2005/06/03 古墳・遺跡・化石・現地説明会 他
| 岩手県宮守村教育委員会は1日、国内最古級とされる9万−5万年前(中期旧石器時代)の金取遺跡(同村)の2003、04年度の調査報告を発表、石器を作る際にできる破片(長さ5ミリ、幅6・5ミリ)が見つかったことを明らかにした。
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| 報告書などによると、調査対象は計約134平方メートルで、出土した地層は火山灰測定などから9万−5万年前。5万−3万5000年前の地層からも同様の破片17点が発見され、いずれも別の場所の石を用いた可能性が高いという。今後は地層をはぎ取り保存する。
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| 金取遺跡は1984年の発掘調査で8万5000−4万年前の石器が出土。旧石器発掘捏造(ねつぞう)問題が発覚して以降、問題と無関係な遺跡として、長崎県平戸市の入口遺跡などと並び国内最古級の遺跡とされる。
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| 層序は型式を決定するか2004/03/06 アームチェア/時空の鍵穴 DMZ
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| 3月5日毎日新聞朝刊の全国版に加え、毎日新聞地方欄の岩手版にも記事が載っている。こちらに「旧人」の文言はない。ただ、調査委員会は「日本最古かどうかについては調査団としては判断がつかない」と発言しているのに、見出しでは「金取遺跡が「日本最古」」となっている。繰り返すと、調査団は日本最古との判断を示していないのに、毎日新聞は日本最古との見出しを付けた。これがミスリードでなくて何であろう。
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| 全国版には「ねつ造問題の発覚以後、初めて確認された中期旧石器時代の遺跡で、現時点では国内最古となる。この結果、日本列島に「旧人」がいたことも確実となった」と記事にあるが、記事中にある旧石器時代区分表には、3〜13万年前を中期としながら、旧人と新人が併行して存在したように示されている。古い時代にはアフリカに居ましたよ、といったら正解だが、3〜13万年前に属するからといって旧人とは限らないことを図らずも認めている事になる。しかし毎日新聞ではあくまで[年代が3〜13万年前=中期旧石器時代=旧人]を自明の前提としているようだ。
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| 中期旧石器(という概念)は、研究者の主張としてはありうる。しかし、金取IV層(4層)出土品についての検討が紹介されているわけではないし(今回の調査ではそうした研究は行われていない)、テフラ同定と熱ルミネッセンス法(毎日全国版の解説コラム)で地層の年代が示されて大体一致しました、という話にすぎない。こうした事で、「壊滅した前・中期旧石器研究の再構築」の「出発点」になる(毎日全国版の解説コラム)との言説は、極めていかがわしいと言わざるをえない。
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| 研究者間に異論とか慎重論がある時、新聞(マスコミ)が特定の立場を本命とみなしてミスリードするという構図、そうした成り行きに(直接の関係者でない)研究者が眉をひそめる風景は、まさに捏造問題をめぐって展開された構図と瓜二つである。しかも、どうやら今回の調査団(調査委員会)の発表には、ミスリードを招くような内容は含まれていないように見える(前述の通り、調査団見解と違うニュアンスで記事にしているようだ)。
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| 金取は研究途上にある(前・中期旧石器問題の全てがそうだ)。毎日新聞の記者は、捏造問題から大事な教訓を学びとるのに失敗したようだ。
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| 2004/03/05 アームチェア/時空の鍵穴 DMZ
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| 毎日新聞報道によれば、日本列島に「旧人」がいたことが確実となったそうです。
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| 岩手日報には「旧人」の文言はありません。
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| ただ、発掘調査委員会が4日の会議において、一次調査で古い石器が見つかったとされる地層の年代が50,000〜85,000年前だったとの結論をまとめたという事です。(Webで見る限り、対照的に)冷静な記事です。
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| 毎日新聞の記事全文を読んでも、なぜ、旧人がいた事が確実なのかは分かりません。旧人説に対して誰かがクレジットを与えたのでしょうか、それも分かりません。中期旧石器時代説なら、クレジットする研究者もいますが... よもや、現在の研究状況において、このような説明(旧人説)が「仮説」としてはともかく、「展示会」等で公式化されることはないようにお願いしたいとは思いますが...
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| 繰り返しますと、テフラによる地層年代確認の情報は既に報じられた通りであり、それが調査委員会の結論になったという以外(それはそれで尊重されるべきですが)、新しい情報は無いようです
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日本列島に「旧人」がいた 岩手県宮守村金取遺跡March 05, 2004 アルカンタラの熱い夏
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| 金取遺跡:岩手に「旧人」いた 再調査で中期旧石器時代 (Mainichi INTERACTIVE)
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| 岩手県宮守村の「金取(かねどり)遺跡」を再発掘していた調査委員会(委員長・佐々木広村長)は4日、同遺跡が8万5000年〓5万年前の中期旧石器時代(13万〓3万年前)と確認されたと発表した。旧石器発掘ねつ造問題の発覚以後、初めて確認された中期旧石器時代の遺跡で、現時点では国内最古となる。この結果、日本列島に「旧人」がいたことも確実となった。
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| 日本最古級の金取遺跡(岩手県宮守村)の発掘調査委員会(委員長・佐々木広村長)は4日、同村役場で会合を開き、一次調査で最も古い石器が見つかった地層の年代について、8万5000−5万年前(中期旧石器時代)とする調査結果をまとめた。
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| 金取遺跡はこれまで9万−8万年前とみられていたが、昨年8月からの二次調査で、この地層にはさらに新しい8万5000年前の火山灰が含まれていることが分かった。
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| 二次調査では1985年度の一次調査で石器が出た地層の土を採取、詳細に分析した。その結果、洞爺(11万年前)、北原(10万年前)、鳴子荷坂(9万年前)、阿蘇4(9万−8万5000年前)の4種類の火山灰が混在しており、地層の上には5万年前の火山灰が積もっていた。これらのことから、調査委はこの地層の年代を8万5000−5万年前と結論付けた。
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最古の金取遺跡に注目 金鶏山(平泉)が国史跡に2003/12/10 岩手日報
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| 日本考古学協会は5月、東北旧石器文化研究所の前副理事長が関与した前・中期旧石器時代(3万年以上前)の全遺跡の学術評価を否定する発表をした。
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| 最悪の結果となったねつ造遺跡の検証を受け、旧石器研究の再構築に向けた動きが徐々に出始める中、宮守村の金取(かねどり)遺跡が注目を集めた。同協会は7月、現時点で国内最古(9万−8万年前)と確認。9月には旧石器包含層の広がりを確認する第2次調査が行われ、全国的にも関心を呼んだ。
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| 2次調査で3万年以上前の旧石器は見つからなかったが、調査は来年度も実施する。同遺跡は現在、振り出しに戻った旧石器研究の標準となる存在であり、貴重な研究対象として活用を続ける。
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| 金取遺跡を発見した盛岡市の民間考古学研究者武田良夫さん(69)は、今年の第56回岩手日報文化賞(学芸部門)を受賞した。
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| ●世界遺産登録推進へも弾み
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| 平泉町の金鶏山が11月、文化審議会で国史跡指定の答申を受けた。金鶏山は中尊寺と毛越寺の間にあり、平泉の都市計画の基準点として、また景観上も重要な存在。今の私たちも実感できる平泉のシンボルでもある。
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| 国史跡に指定されると、2008年度のユネスコ世界遺産本登録を目指す「平泉の文化遺産」の核心地域(コアゾーン)になる。世界遺産の本登録審査は、広範囲な文化的景観を重視する傾向にあり、コアゾーン拡大は登録推進の弾みとなる。
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| 今年は志波城(盛岡市)が築かれて1200年の節目の年。昨年の胆沢城造営・阿弖流為(あてるい)没後1200年のときのような盛り上がりはなかったが、シンポジウムや規模を拡大しての志波城まつりなど記念行事を繰り広げた。
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| 志波城跡に関する市の施策で最も評価されているのは、史跡整備の取り組み。威容を誇る外郭南門、築地塀に加え、今年は政庁南門も復元された。ただし、活用の現状はやや物足りなく、もっと知恵を絞ってほしい。
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| ●埋蔵文化財展巡回が終了へ
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| 発掘調査関連では、金附(かねつき)遺跡(北上市)が全国的にも珍しい弥生時代の大規模な石器製作のムラ。西川目、堰向(せきむかい)U遺跡(北上市)は、平安時代の大規模集落跡。芋田(いもだ)U遺跡(玉山村)も平安時代の有力者が住んだとみられる中心集落跡。山口館跡(やまぐちたてあと)(宮古市)からは戦国時代末の堅牢(けんろう)な堀跡が見つかった。
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| 水沢市の林前(はやしまえ)U遺跡は、南側で戦国時代の集落跡、北側で平安時代の倉庫群跡が見つかり、ともに類例の乏しい貴重な成果となった。上須々孫館跡(かみすすまごだてあと)(北上市)からは経塚2基と中からほぼ完形の渥美産と須恵器系のつぼ計3個(12世紀後半から末)が出土、注目を集めた。
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| 県文化振興事業団埋蔵文化財センターなどが主催し、県内各地で巡回開催してきた埋蔵文化財展は、今年の江刺市開催(14日まで)で25年の歴史に幕を下ろす。来年以降は盛岡市内で続ける方向というが、巡回展の意義は小さくなかっただけに残念な知らせだった。(細田 清)
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| 2003年11月03日 岩 手 日 報
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| 「発掘は1人ではできない。賞はグループとしていただけるのならとも思ったが、これが仲間を代表して、ということになるのでしょうか」。権威とは無縁の在野の研究者は、終始はにかみを消さず受賞の弁を語る。
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| 終戦後間もない小学生高学年のころ、当時住んでいた宮古市内の縄文遺跡で土器片を初めて手にしたのが、現在に至る出発点。盛岡一高を卒業後郵便局員となり、職業人として定年まで勤め上げる一方、自由だが孤独でもある場所に立ち、考古学を探究し続けてきた。
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| 「発掘はパズルゲーム。ロマンなんて考えたことはない。警察の鑑識みたいなものでしょう」。とは言いながら「遺跡を掘るときは、この本(遺跡)を初めて読むのが私なんだと思う」とも。冷静な胸の内に、やはりロマンが潜んでいる。
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| 日本考古学協会が今年7月、現時点で国内最古と認定した宮守村達曽部の金取遺跡の発見者。今からちょうど20年前の1983年11月。当時勤務していた遠野郵便局から盛岡の自宅に帰る途中、眠気覚ましに車を止めた付近の地層から打製石斧(せきふ)を見つけた瞬間こそ、金取遺跡を数万年の眠りから呼び覚ました瞬間だった。
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| 翌年、菊池強一さん(前西和賀高校長)を団長に行われた発掘調査の確かさは、2000年に旧石器ねつ造問題が発覚して、あらためて評価を集めた。金取遺跡はこの年代の標準となり、本人いわく「2度目の発見を迎えたかの様相」に。今夏の二次調査も全国的に注目の的となった。
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| 「遺跡は日詰気仙沼構造線にあり、10万年の地層が最も厚くても1・5メートルの範囲に収まっている。こんなに条件のよい場所はなく、今でももう少し資料が出ないかと思っている」。金取通いはすでに200回を数える。
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| 旧石器時代から縄文時代草創期・早期が関心の焦点。岩洞湖小石川遺跡(玉山村)など県内の数々の旧石器遺跡、古代では永福寺山遺跡(盛岡市)などで地道に成果を積み上げ、学会などで全国に向け発表してきた。
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| 自身をアマチュアと称するが、自負もある。「現在は発掘調査が公務員の仕事になっているが、アマチュアが貢献できることはまだある。遺跡を見る(確かな)目は、多ければ多いほどいいわけですから」。
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| 2003年09月21日(日)第14回えみし文化ゼミナール(宮古)のまとめ
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金取遺跡:石20点を発見 石器か自然石か 調査期間を延長 2003年09月11日[毎日新聞]Mainichi INTERACTIVE
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| 日本最古の遺跡の可能性がある「金取(かねどり)遺跡」(岩手県宮守村)を発掘していた調査委員会(委員長・佐々木広村長)は11日、中期旧石器時代(13万〜3万年前)にあたる約4万年前と推定される地層から石約20点を発見したと発表した。だが、人為的に作られた石器か自然石か不明のため、調査委は16日までだった調査期間を3日程度延長し、発掘を続ける。
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| 調査委によると、石は大きいもので5センチ程度。まだ泥を落としておらず、十分な検証ができていないという。出土した地層の年代を特定する作業も進める。調査を指導する委員会委員長の阿部朝衛帝京大助教授は「石や地層をきちんと分析し、来年3月までに結論を出したい」と話している。
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| 金取遺跡は84年、9万〜4万年前と推定される地層から石器約40点などが見つかった。旧石器発掘ねつ造の前東北旧石器文化研究所副理事長も関与していないため、改めて発掘が行われている。【苅田伸宏】
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| 2003.07.07 西日本新聞
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| 岩手県宮守村の金取遺跡で石器が出土した地層が、九万―八万年前に堆積(たいせき)した火山灰であることが六日、日本考古学協会の調査で分かった。協会はこの時期に生活した人類が使用した石器とみており、現時点で確認されたものの中では日本最古となる。
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| 日本列島の人類史は約七十万年前にさかのぼるとされていたが、旧石器発掘ねつ造問題で東北旧石器文化研究所の前副理事長の関与遺跡が学術的価値を否定され、年代確認された遺跡は約四万年前に戻っていた。調査結果は列島に旧人がいたことを示し、アジア大陸の石器文化との関連を研究する上でも貴重な資料と期待されている。金取遺跡は一九八四年に発掘調査が行われ、年代の違う四つの地層から石器が出土。最も古いとみられる地層では、石斧(せきふ)やスクレイパー(削器)など石器九点が確認されていた。
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| 考古学協会はねつ造問題の検証と並行して、各地の「前・中期旧石器時代」(三万年以上前)とみられる遺跡や石器も再検討。金取遺跡も三回現地調査し、採取した火山灰の年代測定を自然科学分野の専門家に依頼し分析を進めてきた。
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| 緑色普通角閃石(かくせんせき)や斜方輝石、ジルコンなどの鉱物の成分、火山ガラスの形状や屈折率を調べた結果、石器が出土した最下層は九万―八万年前に九州から北海道まで飛散した「阿蘇4火山灰」であることが判明。
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| 上層の「村崎野軽石」(約七万年前)や下層の「北原火山灰」(約九万年前)などの堆積状況もはっきりと確認された。石器もアジア大陸で出土している同時期の形状と類似する点が多いという。
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| 調査の中心となった同志社大の松藤和人教授は「最終的な報告ではなく予備的な分析の結果。現在進行形で調査を進めており、結論がまとまったら学会で報告したい」と話している。
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| ●氷河期 大陸から移動か
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| 岩手県・金取遺跡で石器が出土した一番下の地層が九万―八万年前と確認されたことは、アフリカを起源とする人類が当時アジア大陸の東端に到達し、ヨーロッパのネアンデルタール人に当たる旧人が日本列島に存在していたことを意味する。
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| この時代は海水面が高く、日本列島は今と同じように大陸と隔絶されていた。当時の人類が海を渡った痕跡は世界的に残っておらず、大陸と地続きだった十八万―十三万年前の氷河期に、食料や住みやすい環境を求めて移動したと推測される。
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| 今年五月、金取とほぼ同じ北緯にある韓国の全谷里(チョンゴンニ)遺跡の石器が、火山灰分析や地質学的な地層の編年調査で、三十万年前後にさかのぼることが明らかにされた。
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| 日本列島でもトウヨウゾウなどこの年代のほ乳動物の化石が見つかっており、動物の往来があったのは確実だ。同じころに朝鮮半島で人類が生活していたのなら、地続きの日本列島に金取よりも古い遺跡が存在していてもおかしくない。
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| 東大の佐藤宏之・助教授(考古学)は「金取の年代測定の結果はほぼ予想通りだが、自然科学的な分析方法で裏付けられたことは大きな成果だ。前・中期旧石器研究は(前副理事長の)非関与遺跡を軸に展開されるが、今後の調査によってはさらに古い遺跡が見つかる可能性もある」と期待している。
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| by ブナ林と古代史
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| 2003年07月07日 西日本新聞 WORD Box
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| 岩手県宮守村の北上山地の丘陵にある遺跡。1984年に民間の考古学研究者が石斧(せきふ)を発見、発掘調査で4万年余り前の地層から石器31点、その下層から石器9点が出土。縄文時代と「後期・中期旧石器時代」の遺跡とされ、発掘ねつ造問題の発覚後は、国内最古の可能性を指摘されていた。 7月下旬から、岩手県教育委員会と宮守村が中心となって再発掘調査が実施される
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| 2003/07/06 【共同通信 】
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| 岩手県宮守村の金取遺跡で石器が出土した地層が、9万−8万年前に堆積(たいせき)した火山灰であることが6日、日本考古学協会の調査で分かった。協会はこの時期に生活した人類が使用した石器とみており、現時点で確認されたものの中では日本最古となる。
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| 日本列島の人類史は約70万年前にさかのぼるとされていたが、旧石器発掘ねつ造問題で東北旧石器文化研究所の前副理事長の関与遺跡が学術的価値を否定され、年代確認された遺跡は約4万年前に戻っていた。調査結果は列島に旧人がいたことを示し、アジア大陸の石器文化との関連を研究する上でも貴重な資料と期待されている。
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| 金取遺跡は1984年に発掘調査が行われ、年代の違う4つの地層から石器が出土。最も古いとみられる地層では、石斧(せきふ)やスクレイパー(削器)など石器9点が確認されていた。 考古学協会はねつ造問題の検証と並行して、各地の「前・中期旧石器時代」(3万年以上前)とみられる遺跡や石器も再検討。金取遺跡も3回現地調査し、採取した火山灰の年代測定を自然科学分野の専門家に依頼し分析を進めてきた。
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| 2003年01月25日 陸奥日報
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| 国史跡として最古とされていた座散乱木(ざざらぎ)遺跡=宮城県岩出山町。それもねつ造と分かり、文化庁は昨年十二月、指定を取り消した。二○○○年秋の「旧石器発掘ねつ造」発覚まで、東北地方を中心に世界的にもまれな“大発見“が相次ぎ、一時は六十万年以前にさかのぼった日本列島の人類史。それがどれも水の泡となって、考古学界は研究のベースになる遺跡年代の再構築を迫られている。
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| ▽むなしい脚光
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| 約四万五千年前の地層から石器六十三点が出土したとして座散乱木が国史跡に指定されたのは一九九七年。三万−三万五千年以上前の前・中期旧石器時代が日本にあったことを証明したとして脚光を浴びた。
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| 近年の研究で中期旧石器時代の存在は揺るがないとされているものの、座散乱木は昨年の再調査で「聖地」の地位を失った。同時代の石器が一点も出ないばかりか、地層は人が住めない火砕流の堆積(たいせき)層だった。
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| 千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館。「日本文化のあけぼの」と題したコーナーに、三万五千年前の地層から出土した西之台B遺跡(東京)の石器が展示されている。
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| 現時点で国内最古級とされるが、同博物館の春成秀爾教授は「ほかにも古い年代の石器が多数確認されている」と話す。
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| ▽有力な金取遺跡
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| 特に国内最古の可能性があるのは岩手県宮守村の金取遺跡。年代に八万−三万八千年前との幅はあるものの、ここを最古とみる研究者は多く、遺跡がある宮守村にはねつ造発覚後、全国の大学や研究機関から発掘要請が殺到。同村は今夏、年代の確定作業を含めた発掘調査を実施する方針だ。
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| このほか野尻湖立が鼻遺跡(長野)の石器やナウマンゾウの骨角器は四万八千年前。石子原(同)、後牟田遺跡(宮崎)が四万年前とされ、西之台Bと同じ三万五千年前の中山谷(東京)、吉岡(神奈川)、立切(鹿児島)なども地層から年代は確実とされている。
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| ねつ造発覚前から一連の大発見に懐疑的だった東京都文化課の小田静夫学芸員も、各遺跡の評価は春成教授とほぼ同じ見解。ただ、金取遺跡の最古については「何とも言えない」と慎重だ。
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| 年代測定の方法によって大きな誤差や全く別の数値が出ることがあり、小田氏の懸念もその点にある。一方で、一人の研究者が学界全体を陥れた混乱の後遺症は大きく「最古」の年代整理への道は険しそうだ。
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| 小田氏は「ねつ造事件を教訓に、すべての研究者が納得できる発掘態勢と報告が求められるだろう」と指摘している。
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| 2001.11.01 多摩ニュータウン タイムズ
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| 多摩ニュータウン30年を検証-A 遺跡発掘調査がもたらしたものU
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| その後、遺跡は相次いで発見され昭和47年に再度実施した分布調査では512ヶ所に増加し、最終的には964ヶ所にまで及んだ。
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| 途中、昭和40年代後半には自然保護、公害、住宅の需要動向の変化などにより多摩ニュータウン事業は建設を中断、開発計画の見直しをせまられる。その他予期せぬ問題で調査が中断したことも大幅な遅れにつながった。調査員は研究のための時間も取れず、とにかく現場へと向かい発掘し続けた。もちろん、土日の休みなどなかった。
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| 多摩ニュータウン開発が行われたこの時期は、埋蔵文化財保護行政も、いわば、黎明期にあり制度的にも確立されていなかった。しかも高度成長期にあって都内各所で頻発する埋蔵文化財の緊急調査に出動する必要から多摩ニュータウンの遺跡調査が手薄になり、読売新聞に報道された昭和50年代初めの頃は開発事業と遺跡調査の間がまさにドロ沼化していた時期にあたる。
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| 多摩丘陵の大規模かつ長期にわたる遺跡調査は「多摩ニュータウン方式」と呼ばれ全国の遺跡調査の手本となった。しかし「多摩ニュータウン遺跡調査会」には、どうしても任意団体であるがゆえの限界があり長期化するに従って調査員の身分保証やその数の確保が難しい現実となってきた。
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| 昭和55年、開発の整合をはかる目的で財団法人東京都埋蔵文化財センターが設立される。ほとんどの運営経費を事業者が負担することになりセンターは当分の間、ニュータウン区域内の遺跡だけを調査することとなった。職員の雇用条件が改善され、機材を導入、調査人数も大幅に増えて機動力も高まった。それからの発掘調査は順調に進んでいった。
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| 縄文時代を中心に多摩丘陵一帯に最終的には1000ヶ所近くにも及ぶ膨大な遺跡発掘の作業、そこから出土した土器片などの水洗い、注記、拓本、復元、記録など。これらの仕事を多い時で毎日千人くらいの人たちが手伝った。その中で、土の扱いに慣れ、昔の地形を熟知していている地元の人々は調査員たちにとって強い力となった。
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| 2001.05.10 東京都埋蔵文化財センター
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| 上・下層石器群の出土層位は武蔵野ローム層であること、石器群の出土層位の上・下位にはフィッション・トラック年代測定で49,000±5,000BPの値を示す新期箱根起源の東京パミスが位置することから、中期旧石器時代に属する石器群であると位置づけられる。
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| by多摩ニュータウンNo.471-B遺跡調査委員会
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平成13年12月11日by 東京都埋蔵文化財センター
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| 3 いわゆる「藤村関連遺跡」としての取り扱いについては、この遺跡から出土した石器の検証について、上記東京都の「調査委員会」が既に検証結果を公表しています。委員会の結論としては、「No.471−B遺跡の石器群が、他の異なる時期の石器群を混えたものであったり、明らかに後世に他地域から持ち込まれたものであるとの見解には至らなかった。しかし、多くの疑問点や不自然な状況などから、約5万年前の石器群という、これまでの評価をそのまま首肯することも困難である」とされています。
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| ここにその報告書を同封いたしますので、先にお送りしました本報告害と併せてご参照されますようお願いいたします。
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| なお、東京都教育委員会においては、東京都指定有形文化財に指定されていた当該遺跡から出土した石器について、東京都文化財保護審議会に諮問のうえ、平成13年10月25日に指定解除を行っています。
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| (2003.6)小田静夫 by黒潮圏の考古学
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| 2005/03/07 asahi.com
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| 那覇の私有地、管理届かず
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| 3万年以上前にさかのぼる日本最古の人骨が見つかった那覇市の山下町第1洞穴遺跡が危機に瀕(ひん)している。沖縄県指定史跡だが説明板はブロックやビニールシートに覆われ、洞内や周囲には岩が積まれて見学もできない状態だ。日本人のルーツ解明につながるともいわれる同遺跡の現状に、行政の管理責任や文化財保護のモラルを問う声があがっている。
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| 山下町第1洞穴は那覇市内の住宅地内にあり、60年代に発掘調査された。子供の大腿(だいたい)骨などが見つかり、洞内にあった木炭の年代測定で旧石器時代の3万2千年前の人骨とされている。日本人の祖先は南方から南西諸島をへて本土にたどりついたとする説もあり、日本人の起源を探る重要遺跡だ。69年に県史跡に指定された。
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| ところが現在、洞穴内や周辺には無数の岩が積まれ、遺跡前の3枚の説明板もビニールシートやブロックに遮られて見ることもままならない。
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| 同遺跡は私有地。土地の境界をめぐるもめ事が起こったことに加え、部屋の増築や通路の改修もできないと不満を募らせた地権者が昨年、岩を積み上げたり、塀を作ったりした。「以前から行政が買い上げてくれると聞いていたのに、何もしてくれない。もう当てにしない」と地権者は言う。
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| 地元の文化愛好家団体「うるくの歴史と文化を語る会」の金城新栄さん(67)も「これじゃ恥ずかしくて見学者の案内もできない。行政は真剣に対処してほしい」と嘆き、管理する那覇市に改善を申し入れた。
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| 県文化財保護条例によると、県史跡を現状変更や解除する場合は県教育委員会の判断が必要。だが、地権者からその申請はない。県文化課は「増築するなら史跡に影響を与えないようにと頼んできたのだが。指定解除を求められても、遺跡を守るためにはできない」と頭を抱える。
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那覇市住宅地の洞窟遺跡、ピンチ 私有地で管理届かず 2005/03/05 asahi.com
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| 3万年以上前にさかのぼる日本最古の人骨が見つかった那覇市の山下町第1洞穴遺跡が危機に瀕(ひん)している。沖縄県指定史跡だが説明板はブロックやビニールシートに覆われ、洞内や周囲には岩が積まれて見学もできない状態だ。日本人のルーツ解明につながるともいわれる同遺跡の現状に、行政の管理責任や文化財保護のモラルを問う声があがっている。
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| 山下町第1洞穴は那覇市内の住宅地内にあり、60年代に発掘調査された。子供の大腿(だいたい)骨などが見つかり、洞内にあった木炭の年代測定で旧石器時代の3万2000年前の人骨とされている。同県具志頭(ぐしかみ)村の港川人(約1万8000年前)などと合わせて、日本人の祖先は南方から南西諸島をへて本土にたどりついたとする説もあり、日本人の起源を探る重要遺跡だ。69年に県史跡に指定された。
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| ところが現在、洞穴内や周辺には無数の岩が積まれ、遺跡前の3枚の説明板もビニールシートやブロックに遮られて見ることもままならない。
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| 同遺跡は私有地。土地の境界をめぐるもめ事が起こったことに加え、部屋の増築や通路の改修もできないと不満を募らせた地権者が昨年、岩を積み上げたり、塀を作ったりした。「以前から行政が買い上げてくれると聞いていたのに、何もしてくれない。もう当てにしない」と地権者は言う。
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| 地元の文化愛好家団体「うるくの歴史と文化を語る会」の金城新栄さん(67)も「これじゃ恥ずかしくて見学者の案内もできない。行政は真剣に対処してほしい」と嘆き、管理する那覇市に改善を申し入れた。
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| 県文化財保護条例によると、県史跡を現状変更や解除する場合は県教育委員会の判断が必要。だが、地権者からその申請はない。県文化課は「増築するなら史跡に影響を与えないようにと頼んできたのだが。指定解除を求められても、遺跡を守るためにはできない」と頭を抱える。
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| 那覇市山下町にある洪積世の時代の人骨が出土した遺跡。国場川に面する石灰岩丘陵の中腹に位置し、1962年、1968年に発掘調査が行われた。この遺跡からは、鹿の骨や角の化石とともに8歳程度の女児と推定される人骨の一部が出土しているが、これらは今からおよそ3万2000年前、旧石器時代に生活していた人々の化石であった。日本列島では、後期更新世後半(約4万年〜1万年前)の人類の化石骨がいくつか発見されているが、その大部分は、人骨の保存に適した石灰岩地帯が多い沖縄から出土している。この人骨発見により、日本列島に後期更新世後半の人類の存在が明らかにされ、日本ばかりではく人類の移動または進化を探るにあたり東アジアにおいても重要な資料とされている。
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| -Palaeolithic Sites in the Amami and Satsunanislands-
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| 鹿児島県の奄美諸島と薩南諸島では、旧石器時代の石器が発見されている。
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| 種子島の立切遺跡・横峯C遺跡は、ともに今から約3万年前の遺跡で、多種の旧石器のほか、たき火跡や貯蔵穴とされる土坑などの生活跡が発見された。奄美大島の土浜ヤーヤ遺跡と喜子川遺跡では、数点の剥片石器が出土している。徳之島の天城遺跡では、チャート製の台形石器のほか各種の旧石器がまとまって発見され、同じく徳之島のガラ竿遺跡では、今から約2万5千年以上前の磨石が2点出土している。
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| これらの旧石器時代の遺跡は、おもに見晴らしのよい石灰岩台地上の縁辺部に位置している。
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| 鹿児島県上野原縄文の森
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| 2006年01月27日 東奥日報
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| 東京都杉並区の神田川北岸にある旧石器時代から縄文、古墳時代、中近世に至る重層的複合遺跡。杉並清掃工場建設に伴う1976年の大規模調査以降、数度の発掘調査でこれまでに約3万年前とみられる磨製石斧(せきふ)などの石器が出土している。今回の調査地は遺跡全体の西端に近い区域で、約9千点の遺物のうち、50―60点の石器の出土があった。
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3万2000年前、日本最古の建築木材出土 都内の旧石器時代遺跡 2006/01/06 The Sankei Shimbun
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| 東京都杉並区教育委員会は27日、同区の「高井戸東遺跡」から約3万2000年前の旧石器時代の炭化した大型木片(炭化材)を発掘した、と発表した。同教委は「人が生活した遺跡で見つかった木片としては日本最古。同じ地層から出土した磨製石斧(せきふ)などの石器群も同年代で最古級と分かる」としている。
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| 区教委によると、調査区域では、地表から約2メートルの層に米粒大の炭化物が集中して見つかる場所が5カ所ほぼ直線上に並び、うち3カ所から炭化材を発見。最も大きい木片は土中に斜めに埋まり、長さ約20センチ、太さ約16センチで、外面が黒く焼けていた。
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| さらに同じ地層から磨製石斧1点とナイフ型の石器3点が見つかった。
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| 放射線炭素年代測定を行った結果、木材は約3万2000年前のものと判明。マツ科トウヒ属の針葉樹で、同教委は「現在より気温が5、6度低い寒冷地の木で、当時の自然環境の復元にも大きな資料だ」としている。
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| 区教委は昨年7月から高井戸小の校庭で、校舎移転に伴う遺跡の発掘調査を実施。約2000平方メートルを調査した。
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| 調査を担当した小田静夫(おだ・しずお)東京大講師(63)=文化人類学=は「根は見つかっておらず、太さから建築材とみられる。石斧で付近の木を伐採したのではないか。現在、3万年以前といわれる遺跡でも年代測定に誤差などのあるケースが多く、正確に木材と石器の年代が分かる、旧石器研究に大変貴重な資料だ」としている。(共同)
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No.9-4-3 後期旧石器時代(3万年前〜1万2千年前)- 約二万年前に最寒冷となったビュルム氷期 -
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3万年前のマンモス化石1999年12月16日
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| 北海道湧別町(ゆうべつちょう)で約3万年前の最終氷期のものとみられるマンモスのきゅう歯化石が発見されていたことが16日分かった。北海道でマンモスの化石が見つかったのは9例目で、今回見つかったのは最も新しいものという。見つかったのはシベリアや中国大陸などに約1万年前まで生息していたとされるケブカマンモスの左下顎(したあご)のきゅう歯部分。
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岩宿遺跡:旧石器時代末期とみられる黒曜石の槍先形尖頭器発掘 (2001-07-25)[毎日新聞]Mainichi Interactive
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| 日本の旧石器時代の存在を裏付けた群馬県笠懸町阿左美の「岩宿遺跡」(国の指定史跡)から北東約100メートルの「岩宿2遺跡」から、1万6000〜1万7000年前の同時代末期のものと推定される黒曜石で作られた槍先形尖頭器(やりさきがたせんとうき)が25日までに、町教委による発掘調査で発掘された。民間の考古学者、故相沢忠洋さん(1926〜89)が49年に同形の尖頭器を発見して以来約50年ぶりの出土で、町教委は「岩宿に旧石器時代の石槍文化が存在したことを証明する貴重な発見」としている。
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| 尖頭器は、長さ4・3センチ、幅2・5センチ、厚さ7ミリで、一方の先がとがっただ円形。深さ約1・2メートルの関東ローム層から出土した。この他、町教委は、ナイフ形石器や石刃など過去最高の計約500点を発掘した。
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| ■安蒜政雄・明治大教授(考古学)の話 槍先形尖頭器は相沢氏が発見した当時、出土した地層が特定できなかった。今回、年代が明確になり、石槍文化があったことが証明された。当時の生活や社会を知るうえでも重要な遺跡であることが改めて分かった。ねつ造問題で信頼が揺れている旧石器時代研究にとっても、原点に返るという意味で喜ばしい
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岩宿遺跡発掘50年でシンポ 1999年10月23日 共同通信社
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| 日本にも旧石器時代があったことを初めて実証した岩宿遺跡の発掘から50年になるのを記念したシンポジウムが23日、2日間の日程で、同遺跡のある群馬県笠懸町で開かれた。シンポジウムには約100人が参加。「岩宿発掘50年の成果と今後の展望」をテーマに研究者4人が基調講演した。
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「ねつ造証明できず」 聖嶽洞穴遺跡で考古学協会2003年10月26日 The Sankei Shimbun
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| 大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴の遺跡調査をめぐり、ねつ造があったと「週刊文春」が報じた問題で、日本考古学協会は25日、「ねつ造の否定あるいは肯定のいずれも証明するに至らなかった」とする報告書を発表した。
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| 同遺跡をめぐっては、第一次調査団長だった賀川光夫・別府大名誉教授が、疑惑報道に抗議して自殺。遺族が文芸春秋に損害賠償などを求める訴訟を起こし、一審は遺族の訴えを認めた。現在、福岡高裁で係争中。
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| 日本考古学協会は賀川名誉教授の自殺後、調査検討委員会を設置し、現地調査を行い、資料や報告書類などを詳細に検討した。
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| その結果、遺跡は後世に掘り返されたようになっており、ねつ造がなくとも違う時代の遺物の混在は十分に起こりうると判断。ねつ造があったかどうかの判定は困難と結論づけた。
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| 聖嶽洞穴は1962年の調査で旧石器時代の遺跡と報告されたが、99年に再調査。「旧石器時代の遺跡と確認できない」とされた。
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| 週刊文春は2001年1−3月、記事や見出しで賀川名誉教授がねつ造したかのように記述。賀川名誉教授は3月、報道に抗議して自殺した。
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損害賠償訴訟:遺跡ねつ造報道で敗訴の文春が控訴 福岡高裁 2003年05月19日[毎日新聞]Mainichi INTERACTIVE
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| 大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴遺跡のねつ造報道をめぐる損害賠償請求訴訟で敗訴した文芸春秋(東京)は19日、報道に抗議して自殺した別府大名誉教授の遺族側の主張を認めた大分地裁判決を不服として福岡高裁に控訴した。
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| 文春側の代理人は「事実認定に誤りがある」としている。
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遺跡ねつ造疑惑 「聖嶽」報道に賠償命令 大分地裁 文春敗訴2003年05月15日(西日本新聞)YAHOO! NEWS
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| 大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴遺跡にねつ造疑惑があるとする週刊文春の報道に抗議して自殺した賀川(かがわ)光夫・別府大名誉教授=当時(78)=の遺族が、記事は名誉棄損にあたるとして、同誌発行元の文芸春秋と木俣正剛編集長らに約五千五百万円の損害賠償と謝罪広告掲載を求めた訴訟の判決が十五日、大分地裁であった。須田啓之裁判長は「ねつ造に関与したという証明も理由もなく、賀川氏の社会的評価を著しく低下させ、自殺を決意するほどの多大な精神的苦痛を与えた」として、六百六十万円の賠償と謝罪広告掲載を命じた。文芸春秋側は同日、控訴する意向を明らかにした。
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| 判決によると、週刊文春は二〇〇一年一月から三月まで計三回にわたって、同遺跡について「“第二の神の手”が聖嶽周辺にいる」「聖嶽遺跡の石器は別の四遺跡から集められていた」などと報道。発掘調査を担当した賀川氏は、同年三月九日に「死をもって抗議する」との遺書を残し、自宅で自殺した。
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| 裁判では(1)記事が賀川氏のねつ造と断定しているか(2)ねつ造と指摘するだけの事実があったか―を主な争点に、原告は「ねつ造を裏付ける証拠はなく、不十分な取材で自殺に追い込まれた」と主張。文春側は「記事は研究成果をまとめたもので、遺跡の発掘状況からすれば、賀川氏らの調査団にねつ造疑惑があるとする相当の理由もあった」と反論した。
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| 須田裁判長は判決で、同遺跡について「第一次調査団関係者らによって石器がねつ造され、または作為的に置かれていた可能性も考えられないではない」とし「記事は賀川氏がねつ造者と断定はしていない」と指摘。
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| その上で「記事は一般の読者が普通の読み方をすれば、賀川氏がねつ造に関与した疑いがあるとの印象を与える」と判断。「記者は、賀川氏自ら遺跡の問題点を指摘しているのを知っており、第一次調査団参加者に聴くなどすれば、賀川氏のねつ造関与に疑問を抱くことは可能だった」と、取材の問題点にも言及した。
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| 取材のずさんさ断罪
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| ▼賀川名誉教授の遺族弁護団の話 判決は、週刊文春の報道が、賀川氏に対する名誉棄損に当たることを正面から認めた画期的な判決。記事の内容が虚偽であると認めただけでなく、取材方法のずさんさなどを断罪しており高く評価できる。
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| 控訴せざるを得ない
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| ▼文芸春秋の話 賀川氏の自死は痛ましいことと思うが、小誌記事に原因ありとされるのは心外。聖嶽遺跡に作為があることの検証を試みたのであり、賀川氏の行為とは一行も書いていない。判決はこの点をあまりに情緒的に混同しており、控訴せざるを得ない。
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| ワードBOX=聖嶽洞穴遺跡
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| 大分県本匠村の番匠川支流の絶壁にある鍾乳洞穴遺跡。1962年、賀川光夫・別府大名誉教授が中心となって行われた日本考古学協会・特別委員会の発掘調査(第1次調査)で、後期旧石器時代の化石人骨と黒曜石製の旧石器が同時に出土。こうした遺跡は日本唯一で、大陸との関係や古代人の生活様式を解明する手がかりになるとして注目され、高校の歴史教科書にも取り上げられた。しかし、99年に行われた第2次調査で、人骨は旧石器時代よりも新しいことが判明。人骨が出土したとする地層の年代も旧石器時代とはいえず「発掘された旧石器は混入された可能性が高い」などとする報告書がまとめられた。このため、考古学協会が現在、遺跡の検討作業を進めている。
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賀川さんの遺族が名誉棄損で文芸春秋社など提訴へ2001/09/17 合同新聞
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| 週刊文春による聖嶽洞穴(本匠村)のねつ造疑惑報道に抗議し、今年三月に自殺した別府大学名誉教授賀川光夫さん(78)=当時=の遺族三人は十五日、「何の根拠もないまま、ねつ造に関与したかのような報道をされ、名誉を棄損された」として同誌を発行する文芸春秋社などを相手に、 謝罪広告の掲載と損害賠償を求める訴訟を大分地裁に起こす考えを明らかにした。
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| 同日、大分市内で弁護団(代表・徳田靖之弁護士・三十人)を結成、十一月一日の提訴を目指している。
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| 遺族側は賀川さんの死後、同社に報道への経緯説明を求めて話し合った。
しかし、納得のいく説明はなく、再度の話し合いも断られたことから提訴に踏み切ることにしたという。
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| 原告の長男洋さん(45)と二男真さん(39)は「父の人格が傷つけられ、学者としての人権が侵されたことは許し難い。
すべての努力が一つの心ない報道で壊された」と心境を述べた。
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| 徳田弁護士は「人格高潔な素晴らしい人が、死に追いやられたことに対し、名誉を回復するとともに安易な報道に警鐘を鳴らしたい」と話した。
さらに県弁護士会員の半数近くが加わる“異例”の大弁護団になったことについて、「賀川さんに加えられた屈辱は、大分そのものが受けたという思いがあるからではないか」と説明した。
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| 週刊文春の木俣正剛編集長は「小誌の報道の真実性は、その後の学術調査報告書によって裏付けられたものと確信しております」とコメントを出した。
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| 週刊文春は今年一月から三月までの三回と、賀川さんの死後一回の計四回にわたって、聖嶽(ひじりだき)関係の記事を掲載した。
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| 最初の記事は一月二十五日号。「『第二の神の手』が大分『聖嶽人』周辺にいる!?」と、賀川さんが団長を務めた約四十年前の調査に「ねつ造」疑惑の目を向けた。
二月一日号と三月十五日号で、「ねつ造」を断定する記事を掲載。
「あたかも賀川さんが関与したかのような内容だった」(弁護団)。
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| 賀川さんは、これら週刊誌の記事に抗議。三回目の記事が出た直後の三月九日夜、日出町内の自宅で自殺した。
週刊文春はさらに三月二十二日号でも、聖嶽の記事を掲載した
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| 聖嶽洞穴は一九六二年に調査され、国内で唯一、旧石器時代の石器と人骨が一緒に出土した遺跡とされた。
しかし、九九年の再調査では、その評価が疑問視されている。
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「名誉棄損」と文春を提訴/自殺した名誉教授の遺族2001/09/15 山陽新聞社
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| 大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴の遺跡調査で「週刊文春」がねつ造の疑いがあると報じたことに抗議し自殺した賀川光夫・別府大名誉教授=当時(78)=の遺族が15日、大分市で会見し「名誉を棄損された」として出版元の文芸春秋(東京都千代田区)と週刊文春の木俣正剛編集長らに、損害賠償と謝罪広告を求める訴えを大分地裁に起こすことを明らかにした。
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| 遺族は今後、賠償請求額を決め、11月1日に提訴する方針。
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| 遺族は、週刊文春が今年1月から3月にかけ聖嶽洞穴について書いた計4回の記事や見出しで、事実に反して賀川名誉教授の行為と結びつけるような形で「ねつ造だった」「神の手」と記述したため、自殺に追い込まれるほどの精神的苦痛を受けたと主張している。
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聖嶽洞穴遺跡:「旧石器時代でない」 再調査報告書 [毎日新聞] 2001年06月20日 by Mainichi INTERACTIVE
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| 国内で唯一、旧石器時代の人骨と石器が出土したとされ、教科書にも掲載されている大分県本匠(ほんじょう)村の「聖嶽(ひじりだき)洞穴遺跡」の再調査をした国立歴史民俗博物館は「石器に縄文時代のものが混在し、人骨の鑑定結果も室町時代以降の時期を示すなど不自然な点が多くあり、少なくとも旧石器時代の遺跡と認めることはできない」とする報告書をまとめ、刊行した。この問題は、東北旧石器文化研究所前副理事長の旧石器ねつ造疑惑と並行して取りざたされ、最初の発掘調査に携わった賀川光夫・別府大学名誉教授が週刊誌に“ねつ造”と書かれたことを苦に今年3月、自殺するなど社会問題となっていた。
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| 同遺跡は本匠村宇津々の尾根突端にあり、1961年に縄文以降の現代人の骨より厚い人の後頭部の骨の破片が、黒曜石製の石器数点を伴って出土したことから、一躍有名になった。発掘調査は62年以降も続けられたが、後頭部骨は旧石器時代人の特徴を示し、出土した細石器も旧石器時代のものという見方が定着した。
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| しかし、99年になって別府大と国立歴史民俗博物館が中心になって再調査したところ、新たに見つかったろっ骨、足の指、歯などが、フッ素分析や放射性炭素による年代測定の結果、いずれも室町時代以降、江戸時代を中心にした骨ということがわかり、従来の説に大きな疑問を投げかけた。
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| 報告書はA4判114ページ。61〜62年の第1次調査、99年の第2次調査の経過を集約し、第2次調査に参加した各研究者の見解がまとめてある。
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| この中で、遺跡の年代を旧石器時代とみる根拠になった石器について、調査団副団長の春成秀爾・国立歴史民俗博物館教授は(1)前回は洞穴内の1カ所で6点見つかったのに、今回は2点しか見つからず、それがあった地層には中世の人骨や動物の骨も交じっていた(2)前回見つかった石器は西北九州の黒曜石製で、縄文時代のものも交じる(3)発掘以前に農工具などでついた傷があった――などの不自然な点が多いことから「本来洞穴内にあったのではなく、いずれかの時点で混入したと考える方が自然」と結論付けている。
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| ただし、第2次発掘調査団長の橘昌信・別府大学教授は元々聖嶽洞穴にあった石器である可能性に言及し、混入説に否定的な見解を示す。
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| 聖嶽洞穴出土の後頭部人骨については、馬場悠男・国立博物館人類研究部長が「側頭線や最上項線の発達が現代人に近いなどの特徴もある。江戸時代の人骨にも骨が厚かった事例もあり、ただちに旧石器時代人とみなすことはできない」と記述し、中国の山頂洞人(1〜2万年前)と同じような特徴があるとした最初の調査での見解を否定している。
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| 報告書をまとめた春成教授は「人骨、石器それぞれが一見して旧石器時代の可能性を示したことから、確かな検証もなしに考古学者、人類学者の見解が一人歩きしてしまった」と締めくくっている。 【塩満温】
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| 聖獄洞穴資料集
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<聖嶽遺跡>考古学協会が調査へ 大分県考古学会は文春に抗議2001年06月09日 by Mainichi INTERACTIVE
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| 大分県本匠村の聖嶽洞穴の出土石器を巡る週刊文春のねつ造疑惑報道について、日本考古学協会の聖嶽遺跡問題調査委は9日、遺物などの評価を調べ、公表することを明らかにした来年発行する機関誌「日本考古学」に結果を発表する方針。委員長は「週刊文春の報道に対しては研究論文をもって答える形を取りたい」と話す。
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| by西日本新聞社
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賀川別府大名誉教授が自殺 考古学者、聖嶽洞穴を調査(共同)2001年03月10日(土)by信濃毎日新聞
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| 九日午後十時十分ごろ、大分県日出町豊岡六一○○ノ三二八の自宅で、考古学者で別府大名誉教授の賀川光夫さん(78)が首をつって死亡しているのを妻のトシコさん(77)が見つけた。遺書が数通残されており、日出署は自殺とみている。
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| 十日午後、記者会見した遺族によると、遺書には「自ら追究してきた学問にやましいことはない。それをねつ造されるような形で書かれ、ひぼうされたことに学者の信念で死をもって抗議したい」などと、発掘調査をめぐる報道に不満を持っていたことが書かれていた。
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| 賀川さんは一九二三年栃木県生まれ。日大文学部卒業後、別府大講師などを経て、五八年同大教授。八七年から同大学長を務めたほか、大分県考古学会会長などを歴任。縄文時代の後期・晩期にも農耕があったとの説を提唱した。
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| 六二年には、全国で唯一、旧石器時代の人骨と石器がともに出土したとされる大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴の発掘調査団長を務めた。
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| 同洞穴をめぐっては、別府大が六日、調査団が発見した石器の中に縄文時代のものが交じっていたと発表、遺跡そのものの信頼性に疑問が指摘された。一部週刊誌で今年一月、同洞穴の調査にねつ造の疑いがあると報道された後、自宅に嫌がらせの電話などが相次ぎ、賀川さんは最近「疲れた」と言っていた。
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| 十日の記者会見で長男の洋さん(45)は「父の学問上の間違いに対する批判はあろうが、学問を追究する姿勢を興味本位の記事にするのはやめてほしい」と、一部の報道に対して抗議した。
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| 日出署の調べでは、書斎の棚にロープのようなものを掛け、首をつっていた。トシコさんと直前まで一緒におり、二階の書斎に上がった直後に自殺したとみられる。
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| 日出町の自宅には九日深夜から、大学関係者などが駆け付けた。
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| 2001.3.14…2001.3.28 前期旧石器論争 sessions and index by日本の考古学リソースのデジタル化
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<聖嶽洞穴>出土石器に縄文が交じる 教科書書き換えも 大分(2001年03月07日)by News.Walkerplus.com
| 「国内で唯一旧石器時代の人骨と石器が一緒に出土した」とされ、教科書にも「旧石器人骨が出土した」と記載される大分県の聖嶽洞穴の出土石器に縄文時代のものが交じっていることが明らかになった。別府大が6日、発表した。この結果、聖嶽洞穴人骨を旧石器時代と特定できなくなり、一部の教科書は書き換えが迫られる。(毎日新聞)
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| 石器が倍増、他遺跡のものが混入か=大分・聖嶽洞穴2001年 02月25日[時事通信社]
| | 国内で唯一、旧石器時代の人骨と石器が同時に出土したとされる大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴で、約40年前の別府大学による発掘調査時に報告された石器は14点なのに、同大で現在「聖嶽出土」として保管されている石器は26点に増えていることが、25日までに分かった。
| | 同大では出土品の展示や貸し借りの際に、別の遺跡の石器が混入したのではないかとみているが、学術的価値が高いとして教科書にも掲載されている遺跡だけに、ずさんな管理が問題になりそうだ。
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| | 2000年8月
| | 2000年8月28日の新聞各紙やTVなどで、大分県聖嶽洞穴で昨年調査、発掘された人骨が当初の発表された旧石器時代のものではないと報道されました。
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| 旧石器出土はかく乱層 嶽洞穴評価見直し2000/01/03 北日本新聞
| | 全国で唯一、約一万五千年前の後期旧石器時代の人骨と石器が同じ地層から出土したとされる大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴について、一九六二年の初調査以来、研究主体となってきた別府大は六日、石器が出土したのは別の時代の石器も交じるかく乱層だったと発表した。
| | また、洞穴で採集した石器の一部を紛失したり、他の遺跡の石器が混入したりするなど、大学の管理にずさんな点があったことも明らかになった。
| | 石器を検討した西南学院大の高倉洋彰教授(考古学)は「旧石器時代の遺跡としての評価は見直さざるを得ない」としており、全国的な注目を集めてきた遺跡の信頼性が大きく揺らぐ結果になった。
| | 別府大が聖嶽洞穴の出土品として保管している二十七点の石器について、調査関係者への聴き取り調査などで検討したところ、同洞穴出土とはっきり確認できたのは十四点だけだった。そのうち、旧石器時代のものと認められるのは四点で、七点は縄文時代後期―晩期のものと判明した。
| | また紛失した石器が二点ある一方で、峠山(とうげやま)遺跡(福岡県)など他の遺跡のもの二点が混入していたことが分かった。
| | 中村賢二郎学長は「教育・研究機関として誠に遺憾だ。史料管理体制の改善を図りたい」としている。
| | 六二年に出土した人骨は、石器と同じ地層とされているが、石器出土地点とは離れた所から出土しており、今後検討される。ただ、地層による年代推定の根拠が崩れたことで高倉教授は「人骨そのものの年代も怪しくなった」と言っている。
| | 同洞穴では九九年末に再調査が行われ、調査団(団長・橘昌信別府大教授)が近く調査報告書を発表の予定。だが調査結果をまとめる中で、保管されている石器の数が六二年当時の報告と違っていることが明らかになり、同大が学内で検討委員会を組織し、検証作業を進めていた。(共同)
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| 大分・聖嶽洞穴で旧石器人骨と石器を新たに発見December 20, 1999
| | 全国で唯一、旧石器と人骨が一緒に見つかった大分県本匠村の「聖嶽(ひじりだき)洞穴」を調査している「聖嶽洞穴発掘調査団」(団長、橘昌信・別府大教授)は20日、後期旧石器時代(1万4、5000年前)とみられる細石器と人骨を新たに発見したと発表した。同洞穴の調査は1962年に人骨などが見つかって以来、37年ぶり。旧石器人骨の出土は全国でもきわめて少なく、日本人のルーツ解明の貴重な資料となりそうだ。
| | 同洞穴は、標高約240メートルの岩壁に口を開ける石灰岩鍾乳洞で、今回、奥行き約45メートルの洞内を13区に分けて調査。入り口から16メートルまでの調査区から、最大で3.6センチ程度の、足の指の骨一部や頭がい骨片、ろっ骨の一部、奥歯の4点が出土した。
| | 同時に、旧石器時代の台形様石器と細石刃も見つかった。材質は佐賀県の腰岳産の黒曜石とみられる。調査団は今後、「人骨のフッ素含有量や放射性炭素などを調べ、より正確な年代を明らかにしたい」としている。
| | 同洞穴では62年に後期旧石器時代後半の人骨と石器が同時に見つかっている。
| | これまで全国で確認されている旧石器時代遺跡は約5000カ所にのぼるが、旧石器人の骨は約10カ所でしか見つかっておらず、視察した馬場悠男・国立科学博物館人類研究部長は「古い人骨が出たこと自体に大きな意味がある」としている。
| | 遺跡の性格について、橘団長は「幅が狭く、真っ暗なことから生活の場とは考えにくい。これまで獣骨が皆無なので墓の可能性もある」という。ただ、骨がばらばらで、墓地として利用したか、ほかの地から流されてきた可能性もあるとしている。 |
| 旧石器時代の人骨が出土1999年12月20日 共同通信社
| | 1962年に後期旧石器時代後半、(1万5000年前ごろ)の人骨と石器が一緒に出土した大分県本匠村の聖嶽洞穴で、新たに同時代の足指の骨など4点が見つかったと20日、同洞穴発掘調査団,(団長・橘昌信別府大教授)が発表した。橘団長は「ほかにも人骨らしいものを数十点採取した。骨格の特徴を中国大陸の旧石器人と比較し日本人のルーツを探りたい」と話している。
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| 水迫遺跡 旧石器住居跡新たに3基/指宿市教委調査報告書2004/06/12 (南日本新聞ニュースピックアップ) by考古学ニュース
| | −否定論文も再検証
| | 後期旧石器時代(1万5千年前)の集落跡が見つかっていた指宿市西方の水迫遺跡で、新たに同時代の住居跡とみられる3基の竪穴遺構が発見された。同市教育委員会はこのほど発行した発掘調査報告書で「(集落跡と)同様な遺構群が広がっていることが確認できた」としている。
| | 同遺跡では、1999年度から2000年度にかけて、同時代の住居跡とみられる竪穴遺構7基や道跡3条などが見つかった。移動生活が定説の時代で「定住生活の起源を知る貴重な発見」として注目された。同教委は集落跡の広がりを確認するため、南西側4カ所に調査区域(合計約450平方メートル)を設け、01年度から2年かけて発掘調査を実施していた。
| | 新たな3基の住居跡は、集落跡の西約20メートルの調査区域(約130平方メートル)から見つかった。一辺1.5−3メートルの大小の方形で、重なり合っていた。形状に規格性があり、底が平らなことから「人為的に掘削された遺構」と判断。テントのような上部構造物を建てるための杭(くい)穴も伴い、これまで発見された住居跡と「類似した遺構」とみている。
| | 同区域からはほかに、部分的な発見で住居跡と推定できない竪穴遺構2基と、土坑2基も見つかっている。
| | また集落跡から南西約100メートルの調査区域(約120平方メートル)から同時代の杭穴5基が見つかった。石器などの出土状況や地形も考慮し、集落群の広がりを約6500平方メートルと初めて推測した。
| | 鹿児島国際大学の上村俊雄教授(日本考古学)は「この時代の集落跡としては国内最大規模。住居跡の重なりは、そこが住みやすい場所だったことの証で、定住を裏付ける」と評価する。
| | 同遺跡の住居跡7基と道跡3条は昨年末、日本旧石器学会長の稲田孝司氏(岡山大学教授)が論文で「地層の乱れか自然地形を誤認したもの」と否定していた。同教委は同報告書で、過去の調査についても詳細に再検証し、「遺構が形成されないような条件は存在しない」として住居跡とあらためて確認している。
| | 鳥取環境大学の浅川滋男教授(建築史)は「多面的な分析からみて、今回の発見は住居跡の可能性が高い。だが反論があるなか、さらなる確証が必要」と話している。 |
| | 2004/01/22 時空の鍵穴 DMZ 投稿者---アームチェア(17:21:53)
| | 南日本新聞によれば、出水・上場遺跡と指宿・水迫遺跡の旧石器時代住居説を、旧石器学会会長が論文で否定と報道された。これは『考古学研究』50-3に掲載された稲田孝司氏の「日本における旧石器時代住居遺構の批判的検討」(pp.85--101)を受けての報道である。同論文を直接手にする機会は、おそらく購読者(会員)や埋文関係者に限られるけれども、新聞での報道は地元での反響を伝えている(と共に、報道自体が地元での反響になっている)。
| | 旧石器時代の住居遺構の判断は、縄文時代(少なくとも早期以降)と異なり、極めて困難が予想される。周氷河地域では地層の擾乱が通有でもある。稲田氏は判断の条件を3点あげている(稲田1988)。(一部摘記)
| | 1)一定の構造を持ち、それが安定した状態にあること。
| | 2)旧石器時代と判定可能な遺物を伴い、住居構造と遺物分布に有機的な関連がみられる。
| | 3)住居の上を安定した無遺物層が覆い、新しい時代の遺構遺物との見分けが明確なこと。
| | そこで再検討された(住居を伴うとされていた)遺跡は、鹿児島県上場遺跡、群馬県小暮東新山遺跡、福岡県椎木山遺跡、鹿児島県水迫遺跡である。
| | 特に水迫遺跡例は情報も詳しく、慎重かつ詳細に検討されている。また疑問点や問題点を指摘したとは言っても、「最終判断というより、むしろそうした再検討への足がかりとして役立つことを期待したい」と締めくくられている。
| | 旧石器時代の住居遺構の有無は、慎重に検討されるべき問題である。調査結果の報告と、確定判断の落差を、改めて思わざるをえない。
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| | December 24, 1999 邪馬台国大研究
| | 鹿児島県指宿市教委は24日午前、市内の「水迫(みずさこ)遺跡」で、後期旧石器時代終末(約1万5000年前)の竪穴住居群や道路状遺構、石器製作場、杭列(くいれつ)などがまとまって出土し、定住化へ向かう「集落」がすでに旧石器時代にあった可能性が強い、と発表した。国内で旧石器時代の生活遺構がこれだけまとまって出土した例はないという。これまで旧石器時代は獲物を追い求めて転々と移動するキャンプ的な暮らしで、1カ所に長期間住むようになるのは縄文時代からと考えられてきたが、この発見は従来の定説を覆す画期的なものとなりそうだ。
| | 水迫遺跡は台地にあり、広域農道の工事のため、今年度から調査している。遺構群は350平方メートルの中に、竪穴住居跡2棟分がある。同じ地層に「野岳型」と呼ばれる細石核があったことから、後期旧石器時代終末の遺構と断定した。
| | 同教委によると、杭列の性格は不明だが、境界線を示す柵列(さくれつ)の可能性があるという。また、道跡は幅50センチから2メートル、長さ12メートル。石器製作場は住居西側にあった。いずれも同じ時期の遺構とみている。
| | これまで発見された旧石器時代の可能性がある住居跡は、「はさみ山遺跡」(大阪府藤井寺市)や「田名向原遺跡」(神奈川県相模原市)、「小暮東新山遺跡」(群馬県富士見村)など全国でも30例に満たない。
| | 南九州では近年、上野原遺跡(鹿児島県国分市)など縄文早期や草創期の先進的な縄文文化が栄えていたことがわかり始め、立切遺跡(同県種子島)などさらに古い旧石器遺跡も相次いで発見されている。水迫遺跡は今年11月までに、縄文草創期の土器が出土していた。
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| | 2006年05月18日 盛岡タイムス
| | 雫石町教育委員会が町内の板橋V遺跡で今年3月に行った緊急発掘調査で、旧石器時代の遺物が発見され、雫石川流域にも旧石器時代の遺跡が存在することが明らかになった。見つかったのは台形様石器と呼ばれる石器4点、未製品の石斧(せきふ)1点、製品をつくる過程で出た残りの剥片(はくへん)など総数は100点以上になる。含有地層の年代などから石器は1万3千年から3万年前のものとみられる。
| | 同遺跡の現地および遺物指導を行い、金取遺跡などの鑑定にも携わった日本考古学協会員の菊池強一氏は「日本の旧石器時代の移り変わりを知る上で貴重な資料となる」と話す。石器を含有していた地層に学問的な裏付けがあることから、4万〜5万年前の日本最古とされる金取遺跡(旧宮守村)など他遺跡と比較分析する上で、今後板橋V遺跡が貴重な基準になるという。
| | 遺跡は同町板橋の国道46号から100メートルほど入った水田の中にあり、2000年の遺跡分布調査で縄文遺跡として確定していた。会社事務所の建設計画に伴い昨年12月に行った試掘調査で旧石器時代とみられる粘土層から剥片3点が出土。1月に範囲を広げて再度試掘調査を行った結果、新たに16点の剥片類が出土した。
| | 2回の試掘調査で旧石器時代の遺跡である可能性が高まったことから遺跡の保存について事業者と協議を進めたが、開発による影響が避けられないことから建物建設の範囲で緊急発掘調査した。
| | 調査区域は水田などの造成に伴い上部の地層が削られていたが、今回見つかった遺物はすべて年代を判断する上で目安となる小岩井浮石層と呼ばれる岩手山の火山灰などを含む約1万3千年前の地層よりも下の粘土層から発見されており、そのことが旧石器時代の遺跡と判断する根拠の一つになった。
| | 同遺跡の時代は後期旧石器時代の中でも早い段階であることが予想され、およそ3万年前後までさかのぼる可能性もあるという。同遺跡の現地調査は3月で終了し、今後は遺跡の土や出土遺物の分析などが行われる。
| | 町教委事務局の柴田慈幸社会教育主事は「できるだけ多くの人に見てもらう機会をつくりたい」と話す。町では今後、雫石町歴史民俗資料館などでの展示を予定している。
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| 宮島に新たな遺跡 清盛以前、祭祀の可能性 2005/01/01 中国新聞地域ニュース
| | ■鏡や勾玉など出土
| | 広島県宮島町西部の大川浦一帯で、旧石器時代末期の一万二、三千年前から平安時代にかけての約千点の考古資料をアマチュア研究家が発見し、広島大考古学研究室の調査で、古代の島の中心地とみられる新たな遺跡と分かった。世界文化遺産・厳島神社の礎を築いた平清盛の時代に先立つ十世紀前後の鏡も含まれ、厳島信仰の源流の一つとなる祭祀(さいし)が営まれた可能性がある。謎の多い宮島の古代史に迫る手掛かりとして広島大は今年から本格調査に入る。
| | 広島県大野町の荒木亮司さん(29)が見つけた。厳島神社の約五キロ南西に当たる大川浦と周辺を二〇〇〇年から歩き、海岸に露出する土器や石器などを拾い集めてきた。台風や高潮で海岸が浸食され、遺構面が次々と現れたらしい。
| | 広島大大学院文学研究科の古瀬清秀教授らが分析。土器などは縄文から平安時代までほぼ連続しており、瀬戸内海ができて宮島が島になった時期(約六千年前)よりずっと前から、大川浦が人間の営みの拠点だったことが浮き彫りになった。
| | 中でも出土した国産鏡「瑞花双鳥八稜(りょう)鏡」(直径約八・五センチ)は平安時代中―後期に盛んに各地の祭祀で使われた。須恵器(七―八世紀)や製塩土器(八―九世紀)の出土も他の祭祀遺跡と共通しているという。
| | 荒木さんは一・五キロ北東の海岸でも五世紀ごろ祭祀に使ったらしい「滑石製勾玉(まがたま)」(長さ約四センチ)を一個拾っており、島の西部が古くからの信仰の場だった可能性もある。
| | 勾玉の意味にも注目
| | 椙山林継・国学院大日本文化研究所長(祭祀考古学)の話 清盛以前の厳島信仰を考える遺跡はこれまでなく、重要な発見だ。祭祀と製塩、海上交易は密接な関係があり、鏡を考えるとほぼ祭祀遺跡だと言っていいだろう。勾玉の意味にも注目すべきだ。
| | 古代の宮島 弥山の山岳信仰で、昔から人が住まない神の島だったと言い伝えられる。593年創建と伝えられる厳島神社が12世紀に平家の加護で発展するまでの歴史はよく分かっていない。戦後、縄文、弥生時代などの遺跡が海岸沿いに発見されたが、祭祀と直接関係するものは出土していなかった。
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