TOPIC No. 9-7 弥生時代(BC1000年? - AD300年)

No.
 内          容
01 弥生時代 byフリ−百科事典(Wikipedia)
02 弥生人 byフリ−百科事典(Wikipedia)
03 弥生時代の始まりと終わり by弥生ミュ−ジアム
04 第3回 弥生時代の幕開け -とりあえず、弥生って何?- by裏辺研究所
05 銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)by邪馬台国大研究
06 加茂岩倉遺跡ガイダンス
07 【邪馬台国はどこにあった?!】魏志倭人伝を小学生でもわかるように解説 1/2 byY氏は暇人
08 邪馬台国とは何だろうか?
09 古代史(魏志の倭人伝)・伊都国(糸島)by古代史(日本人のルーツを訪ねて)
10 弥生に込められた意味とは?  by日本とユダヤのハーモニー 〜日本語のルーツ
11 葬送の「舟」、ついに古墳から見つかった! (2006年03月06日) 
 by深野稔生の「山、時々日記」
12 ひろしまの遺跡  by遺跡探訪のへや(公益財団法人広島県教育事業団事務局 
 埋蔵文化財調査部屋)


一支国博物館がオープン 長崎、触る展示で古代に親しみ

2010/03/14 中国新聞ニュース

 魏志倭人伝に記された「一支国いきこく」の王都とされる長崎県壱岐市の国特別史跡、原の辻はるのつじ遺跡の出土品などを展示し、古代の暮らしや大陸との交流史を紹介する市立一支国博物館が14日、開館した。

 建物は建築家の故黒川紀章くろかわ・きしょう氏の設計で、総事業費約39億円。国の重要文化財「亀形飾金具かめがたかざりかなぐ」など島内出土の遺物約2千点を常設展示し、併設の県立埋蔵文化財センターの収蔵品約千点もガラス越しに見学できる。市民をモデルにした古代人の人形を配したジオラマや、一部の出土品に触ることができる展示も特徴。

 記念式典で須藤正人すとう・まさと館長は「東アジアの中の壱岐にどっぷり漬かってもらうため、見るだけでなく触って親しめる展示手法を採った。何かを感じてほしい」とあいさつ。館内は大勢の市民や考古学ファンでにぎわった。

 韓国・瑞山市の文化観光課職員李康列イ・カンヨルさん(36)は「貴重な土器に触ることができて驚き、土の感触が印象に残った。博物館の建設に携わっており、斬新な展示方法は勉強になった」と話した。

 6月20日まで開館記念展「『魏志』倭人伝の国々に残る至宝展」を開催。同書に記された五つのクニ(対馬国、一支国、末盧国まつらこく、伊都国いとこく、奴国なこく)の遺物を比較展示する。

妻木晩田遺跡:弥生人の生活に触れて 施設「むきばんだ」来月4日オープン /鳥取

2010年3月14日 毎日新聞 地方版

 ◇はく製や竪穴住居の骨格展示−−大山町

 国内最大級の弥生時代集落跡で国史跡の妻木晩田遺跡(大山町妻木)に、遺跡の概要を説明するガイダンス施設「弥生の館 むきばんだ」が完成した。4月4日にオープンする。入場無料。手で触れる展示品などで弥生人の生活を実感できる。弥生時代の暮らしに特化したガイダンス施設は山陰初という。

 県教委が2億5700万円をかけて建設。展示制作は別途6600万円を投じた。建物は県産材を使った木造平屋で、床面積は748平方メートル。

 ロビーの床には、遺跡全体を撮影した500分の1の航空写真(縦4・5メートル、横3メートル)がはめ込んである。土器、石器、鉄器などの出土品を並べたコーナーや80人が利用できる体験学習室がある。

 展示室には、弥生人が食べていたイノシシ、シカ、ウサギ、タヌキ、イヌワシのはく製、魚介類の模型など計約100点を展示。復元した竪穴住居の骨格もあり、中には鉄器を加工している弥生人の人形も配置した。展示品の大半は触ることができる。

 名称は昨年9月、公募で決定。駐車場は観光バス3台と乗用車60台が収容できる。

 妻木晩田遺跡の面積は170ヘクタール。99年12月にうち152ヘクタールが国史跡に指定された。これまで竪穴住居と掘立柱建物の跡が計約900棟分、墓34基分がみつかり、大規模な“弥生のムラ”があったことが確認されている。年間3万5000人が訪れる。【小松原弘人】

大和説に疑問「邪馬台国近江説」2冊発刊

2010年03月13日 読売新聞 Yomiuri On-Line

邪馬台国近江説について書かれた2冊

 弥生時代の大型建物群跡などが見つかった滋賀県守山市の伊勢遺跡に、卑弥呼がいた――。

 「邪馬台国近江説」を唱える郷土史家や在野の研究者が、その主張を展開する書籍を相次いで発刊した。

 どちらの著書も、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)が邪馬台国の最有力候補地であることに疑問を持つ内容で、2人は「伊勢遺跡の重要性を広める契機になれば」と話す。

 1月に「邪馬台国近江説―古代近江の点と線」(幻冬舎ルネッサンス、定価1365円)を発刊したのは、同遺跡近くに住むハローワーク相談員・澤井良介さん(64)。自宅近くで1981年に同遺跡が発見され、会社を定年退職後、これまでの成果を著書にまとめた。

 本では、現在の高島市で生まれたとされる継体天皇や野洲市で大量に出土した銅鐸(どうたく)、近江で勢力を持ち、当時の天皇家とも縁が深いとされる豪族・息長(おきなが)氏や皇祖をまつる伊勢神宮との関係などを通じ、邪馬台国と古代の滋賀とのかかわりを探っている。

 東京都のフリー編集者で邪馬台国研究家の後藤聡一さん(52)は、「邪馬台国近江説 纏向遺跡『箸墓(はしはか)=卑弥呼の墓』説への疑問」(サンライズ出版、同1260円)を出版。

 円状に配置された巨大な高床式建物群などを王が住んだ宮室などに関係していると推測したうえで、「周辺国を束ねる中心国で、卑弥呼が『邪馬台国』の女王としてこの地に迎えられた」とし、纒向遺跡については、「卑弥呼が女王の座についた時期には、盛期を迎えていない『ムラ』の時代だった」と疑問を呈している。

 2人は「邪馬台国といえば大和か北九州かで論争になるが、伊勢遺跡も考えられるということを知ってほしい」「全国から注目を集める遺跡だが、整備も進まず、存在を知らない人も多い。歴史を再考する一助になればうれしい」と話している。

吉野ケ里歴史公園入場500万人 開園から9年

2010年03月13日 佐賀新聞

 吉野ケ里歴史公園(神埼市郡)の入場者数が12日、開園から約9年で累計500万人に達した。500万人目となった三養基郡基山町の主婦田中ハマ子さん(84)に、銅鏡型の文鎮や勾玉(まがたま)などの記念品が贈られた。

 公園は2001年4月21日開園。01年度は68万1千人が入場したが、その後は減少傾向が続き、04年度は41万5千人にまで減った。07年の「南のムラ」、08年の北墳丘墓のオープンで人気を盛り返し、昨年度は64万6000人を記録した。本年度は10日現在で、51万7千人が入場している。

 500万人目となった田中さんは知人ら3人と初めて来園。公園マスコットの「ひみか」や居合わせたほかの客らから祝福を受けた。「いつかは来たいと思いながら機会がなく、初めて来たら500万人目。いい記念になります」と喜んでいた。

一支国博物館14日開館、海上交易の歴史紹介

2010年03月12日 読売新聞 Yomiuri On-Line

一支国博物館(長崎・壱岐島で、本社ヘリから)=宮坂永史撮影

 「魏志倭人伝」に記された一支国(いきこく)の所在地として知られる長崎県の壱岐島に14日、壱岐市立一支国博物館が開館する。一支国の国都とされる原(はる)の辻遺跡(国特別史跡)の出土品や島内の文化財2000点を通して、海を介した交易の歴史が概観できる。

 同遺跡は18・4ヘクタールにおよぶ弥生時代の大規模な環濠(かんごう)集落で、発掘とともに集落の復元が進んでいる。博物館はその遺跡を望む丘陵に立つ。故・黒川紀章氏の設計で、周囲の景観に配慮し、曲線の屋根には芝が敷き詰められている。

 展示室には、古代中国の通貨や、各種の青銅器、土器など大陸や全国各地からもたらされた出土品に加え、これまで常時公開はされなかった笹塚古墳出土の金銅製馬具(6〜7世紀)や、安国寺の高麗版大般若経(11世紀)なども陳列される。弥生時代に限らず、多彩な交易を物語る品々である。ジオラマや映像資料、実物大の古代船レプリカなど体験型の展示も充実させる。

 県埋蔵文化財センターも併設され、調査研究と保存修復、展示を、県と市が一体で行う。収蔵庫は高さ5メートルの一面ガラス張りが特徴。県内各地の考古遺物が狩猟、農業などの産業別に並び、ガラス越しに鑑賞できる。

 「収蔵庫も展示施設とする新しい発想。国別や時代別のテーマに合わせ、展示替えを計画している」と同センターの宮崎貴夫調査課長。開館特別企画展「『魏志』倭人伝の国々に残る至宝展」は6月20日まで開かれる。

三雲・井原遺跡:「三雲南小路王墓」の周溝?弥生中期の溝など発掘−−糸島市 /福岡

2010年03月09日 毎日新聞〔福岡都市圏版〕

 ◇上覚地区−−13日に現地説明会

 糸島市の三雲・井原遺跡上覚地区で、弥生時代中期末(紀元前後)の溝や古墳時代初頭の箱式石棺墓などが見つかった。発掘調査にあたった同市教委は、この溝が「三雲南小路王墓」の周溝の可能性があるとしている。【竹田定倫】

 同王墓は中国の史書「魏志倭人伝」に記された伊都国王墓の一つとされる。過去の県教委や市教委の調査で王墓と女王墓、墓を囲む周溝が出土している。

 上覚地区は王墓の出土した場所と道路をはさんだ南側に位置し、溝(幅2・5〜3・8メートル、長さ9メートル、深さ20〜25センチ)は北東から南西方向に延び、王墓西側の周溝に向かっている。しかし、王墓西側の周溝は切れているとの見解もあり、市教委は、別の首長級墓の周溝の可能性も捨てきれない、との見方も残している。

 現地説明会は13日午前10時〜正午。市教委文化課(092・332・2093)。

徳島「庄・蔵本遺跡」採取の種子…弥生前期のアワやキビ

2010年03月08日 読売新聞 Yomiuri On-Line

庄・蔵本遺跡で出土し、アワやキビの種子と判明した雑穀種子(徳島大提供)

 徳島大埋蔵文化財調査室は、弥生時代の集落遺跡「庄・蔵本遺跡」(徳島市蔵本町)で発見された種子が同時代前期(約2500年前)のアワやキビと判明したと発表した。同調査室は「当時からアワの栽培が行われていたことがわかり、吉野川流域での畑作の起源を考える貴重な資料。『阿波』の国名の由来とも関係があるのかもしれない」としている。

 同遺跡では、同大学病院の病棟新築工事に伴い、2006〜07年に発掘調査。弥生時代前期の畑(約190平方メートル)が出土していた。同調査室が、畑から採取した雑穀種子約500点の年代測定を進めていた。

 国立歴史民俗博物館(千葉県)に依頼して放射線炭素(AMS)法で鑑定した結果、弥生時代前期の種子であることが確定。イネのほか、アワやキビが多数含まれていたことがわかった。

 弥生時代の農業は稲作中心と考えられてきたが、同調査室は「栽培の難しかったイネだけに頼っていては洪水の時に流れたりして全滅してしまう恐れもある。雑穀を植えることでリスク分散を図る意味合いもあったのでは。稲作中心と考えられていた弥生時代の社会について再考を促すきっかけになる」としている。

 調査結果を紹介するパネル展示が16日まで、同大日亜会館(徳島市新蔵町)1階ギャラリーフロアで開かれている。

三輪餅田遺跡:作りかけ管玉出土 弥生期に製造技術−−三田 /兵庫

2010年3月3日 毎日新聞〔阪神版〕

 三田市は2日、JR三田駅北側に広がる三輪餅田遺跡から、約2000年前の弥生時代のものとみられる作りかけの管玉が見つかったと発表した。市は「玉造り工房があったとは言えないが、技術が伝わっていた可能性が高い」としている。

 同遺跡は87年に見つかり、弥生時代から鎌倉時代にかけての遺構や遺物が出土する複合遺跡。今回は道路拡幅工事に伴い、昨年12月から約1200平方メートルを調査した。

 弥生時代の溝や石包丁、土器片などとともに、首飾りなどの装飾品に使う管玉の未製品(長さ2・2センチ、重さ3・3グラム)が見つかった。断面などから、原石の碧玉(へきぎょく)から管玉に加工する初期工程のものとみられる。

 碧玉は松江市が原産地とされる。石針や砥石(といし)など玉造りの道具は見つかっていないが、市は「弥生時代に環壕集落だった同地が、遠距離交流を行っていたことを示す」としている。

 6日午後1時から現地説明会を開催。雨天の場合は7日。また、10日から22日まで、同市屋敷町の三田ふるさと学習館で出土品約100点を速報展示する。問い合わせは同館(079・563・5587)。【粟飯原浩】

弥生のうるし展:漆が入っていたつぼも 土器など展示−−高松の民俗資料館 /四国

2010年02月27日 毎日新聞 地方版

 全国的にも珍しい漆が入っていたつぼなど弥生時代の土器などを展示した「弥生のうるし展−うるしと1800年前のムラ−」が、高松市牟礼町牟礼の市石の民俗資料館で開かれている。来月22日まで。

 原中村遺跡(同町原)から出土した漆が入っていたつぼや、漆を塗る際にパレットのようにして使ったとみられる皿など、約50点を展示。同館によると、漆を利用していた痕跡がある遺跡は全国的にも珍しく、同遺跡の特産品だったと考えられるという。また、それぞれ塩づくりや木器づくりが盛んだったとみられる周辺の遺跡の出土品も紹介し、当時のもの作り、交換の様子が推察できるような展示になっている。

 来場した同市屋島西町、主婦、尾浦亜季子さん(29)は「弥生時代に漆が使われていたなんて思ってもいなかった」と感心していた。【中村好見】

最古の壺形木製容器 弥生期・西川津遺跡…島根

2010年02月25日 読売新聞 Yomiuri On-Line

未完成のまま廃棄?ガラス製J字勾玉も初出土

 松江市西川津町の西川津遺跡で、注ぎ口をくびれた形に加工した弥生前期(紀元前3世紀頃)の木製の壺(つぼ)(高さ17センチ、最大幅19センチ)が出土し、県埋蔵文化財調査センターが24日、発表した。壺形の木製容器では最古という。

 壺は環濠(かんごう)跡の溝の底から出土。木の幹から張り出した丸い瘤(こぶ)を利用し、表面はノミで壺形に整えているが、内側は途中までくりぬいただけで、未完成のまま廃棄したらしい。注ぎ口のそばには、取っ手の一部が残っていた。

 また弥生後期(3世紀頃)のJ字形の青いガラス製勾玉(まがたま)(長さ1・7センチ、幅1・1センチ)も出土。J字形は縄文時代からあるが、ガラス製が見つかるのは初めて。

 岩本崇・島根大准教授(考古学)は「土器は土をこねて形を作るが、木を加工し、くびれた壺を作るのは難しく、職人が試行錯誤したのだろう」としている。

 出土品は28日午前10時〜午後2時、遺跡近くの川津公民館で公開される。

弥生期の灌漑施設跡…大阪

2010年02月16日 読売新聞 Yomiuri On-Line

弥生時代中期の川跡(右)と水田跡(東大阪市で)=府文化財センター提供

 東大阪市池島町の池島・福万寺遺跡で、弥生時代中期(紀元前1世紀頃)の水田跡や水路跡などが、府文化財センターの調査で出土した。川をせき止めて水田に引き入れるなど灌漑(かんがい)施設の様子がひと目でわかり、同センターは「大規模で組織的な水田経営の一端がうかがえる」としている。

 恩智川治水緑地の整備に伴って2008年11月から、約4000平方メートルを発掘。南から北へ流れる川跡(幅19〜24メートル、深さ約2メートル)を約70メートル分、確認した。

 川跡の東側には人工の土手(幅2メートル、残存の高さ0・5〜0・6メートル)があり、その東側に、あぜで区切られた水田跡4枚(1枚約200平方メートル)が広がっていた。

 川跡には杭(くい)40〜50本を打ち込んだ堰(せき)の痕跡があり、そこから取水して、水田に供給していたとみられる。

 調査担当の後藤信義・同センター副主査は「灌漑施設の遺構が好条件で残っており、水利用の実態がよくわかる」と話している。

 現地公開は、20日午前10時から正午まで。駐車場はない。問い合わせは、同センター池島支所(072・999・9890)へ。

弥生時代の墓20基発掘 荒尾南遺跡 竪穴住居跡50軒も

2009年11月11日 読売新聞 Yomiuri On-Line

14日に現地説明会

 大垣市荒尾町から桧町にまたがる荒尾南遺跡の今年度の発掘調査で、新たに弥生時代中期の墓の方形周溝墓約20基、弥生時代後期から古墳時代前期の竪穴住居跡約50軒が見つかった。調査した県文化財保護センターは14日午後1時半から現地説明会を開く。

 遺跡は、同センターと大垣市教委が1994年度から発掘調査を開始。2006年度からは、同センターが4年計画で進めてきた。

 4年間の調査で見つかった弥生時代中期の方形周溝墓は140基以上、竪穴住居跡も210軒以上に上る。同センターは「方形周溝墓群が遺跡内に広く分布し、竪穴住居跡もいくつかのグループに分かれて広がっていたことが確認できた」としている。

 また、住居内からは赤鉄鉱を加工して作るベンガラの塊も見つかり、土器などの塗料として大量に生産されていたことが推測されている。調査を指導した三重大の八賀晋名誉教授は「これまでの発掘調査で、県内では類を見ない大規模な遺跡であることが分かってきた」とコメントした。

 現地説明会の問い合わせは同センター(058・237・8550)へ。

熊本最古の花弁状住居跡、弥生文化伝播解明の鍵に

2009年10月30日 読売新聞 Yomiuri On-Line

幅・津留遺跡で見つかった県内最古の花弁状住居跡

 県教委は29日、南阿蘇村と高森町にまたがる「幅・津留遺跡」で、弥生時代中期後半(約2000年前)に建てられたとみられる県内最古の花弁状住居跡1棟が見つかったと発表した。

 花弁状住居跡は、竪穴住居の一種で、円形部分の周囲に、長方形に盛り上がった部分が花びら状に広がっているのが特徴。発掘された住居跡は半円状で、半径約3・5メートル、周りに長方形部分(奥行き約45センチ、長さ約3メートル)が三つあった。

 残りの半円部分は調査区域外のため全体の詳細は不明だが、県教委は、直径は最大約8メートルになり、長方形部分は五つほどあり、倉庫や寝床などとして使われていたとみている。

 花弁状住居跡については、佐賀県では弥生中期前半のものが、県南の人吉市や錦町、宮崎、鹿児島県では弥生後期のものが見つかっている。今回、その間の地点で、時代をつなぐような住居跡がみつかったことから、県教委は「北部九州から南九州に約200年かけて花弁状住居が伝わり、そのルート上に幅・津留遺跡があったとみられる。弥生文化の伝わり方を解明する上で鍵となる貴重な発見」としている。

 また、県教委は県内最古となる弥生時代の高床倉庫跡も発掘されたと発表した。

 調査は、県道熊本高森線のバイパス工事に伴い2006年3月から約1万3000平方メートルを対象に実施している。

弥生時代の丸木舟、吉野ヶ里歴史公園で再現

2009年10月12日 読売新聞 Yomiuri On-Line

貫頭衣姿の村人役が見守る中、進水した丸木舟

 巨大なイチョウの木をくりぬき、弥生時代の舟に擬した丸木舟が、吉野ヶ里歴史公園で2年がかりで建造され、11日、公園内の池に初めて浮かべられた。長さ5・8メートル、幅1・1メートルの4人乗り。今後は同公園内に常設展示するという。

 付近の遺跡から貝殻などが出土したことから、弥生時代に舟で川と海を行き来していた可能性があるとして2007年10月、同公園が“復元”作業に着手。九州で出土した古代の舟の模型などを参考に、宮崎県産のイチョウを入園者ら約500人にノミで削ってもらった。読売新聞西部本社などが05年に行った「大王のひつぎ実験航海」で木造の古代船を建造した、福岡市の藤田造船所の助言を得て仕上げた。

 この日は、入場者約300人が見守るなか、弥生時代の「貫頭衣」を着た公園スタッフら約50人が舞を舞うなどして安全を祈願。ドラが打ち鳴らされ、村の幹部役ら3人が乗った丸木舟を村人役が池に押し出すと、滑るように水面を進んだ。

"正倉院「椰子実」そっくり"弥生中期の人面容器

2009年04月25日 読売新聞 Yomiuri On-Line

下之郷遺跡の出土品で人の顔を模したココヤシ製の容器=奥村宗洋撮影

 滋賀県守山市の環濠集落跡「下之郷遺跡」の出土品で、ココヤシの殻を加工して人の顔に見立てた容器が、奈良・正倉院の宝物「椰子実」と酷似していることがわかり、24日、市教委が発表した。弥生時代中期(約2200年前)の遺物らしく、熱帯の産物という珍しさから魔よけや秘薬を入れる「聖なる器」として使われた可能性があるという。

 長さ10・3センチ、高さ10センチの楕円形で、1993年11月に出土。人面を模したココヤシ殻の容器としては国内最古。直径約4センチの穴を開けて口にし、雌しべの跡(子房痕)を目に見立てている。

 正倉院の椰子実も輸入品とみられ、少なくとも平安時代後期には、収蔵されていたとされる。容器は25日〜5月10日、同市服部町の市立埋蔵文化財センターで公開される。

 高谷好一・京都大名誉教授(比較文化論)の話「ニューギニアから沖縄にかけては人面の模様がある器が見られ、東南アジアと弥生文化のつながりを考えるうえで興味深い」

弥生時代"人面容器"ココヤシを活用 滋賀・守山 下之郷遺跡

2009年04月25日 MSN産経新聞

 弥生時代中期(約2200年前)の環濠集落跡で知られる滋賀県守山市の下之郷(しものごう)遺跡(国史跡)から出土した容器がココヤシの実を用いたものだったことが分かり、同市教委が24日発表した。

 容器は一部破損しているが、直径約10センチのほぼ球形で、重さ約110グラム。発芽孔の部分を直径約4センチの円形に切り取って容器の開口部にしており、子房痕の2つのくぼみを目に見立てると、人の顔のように見える。

 平成5年の発掘調査で出土し、同じ場所で出土した土器から弥生時代中期の容器とされている。

 この時代、日本でココヤシの原生は確認されておらず、東南アジアから海流に乗って日本の沿海部に漂着したものが近江に届けられたか、南国との交易で直接もたらされた可能性があるという。

 弥生時代のココヤシの出土例としては、長崎県の原ノ辻遺跡(弥生時代中期)の笛、兵庫県玉津田中遺跡(同)の容器がある。人の顔を表現した遺物としては、奈良時代の容器で奈良市の正倉院に所蔵されている「椰子実(やしのみ)」が酷似している。

 ココヤシ容器は25日から、守山市服部町の市立埋蔵文化財センターで行われる「様々な木器展?甦る古代の木製品」で公開される。

 高谷好一京都大学名誉教授(比較文化論)の話「下之郷遺跡からはこれまでにも熱帯ジャポニカの稲籾(いなもみ)が見つかっており、今回の発見は弥生人と南海の国とのつながりを示す貴重な資料になる」。


日本最古の「舟形木棺」発見 名古屋 弥生時代中期か

2009.02.21 MSN産経新聞

 名古屋市北区の平手町遺跡で見つかった日本最古のものとみられる舟形木棺(ふながたもっかん)=21日午前 名古屋市教育委員会は21日、同市北区の平手町遺跡で、弥生時代中期後半(約2000年前)のものとみられる舟形木棺が見つかったと発表した。市教委によると、これまで最古とされる京都府内の遺跡で確認された舟形木棺より約200年さかのぼるという。

 木棺は長さ280センチ、幅80センチ、深さ10センチ。木をくりぬいてつくられ、片方の先端に向かってとがるようにカーブした舟形。弥生時代には黄泉(よみ)の国へ行くのに長い距離の移動手段だった舟で霊魂を祭る「舟葬(しゅうそう)」という風習があったとされ、木棺内部から人骨も発見された。性別は不明だが、集落の有力者のものとみられる。

 船首が北西を向いていることから、市教委文化財保護室の鈴木寿雄室長は「黄泉に旅立たせるために太陽の沈む西方に向けているのだろう」とみている。

日本最古の舟形木棺発見 名古屋、弥生時代中期か

2009/02/21 中国新聞ニュース

 名古屋市教育委員会は二十一日、同市北区の平手町遺跡で、弥生時代中期後半(約二千年前)のものとみられる舟形木棺が見つかったと発表した。市教委によると、京都府内の遺跡で確認された舟形木棺より約二百年さかのぼり、日本最古という。

 木棺は長さ二百八十センチ、幅八十センチ、深さ十センチ。木をくりぬいてつくられ、片方の先端に向かってとがるようにカーブし舟形になっている。内部からは成人とみられる人骨の一部も発見。昨年七月から発掘調査が進められていた長方形の古墳から出土された。

 弥生時代には、黄泉よみの国へ行くのに長い距離の移動手段だった舟で霊魂を祭る風習があったとされ、市教委文化財保護室の鈴木寿雄すすき・ひさお室長は「弥生人の死生観を探る上での大変貴重な資料」としている。


弥生人もコイ養殖 朝日遺跡、歯の化石分析で判明

2008年09月18日 中国新聞ニュース

 弥生時代の代表的な集落遺跡として知られる朝日遺跡(愛知県、紀元前4−紀元4世紀)で、捕獲が難しかった幼いコイの歯の化石が多数出土、コイを飼って食べていたとみられることが18日、滋賀県立琵琶湖博物館などの調査で分かった。

 コイの養殖を示す国内最古の事例。冬の保存食にしたようで、狩猟採集中心だった古代の食料事情に新たな一面を加える発見となりそうだ。

 博物館の中島経夫上席総括学芸員(魚類形態学)は「産卵期の成魚を水田や環濠、池などに放したところ、卵を産んで原始的な養殖が始まったのだろう」としている。

 縄文の遺跡でもコイの歯が見つかったが、幼魚は含まれていなかった。養殖の技術は、水位制御が必要な稲作とともに大陸から伝わったらしい。

 博物館などは、コイののどの奥にある1−8ミリの咽頭歯の化石167点を分析。大きさや形から年齢を推定したところ、生後数カ月の幼魚(体長5−15センチ)と2−3歳の産卵期の成魚(同35−45センチ)の2グループに大別できた。


柳沢遺跡の銅鐸計4個に 弥生のクニ、原型裏付け

2008年09月12日 中国新聞ニュース

 長野県埋蔵文化財センターは12日、昨年に東日本で初めて弥生時代の青銅器「銅鐸」と「銅戈」が一緒に出土した柳沢遺跡(同県中野市)で、新たに弥生中期ごろの銅鐸の破片が出土し、最低でも3個分あることが分かったと発表した。

 同遺跡で出土した銅鐸は合計で少なくとも4個になった。奈良文化財研究所の難波洋三考古第1研究室長は「銅鐸が4個以上出土した遺跡は全国で10例もなく驚きだ」と話している。

 柳沢遺跡では昨年、祭器として使われた銅鐸と銅戈7本(大阪湾型6本、九州型1本)が同時出土。東日本の長野に、弥生時代のクニの原型になる有力な集団が存在していたことを示す発見として注目を集めた。

 大阪府立狭山池博物館の工楽善通館長(考古学)は「考えていたよりも、さらに強力な集団がいたことを意味付ける成果だ」と指摘している。


弥生前期の大溝見つかる

2008/05/22 中国新聞ニュース

 松江市教委は21日、弥生時代前期に水路などに用いられたとみられる大規模な溝が同市鹿島町佐陀宮内の佐太前遺跡で見つかった、と発表した。弥生土器など生活用品も出土。市教委は「(集落周囲に堀を巡らせた)環濠(かんごう)の可能性も否定できない」とし、島根半島で拠点的な集落が存在していたことをうかがわせる貴重な遺跡という。

 溝は長さ約64メートル、幅約4.6メートル、深さ約0.7メートルで、断面は浅いU字型。集落跡がある山を背に、半月状の弧を描くように東西に蛇行している。

 溝の底から弥生土器のほか、包丁やおのなどの石器、木製のくしなどの遺物が大量に出土しており、弥生時代前期後半の約2500年前に人工的に掘られたとみられる。水路やごみ捨て場に使われた形跡があるが、集落跡を示す柱穴などを囲むように掘られており、濠の役割も考えられるという。

 県内ではこれまでにも小規模の集落跡や墳墓が出土しているが、大量の生活用品などとともに弥生時代の大規模な集落の姿がうかがえるケースは珍しい。

奈良で3重の環濠が出土 弥生期の見張り用集落か

2007年12月11日 中国新聞ニュース

 奈良県桜井市の桜井公園遺跡で、丘陵(標高127メートル)の斜面に巡らせた弥生時代後期前半(2世紀前半)とみられる3重の環濠が見つかり、市教育委員会が11日、発表した。

 環濠は一部だけが発見され、3本がほぼ等間隔で平行に並び、最長で約45メートル分を確認。規模は幅1・5−3メートル、深さ30−90センチだった。最上段のものからは大量の土器が出土。住居跡などは見つかっていないが、丘陵の頂上付近に小規模な集落があったと推定した。

 環濠はV字形に掘られ、集落に外敵が侵入するのを防いだとみられる。唐古・鍵遺跡(同県田原本町)の大集落など奈良盆地全域を見渡す監視台の可能性もあるという。

 平地ではなく比較的高い場所につくられた集落は「高地性集落」と呼ばれ、弥生時代中期末(1世紀後半)ごろから瀬戸内地域や大阪湾沿岸に出現。当時勢力を持っていた北部九州の脅威に対する備えとしてつくられた軍事的な施設とする説もある。


人面付き土器見つかる 島根

2007.10.22 MSN産経新聞

 縄文時代晩期から弥生時代前期ごろ(2800年〜2500年前)の目、鼻をくっきりさせた人面付き土器片が島根県出雲市の築山遺跡で見つかり、22日、同市文化財課が発表した。同様の土器は東日本での出土例は多いが、西日本ではまれ。弥生時代の黎(れい)明(めい)期、出雲地方が東日本と交流していたことを裏付ける貴重な史料という。

 出土した土器片は、縦、横とも約4センチ。形から器の縁に取り付けたと推測され、特徴ある鼻筋と鼻孔で顔面を表現している。同遺跡の深さ約1・5メートルから出土。同様の土器は栃木、茨城県などの再葬墓の共同墓地から出土しており、出雲地方ではこれまで2例が見つかっている。

 山田康弘・島根大准教授(考古学)は「稲作を中心に弥生文化は九州から東へ伝わったとされるが、東西交流で東日本からも影響を受けていたことが分かる。祖霊崇拝の原形と考えられる」としている。


弥生時代の銅戈2本出土 長野、東日本に青銅文化か

2007.10.22 MSN産経新聞

 長野県埋蔵文化財センターは22日、中野市の柳沢遺跡で、弥生時代の青銅製祭器「銅戈(どうか)」が2本出土したと発表した。保存状態は極めて良く、同センターは「東日本で完全な形の銅戈が出土したのは初めてではないか」と説明。弥生時代、この地域にも西日本のように青銅器を使用した文化圏が存在した可能性を指摘している。

 同センターによると、出土した銅戈は全長32.3センチ、最大幅13・9センチと、全長36.0センチ、最大幅17.2センチの2本。ともにやりの穂先に似た形。地面から約1.5メートル下で2本が密着して埋納されているような状態で見つかった。形式は畿内で出土する大阪湾型の可能性が高いという。

 銅戈はそれぞれ17日と19日に出土し、同センターがさらに遺物がないか調査している。

 銅戈は古代中国の武器で、大陸から朝鮮半島を経由して日本に伝わり、後に祭器になった。

 長野県遺跡調査指導委員会の笹沢浩委員(考古学)は「弥生時代に信州でも北部九州や畿内、出雲のような青銅器を使用した1つの文化圏があったとも考えられる」と話している。


弥生前期の畑見つかる 徳島、全国で3例目

2007年03月08日 中国新聞ニュース

 徳島市の徳島大構内にある庄・蔵本遺跡で、弥生時代前期(約2400年前)の畑の跡が見つかり、徳島大埋蔵文化財調査室が8日、発表した。

 調査室によると、水田に比べ畑は特徴が残りづらい。弥生前期の遺構と分かったのは全国でも福岡県の三沢蓬ケ浦遺跡、三重県の筋違遺跡につぎ3例目という。

 ほぼ長方形で東西約17メートル、南北約11メートル。作物を植えるため盛り上げた長さ6−8メートルの畝が13本確認できた。畝は高さ10センチ程度で、東西方向と南北方向の2種類あった。

 砂の層に覆われ保存状態はよく、調査室の中村豊助手は「洪水が押し流した土砂で短時間のうちに埋まり、きれいに残ったのでは」と話している。年代は覆っていた砂の層で見つかった土器から推定した。

 調査室は土壌に種子が残っていないか探し、花粉なども分析、何を栽培したか調べていく方針。

近畿最古の弥生土器が出土、縄文の特徴残す

2007/01/17 NIKKEI NeT

 大阪府四条畷市と寝屋川市にまたがる讃良郡条里遺跡を調査中の同府文化財センターは17日、最初期の弥生土器(紀元前7―同5世紀)が大量に出土したと発表した。近畿地方では最古の弥生土器で、形や文様に縄文土器の影響を色濃く残していた。縄文時代晩期の土器も見つかり、同センターは「縄文から弥生への過渡期の様相を示す資料」としている。

 遺跡は当時の集落跡で、住居跡の周囲から百数十個分の甕(かめ)や壺(つぼ)の破片や石包丁、ひしゃく形木製品などが出土。土器には縁に刻み目があるなど、縄文土器と共通の特徴がみられた。焼成に失敗した土器が複数あり、他の地域から持ち込んだのではなく集落内で製作していたとみられる。

近畿地方最古?の弥生土器、讃良郡条里遺跡で大量出土

2007/01/17 読売新聞 Yomiuri On-Line

 大阪府寝屋川、四條畷(しじょうなわて)両市にまたがる讃良郡条里(さらぐんじょうり)遺跡で、近畿地方最古とみられる弥生土器がまとまって出土したと、府文化財センターが17日、発表した。

 弥生土器は九州北部で成立し、水田稲作などとともに東に伝わったとされており、近畿における弥生時代の幕開けを告げる資料と言えそうだ。

 2003年〜05年の発掘で出土した土器の破片を整理したところ、甕の口の部分を段状に仕上げたり、壺のくびれた部分の角度が急な、これまで近畿では見つかっていない型式の弥生土器のあることが分かった。粘土を帯状に張り付けた「突帯文(とったいもん)」と呼ばれる縄文時代晩期の土器も一緒に出土しており、縄文から弥生に変わる過渡期に出現した、近畿地方では最初の弥生土器とみられる。

 土器に付着していた炭をもとに、高精度の放射性炭素年代測定(AMS法)を行った結果、紀元前7〜前5世紀との年代が出た。

弥生の始まり、紀元前10世紀後半…土器測定で追認

2004/08/27 読売新聞 Yomiuri On-Line

 国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループは27日までに、弥生時代最古の土器である九州北部の山ノ寺式、夜臼(ゆうす)1式土器計2点の放射性炭素年代測定を完了した。

 その結果、弥生時代の始まりは紀元前10世紀後半ごろになるという、これまで同グループが主張してきた年代が追認されたとしている。

 これまで、同グループは縄文時代最終末の土器と、弥生時代最古の次の段階の土器の年代から、弥生時代の開始期を推定していたが、弥生最古の土器の年代でもそれが裏づけられた。

 弥生時代は従来、紀元前5―4世紀ごろに始まったとされてきたが、同グループが昨年5月に、AMS法と呼ばれる新しい放射性炭素年代測定によって、それより約500年早まるとする測定結果を発表。学界で論争が続いている。

弥生時代「始まりは紀元前10世紀」国立歴史民俗博物館

2003年12月20日 The Sankei Shimbun
 

 国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)は20日、佐賀県で出土した縄文時代晩期の黒川式と呼ばれる土器に付着した炭化物を放射性炭素年代測定法で調査した結果、紀元前1000年前後につくられたことが分かり、弥生時代の始まりは前10世紀だった可能性がさらに高まったと発表した。

 北部九州で出土した弥生時代最古の夜臼式などの土器と、考古学的に同時代とされる韓国の土器も調査。前10−前9世紀と判明したという。

 同博物館は5月、北部九州の弥生の始まりを、それまで定説だった前5世紀より500年古く前10世紀と発表。調査結果はこの新説を具体的な数値で裏付けており、反響が広がりそうだ。

 調査したのは、韓国慶尚南道の玉房遺跡など2カ所と、佐賀県の石木中高遺跡など国内の遺跡16カ所の土器から採取した炭化物80点以上。

 奈良県の唐古・鍵遺跡など近畿の遺跡で採取した弥生前期とされる試料も調べたが、前8−前5世紀と幅があり絞り込めなかったという。

 新説は、弥生中期も約200年早まるとしたが今回、近畿や中四国などの遺跡で出土した試料から、中国・近畿地方も北部九州と同時期で、前4世紀に始まった確率が高いとしている。

 <弥生時代>  日本で水田稲作が始まってから古墳時代まで。縄文時代の採取狩猟社会が生産社会に変わり鉄器が普及、貧富の差が生まれ、やがて各地に大集落やクニが成立した。水田稲作技術が北部九州に伝わった「早期」、各地に広がった「前期」、青銅器や鉄器が普及し始めた「中期」、各地で階級化が進んだ「後期」、邪馬台国の時代に重なる「終末期」の5期に分ける。早期は紀元前5世紀ごろからというのが定説だったが国立歴史民俗博物館が5月、前10世紀からとする新説を発表、論争となっている。

 <放射性炭素年代測定法>  炭素(C12)の放射性同位体C14が一定の割合で崩壊、窒素に変わっていくのを利用し、試料に残っているC14の量から年代を測る。加速器質量分析計でC14の個数を調べられるようになり、少ない試料で短時間、高精度の測定が可能になった。大気中のC14濃度は時代によって異なるため測定値と実年代にずれが生じるが、年輪の調査で分かる樹木の年代を使って補正する。


稲作伝来500年早まる

2003年05月19日 The Sankei Shimbun

 国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)は19日、加速器質量分析計を使った放射性炭素(C14)年代測定法で北部九州出土の土器を調べた結果、水田稲作が伝来し弥生時代が始まった実年代は、定説の紀元前5世紀から約500年古くなり、紀元前10世紀ごろと分かったと発表した。

 約700年とされてきた弥生時代は約1200年間に延びる。長くなったのは早期−中期。稲作が各地に伝わった前期は100−150年とされてきたが、約400年間となる。

 弥生時代は水田稲作が急速に広まり貧富の差が拡大、社会が階級化したとされてきたが、稲作普及は遅かったことになり、コメを中心に考えられた弥生像の見直しは必至。教科書の書き換えも迫られそうだ。

 放射線炭素測定法採用は世界的傾向で、古代東アジアの歴史観も大幅な変化が予想される。

 測定結果に基づく区分は▽早期=前10世紀初め−前9世紀末(従来は前5世紀−前4世紀末)▽前期=前8世紀初め−前4世紀初め(同前3世紀初め−前2世紀前半)▽中期=前4世紀前半−後1世紀前半(同前2世紀前半−後1世紀前半)。

 弥生後期(1世紀前半−2世紀末)と、邪馬台国時代に重なる終末期(3世紀前半)の年代は変わらないという。

 資料は、水田耕作の農耕具などが出土している福岡市の雀居遺跡、佐賀県の梅白遺跡など弥生早期−前期の遺跡数カ所の土器約30点に付着した炭化物など。早期のものは紀元前820年を中心にした前9世紀、前期初めは前800−前770年と測定された。

 考古学的に同年代とされる東北地方や韓国の土器も、似た年代が得られた。水田稲作の伝来は、さらに一形式古い土器の時期とみられ、同博物館は紀元前10世紀の可能性が高いと判断した。

 福岡市の板付遺跡など前期遺跡の土器の測定値はすべて前800年−前400年。前期の終わりが分かる資料はなかったが、年輪年代法の成果を考慮し、前400年前後と推定した。

 稲作伝来は、中国・春秋戦国期(紀元前8−前3世紀)の燕の動静が影響したと解されてきたが同博物館は「年代が上がり、殷から周への変化(紀元前11世紀後半)がアジア変動のきっかけだったことになる」としている。

 <弥生時代>  日本で水田稲作が始まり、広まった時代。縄文の食料採取から、食料生産の時代に入り、鉄器が普及するなど生活が大きく変化した。同時に貧富の差が生まれ社会が階層化し、各地に大型の集落やクニが成立した。中国の史書は、2世紀末に「倭国大乱」と呼ばれる争乱状態に陥ったが、邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)を立て治まったなどと記す。3世紀後半ごろから前方後円墳に代表される古墳時代に移る。弥生は、初めて縄文式と異なる特徴を持つ土器が見つかった東京都内の地名。


重要文化財の管玉3個を紛失 青森県の宇鉄遺跡

2005/04/19 The Sankei Shimbun

 青森県外ケ浜町の弥生時代中期の宇鉄遺跡から出土し、青森県立郷土館で管理する国の重要文化財の管玉3個が紛失していたことが19日、分かった。

 文化財保護法によると、重文などを遺失した場合は、文化庁に亡失届を提出するが、同庁美術学芸課は「報告された例は近年ではない」としている。

 郷土館は出土した356個の管玉に糸を通して首飾りとして展示していたが、成田英男館長は「管玉一式でひとつの首飾りという認識があり、(管玉の)数については注意していなかった」と話した。

 管玉は1976年、同町の宇鉄遺跡の墓から出土し、91年、国の重要文化財に指定された。その後5回、他県の博物館に糸をほどいて管玉の一部を貸し出すなどしていたが、その際担当職員は管玉の数などを確認していなかったという。

 98年、貸し出し先の博物館職員に数の確認を要請されて郷土館が数えたところ、3個紛失していることに気付いたという。成田館長は「館内のどこかにあるとの期待があり、調査が長引いてしまった」と説明している。

 管玉は、弥生時代を代表する装身具に飾られた管状の玉。「東日本でこれだけ多数が一度に出土した例は少なく、本州最北端の墓制を考える上で非常に重要」として国の重文に指定された。(共同)


国内最古級のシカ図柄の弥生土器 美祢で出土

2007/01/12 中国新聞ニュース

 山口県美祢市の下村遺跡で、シカなどの絵を描いた弥生時代中期初頭(紀元前三―二世紀ごろ)の土器片が見つかり、同県埋蔵文化財センターが十二日、発表した。

 弥生時代の絵画土器としては、福岡市の吉武高木遺跡などで見つかったものとほぼ同時期で、国内最古級。当時の人々の文化や精神世界を知る上で重要な手掛かりになりそうだ。

 同センターによると、土器片はつぼ型土器の肩部分とみられ、シカの胴体部分と四本の足、「く」をつなげたような羽状の模様などが描かれている。土器のほかの部分は見つかっていない。

 下村遺跡は、丘陵上に位置する弥生時代中期初頭の集落跡で、竪穴住居跡五棟分や貯蔵用に掘った穴の跡などが発掘された。

 同センターの小南裕一文化財専門員は「弥生絵画の起源や伝わった経路を考える上で貴重な資料だ」と話している。

弥生のイノシシ?セミ? 福知山・観音寺遺跡

2002年12月02日 The Sankei Shimbun

 京都府福知山市の観音寺遺跡で、動物をかたどった弥生時代中期の小型土製品が見つかり、京都府埋蔵文化財調査研究センターが2日、発表した。

 長さ約6センチ、幅約2・5センチの小判形で、端に小さな目が2つ。格子模様や動物の毛並みのような線刻を施していた。厚さは約1センチで背中に丸みをつけていた。

 「イノシシの子供のようにも見えるし、見方によってはセミやナマズにも。何の動物で、具体的にどういう使われ方だったのかは分からない」と同センター。豊作を祈る儀式などに使ったとみているが、同じような土製品は出土例が少なく、弥生時代初期のものが青森県弘前市で見つかったくらいという。

 同センターが発掘した竪穴住居跡から、煮炊き用のかめなどとともに見つかった。

 現地説明会は5日午後2時から。


古代の井原伝える館がオープン

2005/11/02 中国新聞地域ニュース

 井原市の考古資料の保存、展示や発掘調査の拠点となる市文化財センター「古代まほろば館」が一日、同市井原町にオープンした。市が旧中国電力井原営業所を買い取って改築、整備した。(小畑浩)

 展示室などを備えた本館(鉄筋二階建て延べ六百二十平方メートル)と、収蔵庫や書庫の別館(同延べ二百六十四平方メートル)で構成。同館であった開館式典で、谷本巌市長は「古代の井原の生活を知ってもらう施設。今後、内容を充実させていきたい」とあいさつした。

 本館は、一階に百五十平方メートルの展示室があり、市内で出土した弥生時代以降の銅鐸(どうたく)、土器、民具などを展示。市内で三つ出土した銅鐸をシンボルと位置付け、たたいて鳴らせる複製品や、埋納風景を再現したジオラマ、複製品の文様を紙に写し取るコーナーも設けた。

 市内の遺跡や文化財の位置が一目で分かる地図や、土器片に触れるコーナーもあり、展示総数は約百八十点。展示は随時入れ替える。

 本館の二階には整理作業室があり、出土品の復元作業のほか、市民の土器作りなどの体験講座に利用。文化財講座などに使う研修室もある。市教委文化課は「今後、出前講座なども企画したい」としている。

 まほろば館は、市役所から北東に約百五十メートルの市街地の一角。旧中国電力井原営業所の跡地と建物を市が買い取り、昨年度から改築、整備を進めていた。総事業費は約一億四千万円。

 入館は無料。開館時間は午前九時〜午後四時半。休館日は月曜(祝日・休日の場合は翌日)と年末年始。Tel0866(63)3144。


益田でとっとり・しまね発掘速報展島根展が開幕

2009/02/22 山陰中央新報

益田市の沖手遺跡から出土した、縄文時代の丸木舟に見入る来場者=益田市有明町、県立石見美術館

 山陰両県の遺跡を紹介する「新発見!とっとり・しまね発掘速報展」島根展が二十一日、益田市有明町の県芸術文化センター・グラントワ内の県立石見美術館で始まった。近年の発掘調査で話題を呼んだ十三遺跡の出土品約二百点が展示され、来場者の目を引きつけている。三月十五日まで。

 鳥取展に次ぐ移動展で、地元益田市の沖手遺跡で二〇〇五年に出土した縄文時代の丸木舟(長さ五・三メートル)が、島根県教育庁埋蔵文化財調査センターから初めて里帰り。

 鳥取市の青谷上寺地遺跡から出土し、「東アジア最古の緑土(りょくど=緑色の顔料)使用例」として注目を集めた弥生時代の木製の盾など、貴重な出土品がずらりと並んでいる。

 発掘速報展は、両県の埋蔵文化財調査センターが共催し、今回で四回目。併せて地域展「考古学から語る いにしえの石西」も開き、石西地域に点在する五十遺跡の出土品約四百点も展示している。

丸木舟2隻出土 益田の沖手遺跡

2005/10/29 中国新聞地域ニュース

 ▽石見初、弥生中期か

 島根県埋蔵文化財調査センターは、益田市久城町の沖手遺跡から、弥生時代中期とみられる丸木舟二隻が出土したと発表した。丸木舟が石見地方で出土するのは初めて。同一遺跡から複数の丸木舟が見つかるのは県内初となる。同センターは二十九日午後一時半から現地説明会を開く。

 丸木舟は一隻がほぼ完全な形を残し、もう一隻は半分程度の姿になっていた。舟の近くに、魚を刺すのに使った、木製のヤスと呼ばれる漁具が見つかっており、約二千二百年前の紀元前三世紀ごろの可能性があるという。

 完全な方はクスノキ科の木でできており、長さ五・三メートル、幅五十五センチ、深さ十二センチ。後方に木を帯状に削った部分があり、二−二十センチの石が約百個置かれていた。石は舟のバランスをとるために置かれたとみられる。もう一隻は、センダンの木で作られ、長さ三・一メートル、幅三十六センチだった。

 遺跡一帯は当時、低湿地で付近に湖沼が広がっていたと考えられており、丸木舟は漁業や水上移動に使われたとみられる。

 丸木舟の出土した層の上にある、紀元前二世紀ごろの地層からは、幅一・五メートル、深さ二十−四十五センチの溝が出土した。水田に関する水路だった可能性があるという。さらに上層の中世期の地層からは集落跡が見つかっており、同センターは同じ土地でも陸となるなど環境に合わせ、土地の利用が進んでいることを示していると説明する。

沖手遺跡の現地説明会2004年12月12日島根県教育委員会(埋蔵文化財調査センター)


弥生時代、日本最古の石積み護岸が出土…壱岐の遺跡

2004/06/18 読売新聞 Yomiuri On-Line

 長崎県教委は18日、同県壱岐市の原の辻(はるのつじ)遺跡で、弥生時代中期後半(紀元前1世紀)の石積み護岸が出土したと発表した。

 弥生時代のものとしては前例がなく、大陸の進んだ土木・治水技術が壱岐島にいち早く導入されていたことを示す発見として注目される。

 遺構は、玄武岩の自然石を川底に投げ込んで積み上げた「捨て石護岸」で、環濠集落の北西部を南北に蛇行して流れる旧河道の東岸に沿って、約40メートルが確認された。高さ1・2メートルで、幅は護岸の基底部で2・5メートルあった。

 現場は河川の合流点だった可能性があり、浸食から守る目的があったとみられる。遺構の南西200メートルにある別の河道では、1996年に弥生中期前半(紀元前2世紀後半)の船着き場とみられる石積みの突堤も出土しており、同遺跡調査事務所は「この一帯に交易のための市場や倉庫などが営まれた可能性が高い」とみている。


弥生中期の木樋水路 東広島で出土

2003/07/24 中国新聞地域ニュース

 ▽日本最古の可能性

 東広島市西条町下見、弥生時代中期(紀元前後ごろ)の黄幡(おうばん)一号遺跡で、木製の樋(とい)が水路として使われていた状態で見つかった。市教育文化振興事業団文化財センターが二十三日、発表した。水田耕作の際に水の制御に活用したとみられ、日本最古の可能性もあるという。

 木樋は長さ約五メートル、幅約五十センチ、厚さ約五センチ。大木を縦に割り、中をくりぬいている。周囲を家屋の廃材とみられる角材の杭(くい)や板材で固定。山のある南東から北西に向き、約五・五度の傾斜があり、農業用水や排水路として使ったらしい。

 周辺からは弥生中期の土器が大量に出土。ミニチュア土器や分銅形土製品など祭祀(さいし)遺物も発見され、雨の恵みや豊作に関する祭事をした痕跡を示す。鋤(すき)一、鍬(くわ)二などの木製品も出ている。

 同遺跡は県道改良事業のため五月から約五百四十平方メートルを発掘中。センターによると、同様の遺跡では、鳥取県青谷町の青谷上寺地(かみじち)遺跡で弥生時代後期の木樋が見つかっているが、中期までさかのぼる例は今のところないという。

 ▽計画的に水田灌漑か

 徳島文理大文化財学科の石野博信教授(考古学)の話 木樋を使った水路では、日本最古の可能性がある。現在、近くにあるため池が当時から存在したとすれば、水田(灌漑(かんがい))を計画的に進めていたことになり、研究価値が高い。


広島県三良坂町で土森遺跡見学会

2000/06/11 中国新聞

 舟と鳥(あるいは蛇)とみられる線刻画の土器が出土した広島県双三郡三良坂町灰塚の土森遺跡で十日、現地説明会が開かれた。広島、三次市などから考古学ファン約三百人が訪れた。

 竪穴住居跡が点在する発掘現場で、県埋蔵文化財調査センターの職員が遺跡と土器の概要を説明。舟の絵が描かれた土器の出土は県内で初めてとあって、見学者たちは、会場に展示された現物の土器をじっくり観察したり、出土地点の様子を質問したりしていた。

 遺跡は、弥生時代中ごろ(約二千年前)から古墳時代の終わり(約千四百年前)ごろの住居跡。線刻画の土器のほか、石のやじり、石のおのなども出土。石組みのかまど跡も確認されている。

 広島市安佐北区狩留家町、主婦二井本光子さん(55)は「普段は見学できないの発掘現場を見られるのは楽しい。大きな集落で人が暮らしていた様子が思い浮かびます」と話していた。


最古の銅鐸か?

1999年6月15日 共同通信社

 大阪府茨木市東奈良の弥生時代の環濠(かんごう)集落跡『東奈良遺跡』で、弥生時代前期末(紀元前 180年ごろ)につくられた日本最古の銅鐸(どうたく)とみられる小銅鐸が出土し、茨木市教委が15日発表した。  

 鋳型がずれた失敗作とみられるが、形が朝鮮半島系統の小さな銅鐸に似ながら、表面に文様が施されるなど日本の銅鐸の特徴も併せ持つ。内側につるして音を出す棒状の舌(ぜつ)も見つかり、長年音を鳴らした痕跡もあった。

国内最古級の石製銅たく鋳型、名古屋の遺跡から出土

2004/12/07 読売新聞 Yomiuri On-Line

 名古屋市西区の朝日遺跡で、国内最古級の銅鐸(どうたく)の石製鋳型が出土したと、同市教委が7日、発表した。

 弥生時代中期初めごろ(紀元前3―2世紀)のもので、石製鋳型としてはわが国で最も東での発見となる。銅鐸は、近畿や九州など西日本を中心に製造されたと考えられてきただけに、従来の常識を覆すものとして注目される。

 出土したのは、砂岩を加工した高さ4センチ、厚さ3センチ、幅1・5センチの鋳型の小片。銅鐸本体の外型の上端付近の鋳型とみられ、文様が刻まれていた。

 出土した鋳型内側の曲面から、本体の高さは推定15―20センチ、つり手の部分を含めると20―25センチ程度と見られる。同型式の鋳型は九州や近畿などの16遺跡から出土している。


西日本初の土偶形容器出土 滋賀、東西文化の交差点か

2007年01月25日 中国新聞ニュース

 滋賀県守山市の赤野井浜遺跡で、顔に入れ墨のある人物をかたどった弥生時代中期前半(約2200年前)の土偶形容器の破片が見つかり、滋賀県文化財保護協会が25日発表した。

 土偶形容器は東日本で多く出土しているが、西日本では初。同協会は「赤野井浜遺跡は、東西文化の交差点として栄えた集落だったのではないか」と話している。

 破片は顔の一部で、縦約6センチ、横3・5センチ。目と口の周りに細い斜線で入れ墨が表現されており、川跡から同時期の土器や木器などとともに発掘された。同遺跡周辺の土が使われていることから、土偶形容器の作り方を知っている人々が東日本からやって来た可能性があるという。

 これらの遺物は2月4日、滋賀県立安土城考古博物館で展示される。

弥生中期の神殿か 鳥取、大型建物跡を発掘

2007年03月29日 中国新聞ニュース

 鳥取県大山町の文珠領遺跡で、約2200年前(弥生時代中期)の大型掘っ立て柱建物跡が見つかり、同町教育委員会が29日、発表した。

 伊勢神宮など後の神社建築に通じる「独立棟持ち柱」という特殊な構造で、同様の建物跡は文珠領遺跡より古い上の山遺跡(大阪府)など各地の弥生集落跡で発掘されている。町教委は「神殿や祭殿のような特別な施設だったのではないか」と話している。

 独立棟持ち柱は、切り妻の屋根を支える柱が壁から独立して離れた造り。建物を壮大に見せることができ、今も神明造りの神社で採用されている。

 掘っ立て柱建物跡は少なくとも2棟以上あり、1棟が独立棟持ち柱を持つ高床式の建物だったとみられる。棟持ち柱とされる柱の穴跡は直径約1・2メートル、深さ1・2メートルで、柱の直径は約30センチだったと推測される。

 建物のごく一部しか発掘されておらず、全体の規模は不明。


弥生中期の区画建物群が出土…滋賀・下之郷遺跡

2004/12/09 読売新聞 Yomiuri On-Line
 滋賀県守山市の下之郷(しものごう)遺跡で、環濠(かんごう)集落の中心部に整然と配置された弥生時代中期(紀元前2世紀末―同1世紀初め)の大型建物跡群が出土したと、同市教委が9日、発表した。大阪府の池上曽根遺跡でも先月、東西に並ぶ大型建物跡が見つかったばかりだが、都市計画の存在をうかがわせる「街区」としては、今回の例が数十年古く最古級となる。

 出土したのは、掘っ立て柱建物跡3棟。4年前に見つかった遺構と合わせて計5棟が幅1―2・5メートル、深さ40―60センチの溝で区画されていた。

 建物は3棟が東西に一直線に並び、うち1棟は長さ9・8メートル、幅3・6メートル。その南に直交する向きで長さ14・2メートル、幅3・9メートルの1棟、北に3棟に平行する1棟があった。建物群の南側は、政治や祭祀(さいし)にかかわる広場だったとみられる。

 同遺跡は弥生期の環濠集落としては全国で唯一、9重の環濠が出土。弓や石の矢尻なども多く見つかり、中国の歴史書「漢書地理志(かんじょちりし)」に登場する「百余国」の一つとの指摘もある。

 丸山竜平・名古屋女子大教授(考古学)は建物群の役割について、「集落に住む部族の代表たちが話し合いで物事を決めていた時代。重要な協議をする集会場のような施設だったのではないか」と推測している。


唐古・鍵遺跡by Welcome さくらい

直径80センチ、弥生で最大の柱 奈良・唐古・鍵遺跡

2003年10月16日 The Sankei Shimbun

 国内最大級の環濠(かんごう)集落跡、唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町、国史跡)で、弥生時代中期中ごろ(紀元前二世紀)の高床式大型建物遺構が見つかり、同町教委が17日、発表した。

 使われた柱の直径は80センチあり、武庫庄遺跡(兵庫県尼崎市)出土の柱に並び弥生で最大。

 唐古・鍵遺跡は、中国の漢書地理志が伝える邪馬台国以前の「百余国」の有力候補とされ、前三世紀末−前二世紀初めに環濠を巡らせ大集落が成立したと考えられているが、その時期の大型建物遺構が見つかったのは初めて。

 近くでひすいの勾玉(まがたま)なども出土した。町教委は「補修跡があるから神殿ではなく、首長の館など中枢施設の一つだろう。弥生集落の核心部分を解明する重要な資料」としている。

 遺構は遺跡のほぼ中心で見つかり東西6メートル、南北13・7メートル。建物の周囲だけでなく内部にも柱を立てた総柱式で3列、23カ所の柱穴が見つかった。うち18カ所は柱の下部が残っていた。

 柱は直径45−80センチで、清水寺(京都市)の舞台を支える柱に匹敵する太さ。最も太い柱は長さ1メートル以上あり、町教委は「かなり高層の建物だった可能性がある」としている。

 東側に並んだ柱穴のうち3つは浅く、補修のために立てた添え柱と判断した。

 現地説明会は、19日午前10時から午後3時。

弥生の大規模環濠跡/田原本町の唐古・鍵遺跡

奈良新聞 2000年11月22日
 弥生時代最大級の環濠(ごう)集落跡、田原本町の唐古・鍵遺跡で、同時代中期中ごろ(紀元前2世紀ごろ)の大規模な環濠跡が見つかり、町教委が21日、発表した。集落の内と外を区画する大環濠で、これまでの調査結果と合わせ、集落北部を取り巻くように巡っていたことが裏付けられた。

 大環濠は幅10メートル、深さ1.2メートル。すぐ内側に弥生時代中期前半(紀元前3世紀ごろ)の環濠(幅約4メートル)があり、集落を拡大したことが分かる。大環濠も同時代中期後半(紀元前1世紀ごろ)には埋められ、居住区に組み込まれていた。

 環濠内側の居住区には、住居用の炉跡が9ヵ所に残っていたほか、200個を超す柱穴が見つかった。

 大環濠は昭和57年の調査で初めて見つかり、すでに7ヵ所で確認されている。集落北部を円弧状に囲んでおり、直径約400メートルと推定できる。

 唐古・鍵遺跡の集落は当初3つに分かれていたが、弥生時代中期初頭までに統合され、1つの環濠集落となった。大環濠は、統合後の集落を外部と区画していたとみられる。

 調査を担当した町教委の豆谷和之技師は「環濠の掘削作業には、ムラの結束を強める狙いもあったのではないか」と話している。

 現地説明会は、25日午後1時と3時から同遺跡駐車場で行われる。

最古級の高床式大型建物

1999年10月15日 共同通信社
 日本最大級の環濠(かんごう)集落跡、唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)で、弥生時代中期初め(紀元前3世紀末)の高床式大型建物跡が見つかった。同町教委は15日「最古とされる吉武高木遺跡(福岡市)と同時期で、最大級の建物とみられる」と発表した。

 これまで近畿最古とされていた弥生中期中ごろの武庫庄遺跡(兵庫県尼崎市)の大型建物を50年以上さかのぼる。

唐古・鍵遺跡から日本最古の総柱型大型建物跡が出土

10:16p.m. JST October 15, 1999
 弥生時代の大集落跡である奈良県田原本町の唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡から、弥生時代中期の初め(紀元前3世紀末―同2世紀初頭)に建てられたとみられる東西約7メートル、南北11.4メートル以上の大規模な建物の柱穴跡と柱の一部が見つかったと同町教委が15日、発表した。柱穴跡の並び方などから、総柱型の高床式建物の跡で、このタイプの建物としては日本最古という。位置や規模からみて、集落の中心的な建物で政治や祭祀(さいし)を取り仕切った場所だったとみられ、弥生時代の集落や古代建築の構造を知るうえで第1級の発見という。

 柱穴跡は、長径1.5―2メートル、短径1―1.2メートルのだ円形で、南北に3列、各列に5―6個並んでいた。深さは約60センチと浅いことから、柱のほとんどは2メートル前後の長さしかなく、高床を支えていたとみられる。屋根を支えていた柱の多くは、床の上から別に立てられていたらしいが、地面から直接棟を支えた「棟持柱(むなもちばしら)」の跡も1つあった。建築面積は80平方メートル以上という。複数の柱穴跡で見つかった土器などから、紀元前3世紀末―同2世紀初めのものという。

 4つの柱穴跡には、柱の一部が残っていた。直径は約60センチで、長さは0.5―1.8メートル。3本はケヤキ、1本はヤマグワ。2本には、運搬のときに綱を通したと見られる一辺15―20センチの長方形の穴が開いていた。ケヤキ柱の1本は、抜き取ろうとして倒されたまま放置されていた。


整然と並ぶ建物遺構、弥生時代の倉庫か…池上曽根遺跡

2004/11/09 読売新聞 Yomiuri On-Line

 大阪府和泉、泉大津両市にまたがる弥生時代の代表的な環濠(かんごう)集落・池上曽根遺跡(国史跡)の中心部で、東西に整然と並ぶ弥生中期後半(紀元前1世紀)の大型掘立柱建物群の遺構が見つかったと、大阪府文化財センターが9日、発表した。

 倉庫と推定される4棟で、1995年に発掘された祭殿風建物などとともに方形区割りで計画的に造営されたとみられる。この時期の「クニ」の中心的な集落で、後世の「宮」のように整備された建物群の配置が確認されたのは初めて。

 4棟の建物跡は、周囲より高い土地に東西約30メートルの範囲で1列に並び、柱の直径は35―30センチと太く、建物規模は最大で南北10メートル、東西7・8メートル。柱穴の一部は重複しており、建造時期は2段階に分かれるとみられる。実用土器など日常生活の跡がないことから、同センターは奉納された稲や祭具などを納めた倉庫と推定している。

 方形区画を持つ弥生期のクニの中枢は伊勢遺跡(滋賀県守山市)でも見つかっているが、池上曽根遺跡より200年余り後のものとされている。

 金関恕・大阪府立弥生文化博物館長の話「東西、南北を強く意識していることがうかがえ、この時期に計画的な都市づくりの思想が既に存在していたことを示す発見で、大きな意義がある」


弥生の稲は温帯型と熱帯型

1999年03月12日 共同通信社

 滋賀県守山市の弥生時代中期の環濠集落跡『下之郷遺跡』で、稲のもみが多数出土、佐藤洋一郎・静岡大農学部助教授のDNA分析の結果、日本や中国などで栽培される温帯型ジャポニカ種と、フィリピンやインドネシアなどで栽培される熱帯型ジャポニカ種が交ざっていたことが分かったと、守山市教委が12日、発表した。

今回の分析で、中国南部などから沖縄経由か直接海を渡って熱帯型ジャポニカが伝わった“海上の道”も重要とする説が注目を集めそうだ。


ひょうたん形土器出土 北九州市/弥生住居跡、祭祀で使用か

2000.9.22 The Sankei Shimbun

 北九州市小倉南区長野の長野尾登遺跡の弥生時代中期末(紀元前後)の住居跡から、祭祀(さいし)用とみられるひょうたん形土器=写真=が見つかった。同市教育文化事業団は「ひょうたん形土器は全国でも珍しく、完全な形で見つかったのは九州では初めて」としている。

 土器は高さ約一八・五センチ、容量は約五百cc。やや幅広の注ぎ口以外は本物のひょうたんそっくり。

 当時の集落の中央付近にある直径約九メートルの大型住居跡の出入り口わきから、横に寝かせた形で出土した。住居は集会所だったとみられ、この土器も儀式などに使われた可能性があるという。

 大型住居跡から見つかった土器の中で、完全な形だったのはひょうたん形土器だけ。事業団は「住居を廃棄する際、何らかの祭祀的な気持ちを込めて入り口に置いていったのではないか」と話している。


地中に卑弥呼の石? 日田市の会所山山頂 市民調査 巨大7メートル四方

2000年05月31日 西日本新聞

 奈良時代編さんの「豊後風土記」に登場し、日田の名称の語源になったといわれる「久津媛(ひさつひめ)」を祭る神社がある大分県日田市日高の会所山(よそそやま)山頂の地中に約七メートル四方にわたって巨大な石が埋設されている可能性が強いことが、最新鋭の磁気探査機による調査で分かった。

 周辺から出土した土器片は「卑弥呼の時代」の三世紀後半とみられることなどから、調査した市民団体は「卑弥呼に関係した遺跡ではないか」とロマンを膨らませている。

 この市民団体は「久津媛と日田の古代を語る会」(後藤英彦会長)。

 巨大な石とおもわれる反応があったのは、会所山の東側の二つの山頂のうち北側の山頂(一六四メートル)。NTTの協力で二回にわたって磁気探査機で調査。平たんな山頂のほぼ中央部の地中一・一―一・五メートルのところに、約七メートル四方に平たい石を敷いているとみられる反応が確認された。

 二回目の調査に立ち合った賀川光夫・別府大名誉教授(考古学)は「山頂部は盛り土らしく、人工的な構造物に間違いないだろう。発掘しないと分からないが、巨石信仰の祭祀(し)遺跡ではないか」と話す。

 会所山近くでは、中国の皇帝クラスの人物しか持ち得ない高貴な宝器といわれる「金銀錯嵌(さくがん)珠龍文鉄鏡」(重文)や「金銀錯鉄帯鉤(たいこう)」が出土している。

 「久津媛の会」幹事長の石丸邦夫さんは「魏志倭人伝にある『鬼道に事(つか)え』るのは卑弥呼だが、祭祀遺跡とすると祭祀の主は卑弥呼かもしれない、と夢は広がる。さらにデータを集め、試掘につなげたい」と話している。

豊後の古歴史


奴国(なこく)

国内初タイプの中国戦国時代の銅剣出土 福岡の立石遺跡

May 09, 2000 asahi.com

 弥生時代の奴国(なこく)の中心とされる福岡県春日市の立石遺跡(弥生後期、1世紀ごろ)から中国戦国時代(紀元前403―同221年)の銅剣が出土した、と同市教委が9日、発表した。茎(なかご)を持つ日本では初めて見つかったタイプで、大きな柱を立てた穴の跡に入っていた。宝器として有力首長の墓前祭祀(さいし)に使われたらしく、他に類例がないという。弥生時代の祭祀を解明するうえでも重要な手がかりになるとみられている。

 出土した戦国式銅剣は、柄(つか)の中に入る部分である茎を含め、長さが28.3センチ、幅5.4センチ、厚さ0.8センチ。3つに割れており、切っ先の部分は欠けていた。復元すると長さ50センチ前後になるという。

 戦国式銅剣は、柄に節を持つタイプが長崎県・壱岐の原の辻遺跡など北部九州一円で7点出ているが、今回のように茎を持つ形式は珍しく、朝鮮半島では1例、中国でも数少ない。表面は滑らかで良質な銅を使ったとみられ、中国で一般的なものより幅広いという。

 同教委は、国内には鋳型が見つかっていないことなどから、この銅剣は中国産で、中国・漢王朝が設けた朝鮮半島での出先機関、楽浪郡を経由して日本に入ってきたのではないか、とみている。

 立石遺跡では、弥生時代後期の複数の墳墓と一緒に4つの柱穴跡が出土。銅剣はこのうちの1つから見つかった。柱の一部が残っていたことから、同教委ではこれを墓前祭祀ための大柱とみており、「銅剣は柱を立てる際に入れられたのではないか。戦国時代から中国や日本で大事に伝えられた貴重な宝器だったようだ」としている。


三角縁鏡の銅は中国産か 邪馬台国論争に影響も

2004//05/16 中国新聞ニュース

 邪馬台国の女王卑弥呼の使いが中国の魏からもらった鏡ともされる三角縁神獣鏡の一部は、当時の中国鏡と材料の銅の成分がほぼ同一とみられることが、泉屋博古館(京都市左京区)が十五日までに実施した微量元素の含有比測定で分かった。

 材料の鉛などが中国鏡と同一とした研究結果はあるが、主材料の銅で確認したのは初めて。産地や製造地が共通することも推定できる。

 三角縁鏡は中国で作り日本へもたらされたか日本製かで論争が続いているが、同館は「三角縁鏡の一部は中国製の可能性が極めて高いことが示唆できた」としており、邪馬台国論争にも影響しそうだ。

 同館は兵庫県三日月町の大型放射光施設「SPring(スプリング)8」を使用。所蔵する三角縁鏡八枚と中国鏡六十九枚、古墳時代に中国鏡をまねた国産の製鏡十八枚で、主成分の銅とスズに不純物として含まれる銀とアンチモンの成分比を測定した。

 中国鏡は戦国後期―秦(紀元前三世紀)、前漢前期(前二世紀)、前漢後期―三国・西晋(前一―三世紀)と時代が進むと不純物が増加。三角縁鏡のうち、文様などから大陸から輸入した「舶載鏡」とされる六枚の成分比が、三世紀の中国鏡と一致した。

 残る二枚はさらに不純物が多く、三―五世紀の製鏡とほぼ同じ成分比だった。


妻木晩田遺跡を国史跡申請

1999年08月17日 共同通信社

 鳥取県教委は17日、同県の大山・淀江両町にまたがる弥生後期最大の高地性集落、妻木晩田(むきばんだ)遺跡を国史跡に指定するよう、文化庁に申請した。文化財保護審議会の審議を経て、来年1月にも指定される予定

考古学ファンらが清掃

1999年06月19日 共同通信社

 全面保存が決まった弥生時代後期最大の高地性集落、妻木晩田遺跡群(鳥取県大山町、淀江町)で19日、考古学ファンら約80人が参加し、遺跡一帯の清掃作業が行われた。参加者は、四隅突出墓が多数出土した洞ノ原地区や楼閣とみられる建物跡などが見つかった妻木山地区のごみ拾いや草刈りなどに汗を流した。

 妻木晩田遺跡群は、今年4月に全面保存が決定。県教委や両町教委に見学や視察の要望が殺到したことから、県教委などが今月26日から3回、一般希望者を対象に見学会を開くことにした。

妻木晩田遺跡保存を歓迎

1999年04月11日 共同通信社

 鳥取県の西尾邑次知事が、鳥取県大山、淀江両町にまたがる弥生後期最大の高地性集落、妻木晩田(むきばんだ)遺跡群の全面保存を決めたことについて、日本考古学協会と同協会埋蔵文化財保護対策委員会は11日までに保存決定を歓迎する声明を連名で発表した。

 声明は『ゴルフ場を取りやめ、対象地を買い上げて保存し、将来的に史跡として整備・活用するという最も望ましい形で決定されたことは、大変喜ばしい』とその決断を高く評価している。

妻木晩田(むきばんだ)遺跡群全面保存が 決定しました!!

1999/04/09 中国新聞

島根県は、開発主体の京阪電鉄(大阪市)が所有する開発予定地を買い取り、全面保存することで同社が合意したと発表した。(西尾知事の引退会見) なお、全面保存となると、県の試算では総額300−600億円が必要という。

 大山(標高1726m)のふもと、鳥取県の大山、淀江町にまたがる妻木晩田(むきばんだ)遺跡群はゴルフ場予定地の全域約156ヘクタ−ルに広がり、同じ弥生時代後期の代表的遺跡、佐賀県の吉野ヶ里遺跡の4倍近い広さである。地元両町教委の発掘調査では、大型の楼閣跡をはじめ吉野ヶ里の1.5倍を越える876棟の住居・建物跡などを確認している。

 このほか、広島県北部や山陰地方独特の四隅突出墓を含む31基の墳丘墓などもあり、ムラからクニへの統合が進む社会変革期の「クニの中心都市」をうかがわせる重要な遺跡とみられる。

妻木晩田(むきばんだ)遺跡群は全面保存を/文化庁

1999/02/18 中国新聞

 鳥取県西伯郡大山、淀江町にまたがる妻木晩田(むきばんだ)遺 跡群の保存問題で、文化庁の井上明俊文化財保護部長は十七日の衆 院予算委分科会で、県が示した一部保存案に「適切でない」と強 調。全面保存が望ましいとの見解をあらためて示した。社民党の知 久馬二三子氏(中国比例)の質問に答えた。

 鳥取県と大山、淀江の地元二町、ゴルフ場開発業者が九日に行っ た四者協議の席上、県が提示した一部遺跡とゴルフ場の共存案につ いて、井上部長は「遺跡保存の観点から必ずしも適切でない。 まと まりのある形での保存へ努力していただきたい。保存されることに なればできる限り支援する」と述べた。(国史跡に指定されれば、国が土地購入費の8割、整備費の5割を補 助する。残りが地元負担だ。)

「遺跡群保存活用基金」にご協力を!

 鳥取県の淀江町と大山町にまたがる妻木晩田遺跡群は、現在のところ 日本最大の弥生遺跡です。しかし、県が誘致するゴルフ場建設にともなう発掘調査でみつかったものであり、また、遺跡の規模が大きすぎるため、の保存・活用には多大な困難がともないます。とりわけ、多額の財政負担は、地元行政にとって深刻な問題です。 

 そこで、私達は、一人ひとりも、日本を代表するこの弥生遺跡を守るために協力しようという趣旨で「むきばんだ応援団」を発足させ、その活動の一環として「妻木晩田遺跡群保存活用基金(略称、むきばんだ基金)」を設立しました。一人でも多くの皆さんのご協力をお願いします。


加茂岩倉遺跡についてby WEB-サンイン

1996年10月14日

 斐川町の荒神谷から3キロ離れた大原郡加茂町岩倉の農道建設現場で、去る(H8年)10月14日、弥生時代中期から後期と思われる31個もの大量の銅鐸が一度に発見された。 全国でこのように1ヶ所で大量の銅鐸が見つかった例は、今までどこにもないといわれている。まだ土中に埋まっている4個も数に入れる可能性があり、出土数はさらに増えるかもしれない。

 今回発見された加茂町岩倉は、斐川町の荒神谷遺跡に近く、両遺跡の関係や銅鐸にまつわる謎は今後考古学界の関心事になりそうである。

 これらの遺跡が何れも農道建設現場であること、農村集落に近い丘陵斜面の中腹であることなど、相通ずるものがある。また工事に携わった業者の方が荒神谷の農道工事にも関係した人であったため、発見が早く、大事に至らなかったとのこと・・・。バックホーで山の斜面を削っていたところ、地表から3メートルの真砂土の中からプラスチックのバケツの様なものが現れ、作業を中止し同町教委に届けられたことなど、貴重な文化財が大きく破壊されずに済み、全く幸いの一言につきる。

 出土した銅鐸は、高さ30〜50センチ、保存状態も非常に良いと聞いている。

加茂町にて大量の銅鐸出土! 〜全国最多の39個〜

by加茂町役場

荒神谷遺跡 by斐川町HP

 荒神谷遺跡は、島根県簸川郡斐川町大字神庭西谷に所在し、「出雲国風土記」に記されている神名火山(仏経山)の東約3km、高瀬山北麓の低丘陵地帯に散在する小さな谷あいの一つにあります。

 荒神谷は、遺跡が発見<昭和59年(1984)>されたそばの山に、「崇りがこわいと言い伝えのある荒神」がお祭りしてあることから、古来地元ではこの谷を荒神谷と呼ぶようになったと伝えられています。

荒神谷史跡公園by荒神谷博物館


銅鐸博物館by邪馬台国大研究
銅鐸の町”野洲”by 野洲町


神殿の南は神聖な空間か

1999年06月26日 共同通信社

 全国有数の弥生時代の環濠(かんごう)集落跡『池上曽根遺跡』(大阪府和泉市・泉大津市)で、神殿とみられる国内最大級の掘っ立て柱建物跡の、南側の大型井戸跡近くに、周囲から区切られた神聖な祭祀(し)場が、広がっていたとみられることが、26日までに和泉市教委などの調査で分かった。 

 弥生時代の環濠集落の中心部の構造や性格、集落での暮らしぶりなどを推測する上で注目される。

道上古墳群から曲がった鉄剣/広島県神辺町

2002/10/09 中国新聞
 弥生後期から古墳初頭 12日に見学会

 広島県神辺町の道上古墳群の第二〜五号古墳の発掘調査で、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての土坑墓や墳墓、四十一基が見つかった。五十点を超す出土品の中には、折り曲げられた鉄剣や刀子(とうす)が含まれている。

 隣接する企業の拡張工事に際し、県埋蔵文化財調査センターが七月から十月下旬まで、高さ約五十メートルの尾根部分の約三千九百平方メートルを調べている。

 折り曲げられた鉄剣二本と刀子が見つかったのは、第五号古墳の最も中央に位置する遺構で、ここでは鉄製の「やりがんな」やガラス玉も発見された。近くの遺構からは石製と銅製の鏃(やじり)が出土している。

 わざと曲げられた鉄製武器としては、五世紀ごろの「蛇行剣」がある。今回見つかった刀剣は「蛇行剣」と同様、葬られた人が地域を代表する有力者であったことを示すとの見方がある。一方、儀式的な意味合いで土器の底を抜いたり、武器を二つに折り曲げたりする事例もある。

 このほか、直径十メートルの第三号古墳の主体部からは鉄製の鏃と人の歯が見つかった。周辺には十四基の土坑墓があり、つぼの口を鉢で覆う土器棺も出土。第四号古墳では土坑墓ばかり二十一基が見つかっている。

 十二日午後一時から現地見学会がある。雨天の場合は道上公民館。問い合わせは神辺町社会教育課、電話084(962)5052。

東広島・青谷1号遺跡から「鼓形器台」出土

2000/10/11 中国新聞

■弥生後期の祭祀用土器

 東広島市西条町寺家の青谷一号遺跡から、弥生時代後期(三世紀半ば)に祭祀(さいし)に多く用いられた山陰地方産の土器「鼓形器台(つづみがたきだい)」が出土した。西条盆地と、県北や山陰との交流があったことが、うかがえる。

 出土したのは、中央部がくびれた鼓の形をした土器で、大きさは底部が直径二十三センチ、中央部が直径十一センチで高さ約十五センチ。上部が破損しているものの、ほぼ完全な形で、集落を囲んでいた溝状遺構から見つかった。すぐそばから、この器台に乗せたとみられる壷(つぼ)形土器(高さ二十九センチ)も発見されている。

 同じ遺構から、弥生時代の五種類七十個余の土器が出土している。発掘した市教育文化振興事業団文化財センターの中山学調査員は「集落が他所へ移る際に、土器を捨てるとともに、地鎮のため鼓形器台を使って祭祀を行った」とみている。

 鼓形器台は、出雲地方を中心に出土していることから、山陰地方で作られた土器とされている。県内では三次市の矢谷墳丘墓、庄原市の妙見山遺跡など主に北部で見つかっている。

 広島大文学部の古瀬清秀助教授(考古学)は「弥生時代末から古墳時代にかけて、地域間の交流が盛んになり、日本の初期国家が形成されている。その中で、山陰と、安芸の中心地だったとされる西条盆地との交流ぶりを知るうえでの端緒になる貴重な資料」と話している。


倭のクニ連携の輪

2009年06月03日 読売新聞 YomiuriOn-Line

対馬、一支、末盧、伊都でPR

原の辻遺跡(上)近くに建設中の県立埋蔵文化財センター・壱岐市立一支国博物館(5月13日、本社ヘリから)

 中国の史書「魏志倭人伝」に登場するクニがあったとされる福岡、佐賀、長崎各県の自治体が協力し、各遺跡をPRしたり、遺跡をつなぐイベントを企画したりする「魏志倭人伝のクニグニネットワーク」が設立される。3日には吉野ヶ里遺跡のある佐賀県神埼市など関係自治体が同県内で初会合を開く。(寺垣はるか)

 魏志倭人伝には、対馬国(対馬市)、国指定特別史跡の原の辻遺跡が残る一支(いき)国(壱岐市)、末盧(まつろ)国(佐賀県唐津市)、伊都国(福岡県前原市)など魏の使者が通ったルートが記され、各クニまでの距離や特徴がつづられている。

 弥生時代、大規模な環濠(かんごう)集落があったことから、3県は1999年、原の辻、吉野ヶ里、平塚川添遺跡(福岡県朝倉市)について「姉妹遺跡」を締結。08年8月〜11月、九州国立博物館(同県太宰府市)で開いた3遺跡の企画展では約15万人を集めた。今年10年の節目を迎えたことから、さらに輪を広げ、PRの充実や観光客誘致につなげようと、ネットワーク構築を呼びかけた。

 クニグニネットには3県と、対馬、壱岐、唐津、前原、朝倉市に加え、奴国があった福岡市、福岡県春日市などクニと遺跡に関係する11の自治体が参加する予定。年3回会議を開き、イベント情報を掲載する共通のホームページやロゴの作成、各遺跡がタイアップした行事について話し合う。

 背景には、2010年以降、各クニに関する大型事業が目白押しで考古学ファンらの注目が集まっていることもある。10年春に約38億円をかけて壱岐市に建設中の県立埋蔵文化財センター・市立一支国博物館がオープン、同年秋以降には福岡県太宰府市から同県小郡市に移転する九州歴史資料館も開館する。11年には吉野ヶ里歴史公園が開園10周年を迎える。

 原の辻遺跡などを抱える県教委学芸文化課の担当者は「邪馬台国の頃に思いを巡らせ、ロマンを感じてもらえるよう連携を深めたい。各クニを巡るウオークラリーや駅伝大会も企画し、魏の使者が通った道のりを想像しながら楽しんでもらいたい」と語る。

 西谷正・九州歴史資料館長は「連携が深まれば発信力が大きくなり、邪馬台国論争でも力を合わせてアピールできる。それぞれの遺跡の出土品には共通性と特色があり、比較することで当時のクニの関係性も想像できるだろう」と話している。

滋賀県立安土城考古博物館:吉野ケ里遺跡のガラス管玉が破損

2009年4月25日 毎日新聞 東京朝刊

 滋賀県安土町の県立安土城考古博物館は24日、企画展のため文化庁から借りていた吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼市、吉野ケ里町)出土のガラス管玉(くだたま)(重要文化財、佐賀県立博物館保管)46点のうち十数点を誤って破損したと発表した。

 県立安土城考古博物館によると、23日午後5時半ごろ、学芸課長(63)が点検のため、糸で一連につなげられた管玉や銅剣などを載せた台(縦60センチ、横90センチ)を展示ケースから取り出した際、バランスを崩して管玉だけを約70センチ下の床に落としたという。床は布張りだったため大きな衝撃はなかったが、一部が欠けた。

 ガラス管玉は89年3月、吉野ケ里遺跡の墳丘墓(弥生時代中期、紀元前2〜1世紀ごろ)から計79点が出土。長さ1・8〜6・8センチ、直径0・6〜1センチの円筒形で、明るい青色をしており、埋葬されていた王族の地位の高さを示す装飾品という。91年に国の重要文化財に指定された。

 県立安土城考古博物館は25日から6月14日まで開催の企画展「大型建物から見えてくるもの」で展示する予定だったが、事故を受け出展を取りやめ、修理する方針。【南文枝】

邪馬台国の謎に迫る 吉野ケ里歴史公園 5月から講座開講 来年3月まで

2009年04月25日 西日本新聞朝刊

弥生時代の人々の暮らしぶりが感じられる吉野ケ里歴史公園 古代史最大の謎である邪馬台国論争に迫る考古学講座「邪馬台国を求めて 九州説を考える」が5月から来年3月まで月1回、吉野ケ里歴史公園(神埼市、吉野ケ里町)内の弥生くらし館で開かれる。無料。

 講座は、毎月第2土曜日の午後1時半から同3時まで(来年3月は第1土曜日)。卑弥呼がいた邪馬台国の場所について、県内外の専門家がそれぞれの見解を述べる。各回の時間と講師は次の通り。 (敬称略)

 5月「邪馬台国時代の北部九州」(常松幹雄・福岡市教委)▽6月「邪馬台国時代の奈良大和」(橋本輝彦・奈良県桜井市教委)▽7月「筑紫平野説」(片岡宏二・福岡県小郡市教委)▽8月「『イト国』から『ヤマト国』」(柳田康雄・国学院大)▽9月「朝倉・甘木説の現場から」(川端正夫・福岡県朝倉市教委)▽10月「八女説の現場から」(赤崎敏男・福岡県八女市教委)▽11月「山門説の現場から」(大庭孝夫・九州歴史資料館)▽12月「佐賀神埼説」(七田忠昭・佐賀県教委)▽1月「倭国(わこく)の敵対国 狗奴(くな)国‐熊本説の現場から」(宮崎敬士・熊本県教委)▽2月「九州の古墳文化からみた邪馬台国」(重藤輝行・佐賀大)▽3月「邪馬台国九州説のゆくえ」(高島忠平・佐賀女子短大)

 県教育庁社会教育・文化財課=0952(25)7233。

「吉野ケ里こそ邪馬台国」 「考える会」結成 県内の郷土史家ら 九州説盛り上げへ

2009年04月20日 西日本新聞朝刊

 吉野ケ里遺跡(神埼市と吉野ケ里町)に邪馬台国があったとの説を支持する県内の郷土史家ら約20人が19日、「邪馬台国を考える会」を結成した。1989年に同遺跡が弥生時代最大の環壕(かんごう)集落と判明して20年。同会は「古代史の最大の謎である邪馬台国論争に、佐賀から一石を投じていきたい」としている。

 同会は、邪馬台国九州説の論客で前宮崎公立大学教授の奥野正男氏が会長を、同遺跡の発掘を率いた佐賀女子短期大学の高島忠平学長が顧問を務める。

 設立総会が佐賀市天神のグランデはがくれで開かれ、同市の郷土史家で副会長を務める石戸敏治さんが「巨大で成熟度の高い吉野ケ里遺跡を放置するのではなく、自信を持って卑弥呼がいた都として広めよう」との奥野会長のメッセージを代読。高島顧問は邪馬台国が奈良にあったとする「畿内説」も紹介しつつ、「九州説は少数派だが、1つのクニの全容がほぼ判明しているのは吉野ケ里だけ。会の発足を機に九州説を盛り上げていこう」と呼び掛けた。

 今後は月に一度、専門家による講座を開き、県内外の遺跡や文化財も見学する予定。会員も募集している。同会=0952(31)6855。

目指せ“吉野ケ里博士” 検定10人挑戦

2009年03月29日 佐賀新聞

 吉野ケ里遺跡と周辺の歴史や文化などの知識を問う「第2回吉野ケ里検定」が29日、吉野ケ里歴史公園であり、県内外から10人が挑戦した。筆記試験のほか、土笛作りの実技もあり、受検者は弥生人の気持ちになりながら試験に臨んだ。

 発掘調査で遺跡が明らかになった「吉野ケ里フィーバー」から20年目を記念して、同歴史公園が昨年初めて実施した。今年も熱心なファンが“吉野ケ里博士”を目指してチャレンジした。3択問題の筆記は難問もあり、参加者は頭を悩ませた。土笛作りでは、粘土を慎重に竹べらで削り、きれいに音が出るか確かめながら作業に取り組んでいた。

 発掘開始当時から何度も遺跡を訪れている鳥栖市の西川剛朗さん(68)は「検定を知ったのが直前で、一夜漬けに近いので自信がない。駄目だったら来年も挑戦したい」と話していた。70%以上の正答者が合格。合格者の受検番号はホームページ上で発表される。

雑記帳:吉野ケ里歴史公園で「赤米」を収穫

2003年09月23日[毎日新聞]Mainichi INTERACTIVE

 ◇佐賀県神埼郡の吉野ケ里歴史公園で23日、古代米「赤米」の収穫があった。参加者約40人は貫頭衣に身を包み、すがすがしい秋晴れの下で赤く色付いた稲穂を刈り取った。

 ◇弥生人の生活を体験する同公園のワークショップ。5月に田植えをし、貫頭衣と穂摘み用の石包丁も手作りした。収穫した赤米で12月に餅をつき、手焼きの土器でいただく。

 ◇石包丁から途中、かまに持ち替え、約500平方メートルの田を2時間で刈り終えた参加者。「弥生時代なら日が暮れていただろうに」と先人の苦労に思いをはせていた。【小林明子】

島根と佐賀で出土の銅鐸、同じ鋳型/佐賀県教委

2000/10/27 中国新聞

 佐賀県教育委員会は二十六日、佐賀県の吉野ケ里遺跡で出土した弥生時代の銅鐸(どうたく)と、島根県八束郡宍道町の同町蒐古館収蔵の銅鐸が、同じ鋳型で作られた「兄弟銅鐸」であると発表した。出雲地方と九州地方の交流の歴史を探る資料として注目される。

 吉野ケ里の銅鐸は全長二八・六センチで、一九九八年に出土。蒐古館の銅鐸は、一部破損しており現存の長さは二二・三センチ。県内の旧家で保管されていた。島根県内の出土と推定されるが、出土時期や場所は不明。

 佐賀県教委は蒐古館の銅鐸を取り寄せ、両者を詳しく比較。描かれた文様やくぼみの位置、周辺部の構造などが一致し、鋳型が同じと判断した。文様の特徴から、ともに九州地方三カ所で鋳型が見付かっている「福田型銅鐸」であることも分かった。

 吉野ケ里の銅鐸は、九州地方での唯一の銅鐸の出土例で、兄弟銅鐸の確認は初めて。島根県埋蔵文化財調査センターの松本岩雄調査課長は「ともに九州で作られ一方が島根に運ばれた可能性が高く、両地方の密接な関係がうかがえる」と話している。

 二十七日から十二月三日まで、佐賀市の佐賀県立博物館・美術館である「佐賀2000―名宝の旅」に両銅鐸を展示する。

吉野ケ里に古代の市場か

1999年11月02日 共同通信社

 佐賀県教育委員会は2日、弥生時代の大型環濠(かんごう)集落、吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼郡)で、新たに弥生時代後期(2〜3世紀)の高床倉庫跡や竪穴建物跡を約40棟ずつ確認したと発表した。

 高床倉庫はこれまで出土したものを含めると計約80棟になった。倉庫群の間には広場とみられる空き地があることから、県教委は「物的証拠はないものの、交易をした市場だったのではー」としている。


八角形の竪穴住居発掘 広島・三谷遺跡

2002/11/22 中国新聞

 鉄器20点 異例の多さ

 広島市安芸区中野東で市文化財団が発掘している三谷遺跡から、弥生時代後期中葉(一〇〇年ごろ)の直径十メートルの大型竪穴住居跡が見つかった。通常の円形でなく珍しい八角形。内部から鉄鏃(てつぞく=鉄製のやじり)約十本を出土した。建物一カ所では全国でも異例の鉄器量で、他地域との交流拠点だった可能性がある。

 遺跡は瀬野川近くの標高約百メートルの高台。流域では初の弥生集落で、昨年七月から東広島バイパス工事に伴い発掘。弥生後期から古墳時代初期の竪穴住居跡十数軒と掘っ立て柱建物跡が出土した。

 広島市最大級の住居跡は、八角形の辺の半分が残存。柱穴跡(直径七〜八十センチ)も三カ所が確認された。床面で鉄器二十点がばらばらに見つかり、半分は九州系を含む複数型の鉄鏃とみられる。

 八角形の弥生住居は主に近畿地方で発掘例があり、「階層差を示す」「共同施設」などの見解がある。鉄鏃はここで加工した可能性があり、財団は「意味付けは今後の課題」としている。

 弥生集落に詳しい武末純一・福岡大教授は「鉄鏃十本というのは非常に多い。建物配置などを含め総合的に研究する必要がある」と話している。

 財団文化財課は十二月一日午後一時から現地説明会を開く。問い合わせは、電話082(248)0427。


国内最大級の墳丘墓

1999年09月14日 共同通信社

 京都府埋蔵文化財調査研究センターは14日、丹後半島にある同府峰山町で、弥生時代後期末(3世紀中ごろ)では国内最大級の墳丘墓「赤坂今井墳丘墓」が見つかった、と発表した。中心には弥生時代最大の埋葬施設を備えており、被葬者は日本海側の強大な王の1人だったとみられる。


日本最古の墨書文字と発表 三重・貝蔵遺跡の土器

November 30, 1999

 三重県嬉野町教育委員会は30日、同町中川の貝蔵(かいぞう)遺跡で出土した2世紀後半(180―200年)の土器に、漢字の「田」と読める墨の筆書き跡を見つけたと発表した。

 専門家の赤外線カメラによる鑑定で筆書き特有の形跡が確認され、町教委は「日本最古の墨書文字」としている。この遺跡に近い同町の片部(かたべ)遺跡でも1996年1月、4世紀前半の土器に「田」と読める墨書が見つかり、文字ではないかと論争があった。97年2月には熊本県玉名市で4世紀初頭の木製短甲(たんこう)(よろい)の留具に同様の「田」が見つかり、専門家の検討会議が「日本最古の文字」と判定した経緯がある。今回の発見は、これらを少なくとも100―120年さかのぼるものとなる。

 文字社会の始まりは、稲荷台1号古墳(千葉県)や江田船山古墳(熊本県)から出土した鉄剣などに意味を持つ複数の文字が記されていたことから5世紀とされてきた。嬉野町教委は「弥生後期に文字が使用された可能性がさらに高まった」と位置づけた。

 今回の発見は、奈良大の水野正好学長と東野治之教授、赤塚次郎・愛知県埋蔵文化財センター主査ら5人が鑑定して結論付けた。4人は文字とみているが、東野教授は「なお、記号の可能性も否定できない」と慎重な姿勢だ。

 土器は、東海地方特有の素焼きのひょうたん型「ひさごつぼ」。今年5月から10月にかけての第3次調査で、8月に出土した。形状から2世紀後半と見られる水路跡(最大幅16メートル、最深部1.8メートル)の東側に造られた堰(せき)の基盤となった木材の下に置かれていた。

 口の部分が一部欠けていたが、推定の口径は14センチ、残存の高さ18センチ、胴部の最大直径が17.8センチ。表面は丁寧に磨かれ、首と胴の上部に貝殻の文様が巡らせてあった。胴の貝殻文様より上部は朱塗りだったという。「田」は胴の中央にあり、縦1.5センチ、横1.5センチの大きさ。

 水野学長らは炭を映し出すことができる赤外線カメラで調べ、テレビモニターに「田」が映った。筆順も中国から伝来した「田」と同じだと考えられた。5画目の線には、筆で書いた時に現れる太い部分(入り)と細い部分(抜き)があり、筆を使って墨で書いた文字と結論付けた。

 漢字の「田」と読める墨書の発見は全国で3例目。片部、貝蔵の両遺跡は墨とされ、柳町遺跡は「墨以外の染料で書かれたもの」(玉名市教委)という。貝蔵遺跡では97年8月にも墨で人の顔のような模様が描かれた3世紀前半の土器が出土している。

「対馬国」の大規模集落か 長崎・対馬の三根遺跡で出土

2000.10.28(07:36)asahi.com

 中国の史書「魏志倭人伝」に倭国の玄関口として記された「対馬国」の中心とみられる弥生時代の大規模集落が、長崎県対馬・峰町の三根遺跡山辺(やんべ)区で出土したことが27日、同町教委の発掘調査でわかった。倭人伝のクニグニのなかで明確な中心集落跡が確認されているのは、一支(いき)国(長崎県壱岐)の首都とされる原(はる)の辻(つじ)遺跡だけ。大陸からの先進文化の橋渡しとして弥生文化の成立に大きな役割を果たし、邪馬台国の勢力圏の最前線をも担った「対馬国」の解明に向けて重要な手がかりを得たことになる。

 これまでに100本以上の柱穴が出土。少なくとも3、4棟の高床式倉庫や2基以上の竪穴式住居跡が確認されている。調査されたのは、山辺区約4万平方メートルのうち、7000―8000平方メートルで、三根遺跡全体では山辺区の10倍以上の範囲に広がっているとみられる。

 合計1万点以上の弥生土器や古墳時代の須恵器(すえき)や土師器(はじき)、朝鮮半島・楽浪郡系の土器や陶質土器が出土、盛んな“国際交流”を思わせる。

 魏志倭人伝には30のクニグニの名があるが、位置が確定しているのは対馬国、一支国、末盧(まつろ)国(佐賀県唐津市)、伊都(いと)国(福岡県前原市付近)、奴(な)国(同春日市付近)のみ。倭人伝は対馬国の様子を「千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す」と描写している。対馬中部の三根湾周辺は、青銅器を副葬した首長級の墳墓の密集地で、これらと深いつながりがあるとみられる。

伊都(いと)国


伊都国とヤマト政権〈1〉定説を覆す玉造工房

2004.11.27 読売新聞 Yomiuri On-Line

潤地頭給遺跡で出土した水晶(左上)と碧玉(左下)、筋砥石(右)

 福岡市の西に隣接する福岡県糸島地方は、中国の史書『魏志倭人伝』が記す伊都(いと)国の所在地として知られている。九州初の本格的な玉造(たまつくり)工房跡として、伊都国に新たな知見を与えた潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡は、かつての海岸線に近い微高地で確認された。

 発掘は小学校建設に伴う事前調査として、2003〜04年、前原市教委により行われた。

 工房跡は竪穴の周囲に円形の排水溝を巡らせたもので、東西80メートル、南北130メートルの範囲で33棟が確認された。出土した原石は碧玉(へきぎょく)、水晶、蛇紋岩、メノウ、鉄石英の五種類。うち碧玉は管玉(くだたま)、水晶は丸玉、小玉、算盤(そろばん)玉、蛇紋岩は勾玉(まがたま)に加工されたことが未成品の出土からわかった。

 年代は出土した土器の形式(西新式)から、弥生時代終末―古墳時代初頭、暦年代では3世紀前半と判断された。魏王朝の時代が西暦220〜65年だから、まさに『魏志倭人伝』時代の伊都国の遺跡となる。

 これまで北部九州では玉造工房跡が確認されなかったため、生産地として知られる朝鮮半島や日本海沿岸との交易で入手していた、と理解されていた。発掘を担当した市教委文化課の江野道和さんも「はじめは変わった緑色の石が出てくるなあ、という程度の認識だった」と振り返る。「ところが玉を磨く筋砥石(といし)や、穴を開ける鉄製の錐(きり)が出てきて、定説を覆す発見と気付いたのです」

 同遺跡の発見で、伊都国=北部九州勢力の交易範囲、あるいは勢力圏というべきものが、弥生後期の広形銅矛、銅戈(か)の分布から想定されていた範囲(北部九州と四国の一部)に収まらないことが確実になった。というのは、原石のうち地元で産出するのは水晶と蛇紋岩だけで、碧玉、メノウは島根県玉湯町の花仙山、鉄石英は新潟県の佐渡島産と考えられるからだ。

『魏志倭人伝』の原文。「女王國自り以北には特に一大率を置き…常に伊都國に治す」と記す これを裏付けるように、同遺跡からは甑(こしき)形土器など、山陰地方に特徴的な土器が目立って出土しているほか、工房の周囲に排水溝を巡らす事例は、松江市の平所遺跡や、富山県福岡町の下老子笹川遺跡と共通している。このことは原石や完成品の交易にとどまらず、山陰や北陸地方の技術者集団がこの地に移住して玉生産を営んでいたことをも示すものだ。地域間の対等な交易でなく、伊都国に各地の技術が集中しているのだ。

 ここで思い浮かぶのが『魏志倭人伝』の「女王国より以北には特に一大率を置き諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚(いたん)す。常に伊都国に治す」、「郡使(帯方郡の使者)の往来常に駐(とど)まる所なり」という有名な記述だ。30か国からなる邪馬台国連合の中で、伊都国は内政、外交上特別な地位を占めていた。

 江野さんは「原石の産地から遠く離れた地域での玉生産は、伊都国王という後ろ盾なくしては考えられない。単なる装身具ではなく、王権の象徴でもあった玉を直営工房で生産することにこだわった、伊都国王の政治的意図を反映している」と指摘する。

 一大率は、律令国家における大宰府のような機関とみられる。その管轄する「女王国より以北」については、「女王の都する」邪馬台国の位置をどこに比定するかによって解釈が異なってくるが、潤地頭給遺跡の発掘成果を見る限りは、邪馬台国の所在がどこであるにせよ、邪馬台国連合の範囲を、北部九州に限定することは難しそうだ。

 同遺跡では、復元長6〜7メートルになる準構造船の部材が井戸枠に転用された形で出土している。諸国を畏憚(畏れはばかること)させるほどの伊都国の力の源泉は、航海術を駆使した、海上交易ネットワークの独占にあったのではないか。それは邪馬台国の時代よりはるか以前から、歴代の伊都国王が培ったものだった。

伊都国とヤマト政権〈2〉伊都国が前漢と独占交易

2004.12.04 読売新聞 Yomiuri On-Line

三雲南小路遺跡1号棺出土の金銅製四葉座飾金具(福岡県教委蔵、伊都国歴史博物館に展示)

三雲南小路遺跡1号棺出土のガラス璧(福岡県教委蔵、伊都国歴史博物館に展示)

 『魏志倭人伝』に登場する30余国のうち、王の存在を明記するのは伊都(いと)国、女王国、狗奴(くな)国の3か国のみだ。女王国(邪馬台国連合)の王が卑弥呼、狗奴国の王が卑弥弓呼(ひみここ)で、両者は敵対していた。伊都国は「世有王」つまり代々王がいたが「皆女王国に統属」していた。

 伊都国の王が、『魏志倭人伝』の時代より200年も前の弥生中期後半(紀元前後)に存在していたことを考古学的に示すのが、伊都国の国邑(こくゆう、中心集落)である福岡県前原市の三雲・井原遺跡群で発見された、「王墓」にふさわしい副葬品を持つ三雲南小路遺跡だ。

 32メートル×31メートルの方形墳丘墓に甕棺(かめかん)2基を埋葬したもので、1号棺には前漢鏡35、金銅製四葉座飾金具8、ガラス璧(へき)8、青銅武器4、ガラス勾玉(まがたま)3、2号棺には前漢鏡22、ヒスイ勾玉、ガラス勾玉12、ガラス璧片などが副葬されていた。1号棺には大、中型鏡と武器、2号棺には小型鏡と装身具が目立つことから、被葬者は1号棺は男王で、2号棺は女王または王妃と考えられる。暦年代が紀元前後というのは、前漢鏡の最も新しい型式の製作年代から判断された。

 春日市の須玖岡本遺跡でも、前漢鏡30、ガラス璧片3、青銅武器10、ガラス勾玉などを副葬したほぼ同時期の墳丘墓が確認されており奴国の王墓とみられている。これより古い北部九州の首長墓が、少数の朝鮮半島系の青銅器や玉類を副葬していたのと比べると、両王墓は、中国の文物を大量に副葬しており、質量ともに隔絶している。

 三雲南小路遺跡の発掘に携わった柳田康雄・前九州歴史資料館副館長によると、直径27.3センチの大型鏡(重圏彩画鏡)は中国でも王侯クラスが保有するもので、金銅製四葉座飾金具やガラス璧は、皇帝が身分の高い臣下に葬具として下賜するものだという。つまり紀元前後の段階で、伊都国王や奴国王が、前漢に入貢して銅鏡などの下賜を受ける冊封(さっぽう)体制に組み込まれていたことを意味する。

 これは『漢書』の「楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来たりて献見す」(地理志)、「東夷の王、大海を渡りて国珍を奉ず」(王莽伝)という記述に対応するものだろう。三雲南小路、須玖岡本の被葬者は、当時の倭の100余国の中でも頂点に立つ、倭国王というべき存在だった。

 楽浪とは前漢の武帝が紀元前108年に朝鮮半島西北部に設置した直轄領(郡)で、この楽浪郡こそは日本が中原の先進文物を取り入れる窓口だった。

 三雲・井原遺跡群の番上地区では、88平方メートルという狭い調査範囲(土器だまり)から、灰色で、泥質が特徴的な楽浪系の鉢や筒杯、器台約30点が出土した。武末純一・福岡大教授(考古学)は「楽浪系土器が特定個所で集中的に出土するのは国内でほかに例がなく、しかも番上地区では、弥生中期後半〜後期にかけて継続している」と注目。「三雲南小路王の出現を契機に、渡来した楽浪人が集団で居住していたことを示すもの」と指摘する。おそらく彼らは楽浪郡との交渉を担うことで政権中枢にも参画した。

 「三韓系土器が多く出土する奴国が朝鮮半島からの鉄資源入手と鉄器・鉄素材生産で栄えたとすれば、楽浪系土器が出土する伊都国は楽浪郡を介した前漢との外交、交易を独占することで栄えた。いわば伊都国は前漢と安全保障条約を結び、その後ろ盾により北部九州の国々の連合体の上に君臨したといえる」

 楽浪郡の権能は紀元後204年には、現在の黄海北道周辺に新設された帯方郡に受け継がれた。『魏志倭人伝』によれば、伊都国はこの前後に「女王国に統属」したとみられるが、「(帯方)郡使の往来常に駐(とど)まる」外交・交易の拠点とされ、魏からも引き続き「王」とみなされた。おそらく帯方郡の使者も楽浪人の拠点であった番上地区に駐在したのだろう。

伊都国とヤマト政権〈3〉金印を伊都国王に下賜?

2004.12.11 読売新聞 Yomiuri On-Line

『柳園古器略考』が記す方格規矩四神鏡の拓本。「漢有善銅」の銘文が写されている

 記録によれば、天明年間(1781〜88年)に筑前国怡土(いと)郡井原村(福岡県前原市井原)で多数の銅鏡を副葬した壺=つぼ、甕棺(かめかん)=が発見された。幻の伊都国王墓といわれる井原鑓溝(やりみぞ)遺跡だ。幻というのは当の壺も遺跡の正確な位置も伝わっていないからだ。

 唯一の手がかりは、青柳種信の著した『柳園古器略考』。これは主として文政5年(1822年)に三雲村で発見された三雲南小路遺跡1号棺の調査報告書だが、種信は40年前に隣村で発見された井原鑓溝遺跡についても聞き取り調査を行い、農民が保管していた鏡片27、巴形(ともえがた)銅器2の拓本を残している。

 怡土郡井原村に次市といふ農民あり。同村の内鑓溝といふ溝の中にて……溝岸を突ける時岸のうちより朱流れ出たり。あやしみ堀て見ければ一ツの壺あり、其内に古鏡数十あり、また鎧の板の如きものまた刀剣の類あり

 拓本から復元される鏡=方格規矩四神(ほうかくきくししん)鏡=は18面で、刀剣や水銀朱も含む副葬品から三雲南小路遺跡と並ぶ王墓とみられ、その位置は同遺跡のわずか100メートル南にある字(あざ)ヤリミゾ周辺と推定される。

 前原市教委は大正時代の地籍図から字名の語源になったとみられる水路跡を割り出し、1994年から王墓の確認調査を続けている。福岡県教委が74年に三雲南小路遺跡1号棺を発見、『略考』の記述を150年ぶりに裏付け、同時に2号棺を新発見したような成果も期待できるからだ。

 遺跡が未確認のため出土土器による年代決定は不可能だが、拓本に残された鏡は、多くが1世紀前半の新および後漢初期の製作で、墓の年代はこれに下賜と副葬までの期間を加えたものとなる。その期間をどれほど見積もるかにもよるが、おおむね1世紀後半〜2世紀初頭の間に収まると考えられ、三雲南小路遺跡(紀元前後)より数代を経た伊都国王墓ということになる。

 この年代から思い浮かぶのが『後漢書〈東夷伝〉』の以下の記述だ。

 建武中元2年(57年)倭奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界也。光武賜うに印綬を以てす。安帝の永初元年(107年)倭国王帥升(すいしょう)等、生口160人を献じ請見を願う

 同書は5世紀前半の成立で、その記述の多くは3世紀後半に成立した『魏志倭人伝』の引用だが、この部分はオリジナルだ。

 前半は天明4年(1784年)に志賀島(福岡市東区)で出土した、「漢委奴国王」金印に対応するものと理解されている。「漢委奴国王」は「ワのナ国王」と読むのが通説だが、「イド国王」すなわち伊都国王とする説も有力だ。また後半の記述は、倭国王の存在を明記しており、「帥升等」という記述から、倭国の実態は、帥升を盟主とした諸国連合体であったとも解釈できる。

 前回紹介したように楽浪系の土器の分布から、弥生中期後半〜後期に中国との外交を独占したのは伊都国にほかならない。柳田康雄・前九州歴史資料館副館長は「井原鑓溝遺跡の副葬品からも、弥生後期に後漢から金印を下賜された、倭国王とみなされる人物は伊都国王をおいてほかにない」とみる。金印が出土した志賀島は博多湾口に位置し、奴国だけでなく、伊都国の東の玄関口でもあった。

 漢委奴国王、帥升がともに伊都国王とすれば、井原鑓溝遺跡はいずれかの墓の可能性が出てくる。前原市教委文化課の岡部裕俊さんは『略考』の〈壺〉という記述に注目する。

 「糸島地域では後期前半(1世紀)には甕棺墓に代わって木棺墓が盛行し、〈壺〉すなわち壺形の大型甕棺が再び見られるのは、後期中葉(2世紀前半)から。年代が後期中葉なら、帥升の墓である可能性が高い」

 三雲南小路、井原鑓溝遺跡と続く伊都国王の系譜は、平原遺跡1号墓の被葬者に受け継がれる。

伊都国とヤマト政権〈4〉「太陽の巫女」が君臨?

2004.12.18 読売新聞 Yomiuri On-Line

平原遺跡1号墓(手前)と高さ5メートルで復元された大柱。延長線上には日向峠がある(1998年)

 1965年に発見された平原遺跡1号墓(福岡県前原市有田)は、幅2メートル前後の周溝を巡らす14.0メートル×10.5メートルの墳丘墓で、4.5×3.6メートルの墓壙(ぼこう)に、長さ3メートル、幅0.75メートルの丸木舟のような割竹形木棺を納めている。前方後円墳と比べると極小サイズだが、副葬品の内容はこれに勝るとも劣らない。

 銅鏡40、素環頭大刀(そかんとうたち)1、ガラス製の勾玉(まがたま)3、管玉(くだたま)30以上、小玉500以上、連玉886個、メノウ製管玉12、耳■(じとう)(ピアス)2……中でも鏡の数は国内最多で、直径46.5センチ、重さ約8キロの内行花文(ないこうかもん)鏡5面は中国にも例のない世界最大の大鏡だ。

 年代は前原市教委が1999年まで行った再調査で、隣接する2号墓の遺構や土器と比較した結果、弥生終末期(2世紀末〜3世紀初頭)と判明した。この時期の墳墓で1号墓をしのぐ副葬品を持つものは国内になく、伊都国は、弥生終末期においても引き続き倭国の盟主たる地位を維持していたように見える。

 再調査では1号墓周辺から新たな遺構が確認されたほか、副葬品の詳細な分析も行われ、当時の伊都国を取り巻く状況や被葬者像が明らかになってきた。

 まず三雲南小路、井原鑓溝(やりみぞ)遺跡に副葬されていた鏡が中国産(舶載鏡)であるのに対し、平原遺跡1号墓の鏡は、ほとんどが中国鏡を模した国産(彷製=ぼうせい=鏡)であることがわかった。柳田康雄・前九州歴史資料館副館長によれば、超大型内行花文鏡をはじめ、中国鏡の代表的な型式である方格規矩四神(ほうかくきくししん)鏡32面も含めた計38面が国産という。

 「〈陶氏作〉〈大宜子孫〉という中国鏡にない銘文があり、中国鏡と逆位置に配置した文様があるなど、本来の意義を知らずに模倣しているふしもある。原型から複数の鋳型を製作して鋳造した同型鏡が7種類19面もあることからも、渡来工人が伊都国で一括して製造したものではないか」

 本来鏡が権威の象徴となったのは、それ自体が中国との関係を誇示することになる中国産だからだ。それを国産にしたのは「入手が困難になったことを意味する」。背景には黄巾の乱(184年)、遼東太守・公孫氏の独立(190年)など後漢の衰退があり、伊都国は、独自に鏡を生産することによって、その権威の維持に苦心していたようだ。

 弥生後期後半〜終末期には、伊都国に対抗するかのように、出雲や吉備、丹後で巨大墳丘墓が出現する。『魏志倭人伝』はこのころの倭を「倭国乱れ、相攻伐すること歴年」と記す。伊都国王の倭国王としての地位は前代のようには安泰ではなかった。

 従来知られていた墳丘周辺の鳥居を連想させる対の柱跡に加えて、再調査では新たに墓壙の東側17.5メートル地点で、直径約0.7メートルの柱穴が確認された。柱穴から推定した柱の高さは15〜20メートルという巨大なもので、墓壙西側の鳥居の中央部と大柱を結んだ延長線上には、太陽が昇る方角に当たる日向(ひなた)峠がある。平原遺跡は単なる王墓にとどまらず、太陽信仰と関係する祭祀(さいし)が営まれた聖地だった。

 太陽信仰が被葬者と密接に関係していることは、内行花文鏡が太陽(日輪)を象徴化した鏡とされていることからもわかる。人骨は確認されなかったものの、耳■は後漢では専ら女性が身に着けるもので、玉類が多数副葬されていることからも、被葬者が女性であることは異論がない。

 これらの事実から浮かんでくる被葬者像は、「太陽信仰と結びついた巫女(みこ)」と要約できる。記紀の天照大神、あるいは『魏志倭人伝』の卑弥呼のイメージが浮かび上がってくるのだ。

 天照大神と卑弥呼の「太陽の巫女」としての類似性は、これまでもたびたび指摘されている。重要なのは、そのような巫女が弥生終末期の伊都国に君臨していた事実だ。このことは何を意味するのだろう。 ■は王へんに當の字

伊都国とヤマト政権〈5〉東遷か服属か論争尽きず

2004.12.25 読売新聞 Yomiuri On-Line

8葉8花が特徴的な平原遺跡1号墓の超大型内行花文鏡(11号鏡。文化庁蔵、伊都国歴史博物館に展示)

 邪馬台国の所在地を巡っては近年、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡が注目されている。同遺跡に点在する、前方部が短い初期の前方後円墳(纒向型古墳)が、周濠(しゅうごう)から出土したヒノキ材の年輪年代測定によって、卑弥呼の時代と重なる3世紀初めの築造と判明したことで、「纒向遺跡こそ邪馬台国で、邪馬台国連合こそ初期ヤマト政権にほかならない」とする見解が定説になりつつあるのだ。

 倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼と曰う

 『魏志倭人伝』がこのように記す、卑弥呼共立の事情については、「倭国乱」の結果、近畿、東瀬戸内勢力が、後漢の後ろ盾を失った北部九州勢力を圧倒し、邪馬台国連合を成立させたと説くものが多い。前方後円墳の巨大な墳丘や、特殊器台=埴輪(はにわ)の原形=のルーツは、弥生終末期(2世紀末〜3世紀初頭)の楯築(たてつき)墳丘墓(岡山県倉敷市)に求めることができるため、特に東瀬戸内勢力の関与がクローズアップされている。

 『日本書紀』は伊覩(いと)県主の祖五十迹手(いとて)が八尺瓊(やさかに)、白銅鏡(ますみのかがみ)、十握剣(とつかのつるぎ)のいわゆる3種の神器を仲哀天皇に献上した説話を伝えている。同書は卑弥呼を神功皇后に擬しており、その夫・仲哀天皇の在位は西暦192〜200年。この記述は、卑弥呼共立直前の、伊都国王の服属を反映したものともいえそうだ。

 こうした大勢に対し、柳田康雄・前九州歴史資料館副館長は、邪馬台国=纒向遺跡と認めつつも、弥生終末期の伊都国王墓・平原遺跡1号墓(福岡県前原市有田)と古墳時代前期(3〜4世紀)の前方後円墳の間に「直接のつながりが見える」と指摘する。

 「前期古墳を特徴づける鏡、剣、玉、とりわけ大量の鏡を副葬するという最も重要な精神文化は、それ以前の弥生時代には伊都国を中心とする北部九州にしか見られない。邪馬台国連合は、伊都国が主導して結成したもので、1号墓の被葬者は、卑弥呼直系で直前の巫女(みこ)王ではないか」。すなわちヤマト纒向への伊都国東遷説だ。

 柳田氏は東遷説の根拠として、北部九州系の青銅器である有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)、巴(ともえ)形銅器の分布が弥生終末期には北陸、東北地方にまで達することや、「倭国乱」時の山城とされる高地性集落が、弥生中期後半〜終末期にかけて瀬戸内から近畿に東漸(とうぜん)する事実にも注目する。「高地性集落は北部九州にはほとんど存在せず、近畿、瀬戸内連合の西征はありえない。伊都国には前期古墳が集中し集落も継続して繁栄している」

 1号墓の副葬品である直径46.5センチの超大型内行花文鏡については、1965年の発掘調査を指揮した原田大六氏が、伊勢神宮の御神体で天照大神の分身である八咫鏡(やたのかがみ)との共通性を指摘している。

 八咫鏡を実際に見ることは不可能だが、『延喜式』や伊勢神道の教典『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』には、文様や大きさの手がかりが記されている。それによれば、八咫鏡は「八頭花崎八葉ノ形」で、これは中央から8葉座と8つの内行花文(連弧文)が巡る超大型内行花文鏡に見事に対応する。内行花文鏡と分類される鏡はほかにもたくさんあるが、通常は4葉8花、5葉10花で、8葉8花はほかに例がない。八咫鏡を納める容器の内径1尺6寸3分(唐尺)も約49センチで超大型鏡がぴったり入る大きさだ。1号墓の被葬者は原田氏によれば、天照大神のモデルになった人物の墓、ということになる。

 こうした東遷説については、「ヤマトで伊都国系の土器が出土しておらず、伊都国の集団が移住した痕跡が認められない。卑弥呼を共立した一員であっても、主導したとは思われない」(武末純一・福岡大教授)といった反論がある。ヤマト王権の系譜をどこに求めるのか、論争は簡単に決着しそうにない。(おわり)

潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡/ 福岡県前原市


勾玉の加工石、原石など大量出土 前原市・潤地頭給遺跡 『専業職人の存在裏付け』

2003年05月29日 西日本新聞 byとかちゃんの「ほけほけ日記」歴史篇

 弥生時代中期後半以降の「潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡」(福岡県前原市潤)から、古代のアクセサリーの勾玉(まがたま)、管玉の原石となる碧玉(へきぎょく)や、勾玉などを曲線加工する筋砥石(すじといし)が出土していたことが二十九日、分かった。

 同遺跡は、同時代に北部九州で栄えた伊都国の首都で王がいたとされる三雲・井原遺跡群から近く、同市教委は「伊都国を支えたムラの一つで、装身具工房だった可能性もある」とみている。

 潤地頭給遺跡は、三雲・井原遺跡群(同市)から北西に約二・五キロの海側に位置している。約八千平方メートルの調査区域からは、新たに竪穴住居や倉庫か神殿とみられる堀立柱跡など多数の柱跡遺構と、南側に直線六十メートル、幅四メートル、深さ一・五メートルの大きな構が発掘された。

 市教委が注目しているのは、南側大規模溝からネックレスの一種である臼玉、素焼きの勾玉、ガラス製の管玉といった装身具が見つかったほか、北側で発見された溝から玉を加工するための筋砥石(長さ約二十センチ)や直径三センチ大の碧玉、水晶石十点余が出ている点。砥石中央には勾玉や管玉の曲線を加工する筋があった。

 同市教委は、これらの遺物から判断して、同遺跡が勾玉などを製造する工房だった可能性をうかがわせると指摘。確認されれば伊都国関連遺跡では初の工房跡の発見となり、「装身具の専業職人集団を抱えた伊都国の隆盛ぶりを探る貴重な資料になる」としている。

 新設小学校の造成前の試掘調査で遺跡の所在が判明し、同市教委が今年一月から本格的な発掘調査を始めていた。

ムラ編成知る手掛かり

 <武末純一福岡大教授(考古学)の話> クニを支えたムラの一つに専業玉造技術者がいたのか、一般人が製造していたのか、ムラの編成状況を知る上で意義深い発見。今後の調査に期待したい。

弥生中期の「ブレスレット」出土 福岡・潤地頭給遺跡

2004/03/04 asahi.com

 福岡県前原市教委は3日、同市潤の「潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡」の甕棺(かめかん)から、紀元前100年ごろ(弥生中期)の青銅製腕輪「銅釧(どうくしろ)」が見つかった、と発表した。大陸文化の窓口だった伊都国が成立する前の地域の有力者の副葬品と見られ、地域社会の階層化過程を示す資料としている。

 銅釧は360基ある甕棺のうち、大きめの成人用甕棺1基から砕けた状態で見つかった。人骨はなかったが、横たわった遺体の右手首にあたる位置にあった。幅3ミリ、厚さ2ミリ、直径は推定約7センチの円環形で、3個分が確認された。

 市教委によると、円環形銅釧は九州北部を中心に21遺跡で出土している。同遺跡では装身具を加工した玉造り工房跡も九州で初めて確認されているが、見つかった銅釧は工房ができる前の初期のタイプだった。

 伊都国の成立過程に詳しい九州歴史資料館の柳田康雄・前副館長は「出土したのは精巧なつくりからみて舶来品と見られる。現在の糸島地方で、いくつかの地域に『クニ』ができはじめた時期。伊都国の王が出現する以前の小首長の墓ではないか」と話している。

 銅釧は7日午前10時からの現地説明会で展示される。問い合わせは市教委文化課(092・323・1111、内線1733)。


伊都国の大型船?弥生時代の船の部材が出土…福岡

2004年08月24日 読売新聞 Yomiuri On-Line

 福岡県前原市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡で、弥生時代終末期(2世紀末)の準構造船の部材が出土したと、同市教委が23日、発表した。

 準構造船は、丸木舟に舷側(げんそく)や船首、船尾に板を継ぎ足した船で、主に古墳時代に造られ、外洋航海や輸送用の大型船として用いられた。弥生時代の出土例は極めて少ない。

 一帯は「魏志倭人伝」に記された伊都(いと)国の範囲と推定されており、外交や交易の拠点として栄えた伊都国が高度な造船技術を持っていたことを示す発見として注目される。

 発見された部材は、丸太をくりぬいた船底部3点と、舷側板1点。船底部のうち1点は、長さ3・1メートル、最大幅82センチで、欠損部を補った全長は6―7メートルに達するとみられる。

伊都国繁栄の「足」・・・交易施設発見に期待

2004年08月24日 読売新聞

 「魏志倭人伝」は伊都国について「郡使の往来常に駐まる所なり」「一大率(イチダイソツ)を置き諸国を検察せしむ」と、邪馬台国連合の中で内政・外交上の特別な地位が与えられていたことを伝えている。福岡県前原市で出土した準構造船は、こうした外交や交易に用いられたとみられ、伊都国の繁栄を支えた足といえる。船底部と舷側蹴の接合部を薄くする工夫や、両側にある舷側板をつなぐ梁(ハリ)を通すほぞ穴も確認されるなど、「埴輪などから想像するしかなかった具体的な構造が判明し、復元も十分に可能」(一瀬和夫・大阪府教委文化財保護課主査)という。

 今後期待されるのは港とそれに付属する交易施設の発見だ。部材が井戸に転用されているため、出土地点をただちに港と結びつけることはできないが、地質学的調査の結果では、当時は現場の数百b近くまで東西から海が入り込んでいたことがわかっている。森浩一・同志社大名誉教授は「港があるとすればこの一帯と考えていた」と言う。昨年、同遺跡で確認された弥生終末〜古墳前期の大規模な玉類の生産工房跡との関係も注目される。出土した碧玉は現地産ではなく、島根県玉湯町の花仙山から持ち込まれたと考えられている。工房の存在は近くに港と交易施設が存在したことを示唆するものといえる。 (文化部 池田和正、本文記事1面)

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