TOPIC No.9-8 古墳時代/飛鳥時代

(西暦200-700年代)
01.
 前方後円墳と前方後方墳 by青塚古墳シンポジウム
02.
 前方後円墳の形の変遷/ 前方後円墳解説 by前方後円墳(Japanese ancient tombs)
03.
 三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう/さんかくぶちしんじゅうきょう)
 についての謎 (2003/11/03) by邪馬台国大研究
04.
 狗奴国とその支配国(女王に属していない国々と神々)  by04.神奈備にようこそ!
05.
 狗奴国はどこに消えたか? by邪馬台国大研究
06.
 狗奴国との戦い〜卑弥呼の急死 by邪馬台国総論
07.
 漢委奴国王 by古代史の復元
08.
 西都原古墳群(さいとばるこふんぐん) byフリ−百科事典(Wikipedia)
09.
 西都原古墳群 神話が息づく花と歴史の名所  byたびらい
10.
 TOPIC No.9-8-1 纒向遺跡(まきむくいせき)
11.
 TOPIC No.9-8-2 日向国(ひむかのくに)

No.9-8 古墳時代(西暦200-700年代)


 大和政権が確立され、その権力が次第に地方へ浸透していき、それとともに、古墳(前方後円墳)の築造が地方へひろまっていった時代。

 前方後円墳は日本列島の広範囲に分布しており、北は岩手県奥州市から南は鹿児島県にまで及んでいる。近年の研究により、古代伽耶が存在した朝鮮半島西南部でも存在が確認されている。


前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)

 特に東日本の前期古墳に多く存在する。

 東日本は濃尾平野の狗奴国を中心として形成された政治連合であった。

 主に弥生時代後期末から前方後方墳の祖形である前方後方形墳丘墓が造られ始め古墳時代前期前半に東日本(中部・関東地方)で前方後方墳がよく造られる。西日本の前方後円墳の世界に対し、東日本は前方後方墳の世界であったと捉えることができる。


古代の鉄めぐり 歴史ロマン浮上

2009年09月03日 asahi.com

入佐山3号墳から見つかった浜砂鉄=県立考古博物館提供

豊岡市出石町の入佐山(いる・さ・やま)3号墳(4世紀後半)の砂鉄が国内最古級と見られる浜砂鉄とわかり、古代の鉄をめぐる論議を刺激している。この砂鉄が製鉄に使われた証拠はない。だが、但馬や播磨に縁が深く、製鉄などの新技術をもたらしたとされる伝説の王子アメノヒボコに象徴される渡来人集団との関係に注目する研究者もいる。

 今回、古代金工の専門家の科学分析で、この砂鉄が「不純物の少ない高品質な浜砂鉄で、採取地は日本海沿岸地域が有力」とされたデータは貴重だ。ほぼ同時代(古墳時代前期)の砂鉄出土例はほかに7例ほどあるが、これらは浜砂鉄なのか、採取地はどこなのかはきちんと分析されてはいないという。

 日本海側を含む国内での製鉄の開始は、今のところ6世紀後半(古墳時代後期)からとされている。中国山地などでいくつかの製錬炉跡が確認されているのが根拠だ。

 しかし、弥生時代からの鉄器の普及状況や製鉄先進圏の朝鮮半島との関係などから見て、製鉄史研究者の間では、5世紀前半、さらに4世紀後半にまでさかのぼらせる見解も出ている。その時代に先進的な技術を持つ集団が朝鮮半島から渡来しているからだ。県立考古博物館も「通説よりも早い時代に、地域の首長が渡来人の手を借り、小規模な製鉄を行い、その材料として砂鉄を採取していた可能性はある」と見ている。

 入佐山3号墳の砂鉄は約150グラムで、被葬者の頭付近に置かれていたという。古墳への砂鉄の副葬は今のところほかに例はなく、鉄剣、鉄鏃(てつ・ぞく)、鉄斧(てっ・ぷ)など鉄製品を豊富に持っていることから、この被葬者と製鉄・鉄器生産のつながりも議論になるだろう。

 「新羅の王子」というアメノヒボコは、幾度にもわたる半島からの様々な渡来人集団の姿が1人に集約され、伝説化したとみられる。そのヒボコを祭神として祭るのが同じ出石町内の出石神社だ。ヒボコは製陶技術や製鉄技術も伝えたとされている。但馬では弥生時代から古墳時代にかけ、朝鮮半島系の遺物や遺構があり、渡来人の存在をうかがわせる。

 但馬では残念ながら古代の製鉄遺跡は見つかっていない。しかし隣の丹後(京都府京丹後市・遠所(えん・じょ)遺跡)では砂鉄を原料にした製鉄炉が見つかり、5世紀末のものとの見方もある。この時期については「早すぎる」との批判もあるが、但馬でも今後、古い時期の製鉄遺跡が見つかる可能性はあると同博物館は期待している。

 但馬の古代に詳しい瀬戸谷晧(せ・と・だに・あきら)・豊岡市出土文化財管理センター所長は「古墳の砂鉄をすぐに製鉄に結びつけるのは難しい。ベンガラや朱と同じように被葬者の永遠を祈り、祭祀(さい・し)的な意味合いで頭のそばに置いたのではないか。古い製鉄遺跡が見つかればいいのだが」と話している。(佐野允彦)

浜砂鉄:国内最古 4世紀後半、既に鉄生産か−−兵庫・豊岡の古墳

2009年08月20日 毎日新聞 大阪朝刊

 兵庫県立考古博物館は19日、同県豊岡市出石町の4世紀後半(古墳時代前期)の古墳「入佐山(いるさやま)3号墳」で見つかった砂鉄は、日本海の海岸で採取されたものとしては国内最古の「浜砂鉄」と分かったと発表した。製鉄に使われていたとすれば、6世紀後半とされる国内の製鉄開始時期から200年近くさかのぼることになるため「古代日本の製鉄事情を解明するうえで貴重な資料」としている。入佐山3号墳は大型の方墳で、被葬者の頭部側に150グラム分置かれていた砂鉄が88年に見つかっていた。【成島頼一】

浜砂鉄で鉄生産か 兵庫・出石の古墳から出土

2009年08月20日 産経関西

 兵庫県立考古博物館(播磨町)は19日、同県豊岡市出石町の入佐山3号墳(4世紀後半)から昭和63年に出土した砂鉄をエックス線で分析した結果、海岸で採取された浜砂鉄の可能性が高いことがわかったと発表した。チタンの含有量などから日本海沿岸で集めたとみられる。

 日本で本格的な製鉄が始まったのは6世紀後半とされ、古墳を築造した時期にどういう目的で浜砂鉄を採取したかは不明だが、同博物館は「この地域で、より早い時期から周辺の海岸で採れる浜砂鉄をもとに鉄を生産していた可能性がある」としている。

 エックス線分析は京都国立博物館の村上隆保存修理指導室長が実施。砂鉄の粒子は0・23ミリ程度でそろっており丸みを帯びていることから、長期間水中でもまれ生成された浜砂鉄とみられる。

 砂鉄は被葬者の頭部近くに鉄製のおのなどとともに置かれており、貴重な品とみなされていたことがうかがえる。

 豊岡市出石町にある出石神社の祭神「天日槍(あめのひぼこ)」は、妻を追って古代朝鮮から渡来した王子とされ「古事記」などにも記述がある。

 同博物館は「渡来人が鉄鉱石の代替物として浜砂鉄に目を付けたのかもしれない」としている。

浜砂鉄、国内最古の採取 豊岡・入佐山3号墳で出土

2009/08/19 神戸新聞

入佐山3号墳から出土した砂鉄(提供写真)

 兵庫県立考古博物館は19日、豊岡市出石町の入佐山3号墳(古墳時代前期)で見つかった砂鉄が、海岸で生成された浜砂鉄で、国内で最も古くに採取された可能性が高いと発表した。分析した京都国立博物館保存修理指導室の村上隆室長は「採取地は特定できないが、山陰から北陸地域が有力」としている。

 入佐山3号墳は4世紀後半の築造とされる。砂鉄は、1988年の発掘調査で、木棺の被葬者の頭部付近で約150グラムが見つかった。副葬品としての発見は唯一。国内で本格的に製鉄が始まった6世紀後半より約200年前に、小規模な製鉄が行われた可能性を示すものとして注目された。

 拡大画像化する機器などを駆使した今回の分析では、砂鉄は粒径0・23ミリ程度で表面が丸みを帯び、浜砂鉄の可能性が高い。また、チタン含有率が約6%と低く、日本海側で採取された可能性が高いことが分かった。

 製鉄遺跡以外の遺跡から砂鉄が出土した例は、長野県の円光坊遺跡(縄文時代晩期)や徳島県の矢野遺跡(古墳時代前期初頭)などほかに9カ所あるが、こうした分析は行われていない。考古博は「今後ほかの遺跡で分析が進めば、砂鉄の用途などが解明できるかもしれない」と期待する。

 砂鉄の分析結果などは22日午後1時半〜4時、豊岡市日高町国分寺、日高農村環境改善センターでの講座「アメノヒボコ 遺跡と伝承」で説明する。考古博TEL079・437・5589(松井 元)

紙で古代船模型づくり、児童11人挑む…兵庫・新温泉

2009年08月10日 読売新聞Yomiuri On-LINE

手本の模型を参考にする児童たち(新温泉町の基幹集落センターで)

 紙で古代船を作る子どもふるさと教室が9日、兵庫県新温泉町諸寄の基幹集落センターで行われた。町内の小学生11人が訪れ、夏休みの宿題などを兼ねて取り組んだ。

 県立考古博物館が、古代に朝鮮半島の新羅から来た王子・アメノヒボコも使ったとされる古代船の歴史を、児童に教えようと開いた。

 児童たちは、日本考古学協会の藤原清尚会員の指導で、豊岡市出石町の袴狭遺跡で発掘された木板に描かれた船団の絵をもとに、ミニサイズの古代船づくりをした。紙に書き込まれた船首や船尾などの各部分をカッターで切り離し、船の模型を手本にして船体を組み立て、約1時間で完成した。

 児童らは「こんな狭い船に8人も乗って航海するとは」「船に舵(かじ)がないのには驚いた」などと話していた。


石室囲む巨大な垣見つかる 奈良・桜井茶臼山古墳

2009/06/12 中国新聞ニュ−ス

 初期大和王権の大王級の墓とされる奈良県桜井市の前方後円墳、桜井茶臼山ちゃうすやま古墳(3世紀末〜4世紀前半、全長200メートル)で、石室を取り囲んだ巨大な垣の一部とみられる柱の痕跡が見つかり、県立橿原考古学研究所が12日、発表した。

 丸太をすき間なく並べたようで、初の出土例。同研究所は「被葬者を邪気から守り、聖域を示した結界だろう」としている。埴輪はにわで埋葬施設を囲む儀礼の原型とみられ、大王墓の実態や、当時の死生観を考える上で一級の史料となりそうだ。

 柱の痕跡は、石室の上部に盛り土をして造った長方形の壇(東西9・2メートル、南北11・7メートル)の周囲で10本分を確認。垣は直径約30センチの丸太を全体で150本使い、高さは2・6メートルあったと推定される。

 壇の上には縁に沿ってつぼが置かれ、葬送儀礼の後、垣で一帯を完全にふさいだらしい。

 新たに銅鏡の破片153点も出土した。

【桜井茶臼山古墳】石室囲む「玉垣跡」発見、全国で初

2009.06.12 MSN産経新聞

桜井茶臼山古墳(手前)と三輪山=8日午後1時1分、奈良県桜井市、本社ヘリから・前川純一郎撮影)

 初期大和政権の大王クラスの前方後円墳、奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳(全長200メートル、3世紀末〜4世紀初め)で、被葬者を納めた竪穴式石室を方形に囲んだ柱穴列が見つかり、県立橿原考古学研究所が12日発表した。死者の魂と外界を区別する結界施設とみられ、神域を守る神社の玉垣を思わせる構造。「玉垣跡」が古墳で見つかったのは全国で初めてで、実態がほとんど分かっていない大王クラスの葬送儀礼の復元へ大きな手がかりになりそうだ。

 また、大量の鏡片も見つかっており、鏡の副葬も全国最多級になる可能性もある。

 同古墳は昭和24、25年に石室の発掘が行われたが、さらに詳細な研究のため再調査。その結果、竪穴式石室周辺から、60年前の発掘では見つからなかった柱穴列を確認。東西南北で各2〜3本ずつが見つかり、いずれもすき間なく掘られていたことから、玉垣と推定。築造当時は南北12.5メートル、東西10メートルの方形に約150本の柱を並べていたという。柱穴の深さは1.3メートルもあり、柱の高さは3メートル近くに及んだとみられている。

 柱は直径約30センチの円柱とみられ、古代の宮殿の柱に匹敵する太さ。着色塗料は検出されず、同研究所は柱は白木だったとしている。

 石室周辺からは大量の炭も出土し、被葬者の遺体を石室に埋葬したのち、火を使った儀式が行われたことも判明。玉垣跡のすぐ外側には、長さ1メートル前後の平らな石でふさいだ溝状遺構も2カ所で確認され、今後さらに調査を進める。現地はすでに埋め戻され、説明会は行われない。

 ■桜井茶臼山古墳 奈良盆地東南部に6基が集中する古墳時代前期(3世紀中ごろ〜4世紀前半)の大型前方後円墳の一つ。石室を特殊な壺で囲んでいるのが特徴。石室は盗掘されているが、碧玉(へきぎょく)製品や武具など副葬品は豊富。被葬者は分かっていない。6基の被葬者は大王級とされ、同古墳と、近接するメスリ山古墳以外は陵墓に指定され、調査はできない。

高度な土木技術、石組み排水溝を確認 桜井茶臼山古墳

2007年06月13日朝刊

 奈良県桜井市の大型前方後円墳、桜井茶臼山(ちゃうすやま)古墳(全長208m、4世紀初め、国史跡)で、墳丘にしみ込んだ雨水を抜く、石組みの地中排水溝が見つかった。天理大学の考古学・民俗学研究室が今年1月、地中レーダー探査で確認した。古墳の石組み排水溝は6世紀以降の古墳で確認されているが、今回の遺構は、この200年以上前から高度な土木技術が存在したことを示す発見だ。

 天理大の置田雅昭教授(考古学)らは、学術調査として探査を実施。その最中、排水溝の先端が後円部北東部の基壇部分で露出しているのを見つけた。縦約40cm、横約20cmの石2枚を立てた溝の上に縦約20cm、横約50cmの石でふたをした構造。探査の結果、地中の長さは3m以上とわかった。

 墳丘に設ける石組みの地中排水溝は、雨水の浸透による土砂崩れを防ぐもの。真の継体天皇陵といわれる今城塚(いましろづか)古墳(大阪府高槻市、6世紀前半)やアカハゲ古墳(大阪府河南町、7世紀)などにある。しかし、桜井茶臼山古墳の時代では、砂や小石を地中に詰めた「簡易型」と考えられてきた。

 置田教授は「高度な土木工事の始まりが200年以上さかのぼることは確実だ」と話す。

 桜井茶臼山古墳は、権威のシンボルとされる碧玉製の玉杖(ぎょくじょう)や凝灰岩の腕輪、三角縁神獣鏡など豪華な副葬品が後円部の竪穴石室から見つかり、大王墓級の古墳とされる。大型の前方後円墳としては桜井市の箸墓古墳(全長280m、3世紀)に次いで古いという。

桜井茶臼山古墳範囲確認発掘調査 記者発表・現地説明会資料

2003年03月24日 奈良県立橿原考古学研究所

ノムギ古墳は3世紀築造か 狗奴国と交流の可能性

2003年09月02日 The Sankei Shimbun

 奈良県立橿原考古学研究所は2日、同県天理市の前方後方墳、ノムギ古墳(全長63メートル)が3世紀後半に築造された可能性が高いと発表した。

 ノムギ古墳がある大和(おおやまと)古墳群は、邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)の墓とする説がある箸墓(はしはか)古墳(同県桜井市、3世紀後半)など古墳時代前期の前方後円墳が集中。初期大和政権の中心とされる。

 同研究所は「築造時期判明は、初期政権の形成を考える上で貴重」としている。

 前方後方墳は、邪馬台国と対立した狗奴国(くなこく)が造ったとする見方があり、ノムギ古墳と箸墓古墳が同時期なら、卑弥呼の死後に邪馬台国が狗奴国と交流した可能性があると考える研究者もいる。

 同研究所によると、周濠(しゅうごう)と墳丘の東南に、それぞれ角があるのが分かり、前方後方墳と確認。周濠から3世紀後半のつぼの破片などが多数見つかった。周濠は6世紀後半までに3回、掘り直した跡があり、祭祀(さいし)を行ったとみられる。

 ノムギ古墳は過去の調査で4世紀の築造と考えられてきた。同研究所は「築造時期を決定するため墳丘を発掘する」としている。

 現地説明会は7日午前10時半から。

前方後方墳は滋賀が発祥? 邪馬台国の時代から独自性

2001.03.01 京都新聞

 滋賀県新旭町の熊野本古墳群にある前方後方墳が全国最古級(三世紀前半)と確認された、とする同町教委の発表について、専門家からは、邪馬台国の時代から近江(滋賀県)は独自性を持つ地域だったなどとする見方も出ている。

 新旭町教委などによると、前方後方墳は濃尾平野発祥説があるが、県内でも確認が相次いでおり「近江発祥説もテーマとして浮上してきた」という専門家もいる。

 前方後方墳のルーツについて、愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎主査(考古学)は、最古の前方後方墳は愛知県尾西市の西上免遺跡(三世紀初頭)で「東海出現説は変わらない」としながらも「滋賀県内でも東国社会と同様に、古墳の造営はまず前方後方墳から開始されたことが明らかになった。これまで近江は畿内の一角(一パーツ)との見方が支配的だったが、邪馬台国の時代から東国と連動しながら近江の独自性を保っていたのではないか」と推測する。

 また、県内の古墳に詳しい名古屋女子大の丸山竜平教授(考古学)は「形状や出土土器片からも、熊野本古墳群の前方後方墳が日本最古と言っていい」とし、前方後方墳の近江発祥説をとる。そのうえで「二世紀後半から三世紀前半にかけて、卑弥呼が支配した呪術集団の母体が近江にあり、前方後方墳の墓制度を考案し、それが東海地方などに広まったのではないか」と自説を展開する。

 一方、築造時期の特定根拠となっている出土土器が少ないことを指摘する意見もあり、石野博信・徳島文理大教授(考古学)は「6、12号墳ともに出土土器が少なく、築造時期に若干の不安がある。今後の調査に期待したい」としている。

 前方後方墳は、南側の平野部に面する墳丘の傾斜が緩やかになっており、同町教委は「琵琶湖や平野部から墳丘を少しでも壮大に見せようとした工夫の表れ」と推測している。

 調査結果を受け、海東英和・新旭町長は「町としても公有地確保で保全に万全を期し、里山保全の関連地域と合わせて、学びの拠点として残していきたい」と話している。

最古級前方後方墳で墓域と住居区切る溝 強い王権示す?

2003/11/14 asahi.com

 国内最古級の前方後方墳とされる滋賀県能登川町長勝寺の神郷亀塚(じんごうかめづか)古墳(3世紀前半)で、古墳がある墓域を聖域として区切ったとみられる弥生時代後半(2世紀末)の溝跡が見つかったと14日、同町教委が発表した。同古墳は邪馬台国と対立した狗奴国(くなこく)連合の王墓との見方がある。古墳から溝まで44メートル離れており、研究者は「広い墓域は強い王権を示唆する発見だ」と話している。

 溝は長さ78メートル、幅1〜2メートル、深さ40〜50センチ。古墳とほぼ平行に掘られていた。古墳中央部の真横の位置にある溝跡から、壷(つぼ)や高坏(たかつき)など10点以上の土器が出土した。溝の西側からは同時期の3棟の竪穴住居跡が見つかった。

 町教委は「古墳を築造する前に、まず墓域を区画する溝を掘り、そこで地鎮祭のようなことをしたのではないか。西側の住居には古墳を築造した人々が住んだと考えられる」とみる。

 石野博信・徳島文理大教授(考古学)は「邪馬台国・大和説をとれば、狗奴国連合の初期の王の墓だったことを補強する材料となる。溝が古墳よりも早い時期に掘られており、王が生前に墓の築造にかかった『寿陵』の可能性も考えられる」と話している。

 現地説明会は16日午前10時半から。問い合わせは能登川町埋蔵文化財センター(0748―42―5011)へ。

狗奴国の王の墓? 滋賀・能登川の神郷亀塚古墳

2001.02.01 asahi.com

 滋賀県能登川町教委と同町埋蔵文化財センターは1日、同町長勝寺の神郷亀塚(じんごうかめづか)古墳を調査した結果、国内で最古級(3世紀前半)の前方後方墳とわかった、と発表した。前方後円墳を含む古墳全体から見ても最古級という。邪馬台国・大和説では、前方後方墳は、邪馬台国と対立していた狗奴国(くなこく)が造営していた墓との説が有力になっており、同センターは「神郷亀塚古墳の主は湖東地方(琵琶湖の東部)を広く治めた小国(クニ)の王で、狗奴国連合の一国の王墓の可能性もある」と話している。

 神郷亀塚古墳は墳丘の残り具合が悪く、これまでは全長約28メートルの前方後円墳とみられていた。しかし、昨年末から周辺の田畑の一部を試掘したところ、前部、後部とも方形だったことを示す墳丘のすそ部分と濠(堀)を確認。全長は35.5メートルで、前方部15メートル、後方部20.5メートル。周囲に幅2―12メートルの濠を巡らせていた。墳丘の高さは現存でも3.6メートルある。さらに出土した土器片から、3世紀前半の最古級の古墳と裏付けられた。

 中国の史書「魏志倭人伝」によると、狗奴国は倭国(わこく)(30国)のうち、唯一邪馬台国に都を置いた女王卑弥呼の倭国連合に従わなかった国で、両国は3世紀半ばに交戦したとされる。狗奴国の所在地は、南九州(熊襲〈くまそ〉)などの諸説があるが、最近、東海地方で西上免遺跡(愛知県尾西市)、象鼻山1号墳(岐阜県養老町)などの前方後方墳が見つかり、東海地方説が有力になっている。

 3日午後1時半から現地見学会を開く。

近 江 が 狗 奴 国 の 中 心 で あ っ た !



西都原古墳群:国内最古級の前方後円墳の可能性 宮崎

2005年05月18日 毎日新聞

 宮崎県西都市の国特別史跡「西都原(さいとばる)古墳群」にある81号墳が、3世紀中ごろに築造されたと見られる国内最古級の前方後円墳の可能性が高いことが宮崎大の調査で確認された。大和政権は全国の有力豪族が連携して成立したとの見方が近年有力になってきているが、地下式横穴などの独自の葬送文化を持つ南九州は、そのらち外にあったと考えられてきた。奈良盆地とほぼ同時期の前方後円墳の発見により、南九州までが古墳文化の成立にかかわった可能性が出てきた。

 調査した宮崎大の柳沢一男教授(考古学)が22日、東京である日本考古学会総会で発表する。

 調査は04、05年度の2カ年計画。柳沢教授によると、81号墳の後円墳から3世紀中ごろのものと見られるつぼなど計4点の土器が発見され、墳丘の形も前方後円墳出現期に特徴的な前方部が丸みを帯びた「纒向(まきむく)型」で、3世紀中ごろの築造の可能性が高まったという。

 81号墳は西都原台地東端にあり、墳長は46メートル。後円部の高さは3メートル。

 柳沢教授は10年前の論文で既に81号墳が3世紀中ごろにできたものと推定し、調査していた。これまで4世紀とされていた西都原古墳群の築造開始年代も半世紀さかのぼることになる。

 近年の発掘調査の成果により、弥生時代後半から列島各地に地域的な政治連合が形成され、それが相互に結びついていき、近畿から北部九州に至る広域的な政治的まとまりが形成されたというのが、有力となっていた。3世紀半ばから、纒向型古墳がこれらの地域に出現し始め、3世紀後半から墳丘が200メートルを超える巨大な前方後円墳が奈良盆地に相次いで築造されるためだ。

 ただ、地下式横穴などの独特の葬送文化を持つ南九州は全く無関係と考えられてきた。

 柳沢教授は「大和政権と呼ばれているものは全国の豪族が広く連携したシステムと考えられ、南九州の勢力もいち早く、古墳を取り入れたと言えるのではないか」と話している。

日本最大の帆立て貝形古墳 陵墓参考地の西都原古墳群

2005/03/23 The Sankei Shimbun

 宮崎県教育委員会は23日、同県西都市の西都原古墳群内の陵墓参考地、男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳での地中レーダー探査で、男狭穂塚は後円部に短い前方部が付いた「帆立て貝形古墳」と特定したと発表した。帆立て貝形としては奈良県河合町の乙女山古墳(約130メートル)を抜き、日本最大となる。

 男狭穂塚は前方部から後円部にかけての一部が崩れたような形跡があり、これまで墳形が特定されていなかった。

 県教委は形状がはっきりしない前方部西側約4500平方メートルを探査し、データを解析。その結果、周溝や周堤の形状が東側と左右対称で、本来の墳形は前方部前面がやや開く形状の帆立て貝型であることが分かった。

 また前方部西面に沿って埋蔵物らしき反応があった。円筒埴輪(はにわ)か根石の可能性が高いという。

 男狭穂塚は墳長約154メートル。女狭穂塚は墳長約176メートルで九州最大の前方後円墳。ともに5世紀前半の築造とみられる。

 調査は3カ年事業で、レーザー探査機を使用。電磁パルス波を地中に放射し、反射波から構造を調べる。宮内庁が管理する陵墓参考地の地中探査は全国初。(共同)

<古墳のレーダー調査、宮内庁認める>

2004年05月21日 読売新聞 Yomiuri On-Line

今年度からレーダー探査を行う西都原古墳群の女狭穂塚(手前)と男狭穂塚=本社機から

 ◇「尊厳」より"規制緩和"へ

 今年に入り、天皇陵などの学術調査について"規制緩和"の期待が強まっている。皇室の「尊厳」を理由に慎重姿勢だった宮内庁が、宮崎県にある古墳のレーダー探査を初めて認めたからだ。国会でも学術調査の是非が取り上げられ、古代史を見はるかす論議が続いている。

 「宮内庁は学問の発展のため、研究者に古墳を公開してほしい」。三月下旬の参院内閣委員会で、委員の一人が、真偽が長年論じられている天皇陵に触れ、研究者の立ち入りを認めるよう迫った。同庁の羽毛田(はけた)信吾次長が答弁に立ち、「天皇の祖先の墓として祭祀(さいし)が行われてきた重みがあり、慎重に臨みたい」と従来の説明を繰り返した。

 宮内庁は、歴代天皇などの「陵」、皇族の「墓(ぼ)」を管理しているが、この中には、被葬者に疑問があるものも少なくない。継体天皇陵とされる大阪府茨木市の前方後円墳「太田茶臼山古墳」だが、学界の定説では約一・五キロ東にある、陵墓に指定されていない「今城塚古墳」の方が、出土品から見ても"真の継体天皇陵"とされる。

 学界は一九七六年、「陵墓指定は科学的な信ぴょう性が乏しい」と、古代陵墓の学術調査を求める声明を出した。

 これに対し宮内庁は、一貫して見解を変えてこなかったが、今年度、宮崎県の西都原古墳群内の陵墓参考地「男狭穂塚(おさほづか)」「女狭穂塚(めさほづか)」で、レーダーによる外周部の地中探査を初めて許可。宮内庁陵墓課は今回の "規制緩和"を、「観光資源の整備に力を入れる宮崎県に配慮した例外措置」としている。

 変化の兆しとも見える同庁の姿勢に、古墳に詳しい森浩一・同志社大名誉教授は「学問が未発達だった当時の陵墓指定を検討し直すのは自然なこと。立ち入り調査ぐらいは認めるべきだ。皇室にとっても重要な事だと思う」と話している。 --------------------------------------------------------------------------------

 <陵と墓>歴代天皇や皇后、皇太后、太皇太后の「陵」は188、その他の皇族の「墓(ぼ)」は552に上る。さらに、皇室関係者が埋葬された可能性がある46の「陵墓参考地」、火葬塚や灰塚を合わせると、宮内庁が管理する墓所は896に上る。

日本最大の「墓室」を確認

2002年09月26日 読売新聞 Yomiuri On-Line

 宮崎市の古墳「檍(あおき)1号墳」(前方後円墳)で、日本最大の木槨(もっかく)を確認したと、宮崎大教育文化学部の柳沢一男教授(考古学)が26日、発表した。古墳内に木棺を収めるため木造で設けられた墓室で、九州で確認されたのは初めて。

 柳沢教授によると、木槨は幅4メートル、長さ7・2メートル、高さ1・5メートル。これまで最大とされている奈良県桜井市のホケノ山古墳(幅2・7メートル、長さ6・7メートル、高さ推定1・5メートル)を上回る規模。

 墳内では時代の異なる2つ以上の埋葬施設が見つかっているが、木槨近くからは土師(はじ)器が見つかっており、これが木槨に伴うものならば、これまで確認された木槨の中で最も年代の新しい3世紀後期から4世紀前半(古墳時代前期)の可能性もあるという。

 木槨は砂丘の柔らかい砂を長方形に掘り下げた地下室に、木張りで組み立てたと推定される。使用した木材はすでに腐植し、残っていないという。埋葬品などの調査はまだ行っていない。

 ホケノ山古墳で発掘調査を指揮した河上邦彦・橿原考古学研究所付属博物館長は「九州には木槨はないと思われていたが、四国や畿内との交流があったとみられ、新たな文化的な流れが解明できるかもしれない」と話している。

 現場を確認した石野博信・徳島文理大教授(日本考古学)は「古墳の形式は畿内で見られるものと同じで、広い空間を置く埋葬の仕方は、大陸の様式と同じだ。この地方に大和政権とのつながりがあり、なおかつ朝鮮半島との交流を行っていた有力な豪族がいたと推測される」と話している。

宇佐風土記の丘にある古墳群(宇佐市)

2009年04月20日 大分合同新聞

古墳群の中の一つ角房古墳

クニの首長眠る

 宇佐市の真ん中を流れる駅館川(やっかんがわ)の右岸台地に「宇佐風土記の丘」がある。ここが風土記の丘になり、県立歴史博物館が置かれたのは、一帯に多くの古墳があるからだ。地名を取って川部・高森古墳群と呼ばれ、六基の前方後円墳を中心に、円墳や周(しゅう)溝(こう)墓(ぼ)など百を超す古墳・墓地が集積し、国の史跡となっている。九州では宮崎県の西(さい)都(と)原(ばる)古墳群に続く規模である。

 前方後円墳で最大のものは福勝寺古墳(全長八十二メートル)で、次いで車坂、赤塚、免(めん)ケ平(ひら)、角(かく)房(ぼう)、鶴見などの古墳がある。この中で最も注目されるのが赤塚古墳。全長五七・五メートル、高さ約五メートルで、大きさはさほどではないが、築造は三世紀末と考えられ、九州で最も古い時期のものだ。

 一九二一(大正十)年の秋、二人の村人が夜陰に乗じてひそかに発掘、後円部にある箱式石棺の中に五面の青銅鏡を発見した。情報はすぐに考古学者の耳に入り、現地調査の結果、鏡はいずれも中国製とみられる優秀なもので、ほかに管(くだ)玉(たま)、鉄刀、鉄(てっ)斧(ぷ)や土器片を伴っていることが分かった。

 梅原末治氏(元京都大学教授)による調査報告が学会誌に掲載され、一躍して赤塚の名が知れ渡った。特に目を引いたのが、鏡のうち四面の三(さん)角(かく)縁(ぶち)神(しん)獣(じゅう)鏡(きょう)が大和など各地で出土した鏡と同じ鋳型で作られたものだったことや、墳形から極めて初期の前方後円墳と判明したこと。

 つまり、それは初期のヤマト政権が畿内から瀬戸内海各地の首長と同盟関係を結びながら、統一王権を目指してついに九州に足がかりを得た証拠と考えられたのである。

 宇佐平野は海陸の要衝であり、九州の玄関だった。弥生時代以降、宇佐地方に勢力を張った有力集団・クニの首長たちは、赤塚に次いで免ケ平古墳に眠り、六世紀の鶴見古墳まで、代々の古墳群を形成していったのか。


天理市マバカ古墳隣接地(成願寺遺跡)の発掘調査

2004年08月29日 現地説明会資料

第207回 マバカ古墳、継体天皇陵について

マバカ古墳は3世紀前半 最古の前方後円墳か

2002/11/18 47News【共同通信】

 奈良県立橿原考古学研究所は18日、大和(おおやまと)古墳群にある同県天理市のマバカ古墳は、出土した土器から、3世紀前半に築造された前方後円墳の可能性が高いと発表した。

 大和古墳群は、邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)の墓説もある同県桜井市の箸墓(はしはか)古墳(3世紀後半)など前期の古墳が集中。初期大和政権の中心とされる。

 その中で、マバカ古墳が箸墓より古く、最古の前方後円墳の一つと考えられているマキ向勝山(まきむくかつやま)古墳(3世紀前半)に近い築造時期と判明。古墳形成のプロセスを解明する上で、注目されそうだ。  同研究所によると、土器は庄内式と呼ばれる古墳時代初期の土師(はじ)器のつぼや鉢などの破片。前方部の西側すそに、東西約14メートル、南北約35メートルにわたって堀のような部分があり、その中で多数見つかった。

奈良・天理のマバカ古墳、最古級3世紀前半か

2002年11月18日 Yomiuri On-Line

 奈良県天理市にあるマバカ古墳は、最古級の前方後円墳である可能性が高いと、同県立橿原考古学研究所が18日、発表した。同古墳の周濠(しゅうごう)から、従来最古の古墳とされてきた箸墓(はしはか)古墳(同県桜井市)より古いと昨年判明した勝山古墳(同市)と同時期の土器が出土したため。邪馬台国の時代にあたる3世紀前半の築造と見られる。

 最古級の古墳は、大和盆地の東南部に展開する大和(おおやまと)古墳群の南部に集中しており、北部から発見されたのは初めて。いくつかの勢力がほぼ同時期に古墳を造り始めたことをうかがわせる成果で、初期国家の成立を解明する上で極めて重要な発見と言える。

 同古墳は全長74メートル、後円部の直径43メートル。前方部先端の周濠(幅14メートル)の底から、庄内式と呼ばれる型式の土器の破片などが約3000点出土した。

 大和古墳群南部に展開する纒向(まきむく)遺跡では、運河とみられる巨大な溝の跡や全国各地の土器が出土しており、日本最初の都という説もある。この遺跡を本拠とした勢力が初めに、前方後円墳を築いたと考えられてきたが、今回の発見で、別の勢力が独自に前方後円墳を築いた可能性も出てきた。しかし、専門家の中には周濠から出土した土器のみを根拠として、築造年代を推測することに慎重な意見も出ている。

 白石太一郎・国立歴史民俗博物館教授(考古学)の話「3世紀半ばから4世紀にかけての初期ヤマト政権はいくつかの政治連合で形成されたと考えられる。今回の発見は、それ以前の3世紀前半からすでに有力な集団が複数いたことを裏付けるものだ。大和古墳群全体の歴史的重要性がはっきりしたといえる」


三角縁神獣鏡


「卑弥呼の鏡」?三角縁神獣鏡、兄弟鏡でも組成に違い

2003/06/01 読売新聞Yomiuri On-Line

 「卑弥呼の鏡」ともいわれる三角縁神獣鏡のうち、椿井(つばい)大塚山古墳(京都府山城町、3世紀末)出土の同鏡について、奈良文化財研究所などが発掘から50年ぶりに初めて電子顕微鏡などの最新技術で断面を分析、文様が同じ「兄弟鏡」でも青銅の組成が異なり、制作技法上の違いがあることが明らかになった。

 重文指定の鏡本体は京都大が保管。現在、新たな分析用試料は得られない状態にある。今回は、1953年に32面の鏡が出土した直後に古墳を調査した京都大が分析用に提供した5面分の破片(2―4ミリ大)を分析した。

 昨年2月から、切断面を電子顕微鏡などで調べた結果、小片の中心部に青銅が腐食せずに残存。兄弟鏡一対でも、鋳造後の冷却速度の違いなどから、一方の金属組織の大きさが50―60マイクロ・メートルと粗いのに対し、もう1面は数マイクロ・メートルと緻密(ちみつ)だったことがわかった。

 分析結果は、7日、京都市で開かれる文化財保存修復学会で発表する。

同じひつぎから出土/連弧文銘帯鏡と三角縁神獣鏡

2000.08.31The Sankei Shimbun

4世紀前半福井の円墳

 福井市教育委員会は三十一日、同市にある四世紀前半の円墳、花野谷1号墳の木棺から、弥生時代の権威の象徴とされる連弧文銘帯鏡(れんこもんめいたいきょう)一面が、「卑弥呼の鏡」とも呼ばれる三角縁神獣鏡一面とともに出土したと発表した。この二種類の鏡が同じひつぎから出土したのは全国で初めてという。 畿内と接点深まる

 同s教委は「古墳時代に入り、畿内とのつながりが深まるにつれて、有力者が宝物として連弧文銘帯鏡を代々受け継ぐ弥生時代の風習が次第にすたれ、この鏡の権威が弱まり、副葬品として三角縁神獣鏡とともに埋められたのではないか」としている。

 同市教委によると、神獣鏡は直径二十二センチの「天王・日月銘三角縁獣文帯四神四獣鏡」。裏面に中国の神話に基づく神や獣の文様がある。

 同じ鋳型から作られた鏡が黒塚古墳(奈良県)や石塚山古墳(福岡県)などで四面出土しており、黒塚古墳の被葬者から配られた可能性もあるという。

 一方、連弧文銘帯鏡は直径九・六センチ、紀元前一世紀後半の中国製。宗教儀式に使う呪具(じゅぐ)とみられ弥生時代に伝来したらしい。ひもをかける鏡中央の穴がつぶれた後も、縁に穴を開けて使い続けた跡があった。花野谷1号墳はJR福井駅の東約六キロにあり、直径約十八メートル、高さ二・五メートル、一部にせり出した部分がある。埋葬された人物は畿内と強いつながりを持つ有力者とみられる。

三角縁神獣鏡が4枚出土 奈良・鴨都波古墳

2000.06.05 asahi.com

 奈良県御所(ごせ)市三室の鴨都波(かもつば)古墳から、「邪馬台国の女王・卑弥呼が中国の魏から贈られた」との説がある三角縁神獣鏡4枚やよろい、剣、玉類などが出土したと5日、同市教委が発表した。同古墳は4世紀中ごろの方墳で、南北約19メートル、東西約14メートル。三角縁神獣鏡が小規模古墳から複数枚出土するのは極めて珍しい。三角縁神獣鏡は、「中国製」とする説のほか、日本で作られた「国産」説もあるが、小規模古墳からの出土で、「鏡の価値」をめぐる議論が活発化しそうだ。

 古墳中央部にある木棺は、針葉樹のコウヤマキ製で、長さ4.3メートル、幅約50センチ。木棺の内部には下あごの歯が約10本残っていた。歯のすり減り具合や副葬品から、被葬者は壮年の男性だったとみられる。

 鏡は4枚とも直径20センチ前後。北向きの頭の上側に1枚置かれていた。さらに、棺の外側には小さな鉄の板を革ひもでつなぎ合わせて作ったよろいと、矢を入れる「靫(ゆき)」があり、その下から3枚見つかった。

 顔があったとみられる部分には、鮮やかな赤色が残っており、水銀朱が顔に塗られていたらしい。頭を挟んで右と左には玉類が置かれ、足元の側からは、木製の箱に入った鉄剣約10本と鉄がま3本が見つかった。

 同市教委は朝鮮半島と交流があった5世紀ごろの有力豪族、葛城氏と関係のある有力者の墓ではないかとみている。

 現場はJR、近鉄御所駅から南西約1キロ。10、11の両日、午前10時から現地とその近くの市民会館で説明会がある。

 【福永伸哉・大阪大助教授(考古学)の話】

 巨大古墳を造る政治的な力がなかったのか、意地でも前方後円墳を造らなかったのか、分からないが、三角縁神獣鏡を4枚も持っており、後の葛城氏につながる有力者の墓であることは間違いない。朝鮮半島で見つかっているよろいも出土しており、半島を重視した畿内の新興勢力との結びつきも示している。


中国製盤竜鏡、三原のみたち五号古墳で出土

2005/05/06 中国新聞地域ニュース

 ■畿内との交流濃厚

 広島県教委が発掘調査をした三原市本郷町本郷、みたち五号古墳(仮称)から、後漢から三国時代(二〜三世紀)の中国で製作された銅鏡の盤竜鏡が出土していたことが五日、分かった。同県内で盤竜鏡が確認されたのは二例目で、沼田川流域にも、古墳時代前期(三世紀末〜四世紀)に畿内の政権と交流のある首長がいた可能性が濃厚となった。

 県内の古墳時代前期の古墳には、中小田一号古墳(広島市安佐北区)、才が迫一号古墳(東広島市)、石鎚山古墳群(福山市)などがある。みたち五号古墳は、沼田川流域が芦田川流域に次いで県東部で二カ所目の古墳前期の拠点だったことを裏付ける。

 五号古墳がある三太刀山(三二メートル)は沼田川の北約百メートルにあり、周辺の約四十八ヘクタールは市の区画整理事業の対象になっている。県教委文化課が二〇〇四年十一月に試掘調査を始め、盤竜鏡は山頂の地中約四十センチから、勾玉(まがたま)、管玉などほかの副葬品と十二月上旬に見つかった。

 盤竜鏡は直径一三・五センチで、竜と虎の文様がある。十数片に割れているが、ほぼ全部分がそろう。県教委は割って副葬したとみている。

 国立歴史民俗博物館の上野祥史助手(東アジア考古学)は「数片に割って副葬した鏡であれば西日本一帯でみられる破砕鏡の可能性があり、古墳の築造時期は古墳時代前期初頭までさかのぼれる。今回出土の鏡は、沼田川流域の古墳時代の様相を考える上で貴重」と話している。

 沼田川流域では四世紀末〜五世紀初の前方後円墳、鍛冶屋迫(かじやさこ)四号古墳が最古とされてきた。県教委文化課は、みたち五号古墳の形状や築造年代を特定するため、近く再調査する。

 <盤竜鏡>

 不老長生を願う古代中国の神仙思想で霊獣とされる竜と虎の文様が背面にある銅鏡。後漢(25〜220年)から三国時代(220〜280年)に製作された。竜虎の文様のほか、製作年などを記した銘文を持つものもある。広島県内では1987年、福山市民が県立歴史博物館(福山市)に1点寄贈し、同館が所蔵している。出土場所は分かっていない。


広島県倉橋町沖から古墳時代のかめ(甕)

2000/09/07 中国新聞
 広島県安芸郡倉橋町沖の海底から、古墳時代初頭(三世紀後半― 四世紀初め)のものと推定される土師器(はじき)のかめ(甕)が引き揚げられた。一帯の海からはこれまで弥生土器なども見つかっていて、辺りが、古代瀬戸内海の主要な航路だったことをうかがわせている。

 かめが見つかったのは、倉橋町亀ケ首の東約三百メートルの安芸灘。同町鹿老渡の漁業片山平蔵さん(64)が七月初旬、エビの底引き網漁をしていて、深さ五十〜六十メートルの海底から引き揚げた。

 灰色がかった黄褐色で高さ十七センチ、胴体の直径十六センチ。一カ所に小さな穴があるだけで、ほぼ完全な形を保っていた。

 倉橋町史を編纂している、日本考古学協会会員の新谷武夫五日市高校教諭(50)=広島市安佐南区=によると、(1)胴体部がほぼ球形(2)口縁部(最上部)の先端をつまみあげている(3)良質の土を使用している―などから、古墳時代初頭、古墳一基に一個収める風習のあった布留(ふる)式土器ではないか、という。

 布留式土器は、奈良県天理市の布留遺跡で一九三八年に多量に見つかって以来、西日本の古墳や集落跡でも確認されている。倉橋町沖の海底から見つかったことについて新谷教諭は「大和から地方に船で運ぶ途中、沈没したり、落としたりしたのではないか。大和政権と地方のつながりを示す貴重な遺物」とみる。

 倉橋町沖からはこれまでに漁業者らの手で、約百点のナウマン象化石が見つかっている。一九六三年には愛媛県境近くの海域で古墳時代のかめ、八三年には、山口県境で、弥生土器のつぼが引き揚げられている。

 倉橋町の迫越将史教育長は「古代の土器が揚がるということは、当時から重要な航路だったのではないか。この辺りは潮の流れも早く、海面すれすれに岩礁も多い。操船が難しく、難破する船も多かったのだろう」と話している。


闘鶏山古墳:最古4世紀の未盗掘竪穴式石室 大阪・高槻

2002年06月12日 Mainichi INTERACTIVE

 大阪府高槻市氷室町の前方後円墳「闘鶏山(つげやま)古墳」(4世紀前半)が、未盗掘・未破壊の竪穴式石室が残る日本最古の古墳と分かり、同市教委が12日、発表した。天井石のすき間から、頭蓋(ずがい)骨と三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)などの副葬品が埋葬時のまま発見された。また、追葬墓とみられるもう1基の石室には、木棺がほとんど朽ちずに残っていた。前期古墳でも、雪野山古墳(滋賀県八日市市)など未盗掘墳はわずかにあるが、いずれも天井などが崩れ落ちている。石室が空洞状態で残っていたことに考古学者は一様に驚いており、当時の埋葬儀礼を立体的に復元できる極めて希少な考古資料となった。空気に触れているのに棺がほとんど朽ちていないため、衣類の布など他の有機物が見つかる期待も高まっている。

 闘鶏山古墳は、標高84メートルの尾根筋に築造され、全長86・4メートル、後円部の直径約60メートル。墳丘は2〜3段で斜面は石でふかれていた。奈良文化財研究所の協力でファイバースコープ(内視鏡)や地中探査機を使って調査し、2基の竪穴式石室を確認した。

 主要石室は、約2メートルの深さにあった。天井部まで掘り進め、天井石を目張りしていた厚さ約15センチの粘土を取り除くと、割竹型木棺(竹を縦に割ったような形の棺)内に真っ赤に染まったほぼ完全な頭骸骨(男女未確認)▽三角縁神獣鏡2面▽方格規矩四神鏡(ほうかくききしじんきょう)1面▽鍬型石(くわがたいし)(石の腕飾りの1種)▽鉄刀――などが見つかった。被葬者は北枕だった。

 追葬の小振りな別の石室がその西にあり、天井石のすき間から、木棺の小口板や側板が見えた。石室は、主要石室より約1メートル浅かった。

 闘鶏山古墳一帯は淀川北岸の三島古墳群。古事記に「御陵者、三嶋之藍御陵也」(御墓は三嶋の藍(あい)の御陵なり)と記される継体天皇陵との学説が有力な「今城塚古墳」(6世紀前半)などがある古代史の一大舞台。

 同市教委は調査、保存のため検討委員会を設け、国に史跡指定を申請する。文化庁の坂井秀弥・文化財調査官は「報告に驚いている。古墳は通常、盗掘孔から発掘を進めるが、未盗掘・未破壊の竪穴式石室の発掘は例がないと思う。木棺内の調査もたやすいことではない。庁としても万全を期す」と話した。

 現地説明会は22、23日10〜16時。JR東海道線摂津富田駅北口から市バスの臨時便を運行する。 【猪飼順、宇城昇】

全国最大、継体天皇陵?出土の家形埴輪復元

2002年05月23日 Yomiuri On-Line

 大阪府高槻市の今城塚(いましろづか)古墳で昨年出土した家形埴輪(いえがたはにわ)の復元作業が完了し、高槻市立埋蔵文化財調査センターが23日公開した。復元された家形埴輪は全国最大。高床の入り母屋式で、上屋根、母屋、基台と上下三つの部分に分けて作られていた。3分割構成の家形埴輪は全国でも出土例がなく、同センターは「同古墳を継体天皇の陵墓とする説を裏付ける貴重な資料」としている。

 家形埴輪は高さ170センチ、幅102センチ、奥行き78センチ。これまで最大だった、栃木県・富士山古墳出土の家形埴輪を約2センチ上回った。


方杖持つ家形埴輪復元 下層部も再現

2003年07月08日 The Sankei Shimbun

 京都府大山崎町にある古墳時代前期(4世紀後半)の方墳、土辺古墳で昨年見つかった大型の家形埴輪(はにわ)を、京都府埋蔵文化財調査研究センターが復元し7日、公開した。

 屋根を支える斜めの柱「方杖」が8本あり、埴輪ではほかに例のない様式。2層式の下半分はほとんど欠落していたが、上層部の構造から推定して復元。高さ1メートル、屋根の大きさは縦84センチ、横68センチになった。

 方杖そのものは中国などの建築で現在も残っているといい、同センターは「中国から持ち込んだ様式を再現した建物が当時あったことがうかがえる」としている。

 四方は壁がなく、大きな窓のように開いた開放的な造りで、祭殿がモデルとみられる。屋根に刻まれた細かい飾り模様も再現された。

 15日から31日まで、京都府向日市の同センターでほかの発掘成果とともに展示する。


日本最古 絹糸装飾の木盾が出土: 滋賀・石田遺跡

2000.7.28 京都新聞

 滋賀県神崎郡能登川町の町埋蔵文化財センターは二十七日、同町の石田遺跡から、古墳時代前期(四世紀後半)の絹糸で飾られた黒漆塗りの木盾の一部が出土した、と発表した。絹糸で飾られた木盾としては国内最古とみられる。

 出土した木盾の一部はモミ材製で縦三十八センチ、横十一センチ、厚さ九ミリ。元の盾(推定で縦約七十五〜八十センチ、横約三十五〜四十センチ)の下部分とみられ、全面に三〜五ミリ間隔でキリのようなもので開けた穴があった。表面には絹糸の痕跡が確認され、穴に絹糸で刺し縫いしたらしい。糸は盾の補強ではなく、装飾が目的だったと考えられる。黒漆で固定した凹字形の文様が施され、戦闘に使われたような傷もないことから儀式に用いられたらしい。

 同センターによると、全面に細かい穴が開いた木盾は全国で百点以上見つかっているが、今回のように元の形が分かるものは珍しく、凹字形の文様は木盾では例がないという。穴に刺し縫いする素材に絹が確認されたものは、南郷大東遺跡(奈良県)に続いて二例目だが、今回出土した木盾は同遺跡の木盾の五世紀前半を約五十年さかのぼる。

 凹字形の文様は、革製の盾では狐塚古墳(大阪府)からの出土品などに見られる。同センターは「糸の間隔が狭く、繊細な表現で装飾性が高い。黒漆も油煙などから精錬した不純物の少ないものを使っている。当時の工芸技術を考える上でも貴重な発見」としている。

 石田遺跡は、能登川町山路、林地区に広がる縄文後期から中世までの集落跡。木盾は、今月三十一日から約一カ月間、同センター(同町山路)で一般公開される。

 ▽上原真人・京都大学大学院教授

 (日本考古学)の話 木盾は割れにくい板目取りのモミ材を使う上、穴を開けて糸を通すのも割れを防ぐためで、実用性が高いとされてきた。今回出土した木盾は絹糸を使うなど装飾性も高く、文様を刺しゅうする飾り盾が、革盾に限らず木盾でも発展していたことが分かった。


濠の底から5世紀の埴輪 奈良・巣山古墳

2003年10月03日 The Sankei Shimbun

 奈良県広陵町の巣山古墳(特別史跡、四世紀末−五世紀初め)で、ため池になっている周濠(しゅうごう)の底から、島状の遺構と水鳥や家などをかたどった6種類の埴輪(はにわ)計30点以上が見つかり、同町教育委員会が3日発表した。

 埴輪を並べ被葬者の居館を再現、周濠外から眺められるようにしたとみられる。

 水田になった周濠部分で島状遺構を確認したケースはあるが、水底で見つかるのは極めて異例。泥に沈み、ほぼ完全な状態で残っていた。

 巣山古墳は全長約220メートルと同時期の大王墓に匹敵。有力豪族、葛城氏の先祖の墓とする見方が強く、町教委は「被葬者の威厳を示そうとしたのだろう。当時の古墳祭祀(さいし)を復元する重要な資料」としている。

 史跡整備のため、底にたまった泥をしゅんせつして発見した。

 遺構は南北約16メートル、東西約12メートル。渡り土手で墳丘とつながり、周縁に葺石(ふきいし)があった。墳丘の反対側はこぶし大の石を敷き詰めた洲浜で、両端が翼のように突き出ていた。

 水鳥埴輪は、カモなどの親子3羽を表現したとみられ、南西角に置いたと推定。一段高い石英を敷いた中央部に家形やさく形などの埴輪があったらしい。

 同古墳は「造り出し」と呼ぶ祭祀スペースが墳丘くびれ部にあり、町教委は周濠にわき水があることを指摘して「造り出しと別に水にかかわる祭祀を再現した可能性がある」としている。

 現地説明会は11、12日の午前10時から午後3時。


庄原市の迫田山遺跡は「貴重な資料」-広島大の三浦教授が評価 -

2000/06/14 中国新聞

 古墳時代前期(四世紀前半)の大型竪穴住居が見つかった庄原市川西町の迫田山遺跡を十三日、広島大の三浦正幸教授(文化財学)が見て「かなり豪壮な建物で、竪穴住居の構造を考える上で貴重な資料」と評価した。

 住居は直径八・五メートルの円形で、火災で焼けて残ったとみられる炭化した木材や屋根材のカヤなどが大量に見つかった。三浦教授は「建物の構造は柱跡などを確認しないと断定できないが、周囲に垂直に壁を巡らせ、さらにたる木やけた、大きなはりで屋根を支えた本格的な構造だったのではないか」と推測した。

 また、屋根の骨組みのたる木が約三十センチ間隔で並び、その上に炭化したカヤが残っていることにも注目。「たる木の間にカヤを支えるこまいを渡して上にカヤをのせ、薄く土を塗って風よけにし、さらに雨よけのカヤをのせたのではないか」と指摘した。

 同遺跡は平日は見学も可能。問い合わせは広島県埋蔵文化財調査センター現地事務所、電話08247(2)4315。


線刻画で古代船団 出石町の袴狭遺跡

2005/05/31 神戸新聞

板に描かれた船団の線刻画(写真上)と線刻画の模式図=同下=(兵庫県教委提供)

 兵庫県出石郡出石町の「袴狭(はかざ)遺跡」で、古墳時代前期(四世紀初頭)の船団を描いた線刻画が出土し、兵庫県教委が三十日、発表した。長さ約二メートルの板に十五隻の船が描かれており、県教委によると船団の絵が見つかったのは全国で初めて。船は「準構造船」と呼ばれる外洋船で、巨大船を取り巻くように配置された構図は船団の陣形ともみられる。古代の日本の船についての史料はほとんどなく、当時の航海技術や外国との交流を解明する手掛かりとして注目される。

 線刻画が描かれているのは、長さ百九十七センチ、幅十六センチ、厚さ二センチの板でスギ材とみられる。一隻を先頭に計十五隻の船が板の表面約百八センチにわたって刻まれている。船長三十七センチの巨大船の前後左右に船長八・八―十二・七センチの船を配置。線が前後に重なっていたり、描き直しをしているものもある。裏面には約三十五センチの長さで記号化したような線が描かれている。

 船は、木をくりぬいた丸木舟に波よけの板がへさきに付けられ、船体の側面に板が張られている。船尾部は大半がゴンドラ状に描かれている。

 準構造船は丸木舟よりも遠距離を航海することができ、弥生時代から存在するとみられている。大阪・久宝寺遺跡からは弥生末期の船首部材が発見されており、姫路市内の長越遺跡からも古墳時代の船尾部材が出土している。

 こうした発掘例に照らし合わせると、線刻画の船は装飾性が少なく単純な線で描かれているが構造を的確にとらえており、実際に見た者でしか描けない正確さがあるという。

 県教委は船の進行方向を「右から左」とみており、「目的などは分からないが、日本海から船を出し、朝鮮半島へ向かっている様子を描いたとも考えられる」と推測している。

 線刻画は一九八九年二月に出土。今年四月、明石市の埋蔵文化財調査事務所魚住分館で選別作業中に発見された。

 同遺跡からは九三年十二月、四世紀初頭のものとみられる線刻画入りの箱型木製品が見つかっている。シカやサケの絵が描かれているが、今回の線刻画とはタッチが違い、県教委は「別の作者によるまったく違うもの」としている。

 袴狭遺跡 一九八七年、出石川の支流・袴狭川の河川改修工事中に発見。九六年までの発掘調査で木簡やさまざまな祭祀(さいし)道具、建物跡などが見つかっている。古墳時代、奈良―平安時代、戦国時代の遺跡が三層に重なり、約二平方キロメートルの遺跡群を形成している。木製品は計六万点が発掘されており、古墳時代初頭のものとみられるシカやサケなどの線刻画入りの箱型木製品が出土している。

 細部をリアルに表現

 ユネスコ・アジア文化センター文化遺産保護協力事務所の工楽善通・研修事業部長の話

 木製品で準構造船を描いたものはこれまでに出土していない。実際の船を見て描いたものとみられ、細部までリアルに表現されている。外洋を航行する準構造船団の意味するものは大きい。中央に大型船を描いた船団は、外洋を航行する陣形とも取れる様子を示している。

4世紀初頭、船団で外洋へ?=古墳時代の木製品に15隻の線刻画−兵庫

2000年05月30日[時事通信社]

 兵庫県教育委員会は30日、同県出石町の袴狭(はかざ)遺跡から出土した木製品に、丸木舟に波よけを付けた船15隻の線刻画が描かれているのが見つかったと発表した。古墳時代初頭(4世紀初頭)のものとみられ、県教委は「これまでこのタイプの船が複数描かれた木製品はなく、外洋船の船団と想像できる」としている。 

袴狭遺跡線刻画木製品

 箱形木製品は底板1枚と側板2枚が発見されています。組み立てるとやや上広がりの箱形となり、未発見の小口板と天板とも木釘で結合されます。側板には躍動感にあふれたサケ・シュモクザメ・シカ・カツオ描かれ、長方形を幾重にも重ねた幾何学文様も確認できます。出雲大社に伝わる打楽器「琴板」と類似し、関連が推定される資料です。

 線刻画木製品は長さ2m弱のスギ板に大小あわせて16艘の準構造船が描かれています。

 これらの資料は弥生時代後期〜古墳時代前期のものと考えられ、わが国の絵画史上において極めて貴重な資料です。

29.袴狭遺跡群】

 by但馬の主要遺跡

所在地 出石郡出石町袴狭

時 代 弥生(後期)奈良(後葉)

調査年 1976ほか

主要文献 小寺誠『袴狭遺跡内田地区発掘調査概報』1995,県教委「砂入遺跡」・「袴狭遺跡」『県文化財調査報告書』 各161,197 各1997,2000

遺物の所在 出石町教育委員会・県埋文事務所

遺跡の概要

 円山川は、但馬の中央部を日本海に向かって北流する。遺跡は、その支流出石川の支流である袴狭川流域一帯に展開する遺跡の総称。

 袴狭遺跡が立地する谷部は、豊岡盆地の東南部に開ける比較的大きな谷で、西側以外の三方を、標高150m級の山によって囲まれている。本遺跡北側にある砂入遺跡とともに、奈良平安時代を中心とする時期の人形・馬形などの木製祭祀具が多数出土する特殊な遺跡である。

 出土した木製品約13000点のうち、4割以上が木製祭祀具であった。これらの遺物をはじめ、墨書土器・木簡等の遺物や遺構の検討から、袴狭遺跡は第1次但馬国衙や出石郡衙との関連が取りざたされる遺跡である。

 袴狭遺跡は、このように広義な遺跡群とも言うべき内容をもつもので、中心は荒木地区や内田地区と呼ぶ建物遺構を擁する部分と考える。荒木地区は、遺跡群では古相の8世紀前半に中心をおく遺跡である。また内田地区からは、まとまった建築遺構が検出されており、さらに優秀な遺物も出ており、出石郡衙本体か、附属の施設が建っていただろうことはほぼ間違いあるまい。こちらは、9世紀前半を中心とする時期である。

 遺物の主要なものは、多数の木簡・石帯・唐製銅鏡・銅製容器・銅印・銭貨などとともに、緑釉や灰釉の陶器類など、一般の集落遺跡のものとは考えにくい優秀な遺物が目につく。墨書土器や木簡などに、「秦」という氏族名を記したものが多数見つかっており、渡来系氏族のひとつ秦氏関連の人々が在住していたことが確認された。

 歴史時代の遺物や遺構とは別に、前代の弥生時代から古墳時代ころのものとして、水田とそれに伴う井堰、溝などが確認されており、若干の土器と「線刻画木製品」、田下駄や容器、部材、木製穂摘具、椅子などの木製品が出土している。さらに、ある種の琴板と推定される魚等を描いた「箱形木製品」や、「帯を組み合わせたような模様のある板」など注目される木製品が多数見つかっている。

 最近になってその存在が明らかになった船団を描いたと思われる線刻画木製品は、平成元年の確認調査の際に、多くの板材などとともに出土したもの。その後の発掘調査により、水田に伴う溝からの出土であることが判明している。

但馬国

 但馬の国を語る時は、天日槍(あめのひぼこ)のことを語らなければならない。古事記、日本書紀によれば、天日槍は新羅の王子だったという。そして彼は赤い玉の化身として日本から来た女性と結婚したが、ある時、夫婦喧嘩の果てにこの女性は日本へ帰ってしまう。彼女を忘れられない天日槍は、七種(書紀)とも八種(古事記)とも言われる神宝とともに、但馬の国へ渡ってくる。そして、妻の故郷難波に向かうが、海の神に妨害されて果たせず、結局、土地の娘を娶り農耕を伝えて、但馬の開拓神として崇められる。この、天日槍を祀ったのが但馬国一之宮の出石神社である。

 一之宮の祭神が異国の神であるのは、おそらく但馬一国だけではなかろうか。

 さて、山陰はもともと出雲の大国主命が開いた国である。当然のことながら大国主命と激しい領土争いが起こる。播磨風土記が伝えるところによると、大国主命はここでは別名の葦原志許男(あしはらしこお)命として登場する。天日槍と葦原志許男は、勝負がつかないので、山の上から三本の矢を射て、落ちた所を支配地にしようということになった。天日槍の矢はすべて但馬に落ち、葦原志許男の矢は、養父郡と気多郡に落ちた。そこで、天日槍は但馬の出石を本拠とし、葦原志許男は養父神社と気多神社に大己貴命(おおなむちのみこと)ととして祀られたという。


日本最大の船形埴輪出土=「国宝級」と専門家−三重県松阪市 (時事通信社)

4月11日0時22分

  三重県松阪市にある国指定の史跡、前方後円墳「宝塚1号墳」から、日本で最大の船形埴輪(はにわ)が出土したと同市教育委員会が10日、発表した。この埴輪には船上に王権を象徴する大刀(たち)や威杖(いじょう)、蓋(きぬがさ)などが飾られていた。船形埴輪はこれまで29の出土例があるが、装飾品のある埴輪は初めて。専門家は「国宝級の価値がある」と高く評価している。  宝塚1号墳は全長111メートルで、5世紀初めに造られた首長墓とみられる。埴輪は船本体が全長140センチ、高さ67.5センチ、最大幅25センチで、完全復元できたものの中では最大。円筒台に乗せた高さは90センチになる。


2点の「鉄柄付手斧」が出土 大垣市・昼飯大塚古墳

2000年11月21日[中日新聞]

 【岐阜県】大垣市教育委員会は二十日、同市昼飯町の国史跡の前方後円墳「昼飯大塚古墳」から、埋葬に伴う祭祀(さいし)のために埋められたと推定される二点の「鉄柄付手斧(てつえつきちょうな)」が出土したと発表した。実用品より小さいミニチュアであることや、柄の部分を何重にもねじる加工を施してある点が特徴で、全国的にも珍しいという。

 四世紀後半の古墳時代前期に造られた同古墳は、東海地方最大級の全長百五十メートルの大きさを持つ。鉄柄付手斧は昨年十月、死者を埋葬した後円部の石室を覆う粘土の外側から、刀、剣、かまなど計三十九点の鉄器と一緒に固まって出土。一年かけてさびなどを除去した結果、全体を鉄で作った鉄柄付手斧と分かった。

 手斧は木を削るための工具。二点とも長さ約十三センチと小さいことから、実用品ではなく埋葬祭祀のためのミニチュアと考えられる。一点は柄に対して歯が垂直に、もう一点は水平に付いている。

 いずれも柄の部分に、朝鮮半島系の技術と考えられるねじり加工がしてある。今回の成果を受けて同古墳調査整備委員の福永伸哉・大阪大学助教授は「被葬者は、当時、朝鮮半島とのつながりを強めつつあった畿内中央勢力と密接に連携して活躍した地域の大首長であった可能性が強い」と分析している。


鳴門・阿讃山ろくの古墳群 全国級の宝物残る

2007/01/11 徳島新聞社 ふるさとを歩く

 鳴門市西部の阿讃山脈のふもとに立った。北側は目の前まで緑の山肌が迫っている。大津町大代の一角、山から下りてきた尾根の中ほどに小高い丘が見えた。

 ここから約百メートル離れたその丘は、四世紀後半に造られた県内最大級の前方後円墳「大代古墳」。古墳の下を貫く四国横断自動車道の大代トンネルも見えた。二〇〇〇年三月、古墳を残すため建設された。

 「最近まで裏山にすぎなかった。大代古墳が見つかってからは県内外の子供から大人まで訪れ、にぎやかな山に変わった」。こう驚くのは大津町大代の会社員梅野幸彦さん(55)。「高速道もできて風景が一変した。無意識に視線が上向くときがある」という。

 高速道の南方にも県道・鳴門池田線など幾本の道路が東西に延び、大代古墳など旧跡が帯状に残る。大麻町にかけて、五百を超す古墳があるという。まさに歴史街道だ。

 「ただでさえ霊山寺、大麻比古神社があって歴史を感じさせる上、古墳まで出て住民の理解は深まった」と梅野さん。

 古代の主要道の一つだった南海道のルートは特定されていない。旧撫養街道や県道が一部を通っているとみられている。

 「これが南海道ではないか」と思う細い道を交えながら、大代古墳から西へ約三十分歩いた。

 畑の真ん中に森があった。神社の社叢(そう)かと思ったが、木に囲まれた古墳「カニ塚」だった。教えてもらわないと古墳とは判断できない。今から約千五百五十年も前、一帯を治めた古代有力者の円墳という。

 梅野さんは「今はないが、十五メートル東に直径三十六メートルの円墳『尼塚』があった」と霜柱が立つ畑を指差した。尼塚の築造年代は、カニ塚よりやや古い。しかし一九二六(大正十五)年、近くの大津西小を造るため盛り土は削り取られた。

 梅野さんは五一年生まれ。その姿を写真でしか知らない。

 「尼塚」の価値が高いと分かったのは二〇〇三年だった。「知らず知らずのうち宝物を壊してきたんですね」

 保存された大代古墳と畑に変わった尼塚の跡を見て、梅野さんの言葉が胸にしみた。

 西方の大麻町にかけての静かな山里にも、全国級の宝物が埋もれていることが最近、分かってきた。奈良の国内最古の前方後円墳ホケノ山のルーツとされる積石墳丘墓「萩原一号」、竪穴式石室を持つ古墳では、日本最古の円墳「西山谷二号墳」。西山谷二号墳より古い可能性がある天河別(あまのかわわけ)神社一号墳など。

 市西部の街並みは急激な変容を遂げている。しかし多額の投資をしても手に入らない宝物が残っている。

 「個性ある街づくりが求められている。私たち地元住民が、行政の支援も得て街づくりに生かさないといけませんね」

 ふるさとを思う梅野さんの声が明るかった。(鳴門支局・尾野益大)

兵庫・山東町で国内最大級の豪族館跡

February 24, 2000

 兵庫県埋蔵文化財調査事務所は24日、古墳時代の大集落跡で知られる同県山東町大月の「柿坪遺跡」で、5世紀の豪族館としては国内最大級の建物跡が見つかった、と発表した。4面に庇(ひさし)を2重にめぐらせた入り母屋造り様になっており、専門家は「首長がまつりごとをつかさどった正殿やわき殿ではないか」とみている。

 北近畿豊岡自動車道の建設に伴い、昨年5月から発掘調査していた。5世紀中ごろから後半にかけての建物跡とみられる棟が7棟見つかった。最大の棟は縦が13.1メートル、横が15.4メートルで、床面積201平方メートル。同様式で国内最大の南郷安田遺跡(奈良県御所市)の豪族居館(267平方メートル)に次ぐ規模だという。

 そのほかの6棟は床面積が160―100平方メートル。うち4棟は四方に庇が付く構造だったとみられ、3対が同じ方位に建てられていたという。周囲の溝から滑石製玉類や馬の歯なども見つかった。

奈良の古墳群から玉類1万2千点、渡来系豪族埋葬か

2004/06/09 読売新聞 Yomiuri On-Line

 奈良県桜井市赤尾、赤尾崩谷古墳群(5世紀末―6世紀初め)で、首飾りや腕輪などの装身具に加工された青や緑色のガラスやコハク、銀など約1万2000点の玉類が出土し、同市教委が9日、発表した。

 副葬品から、朝鮮半島南部の渡来系豪族とみられる。中国に使いを送っていた「倭の五王」の時代にあたり、市教委は「初期渡来系豪族の実態を表し、高い技術力が大和王権に重用されていた様子を物語る資料」としている。

 古墳群は丘陵の尾根沿いで、1辺11―16メートルの方墳4基と直径12メートルの円墳1基。玉類はこのうち、4基から見つかった。

 最も北側の方墳では、木棺(長さ2・6メートル、幅0・6メートル)の中で、玉類が被葬者の首や手、耳に生前と同様の姿で身につけられていた。首飾りは、コハク製、銀の空(うつろ)玉製、ヒスイと水晶の玉をガラス玉の間にちりばめたものの3種類。

 また首付近では緑、空色、青色の3色のガラス玉をスパンコールのように布に縫いつけていたことも判明した。ガラス玉は銅やマンガン、コバルトなどさまざまな鉱物で着色され、高い技術の輸入品とみられる。このほか、鉄剣や鏡なども見つかった。

 古墳群の北には、倭の五王の「武」とされる雄略天皇の泊瀬朝倉宮の推定地があり、市教委は「有力地に古墳群を築ける地位を大和王権下で保っていた勢力。豪華な装飾品を作る技術力と知識が権力の源だったのだろう」としている。

 現地説明会は行わない。出土品は同市埋蔵文化財センターで開催中の夏季企画展で展示している。

 定森秀夫・徳島大助教授(朝鮮考古学)の話「土器や埋葬形態でみると、朝鮮半島南西部の馬韓とかかわりが深いのでは。馬韓で倭国と同型の前方後円墳が築かれた時代で、交流を双方向で検証できる非常に貴重な発見だ」

No.9-8-2 古墳時代後期

(西暦500年代半ば頃)

古墳説明会をライブ中継 10日に大阪大などが

2002年08月07日The Sankei Shimbun

 兵庫県川西市の勝福寺古墳(前方後円墳、6世紀初め)を調査していた大阪大は7日、独立行政法人通信総合研究所けいはんな情報通信融合研究センター(京都府精華町)と合同で、10日に実施する現地説明会を、インターネットで生中継すると発表した。

 同大考古学研究室の福永伸哉助教授は「古墳の現地説明会を中継するのはおそらく初めて。現地に来ることができない人にも興味を持ってもらえるのでは」と話している。

 現地説明会は、10日午前10時半から正午まで。発掘調査した古墳の前方部など計6カ所の様子をビデオカメラ2台で撮影、映像と音声を中継する。

 同研究室のホームページ(HP)から中継画面に進めば、10日から2カ月間は同じ映像と説明会の配布資料を見ることができる。

 同古墳はこれまでの調査で、後円部以外に2つの埋葬施設を持つ前方後円墳と判明し、7月から発掘。既に盗掘されていたが、300点以上の埴輪(はにわ)の破片などが出土した。

横穴式石室

 古墳時代後期に古墳の横に穴をうがって遺体を納める玄室へつながる通路に当たる羨道(せんどう)を造りつけた石積みの墓室のことをいう。

九州古墳文化の独自性 横穴式石室の始まり

2005年08月08日 古田史学会報No.69 生駒市 伊東義彰

南九州最古の横穴式石室 宮崎・百足塚古墳は6世紀前半

2004/08/19 The Sankei Shimbun

 宮崎県新富町教育委員会は19日、同町の百足塚古墳の横穴式石室が6世紀前半のもので、南九州で最古の可能性がある、と発表した。これまで6世紀後半のものが見つかっていた。南九州の代表的な政治勢力が畿内の中央政権と従来より古く、深いつながりがあったことをうかがわせる。

 新たに確認されたのは、古墳の外側から石室につながる「墓道」と、横穴式石室の入り口を石でふさぐ「閉塞(へいそく)部」。周辺から出土した土器などから6世紀前半に作られたと推定される。

 百足塚古墳は一ツ瀬川左岸に広がる祇園原古墳群内にある二段構造の前方後円墳。閉塞部は後円部の西側中腹にあり、両側に魔よけのためとみられる赤い焼土が盛られていた。堆積(たいせき)した土などから少なくとも2度は埋葬行為があったことも分かった。

 宮崎大学の柳沢一男教授(考古学)は「埴輪(はにわ)は今城塚古墳(大阪府高槻市)のものと似ている。中央政権と南九州とのつながりを知る上でも石室内部を知ることが重要だ」と話している。


虫のフンだった!…古墳石室の土粒、学者ら「まさか」

2005/03/28 読売新聞 Yomiuri On-Line

 古墳の横穴式石室を中心に各地の遺跡で出土し、五穀豊穣(ほうじょう)や子孫繁栄を願う儀式に、米の代用品として使われたと推測されてきた謎の土粒が、実はカブトムシかコガネムシの幼虫のフンだったことが28日、奈良県桜井市教委の調査でわかった。

 “遺物”として、詳細な分析を続けてきた考古学者らを驚かせたり、苦笑させたりしている。

 桜井市教委が6年前、同市倉橋のカタハラ1号墳(6世紀中ごろ)を発掘したところ、米に似た硬い土粒が横穴式石室の床面から大量に出土。1か月がかりで1949粒を数え、3〜8ミリの3種類の大きさに分類できることもわかった。

 ところが、他の研究者から「虫のフンに似ている」との指摘があり、同県橿原市昆虫館に鑑定を依頼。形や3種類の大きさなどが、2回脱皮して成長するコガネムシ科の幼虫のフンと一致することが判明した。石室は盗掘を受けるなどして開口しており、中に入り込んで、腐葉土などをえさにし、未消化の土が排せつされたらしい。

 同様の土粒は、約20年前から、遺跡で出土することが知られ、「米粒状土製品」「擬似米(ぎじまい)」と命名され、儀式の際にまいたと解釈されてきた。今回の成果で、これまで出土した「擬似米」の見直しも迫られそうだ。

 桜井市教委文化財課の橋本輝彦主任は「まさか昆虫のフンだったとは。これほど詳細なカブトムシのフンの研究は世界的にも例がないそうで、別の意味で貴重な学術データになってしまった」と複雑な表情を見せている。


清水V遺跡(原市)

総銀張りの馬具が出土

1999年12月14日 共同通信社

 奈良県明日香村の八釣(やつり)・東山古墳群にある八釣マキト1号墳(6世紀中ごろ)の横穴式石室から、総銀張りの「雲珠(うず)」と呼ばれる馬具の一部や、金の耳環など多彩な副葬品が見つかり、同村教委が14日発表した。

 古墳時代の副葬品の馬具は金色に装飾されるのが一般的で、総銀張りは極めて珍しいという。

奈良の四条遺跡から鳥形木製品出土 死者の魂を運んだ?

2000.10.31 asahi.com

 奈良県橿原市の四条遺跡(6世紀前半)の円墳から、鳥の形の木製品がほぼ完全な形で出土したと31日、奈良県立橿原考古学研究所が発表した。翼を広げた鳥形木製品は、古墳時代では3例目の発見だが、古墳で見つかったのは初めて。古墳の装飾や葬送儀礼のために使われた木の埴輪(はにわ)とみられている。

 鳥形木製品はコウヤマキ製で、直径約30メートルの円墳をめぐる周囲の溝で見つかった。体と翼の部分の2つの木片を組み合わせて作られ、体は長さ約90センチ、翼は約1メートル。体は、ややつぶれた頭と紡錘形の胴、扇形に開いた尾があるのが特徴だ。胴体に長方形の穴を開けて翼を差し込み、胴の中央部に四角い穴を開けて柄を通し、その柄を古墳の周囲に突き立てていたらしい。

 徳島文理大の石野博信教授(考古学)は「九州の壁画古墳には、鳥が魂を運んでいる様子を描いたものがある。鳥形木製品は、古墳の被葬者の魂をあの世へと運ぶ様子を表現したのだろう」と話している。

 四条遺跡は、後の藤原京(694―710)の造成で壊されたとみられる。9基の古墳があり、盾や笠(かさ)形などの木製品が多数見つかっている。

 鳥形木製品は、3日午前10時から午後4時半まで、橿原市畝傍町の橿原考古学研究所1階で展示される。

巨大石室を自由に見学 庄原の唐櫃古墳整備終わる

2004/08/20 中国新聞地域ニュース

 庄原市川西町にある広島県北最大の横穴式石室を持つ唐櫃(からびつ)古墳一帯の整備が終わり、被葬者の権力と財力を示す巨大な石室を自由に見学できるようになった。

 六世紀後半、古墳時代後期の前方後円墳で全長四十一メートル、最大幅二十九メートル。後円部にある石室は全長一三・一メートル。石室の奥の部分が棺を納める玄室で、長さ七メートル、高さ二・五メートル、幅二・四メートルの威容を誇る。

 市教委が二〇〇〇年から、丘陵の突端にある古墳と周辺の約一千平方メートルに芝生を張り、ふもとから約百メートル、幅一メートルの見学路を整備した。

 県史跡になった一九九三年の調査で、首飾りに使われる銀製の梔子(くちなし)形(がた)空玉(うつろだま)(長さ一・七センチ、直径一・六センチ)が出土。近畿圏以外で初めて、全国でも四例目として注目された。

 市教委生涯学習課は「空玉の出土と石室の規模から、畿内政権とのつながりが推測できる。立ち入り制限なく見学できる石室は県内では珍しいのでは」としている。

 空玉など主要な出土品は、市田園文化センターに展示している。

No.9-8-3 古墳時代終末期

(西暦7世紀中葉)=飛鳥時代

二子(ふたご)14号墳岡山県

飛鳥時代

[仏 教伝来(552年設)から平城遷都(710年)まで] -推古朝の聖徳太子・蘇我氏の時代-

 飛鳥に住んでいた渡来人を掌握していた豪族、蘇我氏が有力になると、飛鳥は、にわかに政治・文化の中心になった。

飛鳥人も湯浴び? 最古の鉄製湯釜出土 奈良・明日香村

2003/06/06 asahi.com

 飛鳥時代の川原寺(かわらでら)跡(奈良県明日香村、国史跡)で、湯浴びに使う湯釜とみられる鉄製の釜の鋳型が見つかったと6日、奈良文化財研究所が発表した。7世紀末のもので、鉄製品の鋳型としては国内最古の発見。湯に入るのは近世以降の習俗で、同研究所は、僧侶が湯釜を湯浴びかサウナのような蒸し風呂に利用したのではないかとみている。

 鋳型は銅や銀製品、瓦をつくっていた工房の南側の一角で見つかった。一辺2.8メートルの正方形の穴の跡があり、中央部から一部が出土した。鋳型は粘土製で、型のすき間に溶解炉で溶かした鉄を流し込む仕組みだった。

 釜は底を上にした逆さまの状態で製造し、鋳型の上半分を壊して抜き取る。今回は、湯釜を抜き取った後に残った鋳型の下半分が見つかった。鋳型から推定して口径は約85センチ、深さは数十センチとみられる。現存する湯釜では、和歌山県本宮町の熊野本宮大社が所蔵する1198年銘のものが最古という。

 9、10日(いずれも午前10時から午後3時まで)に現地見学会がある。

 <大脇潔・近畿大教授(歴史考古学)の話> 入浴は仏の功徳を得るため身を清浄に保つ意味があり、古代は湯につかるのではなく「湯浴び」だった。法隆寺の資財帳(奈良時代)に湯釜を意味する鉄釜の記載はあるが、8世紀以前は鋳型も見つかっていなかった。古代の鉄製品の造り方、鋳造技術を知る上で重要な発見だ。

     ◇

 <川原寺> 飛鳥時代の4大寺の一つ。天智天皇(在位668〜671年)が、実母の斉明天皇(在位655〜661年)の冥福を祈るため創建したとされる。二つの金堂と一つの塔を持つ壮大な伽藍(がらん)配置が特徴。

飛鳥時代の土仮面が出土 大阪・はさみ山遺跡

2003年08月16日 The Sankei Shimbun

 大阪府文化財センターが発掘調査している同府藤井寺市のはさみ山遺跡で16日までに、土を焼いて作った7世紀中ごろ(飛鳥時代)の仮面の一部が見つかった。

 周辺は当時、渡来系氏族の本拠地。賓客の接待や祝宴で朝鮮半島ゆかりの仮面舞踏を披露した可能性がある。宮廷の舞楽は朝鮮半島や中国の舞踏を吸収、整理して成立したとみられ、舞楽のルーツを探る貴重な資料になりそうだ。

 仮面は、整然と並んだ建物群跡の一画で出土。元は顔の前面を覆う形だったらしいが、右側の額からほおの部分だけが見つかった。幅約10センチ。

 目はくりぬかれ、耳の辺りにひもを通す穴があった。鼻根部が残っていたが、張り付けた鼻先はもげていた。かなり上質の粘土で焼かれていたが、彩色の跡はなかった。

 同センターは「舞楽面とするには彩色がないし、つくりがやや平面的。朝鮮半島ゆかりの舞踏仮面だった可能性もある。建物群の性格解明が進めば、面についても分かってくるだろう」としている。

 日本書紀などによると、一帯は4世紀から渡来系氏族の居住地となり、6世紀後半からは百済系の船氏や白猪氏らが本拠地とした。白猪氏は後に葛井(ふじい)氏と改名、葛井寺(藤井寺)を氏寺にしたとされる。

 古代の面の出土はまれだが、同遺跡に近い同府羽曳野市の野々上遺跡で6年前、平安時代前半(9世紀)の土製舞楽面の破片と、奈良時代前半(8世紀)の土の仮面が見つかっている。

 ■舞楽 奈良時代初めに整備された雅楽のうち舞を伴うもので、宮廷の儀式や寺院の行事などで演奏され、平安時代から盛んになった。唐楽や高麗楽、百済楽など、ルーツが中国や朝鮮半島のものが多い。日本書紀には、554年に百済が楽人を派遣したという記述がある。100曲以上あった演目のうち、約3分の1で面が使われたらしい。残っている面は奈良時代と推定されるものもあるが、実用・消耗品のためほとんどが平安時代以降のもの。

推古天皇と息子か 奈良県の植山古墳で巨大石室2基出土

2000.08.17 asahi.com

 奈良県橿原市の植山古墳から、飛鳥時代の豪族・蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(奈良県明日香村)に匹敵する巨大な横穴式石室が2基出土した、と橿原市教委が17日、発表した。築造時期や場所、規模からみて、聖徳太子(574―622年)のおばである推古天皇(554―628年)と、その息子の竹田皇子(生没年不明)の合葬墓である可能性が高いという。宮内庁指定の推古天皇陵は聖徳太子ゆかりの大阪府太子町にあるが、同天皇は死後、竹田皇子と一緒に橿原付近の古墳に葬られ、後に太子付近へ移葬されたとの記述が日本書紀と古事記にあり、これを裏付ける発見という。天皇陵は宮内庁が内部調査を認めておらず、天皇の墓の実態を知ることのできる極めて重要な資料という。

 植山古墳は東西約40メートル、南北は現存約27メートルの長方形墳。南側を入り口とする全長約17メートルの石室が、約8メートル離れて2基並んでいた。1つの墳丘に2基の石室を備えた「双室墳」は、推古朝前後の時期の特徴という。

 東側の石室は、その形や出土土器から6世紀末に築かれた竹田皇子の墓とみられる。玄室(げんしつ=棺を収める部屋)は幅約3メートル、長さ約6.5メートルあり、石舞台古墳の玄室(幅3.5メートル、長さ7.5メートル)に匹敵する規模だった。玄室の中央には、幅約1.5メートル、長さ約2.5メートル、高さ約1.7メートルの家形石棺があった。

 西側の石室は、やはり土器などから7世紀前半に造られたとみられ、推古天皇が葬られたらしい。玄室は幅約2.5メートル、長さ約5メートル。中に石棺はなかったが、その石材の一部が残っていた。石棺は後に運び出されたらしい。

 この石室には、玄室と羨道(せんどう=玄室と外部とをつなぐ通路)を仕切る扉がついていたことを示す「敷居石」が、床にあった。全長約2.5メートル、幅約1.3メートルの小判形で、直径約21センチのくぼみがあり、ここに扉の軸を差し込んで開閉したらしい。

 「日本書紀」には、竹田皇子が亡くなり、「大野岡」に墓が築かれた。その後亡くなった推古天皇は、生前の希望で、竹田皇子の墓に合葬された――との記述がある。「大野岡」の地名は残っていないが、ほかの文献から植山古墳付近とみられていた。「古事記」は、推古天皇の墓はその後、科長(しなが=現在の大阪府太子町付近)に移されたと記している。宮内庁は太子町にある、やはり長方形の山田高塚古墳(東西約63メートル、南北約55メートル)を推古天皇陵に指定している。

 26、27の両日(午前10時―午後4時)、近鉄橿原神宮前駅から南東約1キロの同古墳で現地説明会がある。

赤い“カーボン紙”で下描き キトラ古墳の壁画「白虎」

2006/05/18 The Sankei Shimbun東京朝刊から

≪「線」5本確認、当時の技明らかに≫

 キトラ古墳(奈良県明日香村)の極彩色壁画・白虎に、墨で描かれた輪郭線とは別に、下描きの赤い線が残っていたことが十七日までの、文化庁などの調査で分かった。壁画を描く際、赤く塗った紙をカーボン紙のように石室の壁に当て、その上からヘラのようなもので下絵の輪郭線をなぞっていたことが判明。高松塚壁画ではこうした線は見つかっておらず、当時の壁画技法を知る上で貴重な資料になりそうだ。

 白虎は、一昨年九月に古墳内の石室からはぎ取られ、奈良文化財研究所(奈良市)で修復保存が行われていた。その際の調査で、前足の付け根の毛を描いた部分に、赤い線が数センチにわたって五本ほど見つかった。斜めから光を当てるなどさらに詳しく調べたところ、赤い線はヘラによる下描きの刻線と一致していた。

 こうしたことから、白虎を描く際には、ベンガラなど赤色顔料を塗った紙を、石室の漆喰(しっくい)層に当て、その上に白虎の下絵をのせて、輪郭線をヘラなどでなぞると、漆喰層に赤い線が浮き出るという、一連の描写技法が明らかになった。

 これまで、南壁の「朱雀」、東壁の十二支像「寅」でもヘラによる刻線は見つかっていたが、赤い線は確認されていなかった。今回の発見で、赤いカーボン紙のような存在が初めて実証されることになった。

 さらに、白虎の赤い線は、墨で描かれた本描きの線とはずれていたことが判明。当時の絵師は下書きの赤い線にあまりこだわらず、自由に壁画を描いたとみられる。

 同時代の中国の壁画では、下絵の紙の輪郭線部分に小さな穴を開けて、その紙の上から赤い顔料を塗ることで、穴の開いた部分が壁に写され、それを下書きにした例が知られている。

 有賀祥隆・東北大名誉教授(美術史)の話「これまで推定されていた“カーボン紙”の存在が、実際に証明され、キトラ壁画は中国の技法で描かれた可能性がさらに高まった。赤い線はあくまで下描きなので、本来は残らないようにしたとみられるが、よく残っていたものだ。朱雀など、白虎以外の壁画も、紙に赤い色を塗って下描きをしたのだろう」

さび落としたら金の象眼 キトラ古墳出土の刀装具

2005年04月28日 asahi.com

 奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡)の石室から昨夏に出土した鉄製刀装具「帯執(おびとり)金具」に、純度90%以上の金で精密な象眼が施されていたことがわかった。

 文化庁と奈良文化財研究所が27日、発表した。帯執金具は刀を腰に下げるひもを通すため鞘(さや)に取り付けるもの。さびを落として磨いたところ、金象眼が現れた。

 横39ミリ、縦17ミリ、幅10ミリの環状の金具の表面には、金象眼されたS字文様が2列に計28個連なり、側面に線文様もある。国内で類例のない豪華な文様という。

キトラ古墳被葬者は50代男性か 文化庁

2005/03/10 The Sankei Shimbun

 奈良県明日香村にあるキトラ古墳(特別史跡、7世紀末−8世紀初め)の石室で出土した骨や歯の鑑定結果から、被葬者は50代のがっちりした体格の男性とみられることが分かり、文化庁などが10日発表した。

 1983年に北壁の「四神図」玄武が発見されて以来、性別など被葬者に直接つながる手掛かりが得られたのは初めて。 有力候補だった弓削皇子は死亡時に20代で対象外、右大臣阿倍御主人は69歳で一歩後退。天武天皇の10人の皇子や有力豪族、百済の亡命王族を中心に、被葬者論争は大きく展開しそうだ。

 鑑定されたのは、最大約4センチ四方の人骨片約100点と歯23本。歯の形が似ており、1人分とみられる。骨はいずれも細かい破片で、盗掘時にふみつぶされたらしい。頭蓋(ずがい)骨の10−20%とすねの一部が確認された。

 死亡時の年齢は、歯の状態からみて40−60歳で、50代の可能性が最も高いという。昨年7月の中間報告では「性別不明、40代以上で50−60代の可能性が高い」とされていた。

 虫歯が3、4本あったものの、歯槽膿漏(のうろう)のあとはみられなかった。部分的に深くすり減っており、何か細長いものをかむ癖があったようだ。エナメル質の状態から、幼少時にはやり病のような急性の病気をしたらしいことも分かった。

 片山一道京都大教授(骨考古学)は「一つ一つの歯が大きく、骨に厚みがある。がっちりした体格の頑丈な男性だったのでは」と話している。

 現段階で身長、体重の推定や復顔は難しいが、血液型は今後の調査で判明する見込み。

 頭蓋骨に厚みがあり、耳の後ろにある突起がごつごつしていることなどから、男性と判断した。

 高松塚古墳の被葬者は40−50代の男性とされ、キトラ古墳の男性の方が少し長生きしたらしい。

 昨年の発掘調査で確認された人骨片や歯は計十数点だったが、その後、石室内で採取した土砂をより分けて、細かい骨片などを取り出した。

 また装身具だったらしい色とりどりのガラス玉(直径3−4ミリ)やこはく玉、大刀飾りの一部とみられる銀製金具を確認。金ぱく片や、ほかの古墳では例のない白いガラス粒(直径1ミリ)約150点も見つかった。(共同)

 <キトラ古墳> 奈良県明日香村にある終末期古墳で、直径約14メートルの小型円墳。1983年に調査が始まり、朱雀(すざく)や玄武の四神図と獣頭人身の十二支図、天文図を確認した。石室内部からは被葬者らしき人骨や木棺金具、副葬品のこはく玉や大刀飾りが見つかった。壁画は傷みが激しく、はぎ取って保存・修復する古墳壁画では日本で初めての作業が進行中。(共同)

白虎の胴体はぎ取りに成功…キトラ古墳壁画保存作業

2004/09/07 読売新聞 Yomiuri On-Line

 奈良県明日香村の国特別史跡、キトラ古墳(7世紀末―8世紀初め)の壁画保存作業で、文化庁は7日、西壁に描かれた白虎の胴体部分のはぎ取りに成功したと発表した。これで、はぎ取られた壁画は東壁の青龍や余白部分など計10点となった。

 白虎については当初、壁面から浮き上がっている胴体部分と、まだ密着している前脚部分とを一体ではぎ取る方針だった。しかし、前脚部分の漆喰(しっくい)がもろくなっていることが新たに判明。同時にはがすのは危険と判断され、急きょ、分割してはがされることになった。前脚部分は、樹脂で強化した上で10月上旬にもはぎ取りが行われ、石室内での緊急処置はすべて完了する。

 キトラ古墳壁画の包括的な保存方針については、今月14日に開かれる「同古墳の保存・活用等に関する対策調査研究委員会」で議論される予定。これまでの作業を通じて、漆喰の劣化がさらに進んだことから、全面はぎ取りも含め、思い切った判断が下されることも予想される。しかし、今回の分割はぎ取りについては、「壁画の美術的価値を損なう」などの異論もあり、激しい論議となりそうだ。

 白虎は縦約25センチ、横約40センチ。胴体部分と前脚部分の間に入っている微細な亀裂を、針で追いながら慎重に切断、浮いていた胴体部分を中心に約45センチ四方の大きさで取り外した。

青竜や戌を修復施設へ 奈良・キトラ古墳

2004/08/17 The Sankei Shimbun

 奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡、7世紀末−8世紀初め)石室の壁面からはぎ取った4神図の青竜など極彩色壁画を修復するため、文化庁などは17日、壁画を保存している同古墳の保護施設から奈良文化財研究所(奈良市)へ運び出した。

 青竜図のほか十二支図の戌(いぬ)や、卯(う、ウサギ)が描かれたと推定される部分で、同研究所の大型冷蔵庫で保管する。9月上旬に西壁の白虎をはがし、文化庁の調査研究委員会で保存・修復方針が決定した後、本格的な修復作業を始める。

 この日は、揺れても壁画に衝撃を与えないように荷台を工夫したトラックを、美術品輸送の専門業者が保護施設前に横付け。湿度100%の状態を保つため通気性のない袋に入れた壁画を、修復担当者がトレーに載せてトラックに運搬。

キトラ壁画はぎ取り作業開始、初の試み

2004/08/02 読売新聞 Yomiuri On-Line

 はく落の危機に直面している奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末―8世紀初め)の壁画のはぎ取り作業が、2日始まった。

 獣頭人身の十二支像「戌(いぬ)」と「亥(い)」を手始めに、四神の青龍、白虎の計4図像を約1か月かけて取り外し、石室外へ運び出す。わが国の文化財保存修復史上初めての試みで、高湿度で狭い石室内での作業やはぎ取り後の管理法など、保存科学の技術開発を進める試金石となる。

 この日は、白虎の右上の余白部に固着材を染み込ませたレーヨン紙で「表打ち」を行った。きょう3日、この部分をはぎ取る。問題がなければ、各図像にも表打ちを施し、壁の亀裂沿いに漆喰(しっくい)ごとはぎ取って、板に載せて搬出。補強剤で「裏打ち」し、冷蔵庫に保管する。

 漆喰は石室全体の30%以上がはがれており、はぎ取りが行われる4図像も剥落(はくらく)寸前。高松塚古墳壁画(明日香村)のカビや退色の進行で現地保存の限界も指摘され、キトラ古墳壁画のはぎ取りが決まった経緯がある。

 東京文化財研究所と民間の修復技術者計3人で行う作業は、困難が予想されるが、東文研の川野辺渉・修復材料研究室長は「できることはすべて準備した」と自信を見せた。

青竜、白虎のはぎ取り決定 キトラ古墳で調査研究委

2004/07/12 中国新聞ニュース

 奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡、七世紀末―八世紀初め)は四神図の青竜、白虎以外に十二支図や天文図の一部もはく離していることが十二日、明らかになった。保存活用を検討する文化庁の調査研究委員会で作業部会が報告。それぞれはく落の危険性が高い部分をはぎ取り、石室の外で修復する方針を提案、了承された。

 国内の古墳で初の修復方法。調査委では、石室で出土した人骨や歯の鑑定から、被葬者が四十歳以上で五十〜六十代の可能性が高いことなども報告された。

 作業部会によると、青竜は顔料を塗ったしっくいが幅四十〜四十五センチの範囲で最大三・五センチ石壁から浮き、白虎も前脚を除き完全にはく離。西壁の十二支像も全面がはく離していた。作業部会は「このままでは壁画が失われる」として、しっくいの表面を樹脂で強化してからはぎ取る方法を説明した。

 高松塚古墳(明日香村)で壁画の劣化が明らかになっており、委員から石室ごと解体して保存する意見も。作業部会は「現実的ではない」としたが「はぎ取りなどは実験を重ねてからにすべきではないか」とする慎重意見が強く、はぎ取る範囲を確認するなどした上で、認められた。

 人骨は詳しい分析がまだで、性別などは分からないが、同じ人物の頭の骨約十点と歯四点で、歯の減り具合から年齢を推定した。

 デジタル画像の解析から、天井の天文図に六十八の星座と約三百五十の星を確認したことなども報告された。

 キトラ古墳は石室内部の発掘が既に終了。あらためて撮影などを行い、八月中に修復作業を始める見通し。

キトラ古墳:「出土品は高松塚と共通」 文化庁、発掘終了

毎日新聞 2004年07月10日 Mainichi INTERACTIVE

 文化庁は9日、奈良県明日香村の特別史跡・キトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)の石室内の発掘が終了したと発表した。6月下旬に見つかった鉄製品がX線撮影で大刀の装具だったとみられることが判明。新たに、棺に取り付けられた金銅製飾り金具なども確認された。約1カ月にわたる調査の成果について、文化庁は「出土品の全体の構成は高松塚古墳(同時期)と共通している」との見解を示した。

 大刀の装具は環状で側面にS字形の金象嵌(ぞうがん)が帯状に2列並んでいた。さやに取り付け、布を通して腰から下げた「帯執(おびとり金具」らしいという。白石太一郎・奈良大教授(考古学)は「正倉院宝物と似ている高松塚の銀装大刀とは(様式が違う。鉄地に金象嵌という手法から高松塚より一段階古いものではないか」と指摘。象嵌に詳しい西山要一・奈良大教授(保存科学)は「帯執金具のような部品に象嵌が施されており珍しい。金に見えたぐらい全体に細かい仕事が施されていただろう」と話している。

 一方、金銅製飾り金具は唐草文様の一種のハート形の「忍冬(にんどう)文」を三つ組み合わせており、直径7.5センチ。ほかに棺の内側に取り付けた銅製金具3点、漆塗り木棺の断片とみられる漆片多数なども見つかった。

 今後は石室内を詳細に写真撮影し、壁画の本格的な修復作業に移行。12日の調査研究委の会合で方針を決める。【中本泰代、最上聡】

キトラ古墳石室で人骨と歯見つかる

2004/06/18 The Sankei Shimbun

 極彩色の壁画で知られる奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡、7世紀末−8世紀初め)石室で、被葬者とみられる人骨と歯計10点、木棺の一部とみられる金具1点が見つかり文化庁が18日発表した。

 キトラ古墳の被葬者は天武天皇の皇子や渡来系氏族など諸説があるが、出土した骨などから性別や年齢も推定可能。絞り込む重要な手掛かりになりそうだ。

 高松塚古墳(同村)の被葬者は骨と歯から成年男性と判明している。文化財研究所(奈良市)などの調査チームは「丁寧に洗って鑑定すればいろいろな情報が分かるだろう」としている。

 人骨は頭部とみられ計7片確認した。最大で3−4センチ四方あり、あご部分の一片に歯が1本付いているなど、歯は計4本見つかった。

 金具(直径3.7センチ)は6枚の花弁を持つ花形銅製品。土で覆われているが、エックス線撮影し3カ所に直径2ミリの穴があり、銅製のくぎが1本通っていると分かった。

 築造時期や構造が共通する高松塚古墳やマルコ山古墳(同)出土の金具と似ており、調査チームは「高松塚と同タイプの漆塗り木棺内部に付けたくぎ隠しだろう」としている。

 6月10日に始まった石室内部の発掘は、四分の一の北側約0.5平方メートルを終了。木棺片とみられる大小の黒い漆片が全体に広がっていた。

 床面は高松塚と同じでしっくいを塗り込めてあり、床を埋めた土に残る赤い部分は、木棺に塗った水銀朱と判明した。木棺片は折り重なるように堆積(たいせき)しており、石室は何度も木棺片が動くほど水が入ったとみられる。

 土は北側で深さ約5センチ、南側は30−40センチあった。調査チームは、高松塚で出土した鏡や銀装大刀(たち)など副葬品の出土も期待できるとしている。

キトラ古墳:壁画自体に白カビ 発掘作業を中断して処置へ

毎日新聞 2004年6月15日 Mainichi INTERACTIVE

 奈良県明日香村の特別史跡・キトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)で15日、石室内に描かれた四神の朱雀や白虎、獣頭人身像の寅(とら)の壁画自体にカビが生えているのが見つかった。文化庁によると、最大5ミリ程度の白いカビを、四方の壁全面の数十カ所で確認。絵画部分でカビが見つかったのは初めて。放置すれば広がるため、事態を重視した文化庁は発掘作業を中断して処置にあたる。

 文化庁によると、同日の発掘作業中、石室の北西角の壁と流入土の間でカビを発見。金網で保護した天井を除く石室内全体を点検したところ、全面に広がっていることが分かった。絵画部分では、朱雀(南壁)の尾羽から翼にかけて数カ所▽白虎(西壁)の鼻先やあごなど2、3カ所▽寅像(東壁)の衣服の上3、4カ所−−で確認した。

 このため、10日から行っていた床面調査のための発掘作業を中断。通常のカビ処置では絵画部分に影響を及ぼす恐れがあるため、16日に、現地を訪れる東京文化財研究所の専門家を交え対策を検討する。

 石室内では今年3月にも、西壁や南壁で、壁の表面に流れた土の上に白や緑のカビが生えているのが見つかり、除去のため、盗掘坑から初めて人間が入った。しかし、カビはその後も断続的に発生し、アルコールを含ませたガーゼで覆って成長を抑える処置を行っていた。主に土の上での発生にとどまっており、文化庁は「発生場所は広がっていない」としていた。盗掘坑を開け、人が入って処置したり、外気が入ったことによるカビ発生の可能性も指摘されている。【中本泰代】

壁画は1センチ浮き波打つ状態 キトラ古墳

2004/05/18 The Sankei Shimbun

 奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡、7世紀末−8世紀初め)の調査で文化庁は18日、東壁に描かれた4神の青竜図部分で、しっくいが最大約1センチ浮き上がり、表面が波打つようになっているなど、全体的にはがれ落ちそうな状態になっていると発表した。

 また石室中央で、床面を埋めた土の中から5センチ四方の漆片を見つけたことも明らかにした。関係者は、漆塗り木棺の一部が石室に残っている可能性が強いとしている。

 いずれも文化財研究所(奈良市)を中心とする調査チームの担当者が、石室に入り確認した。

 調査チームは、壁画の状態は極めて悪く、早急に応急処置が必要とみている。28日に作業部会を開き、応急処置や発掘の方法を検討。はく落の危険性が高い部分を中心に和紙を張るなど一時的な保存処理をし、6月中旬にも石室の発掘を始める方針。

奈良・キトラ古墳 1月下旬から墓道を発掘

2003年12月24日 The Sankei Shimbun
 

> 四神図などの壁画で知られる奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡、7世紀末−8世紀初め)の保存活用策を検討する文化庁の調査研究委員会(座長・藤本強国学院大教授)は24日、石室へ通じる墓道の発掘調査を来年1月26日に始めることを決めた。

 同古墳の壁画は、はく落の危険があり、保存処理をする施設が今年8月に完成。当初は9月から墓道を発掘する予定だったが、墳丘の墓道部分にカビが見つかり、作業が中断していた。

 壁画がある石室は石壁で囲まれ、南側にある盗掘坑から入る方法を検討。外部から南側の壁へ通じる墓道を発掘し、盗掘坑の形状を調べる。

 計画によると、既に設置したパイプから小型カメラを入れ、石室内の様子を撮影してから発掘。南側の壁に開けられた盗掘坑まで掘り、石室内部を直接確認する。

 外気が入るのを防ぐため、石室内部の撮影は控えており、最近の状況は不明。盗掘坑の大きさや形を調べ、3月下旬には墓道の発掘を終える。

 調査結果をもとに、石室へ入る方法や作業手順を検討。早ければ来年夏前にも石室の本格的な発掘調査に着手する見通し。

キトラ古墳の土のう崩れる 大雨の影響

2003年08月16日 The Sankei Shimbun

 極彩色の壁画で知られる奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡、7世紀末−8世紀初め)で、墳丘を保護するために積んでいた土のう数百袋が崩れたことが16日、分かった。

 奈良文化財研究所によると15日午前、古墳西側の土のうや土砂が幅約4メートル、高さ約7メートルにわたって崩れているのが見つかった。14日から降り続いた雨の影響とみられる。墳丘の崩壊や石室内の温度変化などはなく、壁画に影響はないという。18日から復旧作業を始める。

 同古墳は4日、保護施設が完成。空調設備などの試運転をしながら、石室内の温度や湿度を常時観測している。土のうは施設を建設する際に積んでいた。

<奈良>キトラ古墳を特別史跡指定

2000年11月17日[朝日放送]

 「卑弥呼の鏡」とも言われる三角縁神獣鏡が大量に出土した奈良県天理市の黒塚古墳が、国の史跡に指定されることが決まりました。

 黒塚古墳はおととし1月、石室の周りから「卑弥呼の鏡」とも言われる33面の三角縁神獣鏡が木の棺を取り巻くように見つかりました。

 3世紀末ごろに築かれたと見られるこの古墳は、鏡のほか武器など副葬品が豊富で、古墳時代を考える上で貴重だとして今回の指定となりました。

 また、石室に描かれた世界最古の天文図や四神図がカメラで確認され、去年史跡に指定された奈良県明日香村のキトラ古墳が、建造物などでは国宝にあたる特別史跡に昇格することも合わせて決まりました。

国に史跡指定を申請

1999年08月31日 共同通信社

石室内で極彩色の四神図や東アジア最古の天文図が見つかった奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀後半〜8世紀初め)について、同村は31日までに、文化庁に史跡指定を申請した。


高松塚、石室解体を決定 壁画劣化で文化庁検討会

2005/06/27 The Sankei Shimbun

 極彩色壁画(国宝)の劣化が進む奈良県明日香村の高松塚古墳(特別史跡、7世紀末―8世紀初め)をめぐり、文化庁の「国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会」(座長・渡辺明義(わたなべ・あきよし)元文化財研究所理事長)は27日、東京都内で会合を開き、石室を解体して取り出し、墳丘外で修復する方針を正式決定した。

 1972年の壁画発見以来、文化庁が貫いてきた文化財の現地保存主義を転換する結論。同古墳を管理してきた文化庁の責任が問われそうだ。

 壁画はこれまで保存を最優先とするため原則非公開だったが、修復・保存処理後、現地で石室を復元し公開する可能性もあるという。

 この日は、作業部会が石室の実寸大模型を使った解体実験の結果などを報告。美術や考古学、土木工学の専門家らが壁画の現状や解体工事の安全性などを検討、「石室解体もやむを得ない」との結論に至った。

 5月11日の会合で、作業部会が「現状ではカビ発生や壁画の劣化を止められない」として、石室解体を壁画保存の最有力案として提案。容認する意見が多数を占めたものの慎重意見もあり、同検討会は「国民的合意を待ちたい」として結論を先送りしていた。

 高松塚古墳がある奈良県明日香村では、村のシンボルでもある同古墳の石室解体が決まった27日、憤りや戸惑いの声が相次いだ。

 「非常に残念」。前明日香郵便局長の勝川喜昭(かつかわ・きしょう)さん(67)は、1972年に極彩色壁画が発見された時の喜びと興奮をよく覚えている。寄付金付きの記念切手が発売され、同郵便局は大忙しに。売り上げはレプリカを展示する「壁画館」の建設費になった。

 「本物は30年間、安全に保存されていると信じていた。なぜもっと早く管理と科学的な議論に力を入れなかったのか」。悔しさが込み上げる。

 長男で現局長の勝川喜仙(かつかわ・きせん)さん(36)は「誰も実物を見ないまま、村から運び出されるのは納得できない」。同郵便局の日付印は高松塚壁画の女子群像がモチーフだが、「全国的な人気のこの図柄も有名無実になるのでは」と心配する。

 村おこしに取り組んでいる製材所経営の谷上英生(たにうえ・ひでお)さん(43)も「寂しい限りです。石室がなくなるのは大変なイメージダウン」とため息をつく。谷上さんらは手作りのあんどんで村の道路や軒先を飾る活動をしているが、その側面にも女子群像が描かれている。

 明日香村でレンタサイクルと土産物屋を営む男性(54)は「『壁画が昔ここにありました』では説得力がない。将来、本物の石室や壁画がこの明日香村で見られるよう、文化庁は是非現地で公開してほしい」と訴えた。(共同)

高松塚古墳、石室解体へ 壁画取り出し墳丘外で保存

2005/04/19 中国新聞ニュース

 極彩色壁画(国宝)の劣化が進む奈良県明日香村の高松塚古墳(特別史跡、七世紀末―八世紀初め)をめぐり、文化庁の同古墳保存対策検討会は十九日作業部会を開き、石室を解体して壁の石ごと壁画を取り出し、修復・保存する方向で一致した。五月に開かれる検討会で正式提案する。

 壁画保存を最優先し解体を容認する意見でまとまったものの、解体作業によって石壁が崩れたり壁画を傷める可能性もあり、検討会では賛否が分かれそうだ。

 石室は板状の凝灰岩計十五枚を組み合わせたつくりで、高さ、幅が各約一メートル、奥行き約二・六メートル。まず墳丘上部を削って天文図が描かれた天井石四枚を取り外し、残りの盛り土を除去して女子群像などの壁画がある東西南北の側壁を運び出す見込み。検討会で石室解体が正式決定した後、具体的な手順や壁画の保存場所などを詰める。

 作業部会は当初、(1)現状のまま保存(2)墳丘ごと新しい保護施設で覆う(3)石室のみ保護施設で覆うC壁画をはぎ取るD石室解体―の五つの保存方法を検討。カビ抑止や壁画の劣化防止などの観点から検討を重ねた。

 その結果、石室内の温度、湿度を管理してもカビ発生を抑えることができず、カビの除去作業が半永久的に続くと予想されることから、石室に壁画を残す(1)〜(3)の案をほぼ断念した。

 さらにキトラ古墳(同村)と比べ、絵の下地になっているしっくいが細かくひび割れている上、過去の保存修理で一部を合成樹脂で固めていることから、はぎ取りも不可能と判断。文化財の現地保存主義を転換し、石室解体もやむを得ないとの意見が大勢を占めた。

高松塚の白虎像が著しく劣化、文化庁が積極対策講じず

2004/06/21 読売新聞 Yomiuri On-Line

 奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末―8世紀初め)の石室内に描かれている国宝壁画のうち「白虎」像が、1972年の発見当時より著しく劣化が進んでいることが、今月刊行された文化庁監修「国宝 高松塚古墳壁画」(中央公論美術出版)に掲載された高精度のデジタル画像で明らかになった。

 劣化は87年に刊行された保存修理の報告書でもすでに確認されていたにもかかわらず、特別な対策を講じないままでいた文化庁の保存・管理体制のあり方が厳しく問われそうだ。

 撮影は文化庁から委託を受けた東京文化財研究所が、一昨年9月から昨年4月にかけて行った。白虎(縦約25センチ、横約50センチ)は石室西壁の中央に描かれており、頭から首にかけての輪郭が消えかかっていたほか、顔の表情やたてがみなどの描線がかなり薄れていた。また、唇や前脚のつめに塗られた朱色も退色したり、黒く変色したりしていた。「飛鳥美人」として知られる女子群像など、その他の図像は、ほぼ発見時の状態が維持されているとみられるが、今後詳細な分析を進める。

 文化庁は壁画の発見後間もなく、現地での恒久的保存の方針を決定。石室内を外気から完全に遮断し、温度や湿度を厳重に管理する保存施設を74年に設置した。壁面に塗られた漆喰(しっくい)の剥落(はくらく)を防止するための保存修理も87年までに終了、以後は年1回、春に目視などによる定期点検を行うにとどまってきた。

 文化庁美術学芸課の林温(おん)主任文化財調査官は「白虎が劣化しているのは事実。輪郭が、墨とは異なる退色しやすい材料が使われているからかもしれない。今回のデジタル撮影で事態の深刻さは認識したので、今後は点検強化や修理方法の改善など、抜本的な管理体制の見直しを図りたい」と話している。

高松塚古墳壁面に黒カビ 文化庁が緊急対策

2003年03月12日 The Sankei Shimbun

 文化庁は12日、極彩色の壁画で知られる国宝・高松塚古墳(奈良県明日香村)の壁面に、昨年秋、完全に除去するのが困難な黒カビが発生していたと発表した。被害は絵画部分には及んでいないが、絵画の真下までカビで黒くなっているところもあった。

 文化庁は「壁画のカビの活動は現在、抑えられているが空気中の菌が壁に付着して、再度、発生する恐れもある」として、専門家らによる緊急保存対策検討会を設置することを決めた。初会合は、18日に東京都内で開く。同検討会は25日に現地調査を行い、遅くとも7月上旬に緊急の保存対策に着手する予定。

 高松塚古墳は7世紀末から8世紀初めに築かれた。1972年に発見されて以来、湿度100%の状態で完全密閉されている。発見時から対策が取りやすい青カビや白カビの発生があり、その都度、殺菌をするなど最小限の処置はしてきたという。

 しかし、昨年10月の点検時に黒カビの発生が確認された。黒カビは、石室の東側と西側の計3カ所で発生。一番大きいのが縦約3センチ、横約4センチだった。

 点検時に、石室内にムカデなどの虫が大量に侵入していることも分かった。文化庁は、古墳を取り巻く環境が何らかの要因で変化した可能性があり、従来の処置の仕方では対応できなくなる恐れがあるとして、早急に新たな対策を取る必要があると判断した。

 検討会ではこれまで、はく落止めなど必要最小限の修復にとどめ、原状保存を前提としてきた壁画についても、発見後30年以上たっていることから、色があせないような修理方法を検討する。

高松塚古墳の壁画で新事実 白色顔料は鉛白

September 12, 1999

 奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末―8世紀初め)の壁画の彩色に用いられた顔料のうち、これまで材質のわかっていなかった白色の顔料が、鉛から作られた鉛白(塩基性炭酸鉛)であることが、壁画発見から27年ぶりにわかった。奈良国立文化財研究所の分析で確認されたもので、鉛白は壁画だけでなく、壁面全体に塗られていた可能性が大きいという。ギリシャ、ローマ、中国などでは紀元前から知られていた顔料だが、日本で使われた例としては最も古い部類といい、古代の壁画手法を知るうえで貴重な発見という。

 高松塚古墳総合学術調査会の報告書(1973年)によると、石室の壁面には、内壁材として純度の高い漆喰(しっくい)が3―7ミリの厚さで塗り込められ、その上に極彩色の壁画が描かれていた。

 男女の群像や方位の守護神である青竜、白虎(びゃっこ)、玄武などに、赤、黄、緑、青など16色の使用が確認され、その顔料も朱、緑青、墨などとほぼ特定できた。しかし、人物の肌や白虎の体などを描くのに使われた白色顔料の種類はわかっていなかった。

 同研究所の沢田正昭・埋蔵文化財センター長(保存科学)が、保管されていた漆喰の試料の断片(約4ミリ四方、厚さ約1ミリ)をX線回折法で分析した結果、漆喰の主成分である炭酸カルシウムのほかに鉛白と石英が含まれていることを確認。さらに調べたところ、表面に塗られた鉛白が漆喰に染み込んだ状態であることもわかったという。


亀形石わきから「井戸」?出土 奈良・明日香村

May 24, 2000 asahi.com

 今年2月に奈良県明日香村で見つかった亀形石(飛鳥時代)の周辺を調査していた同村教委は、亀形石の南側約4メートルのところで、わき水をためて流す石組みの導水施設が出土したと24日、発表した。同村教委は亀形石へ水を流していた可能性が高いとみている。

 導水施設は、地面を南北約1.8メートル、東西約2.4メートル、深さ約1.3メートルに掘り、砂岩の切り石を煉瓦(れんが)のように積み上げて築かれていた。中央部には、高さ約1.3メートル、縦、横各約80センチの直方体の導水装置(内部の縦、横各約30センチ)があった。この装置には水をろ過する機能もあり、最上部にはふたがしてあった。

 付近では今も水がこんこんとわき出ており、このわき水がいったん導水施設全体にたまり、導水装置の水位が一定量を超えると流れ出す構造になっていたという。

「亀形石」に古代史ファン続々 奈良・明日香村で説明会

February 26, 2000

亀の形をした石の水槽や石段などを備えた飛鳥時代の流水、石造施設が出土した奈良県明日香村で26日、現地説明会が開かれ、早朝から多くの考古学ファンが詰めかけた。見学者は午後1時までに約5000人にのぼり、村の観光開発公社が急きょ、亀形石のテレホンカードと絵はがきを作って現地で販売するなど、飛鳥の里は永い眠りから覚めた「亀」にわき立っている。

村観光開発公社は現場近くにテントを設営し、亀形石のテレホンカード(1000円)500枚と、亀形石や石垣などを撮影した4枚1組の絵はがき(200円)2000セットを販売した。飛ぶような売れ行きで、同公社の福井治男常務理事は「亀形石をモチーフにした花器や小型のレプリカもつくりたい」と声をはずませた。

日本考古学協会など15団体でつくる「飛鳥池遺跡を考える会」の会員らは、この遺構や、日本最初の通貨とされる「富本銭(ふほんせん)」などが出土したものの県が博物館「万葉ミュージアム」の建設を続けている飛鳥池遺跡の保存を求める署名を遺構の周辺で呼びかけた。

現地説明会は27日も午前10時から午後3時まで開かれる。

古代のロマンに酔うファン

2000年02月26日

斉明朝(7世紀半ば)とみられる石敷き広場や亀形の石造物などが出土した奈良県明日香村の酒船石遺跡で26日午前、村教委主催の現地説明会が始まり、多数の考古学ファンや観光客が古代のロマンに酔いしれた。

曇り空で厳しく冷え込んだ中、午前9時には、300人以上が集まったため、説明会は予定より1時間繰り上げて始まった。見学者は最初の1時間だけで1000人を超えた。

奈良県明日香村で日本最古の流水遺構が出土

February 22, 2000

 亀の形をした精巧な石の水槽や、石段などを備えた日本最古の流水、石造施設遺構(飛鳥時代)が奈良県明日香村岡で出土し、同村教委が22日、発表した。斉明天皇(在位655―661年)の時代の施設とみられ、酒を造るための設備とされ「酒船石」と呼ばれてきた近くの“なぞの石造物”から水を引いていた可能性が高いという。祭祀(さいし)の場だったのか、庭園だったのかなど専門家の間でも意見が分かれている。昨年6月に約500メートル西で、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)の庭園とされる「飛鳥京庭園跡」が出土したが、今回の遺構は様式が異なるうえ、より古いという研究者もいる。飛鳥時代の宮廷文化を知るうえで極めて貴重な発見という。

 奈良県が日本最初の通貨とされる「富本銭(ふほんせん)」が出土した飛鳥池遺跡を埋め立ててつくる博物館「万葉ミュージアム」のための村道工事で見つかった。斉明天皇の時代、後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)の離宮だった両槻宮(ふたつきのみや)の施設とみられる。

 これまでに分かっている遺構は東西約35メートル、南北約20メートル。中心部とみられる平たん部は約12メートル四方で、人頭大の石が敷き詰められ、その南端に、亀形の水槽と、その頭に接するように小判形の石の水槽がみつかった。亀形石は全長約2.4メートル。花こう岩の一枚岩をくりぬいた直径約1.6メートル、深さ約20センチの円形水槽に、南を向いた亀の頭と4本の脚、尾がある。亀の鼻と尾に溝があり、尾の先から、長さ約10メートル、幅約50センチ、深さ約50センチの水路が北北西へ延びていた。

 この水路を反対の南南東へ約75メートル延ばすと、南側の高台の「酒船石」とぶつかった。平らな表面に幾筋もの溝やくぼみのある花こう岩で、長さ約5.3メートル、幅約2.3メートル。江戸時代以降、酒造りの設備では、などと用途について様々な憶測を呼んできた。

 しかし今回の発見で、酒船石の溝から流した水を溝やといなどで引いて小判形の水槽にため、さらに亀の鼻から流して甲羅の部分で受け、さらに尾から流した可能性が高まった。

日本で最初の宮殿苑池か

1999年06月14日 共同通信社

 奈良県明日香村の飛鳥京跡で大規模な石敷きの池跡が見つかり、県立橿原考古学研究所は14日、『飛鳥時代の7世紀後半には完成していた日本で最初の本格的な宮殿付属の苑池(えんち)=池を伴った庭園=とみられる』と発表した。池は直線と曲線を組み合わせた形とみられ、全体の広さは5000平方メートルを超す可能性があるという。出島や中島らしい石積みなども見つかり、同研究所は、天武朝の浄御原宮の付属庭園だったのではないかとしている。

そっくり亀形 壱岐の金銅製飾り金具と明日香の石製水槽

March 05, 2000

 奈良県明日香村で先月公開された飛鳥時代の亀形の石製水槽と、長崎県・壱岐の古墳(6世紀終末から7世紀初頭)で見つかっていた亀形の金銅製飾り金具が、そっくりな形をしていることがわかり、研究者らは大和朝廷や大陸と壱岐との深いつながりを示すものとして注目している。

 亀形飾り金具は壱岐を治めた首長の墓とされる笹塚古墳(勝本町)から1989年に出土、町で保管している。長さ7.7センチで、甲羅に渦巻き文を施し、羽のような手足を持つ。馬具ともベルトの飾りともいわれるが、国内のみならず朝鮮半島や中国にも類例がないため、用途は不明だ。

 亀形の石製水槽は、斉明朝(7世紀中ごろ)の祭祀(さいし)施設とみられている。中国の神仙思想に説かれる不老不死の仙人が住む蓬莱山を支えた大亀に通じるとされる。当時、亀をモチーフにした意匠は極めて少なく、貴重だとされる。

 類似を指摘する九州大の西谷正教授は「上から見た姿がよく似ている。笹塚古墳からは奈良・藤ノ木古墳の副葬品に共通するようなすばらしい馬具が見つかった。亀形の飾り金具も大和政権から贈られたと考えられ、強い結びつきを示すものだ。当時の神仙思想が様々に現れたものだろう」という。


推古女帝「小墾田宮」跡か 明日香村・石神遺跡

2006/04/27 The Sankei Shimbun

 古代の迎賓館があったとされる奈良県明日香村の石神遺跡で、7世紀前半の石組み溝やくいの列が新たに見つかり、27日、奈良文化財研究所が発表した。約100メートル西から北にかけては推古天皇が築いた宮殿「小墾田(おはりだの)宮」があったとされ、今回見つかった遺構はその関連施設の可能性が出てきた。この地域は推古天皇を中心に聖徳太子や蘇我馬子が政治を司った都の中枢部で、小墾田宮の構造を知る上で貴重な資料になりそうだ。

 溝は南北方向に約9メートル延び、人頭大の石が高さ約60センチ分、積み上げられていた。底にも石を敷いていたとみられている。

 くい列は「コの字型」になっており、東西22メートル、南北方向にはそれぞれ6−11メートル分を確認。直径7センチ前後のくいが、20−30センチ間隔でびっしり並び、計67本が立ったままの状態で見つかった。何らかの重要な施設を区画した可能性が高いという。

 発掘現場から西約100メートルでは、以前、「小治田宮」と書かれた土器が出土。北側では7世紀の大型建物跡などが見つかっており、従来から同宮跡の中心部とみられていた。

 今回の石組み溝やくい列は、宮殿中心部から少し離れていることから周辺施設の可能性があるという。また周辺で見つかった土器などから、築造時期は推古天皇死去(628年)後の可能性が高いとしている。

行政区分記す最古の木簡 明日香村・石神遺跡

2002年11月21日 The Sankei Shimbun

 飛鳥時代の迎賓館跡とされる奈良県明日香村の石神遺跡で、「国(くに)」「評(こおり、郡)」「五十戸(さと、里)」という古代の行政区分を書いた天智天皇の時代(665年)の木簡などが見つかり、奈良文化財研究所が21日、発表した。

 行政区分を書いた最古の木簡は677年とされてきた。12年さかのぼり、全国規模の最初の戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく、670年)」以前に、地方制度が成立したことを裏付ける重要な発見。年代確認が可能な文字史料で『国』の字が登場するケースとしても国内最古という。

 日本の地方制度は、701年の大宝律令(りつりょう)施行で「国−郡−里」として完成するが、形ができた時期については大化改新で詔が発布された646年や、壬申の乱の672年などさまざまな見方があり、議論を呼びそうだ。

 同研究所によると、木簡は運び込んだ物品の荷札。表裏に「三野国ム下評大山五十戸(岐阜県富加町付近)」という地名と、里の代表者の名を記していた。

 「大学官」と記された木簡も出土した。大宝律令に基づき設置した、貴族の子弟の教育機関「大学寮」の前身とみられるが、史料で確認されたのは初めて。

 木簡は7世紀後半から8世紀初頭に掘った3カ所の溝でそれぞれ見つかり、計約560点。古代の税「調」などに付けた荷札が多く、同研究所は「石神遺跡は斉明天皇時代の迎賓館のイメージが強いが、天武天皇の時代になっても重要な施設があったのは間違いない」としている。

 漆器など日用品や祭祀(さいし)道具、桃の種なども一緒にあり、ごみとして捨てられたとみられる。

 現地説明会は23日午後1時半から。

蘇我馬子邸で新たな建物跡 奈良・明日香村の島庄遺跡

2004/08/21 The Sankei Shimbun

 飛鳥時代の大豪族・蘇我馬子(生年不明−626年)邸の一角とされる奈良県明日香村の島庄遺跡で、7世紀前半の建物跡とみられる柱穴が新たに見つかり、同村教育委員会が20日発表した。

 調査地の西約30メートルで今年3月、馬子が居住した正殿とみられる大型建物跡を確認したが、東側に建物群が広がっていたことになり、村教委は「豪勢な邸宅の様子がまた少し明らかになった。全体像をうかがわせる重要な資料」としている。

 柱穴は直径約80センチの穴の中央をさらに掘り、直径約20センチの柱を立てたらしい。約2・4メートル間隔で3つ並んでいた。

 柱は正殿跡と比べやや細く塀跡とも考えられるが、村教委は位置関係などから、正殿より小さいとはいえかなり大型の建物があったとみている。

 島庄遺跡は、馬子の墓とされる石舞台古墳(特別史跡)に隣接。方形池の遺構が検出され、日本書紀が記す「馬子の家の庭園の池」と推定されている。方形池遺構や正殿跡と柱穴の並ぶ向きが一致しており、同時期の遺構と判断した。

 <蘇我馬子(生年不明−626年)> 敏達から推古まで4天皇の大臣を50年以上務め、天皇家との血縁関係を背景に蘇我氏の最盛期を築いた。対立する物部氏を滅ぼし、自ら擁立した崇峻天皇も暗殺、めいの推古天皇を即位させるなど政界を主導した。仏教の受け入れに熱心で日本最初の本格的寺院、飛鳥寺を建立。娘婿の聖徳太子とともに歴史書の編さんや遣隋使派遣などを進めた。

寺院最大160メートルの東西

2000年03月09日

 日本初の国立寺院、百済大寺(くだらのおおでら)ではないかとされる奈良県桜井市の吉備池廃寺(飛鳥時代)を調査していた奈良国立文化財研究所と桜井市教委は9日、「伽藍(がらん)の東西幅が国内最大の約160メートルあることが分かった」と発表した。

 また、僧りょが生活した僧坊跡とみられる南北6メートル、東西9メートル以上の掘っ立て柱建物跡も見つかった。

蘇我氏内紛の現場か、7世紀の遺構発見 奈良

2006/03/08 中国新聞ニュース

 飛鳥時代の大豪族・蘇我馬子(生年不明−六二六年)の墓とされる石舞台古墳(奈良県明日香村、特別史跡)の隣接地で、七世紀前半の建物跡とみられる柱列が見つかり、奈良県立橿原考古学研究所が八日、発表した。

 石舞台の石室とほぼ同じ向きに並び、同研究所は「古墳を意識してつくっている。蘇我一族が常駐した現地事務所ではないか」としている。

 日本書紀によると、馬子没後の六二八年、蘇我一族は総力を挙げ墓を造営。周りに常駐していたが、推古天皇の後継をめぐり、息子蝦夷と対立した叔父境部臣摩理勢が小屋を壊し、一族の内紛に発展したと伝える。この事件の現場の可能性があるという。

 石舞台の東約百メートルで、少し高い場所にある棚田を発掘し見つけた。柱列は二つで長い方は九メートル以上。どちらも一・七メートル間隔で一辺五十センチの穴があり、直径十五−二十五センチの柱を立てたらしい。

 掘っ立て柱建物二棟の遺構と考えられるが、調査地が幅二メートルしかなく、同研究所は建物と断定できないとしている。

 別に一辺一・六−一・八メートルの大きな穴が二つ見つかり、直径三十センチの柱を立てた跡があった。穴は深さが一・五−一・八メートルもあり、建物の柱とは考えにくいという。

 欽明天皇(生年不明−五七一年)の墓を六二○年に補修した際、各氏族ごとに大きな柱を立て、力を競ったという記事が書紀にあり、同研究所は「石舞台も蘇我の各支族が同様の大柱を立て、覇を競った可能性がある」としている。

 一帯は馬子の邸宅があったとされる島庄遺跡。石舞台の西約二百メートルで、馬子が住んだ正殿とみられる大型建物の跡が見つかっている。

 現地説明会は十一日午前十時から。

蘇我入鹿の邸宅跡か 火災跡も確認 奈良・明日香村

2005/11/13 The Sankei Shimbun

 大化改新(645年)で滅ぼされた飛鳥時代の大豪族、蘇我蝦夷(そがのえみし)と入鹿(いるか)親子の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)の東南ふもとで、7世紀の建物跡や塀跡、焼けた土などが見つかり、奈良文化財研究所が13日発表した。谷を大規模に造成しており、日本書紀に「谷の宮門(はざまのみかど)」と記された入鹿邸の可能性が高いとみられる。

 蘇我邸の有力候補地と考えられている同丘陵東側で、7世紀の建物跡が見つかったのは初。

 日本書紀の記述を裏付ける画期的発見で、天皇家をしのぐ勢いを誇ったとされる蘇我氏や、日本が中央集権国家へ進む転機となった大化改新の実態を考える上で第一級の資料になる。

 国営飛鳥歴史公園の整備に伴い725平方メートルを発掘、掘っ立て柱建物跡5棟と長さ12メートル以上の塀跡が見つかった。

 いずれの建物跡も規模が小さく、柱穴の直径は約20―30センチ。庇(ひさし)を支えた柱の跡がないことから、正殿など中心的な建物ではなく、付属施設だったらしい。うち1棟は規模が東西10.5メートル、南北3.6メートルと判明。この建物の東側と西側の溝に赤い焼け土や炭が残っていた。塀跡は回廊だった可能性もあるという。

 飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)でのクーデターで入鹿が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らに殺害された後、父・蝦夷は自邸に火を放ち自殺したとされるが、近くにあった入鹿邸がどうなったかは日本書紀に書かれていない。今回、建物跡近くで焼け土などが見つかったことから、研究者からは「蝦夷邸の火災で一緒に焼けたのでは」との意見が出ている。

 甘樫丘は、飛鳥板蓋宮や飛鳥寺を見下ろす超一等地。過去に6回調査され、1994年、今回の調査区からわずか約30メートルの谷地で7世紀中ごろの焼けた壁土や建築部材が大量に出土。焼け土の層は近くの尾根を取り巻くように広がっており、尾根上にあった蝦夷邸が炎上し、一部が滑り落ちたとみられている。

 日本書紀によると、親子は644年に甘樫丘に家を並べて建て、天皇のように蝦夷邸を「上の宮門(うえのみかど)」、入鹿邸は「谷の宮門」と呼んだという。邸宅は城柵で囲まれ、門のそばに武器庫があり、武装した兵が警護したと記されている。

 同研究所は出土した土器や建物の重複状況から、この谷が7世紀前半に造成され、7世紀代の2時期に建物があったと判断。「宮殿近くで大規模な工事を行っており、蘇我氏の邸宅にふさわしい。来年度以降の調査で建物の詳細な年代を確定したい」と話している。

 現地見学会は16日午前10時から。(共同)

≪権力誇示する大邸宅≫

 「ぬからずに、素早く切れ」。645年6月12日、宮殿の脇から、おじけづいた2人の刺客に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が声を掛ける。不穏な空気を怪しむ蘇我入鹿(そがのいるか)。次の瞬間、皇子自ら躍り出て、入鹿の頭に切りつけた―。

 奈良県明日香村の甘樫丘で見つかった7世紀の建物跡。日本書紀には、邸宅の主とみられ、当時、権力の絶頂期にあった入鹿の最期がこう記されている。

 「入鹿は国際情勢に通じ、優秀な政治家だったが、才能におぼれすぎた。高句麗のクーデターをヒントに聖徳太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族を滅ぼしたものの、逆に大化改新を招いた」と和田萃(わだ・あつむ)京都教育大教授(古代史)。

 土砂降りの雨の中、入鹿の遺体は甘樫丘の豪邸で待つ父・蝦夷(えみし)の元へ。翌日、蝦夷は聖徳太子と自分の父、馬子が記した日本最古の史書「天皇記」「国記」を積み上げ、火を放って自害した。

 金子裕之(かねこ・ひろゆき)奈良女子大特任教授(考古学)は「入鹿暗殺後、中大兄皇子が臣下を引き連れて陣を構えた飛鳥寺は、甘樫丘の目と鼻の先。皇子側の行動が丸見えで、蝦夷は『もう逃げられない』と観念せざるを得なかったのだろう」と推測する。

 事件の約7カ月前、入鹿らは甘樫丘に家を建てた。金子教授は「当時は唐が高句麗に侵攻、朝鮮半島で緊張が高まっていた。甘樫丘は飛鳥にとって西の城壁のようなもの。立地条件といい、工事の規模といい、この場所に邸宅を築けたのは実力者の証し」と話す。

 宮殿間近の丘にたくさんの技術者を集め、要塞(ようさい)のような大邸宅を築く蝦夷、入鹿。直木孝次郎(なおき・こうじろう)大阪市立大名誉教授(古代史)は「丘の中腹から宮殿や飛鳥寺が一望できる。蘇我氏の権力や権威の大きさを示す上で非常に効果的だった」とみる。

 日本書紀は、入鹿らが天皇をまねてこの家を「宮門(みかど)」、子どもたちを「王子(みこ)」と呼んだと記述。目に余る横暴ぶりが、大化改新の一因になったとにおわせる。

 入鹿は何を望んでいたのか。皇位か、それともさらなる栄華か。「朝廷が編さんした日本書紀に対し、蝦夷が燃やした『天皇記』『国記』は蘇我氏側から見た歴史書。当時は紙でなく木簡に書いたはずだから、将来、燃え残りが見つかるかも」と和田教授。答えは甘樫丘のどこかに眠っているのかもしれない。(共同)

≪蘇我氏をめぐる経過≫

 587年 蘇我馬子が物部守屋と戦って勝ち、実権を掌握  592  馬子が崇峻天皇を暗殺  620  馬子と聖徳太子が史書「天皇記」「国記」を記す  622  聖徳太子死去  626  馬子死去  642  皇極天皇即位。蝦夷の子・入鹿が国政を執る。専横が目立ち始め、蝦夷が「双墓」を造る  643  入鹿が配下に命じ、聖徳太子の子・山背大兄王を斑鳩宮で滅ぼす  644  蝦夷と入鹿が甘樫丘に家を並べて建てる  645  中大兄皇子と中臣鎌足が宮中で入鹿を暗殺、蝦夷は家に火を放ち自殺。皇極天皇が譲位し、孝徳天皇が即位する

 <蘇我氏> 6世紀から7世紀半ばにかけて朝廷で権勢を振るった大豪族。大和を本拠に渡来系氏族を配下に置き、仏教など大陸文化を積極的に取り入れた。蘇我馬子は聖徳太子とともに仏教を中心とする国家の建設に尽力したが、太子の死後、馬子の子である蝦夷とその子・入鹿が専横を強め、天皇家をしのぐ力を持った。中大兄皇子と中臣鎌足による645年のクーデターで、入鹿は宮中で暗殺、蝦夷は自殺した。一族は力を弱めたが、傍系の石川氏らはその後も朝廷で活躍した。

 <大化改新> 645(大化1)年に始まった古代政治の大改革。天皇家をしのぐ力を持った蘇我入鹿を中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣(藤原)鎌足らが同年6月12日、飛鳥板蓋宮でのクーデターで倒し、天皇を中心とする中央集権国家の建設を目指した。皇極天皇に代わって孝徳天皇が即位し、難波宮に遷都。翌年、改新の詔を出して、土地と人民を国家のものとする「公地公民制」、新しい税制「租庸調」などを定めたとされる。改革の実現には数十年を要したという。(共同)


田向冷水遺跡から6世紀の住居跡

2000.06.15 東奥日報
 八戸遺跡調査会が試掘を進めている八戸市の田向冷水遺跡で十四日までに、古墳時代後期となる六世紀ごろのものとみられる竪穴住居跡が見つかった。東北北部ではこれまで六世紀の住居跡は知られておらず、古代史の空白部分を埋める貴重な遺構とみられている。今後の調査に期待が寄せられている。

 竪穴住居跡が見つかったのは、新井田川沿いの丘陵地にある同市田向冷水の標高約一八メートルの発掘現場。五月から試掘が始まり、今月十二日に約五メートル四方の住居跡が見つかった。

 調査の事務局を務める八戸市教委文化課によると、遺構の中から古墳時代中ごろのものとみられる赤色の炉の丹(に)塗りの坏(つき)や、かめの破片がまとまって出土した。さらに、六世紀ごろ東北南部にみられる住社(すみやしろ)式らしい土師器(はじき)の破片が四個見つかった。遺構や遺物の出土状況から、住居跡は古墳時代後期の六世紀ごろのものと推定されているる。

 このほか、遺構からは柱穴跡や黒曜石の破片も出土している。

 県内には中期の森ケ沢遺跡(天間林村)や終末期の丹後平古墳(八戸市)といった古墳時代の遺跡がある。しかし、土師器の形式による編年(時代の物差し)が確立されていないこともあり、後期(六世紀ごろ)の遺跡については、本県を含む東北北部では、これまで知られていなかった。

 この時期の遺跡に詳しい県三内丸山遺跡対策室の三浦圭介室長は「住社式を伴った竪穴住居跡とすれば貴重な遺構だ。住社式は当時の東北南部との交流を示すと考えられ、移住者が持ち込んだものである可能性もある」と話している。


滋賀・東谷遺跡は日本最大級の製鉄遺跡?

2002年05月14日 Yomiuri On-Line

 奈良・平安時代の製鉄遺跡・東谷遺跡(滋賀県今津町大供)を調査していた滋賀県教委は14日までに、製鉄の際に生じる鉄のかす「鉄滓(てっさい)」が厚さ2メートル、幅10メートルにわたって堆積(たいせき)しているのを確認した。古代製鉄遺跡としてはわが国最大級になる可能性が高い。

 鉄滓は、7世紀後半―9世紀の遺構から出土し、鉄鉱石や木炭なども含め2・5トンに達した。県教委は、層の厚さから遺跡全体(800平方メートル)では100トンと推定している。

 奈良・平安時代の大規模な製鉄遺跡としては、これまで、100トンの鉄滓が見つかった福島県の鳥打沢A遺跡や大船迫A遺跡などの例がある。

 『続日本紀(しょくにほんぎ)』の762年2月25日の条には、太政大臣の藤原仲麻呂に淳仁天皇が「近江国浅井・高島二郡(滋賀県西北部)の鉄穴(鉄鉱石の取れる鉱山)各一箇処を賜う」との記述があり、これに該当する遺跡と見られる。


7世紀後半の「砦跡」発見

2002年12月16日 Yomiuri On-Line

 奈良県高取町の森カシ谷遺跡(7世紀後半)で、丘陵上に建てた物見櫓(やぐら)や大型の高床式建物などの周囲に柵(さく)などを巡らせた跡が見つかったと、町教委が16日、発表した。古代最大の戦乱だった壬申(じんしん)の乱(672年)の時期とほぼ重なることから、同教委では「飛鳥京の出入り口を監視、防御した砦(とりで)だった」と判断している。激動の時代の都の緊張状態を具体的に物語る資料として注目される。

 高床式建物跡は幅約13メートル、奥行き約5メートル。その南西側の遺跡中心部に、物見櫓の基礎部分か貯蔵穴と見られる深さ約2メートル、直径3―4メートルの大規模な穴が確認された。二つの施設跡の周囲は三重の柵が巡り、侵入者を防ぐため杭(くい)を斜めに打ち込んだ逆茂木(さかもぎ)と、投石と見られるこぶし大の石も約50個見つかった。

 出土した土器や不ぞろいな柱穴などから、670年前後に、急ごしらえで造られたと見られる。

 遺跡は、飛鳥京跡の南西約3キロの地点に位置し、丘陵の約20メートル下に古代の幹線道路「紀路(きじ)」が通る交通の要衝。7世紀後半は、唐・新羅(しらぎ)と争った白村江の戦い(663年)などの戦乱が相次ぎ、国内外で緊張が高まった。とくに壬申の乱では主要道の制圧が勝敗を分け、勝者の大海人皇子(おおあまのおうじ)(天武天皇)は即位後、要所に関所を設けて人や物資の動きを監視し、支配体制を強化したことが「日本書紀」に記されている。

マルコ山古墳は六角形墳、飛鳥地域で初…皇子の墓か

2004/12/05 読売新聞 Yomiuri On-Line

 奈良県明日香村のマルコ山古墳(7世紀末―8世紀初め)が六角形墳であることが判明したと、同村教委が5日、発表した。

 六角形墳は全国でわずかに数基知られているだけで、飛鳥時代の皇族や貴族の墓が集中する飛鳥地域で確認されたのは初めて。

 当時、天皇や皇太子は八角形墳に葬られており、それに次ぐ地位の皇子の墓とみられ、被葬者の絞り込みにつながると期待されている。

 同古墳はこれまで円墳とみられていた。上下2段の墳丘のうち、下段の西側を発掘したところ、内角約140度のコーナーと外縁が出土した。1977年にも下部北側に角張った部分が見つかっており、下段は最長の対角線が約24メートルの東西に長い六角形とわかった。上段も同形と推測されるという。

 古代中国の思想・道教で、八角形は宇宙を表し、六角形はこれに準じて世界を示す。この思想に基づき、中国の皇帝は八角形、皇太子や諸侯は六角形の建物を造営したとされる。

 日本でも飛鳥時代後半(7世紀後半)の天智陵(京都市)、天武・持統合葬陵(明日香村)などの天皇陵は八角形墳で、中国の思想の影響を色濃く受けていると考えられているが、飛鳥地域で六角形墳は見つかっていなかった。

 マルコ山古墳の被葬者はこれまで、規模や立地から天智天皇の川島皇子(657―691年)や、天武天皇の弓削皇子(ゆげのみこ)(?―699年)らが想定されてきたが、その可能性がさらに高くなった。

 千田稔・国際日本文化研究センター教授(歴史地理学)の話「中国思想が皇族の墳墓形式に影響を与えたことは十分、考えられる。外形から被葬者を絞り込めれば、キトラ古墳などの被葬者の解明にもつながるだろう」


出雲の北光寺古墳 島根県内で最大級

2004/10/27 中国新聞地域ニュース

 全長64メートル 県教委が調査結果報告

 島根県教委は、出雲市東神西町の前方後円墳「北光寺古墳」の発掘調査結果をまとめた。築造時期を特定できる埴輪(はにわ)などの遺物は確認されていないが、古墳時代中期(四世紀末から五世紀末)につくられたとみられ、県内の前方後円墳では五番目の大きさだった。

 北光寺古墳は、標高一〇三メートルの丘陵にある。今年九月から、古墳の規模や築造時期を明らかにするため、六カ所で発掘調査を実施。その結果、全長六十四メートル、後円部の直径は三十七メートルと判明し、当時では県内最大級という。前方部では、墳丘を築造した際の溝や盛り土の状況などを確認した。

 県内で百十一ある前方後円墳のうち、三例目となる前方部の埋葬施設も確認。しかし、竪穴式石槨(せきかく)は明治期に盗掘されており、今回の調査では、盗掘穴周辺から石棺のふたや刀剣類の破片などを発見した。後円部にも別の埋葬施設がある可能性が高いという。

 県埋蔵文化財調査センターは「出雲地方の前方後円墳の築造がどのように広まったのか考える上で、欠くことができない調査結果」としている。

遣唐使の墓誌発見…「魂は故郷へ」と異国の死刻む

2004/10/11 読売新聞 Yomiuri On-Line

 【西安(中国陝西省)=竹腰雅彦】8世紀初めに日本から中国・唐(618―907)に渡り、現地で客死した遣唐使随行の留学生の墓誌(734年)が見つかったと、西北大学(西安市)が10日、発表した。

 中国で古代の日本人の墓誌が見つかったのは初めてで、「日本」の国号が記された中国最古の例。謎に包まれている遣唐使の実像に迫る貴重な資料として注目される。

 墓誌は死者の事績を記した墓石で、発見された墓誌は高さ、幅とも約39センチのほぼ正方形。上に載せられた蓋石(ふたいし)の上面に12文字、本体に171文字が刻まれていた。

 「姓は井、字は真成。国号は日本。天賦の才能をもって、唐に渡り、勉学にいそしんだ。学問を修め、官吏として朝廷に仕えた。礼儀正しさは比類のないほどだった。しかし、開元22年(734年)正月、急病のため36歳で死去した。皇帝は死を悼み、尚衣奉御という官職を贈った。2月4日、サン水(さんすい)のほとりに埋葬した。遺体は異国の土となったが、魂は故郷へ帰る」などと記されていた。「尚衣奉御」は皇帝の衣服を管理する部署の長のこと。当時の玄宗皇帝(在位712―756年)の信頼が相当あつかったことがうかがわれ、「かなり親しい人物だったのではないか」と、調査にあたった西北大の王建新教授は推測している。

 「井真成」は中国名(唐名)で、日本側の記録にないため、該当する人物は特定されていない。阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、吉備真備(きびのまきび)などが派遣された717年の遣唐使の一員とみられる。

 墓誌の具体的な発見日時は明らかにされていないが、記述内容から、西安中心部から東に10キロほどのサン水付近に埋設されたと考えられる。(「サン水」のサンはさんずいに産)

 ◆「遣唐使船」の著書もある東野治之・奈良大学教授(日本古代史)の話「中国で亡くなった遣唐使の随員を初めて考古学的に裏付けた点で極めて重要。遣唐使が中国で、どのような待遇を受けていたかを知る上でも非常に興味深い」

 ◆遣唐使=630年の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を最初として、唐に派遣された使節。894年に菅原道真の建議によって廃止されるまで、20回の任命があり、うち16回が実際に渡航。唐の先進的文化がもたらされ、律令国家確立に大きな役割を果たした。派遣された主な人物は、山上憶良(やまのうえのおくら)、空海、最澄ら。


神籠石

01.
第1回「神籠石サミット」
02.
神籠石 byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 
03.
みやま市瀬高町女山神籠石(ぞやまこうごういし)
04.
神籠石(その1)
04.
国指定史跡 雷 山 神 籠 石(らいざんこうごいし)
05.
高良山の神籠石

光で神籠石サミット開幕

2007/10/20 中国新聞ニュース

 山頂を取り巻く列石で国史跡の「神籠石(こうごいし)」を生かした地域おこしについて語り合う神籠石サミットが19日、光市民ホールで始まった。20日まで。

福岡県と佐賀県の6市が参加し、古代山城跡がある福岡県大野城市がオブザーバー参加した。初日は参加自治体の担当者らが活用などで意見交換。

九州大大学院の西山徳明教授の基調講演とシンポジウムがあり、市民ら約800人が聞き入った。

国史跡「神籠石」の巡回展

2007/08/30 中国新聞ニュース

 光市の石城山の山頂を取り巻く列石で、国史跡「神籠石(こうごいし)」にスポットを当てた巡回展が、同市塩田の展示館「三国志城」で開かれている。無料。

市内で10月に開催される第2回神籠石サミットに向けて、機運醸成にも一役買っている。

来年3月末まで。神籠石を紹介したパネルをはじめ、1963、64年に実施された発掘調査時の写真など計約45点を展示。館長の谷千寿子さん(80)が随時、解説をしている。

 

全国7市集い神籠石サミット

2007/02/17 中国新聞地域ニュース

 山頂付近を取り巻く列石の遺跡「神籠石(こうごいし)」をテーマに、自治体や市民の交流を図る初めての「神籠石サミット」が16日、光市で始まった。

 初日は国史跡がある全国9市のうち7市から市長や助役らが出席。

 光市の北東部にある石城山の神籠石を視察し、保存活用策などを意見交換した。サミットは、文化遺産による地域交流を目的に光市が呼び掛けた。最終日の17日には、専門家の講演などがある。

神籠石サミット:来月、山口で /九州

2007年01月15日 毎日新聞 Mainichi Interactive

 福岡県行橋市や佐賀県武雄市などの山中に残る古代遺跡「神籠(こうご)石」の保全法を考えようと、同じ史跡のある山口県光市で2月16、17日、「神籠石サミット」が開かれる。

 巨大な石垣が断続的に並ぶ神籠石は古代に築かれた山城の土塁の礎石とされ、行橋市の御所ケ谷や武雄市のおつぼ山などの8市町と、光市の石城山の計9カ所が国の史跡の指定を受けている。日本書紀などに記載はなく、神の聖域を囲った「神域説」など、諸説の議論が続いている。

 サミットには9市町の首長や教育長が出席する。一般参加も可能。光市の末岡泰義市長は「神籠石のロマンを後世に残す知恵を出し合いたい」と話している。17日は学識者の記念講演や石城山の見学会が予定されている。【安部拓輝】


斉明女帝と神功皇后〈3〉神籠石は皇后石?

2004.01.23 読売新聞 Yomiuri On-Line

鬼や天狗、筑紫君磐井が作ったという伝説もある高良山神籠石(福岡県久留米市) 斉明女帝が神功皇后のモデルならば、女帝の足跡が、皇后伝説に変化したものがほかにもあるかもしれない。

 661年(斉明7年)5月、女帝は筑紫の磐瀬行宮から、朝倉橘広庭宮(あさくらたちばなのひろにわのみや)(朝倉宮)に遷る。磐瀬行宮はこの後も「水表の軍政」の拠点として利用されていることから、これはいわば遠征軍の駐屯地で、朝倉宮が大本営だったと見ることができる。

 朝倉宮には皇太子の中大兄(後の天智天皇)、大海人(同天武天皇)ら主要皇族が同行している。事実上の遷都と言ってよく、一時とはいえ、九州に日本の首都が置かれた唯一の例だ。

 朝倉宮の位置は、福岡県朝倉郡内にいくつか候補地がある中で、杷木町志波地区が近年の県教委の調査で有力になってきた。東西1キロの範囲で、同規格・同方向に建てられた7世紀後半の大型掘立柱建物跡が11棟出土した。

 「傾斜地の造成を行わず、柱の長短で床面を整えるなどの省力的な造作は、急造を余儀なくされたことをうかがわせる」と九州歴史資料館の小田和利さん。南を筑後川、三方を山に守られた要害で、筑後川の水運を利用できるほか、危険が迫った場合は、豊後道経由で瀬戸内海に抜けることもできる。

 朝倉宮の位置と絡んで、注目されているのが北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて分布する神籠石(こうごいし)と呼ばれる列石遺構だ。山の周囲に列石や土塁を巡らしたもので、7世紀に築かれた山城跡と考えられているが、文献に記録のない謎の遺跡である。

 ◆“首都”侵入阻む列石遺構

 だが北部九州の神籠石を地図上に並べて見ると、興味深い事実が見えてくる。有明海、玄界灘、豊後道の各方向から、朝倉宮への侵入を阻むように配置されているのだ。

 西谷正・九大名誉教授(考古学)は「神籠石は白村江の戦(663年)の後に築かれた朝鮮式山城に様式的に先行するもの。百済滅亡後の緊張状態を背景に、臨時の皇都である朝倉宮周辺と、飛鳥に至る瀬戸内海沿岸を固めるために築造されたのでは」とみている。

 さすが「興事を好む」斉明女帝。実質的な遷都に伴い、九州各地に大規模な防衛網を築いていたわけだ。

 神功皇后伝説が斉明女帝をモデルにしているのだとすれば、これだけの大事業が、伝説に反映されなかったはずはない。『日本書紀』には皇后が山城を営んだという記述はない。しかし久留米市の高良山神籠石について、間接的に皇后との関係を物語る伝承がかつてあったことを記録した史料がある。

 江戸時代の軍記物『筑後将士軍談』。高良山神籠石の由来について「武内宿禰が呉の孫権の来襲に備えて築いた」と記している。武内宿禰は景行以下5代の天皇に仕えたとされる伝説上の大臣で、孫権の在世(229〜52年)はまさに神功皇后の摂政期(201〜69年)と重なる。武内宿禰は皇后と関係の深い人物で、『日本書紀』にも、裂田溝(那珂川町)の工事に際し、皇后の命を受けて神に祈り、溝を通した人物として登場する。

 武内宿禰が神籠石を築いたとする高良山にまつわる伝承も、「(皇后の命を受けて)」という意味を補って理解することを求めているのではないか。だとすれば、神籠石は「皇后石」が転訛(てんか)したものだということになる。

 明治以降の研究によって、各地で同じ様式の列石遺構が確認され、それらがすべて「神籠石」と呼ばれるのは、高良山の遺構が古来この名で呼ばれていたことに、学者たちがならったためだ。

斉明女帝と神功皇后〈1〉ゆかりの?遺跡 同居

2004.01.9 読売新聞 Yomiuri On-Line

神功皇后が通したと「日本書紀」が伝える裂田溝(福岡県那珂川町で)

 福岡県那珂川町に、安徳台と呼ばれる溶岩台地がある。昨年までの町教委の調査で弥生時代の巨大住居跡が多数見つかり、「奴国」の拠点集落として注目されているが、この遺跡の持つ重要性はこれだけではない。

 調査では7世紀後半の建物遺構も出土しており、この遺構が、斉明天皇(在位655〜61)を記紀の伝説上の英雄である神功皇后のモデルとする、一部で唱えられてきた学説を補強する物証になり得る可能性が出てきたのだ。

 遺構は柱穴の一辺が1メートルを超える建物跡4棟と柵(さく)列。郡衙(ぐんが)(郡役所)クラス以上の建物群だ。出土した須恵器の様式は8世紀を示したが、町教委文化財係の澤田康夫さんは「同時に出土した瓦は、奈良時代に定型化する前の様式で、7世紀後半にさかのぼる可能性もある」とみる。

 7世紀後半に博多湾近辺で建てられた大型建物群といえば『日本書紀』が記す磐瀬行宮(いわせのかりみや)が思い浮かぶ。磐瀬行宮とは661年(斉明7年)、斉明天皇が筑紫に下った際に構えた宮で、これまでそれらしい遺構は確認されていなかった。

 西谷正・九大名誉教授(考古学)も「斉明の時期までさかのぼれば、磐瀬行宮である可能性も検討せねばならない。位置的にも古代の交通の要衝で、弥生時代以降、有力な遺跡が継続して営まれた中心地であることも考えれば状況証拠はかなりそろっている」と語る。

 安徳台はゆるやかな坂が虎口状に続く1か所を除くと、30メートルの崖(がけ)に囲まれた天然の要害だ。溶岩台地が那珂川を蛇行させる地形は磐瀬の名にふさわしい。

 一方、この台地のふもとに「裂田溝(さくたのうなで)」という神功皇后ゆかりの溝が通っている。

 那珂川の一の井手から分かれて東北に5キロ余り延びる、今も流域7区の田畑を潤す用水路だ。『日本書紀』は、皇后が那珂川の水を神田に入れようと溝を掘らせたところ、迹驚岡(とどろきのおか)(安徳台)で大岩に塞(ふさ)がれた。そこで神祇(じんぎ)を祀(まつ)り祈らせたところ、雷が岩を砕き水を通すことができた、と伝えている。

 神功皇后の実在は否定されており、この記述は神話に過ぎない。問題は、なぜ裂田溝が皇后と結びつけられたのか、だ。『日本書紀』が記す皇后ゆかりの地は、各地に伝承された地名起源説話を皇后伝説に取り入れたものがほとんどだ。しかし裂田溝では人工的に岩盤を割って掘り進めた土木工事が行われており、妙にリアルな印象を受ける。

 斉明天皇は女帝である。斉明による溝工事が、書紀編纂(へんさん)の際に皇后伝説に取り込まれたと推理するのは、大胆に過ぎるだろうか。『日本書紀』は斉明を「興事を好む」と評し、大規模な溝や石垣など飛鳥の大開発を行ったと伝えている。2000年に奈良県明日香村で酒船石遺跡が発見され、亀形石造物を中心にした石敷き遺構で斉明の興事好みが裏付けられたことを記憶している人も多いだろう。

 裂田溝の土木工事も、この女帝にいかにもふさわしい。2人ゆかりの遺構が同じ場所にあるのは偶然とは思えない。斉明と皇后伝説との関係を探るため、女帝の足跡をさらにたどってみたい。

斉明女帝と神功皇后〈2〉「伝説の舞台」存在せず

2004.01.16 読売新聞 Yomiuri On-Line

神功皇后が植えた神木「綾杉」(右)も残る香椎宮だが、創建は724年とされる

 斉明女帝が筑紫に下ったのは、緊迫する朝鮮半島情勢が原因だった。

 660年(斉明6年)7月、唐と新羅の連合軍が、百済を滅ぼした。抵抗を続ける百済遺臣の鬼室福信は10月、飛鳥岡本宮(奈良県明日香村)に使いを送り、日本に滞在中の百済王子・余豊璋の帰国と救援軍の派遣を要請した。豊璋を新国王に迎え、日本と連合して百済を復興させようというのだ。

 女帝は「危うきを扶(たす)け、絶えたるを継ぐことは、当然である」と述べて、水軍を率いて翌年正月に難波を出発、3月には博多湾から筑紫の磐瀬行宮に入った。まさに「嶮(たか)き浪を渡り、艫船(ふね)を整えて財土(たからのくに)(新羅)を求む」と、三韓征伐を陣頭指揮した神功皇后の再来である。

 もっとも、当時の人々がこれを「再来」と受け止めたと見るには、この時点で神功皇后伝説がすでにあったことが前提となる。実際はどうなのか。

 『日本書紀』には562年(欽明23年)、新羅が任那を滅ぼしたとき、欽明天皇が「(新羅王を助命した)神功皇后の恩を忘れた」と非難する場面がある。斉明が筑紫に下ったほぼ100年前の話として、神功皇后が登場しているわけだ。学説の多くは、記紀の編纂(へんさん)に当たって史料とされた『旧辞』に、神功皇后伝説がすでに記されていたとし、現存しないこの史書を6世紀の成立とみている。通説によればやはり、斉明の時代には神功皇后伝説が流布していたことになる。

 ◆「三韓征伐拠点」の香椎宮の造営は後世

 これに対し、大阪市立大名誉教授の直木孝次郎さん(古代史)は「神功皇后伝説には6世紀の成立とすると説明できない事実がある」と指摘する。

 その一つが皇后の三韓征伐の拠点とされている香椎宮(福岡市東区)だ。6世紀に伝説があったとしたら香椎宮も当時存在していたはずだが、『八幡愚童訓』『八幡宇佐宮御託宣集』によれば創建は724年(神亀元年)。神社の創建年代は実際より古く伝えられるのが一般的なのに、香椎宮の場合、記紀との整合性さえ省みられていない。

 この矛盾を説くカギは、記紀の中にある。実は香椎宮は神功皇后伝説のくだりだけに登場し、ほかには全く記述がない。斉明だけでなく、6〜7世紀に朝廷はたびたび新羅遠征を計画・実行している。当時香椎宮があったなら、縁起の良い香椎宮に立ち寄るなり必勝祈願の神事が行われるなりしなかったはずがない。

 何の記録もないという事実は、宮や神功皇后伝説そのものが当時存在せず、後世に挿入されたものであることを暗示しているのではないか。だとすれば先の欽明天皇の言葉も『日本書紀』編纂の際に考え出されたものだということになる。

 直木さんは「神功皇后伝説には古い神話や伝承も含まれてはいるが、女性が外征軍の指揮をとったのは斉明のほか例がない。三韓征伐のくだりは、斉明を直接のモデルに構想されたものだ」と断言する。

 その根拠として直木さんは神功皇后の和風諡号(おくりな)気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を挙げる。斉明の天豊財重日足姫(あめのとよたからいかしひたらしひめの)天皇、夫・舒明の息長足日広額(おきながたらしひひろぬかの)天皇と比較すると、神功皇后は後二者のものを組み合わせて作られたと見ることができるというのだ。

 神功皇后=斉明モデル説に立てば、香椎宮創建の724年が、『日本書紀』完成の4年後であることが説得力を持ってくる。伝説に真実味を与えるために、その舞台が造営されたということだろう。

斉明女帝と神功皇后〈4〉神罰巡り対照的な書紀の記述

2004.01.30 読売新聞 Yomiuri On-Line

朝倉宮推定地の福岡県杷木町志波地区から朝倉山(麻●良山)を望む

 『日本書紀』には、神功皇后と斉明女帝がそれぞれ新羅遠征に絡んで、神の祟(たた)りを受けたとする記述がある。2人の神罰への対処の仕方とその結果は対照的に描かれているが、そのことは、かえって女帝が皇后伝説のモデルだったことをうかがわせる。

 斉明女帝はさんざんに祟られている。661年(斉明7年)5月9日、女帝は遠征軍の大本営である朝倉橘広庭宮(あさくらたちばなのひろにわのみや)(朝倉宮)に遷(うつ)ったが、神の怒りにふれて殿舎を壊されてしまう。宮殿を造営する際、朝倉社(福岡県杷木町・麻●良布(までらふ)神社)の神体である朝倉山(麻●良山)の木を伐採したためで、宮中には鬼火が現れ、多くの官人が病死。女帝も7月24日に崩御してしまう。

 8月1日、皇太子の中大兄(天智天皇)が喪を執り行ったところ、朝倉山の上に大笠を着た鬼が現れ、喪の儀をのぞいていた。

 一連の出来事を現代の常識によって解釈すると、殿舎の破壊は落雷によるものであり、女帝の死は疫病、朝倉山の鬼も笠雲ということになるだろう。しかし『日本書紀』の編者は、これらを神の祟りとみなし、さらにこれらの凶事によって2年後の白村江の戦の結果をも暗示している。

 白村江の戦は663年(天智2年)8月に、日本の百済救援軍と唐の間で争われた海戦で、『旧唐書』が「其の船四百艘を焚く。煙焔天に漲り海水みな赤し」と記し、『日本書紀』も「須臾之際(ときのま)に官軍敗続(やぶ)れぬ」と認めるしかなかった、日本側の完敗。4世紀以来、朝鮮半島に対して持っていた影響力のすべてを失ってしまう歴史的敗北だった。

 ◆対処の仕方と結果を反面教師に

 これに対し、神功皇后は祟りを祓(はら)ったおかげで、新羅に加え百済、高句麗も従わせる三韓征伐を成し遂げた。ここでは夫の仲哀天皇が皇后の引き立て役になっていることに、注目しておきたい。

 天皇は熊襲征討の途中、香椎宮(福岡市東区)で、「新羅を攻めなさい」という住吉3神の神託を受けたのに、「海ばかりで国は見えない。どこの神が私を欺くのか」と信用しなかったため、神の怒りで急死してしまう。

 皇后は遠征を決意して、諸国に命じて船舶と軍卒を募ったが少しも集まらない。皇后は「神の心」を理解して、大三輪社(三輪町・大己貴神社)を建てて刀矛を捧(ささ)げたところ、軍卒が直ちに集まった。

 田中正日子・第一経済大教授(古代史)は「仲哀天皇の急死は斉明女帝の朝倉宮での崩御を連想させる」と指摘。大三輪社にまつわる伝承についても「皇后のモデルである女帝がこの地で軍船の造船を行った事実が投影されている。神の依り代と考えられていた巨木を伐採したため、依り代を神社と刀矛に移すことで神の怒りを鎮めようとしたもの」と解説する。

 神功皇后伝説には、斉明女帝についての記紀編さん時の人々の記憶が反映されていると思われる個所が少なくないが、出来上がった伝説は、冒頭に述べたように女帝に関する記述とまるで対照的だ。

 『日本書紀』の編者は、斉明の死と白村江の敗北を「神域から用材を調達したことへの神罰」とみなすことで説明しようとした。だから三韓征伐を成功に導く神功皇后は、神の意思に通じ、祟りを祓う女性として造形する必要があった。斉明は神功皇后にとってモデルであり、かつ反面教師でもあった。しかし、そもそもなぜ神功皇后伝説は創作されたのだろう。これに答えるには、白村江後、記紀編さんに至る時期のわが国が置かれた状況を理解する必要がある。  * ●の字は氏の下に一

斉明女帝と神功皇后〈5〉白村江敗戦で勝者に学ぶ/h3>2004.02.06 読売新聞 Yomiuri On-Line

白村江後の新羅化を象徴する国宝・観世音寺の梵鐘(福岡県太宰府市)

 白村江での敗戦(663年)は、豪族寄せ集めの遠征軍、指揮命令系統の乱れなどに表れた国家体制の整備の遅れ、百済一辺倒の閉鎖的な外交、唐を敵に回すという国際情勢の認識不足といった様々な面で、わが国の後進性をさらけだした。

 中大兄皇子(天智天皇)は、唐と新羅の侵攻に備えて、対馬、壱岐などに防人や烽(とぶひ)を置き、水城や大野城など西日本各地に大規模な防衛施設を築く一方で、大胆な国家体制の変革に着手した。

 『日本書紀』は律令国家への改革の契機を、大化改新(645年)とするが、近年の研究では白村江の敗戦を転換点と位置づけるものが多い。森公章・東洋大教授(古代史)は「大化改新は蘇我本家を滅ぼしたものの、なお有力豪族の力は大きく中央集権化は進まなかった。敗戦で初めて危機感を抱き、壬申の乱を経て、701年の大宝律令施行に至る改革を進めることができた」とみる。

 その改革の範となったのは新羅だ。

 天武・持統朝にかけて日本は進んだ政治体制や文化を新羅から導入した。新羅が唐と対立したことから、日本との関係改善を図ったことも幸いした。敗北を謙虚に受け止め、勝者に学んだといえるが、あらゆる面で新羅化が進行した。

 福岡県太宰府市には、天智天皇が母・斉明天皇の菩提を弔うために発願した観世音寺が残っている。建物は江戸時代の再建だが、7世紀末の鋳造とされる梵鐘(国宝)は、蓮華文や唐草文の様式から新羅系渡来人の作といわれる。新羅を討とうとした女帝ゆかりの寺の梵鐘さえ、新羅の影響を逃れることはできなかった。

 直木孝次郎・大阪市立大名誉教授(古代史)は、こうした状況の下で神功皇后の三韓征伐伝説は構想された、とみている。「朝鮮半島の権益をすべて失った日本に対し、新羅は百済、高句麗を滅ぼして、さらに唐も追い出して半島を統一してしまった。学びつつも一方では、大変な危機感があったはず。そうした危機感から生まれたナショナリズムが、『日本書紀』の編さんの際に、形となって表れた」

 『日本書紀』では、天皇の国内支配を正当化するための景行天皇や日本武尊の伝説に続いて、神功皇后伝説が叙述されている。斉明女帝の西征から想像を膨らませて、はるか古の話として、皇后の船団が海水ごと新羅の国土を満たし、王を降伏させて飼部(馬飼い)とする、壮大な物語が完成した。

 『日本書紀』が、『古事記』と違って日本語(万葉仮名)でなく中国語(漢文)で書かれていることからも、単に国内向けだけでなく、律令国家・日本の、新羅や唐に対する自己主張であったことがわかる。

 新羅が唐との対抗上、日本に朝貢してきたことも伝説に説得力を与えたといえる。「朝鮮半島に対する優位な立場が保たれることで、新羅を従属国と位置づける対外観が維持された」と森教授。

 三韓征伐は、荒唐無稽な物語だが、これが720年に完成した『日本書紀』に収められると多くの日本人は先の大戦中まで史実と信じていた。

 明治維新のイデオローグというべき吉田松陰は、「神后の三韓を征し、時宗の蒙古を殲し、秀吉の朝鮮を伐つ如き豪傑というべし。朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋の諸島を収め……」(『幽囚録』)と論じた。

 神功皇后伝説が日本の朝鮮観に与えた影響は極めて大きい。歴史に学ぶと言うなら、日本人は神功皇后でなく、白村江の敗北をまず知るべきであった。(おわり)

■「なぜ九州から」を探る実験航海

 読売新聞 Yomiuri On-Line

 宇土半島の「阿蘇ピンク石」は、地質学的には阿蘇熔結(ようけつ)凝灰岩赤色岩層という。この石で造られた石棺は、継体大王陵墓の今城塚古墳(大阪府高槻市)で見つかった3種類の石棺片の一つとして、また推古女帝の最初の陵墓(後に移葬)とされる植山古墳(奈良県橿原市)では完全な形で見つかっている。

 古代の重量物の運搬は、未整備の陸地より沿岸沿いの海路をとり、宇土から畿内へ船で運ばれたと推定されることから、「大王のひつぎ実験航海」が計画された。

 なぜ九州からわざわざ運ばれたのか歴史的背景を探り、どういう方法で運んだのか古代の航海技術を実験的に再現するのが目的だ。

 「大王」は天皇の古称。埼玉・稲荷山古墳、熊本・江田船山古墳出土鉄剣の「ワカタケル大王」(雄略大王)銘文にみられるように5〜6世紀代は「大王」が使われていた。「天皇」号は7世紀後半の天武以降とされるが、「推古の代から」との説もあるので、連載では「推古女帝」と表現する。

<1>阿蘇の石棺、歴史に謎

2004.04.01 大王と海 第1部 夢を追って 読売新聞 Yomiuri On-Line

「大王のひつぎ」実験航海

読売新聞 Yomiuri On-Line

 「倭の五王」から、九州の磐井の乱を経て、飛鳥文化が花開く推古女帝の時代(5〜7世紀)に、大和の大王(天皇)陵や特定豪族の石のひつぎが熊本・宇土半島産の阿蘇のピンク石で造られ運ばれたという。この古代史上の謎に、考古学、古代史、海事史研究者が復元古代船「海王」で挑む実験航海が行われた。

 2005年7月24日、宇土市を出航、有明海から北部九州沿岸、瀬戸内海を経て、34日目の8月26日、最終目的地の大阪南港に到着した。総航行距離は1006キロ。古代航海の実像を示す貴重な記録が残され、多くの成果が得られた。

大阪 高槻・今城塚古墳  石棺を使い造営作業再現

2005.08.29 読売新聞 Yomiuri On-Line

 「大王のひつぎ実験航海」(読売新聞西部本社などの実行委員会主催)で、熊本県宇土市から運ばれてきた「阿蘇ピンク石」の石棺が28日、大阪府高槻市の前方後円墳「今城塚古墳」(6世紀前半)で公開された。本体と蓋(ふた)合わせて計7トン。市民約1500人が復元された古代の木ぞり「修羅」に載せて引き、約1500年前の古墳造営作業を体験した。

 古墳時代に近畿地方の大王(天皇)の石棺に使われた石が、海路で運搬されたことを実証する実験航海の最後のイベント。参加者は声をかけながら8本のロープを引っ張ったが思うように動かず、観客100人以上が飛び入り参加した。

 約50メートルを10分かけて引き終えた高槻市の吉峯理さん(63)は「こんな重い石を九州から運ばせるとは。大王の強大な権力を実感しました」と話していた。復元された古代船で1006キロ、34日間の旅を終えた石棺は29日、トラックで陸路、熊本に戻る。

熊本 宇土マリーナ〜長崎 口之津港  出航 いざ! 大阪へ

2005.07.25 読売新聞 Yomiuri On-Line

 近畿地方の大王(天皇)の石棺に九州の阿蘇ピンク石が使われた理由を探るとともに、巨石の海路運搬が可能なことを実証する「大王のひつぎ実験航海」の船団が24日、熊本県宇土市を出航した。復元された古代船「海王」が石棺を載せた台船を引航し、22か所に寄港しながら約850キロに及ぶ海路をたどり、8月26日の大阪南港到着を目指す。(同行取材=熊本支局・岩永芳人、写真部・中司雅信)

 近畿地方の大王(天皇)の石棺に九州の阿蘇ピンク石が使われた理由を探るとともに、巨石の海路運搬が可能なことを実証する「大王のひつぎ実験航海」の船団が24日、熊本県宇土市を出航した。復元された古代船「海王」が石棺を載せた台船を引航し、22か所に寄港しながら約850キロに及ぶ海路をたどり、8月26日の大阪南港到着を目指す。

 「海王」と、石棺のふたと本体をそれぞれ載せる台船「有明」「火の国」、3隻の動力船の計6隻で構成する船団は天候にも恵まれ、順調に有明海を渡り、出航から約6時間半後の午後4時10分、最初の寄港地・長崎県口之津港に入った。

 手こぎで推進する「海王」は途中、時間的な制約や潮流などの条件から動力船に引航されたが、水産大学校(山口県下関市)端艇部と口之津海上技術学校の学生計約40人が交代で操船し、所要時間のほぼ半分に当たる約3時間10分を自力で航行。うち約1時間半は石棺のふた(重さ約3トン)を載せた台船を引航した。

 6世紀前半の継体大王の陵墓とされる今城塚古墳(大阪府高槻市)、7世紀前半の推古女帝の初陵とされる植山古墳(奈良県橿原市)などの石棺に熊本県宇土半島産の阿蘇ピンク石(阿蘇溶結凝灰岩)が使われていたことが、これまでの研究で判明している。今回の実験航海では、古代の船や石棺を復元し、実際に航海することで当時の航海術や航路、港などを推定。大王の葬祭儀礼上、重要な石棺に九州の赤い石が使われた理由の解明につなげる。

 航海は熊本の考古学研究者グループが発案。実現に向けて、2004年4月、研究者で作る石棺文化研究会や地域おこし団体・熊本県青年塾、熊本県宇土市、読売新聞西部本社などで実行委員会を発足させた。

 「海王」のこぎ手は、水産大学校端艇部が全行程を担当するほか、長崎大や神戸大などの学生が交代で参加する。

 ピンク色をした九州の石が、なぜ近畿地方の大王(天皇)の石棺に使われたのか。クレーンもエンジン付きの船もない時代に重量物をどうやって運んだのか――。長年の謎を解明する前人未到の試みに、考古学者らの期待も高まる。「海と王権のドラマ」を再現する航海の初日、船団は有明の海を快調に進んだ。

 1500年前、古代の人々が出航する時も大勢の見送りを受けたのだろうか。24日朝、地元の小中学生を含む約500人が「海王」をひと目見ようと、熊本県宇土市の宇土マリーナに集まった。大太鼓がうち鳴らされ、花火が上がる。堤防に並んだ人たちは「頑張れ」「無事で」と手を振った。

 出航式には、航海の実行委員会代表を務める小田富士雄福岡大名誉教授、池田孜読売新聞西部本社社長らが出席。来賓の潮谷義子熊本県知事は「海王のひとこぎに歴史の重みと英知が込められる」と船団員を激励し、到着地・大阪に友好を呼びかける太田房江知事あてのメッセージを託した。

 「ソーレ」。水産大学校端艇部員の元気なかけ声が有明海に広がった。体力を消耗しない薄曇りの天候と穏やかな海。台船を引いた時の海王の速度は最高2.5ノット(時速約4.6キロ)を記録した。事前の予想よりずっと速い。「盛大な見送りで、学生たちの士気も上がった。大阪まで石棺を運ばなければという使命感は古代の人たちと変わらないでしょう」と端艇部顧問の下川伸也助教授。

 考古学者で宇土市文化振興課の高木恭二課長は伴走する動力船から、石棺が海を進む姿を信じられない思いで眺めた。実験航海を20年近く前に発案。何度も壁にぶつかりながら協力の輪を広げてきた。「最初は石棺をどう運ぶのかさえ想像できなかった」と感激の面もちだった。

 有明海に浮かぶ湯島付近で、最初の寄港地・長崎県口之津町にある口之津海上技術学校の船と合流。海王のこぎ手が同校の学生に交代した。町は手はず通り、のろしを上げて海王接近を町民らに知らせたが、薄い霧のためか船団からは見えなかった。

 口之津港が間近に迫るころ、フェリーと船団の入港時間が重なる恐れが判明、岸に寄って航路を譲った。フェリーの乗客は珍しそうに我々を見た。大阪まで同じようなことはこれから何度もあるのだろう。

 水産大学校端艇部の山田甲子朗主将は到着後、「比較的長い時間、速いスピードで台船を引航できたことが、みんなの自信になる。明日からも頑張ります」と疲れも見せず、笑顔で語った。

古代船「海王」など、初日の寄港地・長崎に到着

2005年07月24日 読売新聞 Yomiuri On-Line

 古代の船や石棺を復元し、熊本から大阪まで航海する「大王のひつぎ実験航海」(石棺文化研究会、熊本県青年塾、読売新聞西部本社など主催)が24日午前、熊本県宇土市の宇土マリーナを出航した。

 途中22か所に寄港しながら、8月26日の大阪南港到着を目指す。

 出航式では、潮谷義子熊本県知事、池田孜読売新聞西部本社社長らがあいさつ。船団は大太鼓が演奏されるなか、地元の小中学生らに見送られ、港を出た。午後4時10分ごろ、初日の寄港地・長崎県口之津港に到着した。

 船団は古代船「海王」と2隻の台船、3隻の動力船の計6隻。有明海から長崎、佐賀、福岡各県の沿岸を北上し、関門海峡を抜けて周防灘へ。愛媛県の港を経て瀬戸内を大阪まで東進する。海王は石棺を載せた台船を引航するが、荒天時や潮流などの条件次第では海王も動力船に引かれる。

<上>歴史発信に意気込む寄港地

2005.06.25 読売新聞 Yomiuri On-Line

 狼煙(のろし)の上げ方を仕事で考えている公務員は、おそらくほかにいないだろう。長崎県口之津町の経済観光課係長、村里真吾さん(45)。「大王のひつぎ実験航海」で古代船「海王」の最初の寄港地となる同町は、狼煙で出迎える。

 村里さんは町の図書館で参考になりそうな本を探した。「戦国時代の道具図鑑」や子供向けの忍者の本には「オオカミのフンを入れる」とあった。村里さんは「漢字からの連想でしょうか。手に入れようがない」と苦笑いした。

 町が狼煙にこだわるのは理由がある。町内の烽火山(のろしやま)は標高わずか88メートルだが、晴れた日には対岸の天草が目の前。有明海に出入りする船を監視するのに最適の場所だ。

 山上には烽火台跡があり、風土記の記述などからも古代から狼煙を上げていた可能性が高い。敵船が確認されれば、狼煙は、口之津から有明海に浮かぶ湯島、肥後、太宰府へとリレーされたという。実験航海でもまず湯島で海王の船影を確認して狼煙を上げ、口之津港到着時には、今度は町の公園で盛大に煙を上げる。

 松尾寿春助役(61)は「子供たちが地元の歴史に興味を持ってくれるだろう。将来の郷土史家を育てるつもりで準備します」と力を込めた。

 瀬戸内の宮窪漁港(愛媛県今治市宮窪町)では、鎧兜(よろいかぶと)の村上水軍が海王を迎える。宮窪町の村上水軍博物館、矢野均館長(58)は「古代船と水軍では時代が違うが、かえって面白い。水軍を全国に発信したい」と言った。

 宮窪町の能島は、戦国時代に活躍した海賊村上武吉の本拠。8月中旬、海王が付近の海域に姿を現せば、復元した村上水軍の「小早船」を海に出す。通行税として五穀米を徴収し、代わりに「過所旗(かしょき)」と呼ばれる通行証を発行。瀬戸内の「無害通行」を保証する。

 海王の寄港地は出航する熊本県宇土市を含め24か所。古代からの交通の要所などを選んだが、当初候補に挙がっていた港の中には、「対応する余裕がありません」と自治体から遠回しに断られたところもある。実行委員会の会議の席で桃崎祐輔福岡大助教授(38)が笑って言った。「古代にひつぎを運んだ時にも歓迎する港ばかりではなかったでしょう。現代も同じですよ」

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 「大王のひつぎ実験航海」(石棺文化研究会、熊本県青年塾、読売新聞西部本社など主催)は、7月24日の出航まで1か月を切った。古代の謎と海への挑戦に向けたさまざまな人たちの努力と寄港地の期待などを紹介し、実験航海の意義を改めて考える。

<下>好奇心に冒険心〜航海に夢膨らむ

2005.06.27 読売新聞 Yomiuri On-Line

 古代の石棺と船を復元して、約1500年前と同じように運んでみようという試みは、人の好奇心や冒険心をなぜか強く刺激する。美しい桜色をした石棺と古代船「海王」の周りで、楽しみながら無償の努力を重ねる人たちの輪が広がっている。

 石棺に使われた阿蘇ピンク石を産出する熊本県宇土市・馬門地区。昨年7月の「修羅曳(ひ)き」は住民総出の「お祭り」だった。

 地元の男たちは修羅(木ぞり)に集まり、石棺をどうやって載せるか、綱の引っ張り方をどうするかなどを大声で議論。大人の興奮にあおられるように子供たちの目も輝いた。

 わずか5メートルだが、総重量約9トンの巨大なモノが動き、300人を超える参加者の達成感は大きかった。近くの神社で開かれた祝いの宴(うたげ)はなかなか終わらず、区長の中口義勝さん(79)は「みんなが久しぶりに一つになった」と目を細めた。

 実験航海の寄港地は、出航する熊本県宇土市を含めて24か所。考古学の研究者らが手分けして訪ね、受け入れ態勢を整えている。

 担当者の仕事はまず、船団の接岸場所の確保。続いて漕(こ)ぎ手の学生たちの宿舎を予約し、食料や水、燃料の購入先を決める。緊急の際に利用できる病院を調べ、漁協に水先案内を頼む。それぞれが時には自分の本来の仕事を犠牲にして働いている。

 航海実行委員会の杉村彰一事務局長(67)が言った。「古代の人たちも港をどうしよう、食料をどうしようと頭を悩ましたはず。大変だが、それを体験することにも意味がある」

 やってみて初めて分かることはたくさんある。たとえば、畿内の大王陵で見つかる阿蘇ピンク石のかけら。巨石をどんな状態で運んだかが謎の一つだったが、航海の計画を練るうち、できるだけ軽くしただろうという見方が強まった。

 海路の労苦を減らすため、おそらくほぼ完成させて運び、最後の仕上げだけを大王陵でした。石のかけらはその時にできたと推測された。

 実験航海では、古代の海路の復元や航海術の解明など学術的探求が行われる。人々の心を熱くする「お祭り」と「研究」の両立が目標だ。

 「お前が変なことを考えたばっかりに苦労する」

 畿内の石棺が阿蘇ピンク石で作られていることを明らかにし、20年近く前に実験航海を発案した宇土市文化振興課長の高木恭二さん(54)は、何度も同じ冗談を言われる。

 今は航海を成功させることだけで頭がいっぱいで、自分が発案したということは、ふだんは忘れているという。「それに航海はもう私だけの夢ではない。みんなの夢になってますから」と笑った。

 石 棺 1998年、大阪府高槻市の今城塚古墳から見つかった阿蘇ピンク石製石棺の破片から復元。蓋(ふた)をした状態で長さ2.4メートル、幅1.2メートル、高さ1.5メートル。重さは蓋が2.9トン、本体が3.8トン。彫刻家の高浜英俊氏が約2か月かけて製作した。

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