[Ozawa Rowing Top Page] [Seminar Library INDEX] update:1999-02-14
以下は,99.2.14,広島国際会議場で開催された研修会(主催:広島県体育協会)の「受講レポート」である.もちろん研修会の公式ダイジェストではなく,あくまで一受講者の個人的な記録,つまり受け止めた側の記録なので,内容は主催者および講師の意図・表現とは異なる可能性もあり,また用語等は,話者のそのままではなく,意訳したところも多い.このレポートの記載に関する責任は,主催者・講師ではなく,私(小沢)にある.また[斜線]の部分は,講話に対する私の感想・印象・意見である.
1 講演 「日本のスポーツの現状と課題」
小掛 照二 JOC選手強化本部長,日本陸連副会長・アジア大会98日本選手団長
経歴を追って説明;広島県上下町で昭和7年生まれ.父母も運動選手であり,中学では当初バレーをめざしたが,熱心な先生のすすめでその後陸上をすることになる.先生は,技術的なことよりも1回でも多く飛ぶこと,努力の積み重ねが大切と指導された.高校3年生のインターハイでは三段跳びで優勝.
その活躍のため多くの大学からの誘いがあった.当時,農家の長男として家族の面倒もあり,大学にいくことは念頭になかったが,ベルリン五輪の三段跳びで活躍した田島氏の「大学へ行ってがんばれ,三段跳びに絞れ」の激励をうけ大学に行くことを決心.大学は,当初別のところを目指していたが結局,織田・西田氏らの誘いにより,早稲田大に進む.しかし大学時代は,生活面・経済的にも厳しく苦しい時代だった.卒業後,大昭和製紙に入社し,昭和31年には日本選手権で16.48mの世界記録を樹立,一躍脚光を浴びた
それから40日後のメルボルン五輪までの間,プレス向けの写真撮影で足首を捻挫し1カ月も練習できず,結局五輪は8位に終わった.当時はそのことは話さず,報道では「若さと精神面の問題」と報じられていた.その後,西田氏の指導でいろいろ修業し,ローマ五輪の予選では3位になり出場権を得たかに見えたが,結果的には選考会議で漏れ,代わりに6位の選手が代表となった.このときユニフォームとスパイクを焼き,選手生活に訣別した.
昭和35〜36年のブランクの後,織田氏の「果たせなかった夢を選手造りに」との誘いを受け,陸連のコーチに就任.一つの事業展開としては,多くの大会を造った.(なお,今後はそれらの再整理の時期にきてはいる.)そのひとつとして,広島県には日本陸連主催の全国大会として男子都道府県対抗駅伝を造った.しかしその代償として伝統のあった中国駅伝を廃止せざるを得なかった.当時ずいぶん批判もあり苦労したが,今振り返ってよかったと思う.
残念なことの一つは,モスクワ五輪のボイコットである.参加していれば瀬古や宗兄弟の活躍は確実であっただろう.瀬古はロス五輪へ向けてもなお頑張ったが,その3週間前に東京での練習中に脱水でダウンし,ようやくのところで3日前に精一杯のところでロス入りできた状態だった.メディアは3日前のロス入りを批判する風潮だったが,彼は何も言い訳しなかった.自分のメルボルンの時の記憶と重なる.ソウルでの中山の話[中略]
バルセロナ五輪の代表選考では,暑い気象条件への適応などにより有森に決まったが,選考レースでの松野の活躍などで,当時大変な批判,いやがらせがあった.しかし,バルセロナでの有森の活躍によって証明されるように,その時の選択は間違っていなかったと確信する.ほか,谷口の話,アトランタ五輪の話など[中略].また,2000年のシドニー五輪では,日本は金メダルへ向けチャンスあり,である.
バンコクアジア大会では,日本は金メダルの数で,中国129・韓国65に続き3位(52個)であるが,銀・銅の合計では韓国を上回っている.韓国では兵役免除やプロ選手導入などの施策,台湾では高額の報奨金や医科学面でのサポートなど,また開催地のタイでも4年間の間に強化プログラム,スポンサーシップの確保,海外からの指導者確保などの努力により好成績をおさめることができた.日本では,高額賞金などの制度も拠点もない状態である.各スポーツの拠点となるところが今後必要である.また,不況で企業スポーツの解散など厳しい状況もある.今後,有望な選手を長期的に養成するような5カ年計画なども,徐々にではあるが推進しつつある.
[演題と内容は若干相違もあるが,全体として好感の持てるお話であった.その前提の上でいくつか感想としては,(1)「言い訳するな」という哲学には,表敬すべき面も確かにある.が,一方で事実を正確に表明しないために事態を悪くする面もあるのではないかと感じた.ご自身のメルボルン,瀬古のロス,バルセロナの選考,いずれも共通して./(2)選手の個人の目的・価値観・使命と集団のそれらとの関係・バランスは,常に問われることであるが,お話の中では少し集団の論理が強すぎる印象を受けた.選手団長の立場としては当然といえば当然か./(3)バルセロナの選考(レース)の件では,自分の記憶の範囲では,やはり最初に結論ありきのレース,不透明性という印象が強い.前述(1)のとおり,正しい判断ならばそれはそれで,説明がされないと,と思う.しかし選考の是否についての議論・批評と,個人批判や私生活へのいやがらせなどは全く別物で,後者はもちろん言語道断である.日本人?は,意見の多様性の許容や,考え方の違いを「調整」して,ひとつの結論(行動としての統一性)を見いだすことが,苦手なのだろうか?/(4)「拠点」構想は興味深いが,「賞金」で釣るやり方は反対であるし,おそらく飽食の時代を過ぎた日本でそれで有効なモチベーションと選手のイノベーションは獲得できないだろう./(5)演題のことで言えば,今最もタイムリーな話は,件の長野五輪にまつわるIOCの委員接待の問題ではなかっただろうか?この話題はタブーなのか,一言もその話が出なかったのはちょっと残念だった.]
2 バンコクアジア大会98 報告
2.1 ソフトテニス競技(男子団体2位) 高川 経生 選手(NTT広島支店)
自己紹介.東京生まれの東京育ちで,子どもの頃からテニスをする環境で育った.駒大附高,日体大と進み,大学時代は関東リーグなどでの優勝経験を持つ.大学4年生のとき広島アジア大会に参加した時の印象もよく,NTT広島支店に希望して入社.
96年の東アジア大会では,直前に腰痛が悪化し,大会へ出向いたものの結局棄権を余儀なくされ帰国するという辛酸をなめた.その後で手術し,成功したが精神的には不安だった.しかし,どこまでできるかやれるところまでやってみよう.一からトレーニングして体造りから」と決心しがんばり,その後大会では史上4人目の3連覇達成,「手術してよかった,再びコートに立てて良かった!」と実感した.今回のアジア大会でも,戦績としては満足している訳ではないが,再び国際舞台に立てたという実感,喜びがおおきかった.
また,このような経験を通じ,ソフトテニスを変えて行かなくてはならないということも強く思った.どちらかといえば,ソフトテニスは,技術や精神面が重視されるが,今後はやはり,それらを築く土台となる体造り,基本的な体力強化のトレーニングやニュートリションが重要である.そういう意識改革が重要であると思う.
[故障からの復活は,いつの話もとても参考になる.おそらく,(当然のことだが)例えば手術の成否を握るのは最後は,選手自身の意識の問題であるような気がする.手術は成功しても,復活できないケースは多いだろう.]
2.2 ハンドボール競技(男子3位) 山口 修 選手(湧永製薬)
異例のことだが,アジア大会の直前に北京で世界選手権の予選が突然開催されることになり,そこで日本は中国・韓国にまさかの2連敗を喫し,ハンドボールには相応の支援が充実していただけに,「あれだけやったのにこれだけか」という批判的雰囲気も出た.それでアジア大会では,銀以上の獲得が至上命題というハイプレッシャーの状態で臨んだ.アジア大会へ向けての練習では,従来の問題点のひとつとして,監督・コーチと選手の間のコミュニケーション不足のことがあり,毎日練習の後は遅くまでミーティングし,腹を割って泥臭いことも言い合った.それで,ひとつにまとまったような気がする.
バンコクアジア大会にはハンドボールは8カ国が参加.予選の2リーグの各上位2者が決勝トーナメントに進むシステムである.日本のいるAリーグ,初戦のタイはハンドボールの歴史がなく寄せ集めチームであったので楽勝だったが,強豪クウェートにはラスト3秒の同点ゴールでかろうじて引き分け.第3戦のUAEに9点差で勝って,得失点差で1位を確保の読みだった.しかし,クウェートがタイにさらに大差で勝ったため2位,決勝リーグでは韓国に敗れて銀には届かなかった.非常な落胆の中で,「これで自分たちは終わるかもしれないが,3位決定戦でベストをつくそう」と気持ちを入れ換え,イランに善戦し3位を獲得できた.
振り返って,日本には近年,筋肉をつけ(体重をつけ)パワーアップで強化しようという流れがあった.確かにそれでパワーの点では,韓国にも負けないレベルにきたが,まだスピードでは負けている.しかしそれよりも,違いを感じたことは,ボールへの,1点とることへの執着心の違いである.またハンドボールというスポーツへの誇り,国のためにという使命感の違いである.それが自分たちに欠けている.それをどうやって培っていくかは,まだ具体的なものは見えていないが,それを見つけなければ勝てない.模索しているところである.
ハンドボールは,マイナーで,メジャースポーツへの道は,勝つことしかない.そのためにも,漫然とするのではなく,勝つためにはどうすべきか,「自分の頭で考えてやるスポーツ」の重要性を,改めて痛感した.現在,代表チームはない状態になっているが,これからもがんばるしかない.
[昨年の講演が同じ湧永の市原さんの話だったので,(定かではないが)「日本が勝つにはパワーアップ」の話を聞いたような記憶が.まあ,具体的なところ,詳細を知っているわけではないのでわからないが,いずれにしても,勝つためには,ハングリーな精神,執着心という命題は避けて通れないことだと思う.]
3 スポーツトレーナーの役割と必要性 川口 浩太郎(広島大学医学部保健学科)
(スライドで説明)最初に,ホッケーにおけるトレーナー活動の実際の紹介.ホッケーでは選手同士の衝突によるケガや,捻挫しそうな姿勢でのプレーが多く,トレーナーは予防としてのテーピングや,ケガをした場合の応急処置などを行っている.その他,選手の健康管理の役割などがあるが,スポーツドクターやコーチと協力しながらやって活動するわけである.
トレーナーに関連する歴史の説明.日本では1929年,東大サッカー部が小守医師にマッサージを依頼したのが始まり.1977年の鹿倉氏のアメリカATC資格取得,1994年の広島県でのトレーナー協会の設立等々.広島県のトレーナーの活動は全国でも一番精力的である.
現在のトレーナーの抱える問題:(1)資格が一定でない(日体協の資格取得者は300名足らず.他に様々な資格が混在.) (2)トレーナー業務も多様で不定(定義が様々) (3)トレーナーの概念が不定 (4)統括団体がない(日体協がはたせるか?まだ未知数) (5)実習・研修機関がない (6)受け皿が小さく職業として確立できていない(プロスポーツなど一部だけ.多くはボランティア) (7)若い志望者が多い(希望の持てる現象である反面,イメージだけを追った安易で軽率な側面も見られる)
文部大臣認定アスレチックトレーナーについての説明.98年5月現在で272名.H6,H7の特別講習での資格取得者が大半で,それ以降の合格率は40%,難しい資格である等々[中略].
日本ホッケー協会でのトレーナー活動の紹介.組織やジンバブエでのワールドカップ予選での活動など.(試合毎に,ケガなどのレポートを提出する制度がある,ドーピングテストの方法等々[中略].
広島県トレーナー協会の組織およびトレーナーの活動の紹介.現在協会には130名,内公認AT資格は12名[以下略].
[トレーナーの問題は,そのとおりと思う.今後の課題の改善,活動の充実に期待したい.コーチの立場から少しわかりにくいのは,ドクターの医療行為とトレーナーの処置の関係だろうか?ドクター資格を持ってダイレクトに,シームレスにケアできる体制を望みたい.]