TOPIC No.3-45 奇跡のりんご

01. 既存農薬農法の潜在的な怖さと、自然栽培(農法)の可能性 2009年09月28日
02. 自然栽培で奇跡のりんご 2009年10月22日
03. 木村さん1 2008年09月02日
04. 木村さん2 2008年09月02日
05. 木村さん3 2008年09月02日
06. プロフェッショナル仕事の流儀 第35回 2006年12月07日放送 「りんごは愛で育てる」農家:木村秋則 
07. 経済ドキュメンタリードラマ ルビコンの決断 2009年12月3日放送 奇跡のりんご誕生物語 〜不可能といわれた“無農薬”に挑んだ男〜
08. 木村秋則氏:リンゴ・リンゴジュース 公式通販サイト
09. 木村秋則さんの自然栽培 講義録無料プレゼント  by 潟iチュラル・ハーモニー
10. 奇跡のりんご 木村さんのりんご by自然栽培の仲間たち



「一歩前に出た農業を」 “奇跡のリンゴ”木村氏講演/鹿児島市

2010/03/08 南日本新聞

自然栽培などについて話す木村秋則さん=7日、鹿児島市

 無農薬、無肥料で栽培する「奇跡のリンゴ」で知られる青森県弘前市の農家、木村秋則さん(60)の講演会が7日、鹿児島市のホテルであった。「農家は栽培法を、消費者は毎日食べているものを変えよう」との訴えに、約600人の参加者が聞き入った。

 木村さん監修の「自然栽培茶」を手がける、茶製造販売の下堂園(鹿児島市)が創業55周年を記念し開いた。

 木村さんは、日本の農薬使用量の多さを示すデータや、肥料が地球温暖化の原因になっているとの最近の研究などを紹介。「農薬、肥料に頼らない農業を少しでも進める時期。一歩前に出た農業を、鹿児島から始めてほしい」と呼びかけた。

「奇跡のリンゴ」十勝で普及を 有志が研究会発足、HPも

2010年02月02日 十勝毎日新聞

 「絶対不可能」と言われた無農薬・無肥料によるリンゴ栽培を30年以上に及ぶ苦闘の末に成功させた青森県のリンゴ農家、木村秋則さん(60)の自然栽培を十勝でも普及させようと道内生産者や販売業者有志が「木村秋則自然栽培研究会・北海道」を立ち上げ、ホームページ(HP)を開設した。会長に就任した折笠農場(幕別町)の折笠健さん(41)は「大規模農業の北海道・十勝で自然栽培に取り組む意義は大きい。無農薬の素晴らしさ、食べた時のおいしさを伝えたい」と意欲を語る。

無農薬・無肥料栽培、次世代へ

折笠会長「素晴らしさ伝えたい」

 リンゴ栽培は農薬への依存度が高く、農薬不使用での収穫は困難とされる。そのため、農薬はもちろん有機肥料も使わない木村さんのリンゴは「奇跡のリンゴ」と呼ばれる。木村さんは全国各地で自然栽培の普及活動にも取り組んでおり、十勝管内では木村さんの指導を受けた十勝千年の森(清水町羽帯、ランラン・ファーム、林克彦社長)が、木村さん以外で初めて、無農薬・無肥料でのリンゴ栽培に成功している。

 同研究会はリンゴに限らない自然栽培の普及、実践に加え、生産物や商品を消費者に直接販売する仕組みを作ることなどが設立の狙い。

 木村さんの自然栽培農法を学んだ十勝管内や空知管内の農業者を中心に、首都圏、九州で自然栽培で作られた農産品を取り扱う飲食店や菓子会社、インターネット販売会社など8社で組織。木村さんの自然栽培を実現した全国の農業者と交流しながら、消費者や生産者の意識を喚起するような講演会、農業に関する勉強会などを開催し、HPやメールマガジンを利用して消費者に情報を提供。北海道の自然栽培を次世代に伝えるための活動を行う。木村さんは「研究会の立ち上げをうれしく思う。北海道農業にとって新しい1ページとなれば」と同研究会の活動にエールを送っている。同研究会のHPはhttp://kimura-akinori.jp/(犬飼裕一)

 同研究会の会長以外の主な役員は次の通り。(敬称略)

 ◇名誉会長=木村秋則◇顧問=佐藤隆司◇副会長=林克彦◇事務局長=堀田忍

「奇跡のリンゴ」を食べた

2010年01月07日 元プレジデント編集長の田舎暮らし奮闘記 第235回 nikkei TRENDY NeT

『奇跡のリンゴ』(石川拓治・著/幻冬舎/1365円)

 外出から戻った家内が怪訝な表情を浮かべて、こう聞いた。

「奇跡のリンゴって、知ってる?」

 一瞬、答えに詰まった。

「なんか、歯がない笑顔だらけのジイさんが作っているらしいのよ」

 二の句が継げないとは、このことだ。

「知らないけど、いま1個だけもらったの」

 えーーー、としばし絶句した。

 「奇跡のリンゴ」は、青森県岩木町のリンゴ農家、木村秋則さんが、完全無農薬・無肥料で育てたリンゴである。4年ほど前にNHKの番組で紹介されて、急にブレイクした。その後、関係する本も何冊か出され、ベストセラーになっている。

 このサイトの読書特集の時に、私も『奇跡のリンゴ』(幻冬舎)を推薦させてもらった。無農薬、無肥料でリンゴを作ることは、至難の業を通り超えて、絶対不可能と思われていた。

 実際、木村さんは試み始めて花をつけるまで、9年間もかかっている。この間、木村家は貧乏のどん底に落ちる。新学期が始まる時、小学生の子供たちに「消しゴムを切って、分け与えなければならなかった」というエピソードは胸に刺さった。

 木村さんは万策尽きて、自殺を図る。その時に、自然の何たるかを悟り、奇跡のリンゴの誕生につながる。

3年待ちでも入手困難なリンゴ

 奇跡のリンゴは大人気となり、今では「3年待ち」でも、手に入るかどうかと言われている。ところが、恐ろしいことに、家内はそのように貴重なものとは露知らず頂いてきてしまったのだ。なんでも、知り合いの息子さんがオーガニック食品の仕事をしていて、その伝手で手に入れられたそうだ。

 目の前に置かれた奇跡のリンゴを、しみじみと眺めた。品種は津軽だろうか。特別な光沢はない。もちろんワックスをかけてないからだ。形は少し歪んでいる。匂いを嗅いでみても、特別に強い香りは感じられない。

 懸命に写真を撮っている私を、家内がこれまた怪訝そうに眺めていた。奇跡のリンゴは腐らない。ただ、しぼむだけだという。それを信じて、正月に帰省してくる息子を待って、食べることにした。息子に「奇跡のリンゴがあるぞ」と電話で伝えた。

「えー、本当に、絶対食べるから、取っておいてくれー」

 これが普通の反応だろうと、一安心した。

断面がみずみずしく、果汁が浮き出る

 3週間後、いよいよ奇跡のリンゴに包丁を入れる時がきた。皿に乗せて部屋に置いておいたのだが、見かけは以前とちっとも変わっていない。切ると、特に蜜が入っているわけではないが、断面がみずみずしい。果汁が浮き出ている。

 口に入れる。シャキシャキとしっかりした歯ごたえだが、堅いわけではない。噛むたびに、果汁が出てくる。甘すぎず、酸っぱすぎず、なんともバランスのいい味だった。

 良く言われるような「昔ながらの懐かしい味」とも違う。家内は「パイナップルのような味」と言い、息子は「バナナのような味」と言った。

 甘いだけなら、もっと甘いリンゴはある。もっと香りの強いリンゴも、あるだろう。しばらく、そんなことを考えていた。汚い話で恐縮ながら、ゲップが出た。そのゲップは嫌な匂いがしなかった。大げさに言えば、さわやかなゲップだった。奇跡のリンゴが、胃を浄化してくれたのかも知れない。

 「正しい食べ物」の力とは、そういうものだろうと思った。

プロフィール 樺島 弘文(かばしま・ひろふみ)

1956年、札幌市生まれ。専門紙記者、週刊誌記者を経て、1988年にプレジデント社に入社。ビジネス雑誌「プレジデント」の編集長や出版部長などを務め、2002年3月に退職。退社後すぐ、妻と息子の家族3人で都心から栃木県馬頭町へ移住し、田舎での暮らしをスタートさせた。現在は、家の畑を耕しながら、経営者やビジネスノウハウをテーマに、フリーで雑誌や単行本の執筆、編集の仕事を続けている。著書に「馬頭のカバちゃん」(日経BP社/1575円)、「会社を辞めて田舎へGO!」(飛鳥新社/1575円)。

「奇跡のリンゴ」で世界的スターになった木村秋則さん(1)

2009.12.01 中央日報/Joins.com

日本の木村秋則さんは世界で唯一のリンゴを生産する農家だ。「農薬1滴、肥料1握り」も使わずに育てたリンゴだ。台風が吹いても木から落ちず、リンゴの木には病害虫が寄りつかない。そのため彼が生産したリンゴは「奇跡のリンゴ」と呼ばれる。先月21日に京畿道(キョンギド)が主催した「Gフードショー2009」の会場で会った彼は素朴な農民の姿だった。

「31年前の1978年ごろでした。リンゴ畑に農薬を撒くと何日も妻の具合が悪くなるのです。そこで農薬を使わなくても育つリンゴを栽培しようと決心しました」

無公害リンゴ栽培の動機を問う質問に彼はこう口を開いた。木村さんはリンゴの産地として知られる青森県岩木山のふもとで6500平方メートルのリンゴ畑を営んでいた。家族代々受け継いできた果樹園だった。「無公害リンゴを栽培しよう」という彼の決心を聞いた村の人々は、「確率ゼロのゲーム」だと言った。「青森のドンキホーテ」というあだ名も付けられた。現実はもっと過酷だった。10年が過ぎてもリンゴは1個も実を付けなかった。農薬と肥料に慣れたリンゴの木の野生はなかなか戻らなかった。

「収入がなく、どん底の生活をしました。人生の行き止まりに追い込まれた心境でした」

彼は糊口をしのぐためナイトクラブで客引きとして働いた。暴力団になぐられ歯は2〜3個を残しすべて抜けた。命を絶つ考えで山に登った。

「山で偶然、見事な実を結んだドングリの木を見つけました。その瞬間頭の中に閃光が走ったようでした。秘密は土にあると思いついたのです」

その足でリンゴ栽培法をもう一度変えた。果樹園の雑草も抜かなかった。手入れをしない原始そのままで果樹園をほったらかしにしたのだ。彼のリンゴ畑は「放置園」と呼ばれた。木村さんは「土が本来の生命力を回復するまで待ったのです」と話す。「肥料や農薬を数十年間撒いてきた土地は固くなり、雑草すら根を下ろせない。雑草が生い茂れば土も肥沃になったということだ」

「奇跡のリンゴ」で世界的スターになった木村秋則さん(2)

2009.12.01 中央日報/Joins.com

無農薬自然農法を開始してから10年が過ぎた87年、彼の目尻が潤んだ。リンゴを2個発見したのだ。大きさはピンポン球くらいだった。木村さんは「希望が見えたが失望も大きかった」という。4年が過ぎたがリンゴは実を付けないのだ。ところが奇跡が起きた。91年に果樹園が真っ赤に染まった。どの木にも見事なリンゴがたわわに実っていたのだ。木村さんは「農薬を撒いた木に比べ数は少なかったが、とても多い量だった」と振り返る。

91年に彼の農法は大きな注目を浴びた。青森県に上陸した大型台風のためだ。周辺の果樹園のリンゴは90%が落ちた。しかし木村さんのリンゴは80%以上がそのまま木に下がっていた。だれも知らないうちにリンゴの木は地中20メートルまで根を下ろし、枝は太くしっかりとしていためだ。その年、木村さんのリンゴは受験生の家族に「合格リンゴ」という名前で売られた。一般のリンゴの2倍近い価格だった。

この話は2006年にNHKで紹介され、日本国民に大きな感動を与えた。韓国では「奇跡のリンゴ」という本で彼の人生が紹介された。木村さんに「“奇跡のリンゴ”と言っても数が少なければ絵に描いた餅ではないか」と問うと、「自然農法により土が生き返り、木にリンゴが実り始めれば、その3〜4年後には収穫量も増える。いまは一般のリンゴの収穫量に劣らない」と答えた。

彼は「最初はピンポン球大だったリンゴが毎年少しずつ大きくなっている。味も毎年少しずつ甘くなった」という。ある年はあまりに甘く、包丁で切るとリンゴが包丁にくっつくほどで、ある年は甘くなく「塩を振って食べた」という消費者からの手紙も受け取ったりもした。木村さんのリンゴと一般のリンゴの最大の違いは農薬残留量と腐敗速度だ。

「一般のリンゴは皮にだけ農薬が一部残っていると考えがちだが、実際には果肉にも残っています。農薬など有害成分は根を通じて吸収されるためです。私のリンゴは1年過ぎても腐りません。水分が抜け大きさは縮みますが」

木村さんのリンゴ畑は2万6000平方メートルで年間40トンのリンゴが生産される。1箱22キログラムで4200円で売られるが、インターネットや電話などを通じて1年前に予約が締め切られる。木村さんは「10年間で日本のがん死亡率が3倍に増え、年間30万人ががんで死んでいる。日本人の60%以上がアレルギーなど過敏症を患っている。われわれが毎日摂取する食べ物のせいだと考えている」と話している。

【萬物相】奇跡のリンゴ

2009/11/24 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版 韓三煕(ハン・サムヒ)論説委員

 全羅南道長城郡のある農家が、3年にわたる試行錯誤の末、「奇跡のリンゴ」の生産に成功したという。「奇跡のリンゴ」とは、青森県の木村秋則さんが、農薬や肥料をまったく使わず、栽培に成功したリンゴのことだ。長城郡の農家は2005年、木村さんから自然農法を学んだ。木村さんは1986年、自然農法に取り組んで8年目にして、400本のリンゴの木の中からわずか2個だけ、それもピンポン玉ほどの大きさの実をようやく実らせることができた。(石川拓治著『奇跡のリンゴ』)

 木村さんのリンゴ畑は長い間、悲惨な状態が続いた。大量の害虫が発生し、木の枝が曲がるほどだった。酢、ワサビ、卵の白身、牛乳、みそ、塩など、あらゆるものを農薬の代わりにまいた。家族も朝から晩まで、ひたすら害虫退治に借り出された。1個の消しゴムを三つに切って子どもたちに使わせるほど、生活も困窮を極めた。85年7月31日、ついに耐えかねた木村さんは、ロープを持って山へ登った。首をつるつもりだった。

 山に登った木村さんは、葉が生い茂った木を目の当たりにした。山の木に農薬をまく人など、いるわけがない。木の周りには雑草が生えている。そのヒントは、土に隠されているのではないか、と木村さんは思った。土を掘り返してみると、とても温かかった。土の中に微生物が繁殖していたためだ。虫や微生物が、落ち葉や草を分解し、栄養分を作り出していたのだ。その栄養分を吸収した木の根は、土の奥深くまで延びていた。このときから木村さんは、リンゴ畑の雑草を放置した。すると、リンゴの木はみるみるうちに元気になった。

 一つだけ疑問が残った。2006年12月、NHKが「木村秋則さんのりんごのスープ」を出しているレストランを取材した。レストランで2年間保存していた二切れのリンゴは、腐っても変色してもいなかった。木村さんのリンゴが腐らなかったのは、虫や微生物がリンゴに付かなかったことを意味する。虫や微生物が嫌う成分がリンゴに含まれているとすれば、それは人間にとって害にはならないのだろうか。

 農薬を使わずに作物を栽培しようとすれば、その作物は自力で虫や微生物を退治しなければならない。そこで、その作物は、微生物が嫌い、虫が逃げていくような物質を作り出す。その物質が人体に悪影響を及ぼす可能性もある(ジェームズ・コールマン著『天然モノは安全なのか?−有機野菜やハーブもあぶない』)。植物生理学者に尋ねたところ、「その可能性もあるが、立証されてはいない」という答えが返ってきた。虫が好むか否かは別として、農薬を使わずに栽培した野菜は、多少値段が高くてもおいしいと思う。木村さんのリンゴもまた、あらかじめ注文しなければならないほど人気が高い。結局のところ、おいしく食べることが、健康になる秘訣(ひけつ)ではないだろうか。

「奇跡のリンゴ」執念の31年間(1/6)

2009/11/24 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版 弘前=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員

農業史を変える木村秋則さん

リンゴ園を営む木村さん。31年間にわたる試行錯誤を繰り返した男性のあくなき挑戦が、日本の農業の枠組みを変えつつある。

 世界を席巻した日本製品といえば、自動車や電子製品を思い浮かべるだろう。しかし、その名を聞けば、トヨタやソニーよりもなじみ深い「メード・イン・ジャパン」がある。

 それは、韓国では「プサ(「富士」という漢字の韓国語読み)」と呼ばれている「ふじ」という名のリンゴだ。青森県藤崎町で栽培されたこのリンゴは、1962年に品種登録されると同時に世界を席巻した。トヨタが「カローラ」で北米市場を開拓する6年前のことだ。

 日本の北端、岩木山のすそ野。見渡す限り一面にリンゴの木が広がっている。ここを中心に、青森県で作られるリンゴは日本の全生産量の半分を占める。愛知県豊田市が日本の製造業の聖地なら、岩木山は農業の聖地だ。

 農家を営む木村秋則さんは、この山のすそ野で37年間リンゴを栽培している。還暦だが喜寿を迎えたお年寄りよりも年を取って見える。かつてキャバレーの客引きをしていたころ、ヤクザに殴られ、折れた歯がそのままになっているからだろうか。自分が作ったリンゴをかじることもできなさそうだ。

 木村さんのリンゴ園を、昨年だけで約6000人が訪れた。修学旅行の小学生から韓国全羅道の農家まで訪問者はさまざまだ。木村さんの著書『リンゴが教えてくれたこと』や『自然栽培ひとすじに』は今年、日本全国の書店でベストセラーになった。昨年ベストセラーになった奮闘記『奇跡のリンゴ』は7月、韓国でも翻訳・出版された。

 木村さんのリンゴ園に向かおうと、すそ野を1時間ほどさまよった。どうしてこんなところに6000人もの人々が訪れるのだろうか。それは、本来の生態系を取り戻した「自然」がここにしかないからだ。1978年から31年間、農薬一滴、肥料一握りたりとも使っていない奇跡の8800平方メートル。東京・白金台にあるレストランの井口久和シェフは言う。「リンゴが腐らないんです。生産者の魂がこもっているからでしょう」(『奇跡のリンゴ』)。

 木村さんは「オタク」だ。成功してもしなくても、好きなことに命がけで熱中する「職人タイプ」の人を日本ではこう呼ぶ。今、この年配のりんごオタクが、農薬や肥料に依存してきた現代農業史を変えようとしている。日本の製造業の若いオタクたちが化学石油燃料に依存してきた現代工業史を変えつつあるのと同じようにだ。

 収穫ゼロで、儲けもゼロ。花一輪、実一つならないリンゴ園で、朝から晩まで虫を捕まえ、酢をまき、木と会話する。コメが足りなければおかゆを食べ、カネがなければ靴下を繕って履く。死のうと思いロープを持って登った山で、アイデアが思い浮かんだ。こうして11年間、耐え抜くことができたとしたら、だれもが歴史を変えられるだろう。

「奇跡のリンゴ」執念の31年間(2/6)

農業史を変える木村秋則さん

 木村秋則さん(60)。南北に長い日本・本州の最北端・津軽の方言は、韓国の江原道の方言にソックリだ。弘前実業高校を卒業し、経歴も顔も純朴だが、その人生には「毒々しさ」が満ち溢れている。

 「日本のリンゴの歴史は120年です。その間、大勢の先代の農家たちが無農薬・無肥料栽培に挑みました。しかし、ダメでした。4−5年くらいであきらめてしまったのです。『4−5年やってみたがダメだった。はじめから不可能だったんだ』と言います。でも、わたしはバカみたいに11年間耐え抜きました。だから、木が(わたしを)哀れに思って花を咲かせてくれたのでしょう」

 木村さんとリンゴの木の下で会話していると突然、会計士をしている桜庭周平さんという人がリンゴ園に入ってきて、こう叫んだ。「わたしは東京で会計事務所をやっている者です。本を読んで驚いてやって来ました。事務所の仲間は、あなたのことを天才だと言っています」。東京から青森の岩木山まで、ゆうに700キロはある。

 木村さんは「あ!あ!あ!」という独特の笑い声を上げながら、手を横に振った。「いや、いや、わたしはただバカなだけですよ」

 「オタク」とは、仕事だろうが趣味だろうが、一つのことに熱を上げ、執着するマニアを指す言葉だ。バカ扱いされることもあれば、メンタル面で問題を抱えているのではと言われることもある。この町で、木村さんは「かまどけし(津軽弁で破産者という意味)」と呼ばれた。家をつぶす者という意味だ。しかし、日本は経済構成員のこうした執着を動力に発展する巨大なオタク社会だ。

 『奇跡のリンゴ』の著者、石川拓治さんは、木村さんの経済史的な役割を次のように定義している。「1911年、モニリア病や褐ぱん病が蔓延したとき、農薬がなかったら青森のリンゴは消えていたはずだ。その年は日本のリンゴ史で初めて、農薬が使われた年だった。その後、日本のリンゴの飛躍的な成長は、農薬という『絶対基盤』の上でこそ可能だった。だが、木村さんは青森のリンゴを100年前の環境に戻したのだ」

■自然の時間は人間の時間よりも長い

―無農薬・無肥料栽培を始めてから、実を結ぶまでにどのくらいかかりましたか。

 「11年」

―驚くべき忍耐力ですね。

 「自然のサイクルはとても長いんですよ。24時間というのはせかせかしている人間が作ったものに過ぎない。リンゴ園は切り替わる一場面、一場面が長いドラマ。土の上の世界だけを見つめて、地表だけを見つめて6年間本当に苦労しました」

「奇跡のリンゴ」執念の31年間(3/6)

農業史を変える木村秋則さん

 『奇跡のリンゴ』で、木村さんは農薬を使うのをやめた直後の様子を次のように語った。「虫が若葉についた枝。端から端までぎっしりすし詰めになった満員電車のように押し合いへし合いしながら大騒ぎしている。虫の重さでリンゴの枝がしなるほどだった」。一日に1本の木から取った虫はビニール袋にして3袋分。一日も休まず、朝から晩まで取り続けたという。

―リンゴ園はどう変わりましたか。

 「はん点落葉病で1年目の8月末に葉が95%落ちました。葉が落ちると、秋に花が咲くんです。狂い咲きですね。翌年には8800平方メートルのリンゴ園で花は一輪も咲きませんでしたよ」。木に花が咲かなかったということは、当然実を結ばなかったことを意味する。

 農薬や肥料を使わなくなった翌年から収穫はゼロに。健康保険料や子供たちの教育費も払えなかった。消しゴムを三つに切り、子供たちに分け与えるほどだった。キャバレーでアルバイトをしていて歯を折られたのも、当時の極貧生活のためだ。

 リンゴの木の下に一緒に座っていた桜庭さんが言った。「さっき、奥さんにお会いしましたよ。『本当にご苦労なさったんですね』と声をかけたんですが、何もおっしゃいませんでした」

 木村さんは当時のことを振り返る。「4−5年たってから、友達が言ったんです。『少しは家族のことを考えろ』って。でも、心の中では反対のことを思い続けていました。『家族が大切だからこそ、最後までやれ』と。そもそも無農薬・無肥料を始めたのは、農薬に敏感な妻のためでした。妻が農薬に弱いため、子供も弱い。子供に食べさせられないリンゴを作って、何の意味がありますか」

―本を読んだのですが、死のうと考えたこともあったんですね。

 「3本のロープを編んで山に行きました。出口が見えないときでした。あらゆる手段を尽くしても、木は枯れてしまう。ところが、死のうと思って心を空っぽにしたら、以前は目に入らなかった山が見えたんです。(リンゴ園と)同じように虫がいて、同じように日が当たっている。けれども、違うのは土でした。草が生い茂り、温かく、いい香りがする土でした。どうしてこれに気付かなかったんだろうって」

一つ一つ包装されたリンゴを見せる木村さん。木村さんを取り上げたドキュメンタリー番組『プロフェッショナル仕事の流儀』を制作した柴田周平NHKディレクターは、「『木の実』という表現がピッタリの野生の味」とリンゴの味を語った。抽選により、運良く当選した人だけが食べられる。

「奇跡のリンゴ」執念の31年間(4/6)

農業史を変える木村秋則さん

■病気を自ら切り取る木

 リンゴ園は森のようにさわやかだった。農薬や肥料のにおいもしなかった。飛んできた虫はカミキリムシ1匹。木村さんは所々穴が空いたリンゴの葉を摘んで、見せながら聞いた。

 「何の穴だと思いますか」

−虫が食った跡じゃないんですか。

 「このリンゴ園には虫がいません。6年前にいなくなりました。農薬を使わないから、虫もいません。農薬をまくから虫がつくんです。穴はリンゴの木が黒星病にかかった『患部』を落としたものです。自分で治療したということです。初めは杉山修一先生(弘前大学農学生命科学部教授)も『信じられない』と言っていましたが、自ら菌を移植し確認してくださいました」

―木に抵抗力ができたということですね。

 「病気は常にあります。でも、農薬をまいた木はまた農薬に依存するけれども、まかれていない木は大きなダメージを受けず、自らを治療するんです。木の菌たち同士で『食物連鎖(食う生物と食われる生物の連鎖的関係)』を起こすようです。生態系が本来の姿に戻ったからではないかと言われています」

―農薬をまいたリンゴ園では?

 「ひどい場合は葉が落ちます」

―山に登ると、健康な山には虫がいてもあまり多いとは感じません。

 「このリンゴ園に山を再現したということです。山には農薬をまきませんよね。雑草を取ることもありません。それでも、虫はあまりいなくて、木は元気です。リンゴ園でも雑草を取りませんでした。そして、回りに豆を植えました」

「奇跡のリンゴ」執念の31年間(5/6)

農業史を変える木村秋則さん

■木ばかり見ないで土を見ろ

―何が変わるんですか。

 「土が変わります。豆に根粒菌が生じるのですが、これが空気と土の窒素循環に重要な役割を果たします。土が変われば草も変わります。今まで7回変わりました。初めは葉が狭いイネ科のものが多かったのですが、少しずつ葉の広い雑草が入ってきて、共存するようになりました」

―リンゴ園を観察なさっているんですね。

 「現代農業は観察する能力を失いました。土の上のことだけを考えています。『収穫で土からこれだけの養分がなくなったから、これくらい肥料を補わなくては』という数学的な計算ばかりです。人間は自分の体についても同じように考えます。何か不足気味だったら栄養剤をほしがります。養分を与えれば、バクテリアは活動をやめます。与えなければ活動します。彼らが活動すれば土が作られます。人間の体も同じです。木だけを見ずに、土を見なければ」

―雑草が土をどのように変えるんですか。

 「昨年5月にドイツの有機農法農家から招待されて行った際、土をちょっと掘ってみようと思いました。地表の10センチ下で、温度が8度も下がり、冷たかったです。『だから皆さんの収穫するジャガイモは小さいんです』(「有機農法だからジャガイモが小さいのではない」という意味)と言いました。山は土の温度変化があまり大きくありません。夏は30度以上の炎天下ですが、うちのリンゴ園を掘ると、22−24度を保っています。そのまま温かい状態が維持されているんです。それは微生物が生きているからです」

■リンゴの木と人間の交流

―でも、山の木の実はおいしくありません。

 「何が何でも自然のままにしておけばいいというものでもありません。雑草を放っておくと、リンゴ園でも熟していないリンゴができます。そこで、翌年9月に1回だけ、リンゴ園に生えている雑草の半分を取ったんです。すると、取った所のリンゴだけが熟しました。リンゴの木に秋が来たということを人間が知らせてやる必要があるんです。土の温度が変わらないため、リンゴは季節の変化が分からなかったのではないか、と。おいしいリンゴを作るには、やはり人間の手が必要だったんですね」

―リンゴの木と会話したとおっしゃいましたが。

 「農薬をまき、肥料を与えれば丈夫に育つ木を、わたしの欲のせいでどんどん枯らしてしまいました。あのときから1本、1本に謝ったんです。『苦労させてすまない』『どうか枯れないでくれ』と」

 会話の中で、石川さんの著書『奇跡のリンゴ』のこぼれ話も飛び出した。

 実は、木村さんはすべてのリンゴに声をかけたわけではない。(変人のように木につぶやく)自分の姿を近所の人たちに見られたくないと、道路側にある木には声をかけなかった。木村さんはひどく後悔している。道路側の木は1本も残らず、ドミノのように倒れていったという。

「奇跡のリンゴ」執念の31年間(6/6)

農業史を変える木村秋則さん

■抽選で当たらなければ食べられないリンゴ

―木村さんのリンゴはどうすれば食べられるんですか。

 「応募してくだされば抽選の上、当選した方に配送します。昨年収穫したものは約2000人に送りました。応募した方々は2倍以上でしたが。だから『箱を少し小さくしようか』と妻と相談しています。箱の数が増えればもっと多くの方々に食べてもらえますから」

―高いんでしょう?

 「1箱に16−20個入りで4200円です。平均的なリンゴ1箱当たりの価格よりも500円くらい高いのでは」

―もっと高くても売れそうですが。

 「金もうけで始めたことではないから。これからもっと多くの農家が自然栽培に成功すれば、食べたい人がもっと安く食べられるようになるでしょう」

―収穫量は?

 「1987年に初めて花が7輪咲きました。5輪は虫が食い、人間の取り分として実2個を手にしました。昨年はこのリンゴ園だけで1000箱分(木村さんのリンゴ園は数カ所に分布している)を収穫しました。農薬を使うリンゴ園の70%程度の収穫です。2、3年後には同じくらいになると思います。ピンポン玉くらいの大きさだった実も、今は(ほかのリンゴと)変わりありません。大きくなれば箱に入るリンゴの数が少なくなるので、それも悩みですね。お客さんとしては『どうして数が少なくなったの』と不満に思うでしょうから。変でしょう?何もしていないのに、ずっと大きくなり続けているなんて」

■誰でもできる

―11年間頑張れば、だれでも成功できますか?

 「現在、ほかの農家が実験しています。北海道の8000平方メートルあるリンゴ園では昨年、実が12個なりました。7年ぶりのことです。試行錯誤が減り、11年から7年に短縮されました。今年は実が100倍以上増えるでしょう。韓国の農家でもちょうど木を植えたところです。やせた土地の土を選び、木の回りに4年間、豆を植えなさいと言いました。人も木も、土が作られる全過程を経験して7年後、その経験を農家に広めてほしいと」

―すべての作物に適用できるのでしょうか。

 「コメ・トウモロコシ・野菜・パイナップル・マンゴーでも可能でした。自然のプログラム通り、土を作ればいいんです」

―農薬や肥料を「悪」と見ているんですか。

 「人間は農薬や肥料に本当に世話になりました。ありがたいですね。しかし、使わなくても同じ収穫量、同じ品質の実を得られるのなら、使わないほうがいい。それだけのことです

「奇跡のリンゴ」を生んだ自然栽培農家、木村秋則さんの半生

2009年09月10日 [産経新聞]

病害虫が多いため、無農薬での栽培は「奇跡」ともいわれている「リンゴ」。しかし、あくまで自然栽培にこだわり、国内で初めて成功させた木村秋則さん。変人扱いされながらも数々の苦難を乗り越えた、木村さんの半生を紹介する。

 「農薬で作る」といわれるほど病害虫が多いリンゴ。無農薬、無肥料でのリンゴ栽培は「奇跡」と称される。だが、あくまで自然栽培にこだわり、国内で初めて成功させた生産者がいる。「リンゴ王国」青森県弘前市のリンゴ農家、木村秋則さん(59)。収入のない日々、奇人、変人扱いされながらも数々の苦難を乗り越え、今では自然農法の第一人者として国内外で指導している。

ナゾに包まれた偉業

木村秋則さん 昭和63年5月、岩木山麓(さんろく)に広がる88アールのリンゴ畑一面に真っ白なリンゴの花が咲き乱れた。無農薬、無肥料栽培を始めて11年目のことだった。

 「天にも登るような気分でした。それまでの苦労が一瞬で吹っ飛びました」

 木村さんは苦難の日々を述懐する。

 農薬散布と肥料が常識とされるリンゴ栽培で、不可能を可能にした栽培方法を確立したことについて、弘前大農学生命科学部の杉山修一教授は「恐らく世界でも初めてではないか。すごいことだと思う」と驚きを隠さない。

 「常識的にやったことがないので学問的にも遠いところにある」(杉山教授)ため、いまだに無農薬、無肥料栽培の科学的なメカニズムは解明されておらず、農水省や同大などが現在も調査を続けている。

 青森県と同様、リンゴ栽培が盛んな長野県。同県は農薬使用量の削減率によって優良農業者を認定する制度を設けているが、園芸畜産課の担当者も「全く使わないというのは非常に難しい」としながらも「参考になる部分はあるが、大量生産で商品化となると難しい面もある」。

 杉山教授も「非常にリスクの高い農法。よっぽどリンゴに理解のある人じゃないと無理」と言う。

 事実、木村さんのリンゴは市場に出回っておらず、ごく一部の有名レストランや希望者に注文に応じて対応している。

 また、木村さんのリンゴは切り口が酸化せず、糖度も一般のリンゴに比べても高いという。「酸化や糖度も無農薬、無肥料と関係があるのかどうか……」と杉山教授。木村さんのリンゴは解明しなければならない多くの謎に包まれている。

奇跡の舞台裏

 木村さんが無農薬、無肥料栽培に目覚めたのは1冊の本が契機だった。

 地元の高校を卒業後、川崎市内の会社に就職したが、1年半で退職。郷里に戻って実家のリンゴ農家を継いだが、なじめない日を重ねる。農作業のなかったある日、たまたま入った本屋で「自然農法論」という本を手にし無肥料、無農薬でコメを作った実績に強い衝撃を受けた。

 そのころ、最愛の妻は農薬過敏症に悩まされていた。

 「体にも環境にもやさしい無肥料、無農薬のリンゴは作れないだろうか」

 自らのリンゴ作りに光明が差した瞬間だった。

 53年4月、無農薬、無肥料栽培を開始したがリンゴ畑に花は全く咲かず、病害虫との終わりのない闘いが続く。

 無収入の上、変人扱いされる日々。天気のいい月夜の晩、自殺しようと岩木山に登り、ロープを木にかけたが、短くて用を足さなかった。しばらくたたずんでいると足元のドングリの木がリンゴの木に見えた。

 しゃがんで土のにおいをかいでみると、自分のリンゴ畑と全く違う土のにおいが漂ってきた。見上げれば樹木は堂々と茂り、根っこも抜けなかった。

 「大事なのは土の中だ!」

 ターゲットを「根張り」に絞った。畑に大豆をまいて根粒がどうなるかを調べた。リンゴの樹勢はどんどん良くなっていった。62年、1本の「ふじ」の木から7個の花が咲いた。5個は害虫に食われたが、2個を秋に収穫した。

 ついにリンゴ栽培の常識を覆す無農薬、無肥料のリンゴの果実が実った瞬間だった。

 「農薬の過度使用が病害虫を呼んでいるのかもしれません」と木村さんは言う。

 今では国内はもとより海外でも野菜、コメなどの自然農法栽培の指導に忙しい毎日を送る。

 「環境にやさしい農業を次の世代に伝えることが私の役目かな」

 笑顔に深くて重いシワが刻まれた。(福田徳行)

奇跡のリンゴ [著]石川拓治 [監修]NHK「プロフェッショナル〜」制作班[掲載]

2009年03月01日 asahi.com [評者]瀧井朝世(ライター)

 この人のことは絶対に本にするべきだ――編集者の大島加奈子さんにそう電話をかけてきたのは、脳科学者の茂木健一郎さんだった。出演しているNHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」の収録直後。この人とはその日のゲスト、青森のリンゴ農家、木村秋則さんのこと。農薬も有機肥料も使わないリンゴ栽培に成功した人物だ。

 大島さんも木村さんに会った瞬間「この人は何かが違う!」と感じたという。「これはきちんと取材して、誠実なノンフィクションにしなければと思いました。専門用語で説明するのでなく、肌感覚で分かるものを、そして木村さんの人柄が伝わる本にしたかった」。信頼をよせていたノンフィクションライターの石川拓治さんに執筆を依頼。石川さんは1年をかけて青森に通い、取材を重ねたという。

 現在の農法にたどり着くまでに実に30年近く。失敗の連続で家族は極貧状況に陥った。愚直に試み続ける木村さん、彼を支える一家の苦難は想像を絶する。そして彼が引き出した大いなる自然の力に、圧倒される。

 初版6千部はすぐに重版がかかった。秋ごろから成功本、ビジネス本として注目されはじめ、売り上げが伸びた。最初は男性読者が多かったが今年に入ってから女性も4割強。30、40代が中心だ。「自分も頑張ろうと思った」という感想が多数。

 木村さんは現在、講演の際、収穫が安定したら価格を下げるよう指導している。多くの人に無農薬無肥料のリンゴを選んでもらいたいからだ。「私は百姓だからな」という木村さん、表紙写真で実にいい顔をして笑っている。読後に見直すと、畏敬(いけい)の念がこみあげてくる。

    ◇

 14刷・17万部

奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家・木村秋則の記録

著者:石川 拓治・NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」制作班

出版社:幻冬舎  価格:¥ 1,365

自然農法って、何? 140539 奇跡のりんご きっちょむ ( 38 大阪 会社員 )

2006/12/19 AM10 【印刷用へ】

 先日、無農薬によるりんごの栽培に成功したある農家の物語がテレビで放映されたので紹介します。 これからの農業のあり方に一石を投じると共に、その実現過程も興味深い内容でした。

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 インターネットで売り出すと、10分で完売。そして、腐らない。そんな「奇跡のりんご」を作るのが、青森・弘前の農家・木村秋則(57)。そのりんご作りは、化学的に合成された農薬や肥料を一切使わない。

 りんごは病害虫に弱く、農薬なしでは収穫量は10分の1になるといわれる。そのなかで、農薬に頼らないリンゴ作りを日本で初めて本格的に成功させたのが木村だ。業界では「不可能を可能にした男」と呼ばれ、全国の農業生産者や消費者、研究者までもが木村の畑を視察に来る。木村自身、全国各地から請われて、農業指導に出かける、という「カリスマりんご農家」だ。

 ■育てない手助けするだけ

 化学的に合成された農薬や肥料を一切使わない木村のりんごづくり。不可能と言われた栽培を可能にした秘密は、畑にある。

 木村の畑では、あえて雑草を伸び放題にしている。畑をできるだけ自然の状態に近づけることで、そこに豊かな生態系が生まれる。害虫を食べる益虫も繁殖することで、害虫の被害は大きくならない。さらに、葉の表面にもさまざまな菌が生息することで、病気の発生も抑えられる。

 木村がやることは、人工的にりんごを育てるのではなく、りんごが本来持っている生命力を引き出し、育ちやすい環境を整えることだ。害虫の卵が増えすぎたと見れば手で取り、病気のまん延を防ぐためには酢を散布する。すべては、徹底した自然観察から生まれた木村の流儀だ。

 「私の栽培は目が農薬であり、肥料なんです」

 ■主人公はりんご

 木村が農薬も肥料も使わない栽培を確立するまでには、長く壮絶な格闘があった。かつて、農薬を使っていた木村。しかし、その農薬で皮膚がかぶれたことをきっかけに、農薬を使わない栽培に挑戦し始めた。

 しかし、3年たっても4年たってもりんごは実らない。収入の無くなった木村は、キャバレーの呼び込みや、出稼ぎで生活費を稼いだ。畑の雑草で食費を切りつめ、子供たちは小さな消しゴムを3つに分けて使う極貧生活。

 6年目の夏、絶望した木村は死を決意した。ロープを片手に死に場所を求めて岩木山をさまよう。そこでふと目にしたドングリの木で栽培のヒントをつかむ。「なぜ山の木に害虫も病気も少ないのだろう?」疑問に思い、根本の土を掘りかえすと、手で掘り返せるほど柔らかい。この土を再現すれば、りんごが実るのではないか?

 早速、山の環境を畑で再現した。

 8年目の春、木村の畑に奇跡が起こった。畑一面を覆い尽くすりんごの花。それは豊かな実りを約束する、希望の花だった。その光景に木村は涙が止まらなかった。

 ■答えはりんごに聞け

 今年、60歳になる元建設会社社長佐々木悦雄が、木村の弟子となり、本格的なりんご栽培に挑戦した。

 舞台は岩手県遠野。木村の指導の下、農薬を使わない栽培を初めて半年が過ぎた8月、佐々木の畑では葉がすっかり落ちる異変が起きていた。さらに病気もまん延し、りんごが枯れ木のようになっていた。

 畑を視察した木村は、佐々木が木村の指導を守らず、大型機械で酢を散布していたことを突き止める。

 土を踏み固める大型機械は、りんごの根の成長を妨げると考える木村は、酢の散布を手作業で行うように何度も指導していた。

 2週間後、佐々木の畑ではさらに異変が起きた。季節はずれのりんごの花が、狂い咲きを始めたのだ。

 その姿に、佐々木は手抜きをして大型機械に頼ってしまった自分の未熟さを反省した。

 木村から指示された最後の酢の散布、佐々木は手間のかかる手作業でていねいに酢をまいた。

 収穫の秋、佐々木の畑からは数個のりんごしか収穫できなかった。

 木村は落胆する佐々木に声をかけた。「一歩ずつ、階段を登るように進んでいけば、必ず実りますよ」

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 木村さんが無農薬りんごの栽培に成功した事は、それ自体すばらしく、これからの農業のあり方に大きな道筋を与えたものだと言えるでしょう。それに加えて私が素晴らしいと感じたのは、その実現過程です。

 それは、農薬で皮膚がかぶれるという不全を出発点に、山の木に害虫も病中も少ないのはなんで?という疑問⇒自然に同化し探索⇒山の土を再現すればいいのではという可能性に収束し、粘り強く実行⇒実現という過程です。

 こういった過程は、農業のみならず、あらゆる現実課題を突破する過程にも通じるものだと思います。

 「私の栽培は目が農薬であり、肥料なんです」、「一歩ずつ、階段を登るように進んでいけば、必ず実りますよ」、こういった木村さんの言葉には重みを感じます。

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