎週末、試合がある。40人から16人選抜されるが、類はレギュラーに成長、先月末には1試合、4点を奪った。入場料は5ユーロ(約820円)、ちゃんと“プロ”をみせている。先日、類はいまの心境を俳句でこう表現した。

 赤とんぼ 飛んで幸せ おれみたい

 頑張れば 失敗しても 格好いい

 「サッカーをするのに最高な環境。5年後には絶対、立派な選手になります」。類の目が輝いた。スペインでは親が子の学校への送迎を義務付けている。だから母、あゆみさん(40)も同行した。「この言葉だけでも、ここに来たかいがありました」。旅に出す不安は杞憂(きゆう)に終わった。

              ◇

 ■世界で鍛える「幼き才能」

 1年前の昨年12月、類は横浜で行われたFIFA世界クラブ選手権を見た。ロナウジーニョ(バルセロナ)の生のプレーに圧倒された。

 「絶対にスペインに行く!」。素質に加え強い意志に加え環境…。類の叔父、元清水FC・高田修氏は、知人のスペイン留学館代表の原田康行氏に相談を持ちかけた。原田氏は島根県松江市に本拠を置き、海外に通用する人間育成の手助けをしている。

 「日本の教育行政は、帰国子女の対応など国際環境の中で遅れている。世界の学校とのネットワークは日本以外では常識です。素質ある子を留学させるにも、類の場合は何とかなったが、現地邦人学校の問題が壁になったりする。でも、そんな島国根性を打ち破らなければ、日本はますます世界に遅れます」

 ある意味、日本の既成教育への挑戦である。

 「お金を出せば留学はできますよ。でも類はスカウトされた。そんな人間を発掘するのもわれわれの役目…」。原田氏はサッカー以外でも、あらゆるジャンルでのボーダーレス対応を訴えている。

 小さな井戸の中では、その容積は結局、小さなまま。たとえば、今季、野球のメジャーで14選手が活躍した。しかし、ドミニカ共和国98人、ベネズエラ51人、プエルトリコ28人など米国外で野球が盛んな国の中では少ない。

 四半世紀前、三浦知良はブラジルに単身で渡り、海外経験を糧にJリーグ発足時の日本サッカー界を隆起させた。高原直泰(フランクフルト)、稲本潤一(同)らも若い世代での国際舞台で世界へ飛び出したが、いま完全レギュラーは中村俊輔(セルティック)くらい…。盛んな割には“壁”がある。

 だから組織も憂う。Jリーグでは各クラブの15歳以下世代の選抜チームで海外遠征を始めた。昨年はブラジルだけだったが、今年はドイツも加えた。

 鬼武健二チェアマンは、「小さいときから海外に飛び出し、違うサッカーや文化を感じれば、外国への抵抗感やひるむ気持ちがなくなる。それが将来につながる」と話した。

 さらに今年から『日中韓の交流』も始めた。17歳以下、14歳以下、12歳以下の3つの年代で大会を組織し、各国がそれぞれ1つの年代の大会を運営、国際経験をより多くの選手に積ませる試みである。「今後はさらに予算をかけて若い子が国境を越えていく環境を整えたい」。チェアマンの国際化プランである。

 選手育成に定評があるメキシコ、アルゼンチンなどは、「年に50回以上遠征するチームもある」(Jリーグ・中西大介マネジャー)だけに、極東の島国のハンディはまだまだ大きいが、危機感を肌で感じ、前に進んだ意義は大きい。

 「身震いします…」と静岡の加藤学園暁秀・内田将志(18)が言った。この夏のスペイン留学館経由でセレクションに参加、アトレチコとプロ契約した。来年早々の渡欧。日本の高卒ルーキーで、Jリーグを経ないで海外プロ契約するのは異例である。

 いま世界で活躍するトップ選手は、幼いころから世界標準の中で鍛えられた。

 今月3日付産経新聞に寄稿した石原慎太郎氏の「日本よ」の中にこんな引用があった。

 「幼い頃肉体的な苦痛を味わったことのない者は長じて不幸な人間にしかならない」。動物行動学者コンラート・ローレンツの言葉であるが、類もしかり。“向上ある苦痛”を求めて飛び出そうとしている日本人も、いる。(清水満、榊輝朗)

【やばいぞ日本】第5部 再生への処方箋(10)「うんと早く地雷探せる」

2007.12.14 MSN産経新聞

 紛争後の平和構築に気を吐いている日本人は少なくない。

 その1人が東北大学東北アジア研究センターの佐藤源之教授(49)だ。彼が開発した地雷検知器はこれまでよりぐんと早く、確実に地雷を発見することができる。しかも使いやすい。試用段階だが、世界から早く実用化してほしいとの要望が殺到している。

 地中探査技術の専門家である佐藤教授が、地雷除去に取り組む契機になったのは2002年、東京で開催されたアフガニスタン復興支援会議だった。それを伝えるテレビは、残存する地雷で多くの犠牲者が出ていることを紹介した。佐藤教授はその姿にこう決意した。

 「日本の先端産業技術を地雷除去を通じた平和構築になんとしても生かしたい」

 地雷や不発弾の除去には大体、金属探知機が多用されている。だが、金属に反応して音を出すだけの装置では、10円硬貨や空薬莢(やっきょう)などの金属片と地雷の区別がつかない。「1000回反応があっても、本物の地雷は1個ぐらいしかない」(佐藤教授)のに、そのつど土を掘って確かめねばならず、きわめて効率が悪い。

 レーダー利用で地下水脈を探査してきた佐藤教授が思い付いたのは、レーダー波の波長と信号処理を工夫し、対象物を3次元画像にする方法だった。

 カギは最小限の研修で操作できる簡便性や、市販のパソコンで動くソフト開発であった。地雷除去に従事する現地の人々は決して技術の専門家ではないからである。

 研究室スタッフの協力で完成した地雷検知器はエイリス(ALIS、先進型地雷イメージ化システム)と名づけられた。

 今年10月、16年前の内戦の傷跡が今も残るクロアチア国内のベンコバツ市で、エイリスの実証試験が行われた。荒れ地に実物のプラスチック地雷を埋めて、検知性能を確かめる。クロアチア政府の招請で、佐藤教授のチームが現地職員らに指導して実験を重ねた。

 1・2メートルほどの掃除機に似たセンサーの重さは約1・5キロ。クロアチア人の男性職員ひとりで楽に操作できる。「ピーポー」と金属反応音が出たあたりをもう一度、ゆっくりとスキャンすると、「あったぞ」。小型パソコンのモニターに赤みをおびた丸い地雷の姿がくっきりと描かれた。

 レーダーによるスキャン作業に2分間。モニターに画像が描かれるまでの時間は15秒だ。

 「これなら、慣れればうんと早く地雷を探せる」と、クロアチア人職員たちも驚くほどの性能だった。

 金属探知機と地中レーダーを組み合わせた二重検知方式を開発したのは他に米、英2カ国だけ。だが、いずれも画像化技術はない。音源で知らせるため、検知効率の差は圧倒的だ。

 外務省などの支援で04年からアフガニスタン、エジプト、カンボジアで実証試験を重ねるたびに実用化を求める声が相次ぐ。クロアチアでは早ければ来年後半にも実用化の方向だ。

 世界に残存する地雷の総数は1億個といわれる。昨年1年間の地雷による死傷者は5751人だ。その7割以上は市民で、3割が子供という。

 佐藤教授は紛争地を訪ねるたびに地雷除去作業がいかに大変な労苦を伴うかを痛感する。

 一方で日本はインド洋でのテロとの戦いから脱落、平和構築への政府レベルの取り組みは手足が縛られた状況が続く。

 それだけに佐藤教授は「日本の平和構築への努力が失われたわけではないことを自分たちの行動を通じてぜひとも示していきたい」と決意を新たにしている。

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 ■「自分の技術を役立たせたい」

 「専門の医療技術を人助けに生かせないか」。東大勤務の外科医の中川崇さん(32)がイラクのテロ被害者への医療支援を思い立ったのは今年春だった。

 友人の外科医から「国境なき医師団」(MSF)の存在を知り、東京・高田馬場の日本事務局を訪ねた。

 混乱が続くイラクでは、人命を救うはずの医師や看護師はもちろん、病院までテロに狙われ、これまで少なくとも2000人の医師が殺された。医療関係者の国外流出も相次ぎ、国内で満足な治療は望めない。

 MSFは2006年からイラク支援を再開、隣国ヨルダンの首都アンマンを拠点に、イラク人のテロ被害者を搬送して医療援助を行っている。中川さんは5月から1カ月間、アンマン市内の病院に派遣され、次々に送られてくる患者22人の治療にあたった。

 「患者の多くはX線写真を撮ると体中に白い斑点(爆弾の破片やがれきなど)が散っていた。日本では見たこともない強烈な写真だった」と中川さん。隣国で起きている惨状に衝撃を受けた。

 爆弾で右あごの骨がふっとび、顔の構造が崩れた女児は話もできず、食事もできない。右目を失った少女。上半身やけどで皮膚がひきつり、両腕が上がらなくなった母親。右足の下半分の傷口がパックリと割れたままの男性−。手術台で向き合う患者たちの今後を思うと、心が痛んだ。

 中川さんは徳島県の出身。東大医学部を卒業、形成外科医として複数の病院で経験を積んだ。

 「外科医は一種の職人。自分の技術が人の役に立つのが一番うれしい」。専門性の高い外傷治療に携わってきた中川さんにとって、平和な日本とは違うイラクの重傷患者を助けることのやりがいを語った。

 MSFは武力紛争や貧困などで苦しむ人々を救うために1971年に創設され、日本での活動開始は92年から。国内の登録者(物資調達など非医療従事者を含む)は現在約200人。03年から、それまでフランスで行っていた派遣候補者の面接を国内で行うよう改め、派遣者数が約5倍に急増した。06年には50人が派遣されている。

 「現地の仕事は地味で泥臭い。ヒーローになれるような仕事じゃない」

 そう話すのは、武力衝突が続くスーダンなどで02年から3度にわたって活動した福岡市の内科勤務医、岡本文宏さん(45)だ。

 手術が多い外科医と違い、内科医は診療所建設のための人集めや薬の手配など医療以外の仕事も多い。それでも「子供の命を救うことなどを通じて、自分の力が役に立つのを実感できた。医療の原点に近づけた感じがする」と話す。

 今年4〜10月にウガンダで物資調達に携わった埼玉県のコンピューターエンジニア、笠原修さん(29)は「困っている人を助けることは非常にやりがいがある。現地では雑用も多いが、私はよく飲み会で幹事を任されるキャラなので、苦にならなかった」と屈託なく笑う。

 外科医の中川さんはアンマンでの1カ月をこう回想する。「テロ被害者の総数からみれば、私が救えたのは一部にすぎない。でも、帰国間際に患者たちから『ナカガワ、今度いつ来てくれるか』と聞かれたのが心に残っている。機会があればまた行きたい」(高畑昭男、鵜野光博)

【やばいぞ日本】第5部 再生への処方箋(11)受精卵に娘の顔が重なった

2007.12.15 MSN産経新聞

 すさまじい国際競争が展開される中で、まずは日本の勝利だった。夢の再生医療を実現に近づけるヒトのiPS(人工多能性幹)細胞の作成に山中伸弥京都大学再生医科学研究所教授(45)が成功した。

 厳しい倫理的制約を逆手にとって、いち早く日本独自の発想で隘路(あいろ)を抜け出した。少数精鋭の態勢の中で、的確な洞察力を頼りに研究を進めるという不退転の努力が功を奏した。

 iPS細胞は皮膚などの体細胞に、リセットの作用がある遺伝子を導入して受精卵に近い細胞にもどす。

 現在、万能細胞としてよく研究されているES(胚(はい)性幹)細胞は、生命の萌芽(ほうが)とされる受精卵を壊して取り出す。このため、倫理的な問題が避けられず、別の方法での万能細胞の作成が待たれていた。

 山中教授が再生医療研究に挑むきっかけは、整形外科医時代に、リウマチなどの難病患者を診察し、「神経細胞などの再生医療の必要性を痛感した」ことだった。

 iPS細胞に直接結びつく発想は、研究室で顕微鏡をのぞき、受精卵を観察しているときに芽生えた。

 「ちょうど娘が生まれたときで、その顔と受精卵細胞の姿がダブってきました。受精卵もかわいい子供に育つはず。これを壊さないですむ方法はないか、と真剣に考えるようになりました」と振り返る。受精卵を使わない万能細胞を開発することへの情熱がわいてきたという。

 山中教授が強い動機に支えられて研究を重ねた京大再生研は、ヒトES細胞を国内で唯一培養し、配布する再生医療の拠点である。研究環境には恵まれたが、国の指針でヒトES細胞について厳しい審査があった。ヒト細胞を慎重に扱うのは当然とはいえ、ひとつの研究テーマに対し研究計画などの分厚い報告書を提出し、大学の倫理委員会と国のダブルチェックを受けるというシステムは研究の着手を遅らせた。

 「日本の研究は優れているが動物実験ばかり」との評価が出るほどだった。

 この中で山中教授はマウスの実験から得たデータをもとに、確実にヒトに応用できるものに絞り込んだ。幸い、これまでの常識と異なり、マウスとヒトの間に大きな違いがなく予想外に早く成功した。

 世界中から研究者と最新情報が集まる米国の研究所に拠点を持ったことも効果的だった。「米国内でヒトiPS細胞ができそうだ」と日本では得られない情報が舞い込み、論文作成を急ぐことができた。

 結果的には、その後の臨床応用という面でもかなり優位に立てた。たとえば山中教授のiPS細胞は成人の細胞から作成することができ、多くの患者に使える可能性があるが、米国は新生児の細胞からでしかできていない。

 米国はこれまでブッシュ政権がES細胞の研究に反対していたこともあり、倫理的問題がないiPS細胞には賛意を示している。膨大な資金と物量で圧倒するであろう米国に対し、日本は「オールジャパン」態勢で臨むしかない、と山中教授は強調する。だが、人材、資金、制度の制約をバネに新たな発想でリードするには限界がある。

 日本の科学技術政策も大きな転換点を迎えざるを得ない。

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 ■オールジャパンで主導権を

 失った手足や病んだ臓器を細胞の増殖・分化により再生させる。再生医療が実現すれば、たとえば臓器移植でドナー(提供者)を待たずに手術でき、患者本人の細胞が使えれば拒絶反応もない。難病に苦しむ患者にとっては、大きな福音だ。医療産業にとっても多大な利益が予測される。

 しかし、再生医療は複雑な生命のシステムである細胞を扱うだけに、臨床応用までにいくつかのハードルがある。

 万能細胞を作成する際の倫理的、技術的な問題。臨床応用したときに、がん化するなど予想外の働きをしないかなどの問題だ。

 再生医療の有力な材料であるES(胚(はい)性幹)細胞は、受精卵を壊すことのほか、卵子の提供が母体に負担となるなど倫理的、医学的な問題の解決が迫られている。

 体細胞からクローン細胞をつくり、その細胞からES細胞を取り出す方法があるが、高度な技術が必要だ。クローンES細胞は動物実験では得られたものの、ヒトではできていない。この方法については、韓国のソウル大学の捏造(ねつぞう)事件が研究の進展に大きく影響した。

 山中教授が作成したヒトのiPS(人工多能性幹)細胞は、皮膚などの体細胞にリセット用の遺伝子を導入する方法なので倫理問題を回避できる。そのうえ、神経、心臓の筋肉、膵臓(すいぞう)などの10種類の細胞に分化できる能力も備えていることが実験でわかっている。新薬の効果や副作用を確かめる細胞としても有用だ。

 最初の発表では、作成に使った4種類の遺伝子にがん遺伝子が含まれていることが指摘されたが、すでにがん遺伝子を除き3種類の遺伝子セットでできるというデータを持っており、10日後に追加発表するという手回しのよさだった。

 これは、さらに数少ない遺伝子の導入でiPS細胞をつくることができるという科学的に重要な発見でもある。

 ライバルの米ウィスコンシン大のグループは、一足遅れてiPS細胞をつくったが、それは4種類の遺伝子を使っているとはいえ、一部は別の遺伝子だった。つまり、別の遺伝子セットも考えられることになり、日本は一歩リードしているものの油断はならない。

 山中教授は「別の遺伝子セットが有効で、そちらの方が臨床に役立つとわかれば、すぐに方向を切り替える」といさぎよい。それだけ、最終ゴールが勝敗を決めるということでもある。

 このような1日を争う競争の中で、今後、日本はリードし続けられるのだろうか。結果を早く出して特許を取得することなどは、その後の研究の進展や、産業化にも影響が出てくる。

 文部科学省は、異例の早さで対応し、科学技術審議会などで、緊急の支援策を練るとともに、再生医療研究の倫理面でのルール作りの見直しを始めた。

 1990年代に日本が全ヒトゲノム解読を先に提唱しながら、最終的に米国に主導権を取られた例もある。今後、世界に向けてプレゼンスを示す成果を期待したい。(坂口至徳)

【やばいぞ日本】第5部 再生への処方箋(12)世界に500人 「神の手」待つ

2007.12.16 MSN産経新聞

 「ゴッドハンド」(神の手)、「ラストホープ」(最後の希望)。米医学界でそう呼ばれる日本人がいる。米デューク大教授、ウェストバージニア大教授などの肩書を持つ脳神経外科医の福島孝徳(たかのり)さん(65)だ。

 手がける手術は国内外で年間約600件にも及ぶ。日本に来るのは年8回程度で、2〜3週間の滞在中に全国10カ所前後の病院を飛び回りながら、1日3、4件の手術をこなす。

 「今、全世界で僕の手術を待っている患者さんが500人以上いる。手術依頼のメール、ファクスが毎週新たに50〜60通も来る。対処しきれない」

 12月上旬、千葉県長柄町の塩田病院福島孝徳記念クリニックで行われた手術を見学した。

 最初の患者は三叉(さんさ)神経痛の60代の男性で、動脈硬化などを起こした血管6本で三叉神経がよじれるという「100人に1人のケース」(福島さん)だ。血管と神経が傷つかないよう保護されながら手際よく離されていく様子を見学者用のモニターで見ていると、この手術が実際は顕微鏡を使った微細な世界で行われているとは信じがたい。

 福島さんの両手とともに、両足も常に動き続けている。顕微鏡のズーム、フォーカス、電気メスなど複数のペダルを操作するためだ。その足は、特注品の白足袋(たび)を履いている。

 「白足袋を履くのは機能性ばかりじゃない。お能の舞台に上がるように、心を引き締めるためです。脳外科は、医者の技術一つで患者さんが元気に家に帰れるか、車椅子(いす)の生活になるか、まひが残るかが紙一重で決まるんですから」

 明治神宮の先々代の宮司である故福島信義氏の二男として生まれた。信義氏は明治記念館の館長も20年以上務めるなど、「明治神宮を復興し、その運営を成り立たせることに一生をささげた」人だ。多忙な父はあまり家庭を顧みなかったが、その代わりに「金のことは言うな。世のため人のために働け」という教えを息子に刻んだ。

 「私は土日も手術、夏休みも正月休みも一切とらない。手術前は、『一生懸命やりますから助けてください』と神様にお祈りします。世のため人のために朝から晩まで働いていれば、必ず神様が見ていて助けてくれる。明治神宮の神様は、心のよりどころであり、支えです」

 手術室での福島さんは冗舌だ。手術を進めながら現在行っている処置を英語で“実況”し、海外などから来た見学者のための説明も行う。余裕があり、上機嫌にも見えるが、看護師や若手医師に手際の悪さが出ると、とたんに厳しい叱責(しっせき)が飛ぶ。

 「言われたことをやるだけなら幼稚園児だ。看護師の免許を持っているんだろう」

 「止血ができていない。この処置で患者さんがどれだけ迷惑するか考えているのか」

 この日2件目の手術は、巨大な脳下垂体腺腫を患う30代の女性。他の大学系病院で2度手術を受けたが腫瘍(しゅよう)を除去できず、ホルモン治療の効果も得られなかった。

 鼻の穴を経由して頭蓋(ずがい)内の患部にメスを入れ、腫瘍をかき出す。「前の手術は2度とも腫瘍に達していないじゃないか」。さらにホルモン剤投与のため、腫瘍が変性してねばねばの状態になっており、摘出が困難を極める様子がモニターの映像から見て取れる。

 「治療方法が間違っている。最初から私のところに患者を送ってくれたら、一発で取れたのに。大学病院は患者を囲い込んで、やり方を知らないのにやるんだ。その治療で患者は一生苦しむかもしれないのに」

 怒りを吐き続けながらも、手術を進める両手両足の動きは休まない。「怒れる神」が、そこにいた。

 ■手術見学を禁止した教授たち

 福島さんは48歳のときアメリカに渡り、南カリフォルニア大学の臨床教授になった。それ以来、活動の拠点はアメリカだ。裏を返せば、日本では教授になることができなかった。

 「異端児」のレッテルがつきまとったからだ。東大医学部卒業後、研修医を経てドイツ、アメリカに5年間留学し、戻った東大病院で「日本の脳外科は戦前のままだ」と変革の必要性を主張した。教授は周囲との軋轢(あつれき)を案じ、学外の三井記念病院(東京)の脳神経外科部長に推した。37歳のときだ。

 そこで福島さんは、脳腫瘍(しゅよう)などを開頭せずに数センチの穴から摘出する「鍵穴手術」の開発に全力を注いだ。症例を集めるため手術件数は三井記念病院で年間600件、週末は他の病院でも患者を紹介してもらい、ピーク時で計900件にも達した。「世界各国から医者が手術を見に来た」という。

 「しかし、私を理解してサポートしてくれた教授は全国で2割程度だった。残り8割は医局の医者に『福島は特別変異だ。もっと平均的な脳外科を勉強した方がいい』と言い、『福島の手術を見に行くな』という教授も珍しくなかった」

 今年10月に開業したばかりの福島孝徳記念クリニックの北原功雄院長(48)は、苦笑しながらこんなエピソードを明かす。

 「テレビ局が取材で手術室に入るときに、見学者の中に『私を映さないで』という人がいる。『ばれたら破門になるから』と」

 福島さんはここでも怒りをあらわにする。

 「この手術は私のやり方でなければできない、ホテル代も払うから勉強に来てくれと言っている。それなのに他国からは教授が来ても日本人は来ないんだ」

 それでも「弟子」と呼ぶ医師が日本国内に20人程度いる。その一人が、前出の北原院長だ。1999年暮れ、初めて福島さんの手術を見た印象を、北原院長は「子供が初めてディズニーランドに連れてこられたような世界」と表現する。

 「美しいんです。手際のよさも、リズムも、血が全く見えないことも。今までの手術は何だったんだと思うほど衝撃だった」。それ以来、勤務がない日は「ストーカーのように追いかけて」手術を見学した。

 「福島先生の手術は、常にやり方が変化している。うまくいかなかった部分、もっと手際よくやれる部分を、日進月歩で改良している。65歳になった今も」

 福島さんは「医師がもっと柔軟に勉強できる環境を、日本でもつくらなければいけない」と主張する。

 「文部科学省は、一人の教授が独裁する大学病院の医局の体制を改める必要がある。韓国の脳外科には教授が5、6人いるし、ドイツは他大学の先生しか教授になれない。日本もそうした体制を見習うべきだ」

 見学した手術室。2人目の手術を終えた福島さんに、前日手術した患者の脳の写真が電子メールで届いた。患部が取りきれていない。険しい表情で「もう1度だな」とつぶやく。その足で、別の患者の家族へ手術の説明に向かった。隣の手術室には、3人目の患者も待っている−。

 “戦場”に立ち続ける姿がそこにあった。(鵜野光博)

【やばいぞ日本】第5部 再生への処方箋 番外(完)“異種交配”が独創性つくる

2007.12.18 MSN産経新聞

 三宅純という天才肌の音楽家がいる。49歳。テレビを見る人なら誰でも彼の作品を聴いたことがあるはずだ。

 「キリン一番搾り」から「レクサス」まで、過去4半世紀にソニー、松下、資生堂など2500作ものCM音楽を手がけ、カンヌ国際広告映画祭などで何度も受賞に輝いた男である。

 発表したアルバムは13枚、海外ではCMよりもアーティストとしての評価が高い。米国の大物音楽プロデューサーをして「誰よりもあらゆる音楽言語に通じ、それを操る才能を持つこの男と仕事がしてみたい!」と言わしめた彼は、日本では数少ない世界に通用するミュージシャンだ。

 三宅を知ったのは20年以上も前、六本木のライブハウスで彼の生演奏を聞いたときだった。甘美ながらも凶暴なサウンドに度肝を抜かれた。さまざまなジャンルを融合しつつ、それを超越するパワーと感性。こんな日本人離れした音楽家が日本にいるとは思わなかった。

 2年前、この風変わりな男がフランスに拠点を移し、パリ・東京を往復する放浪生活を始めた。彼は当時47歳、東京にいれば仕事はあるし、売れっ子だから生活にも困らないはずなのに…。なぜだろう。

 三宅は高校時代から早くもプロのトランペット奏者として活動、彼の才能を見抜いた日野皓正に勧められ、1976年にボストンのバークリー音楽大学に入学した。帰国後は演奏活動の傍らCMを含む作曲活動を始めた。当時はバブル絶頂期、CM業界は自由に曲を作らせてくれた。だが、そのうち自由度が少なくなっていった。

 三宅はこう振り返る。「レコード業界は売れるかどうかが唯一の価値基準になった。芸術性・創造性は追求せず、既存のジャンルの中でばかり販売競争している」。ヒット曲が出ると、二匹目のドジョウを狙って皆が似たような曲を作り始める風潮には閉口するという。

 「陸続きの国境がある欧州で、さまざまな芸術家たちと異種交配をしたかった」

 日本脱出の理由をこう語る。三宅のパリでの活動は実に刺激に富んでいる。ドイツ人の舞踏家が新しいプロジェクトを持ち込む。日本人の三宅が音を作る。チュニジア人が民族楽器を奏で始めた。ブラジル人とブルガリア人の歌手が呼ばれ、フランス人の作るコスチュームをまとったチベット人ダンサーが舞う。演出は誰もが尊敬するアメリカ人に決まった。複数の言語が飛び交う中、やがて彼らの心は一つになる。現場に決定権があるから、あっという間に素晴らしい作品が仕上がる。

 このようにヨーロッパでは人種、宗教、文化の異なる芸術家たちが集い、形式とジャンルを越えた“異種交配”が日常的に起きている。島国の日本ではあり得ないことだ。

 国内の一元的な音楽産業文化に閉塞(へいそく)感を覚えた三宅は、より風通しの良い地を求めて日本を脱出したのである。

 「日本の音楽業界は横並びを気にしながら走っている。出る釘は打たれる。独創性よりも経済の論理が重視されるので、個人の能力は伸びない。このままではいずれ衰退するでしょう」と彼は言う。これこそ現代日本の閉塞感を象徴するような話ではないか。

 ■「変わり者」をどう育てる

 三宅純は最近の心境をこうも語っている。

 「ヨーロッパに来て、音楽の良心を持つ『マッドでクレージーな』業界人が現場で強い権限を持っていることを知り、とてもうれしかった。一方、日本の音楽業界は目先の流行ばかり追い求め、若いミュージシャンの才能の芽を摘んでいるような気がします」

 「僕はCM音楽の作曲を通じて、世界中のさまざまな音楽様式を混ぜ合わせるスタイルを長年実験してきた。異種交配こそが創造性とパワーの源泉です。今の日本人はあらゆる分野で優秀ですが、パリから見ると、日本人はどこか『突出した決定力』に欠ける。もしかしたら、既存のフォーマットにとらわれ過ぎているからかもしれない」

 彼の言葉を聞いていたら、昔読んだ「『異脳』流出」という本のことを思いだした。青色発光ダイオードの実用化で有名になったカリフォルニア大学の中村修二教授ほか日本が世界に誇る7人の先端技術研究者が、なぜ海外で暮らし、日本に帰りたがらないのかを紹介した興味深いドキュメンタリーである。

 著者の岸宣仁氏は、これらノーベル賞級の科学者が日本を脱出する理由として、業績を客観的に相互評価できない日本の「もたれ合い社会」、画一的教育制度と大学内の上下関係、官僚の縦割り行政の三つを挙げ、こう指摘する。

 日本の閉鎖的な学界では独創的な発想を持つ無名の「変わり者」はなかなか評価されない。危機感を持った大学は優秀な研究者を招聘(しょうへい)するが、肝心の実験装置が整備されず、研究はできない。権限は予算を握る官僚が独占し、先端技術の現場の声は反映されない。

 これではトップレベルの「異脳」が日本を去るのも当然なのだろう。

 この本が描く最先端技術学界と三宅が憂う日本の音楽界とは、一体どこが違うのか。「独創性を殺す日本というシステム」という本書のサブタイトルは決して偶然ではない。

 両者に共通するのは、ずば抜けた才能を持つ「変わり者」をうまく育てられない日本社会の病根の深さではなかろうか。

 明治維新以来、日本人は欧米からの強い圧力の下、さまざまな異種配合を通じて日本独自のシステムを作り上げることにより、厳しい国際社会を生き延びてきた。しかし最近の日本人にはそうした危機意識が薄れつつあるのではないか。

 われわれがバブル崩壊を何とか乗り切り、これまでの居心地よい国内システムに安住している間に、世界では日本抜きで熾烈(しれつ)な大競争時代が始まっている。

 それにもかかわらず、日本社会から放出されるエネルギーは決して十分ではない。三宅の言うとおり、もし日本社会が閉塞(へいそく)しているのであれば、今こそ必要なのは自ら進んで既存の枠組みをぶち壊し、異種交配を進めていく「変人」たちではなかろうか。

 われわれ「凡人」が彼らを受け入れ、応援することができれば、日本の再生は十分可能だと思う。(寄稿 宮家(みやけ)邦彦)

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【プロフィル】宮家邦彦

 宮家氏は元外務省中東アフリカ局参事官。現在立命館大客員教授、AOI外交政策研究所代表。54歳。

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 ≪終了にあたって≫

 日本の劣化などに警鐘を鳴らしてきた「やばいぞ日本」(7月3日付開始)は本日、66回で終了します。

 このままでは、愛する日本は没落しかねないとの危機感から始めた連載企画は、惨状をもたらしているのが内向性、他者依存、国益意識のなさ、もたれ合い、官僚制度の機能不全などに起因するところが大きいと繰り返し提起しました。

 とくに教育では、ものを考える力が落ちている、しかり方を知らない親が増えているーなどの問題点がわかり、「人」がかけがえのない資産である日本の病根の深さを浮き彫りにしました。

 最終第5部では、こうした問題点を解決するための手がかりとして、異文化に飛び込む日本人などの心意気や気概を考えてみました。来年には新たな企画として、底力を掘り下げる予定です。

 20日付で宗教学者の山折哲雄、JR東海会長の葛西敬之、元外務省中東アフリカ局参事官の宮家邦彦、一橋大学客員教授の中満泉の4氏による座談会を掲載します。日本の現状や問題点、さらに解決への処方箋(せん)をどう考えるか、を提示します。

 連載企画は来年2月ごろ、単行本として扶桑社から出版の予定です。(「やばいぞ日本」取材班キャップ 中静敬一郎)

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