TOPIC No. 9-9 出雲大社(「二礼、四拍手、一礼」)

01.
 古代出雲大社本殿の復元 by 季刊大林
02.
 古代出雲大社建造の謎 by邪馬台国大研究
03.
 出雲大社(いずもおほやしろ)
04.
 出雲大社(「いづもおほやしろ」/ いずもたいしゃ) byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
05.
 出雲文化について
06.
 古代出雲王国の謎
07.
 石見神楽
08.
 八百万の神々(50音順index)
09.
 日本の神話 byかんたん神話学
10.
 出雲神話 by神話と古代史
11.
 島根県立古代出雲歴史博物館 (平成19年03月10日開館)
12.
 [出雲学]神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(一) (2013年08月12日) by日本の神話
 と古代史と文化 《スサノヲの日本学》 【京都】
13.
 日本酒のルーツ 神々の酒 by出雲地方の歴史と酒(國暉酒造)
14.
 出雲国造(いずものくにのみやつこ、いずもこくそう) byフリー百科事典
 『ウィキペディア(Wikipedia)』
15.
 古代出雲 byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


出雲大社

 
祭神は大国主命(オオクニヌシノミコト)。古くは杵築(きづき)大社と呼ばれ、創建時期は明らかではないが、日本書紀の斉明五(六五九)年の記事が文献上の初見とされる。記紀神話では、朝廷が大国主命から国を譲り受ける代償として、広大な宮を築いたとの経緯が語られる。現在の本殿は延享元(一七四四)年に造営され、高さ約二十四メートル(八丈)。

斉明天皇5年(659)に「厳神之宮(いつかしのかみのみや)」として神殿を修したことがみえます。by 日本書紀

 『雲太、和二、京三(うんた、わに、きょうさん)』

 (出雲太郎=出雲大社  大和二郎=東大寺大仏殿  京三郎=平安京大極殿)

 古い時代の出雲大社が高かったことは多くの文献が指摘。ある中世の文献は「上古三十二丈、中古十六丈、次に八丈、今は四丈五尺なり」と記す。十世紀に書かれた平安貴族の教科書「口遊(くちずさみ)」では、当時十五丈あったとされる大仏殿をしのぎ日本一高い、と紹介されている。

 大国主命(おおくにぬしのみこと)は須佐之男神の六世の孫(旧事本紀では子供)で、出雲の主神です。( by大国主命

 なお、大国主神には多くの異名があります。大穴牟遅神(おおなむぢのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、葦原色許男神(あしはらしこをのかみ)、宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)というのが古事記に見られます。日本書紀は国作大己貴神(くにつくりおおあなむちのかみ)、葦原醜男(あしはらしこを)、八千戈神(やちほこのかみ)、大国玉神(おおくにたまのかみ)、顕国玉神(うつしくにたまのかみ)、大物主神といったものを上げています。


弥生時代の息吹伝わる銅鐸展

2008/06/01 中国新聞ニュ−ス

 近く国宝に指定される加茂岩倉遺跡(雲南市)の銅鐸(どうたく)39個と資料を集めた企画展「加茂岩倉銅鐸の世界展」が7月6日まで、出雲市の島根県立古代出雲歴史博物館で開かれている。これまで博物館で展示していたが、企画展では銅鐸1個ずつに模様や大きさの説明が添えられ、出土状況を復元した模型など関連資料と合わせ約100点が並ぶ。1996年に発見された銅鐸は1カ所から出土した数としては最多。

【速報】出雲歴博の来館者が50万人を突破

2008/05/16 中国新聞ニュ−ス

 昨年三月にオープンした出雲市大社町の島根県立古代出雲歴史博物館の来館者が十六日、五十万人を突破した。五十万人目は山口市湯田温泉の団体役員坂田俊平さん(59)。妻の生子さん(55)と「平成の大遷宮」で国宝・本殿が一般公開されている出雲大社を訪れた帰りに立ち寄った。坂田さんは「初めて来館したが運が良かった。記念になります」と喜んでいた。

出雲大社で大祭礼始まる

2008/05/15 山陰中央新報

 出雲市大社町の出雲大社で十四日、大祭礼が始まった。十六日まで古式ゆかしく一連の祭が営まれる。「平成の大遷宮」による国宝・本殿の特別拝観も再開され、参拝者らでにぎわっている。

 例祭では、勅使の堤公長掌典らが天皇陛下からの五色の絹織物が入った唐櫃(からびつ)を仮殿に運び入れ、幣物を千家尊祐宮司に伝達。田中恆清神社本庁副総長や島根県の溝口善兵衛知事ら約七百人が見守った。

 先立った的射祭では、千家国麿禰宜(ねぎ)が松ノ参道で豊作などを願って十メートル先の的に矢を放ち、厄払いした。大祭礼では十五日に二之祭と神輿(みこし)渡御祭、十六日には三之祭と出雲屋敷感謝大祭がある。

 一方、平成の大遷宮に合わせて三回目となる今回の本殿特別拝観の期間は十八日まで。受け付け時間は午後三時半まで。出雲大社は、拝観希望者は軽装を避けるよう呼び掛けている。

出雲大社本殿13日から公開

2008/05/12 中国新聞地域ニュ−ス

 出雲大社(出雲市大社町)は13―18日、年1回の例祭「大祭礼」開催に合わせ、国宝の本殿を一般公開する。59年ぶりの公開は3期目で、これまでに約8万人が拝観した。本殿改修に伴う「平成の大遷宮」で本殿のご神体を仮殿に移したため、8月まで4期に分けて公開している。4月21日から5月6日までの2期、計14日間で7万8189人が参拝した。ピークの4日は待ち時間が3時間近くになった。

 Tシャツやジーンズ、短パンなど軽装では本殿を拝観できないので注意が必要。

本州初の支石墓? 出雲の銅山跡で発見

2008.05.11 MSN産経新聞

縄文晩期から弥生中期にかけて、九州北部で造られていた支石墓とみられる遺構2基が、島根県出雲市大社町の鷺(さぎ)銅山跡で発見された縄文晩期から弥生中期にかけて、九州北部で造られていた支石墓とみられる遺構2基が、島根県出雲市大社町の鷺(さぎ)銅山跡で発見された

 縄文晩期から弥生中期にかけて、九州北部で造られていた支石墓とみられる遺構2基が、島根県出雲市大社町の鷺(さぎ)銅山跡で見つかった。支石墓は数個の支石の上に巨石を乗せる特異な墓。中国から朝鮮半島を経て国内に伝わったが、本州での出土は初めて。大塚初重・明治大学名誉教授(日本考古学)は「(朝鮮半島からの)鉱山技術集団が、北九州経由のほかに、ダイレクトに山陰地方に渡ってきた可能性もある」と注目している。

 地元の郷土史グループ「鷺銅山を訪ねる会」の梶谷実代表(66)が、出雲大社から北約6キロの鷺銅山跡がある山の中腹で発見。一帯は「石の森」と呼ばれ、苔むした多数の岩石が数百メートルにわたって並んでいる。

 遺構は、いずれも平ら状の巨石を下の岩石数個が支える構造。大きさは、長さ1・4メートル、幅1・5メートル、高さ0・9メートルと、長さ1・3メートル、幅0・6メートル、高さ0・8メートルの2基で、人工的な組み合わせとみられる。

 鷺銅山は、江戸から昭和初期にかけて操業したとされるが、これまで本格的調査は行われておらず、銅採掘の歴史的変遷は不明。梶谷代表は「出雲地方からは、弥生時代の荒神谷遺跡や、加茂岩倉遺跡から大量の青銅器が出土。原料は出雲産とも考えられ、支石墓と合わせ、鷺銅山の解明も必要だ」と話している。

出雲大社本殿の特別拝観7万8000人超

2008/05/10  山陰中央新報

 平成の大遷宮に伴い四月から五十九年ぶりに一般公開された出雲市大社町の出雲大社の国宝・本殿への拝観者が、これまでに二回設けた特別拝観期間に七万八千人を超えたことが、出雲大社の調べで分かった。

 集計によると、仮殿遷座祭の四月二十一−二十三日の拝観者は一万二千五百七人、大型連休中の四月二十六−五月六日は六万五千六百八十二人で、十四日間合わせて七万八千百八十九人。ピークは五月四日で九千人が訪れた。

 特別拝観では、直径一・一メートルの「心御柱(しんのみはしら)」が立ち、天井全面に極彩色の「八雲之図」が描かれている殿内を見ることができる。三十−四十人ごとに拝観し、神職が一分余りで説明している。

 天井画が描かれたのは現在の本殿が造営された一七四四年。最も大きい雲は「心の雲」と呼ばれ、完成時に一カ所だけ墨を入れて天下泰平を祈る「心入れ」の秘儀が行われたとされる。

 特別拝観は今後、大祭礼に合わせた十三−十八日と学校が夏休みの八月一−十七日を予定。出雲大社は「Tシャツやジーパンなどの軽装を避けて」と呼び掛け、拝観期間中は午前九時から午後三時半まで受け付ける。

講座:出雲大社・伊勢神宮、二つの遷宮を学ぶ あすから5回、県立歴博など /島根

2008年04月25日 毎日新聞 地方版 Mainichi INTERACTIVE

 出雲大社の「平成の大遷宮」にあわせ、連続講座「伊勢神宮と出雲大社の遷宮に学ぶ」が26日から、県立古代出雲歴史博物館などで開かれる。全5回で、一つのテーマについて出雲大社と伊勢神宮の関係者が語る。

 出雲大社は2013年の完成を目途に、約60年に一度の遷宮が今年から始まっている。一方、伊勢神宮では20年に一度の式年遷宮を行っており、13年の遷宮に向け、05年以降さまざまな行事が進められている。

 講演会では、古くから信仰を集めてきた出雲大社と伊勢神宮を歴史・文化などの切り口で比較しながら学ぶ。一つのテーマに対し出雲大社、伊勢神宮双方の研究者が講演する。

 26日午後0時半には、出雲市の「ビッグハート出雲」で「伊勢・出雲の神々と日本文化」と題して上田正昭・県立古代出雲歴史博物館名誉館長や千家和比古・出雲大社権宮司、伴五十嗣郎・皇學館大学長が講演する。

 5月24日は「伊勢神宮の式年遷宮と出雲大社造営の歴史」▽6月28日は「伊勢神宮と出雲大社の祭祀と建築」▽7月19日「伊勢神宮・出雲大社の創祀と出雲神話の世界」▽8月30日「伊勢信仰と出雲信仰」。共に県立古代出雲歴史博物館で午後1時から。

 聴講無料だが、事前申し込みが必要。問い合わせは同博物館(0853・53・8600)へ。

出雲大社で平成の大遷宮 59年ぶりに本殿公開へ

2008年04月16日  中国新聞ニュース

 島根県出雲市の出雲大社が国宝の本殿を改修するため、神体を仮殿に移す「平成の大遷宮」を行い、本殿を21日から一般公開する。公開は昭和の大遷宮以来、59年ぶり。

 神体を見ることはできないが、極彩色の雲を描いた江戸時代の天井図「八雲之図」などを鑑賞できる。期間は8月17日まで4回に分けた計37日間。

 20日夜に神体をみこしで担ぎ、仮殿まで運ぶ「仮殿遷座祭」が執り行われる。

 本殿の入場は無料。カメラ撮影やTシャツ、サンダルなど軽装での見学は禁止。大社の千家国麿禰宜は「神様のお住まいなので正装を」としている。

 八雲之図には、雲が赤や紫、青などで鮮やかに描かれている。雲は7つしかないが「八雲」と呼ばれている点など、詳しい由来は謎。

 本殿は、今秋に屋根のふき替え工事が始まり2013年に終了、神体を本殿に戻す。

古代出雲歴史博物館10日開館

2007/03/10 中国新聞地域ニュース

 出雲市大社町の出雲大社東隣に10日開館する島根県立古代出雲歴史博物館で9日、開館記念式典があった。 大社境内で出土した巨大柱や荒神谷遺跡(斐川町)で見つかった国宝青銅器など島根が誇る歴史文化を全国発信する施設のオープンを約500人が祝った。 出雲大社境内で出土した宇豆柱(うづばしら)が据わる中央ロビーでの式典には、県や地元関係者、研究者らが出席。澄田信義知事があいさつした。

古代出雲歴博が10日オープン

2007/03/09 山陰中央新報

 「神話の国・出雲」の文化、観光拠点として出雲市大社町に建設された島根県立古代出雲歴史博物館が10日、仕上げの展示作業を終えオープンする。同県斐川町の荒神谷で出土した銅剣358本を常設展示するなど来館者を古代出雲に誘う。開館を記念した特別展では、全国各地の神社から集められた国宝600点を含む宝物1100点を展示し、殿堂の誕生を祝う。

 同館は、敷地面積5万7000平方メートルに、延べ床面積1万2000平方メートルの本館や体験工房を建設。2003年12月に着工し、総事業費120億円で、昨年12月に完成した。

 8日には、開館記念特別展となる「神々の至宝」の展示準備が整い、報道陣に公開された。

 同展には宗像大社(福岡県)、伊勢神宮(三重県)など県外の5社、県内の6社1寺が協力。本殿の造営時などに奉納された調度や武具などの「神宝」「装束」1100点を一堂に展示した。

 展示品のうち600点が国宝で、30点が国の重要文化財。熊野速玉大社(和歌山県)に南北朝時代から伝わる化粧具を入れた「桐(きり)唐草蒔絵(まきえ)手箱」など、匠(たくみ)の粋を集めて神にささげた宝物が並び、東京国立博物館に保管されている日御碕神社所蔵で鎌倉時代の「白糸威鎧(おどしよろい)」が14年ぶりに里帰り展示される。

 県内で大量出土した銅剣や銅鐸(どうたく)を現物展示する常設展示場にも、出雲国風土記の原本の復元品が京都から届き、約3800点がそろった。

 開館準備に追われる錦田剛志主任学芸員(37)は「4年前から出展交渉を始め、秘められた神々の世界が一堂に神話の国・出雲に集まった」と開館を心待ちにした。

古代出雲歴史博物館 日本の源流 今に生かせ

2007/03/04 中国新聞 社説

 古代史ファンらが長年待ち望んできた「古代出雲歴史博物館」が今月十日、出雲大社東隣にオープンする。鎌倉時代の壮大な大社本殿をしのばせる巨大柱、それまでに全国で出土した数を上回るほどの銅剣や銅鐸(どうたく)…。現物展示の迫力は満点だ。日本の源流ともいえる「出雲」地域の魅力を引き出しながら、歴史のロマンに浸れる憩いの場に定着させてほしい。

 広島市民球場の二倍を超える敷地に、鉄をイメージしたカラーの一部三階建てのミュージアム。展示、収蔵、調査研究、交流などのスペースがあり、延べ床面積は一万一千八百平方メートル。島根県が百二十億円をかけて造った。

 建設のきっかけは、県内で一九八〇年代から古代史の定説を覆すような発見が続いたこと。斐川町の荒神谷遺跡で出土した三百五十八本の銅剣、その後銅鐸や銅矛も出た。多くの人に見てもらえる常設スペースづくりへ模索が始まる。まず基礎的な調査・研究をする組織「古代文化センター」ができた。東京、大阪でも展覧会を試みる中で、雲南市の加茂岩倉遺跡から三十九個の銅鐸が出た。展示品に加え、大きな反響を呼んだ。

 こうした経緯が「青銅器と金色の大刀(たち)」という常設展示のテーマにつながる。再現された多数の銅剣の輝きは権威を体感させる。出土品だけでなく、当時の姿を頭に浮かべながら見られることに意義がありそうだ。

 もちろん隣接する出雲大社も、大きなテーマだ。平安時代には、地上四十八メートルにある神殿から長い階段状の橋が延びる巨大な構造だったと伝えられていた。それが単なる伝説でなかったのは、境内から七年前に巨大柱が掘り出されて裏付けられた。鎌倉期の柱の現物が館の入り口ホールにある。さらに五人の建築家がそれぞれ思い描く十分の一の復元模型も展示し、来館者の想像をかきたてる。

 「出雲国風土記の世界」のコーナーでは、当時の生活ぶりをジオラマで表現。タッチパネル式の映像も加え、理解しやすくしている。今の祭礼などにも「古代」が息づいている。そんな思いを抱くと、身近さも増すだろう。

 開館当初で年三十万人、その後は二十万人程度の来館が目標。何よりの特徴として、館と古代文化センターが両輪となり、研究を進めながら展示企画に反映していく仕組みがある。たたらや石見銀山など県内全域を視野に、連携の広がりも期待したい。

大型古墳周辺に円墳群を発見

2007/02/26 中国新聞地域ニュース

 出雲市文化財課は、国指定史跡の上塩冶築山古墳(出雲市上塩冶町)近くの築山遺跡で、表面を削られ平らにされた3基の円墳群を確認した。大型古墳の周辺で円墳群が見つかったのは、島根、鳥取両県で初めて。これまで、出雲地方の大型古墳は単独で造られていると考えられていて、重要な発見、という。円墳の規模と比べ豊富な副葬品が出土。首長墓と考えられる上塩冶築山古墳の同族の墓とみられる、という。

出雲大社で紙垂を奪い合う

2007/02/19 中国新聞ニュース

 旧暦の元日に当たる18日未明、出雲市大社町の出雲大社神楽殿で新年の幸せを祈る「福神祭」があり、全国から約500人の信徒らが集った。

午前1時の太鼓の音を合図に神職たちが入場。

千家達彦管長が祝詞を上げ、信徒らはしめ縄に下がる招福の紙垂(しで)目掛けて突進し、競って取り合った。「福」をつかんだ岡山県矢掛町の農業片山園恵さん(65)は「一緒に来た人にも、ちぎって分けます」と喜んでいた。

出雲大社の巨大柱公開 3月10日から常設展示

2007年02月15日 中国新聞ニュース

 出雲大社(島根県出雲市)で2000年に出土した巨大柱の保存処理が終わり15日、報道陣に公開された。3月10日に大社の隣地に開館する県立古代出雲歴史博物館に常設展示される。

 巨大柱は境内の3カ所で出土。いずれも地中に埋まっていた1−1・4メートルの部分が見つかった。

 公開されたのは、本殿を支えていた9本の柱のうち1本で、正面入り口部分にあった「宇豆柱」。鎌倉時代(13世紀)のものといい、直径約1・35メートルの杉材を3本束ね1本の柱にしていたという。科学的分析で顔料の一種ベンガラが見つかり、「当時は朱色に塗られていた」(深田浩主任学芸員)という。

 16世紀末ごろの文書には、出雲大社には高さ約48メートルの高層本殿があったと記され、巨大柱は存在を裏付ける発見として話題になった。

県立古代出雲歴史博物館主任学芸員

2006年08月24日 asahi.com島根

◇◆◇県立古代出雲歴史博物館主任学芸員 錦田 剛志さん(37)◇◆◇

☆集う古代出雲のあかし☆

 来年3月の開館に向けて、着々と準備が進められている出雲市大社町杵築東の県立古代出雲歴史博物館。「全国に誇れる博物館」を拠点に、「古代出雲の文化や歴史を、より多くの人に知ってほしい」と話す。(日吉健吾)

 斐川町出身。92年に東京の国学院大学を卒業し、県教育庁に入庁した。公務員のかたわら、斐川町併川の万九千(まんくせん)社立虫(たちむし)神社の祢宜も務める。00年、開館に向け、ほかの約10人のスタッフとともに準備を始めた。以来、基本計画や展示構想を一つひとつ、じっくりと練ってきた。「この6年間、大変だが充実した毎日を送ってきた」

 展示は、担当している「出雲大社と神々の国のまつり」のほか、「青銅器と金色の大刀(たち)」と「出雲国風土記の世界」の三つのテーマで構成される。鎌倉時代の「古代出雲大社」を復元した5種類の模型(50分の1縮尺)や平安時代の「古代出雲大社」を復元した模型(10分の1縮尺)もこのほど完成し、仕事の成果が形となって表れた。これまでの調査や研究の苦労を忘れさせ、「もう一息頑張ろう」と思わせてくれる存在だ。

 開館記念特別展では、日本各地の古社に奉献されている鏡や玉、武器武具といった貴重な「神宝装束」約990点(うち国宝・重要文化財は約630点)を陳列する予定だ。これらを借り受ける交渉のため、月の半分を出張に費やしたこともあった。

 子どもと遊ぶ時間が減るのはつらいが、うれしいこともあった。出張である神社へ出向いた時のこと。自らが神職であることを紹介したことから、気持ちが通じ合い、快く貸し出しを承諾してくれた。

 開館まであと半年余り。事前の見学会で地元の人から、「開館をとても楽しみにしています」と声を掛けられ、責任が重くなっていくのをひしひしと実感している。

 「来館者には、先人が残した本物の持つ力を感じ取ってもらい、古代出雲に思いをはせてもらえればうれしい」

中世の出雲大社復元を競作・建築学者が5案を完成

2006/08/10 NIKKEI NeT

 2000年に鎌倉時代の巨大柱が発掘された島根県出雲市の出雲大社で10日までに、建築学者5人が最新の研究成果や自説を基に当時の本殿をそれぞれ推定、5つの異なる復元案と模型(50分の1)を完成させた。

 16世紀末ごろの古文書には高さ48メートルの高層本殿があったと記され、論争が続いている。5つの模型は、出雲大社に隣接する「県立古代出雲歴史博物館」で8月12―13日に公開される。

 巨大柱は直径約1.35メートルの杉材を3本束ねたもので、出雲大社の境内3カ所で出土。高層本殿を裏付ける資料として話題になり、県は03年に5人に復元を依頼した。

 巨大柱を根拠に、伝承通り高さ約48メートルの本殿を想定したのは宮本長二郎東北芸術工科大教授。古文書の記載と同じ長さ約109メートルのスロープを設置し「造営時に建材を運ぶ足場としても機能したのでは」と推測する。

 一方、現存する大社造りの本殿を重視したのは三浦正幸広島大大学院教授。復元した本殿は現在とほぼ同じ高さ約27メートルになっている。〔共同〕

中世の出雲大社を復元

2006/08/10 千葉日報

学者5人が自説基に競作

 2000年に鎌倉時代の巨大柱が発掘された島根県出雲市の出雲大社で10日までに、建築学者5人が最新の研究成果や自説を基に当時の本殿をそれぞれ推定、5つの異なる復元案と模型(50分の1)を完成させた。

 16世紀末ごろの古文書には高さ48メートルの高層本殿があったと記され、論争が続いている。5つの模型は、出雲大社に隣接する「県立古代出雲歴史博物館」で8月12−13日に公開される。

 巨大柱は直径約1・35メートルの杉材を3本束ねたもので、出雲大社の境内3カ所で出土。高層本殿を裏付ける資料として話題になり、県は03年に5人に復元を依頼した。

 巨大柱を根拠に、伝承通り高さ約48メートルの本殿を想定したのは宮本長二郎東北芸術工科大教授。古文書の記載と同じ長さ約109メートルのスロープを設置し「造営時に建材を運ぶ足場としても機能したのでは」と推測する。

出雲大社本殿、模型で再現

2006/08/02 中国新聞地域ニュース

 ▽平安時代の巨大本殿、古代出雲歴博で展示へ

 地上四十八メートル(十六丈)とも言われる平安時代半ば(十世紀)の出雲大社の巨大本殿が、十分の一模型で復元された。出雲市大社町で来年三月開館する島根県立古代出雲歴史博物館のメーン展示の一つとして一日、報道関係者に公開された。

 ヒノキを用いた木造(一部鉄骨)、かやぶきの模型は高さ四・八メートル、幅二・六メートル。直径三十六〜三十センチの九本の柱の上にそびえる上屋から十メートル余、百七十二段の引橋が伸び、全長は一三・二メートルに及ぶ。

 巨大本殿の高さをめぐる明治時代から約百年の論争で「十六丈説」を唱えた建築学者の故福山敏男氏の監修で、建設会社・大林組が一九八九年に発表した復元設計をもとに製作。出雲大社が所蔵し同博物館が無償で借り、常設展示する。

 開館後には、二〇〇〇年に境内で発掘された巨大柱などをもとに県教育委員会が五人の建築学者に設計を依頼した鎌倉時代の復元模型五案も並べて展示。同博物館の錦田剛志主任学芸員は「平安中期に『雲太』と呼ばれ、日本一の高さを誇ったとされる木造建築の姿を想像し、歴史ロマンを感じてほしい」としている。

 模型は十二、十三日の博物館の見学会で一般公開する。(松本大典)

出雲大社、修理へ 文化庁と協議

2005/10/07 中国新聞地域ニュース

 ▽本殿屋根ふき替え

 出雲市の出雲大社(千家尊祐宮司)が傷んだ国宝の本殿の屋根などを修理する方針を固め、文化庁と協議を始めたことが六日、分かった。

 前回修理が行われたのは一九五三年で、実現すれば修理は半世紀ぶりとなる。

 計画では、二○○八年に神体をいったん仮本殿の拝殿に移す遷宮を行い、本殿などを修理、一三年に本殿に神体を戻す。

 大社によると、全体的に腐食が相当進んでおり、檜皮(ひわだ)ぶきの本殿の屋根(厚さ約一メートル)は、五十年以上たって傷みがひどいためすべてふき替える。本殿のほか、八足門(やつあしもん)などの重要文化財約二十点を修理する。

 社殿の配置や高さなど現状は変えない。改修費用は二十億〜三十億円の見込み。

 昨年九月には台風18号の強風で重要文化財の宝庫の屋根の一部が飛ばされ、修理した。

 日本書紀によると、出雲大社は六五九年、斉明天皇が造らせた。修理や造営などを二十回以上繰り返したことが確認されており、現在の本殿は一七四四年に造営され、約六十年ごとに修理している。

八百万の神々が出雲大社を出立 「神等去出祭」

2004/11/28 The Sankei Shimbun

 島根県大社町の出雲大社で28日、神々を送り出す「神等去出祭(からさでさい)」があった。旧暦の10月(神無月)は、八百万神(やおよろずのかみ)が会議や酒造りのため出雲に集まるとされ、出雲では神在月(かみありづき)と呼ばれる。

 神々が宿っていた神籬(ひもろぎ)と呼ばれるサカキの大枝2本を神職が「お旅所」から拝殿に移し、祝詞をあげた後、本殿前の楼門で「お発ち」と唱えながら扉を3度たたき、神々の出立を見送った。(共同)

出雲平野の歴史1冊に 元修道大教授が出版

2004/08/31 中国新聞地域ニュース

 石塚さん 神話や産業など盛り込む

 山陰民俗学会名誉会長で元修道大教授の石塚尊俊さん(85)=出雲市大津町=が、郷土の歴史をたどった「出雲平野とその周辺 生成・発展・変貌(へんぼう)」を刊行した。原始の「クニ」から平成の大合併まで、地域の政治、産業、文化の営みを幅広く記している。

 古事記、日本書紀、風土記でもおなじみの出雲の国。歴史学では無視されてきた神話も、史実に基づいた筋があると、石塚さんはみる。神話に登場する神の足取りと軌を一にするかのように次々と発掘された首長墓や国内最多の銅剣…。「あけぼのの時代」の章では、神話と遺跡の奇妙な接点にも触れながら、古代をひもといている。

 沖積平野が広がる土地柄から、開拓の歴史を歩んだ中近世、土地開発に伴い養蚕、製糸業などが発展した近代の様子も詳述。交通網と車社会の発達で生活圏が広がり、やがて市町村合併へと向かう近年の情勢にも目を向けた。

 巻末には、江戸時代の荒木浜(現大社町荒木地区一帯)開拓の立役者として地元で語り継がれる大梶七兵衛に対し、藩の役人が批判的にみていたことを示す筆写本を初公開した。

 石塚さんは「地元で合併協議が進む今、郷土の歴史に目を向けることも大事」と思いを語る。A5判、五百九ページ。ワン・ライン刊。六千五百円。ワン・ラインTEL0853(21)0068。

出雲神話、研究者が謎解き 出雲でシンポ

2003/11/25 中国新聞地域ニュース

 ◇古事記など意見交換

 古代文化シンポジウム「出雲神話の謎」(島根県古代文化センター主催)がこのほど、出雲市内であった。国譲りの記述など、古事記・日本書紀に登場する神話の三分の一を占める出雲の神話をめぐり、研究者らが活発に意見を交換。時代とともに生き続ける神話の意味を探った。

 国譲り神話をはじめとする古事記について、水林彪・都立大教授(日本法制史)は「律令国家体制を推し進めようとした当時の政治思想が込められている」との考えを提示。西岡和彦・国学院大専任講師(近世神道史)は「一方で、例えば出雲大社も、記紀の神話を用いて”国家的神社”としての説得力を高めていった」とし「神話はその時々で動くもの」と表現した。

 作家で県立大教授でもある豊田有恒さんも「イマジネーションが神話の基だ。大国主命が引退の条件に造らせたという出雲大社が今に続くなど、神話と史跡のかかわりに恵まれた島根県はこれを利用しない手はない」と積極活用を提案。

 県古代文化センターの森田喜久男主任研究員は「身近な神話・伝承を、整備を進めている県立歴史民俗博物館の展示に生かしたい」と話した。

 討論は、出雲大社の成立にも波及。出雲国造に神の宮を造らせたと日本書紀に記す「斉明五年」(六五九年)説の一方で、「国譲り神話を含んだ古事記が天武天皇の命で編さんされた七一二年ごろよりさかのぼることはない」(水林教授)との意見も出た。

「日本語誕生の謎と出雲弁」テーマに講座

2002/09/29 中国新聞

 ズーズー弁が特徴の出雲弁は日本語の形成過程でどう位置付けられるのかを考える古代文化講座「日本語誕生の謎と出雲弁」が二十八日、出雲市今市町のビックハート出雲であった。来春から県内に居を構え、出雲弁調査に取り組む琉球方言研究の第一人者、上村幸雄沖縄大教授は「日本語は弥生時代に北九州で誕生し、日本海側は出雲地方を拠点に広がった」との仮説を唱えた。

 講座には、約四百人が集まった。基調講演で上村教授は、古事記や日本書紀に占める出雲系神話の多さ▽荒神谷、加茂岩倉両遺跡などの重要な発見―などを挙げて、「古代史における出雲の位置付けと、独特の出雲弁の存在は無関係ではない」との考察を示した。

 その上で、「朝鮮半島と北九州の言語が交じり合って日本語となり、弥生文化とともに出雲から日本海側へと広がった」と述べ、東北方言と共通するズーズー弁も日本語が東北へ伝わる過程で出雲が重要な役割を果たした裏付け、とした。

 他の方言と同様、出雲弁も消滅の危機にあると予想し、琉球方言研究での実績や経験を基に、デジタル音声による記録保存や市民参加の調査の必要性を説いた。

 講演後は、出雲弁保存会会長を務める藤岡大拙島根女子短大学長と、会場からの質問に答えながら出雲弁について語り合った。

<出雲大社>境内遺跡の本殿は鎌倉時代の造営か 柱の年代を分析

2002年05月31日 YAHOO!ニュース(毎日新聞)

 出雲大社境内遺跡(島根県大社町)で見つかった巨大柱を持つ高層本殿は、鎌倉時代の1248年造営とみられることが、年輪年代測定法による分析で判明した。町教委が31日発表した。

 町教委によると、出土土器からは12〜13世紀の造営とみられ、社伝などの遷宮記録からは1190年か1248年の建造と考えられていた。最大径1・4メートルの杉材を3本束ねた巨大柱3柱には年輪が少なく、中央の心御柱(しんのみはしら)の下で見つかった杉板(長さ1メートル、幅48センチ、厚さ16センチ)を奈良文化財研究所埋蔵文化財調査センターの光谷拓実・古環境研究室長が年輪年代測定法で調べたところ、最も外側の年輪が1227年と判明。1248年造営の最後の高層神殿と推定した。

 鳥取環境大の浅川滋男教授(建築史)は「中世に入ると建築物が小規模になるが、出雲では古代的な巨大建築を造る力があったことがはっきりした」と話している。 【高松奈津子】(毎日新聞)

出雲大社の巨大柱根伐採は鎌倉時代

2000/12/09 The Sankei Shimbun

 島根県簸川郡大社町の出雲大社境内遺跡で出土したスギの巨大柱根は、放射性炭素年代測定で、伐採年は鎌倉時代の一二三〇年前後ということが八日、分かった。巨大柱が支えた本殿は、当初見込みの平安時代末ごろより幾分後の鎌倉前期のものとみられ、最後の高層本殿とされる一二四八(宝治二)年造営の本殿の可能性が強まった。

 町教委が依頼した国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の今村峰雄教授を通じ、名古屋大の年代測定資料研究センターの中村俊夫教授らが鑑定した。

 放射性炭素年代測定法は、年数とともに木の中の放射性炭素濃度が減少する原理を応用して判定する。五月に宇豆柱(うずばしら)から採取したうち、表皮部分を含む五カ所六点のサンプルを、採取位置の年輪などの条件を加味して総合的に解析。伐採で成長が止まった年代は一二三〇年で、誤差は前後十五年という結果が出た。

 出雲大社国造家などの文書では、十一世紀前半から約二百年の間に本殿が何度も倒壊、建て直している。一二四八年の造営は中世での最後の正殿遷宮で、絵図では朱塗りの高床神殿が描かれている。以後、本殿の規模は縮小していく。町教委は、十日に開く発掘調査指導委員会で分析結果を報告する。今後、土器など出土物の特徴、地層などと合わせ、造営時期の確定に迫る。

出雲大社境内遺跡から心御柱出土

2000/10/08 中国新聞

 平安時代末の本殿の巨大柱根が四月に見つかった出雲大社(島根県簸川郡大社町)の境内遺跡から、本殿の中心を支えた「心御柱(しんのみはしら)」と南東の側柱が出土した。当時の建物規模や柱配置を知る上で貴重な発見となる。七日の発掘調査指導委員会(委員長・渡辺貞幸島根大教授)で町教委が報告した。

 地表下一・六メートルでそれぞれの柱の上面を確認した。ともに三本の柱材が一組になり、四月に発見した柱と同じ形態だった。神社で最も重要な柱とされる心御柱は四月発見の柱の北にあり中心間の距離が七・三メートル。南東側柱は同じく東へ六・七メートルの位置から出土した。

 出雲大社本殿は代々、田の字形に九つの柱が並ぶ大社造りとされる。平安の本殿遺構はこれで九つのうち三つの柱を確認した。大社に伝わる本殿平面図「金輪造営図」の配置とほぼ一致し、四月発見の柱が南側宇豆柱(うずばしら=棟持ち柱)、今回のものが心御柱と南東側柱と判断した。

 サンプル調査の結果、樹種はスギで、三本組み柱を構成する柱材一本ごとの最大径は見える範囲で、心御柱一・二メートル、側柱〇・八五メートル。心御柱全体の直径は推定三メートル余りで宇豆柱よりやや大きい。

 三カ所の柱の位置から当時の本殿を復元すると、南北一一・六メートル、東西一三・四メートルと横長の長方形となり、正方形の金輪造営図とは異なる。上層の床面が正方形になるよう側柱が内傾していたとの見方もある。

 柱の上の土は焦げた部分があり、柱状高台付坏(つき)など土器片もあった。建物廃絶後、火を使う祭祀(さいし)があったとみられる。柱からは赤い顔料も検出、柱が朱色に塗られていたことも分かった。また、断面三センチ四方、長さ四十センチ以上の角クギ、幅七センチの帯状金具などもあった。

 町教委は、二十三日から宇豆柱を取り上げる作業に入る。それまで現場を公開し説明資料を配る。

 椙山林継国学院大学教授(祭祀考古学)の話 平安の本殿の平面構成が確定し、当時の神社の姿を探る大きなポイントになる。また、精神的に重視される心御柱がどんな祭られ方をしていたのか、今後の調査が興味深い。

出雲大社境内遺跡から古墳時代の臼玉11点出土

2000/09/08 中国新聞

深い祭祀とのかかわり

 島根県簸川郡大社町杵築東の出雲大社境内遺跡から、古墳時代の装身具の一種で祭祀(さいし)に使われたとされる臼玉(うすだま)十一点が新たに出土した。昨年九月から今年四月にかけての発掘調査区域のうち古墳時代の遺物が集中的に出ていた東端部分の土砂を詳しく調べて発見した。一帯が祭祀とかかわりの深い場だったことがあらためて確認された。

 臼玉は直径三・三〜四・一ミリで中に同約一ミリの穴が空き、厚さは一・一〜二・六ミリ。薄緑色で、マグネシウム含水ケイ酸鉱物である滑石製とみられる。ビーズのように糸状のものに通し、輪にしたらしい。

 発見場所の調査区域東端は、高坏(たかつき)など古墳時代前期から中期(四〜五世紀)の祭祀土器が大量に出土し、これまで炉跡や、勾玉(まがたま)二点、臼玉一点が確認されていた。土器が集中出土した付近約二十平方メートルの土砂をふるいに掛け、臼玉を見つけた。

 土砂からは、炭化米を含む微細な炭化物や、黒曜石製の石鏃(=せきぞく、長さ約三センチ)も見つかった。

 町教委などは「古墳前期末から中期にかけ、祭祀行為の場か祭祀にかかわる活動の場だったことを再確認できた」と話している。

9本柱の建物跡が出土

2000年05月20日 共同

 島根県斐川町の杉沢3遺跡で、出雲大社と同じ造りを持つ8〜9世紀の9本柱の建物跡が20日までに出土した。関係者は「大社造り」のルーツを探る上で貴重な資料として注目している。建物跡は縦横3.6メートルの正方形。「田」の字形に9つの柱穴があり穴は直径30〜40センチで、深さ約30センチ。町教委は近くで見つかった土師器や須恵器から、奈良時代から平安時代にかけての建造物とみている。

古代出雲に思いはせ、巨大柱公開に見学殺到

May 06, 2000 asahi.com 

 島根県大社町の出雲大社の境内で見つかった平安時代末期(12世紀ごろ)の本殿のものとみられる杉の巨大な柱が6日、一般に公開された。大型連休中ということもあり、全国から考古学ファンが押し寄せ、午前中だけで約4500人が訪れた。見学者は、3本の丸太を束ねて直径約3メートルにした巨大な柱を目の当たりにし、柱が支えていたとされる高さ約48メートルの「空中神殿」を思い描いたようだった。

 集合場所の出雲大社神苑(しんえん)の東側広場には公開時間の前から、2000人を超える人が詰めかけた。このため予定を30分ほど早め、午前10時すぎから公開を始めた。参加者は放送による説明を聞いた後、順路に長い列を作った。

 直径約1.1―1.3メートルの杉の丸太3本を束ねた柱が出土した拝殿北側では、大勢の見学者が足を止め、じっと見入っていた。一般公開は7日も午前9時半から午後4時まである。

出雲大社の大柱

2000/04/30 中国新聞

 古代出雲文化の底の深さにはいつも驚かされる。出雲大社境内から平安時代末(十二世紀ごろ)と思われる本殿の巨大な柱根が出土した。しかも、大社に伝わる設計図「金輪造営図」通り、直径一メートルを超す巨大な杉三本をくっつけ、一本の柱にしていた

 社伝によると平安時代の本殿の高さは現在の倍、十六丈(約四十八メートル)もあったという。さらに昔には、その倍の三十二丈だったと伝える。ただ、信ぴょう性は疑われていた。しかし、目の前に現れた柱根なら、高さ四十八メートルも可能という。十四階のビル並みの高層建築が九百年も前の出雲の海沿いに建っていたのだ

 同造営図によると、本殿への階段の長さは一町(約百九メートル)もあった。ゼネコン大手の大林組は、十二年前に造営図をもとに復元シミュレーションを試み、当時の技術で可能、との結論を出した。柱を垂直に立てる作業も「ろくろ」を使えばできる。ただし、延べ十二万人を動員、六年間にわたる大工事になるとはじいた

 復元図を見てメキシコのマヤ文化遺産「ククルカンの神殿」(二十三メートル)を思い出した。石造と木造の違いはあるが、神に近づく階段の発想は同じである。神殿に上がり、その高さに恐怖を覚えた。かつての出雲大社はさらに倍の高さ。神々しさが想像できる

 月明かりとかがり火の中に四十八メートルの本殿を置いてみると、古代人の神への思いがはっきり伝わってくる。神秘さには計りがたいものがあったろう

 日の出、日の入りの時も、空中に浮かぶ本殿は緋色(ひいろ)に染まったことだろう。しばし先祖の姿に思いをはせたい。

平安出雲に高層本殿 島根・出雲大社 直径3メートル巨木束ねた柱出土

2000年04月29日 西日本新聞

 島根県大社町の出雲大社境内から、巨木三本を束ねて一本とした直径約三メートルの巨大な柱が出土した。本殿の高さ十六丈(約四十八メートル)とする同社の伝承を裏付け、古代日本に仏寺以外の高層建築が実在したことを示す。同町教育委員会が二十八日、発表した。平安時代末ごろに建造された同社本殿の棟持ち柱の一本とみられる。太さはうち一本でも古今の木造建造物中最大。丸太三本を束ねる構造や大きさは類例がなく、日本建築史の見直しを迫る発見だ。

 同教委は「高さの特定は難しいが、伝承と考え合わせると四十八メートル前後あった可能性が高い」としている。四十八メートルは現本殿の二倍。現代のビル十四階建てに相当し、現存する世界一の木造建造物(塔を除く)である東大寺大仏殿(約四十六メートル)を超える。

 三本の柱材は、だ円形に加工され、それぞれ長径約一・三五メートル。地中に柱根の部分が約一・二メートル残っていた。材質はスギ。表面にはわずかに赤い顔料が残り、材を運ぶ際に開けた穴もあった。

 柱穴には、高大な柱を支えるため無数の人頭大の石が詰められていた。深さは柱から離れるほど浅く、柱を立てる際にその斜面を利用したらしい。付近から長さ約三十センチの鉄くぎも見つかった。

 その東隣にも同様の石敷きがあり、さらに北側に別の柱の存在も推定される。

 古い時代の出雲大社が高かったことは多くの文献が指摘。ある中世の文献は「上古三十二丈、中古十六丈、次に八丈、今は四丈五尺なり」と記す。十世紀に書かれた平安貴族の教科書「口遊(くちずさみ)」では、当時十五丈あったとされる大仏殿をしのぎ日本一高い、と紹介されている。

 同社宮司家に伝わる平安時代の設計図「金輪造営図」には、丸太を三本束ねて直径三メートルの柱とするなど、今回の発掘どおりの内容が記載されている。

 しかし、これまで専門家の間では「誇大に表現された伝承にすぎない」と、実在性を疑う見方が一般的だった。

 地下室建設に伴い、同教委が昨年九月から発掘調査。ほかにも古墳時代前期の祭祀(さいし)遺物や室町時代から江戸時代にかけての多数の建物跡などが出土した。

16丈本殿論争に決着

 宮本長二郎東北芸術工科大教授(建築史)の話 今回の発見で金輪造営図の信ぴょう性が極めて高くなった。出雲大社の記録からも本殿が十六丈(四十八メートル)あったことは確かで、高さをめぐる論争に決着がついた。出雲大社本殿のように田の字形に柱を配置する総柱構造は弥生時代以降に九州から山陰地方にみられ、古墳時代に豪族居館に用いられており、これが祭殿へと移り変わったのだろう。三本の柱を束ね、直径が三メートルを超える柱構造は例がなく、出雲独特ではないか。

 出雲大社 祭神は大国主命(オオクニヌシノミコト)。古くは杵築(きづき)大社と呼ばれ、創建時期は明らかではないが、日本書紀の斉明五(六五九)年の記事が文献上の初見とされる。記紀神話では、朝廷が大国主命から国を譲り受ける代償として、広大な宮を築いたとの経緯が語られる。現在の本殿は延享元(一七四四)年に造営され、高さ約二十四メートル(八丈)。

平安出雲に高層本殿 島根・出雲大社 直径3メートル巨木束ねた柱出土

2000年04月29日(土) 10時45分 (西日本新聞)

 島根県大社町の出雲大社境内から、巨木三本を束ねて一本とした直径約三メートルの巨大な柱が出土した。本殿の高さ十六丈(約四十八メートル)とする同社の伝承を裏付け、古代日本に仏寺以外の高層建築が実在したことを示す。同町教育委員会が二十八日、発表した。平安時代末ごろに建造された同社本殿の棟持ち柱の一本とみられる。太さはうち一本でも古今の木造建造物中最大。丸太三本を束ねる構造や大きさは類例がなく、日本建築史の見直しを迫る発見だ。

 同教委は「高さの特定は難しいが、伝承と考え合わせると四十八メートル前後あった可能性が高い」としている。四十八メートルは現本殿の二倍。現代のビル十四階建てに相当し、現存する世界一の木造建造物(塔を除く)である東大寺大仏殿(約四十六メートル)を超える。

 三本の柱材は、だ円形に加工され、それぞれ長径約一・三五メートル。地中に柱根の部分が約一・二メートル残っていた。材質はスギ。表面にはわずかに赤い顔料が残り、材を運ぶ際に開けた穴もあった。

 柱穴には、高大な柱を支えるため無数の人頭大の石が詰められていた。深さは柱から離れるほど浅く、柱を立てる際にその斜面を利用したらしい。付近から長さ約三十センチの鉄くぎも見つかった。

 その東隣にも同様の石敷きがあり、さらに北側に別の柱の存在も推定される。

 古い時代の出雲大社が高かったことは多くの文献が指摘。ある中世の文献は「上古三十二丈、中古十六丈、次に八丈、今は四丈五尺なり」と記す。十世紀に書かれた平安貴族の教科書「口遊(くちずさみ)」では、当時十五丈あったとされる大仏殿をしのぎ日本一高い、と紹介されている。

 同社宮司家に伝わる平安時代の設計図「金輪造営図」には、丸太を三本束ねて直径三メートルの柱とするなど、今回の発掘どおりの内容が記載されている。

 しかし、これまで専門家の間では「誇大に表現された伝承にすぎない」と、実在性を疑う見方が一般的だった。

 地下室建設に伴い、同教委が昨年九月から発掘調査。ほかにも古墳時代前期の祭祀(さいし)遺物や室町時代から江戸時代にかけての多数の建物跡などが出土した。

16丈本殿論争に決着

 宮本長二郎東北芸術工科大教授(建築史)の話 今回の発見で金輪造営図の信ぴょう性が極めて高くなった。出雲大社の記録からも本殿が十六丈(四十八メートル)あったことは確かで、高さをめぐる論争に決着がついた。出雲大社本殿のように田の字形に柱を配置する総柱構造は弥生時代以降に九州から山陰地方にみられ、古墳時代に豪族居館に用いられており、これが祭殿へと移り変わったのだろう。三本の柱を束ね、直径が三メートルを超える柱構造は例がなく、出雲独特ではないか。

 出雲大社 祭神は大国主命(オオクニヌシノミコト)。古くは杵築(きづき)大社と呼ばれ、創建時期は明らかではないが、日本書紀の斉明五(六五九)年の記事が文献上の初見とされる。記紀神話では、朝廷が大国主命から国を譲り受ける代償として、広大な宮を築いたとの経緯が語られる。現在の本殿は延享元(一七四四)年に造営され、高さ約二十四メートル(八丈)。

出雲大社:巨大柱3本 一つの柱穴から発見

2000年04月28日

 島根県大社町杵築(きづき)東の出雲大社境内の発掘で、直径1メートルを超える巨大柱3本が一つの柱穴から見つかった。28日発表した同町教委によると、12世紀ごろ(平安時代末)の古代の大社本殿の一部とみられる。3本の柱は束ねて直径3メートルの柱にしていたと推測され、大社が世界最大の木造建築、東大寺大仏殿の15丈(約45メートル)を上回る16丈(約48メートル)の高さを持つ掘っ立て柱建物だったという平安時代の文献や、本殿の平面図「金輪造営図(かなわのぞうえいず)」を考古学的に裏付ける発見。建築史、宗教史上の超一級資料で、出雲神話が伝える古代国家の成立の過程を考える上でも重要な手掛かりになる。 

 地下祭礼準備室建設の事前調査として昨年9月から約450平方メートルを発掘。その結果、地下約1メートルで、柱を支える「裏込め石」とみられる、こぶし大以上の石が詰まった柱穴を東西2カ所で検出。調査域外を含め南北8・5メートル、東西6メートルと推定される西側の柱穴で柱3本が見つかった。いずれも杉で、1本は長径1・35メートル、短径1・1メートル、長さ約1・2メートル。他の2本もほぼ同じ大きさとみられる。

 これまでの一本材で最大の柱は青森市の三内丸山遺跡(縄文期)の直径約1メートル。3本を束ねた例はなく、1本の柱の周りに板を巻いて直径約1・5メートルにした大仏殿の柱を上回る。

 12世紀前後の土器約10点が出土した地表面から柱の下端までは約1・7メートル。2カ所の柱穴の距離は約7メートル。見つかった柱は大社造りの建物で「田」の字形に並ぶ柱9本のうち、南側中央の棟持柱(むなもちばしら)の可能性が高い。

 大社に伝わる「金輪造営図」は、柱3本で直径3メートルにしていたことなどを伝え、発掘結果とほぼ一致。古代の本殿の高さについて、社伝が現在の本殿(1744年造営)の倍の16丈としていることや、平安貴族の子弟の教科書「口遊(くちずさみ)」(970年)が「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)」とし、大仏殿や平安京の大極殿を上回ると記していることも裏付けそうだ。

 現地説明会は5月6日午前10時半〜午後4時、7日午前9時半〜午後4時。一畑電鉄出雲大社前駅から徒歩10分。 【濱田元子、高松奈津子】

 日本海文化の結晶 森浩一・同志社大名誉教授(考古学)の話

 日本海沿岸地域で、三内丸山遺跡(青森市)など縄文時代の巨木を使った遺跡もしくは構築物の発見が相次ぎ、縄文の巨木文化として注目してきた。出雲大社はまさにそうした縄文以来の古代日本海文化の結晶であり、私は「口遊(くちずさみ)」にあるような高い建物の存在を想定してきた。それだけに今回の巨木柱の発掘に、驚くとともに喜んでいる。

 出雲大社(島根県大社町)は、古事記や日本書紀の神話に登場するオオナムチ(大国主命)を祭った日本を代表する神社で、創建年代は不明。現在の本殿は1辺10・9メートルの正方形で、高さは24・2メートル。切り妻造りで妻側に入り口があり、本殿中央に「心御柱」を立てる「大社造」の建築様式で知られる。縁結びの神として信仰を集める。

 文献上、出雲大社の本殿は高さ16丈(約48メートル)に達し、東大寺大仏殿(奈良)や平安京大極殿(京都)をしのぐとされ、一部には100メートル近い“超高層建築”だったとの説もある。

 今回の発掘調査では、平安時代末期のものとみられる、3本の杉を束ねた直径3メートルの柱が柱穴とともに見つかって「16丈」説を裏付けた。建築物に高さを追求する古代人の世界観、宗教観を示唆するものとして注目されている。

 今回見つかった巨大な柱は、出雲大社が、現代人の想像を超える規模だったことを絵空事ではなく現実のものとし、古代日本国家にとって出雲が重要な地域だったことを立証した。

 「古事記」「日本書紀」に国の成り立ちの物語として記された神話の中で、ヤマタノオロチ退治や国譲りなどの出雲神話がほぼ3分の1を占めており、出雲が極めて重要な地域として描かれている。

 これは記紀の大きななぞで、一つの有力な解釈によれば、記紀神話が成立するころ、大和の南東に伊勢神宮、北西に出雲大社を配置するとともに、伊勢を高天原(天上世界)、大和を葦原(あしはら)の中つ国(地上世界)、出雲を根の国(地下世界)として描き、天皇による全国統治の理念を体系化したからだという。

 その時期は、「日本書紀」の斉明天皇5年(659)の条に、(天皇が)出雲国造に命じて神の宮を造らせたと書かれていることなどから、斉明天皇から天武天皇にかけての時代(7世紀後半)だった。

 今回の発見は、古代の出雲大社が、天皇の宮殿だった平安京の大極殿(政治の中枢)、国家宗教である仏教の総本山、東大寺大仏殿(宗教の中枢)をしのぐ規模だったことを裏付けた。大極殿や大仏殿が6世紀末以降の新しい建築様式の礎石建物であるのに対して、出雲大社は弥生以来の伝統的な形式の掘っ立て柱建物にこだわりながら高さを追求している。

 3本の柱を束ねて太い柱にし、柱穴に石を詰めて根固めをする工法は、掘っ立て柱建物を高くするための工夫とみられ、ほかに例がない。記録によれば、古代の出雲大社はあまりの高さのために何度も倒れては建て替えられたという。

 なぜそこまでして、平安時代末にいたるまで、出雲の地に高い建物を建て続けたのか。7世紀後半に成立した天皇制国家・日本にとって、出雲が極めて重要な聖地だったのは間違いないだろうが、それだけでは説明がつかないなぞを古代出雲大社の巨大柱は秘めている。 【佐々木泰造】

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