TOPIC No.9-8-1 纒向遺跡(まきむくいせき)

01.
 纒向遺跡(まきむくいせき) byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
02.
 邪馬台国の候補地・纒向遺跡)2009年02月16日(月) 
 by nara なら 奈良〜奈良情報ブログ
03.
 纒向遺跡調査報告書4 by桜井市纒向学研究センタ−
04.
 発掘報告:纒向遺跡出土の木製仮面(2007.09.26) by桜井市
05.
 ホケノ山古墳 byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
06.
 勝山古墳の年代について 季刊邪馬台国73号「ニュースフラッシュ」をもとに構成 
 by邪馬台国の会
07.
 纒向勝山古墳 2007年05月15日  by奈良の名所・古跡
08.
 纏向遺跡発掘現地 by朱雀の夢ものがたり
09.
 邪馬台国の宮殿跡か?大発見の『纒向遺跡』@桜井市 (2009-11-06) 
 by奈良に住んでみました

邪馬台国はどこ?


卑弥呼の?モモに熱視線 奈良の纒向遺跡で現地説明会

2010年09月19日 西日本新聞

 邪馬台国の最有力候補地とされ、「女王卑弥呼の宮殿」と指摘される大型建物跡(3世紀前半)が確認された奈良県桜井市の纒向遺跡で19日、祭祀用とみられるモモの種2千個以上が見つかった今年の調査成果を伝える現地説明会があり、集まった多くの考古学ファンが熱い視線を送った。

 465平方メートルの調査区域を取り囲むように見学者が殺到。出土したモモの種の現物を目の前に、担当者から説明を受け、「卑弥呼の祭祀」に思いをはせていた。

 7月に始まった今回の調査では、大型建物跡の南側で東西に延びる柵跡を発見。モモの種は柵を取り外した後に掘られた3世紀中ごろの穴(南北約4メートル、東西約2メートル、深さ80センチ)から見つかり、土器やミニチュア土器の破片、漆塗りの弓、木製の剣なども出土した。

 神戸市北区の中学校教諭清原久志さん(47)は「卑弥呼がモモを供えて祈る姿を思い浮かべながら見ました」と話した。

邪馬台国論争大会:邪馬台国どこに アマ研究者集まれ−−30日、再び宇佐で /大分

2010年05月01日 毎日新聞 地方版

 日本古代史最大の謎に迫る「第6回全日本邪馬台国論争大会」(宇佐市観光協会など主催)が5月30日、宇佐市の宇佐神宮参集殿である。大会は昨年、23年ぶりに復活し、好評で全国から約300人が集まり、熱い論争を戦わした。

 最近、奈良県桜井市の「桜井茶臼山古墳」から全国最多の銅鏡が見つかったり、同市の纒向(まきむく)遺跡から3世紀最大級の大型建物が発掘され、卑弥呼の宮殿の可能性も出てきて、邪馬台国・大和説研究者は活気づいている。九州説の研究者は「纒向には、吉野ケ里のように宮室・楼閣・城柵の3点セットがまだそろっていない」と静観の構え。

 論者は、アマチュアの研究者に限定。2000字以内の論文を郵送か電子メールで提出。アマらしく専門過ぎず、面白いものが選考基準。選ばれた論者が自説を披露した後、会場の参加者から“挑戦”を受ける。

 論文締め切りは6日必着。一般参加料は2000円(昼食付き)。申し込み・問い合わせは同市南宇佐2179の3、宇佐市観光協会(0978・37・0202)。【大漉実知朗】

邪馬台国論争 近畿説VS九州説

2010年04月21日 asahi.com

高島忠平さん/ 苅谷俊介さん

 ■2氏が来月対談

 「邪馬台国はどこ? 特別激突講座」が、5月9日午後2時半から福岡市博多区博多駅前の朝日カルチャーセンター福岡教室で開かれる。九州説の代表として高島忠平・前佐賀女子短大学長、近畿説の立場から俳優で考古学研究者としても知られる苅谷俊介さんの2人が対談する。

 「魏志倭人伝」記載の邪馬台国をめぐっては、江戸時代から近畿説と九州説に分かれて論争状態にあり、いまなお決着がついていない。

 だが、吉野ケ里遺跡(佐賀県)や纒向(まきむく)遺跡(奈良県)など全国各地で発掘調査が進み、考古学的な新発見が相次いでいる。それらをもとに、吉野ケ里遺跡に携わってきた高島さんと、纒向遺跡での発掘経験を持つ苅谷さんが徹底討論し、邪馬台国の所在地を浮かび上がらせる。

 会員2700円、一般3000円。問い合わせは同センター(092・431・7751)へ。

卑弥呼の宮殿、思いはせ…纒向遺跡シンポに160人

2010年04月18日 読売新聞 YOMIURI On-Line

「建物整然とした都会」

 平城遷都1300年を記念した考古学シンポジウム「纒向遺跡とヤマト政権の謎に迫る〜女王卑弥呼の宮殿はどこか」(大阪よみうり文化センター主催)が17日、大阪市北区の読売大阪ビルで開かれた。邪馬台国の最有力地とされる纒向遺跡(桜井市)から出土した、3世紀前半〜中頃とみられる大型建物跡などについて報告され、熱心な考古学ファンら約160人が卑弥呼の時代に思いをはせていた。

 建物跡の発掘を担当した桜井市教委の橋本輝彦係長が、東海や四国地方などの土器が多数出土する同遺跡を、「全国各地から人が集まる当時の都会だった」と説明。建物跡は4棟が中軸線をそろえて東西に並んでおり、「3世紀前半にこれほど整然とした建物はなく、国家形成を考える上で大きな意味を持つ」と語った。

 遺跡内には、「卑弥呼の墓」との説がある箸(はし)墓古墳など、出現期の前方後円墳が多数あり、辰巳和弘・同志社大教授は「中国からの神仙思想の影響を受け、前方後円墳が造られるようになったのだろう」と述べた。

 パネルディスカッションでは、邪馬台国の所在地についても議論。九州説の専門家が、纒向遺跡で見つかった大型建物跡を4世紀以降と指摘していることに、橋本係長は「近畿の土器だけでなく、九州の土器も含めた細かな研究が進んでおり、100年も違うことはありえない」と反論した。

 市教委は、今年度も大型建物跡周辺の発掘を予定。何度も纒向遺跡を訪れたことがあるという堺市東区、会社員清水英史さん(60)は「中国の思想が纒向遺跡にも影響しているという指摘が印象的。また現地に行くのが楽しみ」と話した。

海渡った?権力の象徴

2010年04月16日 asahi.com

若杉山遺跡に向かう遍路道。ここから登ると遺跡がある=阿南市水井町

 邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓だという説がある奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳。周辺にある前方後円墳、桜井茶臼山(ちゃうすやま)古墳(3世紀末〜4世紀初め)で昨年10月、全面に朱が塗られた石室が見つかった。

 古代人が顔料に使っていたとみられる貴重な水銀朱。試算では約200キロ使われていたらしい。これまで古墳で見つかった水銀朱としては最大量の40キロをはるかにしのぐ量だったことから、大王級の墓と考えられている。

 古代人は、水銀を含んだ岩石を石器などで粉々にして水に入れ、比重が重くて沈む水銀朱を取り出していた。魔よけのため顔に塗ったり、死者がよみがえることを祈って古墳の石室に塗ったりしたとみられている。木棺の防腐用との考え方もある。

 水銀を精製していた遺跡は全国にいくつかある。だが、岩石の採掘から精製まで一貫していた遺跡は、若杉山遺跡(阿南市水井町)でしか見つかっていない。

 同遺跡は、四国霊場20番鶴林寺から21番太龍寺に向かう遍路道の脇にある。戦後すぐにミカン畑の開墾をしていた際、多量の石臼や石杵(きね)が見つかり「水銀朱の遺跡ではないか」と注目された。

 古代遺跡から頻繁に見つかる朱が、権力を象徴するものとして関心を持たれ始めた時期だった。正式な調査が始まったのは1984年。県立博物館が発掘したところ、原石も見つかり、2世紀後半から3世紀初頭の遺跡だったことが分かった。

 県内の古墳からも水銀朱は見つかっている。邪馬台国説がある奈良・纏向(まきむく)遺跡にある前方後円墳、ホケノ山古墳の原型ではないかとされる鳴門市の萩原2号墓では、石室の積石や棺(ひつぎ)に付着していた。西山谷2号墳(鳴門市)では木棺を支える粘土に練り込まれていた。徳島市の鶴島山古墳からは水銀朱で塗られた顔面の人骨も発掘されている。

 これらの多くは成分分析から若杉山遺跡で作られた水銀朱であることが確認された。では、桜井茶臼山古墳の大量の水銀朱は若杉山遺跡産かというと、どうも違うらしい。奈良県内で昭和まで続いていた鉱山の水銀と成分が似ているため、大和産との見方が強まっている。

 ところが、若杉山遺跡の水銀朱が海を渡り近畿に入っていったことを示す遺跡が最近、いくつか見つかった。

 兵庫県・淡路島にある二ツ石戎(えびす)ノ前遺跡(旧石器時代〜弥生時代)からは02年、水銀朱を精製した石杵が出土。明石海峡を越えた兵庫県たつの市の養久山(やくやま)・前地遺跡からも95年、同様の石器が見つかっている。これらは、近くに水銀朱を含む岩石が採れないことから、若杉山遺跡から原石が運ばれたとみる考古学者もいる。

 県埋蔵文化財センターの植地岳彦主任研究員は「桜井茶臼山古墳から見つかった200キロもの水銀朱は、ひとつの鉱山から採れたとは考えにくい。各地からかき集めた水銀朱を使ったのではないか。当然、若杉山遺跡産も使われていたはず」と言う。

鹿笛: あまり公表したくないが… /奈良

2010年04月13日 毎日新聞 地方版

 あまり公表したくないが、出身は九州の佐賀県である。吉野ケ里遺跡があり、地元は「卑弥呼の里」と宣伝。中学や高校の授業では、魏志倭人伝が登場すると、先生は邪馬台国九州説を唱えていたように思う。

 魏から渡来した使者が王のいる場所を訪ねた。聞かれた住民は高台を指さし言った。「あそこの山たい」。それがヤマタイ国の由来。そんな郷土史家の本も読んだ記憶がある。といった具合で、何となく九州説は「そうじゃないかな」と思って育った。

 だが今春、転勤で初めて奈良に足を踏み入れた瞬間、考えが一変した。佐賀とは遺跡旧跡の数、文化のレベルが違い過ぎる……。これからじっくり探訪してみよう。(山田)

女王卑弥呼の国を探る:遺跡巡りやフォーラム−−桜井で6月12・13日 /奈良

2010年04月10日 毎日新聞 地方版

 ◇5月20日必着、奮って参加を

 女王・卑弥呼(ひみこ)と同時代の大型建物跡が見つかった桜井市で6月12、13両日、「女王卑弥呼の国を探るin桜井」(同市主催、毎日新聞奈良支局など後援)が開かれる。12日はフォーラム、13日は遺跡などを巡るフィールドワークがある。参加は先着1200人。往復はがきで5月20日必着で申し込む。【高島博之】

 12日は午前10時〜午後4時半、桜井市民会館で、橋本輝彦・市教委係長の発掘調査報告▽寺沢薫・県立橿原考古学研究所総務企画部長の基調講演▽専門家によるシンポジウムなどがある。1000円。

 13日はAコースが、大型建物跡の現場など、Bコースが桜井茶臼山古墳などを訪ねる。いずれも無料。長谷寺や市立埋蔵文化財センターを訪ねるバスコースもあり、参加費は6800円。

 希望者1人につき1枚の往復はがきに、郵便番号・住所・氏名・年齢・電話番号を記入。12日の昼食(1000円)の有無、13日の参加有無とコース選択を明記し、〒633−8585桜井市粟殿432の1 桜井市観光課「桜井市歴史観光フォーラム」担当へ郵送。13日だけの参加は不可。問い合わせは市観光課(0744・42・9111)。

鹿笛: 昨年、邪馬台国の有力候補地… /奈良

2010年04月02日 毎日新聞 地方版

 昨年、邪馬台国の有力候補地、纒向(まきむく)遺跡(桜井市)で、宮殿の可能性がある大型建物跡が見つかり、卑弥呼(ひみこ)の墓とも言われる近くの箸墓古墳も脚光を浴びた。

 古墳は現在の私たちに、日本人のアイデンティティーを考える上でも必要な多くの情報を伝える重要な歴史資料だ。だが、造るのは民衆には大変な負担だった。古墳時代中期から埴輪(はにわ)に馬、犬、シカ、イノシシが現れる。被葬者は大勢の農民を動員し、狩りに興じた権力者だった。

 もし、民衆に苦労をかけまいと古墳を造らなかった支配者がいたとしたら−−。そんな想像もしてしまう。我々は貴重な文化財を持てなかったのだが。(栗栖)

纒向遺跡 「邪馬台国」論争再び熱気

2009年11月23日 西日本新聞 朝刊

 「邪馬台国」に女王「卑弥呼(ひみこ)」と聞けば、考古学ファンならずとも、興味をかき立てられるに違いない。日本における古代国家の起源を探るうえで、最も大きな「謎」となっているからだ。

 邪馬台国は、中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場するもので、所在地をめぐって江戸時代から論争が続く。九州説と畿内説のほか、卑弥呼がいた女王国は九州にあったが後に大和に移ったとする東遷説もある。とくに九州説と畿内説は互いに一歩も譲らぬ主張を展開している。

 そうしたなか、邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半とみられる大型の建物跡が見つかった。卑弥呼が活躍したといわれる時代と重なるため、邪馬台国畿内説を唱える専門家から「卑弥呼の宮殿ではないか」との声が上がり、再び九州説との間で論争が熱を帯びてきた。

 確認された建物跡は高床式建物とみられ、南北19・2メートル、東西6・2メートル以上あった。柱穴がさらに西側に続いていると考えられ、建築構造などから桜井市教委は東西12・4メートル、床面積約238平方メートルと推定する。九州説の候補地の一つ、吉野ケ里遺跡(佐賀県)の建物跡(約156平方メートル)をしのぐ規模となった。

 纒向遺跡のすぐ西側で1978年と今年2―3月に見つかった3棟と合わせ、計4棟が中心軸をそろえて東西一直線に並んでいた。畿内説に立つ研究者たちが、自説を補強する材料だとして「これほど計画的に配置された建物群は同時期に国内で例がなく、卑弥呼の宮殿とみていい」と勢いづいたわけだ。

 九州説の研究者も負けてはいない。

 吉野ケ里遺跡などの大集落跡確認に加え、倭人伝には朝鮮半島から邪馬台国へのルートとして、現在の玄界灘沿岸と推定される末廬(まつろ)国、伊都(いと)国などを経由するとの記述があり「倭人伝には九州北部のことしか書かれていない」と反論する。

 纒向遺跡についても「一緒に見つかったほかの遺物との整合性が取れないケースもあり、卑弥呼とは時期が異なる」と異を唱える。決着はつきそうにない。

 いずれにせよ、卑弥呼が魏の皇帝から贈られた「親魏倭王」の金印や、卑弥呼の墓など明確な物証なしには、傍証にはなっても決め手にはなり得ない。

 それにしても、日本人はなぜに古代の歴史にこうも熱くなるのか。当の纒向遺跡発掘担当者が「(邪馬台国の)『や』も、(卑弥呼)の『ひ』も言ってないのに」と驚く周囲の熱狂ぶりだ。時代がさかのぼればさかのぼるほど、未知なるものへの想像が膨らむからだろうか。

 折しも、特別展「古代九州の国宝 邪馬台国もここからはじまった」が29日まで、福岡県太宰府市の九州国立博物館で開催中だ。熊本県・江田船山古墳出土の国宝「銀(ぎん)錯(さく)銘(めい)大刀」(東京国立博物館蔵)など必見の至宝を鑑賞しながら、古代のロマンに浸ってみてはどうだろう。

外交官集まる大都市? 纒向遺跡 奈良県桜井市

2009年11月22日 日曜日 中日新聞

 「大昔(むかし)の女王、卑弥呼(ひみこ)が住(す)んでいたのではないか」と最(さい)近、注(ちゅう)目を集(あつ)めている奈良(なら)県桜井(さくらい)市の纒向遺跡(まきむくいせき)。発掘調査(はっくつちょうさ)からこの遺跡が、人や物(もの)が集まる“大都(と)市”だったことが分かってきました。1800年前にタイムスリップして、まちを眺(なが)めてみよう。

卑弥呼いた?

 大勢(ぜい)の考古学ファンが詰(つ)め掛(か)けた今月中旬(じゅん)の現(げん)地説(せつ)明会。発掘現場には建(たて)物の柱(はしら)の跡(あと)という穴(あな)が出現し、黄色のポールが立っていました。見渡(わた)すと、柱の跡の並(なら)びから、南北に細長い複(ふく)数の建物が平(へい)行に建(た)っていた様(よう)子が分かります。

 遺跡はこの場所(しょ)を含(ふく)め東西2キロ、南北1・5キロに広がり、古墳(ふん)もあります。3世紀(せいき)の集落(しゅうらく)跡としては国内最大で、中国(ちゅうごく)の歴史(れきし)書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記された卑弥呼の時代(だい)と重(かさ)なります。

柱の穴 ボコッ、4棟?

 「人が住んでいなかった場所に新しく造(つく)ったまちと考えられます」と市教育委員(いくいいん)会文化財課主査(かざいかしゅさ)の橋本輝彦(はしもとてるひこ)さん。出土した4つの建物跡は、中心が東西一直線に並ぶ整然(せいぜん)とした配置(はいち)と分かりました。建物は柱の跡から高床式(ゆかしき)の平屋(ひらや)と想像(そうぞう)できます。

????だらけ 想像楽しもう

纒向遺跡(まきむくいせき)から出土した東海系(けい)の土器(き)。右奥(おく)がパレス・スタイル土器(奈良(なら)県桜井(さくらい)市教育委員(いくいいん)会の提供(ていきょう))

 まちには各(かく)地から人が集まりました。それはかめやつぼなどの土器(き)から分かります。関東(かんとう)から九州(きゅうしゅう)にかけて幅(はば)広い地域(いき)の土器が見つかったのです。「持(も)ち込(こ)んだほか、職(しょく)人が来て奈良の土でも作っていました」

 最(もっと)も多いのが東海系(けい)と呼(よ)ばれる土器。尾張(おわり)地方から伊勢湾岸(いせわんがん)の一帯(たい)にかけて作られた形です。この時代の東海地方を代表(ひょう)する、白地に赤い文様が付(つ)いたパレス・スタイル土器も出土し、「東海地方とは深(ふか)いつながりがあったと言えます」。

 纒向で暮(く)らした人たちを橋本さんは今で言うと外交官(かん)に例(たと)えます。纒向で政治的(せいじてき)な事柄(ことがら)を話し合い、各地へ戻(もど)って土地や人々を支(し)配したというのです。また、水と火を使(つか)った祭祀(さいし)の場所でもありました。「豊(ほう)作を祈(いの)り、収穫(しゅうかく)を感謝(かんしゃ)していたようです」

 人と物が集まったまちの暮らしは、まるで今の都会のよう。建物跡は出土しても、水田や畑(はたけ)の跡は周辺(しゅうへん)にも見つかっていません。橋本さんは「奈良盆(ぼん)地や京阪神(けいはんしん)から食べ物を運(はこ)んだのでは」と推測(すいそく)します。

海外からの出土品? ベニバナ花粉、馬具の鐙

纒向遺跡で見つかった建物(たてもの)の模型(もけい)。4棟(とう)が平(へい)行に並(なら)んでいたと考えられている(黒田龍二(くろだりゅうじ)・神戸(こうべ)大准(じゅん)教授(じゅ)の提供)

 “外交官”のまちらしく、出土品(ひん)からは海外とのつながりもうかがえます。1つはエジプト原産(さん)のベニバナの花粉(ふん)。ベニバナは染料(せんりょう)だったと考えられています。さらに木製(せい)馬具(ぐ)の鐙(あぶみ)も見つかり、馬がいたことも分かっています。「中国や朝鮮(ちょうせん)半島(とう)からの贈(おく)り物だったのでしょう」

 調査は1971(昭和(しょうわ)46)年に始(はじ)まり、これまで166回に上ります。「纒向の結果(けっか)は、古墳時代の始まりがはっきりする可能性(かのうせい)がある」と橋本さん。いつか、教科書に纒向遺跡が登(とう)場するときが来るかもしれませんね。

雑記帳:纒向遺跡=邪馬台国なら経済効果は147億円

2009年11月18日 毎日新聞

 女王卑弥呼(ひみこ)と同時代の大型建物跡が見つかった纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)が邪馬台国と決まれば、経済効果は約147億円とする試算を宮本勝浩・関西大教授が発表した。

 03〜07年の同県への年間平均観光客数は約3478万人。邪馬台国の所在地となった場合、年間3%(約104万人)増えると予想し、その分の消費支出などを計算した。

 しかし、江戸時代から続く邪馬台国の所在地論争は、大型建物跡の発見でも決着を見ておらず、約147億円も当面は「ロマン」として夢見るしかなさそう。【高島博之】

纒向遺跡中枢域は“水の宮殿” 3方に河川と人工水路

2009.11.16 MSN産経新聞

 邪馬台国の最有力候補地である纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で見つかった大型建物跡(3世紀前半)の一帯は、河川と人工水路で3方を囲まれていた可能性があることが16日、桜井市教委などの分析で分かった。“水の宮殿”を想起させる構造で、約半世紀後の初期大和政権の大王ともされる崇神天皇の宮の「瑞籬宮(みずかきのみや、水垣宮)」とイメージが一致する。邪馬台国の女王・卑弥呼の宮殿と、初期大和政権の宮の関連性や継続性を示す構造として注目されそうだ。

 桜井市教委の調査によると、大型建物跡が出土した調査地は、周囲より1メートル以上高い「微高地」(東西約150メートル、南北約100メートル)の中心部。市教委は大型建物跡を囲むさくの内部を内郭、微高地の範囲を外郭と想定している。地形や発掘調査から当時、微高地の北辺と南辺に河川が東西に流れていたとみられる。東辺は未調査だが飛鳥時代の古代官道の上ツ道の推定ルートとほぼ一致している。

 西辺は、幅8メートル以上、深さ1・4メートル以上の溝跡が昭和53年の奈良県立橿原考古学研究所の調査で発見されている。底面の土の堆積(たいせき)から、よどんだ水路ではなく、南北の河川とつながっていた可能性が高い。土器などから溝は3世紀前半にあったと考えられ、大型建物跡と同時期だ。これについて香芝市二上山博物館の石野博信館長は「溝は宮殿のある中枢域を水で囲むために人工的に掘ったのではないか」と指摘する。

 卑弥呼の宮殿について魏志倭人伝は「宮室は楼観や城柵を厳かに設け」とあるだけで、水で囲われていたかは不明。だが、初期大和政権の最初の大王ともされる崇神天皇の宮が、古事記では「師木水垣宮(しきみずかきのみや)」、日本書紀も「磯城(しき)瑞籬宮」と表記。宮殿の周囲を瑞(=水)の籬(=垣)が巡っていたことが読み取れる。

 寺澤薫・橿考研総務企画部長は「纒向遺跡の中枢域は清らかな水が流れる神聖な空間だったと想像でき、瑞籬宮の言葉の意味とも重なる」と話している。

 ■初期大和政権 3世紀後半から4世紀後半にかけ、奈良県の大和盆地東南部で巨大な前方後円墳を造営した勢力。第10代の崇神(すじん)天皇を事実上の最初の大王とする説が有力。日本書紀によると、第11代の垂仁(すいにん)天皇の宮は「纒向珠城(まきむくたまきの)宮」、第12代景行(けいこう)天皇の宮は「纒向日代(まきむくひしろの)宮」といずれも「纒向」との記述があるが、3世紀前半の邪馬台国にいた女王・卑弥呼と初期大和政権の関係性はほとんど分かっていない。

【土・日曜日に書く】論説副委員長・渡部裕明 纒向遺跡と国家誕生の息吹

2009.11.14 MSN産経新聞

 ≪宮殿群が見つかった≫

 「卑弥呼の宮殿跡を発見」「邪馬台国大和説が有力に」…。

 11日の各紙朝刊は、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡から、3世紀前半の大型建物跡が発見されたニュースを大きく報じた。

 纒向遺跡は、神奈備(かんなび)山として有名な三輪山(標高467メートル)の西麓(せいろく)に広がる大規模な遺跡である。それも3世紀の初頭、突如姿を現し、4世紀の初めまで約100年間、繁栄したことがわかる。これまでの調査で、幅5メートルもの運河や大量の土器や木器、鍛冶(かじ)遺構などが見つかっている。

 土器は東海から北陸、九州まで幅広い地域から持ち込まれている。こうした点から、纒向は列島各地の人々が集められ、「新首都」として建設されたとの説が唱えられてきた。宮殿群発見の意義は、首都に不可欠な要素が初めて加えられたことである。

 3世紀初頭の日本といえば、『魏志(ぎし)』倭人(わじん)伝に記された邪馬台国の時代であり、次のように描写されている。

 《この国は元々男子を王としていたが戦乱(倭国大乱)が起き、互いに攻め合って何年にもなった。そこで1人の女子を共同して王に立てた。名を卑弥呼という。呪術(じゅじゅつ)を使い人々を幻惑した。夫はなく弟が補佐して国を治めた。宮室は高殿と城柵(じょうさく)を設け、兵士が警護していた》

 ≪激動の海外情勢に対応≫

 卑弥呼はよく「邪馬台国の女王」といわれるが、厳密には正しくない。倭人伝は「国々が卑弥呼を女王として共立した」と書き、彼女は約30の国々の一つ邪馬台国に住んでいたと伝える。卑弥呼は邪馬台国を中心とした連合国(倭国連合)の女王なのである。

 連合が成立したきっかけの「倭国大乱」の背景には、東アジアの情勢があった。

 中国大陸では強大な後漢帝国が「黄巾(こうきん)の乱」(184年)などで衰え、220年には滅亡する。魏、呉、蜀という3国が覇を競う時代(三国時代)が幕を開ける。後漢を後ろ盾に、大陸の先進文物を入手していた奴(な)国や伊都(いと)国など北部九州の国々の地位は低下せざるを得なかった。その後の主導権をめぐる争いこそ、倭国大乱だったのである。

 卑弥呼女王は西暦239年、建国されたばかりの魏に使節を派遣する。女王国はこの時点で、東海地方を基盤としたとされる狗奴(くな)国と抗争しており、救援を必要とする理由があった。

 使節は翌年、魏の皇帝から下賜(かし)された「親魏(しんぎ)倭王」の金印や100枚の銅鏡などを携えて帰国する。この鏡が三角縁(さんかくぶち)神獣鏡(しんじゅうきょう)だとする説と、画文帯(がもんたい)神獣鏡など古い鏡とする論争については、いまだ決着をみていない。

 ≪邪馬台国は大和で決着≫

 248年ごろ、卑弥呼は亡くなり、倭国には再び戦乱が起こった。13歳の壱与(いよ)という少女を王に立て、混乱は収まった。

 卑弥呼の墓として「大きな塚」が築かれた。纒向遺跡の南にある箸墓(はしはか)古墳だとみる研究者も少なくない。箸墓は全長約280メートルもの規模をもち、列島で最初に誕生した大型前方後円墳である。そして築造の時期は、土器の編年や放射性炭素による年代測定などから3世紀半ばから後半と考えられるようになった。卑弥呼の没年と限りなく近づいたのである。

 これに対し、寺澤薫・奈良県立橿原考古学研究所総務企画部長のように「卑弥呼の治世は女王国に与(くみ)しない国々も少なくなかった。不安定な時代に、箸墓のような隔絶した大型古墳が築かれたとは考えにくい」とする反論もある。

 箸墓が卑弥呼の墓かどうかはおくとして、纒向遺跡がヤマト王権発祥の地であったことは、もはや動かしがたいであろう。邪馬台国(倭国連合)から古墳時代への移行はこの地で、直接的に行われたのである。

 こうしたことは、「最初の実在した天皇(大王)」とされる第10代崇神(すじん)天皇の都宮(磯城瑞籬宮(しきみずかきのみや))や11代垂仁(すいにん)天皇、12代景行(けいこう)天皇の宮がいずれも纒向の地に営まれたとする記録とも符合する。

 邪馬台国九州説を唱える人はまだいる。しかし、それは学問的な発言ではなく、もはや「お国自慢」などのレベルでしかないと筆者は感じている。

 産声をあげたばかりの倭国は、官僚組織などもまだ十分ではなかっただろう。それでも今から1800年もの昔、わが祖先たちがひたすら背伸びし、大陸の国々と競おうとする健気(けなげ)さに、筆者は深い感動を覚えるのである。(わたなべ ひろあき)

纒向遺跡 卑弥呼の館か 俳優・苅谷さん予想ピタリ

2009年11月12日 MSN産経新聞

 倭国女王・卑弥呼の宮殿の可能性が指摘される大型建物跡(3世紀前半)が発見された奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で14、15の両日行われる現地説明会に、俳優でアマチュア考古学者の苅谷俊介さん(62)が、案内役として登場する。苅谷さんはロケの合間をぬって十数年前から纒向遺跡の発掘調査に参加。10年前に出版した論考書では、東西を中心軸とする卑弥呼の宮殿が、今回の調査地に埋もれていると予想、ピタリ的中させた。

 俳優になる前から考古学が好きだった苅谷さん。約30年前、人気刑事ドラマ「西部警察」のロケの帰りに先輩の石原裕次郎さん宅の建て替え工事に伴う発掘調査を見て、考古学熱が再燃。ついには裕次郎さん率いる石原軍団を辞め、当時はまだ無名だった纒向遺跡などの発掘現場に通い詰めた。

 10年前に出版した「まほろばの歌がきこえる」(エイチアンドアイ)で苅谷さんは、国内最初の前方後円墳とされる纒向石塚古墳の後円部が太陽祭祀(さいし)の“祭壇”と推定。そこから東へ延びるラインを中心軸として予想した宮殿域は、桜井市教委が今回発表した範囲と、位置、大きさともほぼ一致。飛鳥時代(7世紀)以降に登場する宮殿は南北軸が基本だが、苅谷さんの持論は正解だった。

 今回の大型建物跡の一部も発掘。「柱の跡がどこまでも続いてドキドキした。百パーセント卑弥呼の宮殿、大感激」と余韻が覚めない様子。現地説明会では桜井市教委の腕章を巻き、考古学ファンを迎える。

300年論争 決着近づく?

 「古代史最大の謎」とされる邪馬台国の所在地論争は、江戸時代の儒学者、新井白石(1657〜1725年)が大和説を提唱して以来、実に300年の歴史をもつ。最近では魏志倭人伝の解釈や遺跡発掘に加え、科学的研究の積み重ねで徐々に謎が解き明かされつつある。今回の纒向遺跡での成果も踏まえ、畿内説を提唱する白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は「だんだん決着に近づいてきた」と強調する。

 邪馬台国論争のルーツでは、新井白石が大和説の後に九州説を提唱し、国学者の本居宣長(1730〜1801年)も九州説を打ち出すなどして本格化。現在は、遺跡発掘による考古学的なアプローチが中心だ。

 纒向遺跡ではこの20年ほどの間、桜井市教委を中心に箸墓(はしはか)古墳(全長280メートル)など最古級の前方後円墳の調査を精力的に進めてきた。

 かつては4世紀の築造といわれたが、木の年輪幅の違いを利用して伐採年代を割り出す年輪年代測定法の成果などによって、3世紀の邪馬台国時代にさかのぼる可能性が高まった。こうした研究によって、今回の大型建物跡で出土した土器も、3世紀前半とほぼ特定できたという。

 所在地の最大の決め手は、卑弥呼が中国・魏から授かった金印の出土とされるが、丹念な調査が邪馬台国の実像をあぶり出しつつある。箸墓古墳では、土器に付着した炭化物に残る炭素量を利用した放射性炭素年代測定法によって、240〜260年代の築造で卑弥呼の墓とする説が打ち出された。

 弥生時代の土器に詳しい赤塚次郎・愛知県埋蔵文化財センター調査課長は「かつては九州の弥生時代の遺跡こそ邪馬台国の時代といわれたが、科学的な年代測定によって纒向遺跡の年代が半世紀以上古くなり、畿内説が有利になった」と指摘する。

 科学力を加味した研究で解明が進む邪馬台国。しかし、その舞台である纒向遺跡一帯は、住宅開発などが進む。白石館長は「気がつけば遺跡に家がたくさん建っていたということにならないよう、全容解明に文化庁や県が調査に乗り出すなどしっかりした態勢づくりが必要だ」と話した。

【写真説明】大型建物跡の推定復元模型を撮る苅谷さん(左端)=奈良県桜井市の纒向遺跡(川西健士郎撮影)

「九州説は無理…」新井白石以来の邪馬台国論争ゴール近し 纒向遺跡

2009.11.11 MSN産経新聞

 邪馬台国畿内説の“本命”である奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡での大型建物跡の発見は、江戸時代中期の儒学者、新井白石が大和説を提唱して以来続く邪馬台国論争にほのかなゴールをかいま見せる成果となった。魏志倭人伝の解釈や発掘調査、科学力を駆使した研究の積み重ねによって、古代史最大の謎が解き明かされつつある。

 「だんだん決着に近づいてきた」。畿内説を提唱する白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は強調する。

 邪馬台国論争の歴史は古く、新井白石が大和説ののちに九州説を提唱し、国学者の本居宣長(もとおり・のりなが)も九州説を打ち出すなど本格化。現在は、考古学的なアプローチが中心だ。

 纒向遺跡ではこの20年間、桜井市教委を中心に箸墓古墳(全長280メートル)など最古級の前方後円墳の調査を精力的に進めてきた。かつては4世紀の築造といわれたが、木の年輪幅の違いを利用して伐採年代を割り出す年輪年代測定法の成果などによって、3世紀の邪馬台国時代にさかのぼる可能性が高まった。

 所在地論争の最大の決め手は卑弥呼が中国・魏から授かった金印の出土とされるが、丹念な調査が邪馬台国の実像をあぶり出しつつある。白石館長は「長年の研究の蓄積によって『九州説は無理だろう』という考古学研究者が大半を占めるようになった」と指摘し、「全容解明へ文化庁や県が調査に乗り出すなど態勢づくりが必要だ」と話した。

クローズアップ2009:奈良・纒向遺跡に大型建物跡

2009年11月11日 毎日新聞 大阪朝刊

 卑弥呼の都、足固め

 邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で見つかった、女王卑弥呼(ひみこ)が活躍した3世紀前半の大型建物跡は、邪馬台国について記した魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に出てくる「宮室」(宮殿)との可能性が指摘される。この中枢建物跡は大和説をどのように強めるのか。東西方向の同一直線上で南北対称になる前例のない建物群が論争に与える影響と邪馬台国と確定させるためのハードルを探った。【大森顕浩】

 ◇中枢に計画性、裏付け

 纒向遺跡は「庄内式」と呼ばれる土器が使い始められた時期に、奈良盆地東南部の三輪山のふもとに突如として現れた。その年代は、卑弥呼が女王になったとみられる西暦190年ごろに近い。

 周辺では、後に全国で造られるようになった前方後円墳が早くから築かれた。大型建物跡の南約800メートルにある箸墓(はしはか)古墳は、全長約280メートルの巨大前方後円墳で、それ以前の墳丘墓や古墳とは隔絶した規模があり、時代を画した権力者の墓であることは間違いない。

 その後、奈良盆地東南部には、大和王権の初期の王陵とみられる巨大古墳が次々と築かれる。纒向遺跡を大和王権発祥の地とすることに異論はない。問題はそれが邪馬台国と結びつくかどうかだ。

 箸墓古墳の築造年代は、かつては4世紀以降とされたが、最近は卑弥呼の没年(248年ごろ)に近い3世紀後半とみられている。卑弥呼の墓とする説も有力になった。

 一方、卑弥呼の都とするのに欠けていたのが建物跡の存在だった。出土する土器の15〜30%を他地域から運び込まれた土器が占め、広範囲から人が集まった「日本最初の都市」と言われながら、裏付けとなる計画的な中枢建物跡が見つかっていなかった。今回の発見は、その弱点をクリアしたといえそうだ。

 ◇宮室復元カギに

 大型建物は推定で東西150メートル、南北100メートルの区画を整地して建てられた。壊されたのは土器型式の「庄内3式」期(240〜270年ごろ)。卑弥呼の死去(248年ごろ)とともに解体されたとも考えられるが、次の土器型式の「布留(ふる)0式」期(270〜290年ごろ)とされる箸墓古墳の築造開始時期とは微妙な時間差がある。

 魏志倭人伝によると、邪馬台国では、卑弥呼の死後、男王が立ったが、国中が服さず、卑弥呼一族の13歳の少女、台与(とよ)を新たな女王として国内が治まったという。纒向遺跡が邪馬台国なら、男王や台与が使った中心建物もあるはずだ。これまでの発掘調査で明らかになったのは遺跡全体の5%程度に過ぎない。範囲を広げた調査で、魏志倭人伝にある卑弥呼の宮室の全体像を復元できるかどうかが、邪馬台国イコール纒向説の鍵となる。

 纒向遺跡の建物群は中軸線が一直線となる点で後の飛鳥時代の宮殿と共通するが、中軸線の方向が南北ではなく東西になっている。また、大型建物は東が正面とみられ、南向きが一般的な飛鳥時代以降の宮殿とは異なる。正面の柱間が偶数で、中央に柱が立つ点も特異だ。建物の主が卑弥呼だったとした場合、後の大和王権とは違う思想を持っていた可能性もあり、新たな謎となりそうだ。

 ◇弥生と飛鳥、結ぶ技術−−方位・中軸そろう

 魏志倭人伝は卑弥呼の館「宮室」について「楼観・城柵(じょうさく)を厳かに設け、常に人有り、兵(武器)を持して守衛す」と記す。1986〜89年に発掘された吉野ケ里遺跡(佐賀県)は、卑弥呼の時代に近い2〜3世紀(弥生後期)の濠(ほり)に付設された物見やぐらが楼観、土塁が城柵に当たるとして「邪馬台国が見える」のキャッチフレーズを生んだ。

 一方、95年に池上曽根遺跡(大阪府)で見つかった大型建物跡は、中国の歴史書「漢書」地理志に日本が「百余国」に分かれていたと記された紀元前1世紀ごろ(弥生中期)の祭殿とみられている。方位を北に合わせており、後の宮殿建築のルーツとも言われる。

 纒向の建物群は、方位がそろっているだけでなく、各建物の中軸線が一直線でつながる点で、それまでと異なる。新しい宗教思想で統治した卑弥呼の館にふさわしく、いったん九州説に振れた振り子を大きく大和説に揺り戻す成果といえる。

 建物を復元した黒田龍二・神戸大准教授(建築史)は、この大型建物が池上曽根の建物より大きいのに、柱の直径が半分以下なのは、建築技術が進歩したためとして、弥生の祭殿と飛鳥時代の宮殿とをつなぐミッシング・リンク(欠けた環(わ))とみる。

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 ■ことば

 ◇纒向遺跡

 奈良県桜井市の三輪山西側に広がる3〜4世紀の大規模集落遺跡。東西約2キロ、南北約1・5キロに、最古級の前方後円墳とされる纒向石塚古墳や、卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳がある。各地の土器が持ち込まれ、邪馬台国の最有力候補地とされる。71年から発掘調査が始まり、今回で166回目だが、小規模な発掘が多く、全体像は分かっていない。

邪馬台国の最有力候補?纒向遺跡

2009年11月10日 毎日新聞

 邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)と同時代の3世紀前半の大型建物跡が見つかり、桜井市教委が10日、発表した。柱穴が南北19.2メートル、東西6.2メートルに整然と並び、同時代の建物では国内最大級。過去の発掘調査で確認された3棟の建物や柵列と共に、東西方向の同一直線上で南北対称となるよう計画的に配置されており、卑弥呼の「宮室」(宮殿)の可能性がある。邪馬台国大和説を前進させる成果と言えそうだ。

 78年に柵と建物跡が確認された調査地点を、今年2月から区域を広げて再度調査。東西に計画的に並ぶ三つの建物群や柵を確認。大型建物跡は、その東側の区域で新たに見つかった。

 直径約30センチの柱跡が南北に4.8メートル、東西に3.1メートルの間隔で並んでおり、南北方向の柱の間には床を支える細い束柱の穴があった。

 市教委は、後世に柱穴が削られた西側も含め、東西幅は倍の12.4メートルだったと推定。復元図を作成した黒田龍二・神戸大准教授(建築史)は、地上約2メートルに床を設けた高床式・一層の入り母屋造りで、高さは約10メートルとみている。

 推定床面積は約238平方メートルあったとみられ、弥生時代最大規模の環濠(かんごう)集落とされる吉野ケ里遺跡(佐賀県)で最も大きい「主祭殿」(2〜3世紀)の約1.5倍になる。

 また、同一直線上で南北対称となる建物配置は、同時期までには例がない。飛鳥時代(7世紀)の宮殿と共通する特徴で、当時の王権中枢の一角であった可能性が高い。

 現地説明会は14、15日の午前10時〜午後3時。雨天中止。JR巻向駅の北100メートル。駐車場はない。【高島博之】

 石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)の話 邪馬台国が纒向遺跡にあったという有力な根拠。建物は同時代には例のない大きさだ。住まいとしては大規模すぎ、祭祀(さいし)の場で、魏志倭人伝にある卑弥呼の「宮室」に相当するのではないか。

 【ことば】纒向遺跡

 奈良県桜井市の三輪山西側に広がる3〜4世紀の大規模集落遺跡。東西約2キロ、南北約1.5キロに、最古級の前方後円墳とされる纒向石塚古墳や、卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳がある。各地の土器が持ち込まれ、邪馬台国の最有力候補地とされる。71年から発掘調査が始まり、今回で166回目だが、小規模な発掘が多く、全体像は分かっていない。

卑弥呼の居館か 奈良・纒向遺跡から3世紀前半の建物跡が出土

2009.11.10 MSN産経新聞
邪馬台国の候補地論争が再燃した奈良県の纒向遺跡(上)と佐賀県の吉野ケ里遺跡

 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半の国内最大規模の大型建物跡など2棟が見つかり、市教委が10日、発表した。倭国の女王、卑弥呼が活躍した時代(2世紀末〜3世紀前半)とほぼ一致。中国の歴史書・魏志倭人伝には「卑弥呼の宮室(宮殿)は楼観や城柵(じょうさく)を厳かに設け」と記され、卑弥呼の居館の可能性が浮上し、邪馬台国畿内説をさらに有力にする一級の資料になりそうだ。

 大型建物跡は、東西2間(1間3・1メートル)、南北4間(1間4・8メートル)分を確認。西側は6世紀後半の水路で壊されていたが、市教委は建築様式などから、西側にさらに2間分延びていたと推測している。建物の規模は東西12・4メートル、南北19・2メートルで床面積は238平方メートルとなり、邪馬台国九州説の有力候補地・吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼市、吉野ケ里町)の大型建物跡(156平方メートル)を大幅に上回ることが分かった。

 柱穴に残された痕跡から、柱は直径約30センチで、柱の間には床を支えるため直径15センチ程度の束柱(つかばしら)を立てるなど堅固な構造だったとみられている。

 大型建物跡を復元した黒田龍二・神戸大准教授(日本建築史)によると、高床式の入り母屋造りで高さ約10メートルと推定。直径50センチ以上の太い柱を用いた弥生時代の大型建物と異なり、比較的細い柱でも造ることができる最先端の技術があったことがうかがえるという。

 大型建物跡の西側では、棟持(むなもち)柱をもつ建物跡(東西5・3メートル、南北8メートル)も確認。これまでの調査でさらに西側で2棟の建物跡が見つかっており、計4棟が方位を合わせて東西に並んでいたことが判明した。このうち大型建物跡など3棟は、さくで囲まれていたという。

 これらの建物群跡の外側は東西約150メートル、南北約100メートルにわたり、周囲より1メートル以上高台になっていることから、市教委は高台の範囲を宮殿の外郭、さくで囲まれた部分を内郭と想定。今回の調査区域は内郭の西半分にあたるという。

 市教委の橋本輝彦主査は「建物の中心軸をそろえた極めて計画的な構造。方形で区画した飛鳥時代(7世紀)以降の宮殿構造につながる可能性もあり、国内最古の都市の中枢部が分かる重要な成果だ」と話した。

 現地説明会は14、15両日の午前10時〜午後3時。JR桜井線巻向駅のすぐ西側。駐車場はない。

     ◇

 石野博信・香芝市二上山博物館長(考古学)の話 「建物の大きさだけでなく、建物群の中心軸が東西一直線に並んでいる点がすごい。これほど計画性のある建物群の遺構が見つかったのは古墳時代を通じて初めてだ。外郭もあり、復元されたら壮観だろう。祭祀(さいし)空間なのか政治空間なのかは現段階では分からないが、卑弥呼の館の可能性はある」

 ■纒向遺跡 纒向石塚古墳(3世紀前半)など最古級の前方後円墳6基が集中。物資運搬用の運河などが設けられ、インフラが整備された都市だった。出土土器は九州や関東など奈良県外のものが約15%を占め、全国から人が集まってきたことを示している。平成19年には国内最古の木製仮面(3世紀前半)も出土。箸墓(はしはか)古墳が築かれた3世紀後半が最盛期で、当時の面積は約280ヘクタール。うち95%のエリアが未調査となっている。

邪馬台国やっぱり九州? 九博4周年で特別展、国宝など400点

2009.10.23 MSN産経新聞

「古代九州」展で展示されている、大分県のダンワラ古墳から出土した「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」=福岡県太宰府市の九州国立博物館 九州ゆかりの考古資料の国宝や重要文化財など約400点を展示する九州国立博物館(福岡県太宰府市)の開館4周年記念特別展「古代九州の国宝−邪馬台国(やまたいこく)もここからはじまった」が、11月29日まで開かれている。

 埼玉県の埼玉稲荷山古墳出土の「金錯銘鉄剣」(11月11〜29日以外は複製品を展示)と熊本県の江田船山古墳出土の「銀錯銘大刀」には、いずれも「獲加多支鹵大王」(雄略天皇)の名が刻まれており、東西の豪族が中央の大王に仕えたことを示す貴重な資料。

 大分県のダンワラ古墳出土の「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」は「鏡の装飾が中国の出土例に匹敵する出来栄えで、卑弥呼(ひみこ)が使っていたとしてもおかしくない」(九博)という。

 九博の担当者は「東西南北に開かれ、文化交流の拠点となっていた九州の姿を浮かび上がらせたい。東京や関西に所蔵された資料の“里帰り”としても意義深い」と話している。

東奥日報 天地人

2009年06月01日 東奥日報

 「倭国(わこく)乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴(へ)たり。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼(ひみこ)という」。邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼の登場を記述した「魏志(ぎし)倭人伝」の一節だ。彼女は呪術(じゅじゅつ)をよくして民衆の信望を集めた。夫はなく、男弟が助けて国を治めていたとも。

 239年、魏に使者を派遣し朝貢を願い出た。これに対し魏の皇帝は「親魏倭王」の詔書を与え、銅鏡などを贈った。小国家が分立していた紀元前後の日本列島は、多くの争乱を経て、やがて女王を戴(いただ)く連合国家へと。魏志の語るところだが、さて邪馬台国はどこかとなれば、これが今も分明でない。九州説と畿内説があって古代史最大の謎とも。

 その論争に一石を投じる研究が出てきた。奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳の築造は、240〜260年と推定され、同時期に死んだとされる卑弥呼の墓の可能性が高いと。国立歴史民俗博物館のグループが明らかにした。この墓は当時としては大規模な前方後円墳で、以前から卑弥呼との関連を指摘する声も。そこへ今度の調査結果だ。

 邪馬台国は古くは大和と考えられてきたが、九州説の先鞭(せんべん)をつけたのは近世の新井白石だった。次いで本居宣長も魏志にある「水行十日陸行一月」に着目、大和説に疑問を呈した。明治以降は論争がさらに広がり、学界だけでなく一般の人々も巻き込んで今日に至っている。

 そんな歴史を持つ難問とあれば、今度の周辺調査だけではと慎重な見方も。陵墓内の調査は、できないものか。宮内庁に一考を望みたい。

女王卑弥呼が治めた邪馬台国はどこにあったのか…

2009年06月01日 西日本新聞朝刊

 女王卑弥呼が治めた邪馬台国はどこにあったのか。「畿内(大和)説」と「九州説」に二分される論争は、綱引きのように優勢劣勢のあやが行ったり来たりしてきた

▼九州説は一通りではない。20年前に大規模な環(かん)濠(ごう)集落跡が発掘された佐賀県の吉野ケ里説を含め北部九州を中心に諸説ある。発信するグループが郷土史家らを中心に現在も各地にでき、九州説をにぎやかなものにしている

▼論争に火を付けた往年のベストセラー本「まぼろしの邪馬台国」は昨年、映画になって彩りを添えた。先月は九州各地の歴史愛好家が、宇佐説を持つ大分県・宇佐で邪馬台国論争大会を開いている。論争はやむことがない

▼畿内か九州か、の綱引きでは畿内説側が綱を引き寄せたのか。「卑弥呼の墓」説がある奈良県桜井市の箸(はし)墓(はか)古墳について、説を裏付ける調査成果を国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)がまとめた

▼古墳の周濠(しゅうごう)から出土した土器に付着した炭化物などを科学的鑑定で分析し、古墳の築造時期を240―260年と推定した。中国の歴史書「魏志倭人伝」によると卑弥呼が死亡したのは248年ごろ

▼歴博は「卑弥呼の墓の可能性が極めて高い」と言う。九州説の人は分析精度への疑問を挙げ「論争に一石を投じた程度では」とみる。綱を引く手に力を得た畿内説側と、腰を落として踏ん張る構えの九州説側。そんな図も浮かぶ。卑弥呼の感想を聞いてみたい。

卑弥呼側近を埋葬? 桜井の纒向遺跡 古墳群

2009年06月01日 MSN産経新聞大阪

 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡内に集中する纒向石塚古墳(前方後円墳、全長96メートル)など国内最古級の古墳3基について、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループは31日、「放射性炭素年代測定法」によって3世紀前半の築造とする見解を発表した。女王・卑弥呼が擁立され、邪馬台国が隆盛した時期とほぼ合致し、邪馬台国畿内説を科学的に補強する資料として注目されそうだ。

 早稲田大学で同日開かれた日本考古学協会総会で報告された。

 纒向石塚古墳については、出土した炭化物の残存炭素量を測定した結果、西暦200年ごろの築造と推定。土器の形式変化から年代を割り出す考古学的手法では2世紀末?3世紀前半で、約50年間の幅があったが、今回の分析結果によって年代がさらに絞り込まれることになった。

 また、約200メートル西にある矢塚古墳(同、全長96メートル)は220?260年ごろ、矢塚古墳の南約300メートルに築かれた東田大塚古墳(同、全長120メートル)は220?240年ごろの築造の可能性が高いという。

 研究グループは、卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳(同、全長280メートル)について、卑弥呼の没年(248年ごろ)と合致する240?260年築造との見解を出しており、纒向遺跡内の最古級の前方後円墳は(1)纒向石塚古墳(2)矢塚古墳、東田大塚古墳(3)箸墓古墳?の順に築造された可能性が高いとしている。

 炭素年代測定法は数十年単位の誤差が出やすいとの批判もあるが、研究グループの春成秀爾・国立歴史民俗博物館名誉教授(考古学)は「多くの資料を分析することで年代を絞り込むことができた」と精度の高さを強調。纒向石塚古墳などの被葬者については「卑弥呼はまだ生きていた時代なので、彼女を支えた有力者の墓ではないか」としている。

 邪馬台国について中国の史書「魏志倭人伝」などによると、2世紀後半に卑弥呼が擁立され、239年に中国に朝貢するなど3世紀前半を中心に隆盛したとされている。

【写真説明】放射性炭素年代測定法で邪馬台国の隆盛期とほぼ合致した纒向遺跡の古墳群

(写真手前)=奈良県桜井市(本社ヘリから)

箸墓古墳:歴博年代測定、「箸墓は卑弥呼の墓」 信頼性疑問も

2009年06月01日 毎日新聞 東京朝刊

 国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)の研究グループは31日、古墳時代の始まりを示す箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)は240〜260年に築造されたと、東京・早稲田大であった日本考古学協会の研究発表会で報告した。247年ごろとされる邪馬台国の女王・卑弥呼の死亡時期と重なるため、邪馬台国所在地論争の点で注目される。しかし、この測定で箸墓を卑弥呼の墓とするには問題が残り、数値が独り歩きすることへの懸念がある。

 発表後、司会者の同協会理事が「(発表内容が)協会の共通認識になっているわけではありません」と、報道機関に冷静な対応を求める異例の要請を行った。

 歴博グループは、放射性炭素年代法によって全国で出土する土器に付着した炭化物を中心に年代を測定。箸墓でも、築造時の土器とされる「布留(ふる)0式」など16点を測り、この前後につくられた他の墳墓や遺跡の測定結果も総合して240〜260年を導いた。春成秀爾(ひでじ)・歴博名誉教授は「この時代、他に有力者はおらず、卑弥呼の墓であることが確定的になった」と述べた。

 しかし、土器付着炭化物は同じ地点から出た他の資料に比べ、古い年代が出る傾向がある。中国の史書「魏志倭人伝」では、卑弥呼の墓は円形とあって前方後円墳の箸墓とは異なるなど、文献上からも問題があり、会場からはデータの信頼度などに関し、質問が続出した。【伊藤和史】

奈良・箸墓古墳「箸墓古墳の築造は240〜260年」…歴博 卑弥呼死亡時期と一致

2009年05月29日 読売新聞 Yomiuri On-Line

土器年代測定…「誤差ある」反論も

C14年代測定法で築造年代が240〜260年と測定された箸墓古墳(本社ヘリから)

年代測定が行われた箸墓古墳出土の土器

 「卑弥呼の墓」との説がある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)の築造時期について、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループが240〜260年とする調査結果をまとめた。31日開かれる日本考古学協会の総会で発表する。この年代は、魏志倭人伝に「卑弥呼以て死す、大いに冢(ちょう)を作る」と記載された247年頃と時期が一致し、倭の女王・卑弥呼がいた邪馬台国の所在地論争にも影響を与えそうだ。同グループの春成秀爾(はるなりひでじ)・同博物館名誉教授は「これで箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは間違いなくなった。生前から墓をつくり始めていたのだろう」と話している。

 年代は、同古墳から出土した「布留(ふる)0式」と呼ばれる土器に付着した炭化物など約20点を放射性炭素(C14)年代測定した結果、導き出された。

 箸墓古墳は全長280メートルで、最初に築かれた巨大前方後円墳。邪馬台国論争の鍵を握る古墳として注目されている。

 今回の成果は、木の年輪が1年ごとに幅が違うことを利用した年輪年代測定法で補正していることなどから、慎重な見方もある。寺沢薫・奈良県立橿原考古学研究所部長は「今回測定された土器の試料のうち、築造時のものは少なく、誤差を考慮すれば、まだ結論を出すわけにはいかない」と主張する。

 邪馬台国論争を巡って、畿内説をとる白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は「分析の精度は極めて高いと認められ、造営年代に科学的な裏付けが与えられた」と指摘。

 一方、九州説の高島忠平・佐賀女子短大学長(同)は「今回の測定法で築造年代が決められるのか疑問。邪馬台国の所在地を決めるにはさらに議論をすべきだ」と語る。

「被葬者は卑弥呼だろう」福永伸哉大阪大教授(考古学)

2009/05/29 イザ!

まだ論争?いわゆる倭人伝の別の部分には・・・卑弥呼の墓? 箸墓古墳、240〜260年築造…

 福永伸哉大阪大教授(考古学)の話 箸墓古墳の築造時期は、ほぼ同じころとみられる古墳で出土した銅鏡の研究から、250年前後と主張してきた。魏志倭人伝など、当時を知り得る資料から言えば、これだけの巨大な古墳に埋葬されたのは卑弥呼だろう。ただ、放射性炭素年代測定法は万全とは考えていない。他の方法での実証や検証を積み上げて年代を決めるべきだ。

邪馬台国 ナゾ解き続く 化学分析、畿内説に"軍配" 箸墓古墳

2009年05月29日  産経関西

 「昼は人が造り、夜は神が造った」と日本書紀に記された箸墓古墳(奈良県桜井市)。邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説もあり、大和か九州かで揺れる邪馬台国の所在地論争もからんで、被葬者は古代史最大の謎ともされる。その築造年代を「放射性炭素年代測定」は西暦240〜260年とはじき出した。これは、中国の歴史書に記された卑弥呼の没年とほぼ合致。科学分析は邪馬台国畿内説に“軍配”をあげた形になった。しかし、測定法の精度を疑問視する見方もあり“謎解き”はまだ続きそうだ。

 「卑弥呼が魏に朝貢(239年)。2代目女王・壱与(いよ)朝貢(266年ごろ)」。中国の歴史書「魏志倭人伝」は、3世紀の日本について年代順に細かく記述している。

 年代測定を行った国立歴史民俗博物館の研究チームは、箸墓古墳や他の遺跡出土の土器など数千点の放射性炭素年代を調査。箸墓古墳の周(しゅうごう)から見つかった「布留0(ふるゼロ)式」とよばれる土器は、西暦200〜300年代の測定結果が出されたが、これより少し新しいとされる形式の土器「布留1式」では270年ごろと割り出したことなどから、「布留0式」を240〜260年に絞り込むことができたという。

 研究チームの小林謙一・中央大学准教授は「かなり精度の高いデータが得られた」と強調する。

 一方で、考古学者を中心に慎重な見方が多いのも事実だ。かつて箸墓古墳を発掘した奈良県立橿原考古学研究所の寺沢薫・総務企画部長は「研究途上の炭素年代測定によって、10年単位まで絞り込むことができるのか疑問がある。これで箸墓古墳の築造時期が決まったとはとても思えない」と指摘する。

 箸墓古墳を270年ごろの築造とみる兵庫県立考古博物館の石野博信・館長も「科学的な炭素年代を頼りにしたいが、まだまだデータが不足している」と慎重な立場だ。被葬者像については「箸墓のような巨大古墳は、戦乱をおさめ、卑弥呼の後に女王になったとされる臺与(とよ)(=壱与)こそふさわしい」と話した。

【写真説明】放射性炭素年代測定が行われた箸墓古墳出土の土器=奈良県橿原市の奈良県立橿原考古学研究所

newsそれから:桜井・纒向遺跡 「卑弥呼の里」で注目の的 /奈良

2009年05月16日 毎日新聞 地方版

 ◇有力候補地アピール ふるさと納税続々

 邪馬台国の有力候補地とされる桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、女王・卑弥呼の時代にあたる3世紀前半の建物跡が確認されて2カ月。同市が募る纒向遺跡事業への寄付金は4月末までに、全国から124件、総額612万1000円が寄せられている。市内には「卑弥呼の里」とうたった看板が設けられ、市教委は市民や古代史ファンの期待を受けて、今秋から中枢部の発掘に取り組む。【高島博之】

 纒向遺跡はJR桜井線・巻向駅を中心に南北約1・5キロ、東西約2キロに広がる。71年に本格的な調査が始まり、これまでに市教委と県立橿原考古学研究所が163次もの発掘調査を実施してきた。

 関東から九州までの広範囲の地域から持ち込まれた土器が数多く出土。78年の調査では、今回の建物跡の西側で、方位を揃えた建物跡が見つかっている。同じ時代の他の遺跡では例を見ない「首都」的な色合いを持ち、卑弥呼の宮殿だった可能性も指摘されている。

 さらに、遺跡内には、定型化した前方後円墳としては最古のものとされ、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳(全長約280メートル)がある。休日には、大勢のハイカーが散策を楽しんでいるが、実際に発掘されたのは遺跡の5%程度で、中枢部の様子も明らかになっていない。遺跡の全容が分かる見学施設もなく、観光客を強く引きつけるアピール力が今ひとつ不足していた。

 そんな中、昨年8月、市が「卑弥呼の里・桜井ふるさと寄付金」として、ふるさと納税を利用した寄付を募り始めた。纒向遺跡の調査研究・保存▽産業・観光の振興▽自然環境の保全▽教育・文化の振興−−など7種類で、4月末までに、計190件、総額1267万3106円の寄付が寄せられた。このうち、纒向遺跡事業が件数で約65%、金額で約48%を占め、注目度は圧勝の状況。市税務課によると、纒向遺跡の調査内容が報道されるたびに、全国から寄付金が集まり、「邪馬台国が確認されることを期待しています」との手紙が届くこともあったという。

 さらに、桜井ライオンズクラブが今年2月、箸墓古墳の西約400メートルの場所に「ようこそ卑弥呼の里 桜井市へ」と書いた高さ5メートルの看板を設置。卑弥呼をイメージした女の子のイラストも描き、邪馬台国の有力候補地であることを強くアピールしている。

 同市は観光客誘致のため2年前から、東京都内で「女王卑弥呼の国を探る」と題したシンポジウムを続けている。毎回数百人の応募があり、一定の人気を得ているが、来年はさらにアピールを強めようと、1200人の収容の桜井市民会館でイベントを企画する予定だ。

 発掘調査を任されている同市教委の橋本輝彦主査は「今年は建物列が続くとみられる東側を発掘する。建物がどのように配置されていたか解明したい」と意気込んでいる。

なるほドリ:桜井市の纒向遺跡って、邪馬台国なの? /奈良

2009年05月13日 毎日新聞 地方版

 <NEWS NAVIGATOR>

 ◆桜井市の纒向遺跡って、邪馬台国なの?

 ◇「最有力候補地」とも 期待集め、調査が進行中

 なるほドリ 3月に卑弥呼(ひみこ)と同時期の建物群が見つかった桜井市の纒向(まきむく)遺跡って、邪馬台国と関係があるの?

 記者 キャッチフレーズ的には「邪馬台国の最有力候補地」と言われることもありますね。

 Q なぜ、そう言われているの?

 A まず、遺跡の年代が邪馬台国の時代に合っているからです。纒向遺跡は纒向川が東から西に流れる扇状地の上に2世紀末ごろに突然、現れ、4世紀の中ごろにこつ然と消えます。また、出土する土器は尾張や伊勢、北陸、吉備、山陰など、南関東から九州北部まで非常に広範囲の地域のもので、各地方から人々が集っていたことを示しています。このことから、纒向は自然に生まれた集落ではなく、人工的な「都市」のようなものだった可能性が高いのです。邪馬台国の候補地とされるのは、こういったことが要因です。

 Q でも、それだけでは全然、証明にならないんじゃないの?

 A 確かにそうですね。これまで160次を超える調査が実施されていますが、ほとんどが小規模なもので、発掘された総面積は遺跡全体の5%ほどに過ぎません。「これぞ宮殿」と呼ぶべき大規模な建物跡なども見つかっていませんので、冷静に対応していかなければならないのは言うまでもありません。

 ただ、絹製のきんちゃく小袋といったとても珍しいものが出たり、定型化した前方後円墳としては日本最古で「卑弥呼の墓」と考える研究者も少なくない箸墓(はしはか)古墳もあります。このほか、規模はあまり大きくありませんが、魏の縮尺を採用して建てた祭殿があったり、水の流れを用いた祭祀(さいし)を執り行った可能性が高い「導水施設」も見つかっています。朱を塗った鶏形木製品や吉備(岡山県)にルーツがある弧文円板(こもんえんばん)が出土するなど、ロマンが広がる要素はたくさんあります。

 Q これから、どんな調査が進んでいくのかな。

 A 3月の調査地の近辺を、今年度もさらに調査していく計画です。昨年8月から募っている「ふるさと納税制度」の「卑弥呼の里・桜井ふるさと基金」で、「纒向遺跡の調査研究・保存活用」は4月末までに124件612万1000円が寄せられました。歴史愛好家にとどまらない人たちの期待も集めていますので、着実に、慎重に、調査していってほしいものです。<回答・山成孝治(奈良支局)>

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 〒630−8114(住所不要)毎日新聞奈良支局「質問なるほドリ」係(o.nara@mbx.mainichi.co.jp)

邪馬台国「畿内説」優位!?ふるさと納税で"軍配"

2009年04月11日 産経新聞関西

 邪馬台国の有力候補地、纒向(まきむく)遺跡のある奈良県桜井市が、ふるさと納税制度を利用して同遺跡調査向けの寄付金を募ったところ、3月末までに全国から約600万円が寄せられたことが分かった。邪馬台国九州説の拠点・吉野ケ里遺跡のある佐賀県神埼市と吉野ケ里町では、吉野ケ里遺跡関連の寄付金は両市町で約55万円にとどまった。畿内か九州かで二分される邪馬台国論争。全国からの纒向への寄付金も九州からだけはゼロとライバル意識も見え隠れするなか、ふるさと納税では畿内に“軍配”が上がった。

 ふるさと納税制度は、出身地や応援したい自治体に寄付した場合、税金の一部が控除される仕組み。桜井市は昨年8月から、「卑弥呼の里・桜井ふるさと寄付金」として、纒向遺跡の調査研究▽産業や観光振興▽医療・福祉充実―など7項目の使い道を示し、市民らが希望の項目を選んで1口1000円で寄付をする。

 全体では3月31日現在で172件、1162万7000円が寄せられ、そのうち纒向遺跡関連は109件、596万2000円で半分以上を占めた。特に、1月末に同遺跡の発掘計画が新聞などで報じられたのを機に急増、2、3月だけで63件、計559万3000円に上った。

 3月に行われた発掘調査では、3棟が規則正しく並ぶ宮殿構造の建物群跡が出土。「卑弥呼の神殿か」と話題を集め、同月22日の一般向け現地説明会には全国から約2500人が参加し、市が説明会会場でふるさと納税を呼びかけたところ、20人の歴史ファンが計3万7000円を寄付した。

 遺跡関連の寄付はほとんどが個人で、数十万円単位の大口もあったが、5000〜1万円が大半。遺跡の散策の途中で市役所窓口を訪れ、数千円を寄付するリュックサック姿のハイカーもいるほか、東京や北海道など遠方からの寄付も多く、邪馬台国ロマンが全国に広がっている状況も浮き彫りに。

 一方で、畿内説への肩入れを拒んでか九州からの寄付は皆無。2月に福岡県内の男性から寄付金の問い合わせがあったが、同市税務課担当者は「邪馬台国九州説の人が探りを入れてきたのかも」と余裕の笑みを浮かべる。谷奥昭弘市長は「寄付金を通じて、邪馬台国解明に結びついてほしいという熱い思いを感じた。九州の人たちは、地元こそ邪馬台国と思っているだろうが、吉野ケ里遺跡は50〜100年も時代がずれている」と強気の姿勢。同市は寄付金のうち125万円を21年度当初予算に組み込み、調査などに活用する。

 一方、吉野ケ里遺跡のある佐賀県神埼市と吉野ケ里町では、「吉野ケ里歴史公園活用や観光振興」などを名目にふるさと寄付金を募集。神埼市では、昨年7月から今年3月末までで同遺跡関連は53万円(4件)、吉野け里町も同期間でわずか1万5000円(2件)にとどまった。両市町では遺跡公園周辺の植栽や観光パンフレット発行などにあてることにしているが、地元出身者からの寄付が大半で、全国的な広がりはみられないという。

 吉野ケ里町企画課担当者は「大規模な発掘が行われた平成元年には年間200万人が訪れたが、すでに主な調査も終わった。吉野ケ里ブームのころに寄付金を募ったらもっと集まったのではないか」と悔しそうに話していた。

「卑弥呼の宮殿」邪馬台国論争が再燃

2009/03/20 イザ!

邪馬台国 本家VS元祖の熾烈な争い 新聞紙は死んじゃうの?邪馬台国引越し説はなんであきまへんねん

 畿内か、九州か−。宮殿を思わせる建物群跡が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡。「卑弥呼の宮殿の手がかりが見えてきた」「邪馬台国には、まだ遠い」。邪馬台国論争に再び火がついた。

 卑弥呼が中国・魏に使者を送ったのは239年。今回見つかった建物群跡は、まさにこの時期にあたる。纒向遺跡が邪馬台国の中心とみる石野博信・兵庫県立考古博物館長は「方位を合わせた構造は、中国の宮殿と共通している。卑弥呼は、魏の使者を迎えるにあたって外交交渉上、国の威容を整えようとしたのかもしれない」と推測する。

 辰巳和弘・同志社大教授(古代学)も「魏志倭人伝は『卑弥呼は鬼道(きどう、呪術)につかえ、よく衆を惑わす』と記す。まさに女王が祭祀(さいし)や政治を行った場所の一部だろう」。

 今回の発掘現場を昭和53年に調査した寺沢薫・奈良県立橿原考古学研究所総務企画部長は、西側に張り出した柵(さく)と、方位を合わせた建物群の計画性に注目し、「儀式を行う特別な建物だったことは間違いない。中心施設はさらに東に埋まっているのだろう」と今後の調査に期待をよせた。

 勢いづく畿内説に対し、九州説を唱える高島忠平・佐賀女子短大学長(考古学)は慎重な姿勢を崩さない。「数棟の建物跡と柵が見つかっただけで、邪馬台国を議論するのは時期尚早。全体構造が明らかになっていない段階では、九州と比較もできない」と指摘し、魏志倭人伝の記述や発掘成果をもとに「邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)などを有力候補とした北部九州であることは動かない」と話した。

勢いづく畿内説 纏向遺跡「卑弥呼の宮殿」

2009年03月21日 産経新聞関西

 畿内か、九州か―。宮殿を思わせる建物群跡が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡。「卑弥呼の宮殿の手がかりが見えてきた」「邪馬台国には、まだ遠い」。邪馬台国論争に再び火がついた。

 卑弥呼が中国・魏に使者を送ったのは239年。今回見つかった建物群跡は、まさにこの時期にあたる。纒向遺跡が邪馬台国の中心とみる石野博信・兵庫県立考古博物館長は「方位を合わせた構造は、中国の宮殿と共通している。卑弥呼は、魏の使者を迎えるにあたって外交交渉上、国の威容を整えようとしたのかもしれない」と推測する。

 辰巳和弘・同志社大教授(古代学)も「魏志倭人伝は『卑弥呼は鬼道(きどう)(呪術)(じゅじゅつ)につかえ、よく衆を惑わす』と記す。まさに女王が祭祀(さいし)や政治を行った場所の一部だろう」。

 今回の発掘現場を昭和53年に調査した寺沢薫・奈良県立橿原考古学研究所総務企画部長は、西側に張り出した柵(さく)と、方位を合わせた建物群の計画性に注目し、「儀式を行う特別な建物だったことは間違いない。中心施設はさらに東に埋まっているのだろう」と今後の調査に期待をよせた。

 勢いづく畿内説に対し、九州説を唱える高島忠平・佐賀女子短大学長(考古学)は慎重な姿勢を崩さない。「数棟の建物跡と柵が見つかっただけで、邪馬台国を議論するのは時期尚早。全体構造が明らかになっていない段階では、九州と比較もできない」と指摘し、魏志倭人伝の記述や発掘成果をもとに「邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)などを有力候補とした北部九州であることは動かない」と話した。

卑弥呼時代の重要施設か 3世紀前半、纒向遺跡

2009/03/21 中国新聞ニュース

 邪馬台国やまたいこくの有力候補地、纒向まきむく遺跡(奈良県桜井市)で、柵の内外に整然と並ぶ三世紀前半の三棟の建物跡が確認され、市教育委員会が二十日、発表した。綿密な計画に基づいて建てたようで、同時期にこのような例はないという。

 一帯は約百メートル四方が付近に比べてやや高い地形で、市教委は「纒向の特別な場所。構造や用途は不明だが、重要施設の一角の可能性が高い」と指摘。女王卑弥呼ひみこ(生年不明―二四八年ごろ)の時代と一致しており、邪馬台国の実態解明につながる手掛かりとなりそうだ。

 一九七八年に出土した神殿のような建物(約五メートル四方)と推測される遺構の周辺約三百八十平方メートルを発掘。遺構の東五・二メートルで、新たに建物跡(南北六メートル以上、東西は不明)が見つかった。

 二棟は、周囲を巡る凸字形の柵(南北の最大幅約二十六メートル)の内側にあった。柵で囲んだ区域はさらに東へ続いており、施設の中枢部が広がっていたとみられる。

 柵の外に当たる西側では、過去に別の建物跡も出土。今回の調査で、三棟が東西に向きをそろえて一列に並んでいたことが分かった。建物にはいずれも直径約十五センチの細い柱が使われたらしい。専門家は「宮殿なら直径三十センチは必要。規模が小さすぎる」としている。建物群は三世紀半ばに壊されていた。

 纒向遺跡は三世紀初めに突如出現した集落跡で、当時としては国内最大級。卑弥呼の墓説がある箸墓はしはか古墳が存在し、初期大和王権の発祥地ともされる。

 現地説明会は二十二日午前十時から。

卑弥呼宮殿の一角か 特異な張り出し柵や建物跡出土 奈良・纒向遺跡

2009.03.20 MSN産経新聞

大規模な神殿跡とみられる柱穴が出土した纏向(まきむく)遺跡(手前)。中央は箸墓古墳=18日午後、奈良市桜井市(本社ヘリから、飯田英男撮影)

 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半の建物跡(柱穴)や凸字形の柵(さく)が見つかり、市教育委員会が20日発表した。

 過去に見つかった建物跡とあわせ、3棟が東西に整然と並ぶことも確認。当時、方位に合わせて計画的に建てられた例は極めて珍しい。

 女王・卑弥呼が活躍した時期とほぼ一致しており、卑弥呼がまつりごとを行った宮殿の一角との見方が浮上、邪馬台国畿内説に弾みをつけそうだ。

 調査は、約100メートル四方の高台のうち、西端約400平方メートルで実施。新たな建物跡は一辺が6メートル以上あり、昭和53年に見つかった建物跡(一辺5メートル)の東側で見つかった。その西側で以前、見つかっていた柱穴は同様の建物跡と分かった。

 3棟が高台の西端に位置することから、さらに東へ発掘を進めれば、神殿のような中心的な建物が見つかる可能性がある。

 柵は、全体の長さが約40メートル。53年発見の建物跡を凸字で囲むように南北へ伸び、東に折れ曲がっている。

 3棟は、西端の一棟がある「外郭(がいかく)」と、凸字形の柵に囲まれた2棟がある「内郭(ないかく)」に分かれた宮殿構造だった可能性もある。市教委は「建物群が特別な施設であることは間違いない」としている。

 現地説明会は22日午前10時と午後1時から。JR巻向駅のすぐ西で、駐車場はない。

2009年3月 6日

古墳発生 新たな謎 前方後円墳、2タイプ 奈良・纒向遺跡

2009年03月06日 産経新聞関西

 邪馬台国の最有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(3世紀)にある国内最古級の前方後円墳の矢塚、勝山、東田大塚(ひがいだおおつか)の3古墳について、県立橿原考古学研究所と同市教育委員会は5日、前方部の形によって2つのタイプに分かれていたことが判明したと発表した。3古墳は、いずれも前方部が極端に短い「纒向型」で前方後円墳の祖型との見方もあったが、古墳誕生直後から2つの系統があった可能性が浮上。前方後円墳の発展過程を考える上で貴重な資料になりそうだ。

 同遺跡では、3古墳のほかに纒向石塚古墳(全長96メートル)など計5基の最古級の前方後円墳が相次いで築造され、邪馬台国時代のトップクラスの墓とされる。

 「纒向型」は、前方部の長さが後円部のほぼ半分しかなく、天皇陵など巨大な前方後円墳とは形が異なるのが特徴。今回の調査によって、矢塚古墳(3世紀中ごろ)は全長96メートル、前方部は後円部のほぼ半分の34メートルで纒向型と判明。一方で、東田大塚古墳(3世紀後半)は全長120メートルで前方部は50メートル、勝山古墳は全長115メートルで前方部が48メートルと、いずれも前方部が従来の想定より長いことが判明、纒向型ではないと分かった。

 前方後円墳は、纒向型から前方部の長い墳形に発展し、邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説が根強い箸墓古墳(全長280メートル)が築かれたという見方もある。寺沢薫・同研究所総務企画部長は「纒向型以外に前方部の長いタイプが当初から併存していた可能性も出てきた。日本列島の王権につながる纒向地域の前方後円墳の成立に、新たな謎が生まれた」と話した。

 現地はすでに埋め戻されているが、矢塚、東田大塚両古墳の出土遺物は6?13日、桜井市埋蔵文化財センターで展示される。

【写真説明】最古級の前方後円墳が相次いで築造された纒向遺跡の勝山、矢塚、東田大塚の3古墳(手前左から)=奈良県桜井市(本社ヘリから)

「邪馬台国」の中枢解明へ 奈良・纒向遺跡を2月から初の学術発掘

2009.01.30 MSN産経新聞

箸墓古墳と(写真手前)と纒向古墳群(写真奥)=26日、奈良県桜井市(本社ヘリから、大塚聡彦撮影) 

 中国の歴史書「魏志(ぎし)倭人伝」に登場する邪馬台国(やまたいこく)の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(2世紀末−4世紀初め)について、市教育委員会は30日、かつて神殿跡の一部が発掘された遺跡中心部を2月から学術調査すると発表した。邪馬台国の女王・卑弥呼が国家的祭祀(さいし)を行った神殿の可能性もあり、邪馬台国論争のカギを握る重要な成果も期待される。

 同遺跡は奈良盆地東南部に位置し、卑弥呼の墓との説が根強い箸(はし)墓古墳(全長280メートル)を含む東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ全国屈指の大規模遺跡。県や市は、昭和46年から160回にわたって調査しているが、大半が住宅などの開発工事に伴う小規模な発掘だったため、調査ずみ面積は全体の5%にとどまり、全容解明にはほど遠い状況となっている。

 市は、古代日本の首都とされる同遺跡の全容解明が不可欠として、中枢部分の学術調査を初めて実施することを決定。調査は数年間を見込んでおり、今年度内は、昭和53年に駐車場整備に伴う発掘で神殿跡が見つかった地域を含む450平方メートルに着手する。

 当時の調査では、卑弥呼(生年不明〜248年?死去)の時代とほぼ一致する3世紀前半の神殿とみられる約5メートル四方の掘っ立て柱建物跡と、南側にはほこらのような約2メートル四方の建物跡1棟、周囲に柵(さく)が見つかっており、神殿の一部と考えられている。今回の調査によって、これらの建物跡の全容を把握するという。

 研究者の間では、建物跡の東側に卑弥呼の居館や大規模な神殿が存在したとの見方もあり、平成21年度以降に調査したいとしている。

出現期古墳に2タイプ 前方部の長さに違い

2008年03月05日 中国新聞ニュース

 前方後円墳発祥の地とされる奈良県桜井市の纒向古墳群にある勝山、矢塚、東田大塚の3古墳(いずれも3世紀代)の発掘調査で、墳丘の詳しい形状などが分かり、県立橿原考古学研究所と桜井市教育委員会が5日、発表した。

 勝山古墳などは前方後円墳の原型の「纒向型」と呼ばれ、後円部の直径が前方部の長さの約2倍になるのが特徴だが、勝山と東田大塚には当てはまらないことが、ほぼ確実になった。

 前方部の長短で2つのタイプに分かれ、前方後円墳の出現や発展過程を解明する資料となりそうだ。同研究所の寺沢薫調査研究部長は「古墳のデータがそろってきており、纒向型の位置付けを見直す段階にきた」と話している。

 古墳群は邪馬台国の候補地・纒向遺跡内にあり、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳(3世紀後半)など出現期の前方後円墳6基が集中。箸墓を除く5基が纒向型とみられていた。

大量のベニバナ花粉出土 纒向遺跡、邪馬台国時代の染料か

2007年10月02日 中国新聞ニュース

 女王卑弥呼で知られる邪馬台国の有力候補地、奈良県桜井市の纒向遺跡で、3世紀前半の溝跡にたまった土から大量のベニバナ花粉が見つかり、市教育委員会が2日、発表した。織物の染料とみられ、国内で確認された最古の例。

 「魏志倭人伝」によると、243年、卑弥呼が魏に赤や青の織物を献じたと伝えている。当時の大陸との交流を考える貴重な資料になりそうだ。

 エジプトや西アジアが原産のベニバナは、中国などから日本に伝わったとされ、これまで6世紀後半の藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)の石棺から花粉が見つかっていたのが最古だった。

 市教委は「中国との直接的な行き来の中で、最新技術だった染織が持ち込まれたのだろう。指導役の工人が来て栽培までしていたかもしれない」としている。

 市教委が依頼した奈良教育大の金原正明准教授(環境考古学)が分析した。

邪馬台国時代 最古の木製仮面出土

2007/09/26 The Sankei Shimbun WEB-site

 弥生時代の女王・卑弥呼が支配した邪馬台国の有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半の木製の仮面が見つかり26日、市教育委員会が発表した。農作業用の鍬(くわ)の刃の部分を加工していたことから、豊作を願う祭祀(さいし)に使われた可能性が高いという。木製の仮面としては国内最古の出土例で、当時の信仰の様子を知る上で貴重な資料となりそうだ。

 仮面は井戸(直径1.5メートル、深さ1.4メートル)から出土し、長さ26センチ、幅21センチ、厚さ6ミリの板状。楕円(だえん)形をした鍬の刃を顔の形に加工し、柄を差し込む穴を「口」に見立てて利用。両目はくり抜いて、鼻は刃の中央部を彫り残して立体的に表現していた。まゆも線刻で表現され、うっすらと朱色の顔料も残っていた。

 目や口の位置は成人の顔の大きさとほぼ一致しており、弥生人が実際にかぶって祭祀などを行ったと推測している。

 井戸からは、朱色に塗られた木製の盾の破片(長さ15センチ)や鎌の柄(長さ48センチ)も出土。同時代の土器には、神を祭る祭司が盾と武器を持って踊る様子が描かれており、纒向遺跡では仮面をつけて同様の祭祀が行われていたとみられる。

 縄文時代のものでは、東日本を中心に土製の仮面が出土。木製の仮面は7世紀初めの宅原(えいばら)遺跡(神戸市)の例が最古とされていたが、今回の発見はさらに400年近くさかのぼるものとなった。

 仮面は10月3日〜12月2日、同市芝の市立埋蔵文化財センターで展示される。


纒向勝山古墳

桜井市教育委員会

 纒向勝山古墳は、東面する全長約110m、後円部の高さ約7mの古墳時代前期の前方後円墳で、周囲にはかっての濠の痕跡を残すように、逆台形の池がある。詳しい調査が行われていないため、築造の時期や主体部の内容など、詳細は不明だが、墳丘の築造企画は纒向石塚・纒向矢塚・東田大塚・ホケノ山などの古墳、と同じ築造企画を持つ纒向型前方後円墳の一つと考えられ、箸墓古墳に先行する古墳になる可能性も指摘されている。

勝山古墳出土木材年輪年代測定結果について 記者発表資料

2001年05月30日 橿原考古学研究所

桜井市 勝山古墳第4次調査 記者発表資料

2001年03月26日 橿原考古学研究所


ホケノ山古墳現地説明会に考古学ファンら4000人

April 08, 2000

 日本最古の古墳とされる奈良県桜井市のホケノ山古墳で8日、現地説明会が開かれた。「邪馬台国時代」の墓を一目見ようと、早朝から考古学ファンが詰めかけ、発掘調査をした同県立橿原考古学研究所は、説明会を予定より約1時間早め、午前9時すぎから始めた。見学者は同11時現在で約4000人に達し、珍しい埋葬施設である「石囲い木槨(もっかく)」や、副葬品の中国鏡などを見物するため、約700メートルの列をつくった。

 ホケノ山古墳は、出土した土器などから3世紀中ごろに造られたと見られていた。だが、棺(ひつぎ)の木片を科学的に分析したところ、西暦200年前後に伐採された木が使われていた可能性が高まり、築造時期も3世紀前半にさかのぼりそうという。
9日も午前10時から午後3時まで現地説明会が開かれる。

最古の前方後円墳、大和に

2000年03月27日

 邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市のまきむく遺跡の一角にあり、最初期の前方後円墳として注目されていたホケノ山古墳(全長約80メートル)が3世紀中ごろの築造とみられ、埋葬施設が確認された最古の前方後円墳と分かった。卑弥呼の時代に前方後円墳が奈良盆地東南部で発生したことを示す重要な発見。大和古墳群学術調査委員会が27日、発表した。

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