TOPIC No.9-8-2 日向国(ひむかのくに)

01.
 日向国 byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
02.
 日向国府跡ひゅうがこくふあと by文化遺産オンライン
03.
 神々の息づく里「日向・高千穂」 2003.11.22,23
04.
 日向神話(ひむか神話)神々の系図
05.
 みやざきの神話と伝承
06.
 都農神社(つの じんじゃ)日向国一之宮 御祭神;大巳貴命(おおなむちのみこと・
 大国主命)byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
07.
 日向国一之宮 都農神社参拝記 by古代文化研究所
08.
 都萬神社(つまじんじゃ) 日向国二宮論社
 byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
09.
 都万(妻萬)神社 御祭神:「木花開耶姫命」2013/10/09
10.
 西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)日本最大級の古墳群 
 byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
11.
 特別史跡公園西都原古墳群


日向国 宮崎県西都市'97.03.18 2003.09.5 by国府物語

 日向は日本発祥の地とされる。 

 古事記に、黄泉の国から逃げ帰った伊邪那伎いざなぎ大神が、

 「吾は いなし こめし こめき 穢きたなき国に到りてありけり。 故かれ、吾は御身みみの禊みそぎせむ。」 とのりたまいて、

  筑紫の日向の橘の小門おどの阿波伎原あはぎはらに到りまして、禊ぎ祓いたまひき。

 とある。このあと禊ぎの中から天照大神や素戔嗚すさのお尊が生まれることになる。

 この日向の橘の小門の阿波伎原は、宮崎県のリゾート地シーガイアになっている。地鎮祭などでよく聞く祝詞の冒頭は、この古事記の記載と同一である。

 天津祝詞

 高天原に  神づまります 神漏岐(かむろぎ)神漏美(かむろみ)の 命以(みことも)ちて 皇親神(すめみおやかみ)伊邪那岐(いざなぎ)の 大神。

 筑紫の 日向(ひむか)の 橘の 小門(をど)の 阿波岐原(あはぎはら)に禊祓(みそぎはら)ひ 給ふ時に 生坐(あれま)せる 

 祓戸(はらへど)の 大神等(おほかみたち)諸々禍事罪穢(もろもろまがことつみけがれ)を 祓(はら)へ 給ひ清め給ふと申す事の由(よし)を

 天つ神  地(くに)つ神  八百万神等共(やほよろづのかみたちとも)に

 天の 斑駒(ふちこま)の 耳振立(みみふりたて)て 聞食(きこしめ)せと 畏(かしこ)み 畏み申す。


 日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、西海道に位置する。現在の宮崎県にあたるが、成立当初は鹿児島県の本土部分をも含んだ。日州(にっしゅう)、また向州(こうしゅう)と呼ばれることもある。延喜式での格は中国、遠国。

令制国以前

 国産み神話においては、筑紫国、豊国、肥国とともに筑紫島(九州)を構成する熊曽国(熊襲)として登場する。他の三国と異なり有力な国造に率いられた統一した「クニ」ではなく、熊襲族の支配した地域であったことが想像される。

それが、現在の大分県方面から、だんだんと大和朝廷の影響下に入り、おそらく熊襲・隼人制圧の拠点として強いつながりを持つようになったのは、4世紀ごろから数多く見られるようになる前方後円墳や天孫降臨や神武東遷といった日向神話により窺うことができる。

令制国以後

日向(ひゅうが)は、古くは「ひむか(東(ひむかし)と同語源か)」と読んでいた。日向国は、7世紀に設けられた。成立時には、現在の宮崎県と鹿児島県の九州本土部分(旧「熊曾国」、別名「建日別」)を領域にしていたが、鹿児島県部分の大半には律令的な制度は未だ及んでおらず、大和朝廷の支配が実質化していなかったと考えられる。大宝2年 (702年) に唱更国(後の薩摩国)、和銅6年 (713年)に大隅国が分立し、以後千数百年に及ぶ日向国の領域が確定した。


三方五湖に春を呼ぶ神事「王の舞」──福井県・宇波西(うわせ)神社

2010年04月23日 リアルライブ 神社ライター 宮家美樹

 雲ひとつない快晴の4月8日(木)、福井県若狭町の宇波西神社の例祭で、国選択の無形民俗文化財指定「王の舞」が奉納された。

 真っ赤な鼻高面に鳳凰の冠、赤い装束で手には鉾。この出で立ちで鉾を突き出し、また身を反らし、膝を深く曲げたりしながら笛や太鼓の囃子にあわせて舞う。勇壮な中にもどこかユーモラスな舞は古い伎楽「竜王の舞」が原型とされ、若狭地方では盛んだ。ことに宇波西神社は特別で、使われる面は、はるか昔、漁の網にかかって引き上げられたものと伝えられている。

 宇波西神社は北陸道唯一の官幣大社として栄えた式内社。祭神は神武天皇の父・鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)で、日向国から渡って来たのが始まり。最初の鎮座地・日向(ひるが)から現在地の久々子湖岸に遷座したのは大同元年(806年)のことという。

 祭は、太刀を頭上に掲げて様子を見守る出神家(現・渡辺家)の登場で始まる。渡辺家は日向国から神霊をお遷しする際に付き従った一族の子孫とされ、故事に基づき代々この役割を担う。また舞手も、海山地区他の四集落の若者のみが順次担当する決まりだ。

 舞人は四方をしっかりガードされている。転倒させれば豊漁豊作になると伝えられるからで、隙を窺う氏子が多いせいだ。今年も舞の最中に二度ほど攻められ、思わず歓声に包まれる場面があった。この後、獅子舞、田楽、子供神輿と続き、春の風物詩は幕を閉じる。

 来月5月1日には、美浜町の彌美(みみ)神社で王の舞が奉納される。こちらも同じく国選択の無形民俗文化財指定。見逃した方はぜひ。

「さいと物産・観光」PR 宮崎県の宣伝隊来社 福岡中央郵便局前でフェア 30日まで

2009年05月29日 西日本新聞朝刊

 宮崎県西都市の魅力を発信する「さいと物産・観光フェア」の宣伝隊が28日、福岡市・天神の西日本新聞社を訪ね、PRした。フェアは天神の福岡中央郵便局前で30日まで開催。

 宮崎県の中央部に位置する西都市は、長い日照時間を生かした農業が盛ん。ピーマンやニラが有名で、さらに夏はマンゴーやスイートコーンが旬でおいしいという。スイートコーンはフェアで1本150円で販売中。

 会場には観光宣伝用ブースも設け、大小約300の古墳が集まる名所、西都原古墳群などをPR。同古墳群に埋葬されていると言われる、コノハナサクヤヒメをイメージした衣装をまとった西都菜の花レディーの林田千恵巳さん(27)は「古墳が数多く広がる迫力を感じに、ぜひ西都市へお越しを」と呼び掛けていた。

宮崎・青島神社で新春の禊、裸まいり

2009/01/14 JanJan大谷憲史

 昨年は見るだけだった宮崎市の青島神社で行われる「裸まいり」を、今年は体験取材した。褌はどこで買えばいいのかなど、参加者ならではの新発見も経て12日に本番を迎える。当日は寒く、最初はどうなることかと思ったが、意外に楽しかった。自分自身と向き合うために、これからも続けたいと思う。

 1月12日、宮崎市青島の青島神社で、新春恒例の「新春の禊(みそぎ)・裸まいり」が行われた。裸まいりは冬祭の一部として、毎年旧暦12月17日の夜に行なわれ、当夜参拝すれば「お百度まいりの十回分」、つまり千日易うると伝えられている。

 年の初めに、寒風をつき海水の中で身を清めるこのみそぎは極めて珍しいもので、冬祭は従来通り旧暦にて斎行されるが、将来的にも継承させていくことを目的に、このお裸まいりだけは成人の日の祝日にあわせて実施されている。

 青島神社のサイトによると、この裸まいりは、その昔、彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)が、にわかに海神宮からご還幸された際、村の人々が衣類をまとう暇もなく裸の姿で取り急ぎお出迎えしたという古事に由来している。

青島神社 元宮

関心空間

 宮崎市・青島にある青島神社

 まるで異国のような亜熱帯植物に囲まれた不思議な景観。

リンク先の画像をご覧ください!)

 その昔は、この島は聖域とされ一般人は立ち入れなかったそうです。

 今も島全体が境内とされており、島内部にその元宮が鎮座しています。

 元宮へ続く道は「御成道」と言われ、亜熱帯植物のビロウが鬱蒼と生い茂り、こぼれ落ちる光が素晴らしく美しい場所です。

 元宮の背後には、素焼きのお皿を投げて吉凶を占う「とうかしょ」や、願いに応じ、色の違うこよりをご神木に結び祈願する「むすひこより」がある。

 ここのご神木は、亜熱帯樹木の「ビロウ樹」。

 本当にここは日本なのかわからなくなるような風景です。

都農神楽を奉納 都農神社で冬例大祭

2008年12月13日 宮崎日日新聞

 都農町・都農神社(永友元夫宮司)で、冬例大祭がこのほどあった。荘厳な雰囲気の中、都農神楽を奉納。1年の無事に感謝し、家内安全を祈願した。

 前夜祭には、町内外から多くの参拝客が訪れた。神楽殿で都農神楽を十一番奉納、熱気あふれる力強い舞を撮影する写真愛好家や熱心に見入る家族連れの姿が見られた。

 境内では、町商工会が振る舞った豚汁やぜんざい、かっぽ酒などが人気。参拝者は、たき火で暖を取りながら味わっていた。

『古代日向・神話と歴史の間』北郷泰道著(ホンゴウ ヒロミチ)

発行年月:2007年12月 みやざき文庫 セブンアンドワイ ヤフー店

 男狭穂・女狭穂の被葬者は?古代日向史の最大の謎が明かされる。宮崎の地から南九州、その先の海と大陸を望んで、中央(畿内)政権と拮抗しつつ、独自の社会を築いた首長たち。考古学の成果を駆使して、古代史の謎に迫る注目の書。


西都原古墳群:国内最古級の前方後円墳の可能性 宮崎

2005年05月18日 毎日新聞

 宮崎県西都市の国特別史跡「西都原(さいとばる)古墳群」にある81号墳が、3世紀中ごろに築造されたと見られる国内最古級の前方後円墳の可能性が高いことが宮崎大の調査で確認された。大和政権は全国の有力豪族が連携して成立したとの見方が近年有力になってきているが、地下式横穴などの独自の葬送文化を持つ南九州は、そのらち外にあったと考えられてきた。奈良盆地とほぼ同時期の前方後円墳の発見により、南九州までが古墳文化の成立にかかわった可能性が出てきた。

 調査した宮崎大の柳沢一男教授(考古学)が22日、東京である日本考古学会総会で発表する。

 調査は04、05年度の2カ年計画。柳沢教授によると、81号墳の後円墳から3世紀中ごろのものと見られるつぼなど計4点の土器が発見され、墳丘の形も前方後円墳出現期に特徴的な前方部が丸みを帯びた「纒向(まきむく)型」で、3世紀中ごろの築造の可能性が高まったという。

 81号墳は西都原台地東端にあり、墳長は46メートル。後円部の高さは3メートル。

 柳沢教授は10年前の論文で既に81号墳が3世紀中ごろにできたものと推定し、調査していた。これまで4世紀とされていた西都原古墳群の築造開始年代も半世紀さかのぼることになる。

 近年の発掘調査の成果により、弥生時代後半から列島各地に地域的な政治連合が形成され、それが相互に結びついていき、近畿から北部九州に至る広域的な政治的まとまりが形成されたというのが、有力となっていた。3世紀半ばから、纒向型古墳がこれらの地域に出現し始め、3世紀後半から墳丘が200メートルを超える巨大な前方後円墳が奈良盆地に相次いで築造されるためだ。

 ただ、地下式横穴などの独特の葬送文化を持つ南九州は全く無関係と考えられてきた。

 柳沢教授は「大和政権と呼ばれているものは全国の豪族が広く連携したシステムと考えられ、南九州の勢力もいち早く、古墳を取り入れたと言えるのではないか」と話している。

日本最大の帆立て貝形古墳 陵墓参考地の西都原古墳群

2005/03/23 The Sankei Shimbun

 宮崎県教育委員会は23日、同県西都市の西都原古墳群内の陵墓参考地、男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳での地中レーダー探査で、男狭穂塚は後円部に短い前方部が付いた「帆立て貝形古墳」と特定したと発表した。帆立て貝形としては奈良県河合町の乙女山古墳(約130メートル)を抜き、日本最大となる。

 男狭穂塚は前方部から後円部にかけての一部が崩れたような形跡があり、これまで墳形が特定されていなかった。

 県教委は形状がはっきりしない前方部西側約4500平方メートルを探査し、データを解析。その結果、周溝や周堤の形状が東側と左右対称で、本来の墳形は前方部前面がやや開く形状の帆立て貝型であることが分かった。

 また前方部西面に沿って埋蔵物らしき反応があった。円筒埴輪(はにわ)か根石の可能性が高いという。

 男狭穂塚は墳長約154メートル。女狭穂塚は墳長約176メートルで九州最大の前方後円墳。ともに5世紀前半の築造とみられる。

 調査は3カ年事業で、レーザー探査機を使用。電磁パルス波を地中に放射し、反射波から構造を調べる。宮内庁が管理する陵墓参考地の地中探査は全国初。(共同)


〈1〉古墳の出現は畿内と同時期

2004年06月19日 古代日向の謎 読売新聞 Yomiuri On-Line

卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳(奈良県桜井市で、本社ヘリから)

 かつて日向国(ひむかのくに)と呼ばれた南九州は、記紀によれば皇祖発祥の地である。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は日向の高千穂峰に降臨、そのひ孫が神武天皇である。こうした神話や伝説にもっともらしさを与えているのが、宮崎平野や志布志湾沿岸に分布する九州最大、全国でも有数の古墳群だ。

 戦後の記紀批判と考古学の成果によって、天孫降臨や神武東征は否定され、これら古墳の被葬者も5世紀にヤマト政権に服属した地方首長とされてきた。ところが近年の考古学の成果は、こうした定説にも見直しを迫っている。というのは南九州の前方後円墳の出現が、畿内とほぼ同じ3世紀後半にさかのぼることがわかってきたからだ。

 古墳の年代は周溝などから出土した土器や円筒埴輪(はにわ)の形式によって推定されるが、未発掘の古墳がほとんどで、発掘されていても遺物が少ない南九州では、こうした手法が採用できない。このため柳沢一男・宮崎大教授(考古学)は古墳の墳形に注目した。

 「その結果、奈良県大和盆地東南部に分布する前期古墳をそのまま縮小したと思われる相似形の古墳が存在することがわかってきたのです」

箸墓古墳の2分の1規格である生目古墳群1号墳(宮崎市で、本社機から)

 例えば宮崎市の生目(いきめ)古墳群1号墳(墳長130メートル)は箸墓(はしはか)古墳(墳長280メートル)の2分の1、鹿児島県高山町の塚崎古墳群10号墳(墳長40メートル)は行燈山(あんどんやま)古墳(崇神天皇陵、墳長240メートル)の6分の1の平面規格という。前方部と後円部の長さの比や、古墳中央部のくびれ具合までぴったり相似することを偶然と見なすわけにはいくまい。

 「これらは畿内の大型古墳の規格に従ったもので、築造時期はモデルの古墳とほぼ同時期と考えられる。定型化した最古の前方後円墳とされる箸墓や、これより古いとされる纒向(まきむく)型古墳と同タイプのものもあり、古墳の出現は畿内とほぼ同時期といえる」

 前方後円墳という共通のシンボルを持つヤマト政権は、畿内勢力が武力で他を従えたというより、初期の古墳が分布する畿内、吉備、讃岐、豊前などの各勢力がヤマトの大王を盟主に抱いた連合政権と考えられている。南九州に初期の古墳が存在する事実は、ヤマト政権成立当初から、日向がその構成員であったことを物語っている。

 こうした勢力は古墳時代に突如出現したわけではなく弥生時代にその萌芽(ほうが)を見いだすことができる。南九州はこれまで弥生文化の僻遠(へきえん)の地とみられていたが、近年の発掘で宮崎市の檍(あおき)遺跡、下郷遺跡など、北部九州や畿内同様に環濠(かんごう)集0619落が存在することが明らかになってきた。

 柳沢さんは日向のヤマト政権参画の目的を「朝鮮半島からの安定した鉄資源の確保にあった」とみる。農具や武器の素材として欠かせない鉄が国産となるのは5世紀末以降でそれまでは朝鮮半島南部(弁辰)からの輸入に頼っていた。「弥生時代まで半島との交渉を握っていた北部九州勢力に頼らず鉄資源を入手するため、瀬戸内海沿岸と日向の勢力が構築した首長ネットワークこそがヤマト政権ではないか」

 日向で当初最も有力だったと考えられるのが生目古墳群を造営した勢力だ。ここでは前述の1号墳を始め、日向の古墳群の中では突出した墳長120―140メートル級の前方後円墳3基が4世紀末まで継続して営まれた。

 ところが5世紀になると同古墳群の古墳は小型化し、代わって西都市の西都原古墳群に2基の巨大古墳が出現する。

     ◆    ◇    ◆

 南九州に営まれた古墳文化を手がかりに、神武東征などの伝説や隼人(はやと)・熊襲(くまそ)の謎に迫る。

〈2〉大王の外戚 権勢示す巨大古墳

2004年06月26日 古代日向の謎 読売新聞 Yomiuri On-Line

森に覆われた女狭穂塚(手前)と男狭穂塚。女狭穂塚は九州最大の前方後円墳だがそれと比べても男狭穂塚の巨大な規模がわかる(本社機から)

 5世紀初頭から前半にかけて、それまで墳長30〜90メートル級の小規模な前方後円墳しかなかった西都原古墳群に、墳長154メートルの男狭穂塚(おさほづか)、墳長176メートルの女狭穂塚(めさほづか)という巨大古墳が出現する。

 男狭穂塚、女狭穂塚は、陵墓参考地として長く研究者が立ち入ることができなかったが、1997年度に宮崎県教委による測量が認められ、詳しい墳丘規格や周堀の構造が明らかにされた。

 その結果、両古墳の被葬者が日向の盟主であることは疑いないとしても、単なる地方の大豪族の墓ということだけでは説明できない謎が出てきた。

 というのは男狭穂塚が「前方後円墳でない」ことが明らかになったからだ。これまで男狭穂塚の墳形は東南部の規格が不明瞭で「遅れて造営された女狭穂塚によって前方部が破壊された」との解釈もあったが、測量で円丘の東南に短い壇状部の張り出しを持つ〈造り出し付き円墳=帆立貝(ほたてがい)式古墳=〉であることがわかった。この形式の古墳としては、奈良県河合町の乙女山古墳(墳長130メートル)をしのぐ日本最大となる。

 この時期の巨大古墳――大王墓や首長墓はほとんどが前方後円墳なのに、なぜこのような変則的な墳形を採用したのだろう。しかも円丘の直径(132メートル)は、典型的な前方後円墳である女狭穂塚の後円部直径(96メートル)を大きく上回るのである。

 県立西都原考古博物館の北郷泰道主幹は、奈良県大和盆地西部の馬見(うまみ)古墳群に、乙女山古墳、池上古墳など5世紀前半の帆立貝式古墳が集中して分布することに注目する。

 記紀によれば、この地域は仁徳天皇の皇后で、履中、反正、允恭の各天皇を生んだ磐之媛命(いわのひめのみこと)の出自である葛城(かずらき)氏の本拠とされている。

 「一般に帆立貝式古墳は、前方後円墳の築造が認められなかった1ランク下の勢力が築いたと考えられているが、果たしてそうだろうか。むしろこの時期に仁徳天皇と姻戚(いんせき)関係を持つ豪族が他の豪族とは異なる独自の地位を誇示するために採用した墳形であると考えるべきではないか」

 記紀に仁徳天皇の外戚として葛城襲津彦(かずらきのそつびこ)とともに名前が登場するのが、日向国の諸県君(もろがたのきみ)牛諸井(うしもろい)という人物だ。

 牛諸井の娘髪長媛(かみながひめ)は、仁徳天皇との間に大草香皇子(おおくさかのみこ)、幡梭皇女(はたびのひめみこ)を生んでいる。

 北郷さんは「男狭穂塚、女狭穂塚の被葬者はそれぞれ牛諸井と髪長媛ではないか」と推理する。

 女狭穂塚の規格は測量により、大阪府藤井寺市の仲津山古墳(墳長286メートル)の5分の3の相似形であることが明らかになった。仲津山古墳が属する古市古墳群は、応神・仁徳朝の古墳群と考えられている。

 男狭穂塚と女狭穂塚は、2つの古墳がほぼ同時期に近接して営まれていることから、被葬者同士が極めて近い関係だったことは疑いない。女狭穂塚はその規模だけでなく畿内の大王墓と見まがうような見事な盾形の周堀を持っていることからも、被葬者は大王妃である髪長媛にふさわしいし、それに寄り添うように築かれた巨大な男狭穂塚は、その父親であり大王の外戚である牛諸井の権勢を内外に示したものといえそうだ。

 応神紀によれば髪長媛の輿(こし)入れのとき諸県君一族は角のついたシカの皮を着て海を渡ってきた。異形の集団として描かれているのは、諸県君が熊襲(くまそ)や隼人(はやと)と呼ばれた人々と同系だったことを示唆しているのかもしれない。ヤマトの大王がこうした異形の集団と急接近するきっかけは何だったのだろう。

〈3〉「神武東征」伝説の背景

2004年07月03日 古代日向の謎 読売新聞 Yomiuri On-Line

河内大王家が大阪湾岸に営んだ百舌鳥古墳群。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、ミサンザイ古墳(履中天皇陵)など超巨大古墳が点在する(大阪府堺市、本社ヘリから) 4世紀末にヤマト政権は大きな転換期を迎える。

 それまで規模において他と隔絶した巨大古墳=大王墓は、奈良県大和盆地の大和(おおやまと)・柳本古墳群、佐紀古墳群に営まれていたのが、大阪府河内平野の百舌鳥(もず)、古市古墳群に移動する。そして5世紀には大仙(だいせん)陵古墳(仁徳天皇陵)(墳長486メートル)などの超巨大古墳が出現する。

 これはヤマト政権の盟主権が大和盆地の勢力から河内平野の勢力に移ったことを示すものと理解されている。

 白石太一郎・奈良大教授(考古学)は背景に、高句麗の南下に伴う朝鮮半島の緊迫をみる。中国吉林省集安の広開土王碑によると391年以降、倭(ヤマト政権)は百済や伽耶(かや)諸国と結んで半島に出兵、高句麗としばしば戦っている。

 「従来の宗教的権威に依存する古い王権ではこのような情勢に対応できず、外交や軍事、交易を担っていた河内の勢力が台頭したのだろう。5世紀の古墳に鏡や玉類に代わって朝鮮半島系の鉄製馬具や甲冑(かっちゅう)が副葬されるようになるのも、被葬者の性格が司祭者から軍事指揮官へと転換したことを示している」

 一方、日向でも4世紀まで最大の古墳は生目(いきめ)古墳群に営まれていたのが、5世紀には西都原古墳群に男狭穂塚(おさほづか)、女狭穂塚(めさほづか)が出現する。こうした盟主権の変動は吉備や上毛野(かみつけの)でも認められ、柳沢一男・宮崎大教授(考古学)は「畿内の政治的変動に連動して地方の勢力も再編された。南九州では生目に代わって西都原の勢力が盟主の座についた」とみている。

 記紀は皇室を万世一系としているが、古代史の分野でも、系譜の詳細な検討や和風諡号(しごう)(おくりな)の比較などから、応神天皇を境に王朝が交代したとする学説が有力で、それぞれの始祖の天皇や根拠地から旧王朝を崇神王朝(三輪王朝)、新王朝を応神王朝(河内王朝)と呼んでいる。

 塚口義信・堺女子短大学長(日本古代史)は、考古学的にうかがえる盟主権の変動を投影した記述として、仲哀記、神功紀に見える忍熊王(おしくまのみこ)の反乱を挙げる。

 仲哀天皇没後、神功皇后が三韓征伐を終え、生後まもない誉田別皇子(ほむたわけのみこ)を伴い筑紫から大和へ帰還する際、皇子の異母兄の忍熊王らが「吾等(われら)何ぞ兄を以て弟に従はむ」と挙兵した。皇后は詭計(きけい)を用いて忍熊王を破り、誉田別皇子が皇太子となる。のちの応神天皇だ。

 「忍熊王の反乱の実体は、朝鮮半島政策を巡る4世紀末のヤマト政権の内部分裂で、その結果、応神が大王家の正当な後継者である忍熊王を打倒して河内王朝を樹立した。日向の諸県君(もろがたのきみ)一族が河内大王家の姻族となっているのは、彼らが応神側に加担し勝利に貢献したことを物語っている」

 塚口さんはさらに、いわゆる神武東征――初代天皇を日向出身とする伝説も、5世紀の河内王朝の時代に、4世紀末の内乱をモデルに構想されたものとみる。つまり王権を簒奪した河内大王家と諸県君一族が、皇祖はもともと日向出身とすることによって、自らを正当化しようとしたというのだ。

 日向を出発した神武天皇の船団は、河内の草香邑(くさかのむら)の白肩之津(しらかたのつ)(東大阪市)に上陸する。この草香こそは5世紀代、諸県君一族の髪長媛(かみながひめ)と仁徳天皇の間に生まれた大草香皇子(おおくさかのみこ)ら日向系王族の拠点だった。

 「神武が日向を出発し草香に上陸しているのは偶然とは思えない。神武が大和の在地豪族長髄彦(ながすねびこ)を破り、橿原宮(かしはらのみや)(奈良県橿原市)で即位したとする記述も、応神が忍熊王を破り軽島の明宮(あきらのみや)(同)で即位したことに対応している」

 ヤマト政権の初代天皇が大和を攻め滅ぼして即位するという不自然な伝説の背景には、河内王朝の成立事情が絡んでいたことになる。

〈4〉熊襲のモデル? 独自の社会

2004年07月10日 古代日向の謎 読売新聞 Yomiuri On-Line

島内21号地下式横穴墓で出土した短甲(えびの市歴史民俗資料館提供)

 記紀は南九州を皇祖発祥の地として尊ぶ一方で、熊襲(くまそ)(熊曾)という「伏(まつろ)はず礼无(な)き人等」の居住地ともしており、景行天皇や日本武尊(やまとたけるのみこと)の討伐伝説を伝えている。

 この討伐伝説を史実とみることはできないが、古墳時代の南九州にヤマト政権と一線を画す独自の文化圏があったことは、考古学的にも地下式横穴墓、地下式板石積石室墓(いたいしづみせきしつぼ)という独自の墳墓の分布からわかる。

 前者は竪穴を掘ってその底から横に遺体を埋葬する玄室をつくるもの、後者は竪穴を掘って底部に石室を作り上部を板石を積み重ねて覆うもので、いずれも墳丘でなく地下に埋葬施設を持つのが特徴だ。

 それぞれの墳墓の分布は図のようになり、東の地下式横穴墓、西の地下式板石積石室墓という二大分布圏があることがわかる。これに対し、ヤマト政権の墓制である前方後円墳は沿岸部に分布するに過ぎない。考古学的には古墳時代の終わり=7世紀末まで、ヤマト政権は内陸部まで進出することはできなかったとみるほかない。

 しかし、宮崎平野や志布志湾沿岸などでは前方後円墳と地下式横穴墓が共存しており、双方が接触していたことも間違いない。

 上村俊雄・鹿児島国際大教授(考古学)は、地下式横穴墓が前方後円墳より遅れて5世紀に出現することに注目、「土着の勢力がヤマト政権への服属を契機に地下式横穴墓という独自の墓制を発達させた」とみている。

 「副葬品の甲冑(かっちゅう)や刀、馬具などの鉄製品は畿内系で、ヤマト政権からの下賜品と考えられる。熊襲討伐の記事が何らかの史実を反映しているものとすれば、5世紀代の地下式横穴墓の勢力の服属をいっているのではないか」

 こうした推理を補強するのが中国の史書『宋書』の〈倭王武の上表文〉だ。478年に倭王武が宋の順帝に官爵を求めた文書で、「躬(みずか)ら甲冑を■(つらぬ)き、山川を跋渉(ばっしょう)し寧處(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人五十五国を征し、西は衆夷(しゅうい)六十六国を服す」と父祖以来の覇業を誇示している。

 倭王武は記紀の天皇在位年や和風諡号(しごう)から雄略天皇(大泊瀬幼武天皇=おおはつせのわかたけのすめらみこと=)とするのが通説だ。誇張もあるだろうが、この上表文自体が、日本武尊の蝦夷(えみし)、熊襲討伐を連想させるものだ。

 川内川上流域の宮崎県えびの市小木原、島内両遺跡にはそれぞれ推定数百基の地下式横穴墓群があり、前方後円墳の社会とは対照的に、突出した首長を持たない社会であったことがわかる。景行天皇が熊襲を「衆類(ともがら)甚(はなは)だ多し。是(これ)を熊襲の八十(やそ)梟帥(たける)と謂ふ」と語っているのは、こうした社会を表現したものであり、「衆夷六十六国」にも通じるものだ。

 一方、地下式板石積石室墓も鹿児島県吉松町永山、大口市平田、焼山遺跡などで百基を超す墓群が確認され、やはり「八十梟帥」を思わせる社会だが、起源は弥生時代にさかのぼり、北部九州の墓制である支石墓の影響を受けたともいわれる。

 西都原考古博物館の北郷泰道主幹は「地下式横穴墓群の勢力は諸県君(もろがたのきみ)を通じてヤマト政権と結びついたのに対し、地下式板石積石室墓の勢力は、北部九州の勢力と結びついて、これに対抗したのではないか」と推測する。

 地下式板石積石室墓が6世紀に衰退するのは、継体天皇のヤマト政権が筑紫君磐井(つくしのきみいわい)を破った、磐井戦争(527〜28年)の結果を反映したものとみることもできる。

 このように熊襲のモデルとみられる勢力にも地域差があり、ヤマト政権との関係も一様ではない。こうした地域差はのちの隼人(はやと)にも受け継がれていく。(■は還のしんにょうがてへん)

〈5〉アメとムチの隼人支配

2004年07月17日 古代日向の謎 読売新聞 Yomiuri On-Line

天孫降臨の地とされる霧島山系の高千穂峰の山頂(標高1574メートル)には「天の逆鉾」が立つ

 熊襲(くまそ)が景行天皇や神功皇后の時代に登場する伝説的存在であるのに対し、隼人(はやと)は、記紀がまさに編さん中の7世紀末の記述の中に登場し、また文武元年(697年)以降の歴史を扱った次の正史『続日本紀』にも記録された、実在が確かな南九州の部族だ。熊襲同様に「蛮夷(ばんい)」とされる一方、記紀神話によれば、その出自は天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)につながる貴種とされている。

 瓊瓊杵尊は日向の襲(そ)の高千穂峰に降臨し、吾田(あた)の長屋の笠狭碕(かささのみさき)で木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と結婚。海幸彦、山幸彦をもうける。この海幸彦こそ隼人の祖とされている。

 山幸彦は海神(わたつみ)からもらった潮満瓊(しおみちのたま)、潮涸瓊(しおひのたま)の力で潮を自在に操り、意地悪な兄に仕返しする。海幸彦は「僕(あ)は今より以後(のち)、汝命(いましみこと)の昼夜の守護人(まもりびと)と為りて仕へ奉らむ」と弟に服属を誓う。

 山幸彦は神武天皇の祖父であり、この説話が隼人に対する天皇家の優位性を語るものであることは明らかだ。しかしなぜ隼人と天皇家を同祖とする必要があったのだろう。

 中村明蔵・鹿児島国際大教授(地域史)は、これら日向神話の舞台が襲(鹿児島県国分市周辺)、吾田(万之瀬川下流域)など熊襲や隼人の根拠地とされる地域で、内容的にも南方系の要素が強いことに注目、「日向神話はもともと隼人が伝承していた神話」とみている。

 「隼人の神話を取り込んだうえで、隼人を朝廷に服属させることを正当化するための造作を加えたものが記紀の日向神話。そこには記紀編さん時の、南九州、南島の領域化という朝廷の政治的関心、意図が強く反映している」

 『日本書紀』に見える隼人は概して朝廷に服属的で、天武11年(682年)以降、阿多隼人、大隅隼人といった諸部族が朝貢している。ところが『続日本紀』の時代になると、朝廷は隼人の〈反乱〉に直面する。大宝2年(702年)には薩摩、多■(たね)(種子島)の隼人、和銅6年(713年)には大隅国の隼人が背き、征討軍を派遣して鎮圧する事態になった。

 原因は直前に朝廷が実施した日向国からの薩摩、大隅国の分割とそれに伴う戸籍調査、中央からの国司の派遣にあったとみられる。唐や新羅をモデルとする中央集権国家の建設を進める朝廷は、それまで朝貢国扱いとはいえ独立を認めていた隼人を、直接支配しようとしたのだ。

 和銅7年(714年)には隼人を「相勧め導かしむ」ため、豊前国から隼人の居住地へ200戸の移民が行われた。10世紀の百科事典『和名抄』に大隅国桑原郡に豊国郷の名が見えることから移住先は桑原郡とみられている。このほか薩摩国高城郡には肥後国の郡名と同じ合志、飽多、宇土、託萬の郷名が見えることから、薩摩国には肥後国からの移民が行われたようだ。

 「桑原郡は大隅国の、高城郡は薩摩国の国府所在地であり、国府周辺を移民で固めて、隼人の分断や監視の役割を担わせた」と中村さん。大隅国府跡近くにある鹿児島神宮(鹿児島県隼人町)に、八幡信仰が見られるのも、「宇佐神宮(大分県宇佐市)の信仰が豊前国からの移民とともにこの地に入ってきたもの」だという。

 隼人諸部族には6年交代での朝貢を義務付けるとともに、和銅3年(710年)には、日向隼人の曾君(そのきみの)細麻呂を外従5位下に叙するなどの懐柔策もとった。記紀に隼人の神話を巧みに取り入れ、隼人と天皇家をともに天孫系とする造作は、日鮮同祖論と同種の理屈付けであろう。

 こうしたアメとムチによる隼人支配が進む中で、養老4年(720年)2月末、隼人が大隅国守陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)を殺害、翌年にかけて隼人と朝廷の間に最大規模の軍事衝突が起こる。(■は示へんに執の字)

〈6〉律令国家に最後の抵抗

2004年07月24日 古代日向の謎 読売新聞 Yomiuri On-Line

修復で往時の姿を取り戻した隼人塚。石塔の四方に四天王像が立つ(鹿児島県隼人町で)

 隼人(はやと)諸部族の中でも、養老4年(720年)に最大最後の「反乱」を起こした部族の根拠地は、事件のきっかけが大隅国守の殺害だったことから、大隅国府のあった錦江湾奥部沿岸――鹿児島県国分市や隼人町周辺であると考えられている。

 ところが考古学的にこの地域は、前方後円墳はもちろん、熊襲(くまそ)や隼人の墓制ともいわれる地下式横穴墓や、地下式板石積石室墓の分布圏からも外れた、墳墓の空白地帯となっている。

 隼人町教委の藤浪三千尋文化財室長は「空白地帯というのは何も文化圏がなかったわけではなく、石による墳墓への埋葬を拒み続けた文化圏といえるのではないか」とみる。

 「例えば水葬のような独自の風習があったのかもしれない。隼人のなかでも、地下式横穴墓の勢力のように早くからヤマト朝廷に服属した勢力もあれば、最後まで抵抗した勢力もあった。朝廷が錦江湾沿岸に大隅国府を置いたのは、抵抗するこの地の隼人を支配するためのくさびだったのでは」

 隼人町役場に近いJR日豊線沿いには、町名の由来ともなった、隼人塚と呼ばれる石塔3基と四天王の石像が立つ小丘があり、「反乱」で殺された隼人の霊を供養するためのものと伝えられている。

 ただこの種の伝承は後世の付会である場合が多く、果たして1999年度まで町教委が行った修復に伴う発掘調査の結果、小丘は墳墓ではなく、石塔や石像の様式から、平安時代後期の仏教遺跡であることが明らかにされた。

 「それでもこの石塔石像が隼人供養のための建立である可能性は否定できない」と藤浪さんはみる。それは、隼人塚が鹿児島神宮の放生会(浜下り)と密接に関係した場所とみられているからだ。

 放生会は仏教の不殺生の戒めに基づき鳥魚を野や海に放つ法会で、1934年以来途絶えていたのが、2000年に復興された。『鹿児島神社旧記』は起源を「養老四年大隅日向隼人等乱を起こす……八幡大神に祈り是(これ)を討つ。数多の隼人命を落とす。依(よ)りて其の怨霊を慰めん為の祭也」と伝える。

 「この放生会の浜下りのコース上に隼人塚はあり、江戸時代にはここで神事や神楽舞が行われたとの記録がある。おそらく隼人の供養を行っていたのでしょう」

 『続日本紀』によれば、隼人の「反乱」を受けて、朝廷は歌人としても知られる大伴旅人を征隼人持節(じせつ)大将軍とする征討軍を派遣した。「反乱」の実体は、7世紀末からヤマトの支配が強化されたことに対する「抗戦」であったとみられるが、戦いは1年数か月間続き、「斬首獲虜(かくりょ)合わせて千四百余人」と記録する。隼人は敗れ、律令国家に組み込まれた。

 律令制で隼人は衛門府の隼人司(はやひとのつかさ)に属し、宮門の警備や、元日や即位、外交使節の入朝などの儀式に武装して参列する〈天皇の守護人〉とされた。一見格好いいが官人の入場の際に、犬のような吠声(はいせい)を発する役割だ。6年交代の朝貢も継続され公民と区別され続けた。

 中村明蔵・鹿児島国際大教授(地域史)は「かつて朝廷に歯向かった蛮族が天皇に服属していることを演じさせることで、天皇の権威を高めようとしたもの」とみる。隼人の公民化は、延暦19年(800年)の大隅、薩摩国への班田制施行と、翌年の朝貢停止令を待たねばならなかった。

 隼人という言葉はその勇猛迅速な性質を表したともいわれるが、要は熊襲や蝦夷(えみし)、土蜘蛛(つちぐも)と同種の蔑称である。しかし彼らの現在の子孫たちはこれを美称として受け取り、町名や人名に好んで用いている。それは鈍感さからというよりは、薩摩隼人が禁裏の守護と称して江戸幕府を打倒し、ついに天下を取った誇りある歴史からきているのだろう。


<古墳のレーダー調査、宮内庁認める>

2004年05月21日 読売新聞 Yomiuri On-Line

今年度からレーダー探査を行う西都原古墳群の女狭穂塚(手前)と男狭穂塚=本社機から

 ◇「尊厳」より"規制緩和"へ

 今年に入り、天皇陵などの学術調査について"規制緩和"の期待が強まっている。皇室の「尊厳」を理由に慎重姿勢だった宮内庁が、宮崎県にある古墳のレーダー探査を初めて認めたからだ。国会でも学術調査の是非が取り上げられ、古代史を見はるかす論議が続いている。

 「宮内庁は学問の発展のため、研究者に古墳を公開してほしい」。三月下旬の参院内閣委員会で、委員の一人が、真偽が長年論じられている天皇陵に触れ、研究者の立ち入りを認めるよう迫った。同庁の羽毛田(はけた)信吾次長が答弁に立ち、「天皇の祖先の墓として祭祀(さいし)が行われてきた重みがあり、慎重に臨みたい」と従来の説明を繰り返した。

 宮内庁は、歴代天皇などの「陵」、皇族の「墓(ぼ)」を管理しているが、この中には、被葬者に疑問があるものも少なくない。継体天皇陵とされる大阪府茨木市の前方後円墳「太田茶臼山古墳」だが、学界の定説では約一・五キロ東にある、陵墓に指定されていない「今城塚古墳」の方が、出土品から見ても"真の継体天皇陵"とされる。

 学界は一九七六年、「陵墓指定は科学的な信ぴょう性が乏しい」と、古代陵墓の学術調査を求める声明を出した。

 これに対し宮内庁は、一貫して見解を変えてこなかったが、今年度、宮崎県の西都原古墳群内の陵墓参考地「男狭穂塚(おさほづか)」「女狭穂塚(めさほづか)」で、レーダーによる外周部の地中探査を初めて許可。宮内庁陵墓課は今回の "規制緩和"を、「観光資源の整備に力を入れる宮崎県に配慮した例外措置」としている。

 変化の兆しとも見える同庁の姿勢に、古墳に詳しい森浩一・同志社大名誉教授は「学問が未発達だった当時の陵墓指定を検討し直すのは自然なこと。立ち入り調査ぐらいは認めるべきだ。皇室にとっても重要な事だと思う」と話している。 --------------------------------------------------------------------------------

 <陵と墓>歴代天皇や皇后、皇太后、太皇太后の「陵」は188、その他の皇族の「墓(ぼ)」は552に上る。さらに、皇室関係者が埋葬された可能性がある46の「陵墓参考地」、火葬塚や灰塚を合わせると、宮内庁が管理する墓所は896に上る。

日本最大の「墓室」を確認

2002年09月26日 読売新聞 Yomiuri On-Line

 宮崎市の古墳「檍(あおき)1号墳」(前方後円墳)で、日本最大の木槨(もっかく)を確認したと、宮崎大教育文化学部の柳沢一男教授(考古学)が26日、発表した。古墳内に木棺を収めるため木造で設けられた墓室で、九州で確認されたのは初めて。

 柳沢教授によると、木槨は幅4メートル、長さ7・2メートル、高さ1・5メートル。これまで最大とされている奈良県桜井市のホケノ山古墳(幅2・7メートル、長さ6・7メートル、高さ推定1・5メートル)を上回る規模。

 墳内では時代の異なる2つ以上の埋葬施設が見つかっているが、木槨近くからは土師(はじ)器が見つかっており、これが木槨に伴うものならば、これまで確認された木槨の中で最も年代の新しい3世紀後期から4世紀前半(古墳時代前期)の可能性もあるという。

 木槨は砂丘の柔らかい砂を長方形に掘り下げた地下室に、木張りで組み立てたと推定される。使用した木材はすでに腐植し、残っていないという。埋葬品などの調査はまだ行っていない。

 ホケノ山古墳で発掘調査を指揮した河上邦彦・橿原考古学研究所付属博物館長は「九州には木槨はないと思われていたが、四国や畿内との交流があったとみられ、新たな文化的な流れが解明できるかもしれない」と話している。

 現場を確認した石野博信・徳島文理大教授(日本考古学)は「古墳の形式は畿内で見られるものと同じで、広い空間を置く埋葬の仕方は、大陸の様式と同じだ。この地方に大和政権とのつながりがあり、なおかつ朝鮮半島との交流を行っていた有力な豪族がいたと推測される」と話している。


日向神話

2007年10月07日 宮崎日日新聞

地域に密着した資源生かそう

 古事記、日本書紀、いわゆる「記紀」で語られる神話は高天原たかまがはら、出雲、日向神話である。高天原は天上界の話なので、“地上”の話は日向、出雲だけとなる。

 格差の広がる地方と都市圏。一方の代表格、富める東京都が、どんな手段に訴えたところで、神話だけは手に入らない。独自性があり、全国に誇れる、これほどの観光資源を放っておく手はない。

 本年度、県も「新みやざき創造戦略」で神話・伝説をメーンテーマとするパンフレット作製や、それらの地を巡る交流・体験の長期滞在メニュー化推進などを打ち出している。ようやく日向神話が脚光を浴び始めた。

■「道具」にされた歴史■

 「天皇家の“ふるさと”日向をゆく」の著者、梅原猛さんが「戦前から戦中にかけて、日向神話の事実性が声高に叫ばれた。(中略)国家主義的思想を鼓舞し、神話が軍国主義の道具とされたわけであるが、戦後はそれに懲りて、逆に神話を歴史からまったく切り離してしまったのである」と論じているように、日向神話は不幸な歴史を背負わされた。表だって話される機会も少なかった。

 しかし、なぜ「記紀」で日向が天孫降臨の地とされたのか、祓詞(はらいことば)にある「筑紫の日向の橘の小門(小戸)の阿波岐原の」のように、なじみの地名が数多く登場するのかなど興味は尽きず、また日向市美々津地区で旧暦8月1日の夜行われる、神武天皇の東遷神話「お舟出伝説」に由来した「おきよ祭り」のように、地域に溶け込んでいる神話も少なくない。

 創造性も豊かである。

 「宮崎の神話伝承」(甲斐亮典著、鉱脈社)や県が発行している「ひむか神話街道50の物語集」などで、多くの神話が紹介されているが、日南市鵜戸神宮の亀石伝説、西都市銀鏡のいわれなど、けっこう人間くさくユーモラスな話も多い。

■風土を知る手掛かり■

 真実性、「記紀」の作られた背景など、いろいろな議論があるのも確かである。なぜいま神話なのかと問われても、明確に答えることは難しい。

 しかし神話の深層をかいま見ることで、宮崎の風土、県民性、文化をあらためて知る手掛かりになるのではないだろうか。

 平成17年度の県外観光客数は450万人。県は同戦略で、年5%増で算定した547万人を平成22年度の目標に設定している。

 財政的に余裕のない本県。目標達成のために神話は、ある意味、切り札的な存在である。テーマパークなど「つくられた資源」は、開設後のリニューアルをはじめ、常に話題を提供していく宿命があり集客にも限界があるが、神話のように「その地に密着した資源」は、その限りでない。

 高千穂町の天岩戸神社、高千穂神社、美郷町の神門神社、西都原古墳群、宮崎市の江田神社、日南市の鵜戸神宮、高原町の狭野神社、高千穂峰など県内の神話・伝説ゆかりの地を南北に結んだ「ひむか神話街道」の基本的なインフラ整備をはじめ残された課題は多い。早急な解消が求められる。

 スピリチュアルがブームである。県内にもスポットが数多くある。安易な便乗は禁物だが、人気は急上昇中である。ブームを一過性のものに終わらせないためにも、地域資源の掘り起こしをもっともっと進めたい。まずは神話を知ることも重要な要素である。

古代日向の謎〈1〉古墳の出現は畿内と同時期

2004.06.19 読売新聞 Yomiuri On-Line

卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳(奈良県桜井市で、本社ヘリから)

 かつて日向国(ひむかのくに)と呼ばれた南九州は、記紀によれば皇祖発祥の地である。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は日向の高千穂峰に降臨、そのひ孫が神武天皇である。こうした神話や伝説にもっともらしさを与えているのが、宮崎平野や志布志湾沿岸に分布する九州最大、全国でも有数の古墳群だ。

 戦後の記紀批判と考古学の成果によって、天孫降臨や神武東征は否定され、これら古墳の被葬者も5世紀にヤマト政権に服属した地方首長とされてきた。ところが近年の考古学の成果は、こうした定説にも見直しを迫っている。というのは南九州の前方後円墳の出現が、畿内とほぼ同じ3世紀後半にさかのぼることがわかってきたからだ。

 古墳の年代は周溝などから出土した土器や円筒埴輪(はにわ)の形式によって推定されるが、未発掘の古墳がほとんどで、発掘されていても遺物が少ない南九州では、こうした手法が採用できない。このため柳沢一男・宮崎大教授(考古学)は古墳の墳形に注目した。

 「その結果、奈良県大和盆地東南部に分布する前期古墳をそのまま縮小したと思われる相似形の古墳が存在することがわかってきたのです」

箸墓古墳の2分の1規格である生目古墳群1号墳(宮崎市で、本社機から)

 例えば宮崎市の生目(いきめ)古墳群1号墳(墳長130メートル)は箸墓(はしはか)古墳(墳長280メートル)の2分の1、鹿児島県高山町の塚崎古墳群10号墳(墳長40メートル)は行燈山(あんどんやま)古墳(崇神天皇陵、墳長240メートル)の6分の1の平面規格という。前方部と後円部の長さの比や、古墳中央部のくびれ具合までぴったり相似することを偶然と見なすわけにはいくまい。

 「これらは畿内の大型古墳の規格に従ったもので、築造時期はモデルの古墳とほぼ同時期と考えられる。定型化した最古の前方後円墳とされる箸墓や、これより古いとされる纒向(まきむく)型古墳と同タイプのものもあり、古墳の出現は畿内とほぼ同時期といえる」

 前方後円墳という共通のシンボルを持つヤマト政権は、畿内勢力が武力で他を従えたというより、初期の古墳が分布する畿内、吉備、讃岐、豊前などの各勢力がヤマトの大王を盟主に抱いた連合政権と考えられている。南九州に初期の古墳が存在する事実は、ヤマト政権成立当初から、日向がその構成員であったことを物語っている。

 こうした勢力は古墳時代に突如出現したわけではなく弥生時代にその萌芽(ほうが)を見いだすことができる。南九州はこれまで弥生文化の僻遠(へきえん)の地とみられていたが、近年の発掘で宮崎市の檍(あおき)遺跡、下郷遺跡など、北部九州や畿内同様に環濠(かんごう)集0619落が存在することが明らかになってきた。

 柳沢さんは日向のヤマト政権参画の目的を「朝鮮半島からの安定した鉄資源の確保にあった」とみる。農具や武器の素材として欠かせない鉄が国産となるのは5世紀末以降でそれまでは朝鮮半島南部(弁辰)からの輸入に頼っていた。「弥生時代まで半島との交渉を握っていた北部九州勢力に頼らず鉄資源を入手するため、瀬戸内海沿岸と日向の勢力が構築した首長ネットワークこそがヤマト政権ではないか」

 日向で当初最も有力だったと考えられるのが生目古墳群を造営した勢力だ。ここでは前述の1号墳を始め、日向の古墳群の中では突出した墳長120―140メートル級の前方後円墳3基が4世紀末まで継続して営まれた。

 ところが5世紀になると同古墳群の古墳は小型化し、代わって西都市の西都原古墳群に2基の巨大古墳が出現する。

     ◆    ◇    ◆

 南九州に営まれた古墳文化を手がかりに、神武東征などの伝説や隼人(はやと)・熊襲(くまそ)の謎に迫る。

古代日向の謎〈2〉大王の外戚 権勢示す巨大古墳

2004.06.26 読売新聞 Yomiuri On-Line

森に覆われた女狭穂塚(手前)と男狭穂塚。女狭穂塚は九州最大の前方後円墳だがそれと比べても男狭穂塚の巨大な規模がわかる(本社機から)

 5世紀初頭から前半にかけて、それまで墳長30〜90メートル級の小規模な前方後円墳しかなかった西都原古墳群に、墳長154メートルの男狭穂塚(おさほづか)、墳長176メートルの女狭穂塚(めさほづか)という巨大古墳が出現する。

 男狭穂塚、女狭穂塚は、陵墓参考地として長く研究者が立ち入ることができなかったが、1997年度に宮崎県教委による測量が認められ、詳しい墳丘規格や周堀の構造が明らかにされた。

 その結果、両古墳の被葬者が日向の盟主であることは疑いないとしても、単なる地方の大豪族の墓ということだけでは説明できない謎が出てきた。

 というのは男狭穂塚が「前方後円墳でない」ことが明らかになったからだ。これまで男狭穂塚の墳形は東南部の規格が不明瞭で「遅れて造営された女狭穂塚によって前方部が破壊された」との解釈もあったが、測量で円丘の東南に短い壇状部の張り出しを持つ〈造り出し付き円墳=帆立貝(ほたてがい)式古墳=〉であることがわかった。この形式の古墳としては、奈良県河合町の乙女山古墳(墳長130メートル)をしのぐ日本最大となる。

 この時期の巨大古墳――大王墓や首長墓はほとんどが前方後円墳なのに、なぜこのような変則的な墳形を採用したのだろう。しかも円丘の直径(132メートル)は、典型的な前方後円墳である女狭穂塚の後円部直径(96メートル)を大きく上回るのである。

 県立西都原考古博物館の北郷泰道主幹は、奈良県大和盆地西部の馬見(うまみ)古墳群に、乙女山古墳、池上古墳など5世紀前半の帆立貝式古墳が集中して分布することに注目する。

 記紀によれば、この地域は仁徳天皇の皇后で、履中、反正、允恭の各天皇を生んだ磐之媛命(いわのひめのみこと)の出自である葛城(かずらき)氏の本拠とされている。

 「一般に帆立貝式古墳は、前方後円墳の築造が認められなかった1ランク下の勢力が築いたと考えられているが、果たしてそうだろうか。むしろこの時期に仁徳天皇と姻戚(いんせき)関係を持つ豪族が他の豪族とは異なる独自の地位を誇示するために採用した墳形であると考えるべきではないか」

 記紀に仁徳天皇の外戚として葛城襲津彦(かずらきのそつびこ)とともに名前が登場するのが、日向国の諸県君(もろがたのきみ)牛諸井(うしもろい)という人物だ。

 牛諸井の娘髪長媛(かみながひめ)は、仁徳天皇との間に大草香皇子(おおくさかのみこ)、幡梭皇女(はたびのひめみこ)を生んでいる。

 北郷さんは「男狭穂塚、女狭穂塚の被葬者はそれぞれ牛諸井と髪長媛ではないか」と推理する。

 女狭穂塚の規格は測量により、大阪府藤井寺市の仲津山古墳(墳長286メートル)の5分の3の相似形であることが明らかになった。仲津山古墳が属する古市古墳群は、応神・仁徳朝の古墳群と考えられている。

 男狭穂塚と女狭穂塚は、2つの古墳がほぼ同時期に近接して営まれていることから、被葬者同士が極めて近い関係だったことは疑いない。女狭穂塚はその規模だけでなく畿内の大王墓と見まがうような見事な盾形の周堀を持っていることからも、被葬者は大王妃である髪長媛にふさわしいし、それに寄り添うように築かれた巨大な男狭穂塚は、その父親であり大王の外戚である牛諸井の権勢を内外に示したものといえそうだ。

 応神紀によれば髪長媛の輿(こし)入れのとき諸県君一族は角のついたシカの皮を着て海を渡ってきた。異形の集団として描かれているのは、諸県君が熊襲(くまそ)や隼人(はやと)と呼ばれた人々と同系だったことを示唆しているのかもしれない。ヤマトの大王がこうした異形の集団と急接近するきっかけは何だったのだろう。

古代日向の謎〈3〉「神武東征」伝説の背景

2004.07.03 読売新聞 Yomiuri On-Line

河内大王家が大阪湾岸に営んだ百舌鳥古墳群。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、ミサンザイ古墳(履中天皇陵)など超巨大古墳が点在する(大阪府堺市、本社ヘリから)

 4世紀末にヤマト政権は大きな転換期を迎える。

 それまで規模において他と隔絶した巨大古墳=大王墓は、奈良県大和盆地の大和(おおやまと)・柳本古墳群、佐紀古墳群に営まれていたのが、大阪府河内平野の百舌鳥(もず)、古市古墳群に移動する。そして5世紀には大仙(だいせん)陵古墳(仁徳天皇陵)(墳長486メートル)などの超巨大古墳が出現する。

 これはヤマト政権の盟主権が大和盆地の勢力から河内平野の勢力に移ったことを示すものと理解されている。

 白石太一郎・奈良大教授(考古学)は背景に、高句麗の南下に伴う朝鮮半島の緊迫をみる。中国吉林省集安の広開土王碑によると391年以降、倭(ヤマト政権)は百済や伽耶(かや)諸国と結んで半島に出兵、高句麗としばしば戦っている。

 「従来の宗教的権威に依存する古い王権ではこのような情勢に対応できず、外交や軍事、交易を担っていた河内の勢力が台頭したのだろう。5世紀の古墳に鏡や玉類に代わって朝鮮半島系の鉄製馬具や甲冑(かっちゅう)が副葬されるようになるのも、被葬者の性格が司祭者から軍事指揮官へと転換したことを示している」

 一方、日向でも4世紀まで最大の古墳は生目(いきめ)古墳群に営まれていたのが、5世紀には西都原古墳群に男狭穂塚(おさほづか)、女狭穂塚(めさほづか)が出現する。こうした盟主権の変動は吉備や上毛野(かみつけの)でも認められ、柳沢一男・宮崎大教授(考古学)は「畿内の政治的変動に連動して地方の勢力も再編された。南九州では生目に代わって西都原の勢力が盟主の座についた」とみている。

 記紀は皇室を万世一系としているが、古代史の分野でも、系譜の詳細な検討や和風諡号(しごう)(おくりな)の比較などから、応神天皇を境に王朝が交代したとする学説が有力で、それぞれの始祖の天皇や根拠地から旧王朝を崇神王朝(三輪王朝)、新王朝を応神王朝(河内王朝)と呼んでいる。

 塚口義信・堺女子短大学長(日本古代史)は、考古学的にうかがえる盟主権の変動を投影した記述として、仲哀記、神功紀に見える忍熊王(おしくまのみこ)の反乱を挙げる。

 仲哀天皇没後、神功皇后が三韓征伐を終え、生後まもない誉田別皇子(ほむたわけのみこ)を伴い筑紫から大和へ帰還する際、皇子の異母兄の忍熊王らが「吾等(われら)何ぞ兄を以て弟に従はむ」と挙兵した。皇后は詭計(きけい)を用いて忍熊王を破り、誉田別皇子が皇太子となる。のちの応神天皇だ。

 「忍熊王の反乱の実体は、朝鮮半島政策を巡る4世紀末のヤマト政権の内部分裂で、その結果、応神が大王家の正当な後継者である忍熊王を打倒して河内王朝を樹立した。日向の諸県君(もろがたのきみ)一族が河内大王家の姻族となっているのは、彼らが応神側に加担し勝利に貢献したことを物語っている」

 塚口さんはさらに、いわゆる神武東征――初代天皇を日向出身とする伝説も、5世紀の河内王朝の時代に、4世紀末の内乱をモデルに構想されたものとみる。つまり王権を簒奪した河内大王家と諸県君一族が、皇祖はもともと日向出身とすることによって、自らを正当化しようとしたというのだ。

 日向を出発した神武天皇の船団は、河内の草香邑(くさかのむら)の白肩之津(しらかたのつ)(東大阪市)に上陸する。この草香こそは5世紀代、諸県君一族の髪長媛(かみながひめ)と仁徳天皇の間に生まれた大草香皇子(おおくさかのみこ)ら日向系王族の拠点だった。

 「神武が日向を出発し草香に上陸しているのは偶然とは思えない。神武が大和の在地豪族長髄彦(ながすねびこ)を破り、橿原宮(かしはらのみや)(奈良県橿原市)で即位したとする記述も、応神が忍熊王を破り軽島の明宮(あきらのみや)(同)で即位したことに対応している」

 ヤマト政権の初代天皇が大和を攻め滅ぼして即位するという不自然な伝説の背景には、河内王朝の成立事情が絡んでいたことになる。

古代日向の謎〈4〉熊襲のモデル? 独自の社会

2004.07.10 読売新聞 Yomiuri On-Line

島内21号地下式横穴墓で出土した短甲(えびの市歴史民俗資料館提供)

 記紀は南九州を皇祖発祥の地として尊ぶ一方で、熊襲(くまそ)(熊曾)という「伏(まつろ)はず礼无(な)き人等」の居住地ともしており、景行天皇や日本武尊(やまとたけるのみこと)の討伐伝説を伝えている。

 この討伐伝説を史実とみることはできないが、古墳時代の南九州にヤマト政権と一線を画す独自の文化圏があったことは、考古学的にも地下式横穴墓、地下式板石積石室墓(いたいしづみせきしつぼ)という独自の墳墓の分布からわかる。

 前者は竪穴を掘ってその底から横に遺体を埋葬する玄室をつくるもの、後者は竪穴を掘って底部に石室を作り上部を板石を積み重ねて覆うもので、いずれも墳丘でなく地下に埋葬施設を持つのが特徴だ。

 それぞれの墳墓の分布は図のようになり、東の地下式横穴墓、西の地下式板石積石室墓という二大分布圏があることがわかる。これに対し、ヤマト政権の墓制である前方後円墳は沿岸部に分布するに過ぎない。考古学的には古墳時代の終わり=7世紀末まで、ヤマト政権は内陸部まで進出することはできなかったとみるほかない。

 しかし、宮崎平野や志布志湾沿岸などでは前方後円墳と地下式横穴墓が共存しており、双方が接触していたことも間違いない。

 上村俊雄・鹿児島国際大教授(考古学)は、地下式横穴墓が前方後円墳より遅れて5世紀に出現することに注目、「土着の勢力がヤマト政権への服属を契機に地下式横穴墓という独自の墓制を発達させた」とみている。

 「副葬品の甲冑(かっちゅう)や刀、馬具などの鉄製品は畿内系で、ヤマト政権からの下賜品と考えられる。熊襲討伐の記事が何らかの史実を反映しているものとすれば、5世紀代の地下式横穴墓の勢力の服属をいっているのではないか」

 こうした推理を補強するのが中国の史書『宋書』の〈倭王武の上表文〉だ。478年に倭王武が宋の順帝に官爵を求めた文書で、「躬(みずか)ら甲冑を■(つらぬ)き、山川を跋渉(ばっしょう)し寧處(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人五十五国を征し、西は衆夷(しゅうい)六十六国を服す」と父祖以来の覇業を誇示している。

 倭王武は記紀の天皇在位年や和風諡号(しごう)から雄略天皇(大泊瀬幼武天皇=おおはつせのわかたけのすめらみこと=)とするのが通説だ。誇張もあるだろうが、この上表文自体が、日本武尊の蝦夷(えみし)、熊襲討伐を連想させるものだ。

 川内川上流域の宮崎県えびの市小木原、島内両遺跡にはそれぞれ推定数百基の地下式横穴墓群があり、前方後円墳の社会とは対照的に、突出した首長を持たない社会であったことがわかる。景行天皇が熊襲を「衆類(ともがら)甚(はなは)だ多し。是(これ)を熊襲の八十(やそ)梟帥(たける)と謂ふ」と語っているのは、こうした社会を表現したものであり、「衆夷六十六国」にも通じるものだ。

 一方、地下式板石積石室墓も鹿児島県吉松町永山、大口市平田、焼山遺跡などで百基を超す墓群が確認され、やはり「八十梟帥」を思わせる社会だが、起源は弥生時代にさかのぼり、北部九州の墓制である支石墓の影響を受けたともいわれる。

 西都原考古博物館の北郷泰道主幹は「地下式横穴墓群の勢力は諸県君(もろがたのきみ)を通じてヤマト政権と結びついたのに対し、地下式板石積石室墓の勢力は、北部九州の勢力と結びついて、これに対抗したのではないか」と推測する。

 地下式板石積石室墓が6世紀に衰退するのは、継体天皇のヤマト政権が筑紫君磐井(つくしのきみいわい)を破った、磐井戦争(527〜28年)の結果を反映したものとみることもできる。

 このように熊襲のモデルとみられる勢力にも地域差があり、ヤマト政権との関係も一様ではない。こうした地域差はのちの隼人(はやと)にも受け継がれていく。(■は還のしんにょうがてへん)

古代日向の謎〈5〉アメとムチの隼人支配

2004.07.17 読売新聞 Yomiuri On-Line

天孫降臨の地とされる霧島山系の高千穂峰の山頂(標高1574メートル)には「天の逆鉾」が立つ

 熊襲(くまそ)が景行天皇や神功皇后の時代に登場する伝説的存在であるのに対し、隼人(はやと)は、記紀がまさに編さん中の7世紀末の記述の中に登場し、また文武元年(697年)以降の歴史を扱った次の正史『続日本紀』にも記録された、実在が確かな南九州の部族だ。熊襲同様に「蛮夷(ばんい)」とされる一方、記紀神話によれば、その出自は天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)につながる貴種とされている。

 瓊瓊杵尊は日向の襲(そ)の高千穂峰に降臨し、吾田(あた)の長屋の笠狭碕(かささのみさき)で木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と結婚。海幸彦、山幸彦をもうける。この海幸彦こそ隼人の祖とされている。

 山幸彦は海神(わたつみ)からもらった潮満瓊(しおみちのたま)、潮涸瓊(しおひのたま)の力で潮を自在に操り、意地悪な兄に仕返しする。海幸彦は「僕(あ)は今より以後(のち)、汝命(いましみこと)の昼夜の守護人(まもりびと)と為りて仕へ奉らむ」と弟に服属を誓う。

 山幸彦は神武天皇の祖父であり、この説話が隼人に対する天皇家の優位性を語るものであることは明らかだ。しかしなぜ隼人と天皇家を同祖とする必要があったのだろう。

 中村明蔵・鹿児島国際大教授(地域史)は、これら日向神話の舞台が襲(鹿児島県国分市周辺)、吾田(万之瀬川下流域)など熊襲や隼人の根拠地とされる地域で、内容的にも南方系の要素が強いことに注目、「日向神話はもともと隼人が伝承していた神話」とみている。

 「隼人の神話を取り込んだうえで、隼人を朝廷に服属させることを正当化するための造作を加えたものが記紀の日向神話。そこには記紀編さん時の、南九州、南島の領域化という朝廷の政治的関心、意図が強く反映している」

 『日本書紀』に見える隼人は概して朝廷に服属的で、天武11年(682年)以降、阿多隼人、大隅隼人といった諸部族が朝貢している。ところが『続日本紀』の時代になると、朝廷は隼人の〈反乱〉に直面する。大宝2年(702年)には薩摩、多■(たね)(種子島)の隼人、和銅6年(713年)には大隅国の隼人が背き、征討軍を派遣して鎮圧する事態になった。

 原因は直前に朝廷が実施した日向国からの薩摩、大隅国の分割とそれに伴う戸籍調査、中央からの国司の派遣にあったとみられる。唐や新羅をモデルとする中央集権国家の建設を進める朝廷は、それまで朝貢国扱いとはいえ独立を認めていた隼人を、直接支配しようとしたのだ。

 和銅7年(714年)には隼人を「相勧め導かしむ」ため、豊前国から隼人の居住地へ200戸の移民が行われた。10世紀の百科事典『和名抄』に大隅国桑原郡に豊国郷の名が見えることから移住先は桑原郡とみられている。このほか薩摩国高城郡には肥後国の郡名と同じ合志、飽多、宇土、託萬の郷名が見えることから、薩摩国には肥後国からの移民が行われたようだ。

 「桑原郡は大隅国の、高城郡は薩摩国の国府所在地であり、国府周辺を移民で固めて、隼人の分断や監視の役割を担わせた」と中村さん。大隅国府跡近くにある鹿児島神宮(鹿児島県隼人町)に、八幡信仰が見られるのも、「宇佐神宮(大分県宇佐市)の信仰が豊前国からの移民とともにこの地に入ってきたもの」だという。

 隼人諸部族には6年交代での朝貢を義務付けるとともに、和銅3年(710年)には、日向隼人の曾君(そのきみの)細麻呂を外従5位下に叙するなどの懐柔策もとった。記紀に隼人の神話を巧みに取り入れ、隼人と天皇家をともに天孫系とする造作は、日鮮同祖論と同種の理屈付けであろう。

 こうしたアメとムチによる隼人支配が進む中で、養老4年(720年)2月末、隼人が大隅国守陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)を殺害、翌年にかけて隼人と朝廷の間に最大規模の軍事衝突が起こる。(■は示へんに執の字)

古代日向の謎〈6〉律令国家に最後の抵抗

2004.07.24 売新聞 Yomiuri On-Line

修復で往時の姿を取り戻した隼人塚。石塔の四方に四天王像が立つ(鹿児島県隼人町で)

 隼人(はやと)諸部族の中でも、養老4年(720年)に最大最後の「反乱」を起こした部族の根拠地は、事件のきっかけが大隅国守の殺害だったことから、大隅国府のあった錦江湾奥部沿岸――鹿児島県国分市や隼人町周辺であると考えられている。

 ところが考古学的にこの地域は、前方後円墳はもちろん、熊襲(くまそ)や隼人の墓制ともいわれる地下式横穴墓や、地下式板石積石室墓の分布圏からも外れた、墳墓の空白地帯となっている。

 隼人町教委の藤浪三千尋文化財室長は「空白地帯というのは何も文化圏がなかったわけではなく、石による墳墓への埋葬を拒み続けた文化圏といえるのではないか」とみる。

 「例えば水葬のような独自の風習があったのかもしれない。隼人のなかでも、地下式横穴墓の勢力のように早くからヤマト朝廷に服属した勢力もあれば、最後まで抵抗した勢力もあった。朝廷が錦江湾沿岸に大隅国府を置いたのは、抵抗するこの地の隼人を支配するためのくさびだったのでは」

 隼人町役場に近いJR日豊線沿いには、町名の由来ともなった、隼人塚と呼ばれる石塔3基と四天王の石像が立つ小丘があり、「反乱」で殺された隼人の霊を供養するためのものと伝えられている。

 ただこの種の伝承は後世の付会である場合が多く、果たして1999年度まで町教委が行った修復に伴う発掘調査の結果、小丘は墳墓ではなく、石塔や石像の様式から、平安時代後期の仏教遺跡であることが明らかにされた。

 「それでもこの石塔石像が隼人供養のための建立である可能性は否定できない」と藤浪さんはみる。それは、隼人塚が鹿児島神宮の放生会(浜下り)と密接に関係した場所とみられているからだ。

 放生会は仏教の不殺生の戒めに基づき鳥魚を野や海に放つ法会で、1934年以来途絶えていたのが、2000年に復興された。『鹿児島神社旧記』は起源を「養老四年大隅日向隼人等乱を起こす……八幡大神に祈り是(これ)を討つ。数多の隼人命を落とす。依(よ)りて其の怨霊を慰めん為の祭也」と伝える。

 「この放生会の浜下りのコース上に隼人塚はあり、江戸時代にはここで神事や神楽舞が行われたとの記録がある。おそらく隼人の供養を行っていたのでしょう」

 『続日本紀』によれば、隼人の「反乱」を受けて、朝廷は歌人としても知られる大伴旅人を征隼人持節(じせつ)大将軍とする征討軍を派遣した。「反乱」の実体は、7世紀末からヤマトの支配が強化されたことに対する「抗戦」であったとみられるが、戦いは1年数か月間続き、「斬首獲虜(かくりょ)合わせて千四百余人」と記録する。隼人は敗れ、律令国家に組み込まれた。

 律令制で隼人は衛門府の隼人司(はやひとのつかさ)に属し、宮門の警備や、元日や即位、外交使節の入朝などの儀式に武装して参列する〈天皇の守護人〉とされた。一見格好いいが官人の入場の際に、犬のような吠声(はいせい)を発する役割だ。6年交代の朝貢も継続され公民と区別され続けた。

 中村明蔵・鹿児島国際大教授(地域史)は「かつて朝廷に歯向かった蛮族が天皇に服属していることを演じさせることで、天皇の権威を高めようとしたもの」とみる。隼人の公民化は、延暦19年(800年)の大隅、薩摩国への班田制施行と、翌年の朝貢停止令を待たねばならなかった。

 隼人という言葉はその勇猛迅速な性質を表したともいわれるが、要は熊襲や蝦夷(えみし)、土蜘蛛(つちぐも)と同種の蔑称である。しかし彼らの現在の子孫たちはこれを美称として受け取り、町名や人名に好んで用いている。それは鈍感さからというよりは、薩摩隼人が禁裏の守護と称して江戸幕府を打倒し、ついに天下を取った誇りある歴史からきているのだろう。


生目古墳群−宮崎に古代ロマンの新スポット誕生

2009/05/09 JANJAN 大谷憲史

前方後円墳の上を歩けて、墳丘内部の「空洞」も実感できる

古代ロマンに新しいスポット誕生・宮崎市 生目古墳群・映像(6分32秒)

2009/05/09 TV JAN

 プロ野球、福岡ソフトバンクホークスのキャンプ地で有名な宮崎市跡江(あとえ)の生目の杜(いきめのもり)運動公園の近くに、4月25日、埋蔵文化財・体験学習施設「生目の杜遊古館」が開館した。

4月25日に開館した「生目の杜遊古館」には宿泊施設もある(5月6日、宮崎市跡江で筆者撮影)

 跡江地区には、3世紀末から7世紀まで築造されたとされる古墳群があり、古墳時代前期のものとしては九州最大の古墳群である。これらの古墳群は「生目古墳群」と呼ばれ、大淀川西側の中心市街地を見下ろせる高台に、50基以上の古墳が確認されている。

 1943(昭和18)年に国指定史跡となり、現在も発掘調査が行われている。同時に史跡公園の整備も進み、2008年4月には「生目古墳群史跡公園」として一般開放を始めた。

 新しく開館した遊古館は、この史跡公園に隣接している。施設は、宮崎市内の埋蔵文化財の調査、研究、保存を行う「宮崎市埋蔵文化財センター」と、184人が宿泊できる「体験学習館」で構成されている。

 埋蔵文化財センターには展示室があり、宮崎市内で発掘された土器、石器が展示されている。ガラス張りの展示室から、奥にある一般収蔵庫が透けて見えるようになっている。また、出土した土器の復元作業の様子も見学することができる。宿泊施設は6月から利用できる。

 体験学習館のパンフレットには、「古墳群ウォークラリー」「古代文化体験」などの活動例が紹介されている。宿泊利用できるのは、宮崎市内の幼稚園・保育園児、小・中・高校生とその引率者、宮崎市内の社会教育関係団体の構成員、宮崎市内の教職員となっている。

 「古墳群ウォークラリー」というのではないが、5月6日、生目の杜遊古館と史跡公園を訪れた。ゴールデンウイーク最終日ということもあり、多くの来場者でにぎわっていた。

 駐車場から階段を上がると芝生広場が広がり、家族連れがバドミントンやサッカーなどを楽しんでいた。その傍らには現在も発掘調査が行われている場所もあり、立ち入り禁止のロープが張られていた。古墳は自然な形で原形が残されているため、社会科の教科書に出てくる大阪府堺市の大仙陵古墳のようにはっきりとした形を確認できる古墳は少ない。小高く盛り上がっている墳丘の上には樹木が生い茂り、「生目古墳群 第○号墳」という標示で古墳を確認することができる。

 唯一、前方後円墳の形を確認できる第5号墳は長さは57mあり、5世紀初めごろに造られた。発掘調査では、後円部と前方部が2段になっていて、古墳の盛り土の表面を覆う葺石(ふきいし)と呼ばれる川原石が敷き詰められていたことが分かっている。

 この第5号墳が復元公開されることとなり、表面には約9万個の葺石が1,500年前と同じように並べられ、再現された。

 この第5号墳の近くには、南九州特有の地下式横穴墓も再現されている。地下式横穴墓はこれまでに1,000基以上が発見され、中には前方後円墳に副葬されたものと見劣りしないほどの埋葬品を出土したところもある。地域の有力者が前方後円墳ではなく、地下式横穴墓に埋葬されることもあったと考えられている。生目古墳群では50基以上の地下式横穴墓が発見されているが、そのほとんどが前方後円墳の周囲にあったことが特徴である。

 生目古墳群の中で最大の古墳は、第3号墳である。4世紀中ごろに造られた長さ143m、高さ12.7mの前方後円墳で、九州でも3番目の大きさである。前方部に「第3号墳」の標示があり、実際に登ることができる。自然な形で残されているため、うっそうとした林の中を歩くような感じだ。

 歩いていると、ところどころで足元の音が変わるところがある。古墳が空洞になっているところだろう。足元に古代のロマンを感じながら、さらに進むと、後円部に着いた。パンフレットには後円部は3段構造になっていると書かれていたが、はっきりと確認することはできなかった。歩いてみて丸くなっていることは分かった。前方後円墳を自分の足で歩くことができる古墳は、そう多くはないだろう。

 小1時間もあれば史跡公園内のすべての古墳を回ることができるが、確かに古墳群ウォークラリーは面白い活動になるだろう。

 今回の生目の杜遊古館の開館で、宮崎県西都市の西都原(さいとばる)古墳群に次いで古代ロマンを感じるスポットが誕生した。単に、古墳や出土品を見学するだけではなく、体験学習を通して古代人の暮らしぶりを探ることで、これからの現代人の生き方が見えてくるかも知れない。

生目古墳群史跡公園がオープン

2008年05月07日 宮崎日日新聞

 宮崎市が整備を進めていた同市跡江の生目古墳群史跡公園が、先月オープンした。関係者は「気軽に足を運んでもらい、古墳を身近に感じてほしい」と話している。

 同公園の面積は21・98ヘクタールで、整備費は約5億3800万円。園内には、中央の芝生広場(9千平方メートル)を囲むように八基の前方後円墳と25基の円墳が点在している。広場の周囲には市民が散策できる園路を整備。駐車場は約100台分を確保した。

 また高さ約10メートルの展望台や、東屋(あずまや)も3カ所設置した。今後、古墳の周辺にも通路を整備する予定。


1300年の樹勢再び 塚崎大クス回復着々/肝付 国の天然記念物

2009/02/19 南日本新聞

樹勢回復工事が行われている塚崎大クス=鹿児島県肝属郡肝付町野崎塚埼 国の天然記念物に指定されている肝付町「塚崎大クス」の樹勢回復工事が進んでいる。訪れた人は「早く元気な雄姿を見せてほしい」と見守っている。

 大クスは国指定史跡・

塚崎古墳群の第1号墳の上にそびえ、樹高約25メートル、幹回り約14メートル。県内では蒲生(国指定特別天然記念物)、志布志(国指定天然記念物)のクスに次ぐ大きさ。

 樹齢1300年を超えているとされ、カズラの巻きつきや着生植物、腐食個所が目立っていた。2005年7月に強風で太い枝が折れたことから診断。急を要するほどではないものの、放置すれば腐食部が広がり衰えていくことがわかった。

 国や県、町との協議の結果、影響のある植物の除去と腐食防止、露出した根の覆土を施すことになった。樹木が大きい上、傷めないよう休眠期の冬場しか作業できないため、4区域に分けて4年がかりで作業を進める。

 2年目の本年度は昨年中に樹形に合わせて複雑な足場を組み、1月から本格的作業を開始した。県森林組合連合会(鹿児島市)の2人が、オオイタビカズラや着生植物のクロガネモチ、トベラ、ハゼノキなど約4トンを除去。現在は腐食個所の治療に入っており、削り、薬剤塗布、雨水侵入防止措置など施し、3月中旬に終了する。

 初めて大クスを見に訪れた霧島市国分広瀬の征録(せいろく)和義さん(73)、和子さん(72)夫妻は「立派な姿に驚いた。今でも元気そうに見えるが、手当てしてもらって長生きしてほしい」と話していた。

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