2015年8月23日
児童養護施設広島新生学園の小学生から高校生までの計53名と職員7名を8月21日(金)に市内のTジョイ東広島にご招待して「ミニオンズ」を鑑賞頂きました。また、スポーツ用品の寄贈も行いました。
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2010/05/26 アリコジャパン/株式会社広島銀行
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CSR(企業の社会的責任)の一環として、平成19年7月から広島銀行とアリコジャパンと共同で取り組んでいる「社会貢献プログラム」の寄付金を、下記のとおり贈呈いたしましたので、お知らせします。
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1. 第6期寄付金の贈呈について
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(1) 贈呈者 : 広島銀行、アリコジャパン
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(2) 贈呈先 : ・財団法人ひろしまこども夢財団・広島県内の社会福祉法人として組織化されている12の児童養護施設
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救世軍豊浜学寮(呉市) 津田子供の家(廿日市市) 仁風園(呉市) こぶしケ丘学園(福山市) 救世軍愛光園(呉市) 似島学園(広島市) 子供の家三美園(尾道市) 広島修道院(広島市) 広島新生学園(東広島市) 八幡学園(広島市) 光の園摂理の家(廿日市市) 福山ルンビニ園(福山市)
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(3) 金額 : 658,000円(広島銀行 329,000円、アリコジャパン 329,000円)
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(4) その他 : 本日、広島県庁を訪問し、財団法人ひろしまこども夢財団に目録を贈呈いたしました。
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2. 「共同社会貢献プログラム」について
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-1 目的
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広島銀行とアリコジャパンは、CSRの観点から、次世代を担う子どもたちが健やかに生まれ育つ環境をつくるための諸施策にそれぞれが取り組んでおりますが、その一環として、財団法人ひろしまこども夢財団の行う子育て家庭応援関連事業ならびに広島県内で活動している社会福祉法人を支援することにより、子育て家庭を支援するものです。
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-2 寄付方法
・広島銀行がアリコジャパンの個人年金保険商品を販売した件数(6ヵ月間)に2,000円を乗じた金額を、広島銀行およびアリコジャパン双方で折半し寄付いたします。
・寄付は原則、毎年5月、11月に実施します。
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広島銀行とアリコジャパンは、今後も、子どもたちが健やかに生まれ育つ環境づくりに向け、共同社会貢献活動を継続してまいります。
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2010年04月12日 REGAO日記
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4/11(日)に広島新生学園のみなさまをお迎えして、しゃぶしゃぶパーティーを開催いたしました
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広島市内から西条に行く途中・・・これでもかっっというぐらいの土砂降りの雨
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パーティーは室内だから何の心配もいらないんですが、晴れだったらかったのにな〜
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と思っていると、子どもたちがつく頃には、雨が小雨になりました。
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きっと、子どもたちの日頃の行いがいいんでしょうね〜('▽'*)
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さてさて、前置きはこれくらいにして、パーティーの始まりです
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子どもたちも3回目とあって、スタッフの手を借りずに自分でどんどん作って食べて行きます。
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スタッフが「名前覚えとる?」と聞くと、ある女の子は照れくさそうにうなずき、最初は、久しぶりの再開に緊張気味だったようですが、すぐに打ち解けていました。
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そして、男の子たちは、スタッフが持っているDSのようにも見える機械(ハンディー)に興味津々。
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当店でアルバイトとして活躍してくれる日も近い
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ここで、恒例の誕生日のお祝い
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初めて進行役を努めた三奈戸店長、イイ感じでしたよ
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最後には、お礼の言葉もいただき、楽しいパーティーもあっという間でした
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また会える日を楽しみにしています
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2009年10月26日 REGAO日記(株式会社REGAOの「牛角」「温野菜」を担当するSV・店長の日記)
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10月25日(日)に、広島新生学園の皆さまをお招きして、しゃぶしゃぶ温野菜西条店にて第2回目の「しゃぶしゃぶパーティー」を開催いたしました。
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前回、学園の皆さんとお会いしたのは、西条店がオープンする数日前、6月14日でしたので約4ヶ月ぶりの再会です。
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お迎えするスタッフも、皆さんとの再会を心待ちにしていました。
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さあ、お迎えです。
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なんだか、4ヶ月の間に皆さん大きくなられた気が・・・
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前回は、「しゃぶしゃぶ」を食べるのが初めてという方もいてとまどう場面もありましたが、今回は2回目慣れてます
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2009年09月27日
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2009/06/19 The Weekly Pressnet
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東広島市西条御条町の「しゃぶしゃぶ温野菜西条店」は6月18日のオープンに先立ち、14日に児童養護施設広島新生学園の学園生を招待した。
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園生は用意されたコース料理を堪能。次々と運ばれてくる肉や野菜を前に、元気な子どもたちの声が店内に響いた=写真。上栗哲男園長は「外での食事は社会性を身につけるのに役立つ。みんな楽しんで食べていた」と喜んでいた。
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「子どもたちから逆に元気をもらった。今日のように笑顔の絶えない店にしていきたい」と津山博昭店長は開店に向けて決意を新たにしていた。
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今年3月にも県内の直営店2店鋪で、同じように約160人の子どもたちをオープンに伴い招待している。
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全国ボランティアら-めんキャラバンメロンの会IN JIN Corporation
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私たちは、1年間をかけて、全国565箇所の児童養護施設を巡回し、子供たちにラーメンを おなか一杯食べられる1日を提供して行きます。
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3月4日 広島新生学園
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幼児さん 9名
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小学生 33名
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中学生 17名
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高校生 13名
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職員さん 24名
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ラーメンは96杯作りました。
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2009年01月19日 中国電力
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エネルギア総合研究所では,12月25日(木),社会貢献活動の一環として,当社社員から寄贈された,子ども向けの絵本・ビデオ・玩具・ぬいぐるみを,本社での受付分については,『広島県広島こども家庭センター』(広島市南区宇品)へ,東広島の受付分については,『広島新生学園』(東広島市西条町田口)へ届けました。
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広島こども家庭センターは,子どもや家庭の問題に対応する総合的な相談支援機関で,「児童相談所」や「知的障害者更正相談所」,「婦人相談所(配偶者暴力相談支援センター)」として,児童や女性を保護する一時保護所を備えた施設です。また,広島新生学園は,諸般の事情で親と一緒に暮らすことのできない子どもたちが共同で生活している児童養護施設で,幼稚園児から高校生までの子どもたちが生活しています。
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エネルギア総合研究所では,例年厳しい家庭環境にある児童の皆さんの心を少しでも癒やすことができるよう,こうした絵本やぬいぐるみ等の寄贈による支援活動を行っています。
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平成20年11月26日 広島銀行
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2008/09/10 名前: 東広島ライオンズクラブ
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地域社会への貢献活動の一環として8月25日、児童養護施設広島新生学園(東広島市西条町、上栗哲男園長)の幼児から高校生までの計45人と職員7人をT・ジョイ東広島(同市)に招待、人気長編アニメーション映画「崖の上のポニョ」を鑑賞してもらいました。
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入場前に山下英男会長が「まだ暑いが頑張ろう」と子どもらを激励し、佐竹孝第一副会長がソフトボール用バット2本(約3万円相当)を贈呈。児童の代表が「今度の試合はこのバットで頑張ります」とお礼を言い、上栗園長は「みんな楽しみにし、夏休みの宿題もはかどったようです。幼児も一緒に鑑賞できる映画への招待はありがたいことです」と感謝しました。
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この後、会員が手分けして子どもたちにポップコーンとジュースを手配り。子どもたちは、おやつを食べながらポニョの世界を楽しみました。また、この日に来られなかった子どもたちには、後日映画鑑賞ができるようにと支援金としておやつ代も含めて約4万円を同学園に寄付しました。この新生学園の子どもたちの支援は、1978年から毎年実施。当初は広島市民球場でのプロ野球観戦の招待でしたが、8年前からは映画鑑賞会に変更、同時にスポーツ用品の寄贈も行っています。
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2008/09/08 中国新聞地域ニュス
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広島県内12の青年会議所の会員で構成する日本青年会議所建設部会広島ブロック建設クラブは7日、東広島市の児童養護施設・広島新生学園の砂場やベンチの屋根を、無償で修理する活動をした。
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会員40人が、シャベルや重機を持ち込み作業をした。水が流れ込んでいた2カ所の砂場に計12トンの土砂を入れてかさ上げ。割れた野球場のベンチの屋根はふき替え、プールサイドに長さ17メートルの柵も設けた。
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2008/09/05 ザ・ウィークリー・プレスネット
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東広島ライオンズクラブ(山下英男会長)は8月25日、東広島市西条町田口の児童養護施設・広島新生学園の児童・生徒52人を映画に招待した。ソフトボールのバットなどの贈呈式も行われた。
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同事業は今年で8回目。式では山下会長のあいさつの後、スポーツ用品が児童・生徒に手渡された。上栗哲男園長は「子どもはこの会を毎年楽しみにしている」と笑顔。
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8月23日に行われた広島県内の児童養護施設7チームが出場したソフトボール大会では同園が優勝。6年生の平田翔太君は「バットを次の試合で使いたい」と喜び、山下会長は「大会で活躍しているのを聞くとうれしい」と話していた。
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2008/07/18 中国新聞ニュ−ス
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経営コンサルティング、ホームページ制作のインフィニティ(広島市西区)は十七日、東広島市西条町の児童養護施設「広島新生学園」に同社のTシャツ七十五枚を贈った。
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Tシャツは白、黒、オレンジの三色。胸の位置に「NUKE FREE」(核兵器をなくそう)などの文字をあしらい、平和の願いを込めている。
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インフィニティは二〇〇五年から、被爆六十年をデザインしたTシャツを販売。子どもたちに平和について考えてもらおうと、広島市内などの児童養護施設にも寄贈している。今回で五カ所目。
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上栗明男副園長(54)は「夏は多くの枚数が必要なのでありがたい」と感謝し、「子どもたちに英語の意味を教えたい」と話していた。
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2008/07/18 中国新聞
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ヒロシマ被爆60年Tシャツ
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2007-12-24 第13回みどりの少年団活動 by社団法人東広島青年会議所
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2007.12.20 恒久平和のために
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第2次世界大戦後、旧ソ連・シベリアに抑留され、死亡した広島、岡山両県出身の旧陸軍関係者ら9人の遺骨の身元が厚生労働省の調査で分かり、19日、遺族のもとに遺骨が返された。
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身元が判明したのは、死亡当時20〜35歳の軍人8人と当時の満州国(現・中国東北部)の巡査。抑留先の埋葬地から収集した遺骨を、厚労省がDNA鑑定を行った結果、身元が分かった。
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このうち、同県三原市出身の竹内秀男さん=当時(25)=は昭和19年3月、陸軍に召集。終戦後に捕虜となり旧ソ連イルクーツク州で死亡、遺骨は平成14年、同州の埋葬地で見つかった。
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この日、竹内さんの弟の昭男さん(79)に代わって、遺骨を受け取ったおいの上栗明男さん(54)は「帰りを心待ちにしている昭男おじに早く届けたい」と話した。
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また、同県廿日市市に住む西本一柾(かずまさ)さん(71)は姉(76)とともに、中国戦線に出征し、22年に旧ソ連の収容所で死亡した兄の智喜(ちえき)さん=同(24)=の遺骨と対面した。
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「ご苦労様と言いたい。まさか戻ってくれるとは思わなかった。両親の墓にも入れようと思う」と、安堵(あんど)した表情をみせた。
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2007/09/07 ザ・ウィークリー・プレスネット
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「夏休みの楽しい思い出に」
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東広島ライオンズクラブ(上田憲治会長)は8月27日、東広島市西条町田口の児童養護施設「広島新生学園」(上栗哲男理事長)に入所している幼児・児童の計41人を映画鑑賞に招待した。軟式野球用ヘルメット8個の贈呈式も同時に行われた=写真。
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家庭の事情で施設に入所している子どもたち。夏休みに楽しい思い出を作ってもらいたいと、約10年前から続いている恒例行事。
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会場となった同市西条町御薗宇のT・ジョイ東広島で上田会長が「みんなの心に残ってくれればうれしく思います」とあいさつ。ヘルメットを学園の代表者4人に贈呈した。
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子どもたちは交代で真新しい青色のヘルメットを着用していた。学園の野球チームでキャッチャーをしている黒元康裕君(12)は「早速試合の時に使います」と喜んでいた。
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上栗理事長は「映画館に行く機会があまりないのでいい思い出になります」と喜ぶ子どもたちを見守っていた。
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当日学校のため参加できなかった同学園の中・高校生31人にも、映画代と菓子代が後日贈られた。
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2007/08/26 NEWS(平成19年度) 児童養護施設 似島学園
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夏休み最後のスポーツ行事が広島学園で行われました。
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トーナメント1回戦でまたもや宿敵「新生学園」と対戦し、4点先取されましたが、満塁ホームランですぐ追いつき“これはいける”と思いましたが、中3生3名の継投で粘りを見せましたが、新生打線も後半勢いがつき6−13で敗れました。
暑い中グランドでプレーした選手もベンチで大声を張り上げて応援した選手もよく頑張りました。
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2007 JAL
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ふれ愛の翼は、全国の児童養護施設の子どもたちを2泊3日で東京に招待するJALグループの社会活動プログラムです。
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1988年にスタートし、これまでに約1900名の子どもたちが招待されています。
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20回目となる今春、全国6地区から29名の小学6年生が招待されました。
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社員の発案からスタートしたこのプログラムは、その費用を社員募金で賄い、JALグループ各社の社員ボランティアによって支えられています。会社は活動全般の運営とサポート、および航空券を提供しています。
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招待施設と年間を通じて交流
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児童を招待するにあたり、従来は日本航空の就航地点で、複数の施設から子どもたちを選抜していましたが、現在では一地区一施設を支店があらかじめ選び、その施設の6年生を全員招待しています。
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普段一緒に生活をしている子どもたちがそろって招待されるため、安心して参加でき、友だち同士で思い出を共有できます。
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また、招待地区の選定にあたっては、その地域のJALグループ社員が年間を通して訪問し、施設との信頼関係が築けることを基本的な条件とし、さらに遠隔地を優先しています。
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広島や長崎地区では、支店の社員や過去に「ふれ愛の翼」にかかわった社員がクリスマスイベントに参加するなど、施設とJALグループとの新しい関係が全国各地で生まれています。
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このイベントを通じて変化を見せる子どもたちがいます
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広島新生学園 園長 上栗哲男氏
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「飛行機に乗ったことがない」「東京に行ったことがない」という子どもたちに、さまざまな体験をさせてあげたいと思い、ここ数年、JALの広島支店からの招待をお受けしています。
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普段の学園生活では味わえないイベントに参加したり、県外のほかの施設の子どもたちと交流することで、子どもたちの見識が広がったようです。今までもこのプログラムに参加して、積極的に話をするようになったり、目の輝きが変わった子どもたちがたくさんいました。「6年生になれば自分も参加できる」と、低学年の子どもたちも参加を楽しみにしています。
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2007年07月08日 広島実行委員長 川 瀬 啓 子
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児童養護施設の児童、母子福祉施設の児童・保護者、母子家庭の母子を招待し、土曜日のデーゲームであったため、多くの子どもや若い母親、家族連れなどで賑わいました。
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※ 東広島市広島新生学園のS.Kくんの手紙を紹介します。
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「この前は、どうも招待してくださってありがとうございました。 ぼくは乳がんが早く見つかれば命がすくわれることをしりませんでした。 ぼくは、そのことをしっていっしょうけんめいピンクのタオルをふりました。
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ぼくは、乳がんの人が1人でも助かればいいなあとおもいます。 赤とピンクでそまった球場がきれいでした。 スライリーもピンクでかわいかったです。みなさんもおからだに気をつけて活動をがんばってください。」
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2007-06-17 徒然なるままに書き留めた日記ですが何か
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次は、会場の近くにある新生学園と六方学園の園歌。
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新生学園から来た小さな指揮者さん。
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2007/05/13 似島学園
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平成19年5月13日(日)広島県内の児童養護施設が廿日市市阿品台東小学校に集まり晴天の中、なかよし運動会が行われました。
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似島学園は昨年に引き続き見事、総合優勝を果たしました。
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2007年04月16日 磯野鱧男Blog [平和・創作・本・京都・元祖藤村屋ファンクラブ]
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『原爆孤児 流転の日々』
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児玉克哉・著/汐文社1987年
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(略)
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新生学園は最初、引揚孤児収容所。
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上栗頼登氏がつくった養護施設。
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(略)
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1953年2月、「広島子供を守る会」誕生。
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就職の時の身元保証人、奨学金グループを設ける。
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そこから、『広島の少年少女は訴える』出版。
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「広島子供を守る会」、一八人の原爆孤児。
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衣服は1948年ごろ、ララ物資の贈り物や外国からの援助等により、よかったという。
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しかし、新生学園の場合、苛酷だったという。まったくみすぼらしい恰好で小学校に通うのも嫌。
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お互いに仲間の物を盗みとり、ケンカ。
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広島では就職難、保証人のいない原爆孤児はさらに困難だったという。
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(略)
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2007.04.01発行 広島県社会福祉士会報 真心 第9号
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私は30年もの間、児童福祉施設のケアワーカーとして実践してきたものです。広島県社会福祉士会には、微力ではありましたが支部時代からお手伝いさせていただきました。入所児童施設という性質上、土日が児童とかかわる重要な時間であり、これまで会の活動にはそれを犠牲にしてまで参加するのは難しいという事情がありました。
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被虐待児童が入所の過半数を占め、より専門的ケアが求められる児童養護施設ですが、現場の仕事は後進に少しずつシフトしながら会の仕事にも専念していく所存です。どうぞよろしくお願いします。
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2006/10 鈴峯女子短期大学 広報すずらんNo.61
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2006年09月01日 磯野鱧男Blog [平和・創作・本・京都・元祖藤村屋ファンクラブ]
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(略)
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『放送RCC'65 8 AUGUST VOL.3』ラジオ中国s40年
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「私の戦後20年」としての文章がありました。
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上栗頼登は養護施設「新生学園」を創設。
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25歳の見習い士官がはじめたという。
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(略)
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2006/06/17
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戦後広島で救済孤児の為に生涯をつくされた広島新生学園の創設者と保母さん達の人間愛あふれる本当にあったお話です。出版された当時は京都新聞でも紹介されました。
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2006年02月14日
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オユンナの歌う楽曲「風の色」(「折り鶴に出会った子どもたち」三省堂に収録)の詩を書いていただいた ながい裕樹様から、作詞仲間の紙中礼子様が書かれた「翔べ!太陽の子供たち」(鳥影社)が本日届きました。被爆した広島において、戦後、引揚孤児や戦争孤児、そして街に溢れた浮浪児たちを救う為に人生をかけた青年のお話です。
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「ヒロシマの少女の折鶴」を歌い平和のメッセージを送り続け、またモンゴルの恵まれない子供たちを支援しているオユンナの活動とリンクする、とても素晴らしい一冊です。
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折りしも本日はバレンタインデー。女性から男性にチョコを渡すのは日本だけの変な習慣(笑)。元来は男女問わず親しい友人や家族にメッセージカードを送ったりするのが一般的だそうです。すてきな贈り物をありがとうございました。
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2005/11/21 ベアフットブログ
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2005/07/30 中国新聞ニュ−ス
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東広島市西条町田口の児童養護施設「広島新生学園」に10体の遺骨が眠る。終戦で生還しながらまもなく命を落とした引き揚げ孤児の骨である。納骨堂の上に原爆慰霊碑。親子二代で子どもたちを支えてきた上栗哲男園長(56)は毎年8月6日、碑の前で戦争の悲惨さと平和の尊さを園児らに語り続けている。
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慰霊の石碑は、デルタを表現した三角石の両脇に平和の象徴のハトの翼をあしらったデザイン。土盛りを背に、グラウンドの横に立っている。
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納骨堂は広さ五平方メートル。棚に白い布に包まれた箱やつぼが整然と並ぶ。「南花子」「奥田千秋」「南日出夫」…。布に記した名前の姓は五人までが「南」である。「名を知る手掛かりがなかった子どもたち。南方から引き揚げてきたので父が付けたんです」と上栗園長は説明する。
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園は一九四五年十月、父頼登さん(九五年、七十六歳で死去)が広島市宇品の旧陸軍暁部隊の兵舎を借りて開いた。フィリピンや台湾などからの孤児を受け入れた。
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被爆体験が原点だった。
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当時、頼登さんは広島市中区にあった陸軍通信隊の見習士官だった。その日は休暇で郊外にいた。救援で入市。全市で赤ん坊が泣いていた。
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「この光景が孤児の施設をつくるきっかけだったそうです」と上栗さん。記録では、入園した引き揚げ孤児は約二百人。約四十人が栄養失調などで死亡したとある。
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園は七一年に広島市から現在地に移転。同年、慰霊碑と納骨堂を造った。以来、頼登さんや上栗園長が原爆忌には園児を連れて訪れ、遺骨の由来を伝えてきた。「子どもの心に平和の種をまき、温かい家庭を築く礎にしてほしいんです」。その日が近い。
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2005/05 似島学園
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5月8日(日)、広島県総合グランドに藤田雄山広島県知事を迎えて行われ、春の穏やかな陽ざしのもと、真剣な顔で競技に参加しました。今年は練習の成果がみごとに発揮され、平成8年以来、9年ぶりの優勝旗を手にしました。
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2004/09 by日記0409
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お寺のカレンダーを手にされた方から、『とってもステキなカレンダーでした。来年は毎月すてきなページをめくれることと思います。ありがとうございました。』と、メールをいただきました。
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そしてお会いした方からも、『カレンダーに描かれた絵を見ていますと、涙が出てきましたよ』と言って頂きました。ホントに嬉しいかぎりです。実はこのカレンダーの絵は、お寺の近くにある、広島新生学園の子供さん達に描いてもらいました。
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この広島新生学園には、何らかの理由によって身寄りのない子供さん達が入所しています。戦後は戦争孤児を、それから後は離婚等の理由で、そして最近では、虐待を受けた子供さん達が入所して来られると、園長先生からお聞きしていました。
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そこで私は以前から、この子供さん達の為に、お寺で何か出来ないかと常々考えていまして、毎年夏にお寺の本堂で子ども会を企画した折には、新生学園の子供さん達にも来てもらっています。
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今現在は、この夏の行事を通してコミュニケートするだけですが、もっと継続的な形で支援をしていき、子供さん達の精神的な拠り所となりたいと考えています。お寺には、その方々を包み込めるだけの、懐の広い目には見えないパワーがあるように、私は思っているのですが、言いすぎでしょうかネ〜。
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そんなこんなの理由により、この子供さん達にとって、お寺をより身近に感じてもらえる一つの手段として、このカレンダーを作ってみました。
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この新生学園の園長先生から、以下のようなお言葉を頂戴したので、ご紹介させて下さい。
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『子供が描いた絵がカレンダーのような作品になると、その子供に自信が付き元気が出る』
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『このカレンダーを見た、新生学園の関係者以外の方が子供達を褒めると、それが一番の精神的ケアーである』
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これらの言葉を頂き、今後も私の出来ることを、無理せずやっていこうと思いました。
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2004年05月02日 財団法人マツダ財団
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2004年度市民活動支援【詳細】
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2003/06/09 月子さん
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戦争についての本でお薦めしたい本があり勇気を振るって投稿いたします。
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本の検索からここに来る事ができました。戦争を語り継ぐ仲間の本に入れていただけたらうれしいです。
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タイトル 翔べ! 太陽の子供たち
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著者 紙中礼子
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出版元 鳥影社
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戦後広島で救済孤児の為に生涯をつくされた広島新生学園の創設者と保母さん達の人間愛あふれる本当にあったお話です。出版された当時は京都新聞でも紹介されました。
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2003/05/01
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95 名前: 名無しなんじゃ 投稿日: 2003/05/09(金) 01:46 ID:Qg17b8ZU
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新生学園って知ってる人いるかな。
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十数年前にそこ卒園したんだけど、今はどうなってるんだろう…。
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2001(平成13)年11月05日配信 日本赤十字広島県支部
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上栗哲男園長
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子どものときに虐待を受けた者が親になったときに虐待を繰り返すという世代間連鎖が問題となっていますが,虐待を受けた子どもであっても養護施設で育った場合,そうならないという報告があります。
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子どもたちの心の傷に対する癒しが養護施設での生活の中にあり,特に皆さんのような若いボランティアによる子どもとの密接な関わりが重要な癒しとなっています。
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また,施設の子どもたちも高校や大学に多数進学していますが,これもひとえに皆さんの根気強い学習指導のおかげです。
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これまでの活動に心から感謝するとともに,今後の活躍を期待します。
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Hiroshima Red Cross Youth Volunteer Corps
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南区みどころガイド ボラメ−ル
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| 中国新聞ニュ−ス
| 児童虐待の急増に伴って、児童養護施設が危険な親から引き離し た子どもを受け入れる「シェルター(避難所)」の役割を担うよう になってきた。中国地方でも計41施設で暮らす約1950人 のうち6、7割は、言葉による暴力などを含めた虐待を受けてい る、という。深い心の傷から、発達や精神面に問題を抱えるなど、 かかわり方が難しい子どもが増える一方、実態はほとんど知られて いない。孤立無援の奮闘を続ける中国地方の施設を訪ねる。 (岡田浩一)
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| 2001.10.10 中国新聞ニュ−ス
| 興味引くため…挑発・暴力・作り話
| ■最後のとりで 心のケア 職員ら奮闘
| 廿日市市の「光の園摂理の家」に体験入所した。初めて出会う「おじさん」に園児は興味津々。入れ代わり立ち代わり、話しかけたり、飛びついたりしてくれる。意外なほど、人懐っこい。ちょっと、人気者になった気分だ。ミク(7qから、きつい一発をもらうまでは…。
| ギーコ、ギーコ。ミクは、手押し車に自分より年下の子を乗せて、近づいてきた。グラウンドで、男子のサッカーを見物している時だった。
| 「ねえ、(車を)押して。早くう」と粘り強く催促してきた。あしらっていると、ミクの態度がひょう変した。「はよせえや。押しゃあ、ええんよ」。見事な脅し口調。あっけにとられていると、すかさず第二波。「たばこ怖いけえ、こっち向けんなや」。その後も言葉のミサイルが次々と飛んでくる。
| ミクは、学校からの通報によって、親元から保護された。かつて、親から浴びせられた言葉を、ぶつけているらしい。たばこにも、つらい経験があるのかもしれない。
| べたべたとなついて来るかと思えば、「ちょっと待ってね」などと、要求を受け入れないと、一転、冷たい態度や攻撃にでる。保育士によると、虐待を受けた子ども共通の特徴という。
| 夕食後、園舎内をぶらつく。近くのグループホームで暮らす五人を除くと、二歳から十八歳までの五十八人が、ひと部屋二、三人で暮らす。
| 「ゲームしよう」「うちの部屋へ来て」。次々と掛かる声に、懲りもせず、気分がよくなる。
| 「おもしろいもの見せてあげる」。ヒトシ(10)に強引に手を引かれ、部屋へ誘い込まれた。ヒトシは楽しそうに、ロボット三体で、人形遊びを始める。二体が男性、一体が女性の見立て。男性同士がぶつかり合い、もつれ合う。ついに、一体が学習机のがけ下へ突き落とされた。勝者は女性と結婚する筋立てだった。
| その後の自習時間でも、翌日の昼食の時でも、ヒトシは、両手を使った芝居を繰り返した。右手と左手が激しく戦い、最後は決まって、片方が「天国」へ上っていく。
| 保育士によると、こうした「死」を連想させる遊びは、ヒトシに限らない。ミニカーを何度もぶつけたり、おばけのような絵をばらばらに引きちぎったり。園児に、悪びれた様子はかけらもないが、見ている側は、むしょうに心がざわついた。
| 小学生の高学年二人と風呂(ふろ)に入った。「わあ、毛じゃ」。父親と同年代のはだかは珍しいのか、大はしゃぎだった。
| 午後十一時、子どもを寝かしつけた保育士と指導員が、事務室に集まってくる。園児が学校に行っている間は休憩を取るとはいえ、午前七時前からの長い勤務。指導員の一人は「やっても、やっても、心が通じない、というやるせなさと、結果はすぐにはでない、という自らへの言い聞かせが半ばしますね。燃え尽きてしまいやすい職場だと思います」という。
| 興味を引きつけたいがための、しつような挑発や暴力、過剰なまとわりつき、悲しい作り話…。大人が神経をすり減らし、どれほど愛情を注いでも、子どもたちの愛情への渇きは満たせない。
| それでも、保育士の一人は「一日中、いがみあっていた子から寝る間際に『ごめんね、ありがとう』って言われたりするのを励みに …」と、ぬいぐるみや靴下を繕っていた。今夜は、かつての虐待シーンを思い出し、声を殺して泣く子はいないだろうか。 (文中子どもの名前はは仮名です)
| ■心理専門家の導入 内面の悩み解くカギ
| 「好きな恐竜を置いていいよ」。光の園のカウンセリングルーム。心理セラピストの平松利枝子さん(28)に促され、小学生が、砂を入れた箱の中に、おもちゃを並べていく。箱庭療法と呼ばれる心理療法の手法の一つだ。
| 園児に箱庭療法をする平松さん
| 平松さんは週四日、施設を訪れ、年齢に応じた心理療法に取り組む。昨年度の園児五十九人のうち、三十四人に心理療法をした。カウンセリングルームで、幼児に帰る中学生がいる。お母さんごっこで、赤ちゃんの人形を床にたたきつける幼児も。自らの将来像をどうしても描けないケースもある。これまでの歴史をさかのぼり、つらさを聞いてもらえることで、癒やされていく。
| 光の園が心理の専門家を配置したのは一九九九年六月。この年から、被虐待児が十人以上いる施設に対して、非常勤のセラピストを雇うための補助金が、国から受けられるようになった。現在、広島県内で四施設がこの制度を利用している。
| 「施設は家庭、職員は親代わり」。戦災孤児の養育からスタートした多くの施設が、これまで培ってきた「生活のプロ」としてのノウハウだけでは、被虐待児の複雑な内面を理解しきれなくなってきている。心理学は、その悩みを解く新しいカギ、として期待を集めている。
| しかし、セラピストをうまく使いこなせている施設は全国的に少ない。光の園も当初は「園児が大きく動揺した」(田中輝義園長)と言う。相手をまず受け止めるスタンスをとるのが心理療法。結果、子どもたちが、これまで心に抑え込んでいた衝動や怒り、愛情への渇望などを、一気に行動として爆発させたからだ。窓ガラスの破壊、けんか、無断外出、自殺未遂、園舎の放火…。トラブルが連鎖反応する。職員はその後、本来の定員七十人を大きく減らし、一年間にわたって混乱の収拾に追われた。
| 平松さんは「先進例の通りに、セラピストが生活の場にどっぷり入るのは難しかった。現在は、職員との役割分担を心がけています」と話す。
| 生活と心理。ひとつの現場で、二つの専門職が力を発揮し合う方法は、まだ見つかっていない。田中園長は「心理療法に加えて、子どもへのかかわり方への助言や、指導員の心のケアなどをするコンサルテーション機能も担ってほしい」と期待している。
| <メモ>児童相談所は、子どもの生命に危険が及ぶと判断した場合、親の承諾を得て、児童養護施設などに子どもを入所させられる。また、親の同意が得られない場合でも、家庭裁判所の承認があれば、入所させられる。昨年11月の児童虐待防止法施行で、今後は入所措置を取るケースが増える見込み。
| 光の園摂理の家は、高校を卒業して、巣立っていく子どもの自立を支援するため、基金を設け、寄付を募っています。大学や専門学校の学費、就職に必要な運転免許の取得、初任給までの1カ月分の生活費などに充てます。同園は電話0829(39)1405
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| 2001.10.11 中国新聞ニュ−ス
| 施設の一部 情緒障害児向けに
| 虐待を受けた子どものケアのため、児童養護施設が治療機能の強化を目指すなか、鳥取子ども学園(鳥取市)は、全国に先駆けた取り組みをしている。施設の一部を常勤の精神科医や看護婦、心理セラピストを置く情緒障害児短期治療施設(情短施設)に切り替える方法だ。
| 藤野興一園長は「被虐待児のなかには、自らの自然治癒力では心の傷を乗り越えられないため、治療を必要とするケースが少数だがいる」と治療機能アップの必要性を訴える。
| 子ども学園では一九九四年、児童養護施設の定員を八十人から四十五人に減員。代わりに入所者三十人、通所者十五人の情短施設「希望館」を設けた。園舎で暮らす子どもの数は養護施設と情短施設を合わせて七十五人。班編成や食事、遊びなどの日常生活はすべて一緒にする。藤野園長は「子ども本人には、どちらの施設に入っているのかほぼ分からない」と話す。
| ただ、情短施設の子どもは定期的に医師の診察や、セラピスト二人の面接を受ける。親には週一回の面接を原則的に義務づけるなど家族の再構築を目指す、ファミリーケースワークにも力を入れる。
| 近くの国立療養所を辞め、希望館の常勤医師を引き受けた川口孝一さん(41)は「虐待を受けた子どもへの対応は診察室だけで片付く問題ではない。親子関係の傷つきを修正し、過去と折り合いをつけていければ、子どもたちが親になった時に暴力を次の世代に伝達しないですむ」と話す。
| 情短施設を設置した七年前、虐待問題はまだ取り沙汰(ざた)されていなかったが、児童養護施設はどこも「不登校児の受け皿」になっていた。学習障害や強迫神経症、拒食症などの問題を抱えた子どもも多く、園児の約四割が精神科医にかかっていた。
| 専門的な治療の必要性を痛感した藤野園長は、川口さんの協力を取りつけられたこともあって、情短施設の併設に踏み切った。当時、既に病院や学校の寄宿舎がセットになった例はあった。しかし、児童養護施設という「生活の場」を兼ね備え、子どもたちがともに暮らす情短施設は全国でも初の試みで、「鳥取子ども学園方式」と呼ばれている。
| 全国五百六十二カ所の児童養護施設のうち、情短施設を併設しているのは、子ども学園を合わせてまだ三施設だが、近年は被虐待児の受け皿として新たな注目を浴びている。また、厚生労働省も他の施設にこういうスタイルへの切り替えを勧めている。
| ■職員数増やせる利点も
| 情短施設のメリットは、治療機能のアップだけではなく、職員が増やせる点にもある。児童養護施設の運営費は、職員の人件費などに充てられる国からの措置費と支援者からの寄付で大半が賄われている。情短施設を導入すると措置費が増額される。子ども学園では職員が二十六人から四十四人になった。
| 被虐待児が次々と押し寄せ、「野戦病院」と例えるほど厳しい現場。職員は一人でも欲しい。「現行制度のなかで対応をするには情短施設への切り替えしかない」と藤野園長。「施設側も体験に裏打ちされた、従来の職人芸的対応に加え、治療的な処遇にチームワークで当たるシステムを確立することが求められている」と変革を呼び掛ける。
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| 2001.10.12 中国新聞ニュ−ス
| 断ち切れる暴力の連鎖
| 「もっと高く構えて。三振してもいいから、思い切って振れ」。 東広島市の広島新生学園。片翼八十メートルの野球場に、上栗哲男 園長の声が響く。白球を追う園児たちを、長い影が追っていた。
| スカイブルーのユニホームは、中国地方の施設の大会では常勝チ ームとして知られる。「自立の前にまず自律。そのために礼節、協 調性、順法精神を身に付けさせたい」と上栗園長。ルールを守り、 チームワークを重んずるお家芸は、その方針には格好の活動だ。
| 学園では、男子は小学生がソフトボール部、学校のクラブ活動に 入っていない中学、高校生が軟式野球部に、女子はバレーボール部 に入る伝統になっている。練習は毎日、日暮れまで続く。軟式野球 部は、卒園生も交えて、草野球リーグにも加盟。警察署やタクシー 会社などのチームと月二回、週末に試合する。
| 「職員より外部の人にほめてもらうことが、子どもの大きな自信 につながる」。虐待を受けた子どもの多くが、「自分が悪いから親 に怒られた」と思い込まされ、自尊心を奪われている。認められる ことは、将来社会へ巣立つうえで替え難い経験だという。
| 学園では現在、七十四人の子どもが暮らしている。うち、身体的 虐待が原因で保護された園児は約三十人。食べ物を満足に与えなか ったり、ひどい言葉を浴びせられたりするネグレクト(養育拒否) を入れれば、ほとんどのケースが虐待だという。表向きには、夜間 はいかいや暴力、不純異性交遊など非行が目立つ園児の背景にも、 虐待の影は潜んでいる。
| しかし、学園内で育ち、父の後を継いだ二代目園長は希望を捨て ない。「野球に限らず、仲間にもまれ、励まし合い、競い合って育 つ集団の力はすごいものです。幼児期に愛情をもらえていない子で も、良き理解者があれば軌道修正は必ずできる」と信じる。
| それだけに、世間で安易に語られる「児童虐待は繰り返す」とい うお題目には納得できない。「無責任な烙印(らくいん)ですよ。 うちの卒園生で子どもを虐待しているケースはほとんどない」と訴 える。
| ■卒園生も家族連れで汗
| 卒園生で、広島市南区の会社員(51)は、両親を亡くし、親類に預 けられた。唯一、はっきり覚えている当時の記憶といえば、卵かけ ご飯にまつわるものだ。みんなには卵があるのに自分にはなかっ た。今でいう心理的虐待を繰り返し受けた。他の思い出はつら過ぎ て胸の奥にしまい込んでしまった。
| 養父母への反発から、「いたずら」がエスカレート。小学二年で 学園に預けられた。「学園の先生や友達のおかげで、大人への信頼 感を取り戻せた。虐待を繰り返すなんて夢にも考えられない」と言 い切る。三人の子どもを育て上げ、孫も四人いる。
| 週末は長男と孫を連れて学園を訪れ、野球に汗を流す。「今度は 私たちが園児の良き理解者に」。そんな親子の姿に虐待の連鎖の姿 はかけらもない。
| 「おはようとおやすみなさい、を言うおかあさんは一緒であるべ きだ」(上栗園長)。学園で園児に直接かかわる保育士たち職員十 八人は、一人を除いて全員住み込み勤務という従来からのスタイル をかたくなに守る。
| 「こんなに愛しているんだ、と伝えたい。施設の努力で連鎖は断 てる」。それを証明するため、上栗園長は卒園生二千人を対象に追 跡調査を計画している。
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| 2001.10.13 中国新聞ニュ−ス
| 取り返しつかぬ傷 防ぐために
| ■地域のつながり再構築
| 「親子分離から施設入所という最終手段の中で、できることって限られています。やはり、予防が第一ですよね」。子供の家三美園(尾道市)の保育士山崎美恵子さんは、虐待のつめ跡に苦しむ子どもたちと、たくさん出会ってきた。
| 攻撃性を自制しきれないため、けんかをして解雇された卒園生もいる。「社会に出てからも困っている。虐待は一生を台無しにしてしまう」
| 児童養護施設に来るような事態に陥る前に、虐待をなんとか防ぎたい―。山崎さんは「地域の中に施設があることさえ知らない人が多い。まず、現状を知ってもらおう」と決意。尾道市社会福祉協議会と連携して、尾道地区子ども虐待防止ネットワーク会議を昨年、立ち上げた。
| 会議のメンバーは、医師や民生委員、保健婦、幼稚園教諭、保育士。三美園に事務局が置かれている。園児を周囲の偏見から守る観点から、閉鎖的な児童養護施設は少なくない。施設が虐待防止に向けた地域の取り組みで中核を担うケースは珍しい。特に、社協との連携は県内初の試みだ。
| 会議はこれまでに、虐待防止を呼びかけるパンフレットを、小学生以下の子どもを持つ保護者、小学生、中学生のそれぞれに向け、一万部ずつ作製。市内全域に配布した。費用約百八十万円は、社会福祉医療事業団の助成金を利用した。
| また、育児に悩む親の相談を受けたり、虐待を発見、対応したりする可能性の高い教育現場に参加を呼びかけ、毎月一回のペースで虐待の勉強会も開いている。毎回、幼稚園や保育所の関係者四、五十人が参加。山崎さんは「忙し過ぎるためか、小、中学校の先生の反応が薄い。今後の課題です」と言う。
| 山崎さんたちは、「CAP(子どもへの暴力防止)プログラム」を、活動に積極的に取り入れている。暴力やいじめ、性被害を受けそうになったとき、子ども自らが、勇気と声を出して助けを求め、身を守る方法を覚えるプログラムだ。
| 「『子どもには安心、自信、自由を持つ権利がある』というのが、CAPの根本的な考え方。これを学ぶことで、大人側も子どもとのかかわり方が見えてくる」と山崎さん。会議では講演と寸劇、実習で内容を学ぶワークショップの「出前」もする。
| 今年は既に小学校二校、幼稚園、保育所それぞれ一校で児童や保護者向けのワークショップを開いた。派遣する講師は福山、広島両地区のCAPに取り組む民間団体から招いている。将来的には講師の養成も行う方針だ。
| 会議の仕掛け人の一人である市社協の社会福祉士松井裕子さんは「民生委員からは、高齢者世帯に入っていくノウハウはあるが、子どものいる世帯へのかかわり方が分からない、という声をよく耳にする」と指摘する。これでは、虐待を児童相談所へ通報することはおろか、地域の人が育児に悩む母親の悩みを聞いてあげることさえ難しい。
| 勉強会やCAPの講師派遣は、こうした、住民や世代の間の壁を取り払う第一歩だ。「昔は、学校や子ども会などの活動を通して地域がまとまっていた。子どもが地域をつなげる媒介になる社会を取り戻したい」
| 児童養護施設は長年、子育ての困難な家庭を支えるノウハウを蓄積してきた。地域の養育機能を高めるための「頼もしい社会資源」(松井さん)として、役割は今後さらに重くなりそうだ。
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| 2001.10.13 中国新聞ニュ−ス
| 一対一でしか心開かないのに
| ■配置の基準 見直し急務
| 小学生が寝静まった午後九時。防府海北園(防府市)の主任保育士森本玲子さんも正午からの勤務が終わる。しかし、現実はここからが本番。中学、高校生の相手がゆっくりできる貴重な時間だ。
| 子どもたちは、親から満足に愛情を受けられなかったかつての時間を取り戻すように「自分一人だけをみて」とせがむ。ときには、暴力や問題行動という裏腹な形で。「とても、勤務中には応じきれない」という。
| 「気になる子」には、休日をつぶして付き合う。「一対一になって初めて心を開いてくれる」からだ。
| 児童養護施設の人件費は国からの措置費で賄われている。算出基準は「児童六人に対して、直接かかわる職員が一人(六対一)」と決められ、これを「最低基準」と呼ぶ。六歳未満の園児がいる場合は「加算分」の増員が認められる。
| しかし、子どもの世話は二十四時間体制。職員が八時間勤務で休日も取れば、実質は一人で二十数人の子どもを抱えている計算になる。
| 園児五十七人の海北園では経費節減などの「自助努力」で非常勤職員四人を雇っている。それでも直接子どもにかかわる職員は総勢十八人。園児が学校から帰ってきて寝るまでの最も手厚い人員配置の時間帯ですら男子、女子、幼児の三班に二人ずつがやっとというのが実情だ。
| 「むかつく」「きれる」ことの多い園児たちだけに園内外、学校を問わず問題を起こす。深夜まで対応に追われることもしばしばだ。休日や夜間の呼び出しもある。現在も、勤務時間外の職員が毎日交代で中学校へ授業参観に通い、園児がおとなしくしているよう「にらみ」を利かせている。
| さらに、子どもが病気になれば一日中かかりっきりになる。被虐待児が増え、研修などで心理や医療などの専門知識を学ぶ必要も出てきた。これらはほとんどが職員の「熱意」や「奉仕精神」に頼っているのが現状だ。
| 「虐待を受けた子は特に、安心してゆったりと指導するのが一番大切なんです。思春期の子どもも増えているのでゆとりがもっとほしい」と森本さんは強く望む。
| 森本さんは自らの子育てを終えた復帰組。女性の多い職場のため、いずれの施設でも結婚後、退園するケースが目立つ。「続けたくても続けられない」。ベテラン職員の戦力不足に悩む声は切実だ。
| 全国児童養護施設協議会(全養協)は長年、最低基準の見直しを国に求めてきた。しかし、八対一から六対一に改正されたのは一九七六年。以来二十五年間もほっておかれている。まるで、社会的に忘れられた存在。多くの園長が「子どもに選挙権がないうえ、親という強い味方もいないので票につながらないからだ」と口をそろえる。
| 海北園の園長で、全養協の予算対策部長を務める岩城満さんは「施設の使命を果たすためには二対一まで最低基準を引き上げたい。ただ、国民に理解を広げていかないと実現は難しい」と話す。
| そのためには、「施設側も国家資格の社会福祉士の配置や、補助金の適正利用などに努めなければ」と自戒。園では広報誌を使って、現状や決算の報告を怠らない。
| 若松園(岡山市)の園長で、中国地区全養協の高月和紘会長は「次の世代が育つのに、最低限必要な支援をしてほしい」と訴える。親に見捨てられた子どもを、社会がもう一度、見捨ててしまうようなことが、あってはならない。 (岡田浩一) =おわり
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| 1999.12.15(No.355) 広大フォーラム 31期4 ニューズ・ダイジェスト
| 孤児の父、人類の教育者と呼ばれたH・ペスタロッチーを記念する教育賞の受賞者に、社会福祉法人(児童養護施設)広島新生学園が選ばれ、十一月十日午後、教育学部大講義室で表彰式が行われた。
| 学長(実行委員長)より、被爆直後の広島で戦災孤児、引き揚げ孤児たちに献身的な教育愛を捧げた施設創始者、故上栗頼登氏の功績、また今日に至るまで家庭的に困難を抱えた子どもたち二千人以上を養護してきた学園の活動が紹介され、現施設長上栗哲男氏に表彰状、ペスタロッチー胸像等が贈呈された。また利島教育学部長からは、大学の間近にこのような全国的に評価されるべき学園があること、大学創立五十周年にあたる今年、その功績を顕彰できることの意義が強調された。
| 続いての頼登氏夫人、和子主任保母による記念講演では、心身ともに疲弊した子どもたちに食べ物を確保し、笑顔を取り戻させようとした開設時の苦心、また社会に巣立った子どもたちの活躍に報われる喜びが語られた。現在、養護されている子どもたちは幼児から高校生まで七十人、その半数近くが親権者の養育放棄、虐待によるもので、今日の教育問題の深刻さをうかがわせた。しかし、子どもたちは今も昔も柔軟で、環境を整え、愛と信頼をもって真剣に向き合うことにより育っていくことができるとの内容で、出席者二五〇人の大きな感動をよんだ。
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| 199/12/03 広島大学
| 孤児の父,人類の教育者と呼ばれたH.ペスタロッチーを記念する教育賞の受賞者に,社会福祉法人(児童養護施設)広島新生学園が選ばれ,11月10日午後,教育学部大講義室で表彰式が行われた。
| 原田康夫学長(実行委員長)より,被爆直後の広島で戦災孤児,引き揚げ孤 児たちに献身的な教育愛を捧げた施設創始者,故上栗頼登氏の功績,また今日に至るまで家庭的に困難を抱えた子どもたち2,000人以上を養護してきた学園の活動が紹介され,現施設長上栗哲男氏に表彰状,ペスタロッチー胸像等が贈呈された。また利島保教育学部長からは,大学の間近にこのような全国的に評価されるべき学園があること,大学創設50周年にあたる今年,その功績を顕彰できることの意義が強調された。
| 続いての頼登氏夫人,和子主任保母による記念講演では,心身ともに疲弊した子どもたちに食べ物を確保し,笑顔を取り戻させようとした開設時の苦心,また社会に巣立った子どもたちの活躍に報われる喜びが語られた。現在,養護されている子どもたちは幼児から高校生まで70人,その半数近くが親権者の養育放棄,虐待によるもので,今日の教育問題の深刻さをうかがわせた。しかし,子どもたちは今も昔も柔軟で,環境を整え,愛と信頼をもって真剣に向き合うことにより育っていくことができるとのお話で,出席者250人の大きな感動をよんだ。
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| 1999年11月 広島大学
| 広島新生学園に決定
| 2千人の子供たちを育成
| 本学教育学部が優れた教育実践者に贈る、第八回ペスタロッチー教育賞が社会福祉法人広島新生学園(施設長・上栗哲男)に贈られ、十一月十日に教育学部大講義室で表彰式と記念講演会が行われた。
| 表彰式では、原田学長が新生学園の歴史を触れながら、被爆直後から現在に至るまで五十四年にわたって、家庭的に恵まれない二千人の子供たちを、愛と献身の揺るぎない信念で立派に世に送り出してきたその教育実践は、まさにペスタロッチーの精神と重なると賛辞。上栗園長に表彰状とペスタロッチーの胸像などを贈呈した。
| 記念講演は上栗園長の母親の上栗和子さんが行い、同施設創始者で夫の故・上栗頼登さんとともに被爆直後の広島で、戦災孤児たちを献身的に救護、育成してきた同施設の歴史を紹介。卒園生たちが社会で活躍している成果を披露する場面では、会場から拍手がわき起こった。
| 昨年のペスタロッチー教育賞はユニセフ親善大使、黒柳徹子さんが受賞している。
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| 1999年10月27日 第44回中国社会事業功労賞受賞 児童養護施設「広島新生学園」保育士主任 上栗 和子さん(81)
| 原爆孤児、引き揚げ孤児、そして今は家庭で虐待を受けた子ども・・・。五十三年間の学園勤務で約二千人の「母親」を務めた。
| 「やりたいことを続られて幸せ。賞なんて恥ずかしい」。受賞は一九八一(昭和五十六)年の、前園長で夫の頼登さん(九五年、七十六歳で死去)に続いて。
| 高等師範学校を卒業後、皇族の保育係候補になったが、「恵まれない人の力に」と名古屋市内の極貧地区での保育所勤務を選ぶ。広島県会議員を務め、弱者の支援を続けた父、竹内利太郎さん(四三年、七十六歳で死去)の影響もあった。その地域で接する住民が、日々の生活に追われる中、時折り見せる屈託のない笑顔。福祉に魅力を感じ、結婚一年前の四五年十月から、広島市で学園を開設した頼登さんを手伝い始めた。
| 戦争で親を失い、街をさまよう子どもたちを園に連れてくる毎日。「園を抜け出して毛布を売って暮らす子もいた。でも盗みをするよりまし。そんな子ども一人ひとりが思い出です」
| 現在も保育士や栄養士らを指導、園児六十七人の面倒を見る。「子どもたちの視線で接し、可能性を見つければ、個性を伸ばすことができると思います」
| 三男の母。三人とも「園は継がない」と言っていたが、今では最大の理解者。長男哲男さん(50)が園長、三男明男さん(45)が副園長だ。
| 「息子には『邪魔になったら引退を勧告して』と言っています。恵まれない子どもを抱え、自分から辞めるとは言えない」。狭心症。薬の助けを借りながら「母親」を続ける構えだ。
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| 1999.09.11 中国新聞
| 施設の子らへ 球場超え響いた 人生の応援歌
| われらカープ人
| 球場全体が、ほぼカープの応援一色となる広島市民球場。その独特な光景を象徴するのが、「カープ三塁側私設応援団」(倉田光晴団長)の存在であろう。敵陣である三塁側に応援団を持つのは、十二球団でカープただ一つ。そして、その応援風景を定着させたのが、「ひげの応援団長」との愛称で知られた上田倉男さん(一九九五年、六十歳で死去)である。「あれほど、多くの人を応援した人もいないでしょう」。団員がそう口をそろえるほど、カープ、そして人々への愛で満ちあふれた人生。その生涯は、さながら応援歌のようであった。
| 上田さんが、三塁側で応援を始めたのは、昭和四十年代前半のことである。「三塁に立てば、一塁側ベンチがよく見えるからね」。妻の君枝さん(62)=広島市安佐南区大町東=は、夫の言葉を思い返した。「仕事は青果の卸業ですから朝が早い。それでも夜遅くまでカープの応援。よくやっていたと思います」。上田さんはその後、のちに応援団連盟の初代会長となる平田政輝さん(82)=広島市東区牛田中二丁目=と意気投合し、一九七二(昭和四十七)年に三塁側私設応援団を結成。団長に就任する。「ひげの応援団長」の誕生であった。
| 三塁側の名物男CARP
| 「アイデアマンで、面倒見のいい人。そして、決して選手をやじらない。そんな上田さんを慕ってみんな頑張ってきた」。当時のメンバーで、現在も三塁側で応援を続ける吉田尚三さん(52)=広島市西区都町=は振り返る。七五年には、スタンドに古葉人形を登場させ一躍話題に。以後、三塁側で旗を振り続ける上田さんの姿は、ファンの名物となっていく。ただ、上田さんの応援はスタンドにとどまらなかった。「自分の人生には二つの柱がある、と言っていた。一つはカープ。そしてもう一つがボランティア活動だと」
| 上田さんとボランティア。その歴史は、カープとのかかわりよりも古い。きっかけは六七年暮れの施設の慰問だった。「養護施設の子どもが正月のミカンも食べられない」と知人から聞き、ミカン二百五十箱を五つの施設に贈った。それを機に、上田さんは中区基町にあった養護施設、広島新生学園(上栗哲男園長)に、しばしば足を運ぶこととなる。「果物を持ってきては、僕には子供がいないので、多くの子どもたちと交流がしたいと言われて」。元園長の妻、上栗和子さん(81)=東広島市西条町=は振り返った。
| 親のいない子供や、体の不自由な人たち、お年寄り…。上田さんの交流には、やはりカープの存在が見え隠れする。新生学園では、いつも子どもたちにカープの話を聞かせた。「園生のほとんどがカープファン。上田さんの野球の話を、聞き入っていました」(上栗さん)。シーズン中には球場に招待したり、クリスマスには若手選手を呼んでのパーティーを開いたり。「カープをとても身近に感じるようになったようです。テレビを見ながら、『勝ってるから、上田のおじちゃんよかったね』とみんなで話してました」。優勝したときには、子どもたちからお祝いの電話が続いた。「あの子たちが陰で応援してくれてるからな」。それが上田さんの口癖だった。
| 広島市南区皆実二丁目の盲、ろう児施設、光清学園では、交流の中で積極的に野球観戦に誘った。施設長の石井孝典さん(61)は振り返る。「私がここに来て間もない八〇年春、上田さんが野球に招待してくださることになった。強度弱視、全盲の子どもたちがどうやって野球を楽しむのだろうか、正直とまどいました」。しかし、石井さんの不安は杞憂(きゆう)だった。スタンドでは応援団のメンバーが介護に加わり、試合中は、ボランティアの人々がグラウンド内の状況を園生に伝えた。「子どもたちは野球を目で楽しむのではなく、体全体で雰囲気を感じ取り、応援していた。普段見せないような表情で、他の観客と一緒になって熱狂しているんです。身の震える思いでした」
| 招待は野球だけにとどまらない。プロレス、映画にと、上田さんは園生をどんどん外出させた。石井さんは思った。「自分で垣根をつくってはいけない。見えないからこれしかできないという考えを捨てなさい、ということを言いたかったんじゃないかと」。上田さんは、カープを通じて、子どもたちに大切なメッセージを送っていたのである。
| 選手との交流もCARP
| 広島県佐伯郡佐伯町の重度身体障害者授産施設「広島ひかり園」。ここでも、交流という名の応援が続いていた。自ら車いすを押しては球場へ案内し、行けない人々には、園で応援旗を振って励ました。元所長の浅尾哲三さん(80)は言う。「試合観戦だけでなく、クリスマスパーティーなどでカープ選手と交流することもできた。貴重な時間を運んできてくれた」。多くの園生にとって、上田さんの存在がカープそのものであった。
| そんな上田さんにも、一度だけボランティアをやめようと思ったことがあった。八四年五月、君枝さんが心臓病を患い、入院した時のことである。店を移転したばかりで資金の問題もあった。しかし、そんな上田さんに君枝さんは、こう声をかけたという。「子どもたちが楽しみに待っているんでしょ」。その時のことを上田さんはこう語っている。「あの一言で決心がついた。世間を広く渡れるのも女房が黙って支えてくれるからです」。妻の愛が、上田さんの生きがいを守ったのである。
| 恩返しに本作りCARP
| しかし、悲劇は次第に忍び寄っていた。「九〇年七月十八日、私の心から決して消えることのない日」。直腸がんの宣告であった。「これまでは気持ちだけの応援だった。しかし、僕も体が不自由になり、やっと身も心も応援できる気がします、そうおっしゃったのが印象的でした」(浅尾さん)。上田さんに恩返しをしようと、浅尾さんと園生は、上田さんが書きつづっていた詩を一冊の本にする作業を始める。タイトルは「癌(がん)と二人傘」。しかしこの本を、上田さんが手にすることはなかった。
| 数々の人々に応援され、生の炎を燃やし続けた上田さん。九五年七月、最期の時を迎える。「急に上田さんが、カープのチケットがあるから球場へ行けよと言ってくれましてね」。当時、仕事のため応援活動から遠のいていた吉田さんは、久々に球場を訪れた。上田さんがなくなったのはその三日後だった。「あのチケットは、三塁側を頼むぞ、というメッセージだったような気がしましてね」。もう一度旗を振りたい。上田さんの果たせなかった思いを胸に、吉田さんは再び三塁側のスタンドに立つことを決意する。
| 広島市民球場の三塁側スタンドでは今日も応援旗が風に泳ぐ。施設には今年も、上田さんの遺志を継いだボランティア団体により、スイカが届けられた。「肩書き抜きの人と人とのふれあい。それが大切なんだ」。上田さんの奏でた「人生の応援歌」は、今も終わることなく、響き続いている。
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| 1999年01月31日 琉球新報
| 戦後、フィリピンのダバオから引き揚げ、広島県で亡くなった沖縄の孤児たちの遺骨十柱が、引き取り手のないまま同県の養護施設・広島新生学園(東広島市、上栗哲男園長)に眠っている。いずれも五歳以下で、生年月日や姓も不確かなことから、これまで遺族捜しが難航してきた。関係者は「遺族の年齢を考えると、今回が最後の機会かもしれない。何とか手がかりをつかみたい」と、情報提供を呼びかけている。
| 情報提供を呼びかけているのは泉川寛徳さん(80)=那覇市在。1946年1月16日、シンガポールから広島県宇品に復員。二週間ほど引揚民孤児収容所に身を寄せていた。同施設は、原爆被災孤児の救援活動をしていた上栗頼登さん(故人)が、私費を投じて開設。沖縄の孤児たちの面倒をみていた。孤児たちは 1945年10月26日にダバオから引き揚げてきたという。医薬品を持っていた泉川さんは子供たちの傷の手当てをした。
| 頼登さんの妻・和子さんは「最初に引き受けたのは73人。ほとんど沖縄の方です。全員が栄養失調で起き上がれず、うつろな目をしていました」と語る。上栗さんたちは息を引き取った子を火葬。その数は約40柱に上る。
| その後、孤児収容所は養護施設・新生学園として独立。遺骨は同学園の納骨堂に納められた。三分の二のは引き取られたが、まだ十柱が身元不明のまま。姓の分からない子は上栗さんが「南」という姓をつけた。泉川さんは「別れ際に私にすがった子供たちの姿が忘れられない。何とか祖先の地で眠らせてあげたい」と手がかりを求めている。
| 孤児に関する問い合わせは泉川寛徳さん098(886)1409まで。
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| 遺骨の氏名、生年月日は次の通り。
| 南武子(生年月日・昭和15年8月23日)南エツ子(同16年8月18日)木下ヨシコ(同16年9月20日)南一子(同18年3月8日)南千代子(同18 年7月3日)宮城照子(不明、5歳)南花子(不明、2歳)南ツネ子(不明、2歳)南ツネオ(不明)南日出夫(不明、2歳)
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| 1998/12/30 中国新聞 朝刊 北B
| 県北二市二郡の里親で結成する北備地区里親会(牧田繁喜会長、三十二人)は二十九日、今年も冬季一時里子として東広島市西条町の児童養護施設・広島新生学園(上栗哲男園長、七十五人)の園児を招いた。一月四日まで家庭生活を体験してもらう。
| 里子として訪れたのは四歳から十三歳までの九人。同日朝、園のバスで庄原市東本町の「伍楽荘ボウル」に到着した。受け入れ式で園児代表の岡本真理子さん(13)が「今日を楽しみにしていました。よろしくお願いします」とあいさつ。ホームステイの九家庭も決まった。
| 今回は、伍楽荘ボウルを拠点にしたボウリング愛好者の「ファイブ・クラブ」(山岡巧会長、四十人)が里子活動を支援。事前に広島新生学園へクリスマスプレゼントを贈ったほか、この日も式のあと、全員を招待して「ふれ愛ボウリング大会」を開いた。
| 園児と里親の家族ら四十人は十レーンに分かれ、二ゲームを楽しんだ。初めての人も多くボールが溝に落ちたり、時にストライクが出たりすると笑いや歓声があがった。里親たちは「すっかり打ち解けて”親子”のきずなが深まりました」と喜んでいた。
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| 1997/12/30 中国新聞 朝刊 広B/広C/北B/呉B 写有 (全464字)
家庭の温かみを味わってほしい―と、県北備地区里親会(牧田繁喜会長、三十三人)は二十九日、東広島市西条町の児童養護施設、広島新生学園(上栗哲男園長)の児童、幼児十一人を招いた。三次市などの里親十家族と一月四日まで生活を共にする。
| 三次市大田幸町の田幸公民館で、里親家族と子どもたちが対面。「一週間、家族としてよろしくお願いします」と学園児代表があいさつ。毎年訪問している児童は「お母さんよりも背が高くなった」などと喜んでいた。子どもたちは里親と一緒についたもちをぜんざい、きな粉もちにして食べながら「何をして過ごそうか」などと相談。それぞれの家庭へ引き取られた。
| 里親は五回目という双三郡三良坂町皆瀬、教員藤川菊子さん(46)は「毎年成長した子どもを見るのが楽しみ。二、三日たってお母さんと呼んでくれるとうれしい」。比婆郡東城町塩原に住む牧田会長は「しめ縄づくり、牛の世話など普段と変わらない生活を見せるつもり」と話していた。
| 里親会は、家庭の事情などで帰省先がない子どもを約二十五年前から正月と夏休みに受け入れている。
| 里親と一緒に「よいしょ、よいしょ」ともちをつく広島新生学園児
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| 1997/12/30 毎日新聞 地方版/広島
| 東広島市西条町田口、社会福祉法人児童養護施設・広島新生学園(上栗哲男園長、80人)の5歳から中学2年までの子供たち11人が29日、県北備地区里親会(牧田繁喜会長、33人)の会員宅で正月を過ごすため県北入りした。
| 子供たちは上栗園長ら3人の先生と一緒に三次市立田幸公民館で受け入れ式に出席。牧田会長、近藤盛男・三次児童相談所所長らが「風邪をひかないよう気をつけ、楽しい正月を過ごして下さい」とあいさつ。園生を代表して前田直行君(6年)が「この日を楽しみにしていました。よろしくお願いします」と、謝辞を述べ、里親と共に記念撮影した。
| この後、全員で6キロのもちをつき、ぜんざいやきな粉もちにして会食。ひと足早く正月気分を味わい、県北2市2郡内、10人の里親宅に落ち着いた。1月4日まで滞在、大掃除やもちつき、初参りなど年末年始の家庭生活を満喫する。
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| 1997/07/29 中国新聞
中国朝刊 広C (全239字)
県北二市二郡の里親で結成する北備地区里親会(牧田繁喜会長、三十一人)は二十七日から八月二日までの七日間、今年も東広島市西条町の児童養護施設・広島新生学園(上栗哲男園長、七十五人)の園児を夏季一時里子として招き、家庭生活を体験してもらっている。
| 招かれたのは幼児五、小学生十七の計二十二人。二十七日朝、園のバスで三次合同庁舎に到着。出迎えた里親に、上栗園長や園児代表が「温かい家庭生活を通して豊かな心情、人格の形成が促進できます」「楽しい思い出をつくりたい」とあいさつした。
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| 平成8年(1996年)11月15日 第458号 西広島Webタイムス
| 【佐伯区】広島学生赤十字奉仕団(南方真治委員長)が主催する「第二十回親善ソフトボール大会」が十七日(日)、広島市佐伯区五日市の大蔵省造幣局広島支局グラウンドで開かれる。日本赤十字者広島県支部共催。
| 児童福祉施設の子どもたちと地域の子どもたちが、スポーツを通して一緒に汗を流しながら楽しく交流しようというのが目的。当日は、草津東子供会、さくら母子寮、光の園摂理の家、高松母子寮、広島修道院、平良小学校ソフトボールクラブ、似島学園、広島新生学園、八幡学園の子どもたちが集まって熱戦を繰り広げる。
| 奉仕団は、広島市近郊の十七の大学・短大と二つの専門学校の学生約百八十人が組織している。児童福祉施設訪問や献血推進、障害者援助などのボランティア活動をしている。
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| 1996年06月11日 中国新聞
| ・土曜日の昼下がり、公民館の1室からサン・サーンスの「動物の謝肉祭」が聞こえてる。教員、会社員、主婦のサークル「AKI弦楽合奏団」の練習だ。
| 「AKI」は、中心メンバーが住んでいる広島市安芸区や広島県安芸郡にちなむ。団員22人は全員楽器の経験者だが、ほとんど初心者の人もいれば、ベテランもいる。構成楽器は、バイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバス、ピアノ。
| 代表者で小学校教員の津野裕二さん(37)=安芸区瀬野町=「ぴりぴりしながら練習するのではなく、のんびりと楽しく演奏するのを目的に結成しました」。津野さんとおさななじみで、結成以来のメンバー田渡雅敏さん(38)=安芸郡坂町=は「技術を追求すれば練習がシビアになる。間違えてもいいから、楽しくやりたい」と話す。
| 練習は第2第4土曜日の月2回。レパートリーはモーツアルト、バッハなどのクラシックと映画「となりのトトロ」などのテーマ曲がある。
| 結成して2年。練習に使っている安芸区の瀬野公民館で音楽教室を開いたり、養護施設で演奏会を開いたりしてきた。「お金を取ってプロのまねをするのではなく、原則無料で地域に根ざした奉仕をしたい」と話す津野さんは、昨年12月に訪問し、演奏会を開いた東広島市の養護施設「新生学園」の園児からもらった礼状を大切に保存している。
| 若い頃バイオリンでトーキーの伴奏をしていたという最年長に長行一男さん(77)=安佐南区八木3丁目は「私のような年寄りでも気軽の加われて、新鮮な気持ちで交流できる。
| 団員の手作りケーキとコーヒーで楽しむ長めの休息時間には、音楽談義と教育談義で会話が盛り上がる。
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| 広島市役所
| 原爆により両親を亡くした孤児は2,000人とも6,500人ともいわれています。頼る親戚もない孤児たちは、たばこのすいがらを拾ったり、靴磨きなどをして暮らしました。
| また、そういった孤児を収容するための孤児収容所ができ、広島市周辺には昭和22年末現在で5施設が設置されていました。
| 収容所は多くの孤児を抱え、物資や資金も思うように集まらず、食糧の確保が最大の悩みでした。そのため、孤児は農作業や地引き網、貝掘りなど、できることは何でもして、食べられるものは何でも食べていました。
| また、昭和24年8月にニューヨークの著名な文芸雑誌「土曜文学評論」の主筆として広島を訪れたノーマン・カズンズ氏(1915〜1990、広島市の特別名誉市民)は、被爆の惨状を視察する中で、広島戦災児育成所を訪ね原爆孤児たちに強烈な衝撃を受けました。
| カズンズ氏は帰米後、同誌に「4年後のヒロシマ」と題するルポを発表し、原爆孤児を米国人の精神養子として育成しようと呼びかけました。反響は大きく、孤児の「道徳的里親」を希望する多数の米国人が名乗りをあげました。翌25年1月、戦災児育成所の児童71人が精神養子になったのに続き、その対象も広島修道院、新生学園、光の園、似島学園などの施設に広げられ、この年だけでも233人の養子縁組が成立し、米国からの送金額は8,000ドルあまりに達しました。市では戦災孤児養育資金管理運営委員会(のちの広島市精神養子委員会)を設立し、資金の配分や養子縁組の仲立ちにあたりました。
| この運動は年とともに熱が加わり、28年には最高の409人となりましたが、児童が成長するにつれて、30年から減り始め、10年にわたったこの運動も34年には打ち切られました。この間、8施設490人あまりの児童が養育資金の支給を受けて、社会に巣立っていきました。
| ノーマン・カズンズ氏はたびたび来広して精神養子たちとの交流を深めましたが、この運動は、日本でも原爆孤児国内精神養子運動を起こさせる契機になりました。
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