大植 英次
大植英次 コンサート
大植英次 2006年賀状
大植英次 2006年賀状
大植英次 2006年賀状

19年6月よりバルセロナ常任指揮者就任決定 06/01/15 UP


大植英次 2005年賀状
大植英次 2005年賀状

大植英次 画像
大植英次 画像

大植英次 画像 大植英次 画像


『才能は努力によって実を結ぶ』

何故にこのような才能溢れる指揮者が日本から生まれたのか、
ブラッド・メルドーと共に知りたい思いで、ページを作った。
御両親の了解を得て、世界中が注目する現在の活躍と才能が発揮された由縁を紹介。

20年以上も前に聴いた大植英次氏のピアノに、吸い込まれるほどの感動で震えたことが、
現在でも、はっきりと心に刻まれている。
今、こうして日本中、いえ世界中を驚かせていることに喜びを隠せない。

幼少の頃、やんちゃで手がつけられず、ピアノを習わせれば、少しは大人しくなるだろうと思った御両親。
分離唱を含む音感教育をピアノと共に戸田繁子に師事。
小学3年生で既に3百以上の和音をマスターした、ずば抜けた聴力に、
音楽の道をと勧めた師の目に狂いは、なかった。

広島市五日市中学校の吹奏楽部ではトローンボーン担当。
手が短いので、7ポジションが届かず、小指に糸を結んで県の大会に出場した。
ところが本番中に糸が外れ、楽器は客席に飛んで行った。
そのため、今まで一位を独占していた五日市吹奏楽部は次点に。
トローンボーンに別れを告げ、シンバルに転向。
しかし、叩きすぎて壊した。次に手にした楽器はフルート。
吹きあげても大きな音が出ないため、最後はホルンに。

母の姉の同級生である、フルート奏者林リリ子が広島コンサートで来広した際、恩師、戸田繁子と共に会いに行った。
その時、指揮がしたいと英次氏は語ったが、希望する桐朋学園の高等部には指揮科はなかった。
ここからが御両親の悲鳴の始まりとなる。
毎月の東京行きフルート・レッスンは莫大な投資の始まりである。

林リリ子奏者から、フルートでは学園には入れない、口元がフルートに合わないと告げられ、
読売交響楽団の故黒沢勝義を紹介される。
「ドイツのベームに指揮を勉強しに行きたい。」と言う英次氏を無理だと説得する母。
「ホルンに変わらされるのなら中学の吹奏楽部で音楽を止める。」と新幹線の中で母を困らせる。
ところが、紹介された黒沢氏からホルンをプレゼントされたことにより猛練習、
桐朋学園に入学し新たな道が開けることになる。

指揮をかじもと音楽事務所の斉藤氏に師事していた大学時代、
指揮者小沢征爾氏がアメリカのボストンフィルを連れ帰郷、桐朋との合同演奏会を行った。
その時、大植英次氏は小沢征爾氏の滞在していたホテルに出向き、

10時間以上も待ち指揮を更に学びたい事を告げる。
小沢氏はアメリカのタングルットにて毎年行われるボストンフィルの夏期講習を、テストなしで出席させてくれた。

その音楽祭は、町の人達がサンドイッチなど持参で気軽に聴ける野外音楽祭で、
指揮科の練習グループがピアノを交代に弾いていた。
大植氏がピアノ伴奏をしていたところ、
髭面のおじいちゃんが傍に来て、耳元でゴチャゴチャ言うため、「あっちへ行け」と言い、尚も弾き続けた。
しかし、野外音楽祭の主催者は、再び共に戻って来た髭面の人物を皆の前で紹介。
その人物こそがレオナルド・バーンスタインであったのだ。
大植氏は、これで音楽生命は終わったと思ったそうだ。
ところがバーンスタインは、彼の才能を見抜き、その後7年間、共に指揮者として世界を回ることになる。
広島の原爆平和記念コンサートに当時13歳だったバイオリニスト五嶋みどりが
大植氏の指揮でデビューしたことは記憶に新しい。

桐朋出身のバイオリニストの女性が、アメリカのボストン・ニューイングランド音楽院の受験のため、
大植氏にピアノ伴奏を頼んだ。
受験終了後、副学長が大植氏のところに来て、「君はどうするのか?本校に入学しなさい。」と勧められ、
まだ指揮科がなかったニューイングランド音楽院に指揮科を創り、奨学金の手配までしてくれ入学した。

その後、ヨーロッパ、ベニザルツブルグ音楽会で指揮部門堂々の一位。
卒業後、ボストンユースの音楽監督に就任。
監督就任を告げられた時、驚きのあまり、一旦部屋を出て廊下に行き、再び部屋へ戻り、
「もう一度言ってくれ」と笑いをとる。

ロンドン、パリなどを駆け回り、その度に膨大な出費に御両親の悲鳴は続いた。
心配の余り、彼の妹をアメリカに行かせ、様子を見て来てくれと頼んだところ
「今に日本の星になって戻ってくる。大変な努力をしている。」との言葉に安堵した。

彼は度々ウイーンへ行き、厳しい規律の中、原本のスコアコピーを買っている。
ここに大植英次氏を今の座に導いた音楽がある。
作曲者の想いをとことん掘下げ吸収したのだ。
故にパワーだけではない、緻密、綺麗、滑らかな音と賞賛される奥義がある。
才能と共に、恵まれた出会い、努力があってこそ、本物の実が結ぶのである。

95年、38歳でアメリカのミネソタ管弦楽団の第9代音楽監督。
98年10月からはドイツのハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニーの首席指揮者。
2000年9月、ハノーファー音楽大学の終身正教授。
55年間、朝比奈隆氏が指揮を務めた、大阪フィルハーモニー交響楽団の後任指揮者として、
平成15年5月9日10日 第368回定期演奏会において、マーラの「復活」で一躍日本中を魅了。
2005年には、ワーグナーの聖地バイロイト音楽祭において、
アジア人では初めての大植英次氏が「トリスタンとイゾルデ」を指揮することが既に決定している。
人を魅了し離さない天性の明るさと会話は、大阪の地に既に溶け込んでいる。15/06/20

大植英次 2002年 ポスター



ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー公演
16/6/5 広島郵便貯金ホール

ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー公演ポスター

客席総立ち。割れんばかりの拍手と歓声。

音が全く違います。
弦がこれほどまでに荘厳に聴こえたのは初めてです。
なんと表現したら良いのでしょう?

気品・崇高・重厚。
繊細且つ豊富な音色。ハープは未だかつて聴いたことがない際立った装飾と調和。
音と表現の芸術です!

一瞬、広島の原爆平和記念コンサート、バーン・スタインを思い起こしました。
それは、メルドーのように左右の手が違うアドリブをしながら調和し音楽を創り上げる、あの場面です。
楽器が交差し、音が溶け合うのです。

全身全霊を込め、踊るような躍動感溢れる指揮でありながら、
全体に音響は、気品のある静寂の中のダイナミックさとも言えるのではないでしょうか。

『英雄』最後のフォルテの音の素晴らしさもさることながら、ピアニッシモの調和に聴き入りました。
時折、コミカルなあどけなさを見せてくれ、「これで最後ですよ」と言うアンコール曲では
客席に向かって指揮、楽団に向かって指揮の繰り返し。
お喋りはお父様にそっくりな声質と速さです。

アンコール追悼曲。
まるで天の奏者が降りて来たようだと掲示板に書きましたが、
実は天上で神の奏者の中に、私はその時いたのです。
感極まりました。

全曲、暗譜の指揮者は世界で始めて。
お母様に握手しながら感動を伝えました。 
因みに席は18列8番 お父様の主治医の隣りでした。16/05/06

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