TOPIC No.9-6 縄文時代

(BC14,000年 - BC400年?)
No.
 内          容
01. 縄文時代 byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
02. 「縄文の人々と日本人の起源」(1997/06/19) 
 by 団藤保晴の記者コラム「インターネットで読み解く!
03. 「日本人の起源を読み解く@2008リンク集」(2008/03/23) 
 by 団藤保晴の記者コラム「インターネットで読み解く!
04. 水野の縄文写真館
05. 日本人の源流を探して by日本人の起源
06. 丸木舟で海を渡った人びと byキッズ日本海学
07. (12)海の民 2017-11-13 by「日本人はどこから来たのか」寺社仏閣 古墳 
 (はてなブログ)
08. 縄文・古代文明/なぜ、いま縄文文化なのか(前編)(2006年10月12日)
09. 日本人のルーツ・ブリヤート人? 古沢襄 by歴史・神話 | 杜父魚ブログ
10. アイヌ語と縄文語の関係 by言語館 -アイヌ語と魏志倭人伝のことば-
11. 三内丸山遺跡
12. 八戸市埋蔵文化センタ− 是川縄文館 
13. 弥生人が朝鮮半島から伝えたとされる日本の稲作。実は縄文時代にも中国伝来の稲作が
 あったんです。(稲のたどってきた道) 静岡大学農学部助教授 佐藤洋一郎 
 2001年9月号 by at home教授対談シリ−ズ こだわりアカデミ-
14. 稲のきた道 (稲作は縄文時代に始まった) by団塊の世代一代記(Akimasa Net)
15. 第2部 縄文稲作の究明 -縄文イネは 熱帯型のジャポニカ種だった- 
 by日本人の源流を探して
16. 漆の考古学 by 地底の森ミュージアム


1万2000年前のウルシ木片 世界最古、福井で出土

2011/11/06 中国新聞ニュース

 福井県若狭町の鳥浜貝塚で出土したウルシの木片が、世界最古となる約1万2600年前のものであることが分かった。東北大学の鈴木三男すずき・みつお教授(植物学)らの研究グループが6日、青森県弘前市で開かれた日本植生史学会の大会で発表した。

 これまでウルシは大陸起源で、大陸から日本に持ち込まれたとの見方が強かった。今回の発見で、その交流が縄文時代草創期から始まっていた可能性が出てきた。一方で交流がなかった場合、これまでとは逆に、ウルシが国内に自生していた可能性も出てくる。

 鈴木教授は「データが少ない現状では断定はできないが、日本の漆文化のルーツを考える上で重要な研究」としている。

 木片は1984年に出土した自然木の小枝で全長約20センチ、太さ約1センチ。当時は樹液を使わないヤマウルシと、ウルシの区別ができなかった。2004年ごろから断面の細胞の並びなどを確認することで、遺跡から出土する古い木片の種類の特定ができるようになり、鳥浜貝塚の木片がウルシと判明。さらに放射性炭素年代測定法で分析し世界最古と分かったという。

 これまで最古のウルシは、青森市の三内丸山遺跡などで見つかっている約7千年前のものだった。漆製品としての世界最古は、2000年に北海道函館市の垣ノ島B遺跡で約9千年前の装飾品が出土している。


縄文前期の人骨41体に 最大級、富山の小竹貝塚

2010/08/06 中国新聞ニュース

 縄文時代前期に埋葬された人骨がまとまって出土した富山市呉羽町の小竹おだけ貝塚で、新たに28体分の人骨が見つかったことが5日までの富山県文化振興財団の調査で分かった。発見された人骨は計41体分に上る。

 今後も増える可能性があり、同財団の久々くぐ忠義ただよし調査第1課長は「縄文前期の人骨の発見では日本最大級」としている。立命館大の矢野健一やの・けんいち教授(考古学)は「情報量としては第一級。日本の考古学研究にとって大変重要な発見」と話している。

 財団の説明によると、6月に見つかった13体分の人骨の先をさらに掘り進めたところ、縦約8メートル、横約40メートルの範囲で、深さ約3〜4・5メートルの層から新たに28体分の人骨が見つかった。保存状態はいいという。今後、国立科学博物館で性別や年齢などを調査する。

 小竹貝塚は富山市西部の呉羽丘陵に位置する東西約120メートル、南北約190メートルの貝塚。北陸新幹線建設着工を前に、4月下旬から調査している。財団は8月末までの調査期間の延長を検討している。


まさに"縄文のビーナス" 最古級の土偶発見 東近江・相谷熊原遺跡

2010年05月30日 産経関西

 ふっくらした胸に、わずかにくびれた腰?。滋賀県東近江市永源寺相谷町の相谷熊原遺跡で見つかった土偶は、豊満な女性をリアルに表現した1万3千年前の“縄文のビーナス”だった。子孫繁栄や安産のシンボルといわれる土偶。スタンプほどの大きさしかない超ミニサイズの人形に、古代人たちの深い祈りが込められていた。

 今回の土偶は頭部が表現されておらず、首の部分に1ミリ大の穴が空けられていた。調査担当の県文化財保護協会によると、現代のひな人形のように頭部を棒状の芯ではめ込むタイプではなく、穴を空けることで頭部そのものを表現した可能性があるという。縄文時代初めに誕生した当初の土偶は、頭部がなく胴体だけで表現されているものが一般的だ。今回の出土品は乳房が強調されていたことから、子孫繁栄を願うシンボルだったとみられる。顔が明確に表現されるのは、縄文中期(約5千年前)になってからという。

 縄文文化に詳しい渡邊昌宏・大阪府教委参事は「とても小さい土偶で、女性がお守りとして肌身離さず大切に持っていたのではないか」と推測。「女性が『乳がたくさん出ますように』と祈りをこめたのかもしれない」と、縄文人の心情に思いをはせる。

 縄文初期の日本列島は、氷河期の終焉(しゅうえん)とともに海水面が次第に上昇し、それまで中国大陸と陸続きだったのが現在の姿になったころとされる。一方、地質学者らの研究によると、今回の土偶や竪穴住居跡が見つかった約1万3千年前は、地球規模で再び一時的に寒冷化し、現在より平均気温が10度以上も低かったとの説がある。京都大大学院の泉拓良(たくら)教授(考古学)は、こうした気候変動に着目。「急激な寒冷化によって、縄文人は寒さをしのぐため、深さが1メートルもある半地下式の竪穴住居を築くようになった」とし、「深くて大きな竪穴住居を築くには、集団で作業をしなければならず、人が集まることで新たな文化が芽生え、土偶が生み出されたのではないか」と推測する。

 深さ1メートルを超える竪穴住居は、世界的にもシリアで出土した約1万2千年前が最古級とされ、泉教授は「今回の住居跡は、国内どころか世界的にも極めて古い」と指摘した。

 土偶:粘土で女性をかたどった素焼きの人形で、縄文時代初めに出現。北海道から九州にかけて約1万5千点が出土しているが、弥生時代になると突然姿を消す。歴史教科書などで紹介される派手な装飾や大きな眼鏡をかけたような土偶は東北地方に多く、大半は縄文時代後期や晩期(約3千?4千年前)に作られたとみられる。

滋賀・相谷熊原遺跡:国内最古級の土偶 縄文草創期・1万3千年前

2010年05月30日 毎日新聞 東京朝刊

縄文時代草創期の竪穴住居跡から発見された土偶=滋賀県東近江市永源寺相谷町で、南文枝撮影

 ◇竪穴住居跡5棟も発見 定住化と関連?

 滋賀県文化財保護協会は29日、同県東近江市永源寺相谷町の相谷熊原(あいだにくまはら)遺跡で、縄文時代草創期(約1万3000年前)の竪穴住居跡5棟が見つかり、国内最古級の土偶1体が完全な形で出土したと発表した。同時期の住居群跡は全国で数例、土偶は三重県の粥見井尻(かゆみいじり)遺跡で2点しか発見されていない。移動生活から定住が始まった時期の暮らしや文化がうかがえる、貴重な発見となりそうだ。【南文枝】

 発見された土偶は高さ3・1センチ、最大幅2・7センチ、重さ14・6グラム。女性の胴体のみを、胸や腰のくびれも優美に表現し、底は平らで自立するのが特徴だ。上部に直径3ミリ、深さ2センチの穴があり、棒で別の頭部をつないだなどの可能性もある。

 遺跡は、三重県境の鈴鹿山脈から流れる愛知(えち)川の南の河岸段丘にあり、山間地と平野部が接する場所にある。竪穴住居群は、緩い斜面約100メートルの間に5棟連なって確認された。規模の分かるものは直径約8メートルのいびつな円形で、深さ約0・6〜1メートルと、これまでの例より深くしっかりした構造だった。造るのに相当な労力がかかる上、多くの土器や石器も出土しており、一定時期でも定住したことが考えられるという。

土偶:国内最古級1体出土 滋賀の相谷熊原遺跡で

2010年05月29日 毎日新聞

縄文時代草創期の竪穴住居跡から発見された土偶=滋賀県東近江市永源寺相谷町で、南文枝撮影

 滋賀県文化財保護協会は29日、同県東近江市永源寺相谷町の相谷熊原(あいだにくまはら)遺跡で、縄文時代草創期(約1万3000年前)の竪穴住居跡5棟が見つかり、国内最古級の土偶1体が完全な形で出土したと発表した。同時期の住居群跡は全国で数例、土偶は三重県の粥見井尻(かゆみいじり)遺跡で2点しか発見されていない。移動生活から定住が始まった時期の暮らしや文化がうかがえる、貴重な発見となりそうだ。

 発見された土偶は高さ3.1センチ、最大幅2.7センチ、重さ14.6グラム。女性の胴体のみを、胸や腰のくびれも優美に表現し、底は平らで自立するのが特徴だ。上部に直径3ミリ、深さ2センチの穴があり、棒で別の頭部をつないだなどの可能性もある。

 相谷熊原遺跡は、三重県境の鈴鹿山脈から流れる愛知(えち)川の南の河岸段丘にあり、山間地と平野部が接する場所にある。竪穴住居群は、緩い斜面約100メートルの間に5棟連なって確認された。規模の分かるものは直径約8メートルのいびつな円形で、深さ約0.6〜1メートルと、これまでの例より深く、しっかりした構造だった。作るのに相当な労力がかかる上、多くの土器や石器も出土しており、一定時期でも定住したことが考えられるという。

 現地説明会は6月6日、午前10時と午後1時半の2回。雨天決行。問い合わせは県文化財保護協会(077・548・9780)。【南文枝】


「中空土偶」が大英博物館へ 国宝指定後、初の海外展示

2009年05月08日 中国新聞地域ニュース

 北海道函館市が所有する道内唯一の国宝で、縄文時代後期の「中空土偶」が、ロンドンの大英博物館で9−11月に開かれる展覧会に出展されることが8日までに固まった。同市の承諾を受けた文化庁が大英博物館と協定を交わし、6月にも正式決定する見込み。市によると、2007年に国宝に指定されてから初めての海外展示となる。

 文化庁によると、大英博物館側から「国宝、文化財級の縄文文化の土偶を展示したい」と依頼があり、函館市を含む国内約60件の収蔵先に出展を依頼。展覧会では約70点の土偶などが展示されるという。

 中空土偶は1975年に南茅部町(現函館市)の畑から出土。高さ41・5センチと国内最大級で、現在は市立函館博物館に展示されている。

 同博物館の田原良信館長(56)は「道内唯一の国宝が日本代表として展示されるのはうれしい。海外の人に縄文文化を知ってもらういい機会になりそう」と話している。

北海道内唯一の国宝、中空土偶はここにあります。

「函館市縄文文化交流センター」

北海道で唯一の国宝「中空土偶」を常設展示

雲南で縄文時代の土器出土

2009/01/09 中国新聞地域ニュース

 雲南市教委は8日、同市木次町の万場I遺跡で、縄文時代の漆文様入り「彩文土器」が出土した、と発表した。北部九州起源の土器に、東北日本で生まれた漆塗りの文様が描かれており、専門家によると両地域の文化が融合した土器の出土は全国でも珍しいという。

 出土したのは2種類のつぼ型土器の破片など計4点。うち2点には東北日本由来の「C字文様」と呼ばれる楕円(だえん)の文様があり、漆を混ぜた黒と赤の顔料で彩られている。土器自体は縄文晩期後半の北部九州に起源を持つ「夜臼(ゆうす)系土器」。九州の文化が、同時期に古代出雲地方にまで伝わっていたと類推できるという。

 島根・鳥取両県の埋蔵文化財調査センター主催の速報展で展示する。島根会場は県立石見美術館(2月21日―3月15日)、鳥取は県立図書館(1月21日―2月15日)。

縄文時代に九州で豆類栽培か 土器に痕跡、熊本大調査

2008年08月16日  中国新聞ニュ−ス

 九州各地で出土した約3600−3000年前の縄文土器の表面に、栽培種とみられる大豆や小豆の痕跡があることが熊本大の調査で分かった。定説では豆類の栽培は弥生時代以降とされるが、調査した小畑弘己准教授らは「縄文後期には九州地方にマメ科植物の栽培技術があった可能性がある」と指摘している。

 縄文期の豆類は、出土例は多いが炭化しており、豆の種類の判別や、野生種か栽培種かの特定は困難だった。そこで、土器の作製過程で粘土に混入したマメ科種子が焼け落ちてできたとみられるくぼみに、シリコーンを流し込んで型を復元し、電子顕微鏡で調べる「レプリカ法」を採用。九州の遺跡から出土した5万点以上の土器片の中から、豆類とみられる痕跡について分析した。

 その結果、長崎県の大野原遺跡や熊本県の三万田遺跡から出土した縄文土器計4点に残っていた跡を、豆の「へそ」と呼ばれる部分の形状などから大豆と特定。福岡県の大原D遺跡や鹿児島県の柊原貝塚など10遺跡の土器15点でも、大豆形の跡を確認した。

縄文時代の貝塚から石笛 熊本・宇土、西日本で初

2008/07/13 中国新聞ニュ−ス

 縄文時代前期の轟貝塚(熊本県宇土市)から人が加工したとみられる石笛いわぶえが見つかったことが十二日、同市教育委員会の調べで分かった。縄文時代のものは全国でも数例しか確認されておらず、西日本では初めて。日本の音楽史の上でも貴重な発見で、当時の風習を知る手掛かりにもなるという。

 石笛は黒色石灰岩で、長さ六センチ、幅二・九センチ、厚さ一・六センチ、重さ四十四グラム。人が研磨したとみられ、平たい長方形状で内側がくりぬかれている。

 上面中央部の穴から息を吹き込むと甲高い音が鳴る。両端の穴を親指と人さし指で押さえて使ったとみられる。

 宇土市教育委員会は「神聖な儀式で使用された可能性があり、神楽や能にも通じるものがある」としている。これまでは東北地方を中心に発見されている。

 轟貝塚は約六千年前に形成され、轟式土器や貝の腕輪など約二万点が出土している。

縄文のドングリ「貯蔵庫」見つかる 奈良

2008/07/12 中国新聞ニュ−ス

 奈良市中貫町の中貫柿ノ木なかづらかきのき遺跡で、縄文時代(二千三百年以上前)とみられる数百個のドングリを貯蔵した穴が見つかり、奈良県立橿原考古学研究所が十二日発表した。

 ドングリは当時、秋に取り、冬の保存食にされた。穴は洪水で埋まっており、同研究所は「せっかく蓄えたドングリを探し出せず、食べられなかったようだ」としている。

 穴は直径四五センチで、長さ一・五センチのドングリが直接、土に触れないよう葉っぱや枝を敷き詰めた跡があった。常に地下水が流れる谷に掘ってあり、ドングリを低温で保存するとともに、水にさらしてあく抜きしたようだ。

 近くで空になった別の穴も確認。本来は一帯が貯蔵庫だったとみられ、同研究所は「縄文人の食生活や知恵がうかがえる」としている。

縄文時代の布に複雑な模様 北海道恵庭市の遺跡から出土

2008年04月24日 中国新聞ニュ−ス

 北海道埋蔵文化財センター(江別市)は24日、北海道恵庭市柏木町の柏木川4遺跡から、複雑な模様が編まれた縄文時代後期の布が出土したと発表した。布の調査を依頼された国立民族学博物館(大阪府吹田市)の吉本忍教授(民族技術)によると、模様がデザインされた編み布が古代遺跡から出土するのは国内では初めて。

 吉本教授は「これまで手掛かりが無かった縄文時代のファッションについて、具体的な解明が期待できる」としている。

 布は2006年秋に、恵庭市の柏木川の旧河道跡で、縦1・2メートル、横0・6メートルの範囲から67の断片に分かれて出土。同時に出てきた土器などから、約3200年前のものと推定された。

 糸の材質は分析中だが、植物性とみられる。「もじり編み」といわれる技法を用い、糸の間隔を変えたり穴状のすき間を編み込むなど、さまざまなデザインが施されている。

<縄文時代中期>約500年さかのぼる 国立歴史民俗博物館

2003年05月26日 YAHOO! NEWS[毎日新聞]Mainichi INTERACTIVE

 弥生時代の始まりは500年早まるとする研究結果を発表した国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループは25日、東京で開かれた日本考古学協会総会で、今度は縄文時代中期の年代も約500年さかのぼるとの研究結果を明らかにした。

 研究グループは、同館の今村峯雄教授ら。関東や東北、北陸の縄文中期の土器に付着したススなどの炭化物など約130点を最新の放射性炭素(炭素14)年代測定法で分析し、修正して実年代に換算した。

 従来は、縄文中期は紀元前3000年から前2000年ごろとされてきた。新説によると、中期最初の土器とされてきた五領ケ台1式が紀元前3520年ごろ、後期の最初とされる称名寺式が前2470年ごろと推定され、縄文中期全体が約500年さかのぼることになった。

 ただ、年代見直しに対して、この日の総会では、多くの異論や疑問も出された。考古学界全体の議論が盛んになりそうだ。


(旧石器〜縄文草創期)-蟹田町大平山元(おおだいやまもと)遺跡群

 byこまきのいせきものがたり

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文へ(2)

2007.10.22 MSN産経新聞

 平成11(1999)年、青森県蟹田町(現外ヶ浜町)の大平山元(おおだいやまもと)I遺跡で出土した土器片の年代が公表され、考古学関係者に衝撃を与えた。「無文式」と呼ばれる文様のない土器片に付着していた炭化物の測定結果は、1万6540〜1万5320年前(1950年を基準)。土器の使用が始まったと従来考えられてきた年代(1万2000年前)を大きくさかのぼっていた。

 もっとも、この数字には事情がある。土器の年代測定は、放射性炭素(14C)が決まった速度で崩壊する性質(半減期)を利用する「放射性炭素年代測定法」で行われた。植物が光合成で摂取した二酸化炭素中の炭素14(動物も食物連鎖によって体内に残る)の減少量から、減少にかかった時間を計算する方法だ。土器など考古学的遺物の年代調査にも長年利用されてきた測定法だが、大気中の炭素14濃度がさまざまな要因で変化するため、測定値には実際の年代との誤差がある。大平山元I遺跡の土器クラスだと、実際の年代より新しい値が示される。

 そこでC14法では、樹木や年輪、サンゴなどのデータと照合して計算値を実際の年代に補正する作業が行われ、補正後の値は較正年代と呼ばれる。公表された大平山元I遺跡の土器年代も、この較正年代だった。欧米では考古学の分野でも較正年代を早くから取り入れてきたが、国内では大平山元の土器測定が初めてだった。

 補正前の計算上の年代は1万3780〜1万2680年前。国内最古級ではあるが、前回紹介した長崎県佐世保市の泉福寺洞窟(どうくつ)や福井洞窟遺跡で出土した土器の年代とほぼ同じだった。

 問題は、縄文時代の始まりを1万6000〜1万5000年前までさかのぼって考えるべきかどうかだった。考古学界では、土器の出現によって旧石器時代が終わり、日本の新石器時代の幕開けである縄文時代が始まると考えるのが一般的。それまで国内最古級とされてきた佐世保市の洞窟遺跡から出土した土器の年代は、縄文の始まりとして広く使われてきた。

 しかし、大平山元I遺跡の調査団長で、土器の年代測定を行った谷口康浩・国学院大准教授は「縄文の始まりを早めるべきとは考えない」と話す。「1万6000〜1万5000年前といえば明らかに更新世。これを縄文時代の始まりと考えると、誤差を考慮しても更新世の数千年という長い期間が縄文時代に含まれることになる。これは縄文の時代観と合致しない」

 「更新世」とは180万〜160万年前から約1万年前までの期間をさす地質年代の1区分で、氷河期と間氷期を繰り返した時代。それ以降が現在まで続く「完新世」。世界的には完新世とともに新石器時代が始まったとされる。

 谷口准教授によれば、縄文社会を成立させた主要な要素は、(1)温暖化による落葉広葉樹林の出現(2)落葉広葉樹のドングリ(堅果類)を煮炊きして食べるための土器の使用(3)漁労(4)(1)〜(3)によって可能になった定住集落の出現−などだ。「これらの要素を満たすのは、(国内最古の貝塚とされる)千葉県の西之城貝塚や神奈川県の夏島貝塚ができた1万〜9000年前。それ以前は旧石器時代から縄文への移行期とみるべきだろう」 「移行期」の日本列島は、どんな社会だったのか。それを考えるヒントが、大平山元I遺跡で土器片とともに出土した石器にある。

 旧石器時代晩期から縄文草創期にかけて、「神子柴(みこしば)(・長者久保)型」と呼ばれる石器文化が東日本を中心に広まる。「細石刃文化」より後発だが、2つの文化が並存する地域もある。20センチ前後という大型の石斧や石槍(尖頭器)を持つのが特徴だ。大平山元I遺跡も、神子柴型の刃部磨製石斧が見つかったことから神子柴文化の影響下にあったと考えられている。

 神子柴文化が広まったのは列島に最古の土器が出現する時期で、土器誕生の謎を解く鍵でもある。かつてはシベリア方面をルーツとし、土器とともに北方から渡来したと考えられたが、北海道に神子柴系の遺跡が見つからず、近年では列島自生論が高まっている。

 神子柴系の石斧や石槍は大型で、未使用の状態で出土することがあるため、「祭祀(さいし)用など非実用的な石器だった」と指摘する研究者は多い。谷口准教授は「氷河期の終焉(しゅうえん)と温暖化の進行という環境の変化にあわせ、列島にいた集団の移動が活発になった。その過程で異質な集団同士が出会ったとき、緊張を和らげ関係をつくり出す『財』の働きをしたのではないか。婚資(花嫁の代償)など贈与交換に使われたのだろう」とみる。

 これまでみてきたように、当時の列島には、北方系の細石刃文化を持つ人々のほか、九州には、中国大陸・朝鮮半島という西方系の影響が指摘される文化を持つ人々もいたと考えられる。

 鹿児島県では泉福寺洞窟と同時期の1万3000〜1万2000年前の地層に土器を含む遺跡が相次いでみつかっている。同じ九州の泉福寺洞窟の豆粒文や隆起線文土器とは異なったバラエティーに富む形態で、縄文文化がこの地でも独自に誕生しつつあったことをうかがわせ、南方(東南アジア方面)の影響を指摘する声もある。

 旧石器時代から縄文時代へと移りつつあった列島は、異なるルーツと文化を持つさまざまな集団が混じり合いながら、新しい文化を形成していく社会変動の時期だったのかもしれない。(小島新一)

7 大平山元1遺跡 揺らぐ縄文の年代感

2003.05.20  デーリー東北新聞/縄文紀行 北日本の遺跡〜実像に迫る

 青森市の県立郷土館。ここの展示室に親指大くらいの土器の破片十個が展示されている。そばの説明プレートにはこう書かれている。「無文土器片 縄文時代草創期」。ただの土くれではない。日本最古という肩書付きの土器で、縄文時代の起源に関する論議には、必ずといってよいほど登場してくる。

 ◎常識覆す衝撃

 「困った…。予感もないわけではなかったが、その時は本気でそう思った」。同館の三宅徹也学芸課長は、二十八年前のその日をこう振り返る。昭和五十年の文化の日。場所は蟹田町の西端に位置する「大平山元1遺跡」の発掘現場。

 そこから、石製ナイフなどの石器と一緒に、新しいタイプの石鏃(ぞく)などとともに、土器の破片二点が出土したのである。三宅さん(当時学芸員)らを混乱させたのは出土遺物の奇妙な組み合わせだった。前者は旧石器時代、後者の石鏃=矢じり=と、土器は縄文を代表する遺物というのが、当時の常識だったからだ。

 異なった時代に属する石器と土器が同時に、しかも同じ地層から出土するというケースはもちろん青森県内では初めて。ただ、土器を除けば、石器群の構成は東北町の長者久保遺跡から出土したそれと、かなりの共通点をもっていた。

 土器を伴わずに、新旧タイプの石器が混在している文化を御子柴(長野県)・長者久保文化と呼ぶ。それに共通する特徴から「大平山元1遺跡」の問題の土器片は、旧石器から縄文時代に移行する際の「草創期」のものと推定された。

 ◎日本最古の土器

 これが後に、考古学界をアッといわせる衝撃につながっていくとは、三宅さん自身「夢にも思わなかった」

 それから二十五年後。新たな調査に伴って同遺跡から出土した、炭化物が付着した土器(無文)片五個について「放射性炭素C14年代測定法」で、年代測定を行ったところ、何と一万二千―一万三千年前という結果が出てきた。

 それまで国内で一番古いとされていた隆起線文土器より、さらに古い無文土器の存在が浮上してきたわけだが、衝撃はそれだけで終わらなかった。さらに炭素年代判定の精度を高めるため、今度は「暦年代較正」という新手法を加えて分析したところ、問題の土器片の較正暦年代は、最も古い値で「約一万六千年」前、平均値で「約一万五千年」前、という数値が得られたのである。

 縄文時代はざっと五千年ぐらい前というのが、ひところの常識だった。最近は一万二千―一万三千年前が一般的な見方だが、較正暦年代はそれをさらに数千年も押し上げるデータ。それは土器の出現時期が旧石器時代、それも最終氷河期の真っただ中という可能性が出てきたことを意味している。

 炭素年代と較正暦年代の出現は、大きな宿題を突き付けることになった。いずれにしても、縄文の年代観そのものが再検討されなければならない時期にきていることは間違いないだろう。

 ◎定説がない!

 「教科書は一万年前、授業でもその通り教えています」

 縄文時代の起源について、ある中学校で聞いたらこんな答えが返ってきた。教育の現場で生徒に教える「一万年前」はいささか、時代遅れの印象もないではない。一般の専門書では一万二、三千年前という記述が主流となっている。

 三月初め、中里町の町立博物館で開かれた「十三湖周辺の遺跡」展をのぞいてみた。驚いたことに、会場の年代説明プレートには「縄文草創期 一万五千年・一万年前」とあるではないか。一般にはまだ、なじみの薄い較正暦年代からの“借用”であることは明らか。こっちは逆に走りすぎとも言えるが、いずれにしても縄文の起源は諸説が乱れ飛んでいる格好。

 揺らぐ縄文の年代観。これだと何を信じたらいいか、さっぱり分からない。定説自体が揺れているわけだから、それも無理のない話なのだが…。(編集委員・江波戸 宏)

青森県 東津軽郡 外ヶ浜町(旧蟹田町)

大平山元(1)遺跡出土の土器片は16,500年前!

1999/04/18

 太宰治の小説「津軽」に風の強い町として紹介されている津軽半島の中程に位置する蟹田町の大平山元(1)遺跡から昨年の7月に出土し、「日本最古級」と話題を呼んでいた土器群が、これまで縄文時代の始まりとされていた12,000〜13,000年前を約4,000年さかのぼる16.500年前のもので、世界でも最古級であることがわかりました。

 分析の対象となったのは、炭化物が付着していた土器片数点。最新の放射性炭素年代測定法であるAMS法で分析したところ、12,600〜13,700年前という数値が出た。従来の分析ではこれで終わるが、より正確な年代を割り出すために、年毎に変化する大気中の放射性炭素の濃度を加えて補正した。その結果、最終的に16,500年前とはじき出されたわけです。このようにAMS分析法の数値に補正をかけるのは、近年、国際的標準となっています。

 調査を担当した谷口國學院大學講師は「今回の分析で、縄文時代の始まりが正確に位置づけられると思う」と話しているという。

青森県蟹田町の大平山元遺跡


青森で日本最古の土器片

2001/02/27 スポニチアネックス

 青森県鰺ケ沢町の平野遺跡で、縄文時代草創期初め(約1万3000年前)のものとみられる土器片約200点が出土したことが、27日分かった。

 同時に出土した石器などから、日本最古級とされる大平山元遺跡(青森県蟹田町)の土器片とほぼ同時期とみられる。

 土器片は大きいもので約12センチ、厚さは4〜12ミリ。土器の口の部分の直径は15〜30センチ以上と推定され、少なくとも20個以上の土器らしい。


長崎県 佐世保市 瀬戸越町

泉福寺洞穴遺跡- 世界最古級の豆粒文(とうりゅうもん)土器を出土



北海道最古の土器と判明 1万4000年前に使用?

2005/03/11 The Sankei Shimbun

 北海道帯広市の大正3遺跡で2003年、出土したつめ形の文様のある土器が、本州の縄文時代草創期に当たる1万4000−1万4500年前の物であることが11日までに、分かった。北海道で見つかり、年代測定された土器としては最古となる。

 北海道ではこれまで、大麻1遺跡(江別市)で出土した約1万年前の土器片が最古とされていたが、北海道の土器使用の開始時期が早まる可能性がある。

 帯広市教委によると、大正3遺跡から出土したのは、つめ形文などがある5、6個分の土器の破片数百と、半月形石器など。土器片に付いていた炭を放射性炭素年代測定法で測定した後、暦年代との誤差を補正する方法で算出した。

 つめ形文が全面に付いた土器は、本州でも1万2000−1万3000年前とされており、今回の土器がつめ形文土器としては初期のものである可能性もある。

 市教委の山原敏朗学芸員は「これまでは、本州で作られたものが北海道に持ち込まれたとされていたが、地元で土器が作られ、その文様が本州に伝わった可能性も捨てきれなくなった」と話している。(共同)

縄文草創期 北海道でも土器使用 帯広の遺跡で発掘

2003年12月11日 The Sankei Shimbun
 

 北海道帯広市教育委員会は11日、同市郊外の大正3遺跡で、1万年以上前のものとみられる縄文時代草創期の土器5、6個体の破片や、石器を多数発掘したと発表した。

 縄文草創期の土器は、九州から本州の青森にかけて数多く発掘されている。しかし、北海道ではこれまで大麻1遺跡(江別市)で1個体分の土器片が見つかった程度で、まとまった数のものは初めて。縄文草創期の土器が北海道でも広く使われていたことを示す有力な裏付けとなりそうだ。

 北海道で土器が作られ始めたのは、次の縄文早期からと考えられてきた。市教委は今後、土器片に付着していた炭のようなものの年代測定や、土器の土の組成分析、文様の道外のものとの比較などによって、土器が道内で作られたものかどうか、製作された年代や場所の特定を進める。

 発掘されたのは、つめ形文などの文様が付いた土器5、6個体の破片数百個と、半月形石器など。小型の尖底(せんてい)土器とみられる。文様や石器はいずれも縄文草創期に特有のもの。

 市教委の山原敏朗学芸員(40)は「北海道ではこれまで草創期の土器はほとんど見つかっておらず、日本の縄文時代の土器出現期の研究に大きく寄与する発見だ」と話している。

 大正遺跡は、高規格道路建設予定地で見つかり、今年5月から10月まで発掘調査が続いていた。


楠廻間貝塚:一条隆起帯模様の土器出土 愛知県で初

2003年03月12日 Mainichi INTERACTIVE

 愛知県知多市教委は12日、同市八幡楠廻間(くすばさま)にある縄文時代早期後葉〜末葉(約7000〜6000年前)の遺跡「楠廻間貝塚」から、県内では初めて、ひも状の粘土1本を巻きつけた(一条隆起帯)模様の土器が出土したと発表した。6300〜6000年前に同貝塚周辺で人が定住していたことを裏付ける発見で、「楠廻間式土器」(仮称)と命名された。

 楠廻間貝塚は03年春に発見され、市教委の委託を受けた「楠廻間貝塚発掘調査会」(会長、伊藤昭正・市文化財保護委員長)が1月28日から緊急発掘調査を行っている。これまでに、標高約35メートルの丘の北側斜面の横幅約25メートル、長さ約10メートルにわたる場所から貝殻や獣骨、土器、石器など1000点以上が見つかった。

 知多半島や名古屋市、刈谷市では、縄文時代早期の貝塚が計七つ見つかっており、人の定住が確認されている。ところが約6300年前、鹿児島県南方の喜界島付近の大噴火により東海地方にも火山灰が降下。以後数百年ほどの間の貝塚が見られないことから、これらの人たちは静岡西部や長野県などに移動したと考えられていた。

 今回出土した土器は、この“空白の時期”に作られたもので、関東地方などで出土例がある。降灰前には、ヘラで波線模様を描いた「天神山式土器」が作られていた。噴火後の空白期間を挟み、次の出土土器は、約6000年前の貝塚から出土した、ひも状の土を巻き付けて波線模様を描いた「塩屋式土器」だった。

 調査を指導している東浦町立石浜西小、山下勝年校長(日本考古学協会会員)は、「楠廻間式土器」について「天神山式と塩屋式土器の中間的特徴が出ており、空白を埋める貴重な発見。ここで火山灰降下後も人が定住していたことを示している」と話す。

 同貝塚周辺では、弥生後期(約1800年前)の集落跡や鎌倉時代の段々畑跡も見つかった。市教委は、出土品を同市歴史民俗博物館で展示することにしている。 【林幹洋】


イノシシ顔の土器出土 長野・大町

2007年01月09日 asahi.com

 長野県大町市八坂の中原遺跡の出土品から、イノシシの顔をかたどった取っ手状の土器が見つかった。鼻をこちらに突き出している。 イノシシの顔の取っ手

 頭部の幅は約2センチで、縄文時代中期(約4800年前)の深鉢の一部という。99年に発掘されたまま倉庫に眠っていたのを、昨年暮れに整理して分かった。

 同じような土器は群馬県などでも出土している。市の関係者は「子だくさんのイノシシは豊穣(ほうじょう)、多産の神。干支(えと)の土器ということで、いい年になるでしょう」。


万歳する人と魚の文様の土器が出土 山梨・桂野遺跡

January 08, 2000

 山梨県御坂町(みさかちょう)上黒駒にある縄文時代中期初頭(約4800年前)の「桂野遺跡」から出土した土器に、魚や人とみられる文様が描かれていることが、同県教委埋蔵文化財センターの調査で分かった。縄文土器装飾の専門家は、縄文時代の遺物で魚と人が一緒に描かれた装飾は極めて珍しい、としている。

 文様は、1997年11月の発掘調査で出土した高さ15センチ、直径26センチの深鉢形土器の破片に描かれていた。胴の部分に「沈線文」と呼ばれる、くぼんだ5つの文様があり、最近の整理作業で気づいたという。欠けた部分があるため全体像はつかめないが、2つの文様が魚と万歳する人を描いているとみられる。

 同センターの野代幸和・文化財主事は「魚と人が一体化した抽象画ではないか。縄文時代の生活の風景を思わせるもので、興味深い」と話す。

 縄文時代の装飾付き土器に詳しい名古屋大の渡辺誠教授(考古学)によると、長野や福島県でも魚の文様が刻まれた土器などが見つかっているが、縄文時代の遺物で人と魚が一緒に描かれた例はないのではないか、としている。

 文様を見た渡辺教授は「魚は、基本的にはサケだろう。『今年もサケが上がってきた。豊漁だ』と喜んでいるのではないか。あるいは、上がってくるよう祈願しているのかもしれない」と話している。


上松で昨夏出土…人面装飾付き土器を復元 一般公開

2000年11月01日 信濃毎日新聞

 木曽郡上松町教育委員会は、九六―九九年に発掘調査した同町荻原の吉野遺跡から出土し、復元した縄文時代中期中葉初め(四千五百―四千六百年前)ころの人面装飾付き土器を、一日から三日まで、町公民館で開く町文化展で一般公開する。土器の四面に一つずつ写実的な顔が施されていることがほぼ確実で、四つの人面付き土器の出土は郡内初とみられる。

 昨夏、住居跡からほぼ形をとどめた土器の底部と、胴部の破片が出土。洗浄時に人面を確認し、県埋蔵文化財センター(更埴市)に復元を依頼した。出土部分は土器全体の三分の一程度。未出土部分を樹脂で補い、口径三五・五センチ、底径二二・五センチ、高さ二十二センチの土器に復元した。

 破片を接合した結果、上側口縁部直下の胴部四面のうち三面に、目と口を彫り込み、鼻を隆起させた縦三―四センチ、横四―五センチほどの顔が現れ、残り一面には口部分だけが現れた。

 人面の間には、二枚の葉を合わせたような文様を二面で確認。ほかの面は部分的に欠損したりしているが、同教委では、やはりこの文様も四面に同様に施されたと推定している。

 調査を担当した木曽広域連合埋蔵文化財調査係の広田和穂さんは「葉の文様も抽象的に表現された人面という研究者の指摘もある。八つの人面が付いた土器とすれば県内でも珍しい」としている。公開は午前九時―午後七時(三日は午後四時まで)。


人面装飾付き有孔鍔付土器出土

 このほど大野遺跡(大桑村大字長野、大野地区)B地区、22号竪穴住居跡内の覆土下層から、「人面装飾付き有孔鍔付土器」が発見されました。

 遺物の時期は、縄文時代中期中葉、今から約4,500年前のものと思われ、全国的に見ても非常に珍しいもので、全体のほぼ二分の一が残存していたということです。

 大きさは、復元値で高さ43cm、口径24cm、胴径は把手を含めて38cmです。

遺物の特徴

 樽形をした有孔鍔付土器の胴部に人面装飾がつけられている。

 人面部の径が最大25cmと大きく、顔だけが単独でつけられているなど、全国的にみても非常にめずらしい。

 表情だけでなく造形的にもすばらしく、その希少性からいっても極めて貴重な遺物であるということがいえる。

 有孔鍔付土器については、酒造用の容器であるとか、太鼓の胴体であるとか、諸説があるが、人面や人体文など一般的によく見られる土器とは異なる文様がつけられることが多く、祭祀的な色彩が強い土器といわれている。

 今回の土器もそうした祭祀的な要素を持った例と考えられ、それを裏付けるように赤色の顔料が塗られていた痕跡を部分的にとどめている。

 若干時期は異なるが、よく似た例として諏訪市大ダッショ遺跡、12号住居址出土土器などがある。


縄文後期の土器塚が出土 千葉・遠部台遺跡

August 29, 1999

千葉県佐倉市臼井田にある遠部台(とおべだい)遺跡から、縄文時代後期の「土器塚」(約3500年前)が28日までに出土した。調査している明治大学の阿部芳郎助教授(考古学)によると、土器片を意図的に積み上げたとみられる土器塚の全体像が具体的に分かる状態で見つかったのは初めてという。土器は、当時の主食であるドングリのあくぬきに使った可能性が高い。土器の生産と、その使われ方を探る手がかりになりそうだ。

土器塚は東西約16メートル、南北約8メートルのだ円形。高低差は最大で40センチ。土器はほぼ全部が加曽利B2式と呼ばれる同時期のもので、阿部助教授によると、数10年の間に積み上げられたと考えられ、破片は10万点以上ありそうだという。

土器の破片は、ほぼ全部が内側を上向きにしてあった。大人が一抱えで運べるほどの量を一まとまりにして、縦に積み重ねたり、横に並べたりしてある。煮炊き用の、高さ約50センチの深鉢が多い。すすがついているものもあり、使い込んだ土器の破片ばかりだという。

現在、土器の内側にこびりついた炭化物の化学分析を進めているが、この当時の主食はドングリ。この集落でドングリをあくぬきして加工し、周辺の集落に分配していた可能性が高いとみている。

その結果、大量の土器を消費し、使用済みの土器を意図的に1カ所にまとめたために土器塚ができたらしい。貝がらなどはまじっていないうえ、整然と積み上げられていることから、ごみ捨て場ではなく、「まつる」など何らかの意図があったとの推測をしている。阿部助教授は「ドングリの落ちる時期に、集中して加工していたのかもしれない。土器の生産と当時の消費の背景を探る手がかりとなるだろう」と話している。


集落跡

国内最古の集落跡 富士山ろく静岡県で

2002/03/23 中国新聞ニュース(共同通信)

 富士山ろくに位置する静岡県芝川町の教育委員会は22日、同町大鹿窪(おおしかくぼ)の窪A遺跡で縄文時代草創期の約1万1000年前の集落跡が見つかったことを明らかにした。6軒の住居跡とみられる竪穴状遺構や約2万点に及ぶ土器や石器が見つかっており、町教委は3軒以上の集落跡としては国内最古としている。 日本列島で旧石器時代の移動生活から定住生活への移行を示す貴重な発見となりそうだ。これまで3軒以上の集落の国内最古例は4軒が見つかった粥見井尻遺跡(三重県)の約1万500−1万1000年前だった。


上野原遺跡(鹿児島県国分市)、見学者が30万人を突破

1999年04月05日 共同通信社

 縄文時代早期初め(約9500年前)の国内最古級の大型定住集落跡が見つかった上野原遺跡(鹿児島県国分市)で、5日午前、一般公開から約1年10カ月で見学者が30万人を突破した。

 30万人目は同県姶良町、小学3年桑原惇君(8つ)で、春休み最後の日に家族と一緒に見学に来たという。午前11時すぎ、同県埋蔵文化財センターの職員から記念品として、矢じりや石匙(いしさじ)など縄文時代の石器の複製品10点セットが贈られた。

上野原遺跡 byかごしま遊歩


宮の平遺跡で縄文早期の住居群跡出土

2000/11/15 発掘トピック(列島いにしえ探訪) 読売新聞大阪

奈良・宮の平遺跡で9000年前の竪穴住居跡

2000.11.14 The sankei shimbun

 西日本で初めてストーンサークル(環状列石)が見つかった奈良県川上村の宮の平遺跡で、縄文時代早期とみられる竪穴住居跡や屋外の炉跡、石器など多数の生活遺構が新たに見つかり、県立橿原考古学研究所が十四日、発表した。

 押型文土器の形式から、約九千−八千年前と判明。竪穴住居の構造が堅牢(けんろう)だったことから、長期間にわたる定住跡だったらしい。紀伊半島では三重県美里村の西出遺跡に次ぐ規模。

 住居跡らしいすり鉢状の穴は直径三−五メートル、深さ五十センチほどで、床部分からは約四十点の石皿や石鏃(ぞく)、押型文土器などが残っていた。計十五基見つかったが、同時に存在したのは三基程度とみられる。

 紀の川の支流、吉野川上流域で、東向きに張り出した南北約五十メートル、東西約四十メートルの河岸段丘上に位置。標高約二八○メートルで、約八メートル下の別の段丘では十月、縄文中期末−後期初め(約四千年前)のストーンサークルが見つかっている。

 住居わきには、縄文時代早期の特色である石積みの屋外炉を備え、採取した動植物を調理したらしい。日当たりが良く北側には水源となる小川もあるなど、小規模な集落で狩猟・採集生活を送った当時の生活がうかがえる。

宮の平遺跡 −丹生川上神社上社本殿基壇調査成果を中心として−(1999年12月16日)
畿内最古(一万年前)の縄文祭祀遺跡 丹生川上神社上社跡地(宮の平遺跡)


三内丸山遺跡は、今から約5500年前〜4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。

三内丸山(さんないまるやま)遺跡が国特別史跡に指定

2000年11月18日(土) 東奥新聞

 縄文の最大集落として国内外に情報を発信し続ける青森市の三内丸山遺跡が十七日、特別史跡に指定されることが決まった。同日午後、文化財保護審議会が大島理森文部大臣に答申した。縄文遺跡としては、大湯環状列石(秋田県鹿角市)以来四十四年ぶり三件目。県内では初の指定で、平成四年から九年間にわたる発掘調査の成果があらためて評価された。また、平安後期の環濠(ごう)集落として知られる浪岡町の高屋敷館遺跡が史跡に指定されることになった。史跡指定は県内で十四件目。

 特別史跡は「遺跡の国宝」と位置付けられているもので「史跡の中でも特に価値があり、日本文化の象徴であること」(文化庁)が条件となる。全国で五十八カ所が指定を受けており、三内丸山は平成三年の吉野ケ里(佐賀県)以来九年ぶりとなる。

 三内丸山の場合には、キャッチフレーズとなっている「大きい(遺跡の規模)、長い(集落の継続期間)、多い(遺物の出土量)」という特色はもちろん、DNAやAMS(最新の放射性炭素年代測定)など自然科学の積極的導入によって(1)縄文の社会組織(2)生活(3)自然とのかかわり−など「縄文の生活」を具体的に解明したことが評価された。

 三内丸山が史跡指定を受けたのは平成九年三月で、特別史跡昇格までに要した期間は三年。これに対して、過去の特別史跡の平均昇格期間は約二十二年だから、三内丸山の“スピード出世”ぶりがよく分かる。県教委文化課によると、特別史跡指定に伴う新たな予算措置はないが「国宝級の遺跡ということで格が大幅に上がり、国内外での高い評価につながる」(文化庁記念物課)という。

 高屋敷館遺跡は県埋蔵文化財調査センターが同七年まで二年間にわたって調査。百棟以上の竪穴住居跡と、集落を外敵から守るために築かれた高さ一メートル、長さ百八十八メートルに及ぶ土塁と環濠が見つかった。

 両遺跡の指定については、文部省が近く官報に告示し、正式決定となる。

 特別史跡は三内丸山遺跡のほか、白虎などの四神図と天文図が古墳内部の壁と天井に描かれた「キトラ古墳」(奈良県明日香村)と、土器や青銅器など多量の大陸系文物が発掘された弥生時代を代表する大規模環濠集落の「原の辻(はるのつじ)遺跡」(長崎県芦辺町・石田町)。

 また、初期大和政権の中心地に築造され、三十三面の三角縁神獣鏡が見つかった「黒塚古墳」(奈良県天理市)や、平城宮東隣に建立された奈良時代を代表する大寺院で、大和国分尼寺である法華滅罪之寺として知られる「法華寺旧境内」(奈良市)など十二件を史跡に指定するよう求めた。

ムラ長級の墓の可能性 三内丸山遺跡から3基の土坑墓

August 28, 1999

 国史跡の三内丸山遺跡(青森市)南西斜面で確認された縄文中期の環状配石遺構の下層から、27日までに大人の墓である「土坑墓」3基が重なるような形で見つかった。同遺跡ではこれまでにも多数の土坑墓が出土しているが、宗教的な性格が強い特別な場所の環状配石遺構から出土した点などから、同遺跡発掘調査委員会は「大規模集落・三内丸山のムラ長など、有力者が埋葬された可能性が高い。すでに階層社会が存在していたことを裏付ける貴重な資料」と見ている。27日、視察した小林達雄・国学院大教授(考古学)は、「高い階層の人が世襲的に埋葬されたのではないか」などと指摘している。

 環状配石遺構は7基あり、県教委の調査で縄文中期中葉の地層から確認された。南北に直列し、いずれも直径約4.2メートルの円形もしくは弧の形をしている。

 このうち最も残存状態の良い南端部の遺構の下層を精査したところ、長さ約2メートル、幅約1メートルの土坑墓3基が折り重なるように出土した。北側に隣接する遺構の下層からも土坑墓とみられる遺構が2基出土した。環状配石遺構に沿う形で、幅5、6メートルの道路が、遺跡中心部の大型掘立柱建物跡の方向に百数十メートルにわたって延びていることも確認されている。

 この日、視察した小林教授は「1つの環状配石から重複して3基もの土坑墓が出ていることから、同じ場所への埋葬にこだわる理由があったと考えざるを得ない。血縁関係にある高い階層の人物が世襲的に埋葬された可能性が高い」と評価した。

 また、同遺跡発掘調査委員会委員長の村越潔・青森大学考古学研究所長は「階層社会が存在したと考えて間違いないだろう。当時の集落の性格を探る上で重要だ」と話している。


石川・真脇遺跡で縄文中期の板敷き墓が出土

2000.11.30 The Sankei Shimbun

 石川県能都町教育委員会は三十日、同町真脇の真脇遺跡で、墓穴の底に板を敷いた縄文時代中期(約四千五百年前)の「板敷き土壙墓(どこうぼ)」が出土、板の上から屈葬された人骨も見つかったと発表した。町教委によると、特殊な立場の人物を埋葬していたとみられ、縄文時代にも階層社会があったことを示す発見という。

 同時期の三内丸山遺跡(青森県)で墓穴から木片が出土し、弥生、古墳時代の木棺墓のように木材を使った墓が縄文時代中期にもあった可能性が指摘されていたが、板と人骨が実際に埋葬された状態で見つかったのは初めて。

 真脇遺跡は縄文前期から晩期にかけての長期定住型の遺跡。調査に参加した泉拓良奈良大教授(考古学)は「木棺墓が腐食して底板だけが残った可能性もある」としている。

 同教委によると、墓は四基で、ほぼ南北と東西に向かって配置されており、それぞれ長さ百四十−百五十センチ、幅九十−百十五センチのだ円形。うち三基の底にスギ材やクリ材の板が敷かれていた。

 このうち、一基では屈葬された人骨の右足、腰など下半身や、赤い漆塗りの装身具とみられる副葬品が、スギ材の上で確認された。人骨は推定身長約一六○センチの成人男性とみられる。

 墓の近くには、東西に木の柱を並べた木柱列の跡も見つかり、聖域を示していた可能性も出ている。

 泉教授は「埋葬された人物は後代の人にとって信仰の対象だったことも考えられる。真脇遺跡はイルカ漁などの豊かな資源で定着型集落を営んでおり、その中でリーダーが出てきたのではないか」と話している。
石川県真脇遺跡出土品
能登・真脇遺跡 縄文時代のイルカ漁のムラ by邪馬台国大研究


桜町遺跡 - 縄文技術で高床建物復元

1999年05月07日 共同通信社

 縄文時代中期末(約4000年前)の高度な建築技術を示す、加工跡を残す木材など貴重な資料を多数出土した富山県小矢部市の桜町遺跡で、縄文時代の道具や組み上げ方法で高床式建物を復元する試みが進められている。

 縄文人の建築方法の確認や建築にかかった時間を探るのが狙い。『実験考古学』ともいわれる全国初の試み。

 復元作業は小矢部市教育委員会と、建築関係の職人を養成する専門学校『富山国際職芸学院』の生徒ら約40名が担当する。設計も学院の上野幸夫教授が請け負った。

(約12,000年前の縄文時代草創期から約 2,300年前の 縄文時代晩期まで、ほぼ縄文時代全期を通しての遺跡。)


「縄文の壁」…北海道で建材出土

2004/09/10 読売新聞 Yomiuri On-Line

 北海道斜里町の来運(らいうん)1遺跡で、縄文時代中期(約4000年前)の国内最古の壁立式平地建物の壁とみられる建材が見つかったと、同町教委が10日、発表した。

 壁立式は、竪穴式や高床式と異なり、平地にパネルのように壁を立てる様式。縄文期の平地建物に使われた壁は、これまで見つかっていなかった。

 建材は、炭化した棒状の木材が格子状に組み合わされた形で出土した。上部に薄く火山灰の層があったことから、泥が建材に塗られていたと考えられる。

 東北芸術工科大(山形市)の宮本長二郎教授(古代建築史)は「全面発掘して、建物の構造を明らかにできれば、竪穴式と平地式の建物からなる縄文時代の集落構造の研究が大きく進展する」と期待している。


奥三面遺跡群、11月にも水没/新潟・朝日村

2000.10.02 asahi.com

 新潟県北部の朝日村で見つかり、縄文時代の大規模な土木工事跡などが注目された奥三面(おくみおもて)遺跡群が、2日から始まったダムの貯水で11月中にも水没することになった。

 19カ所に点在する遺跡群は11年間にわたって調査された。約3500年前から2400年前までの集落跡から、砂利敷きの道や護岸工事跡、岩盤をくりぬいた水場など貴重な遺構が見つかり、当時の土木技術の水準の高さが明らかになった。遺跡一帯は、三面川に造られた県営奥三面ダムの水没予定地内にある。

 朝日村奥三面遺跡調査室は「当時の村づくりの様子がわかり、青森市の三内丸山遺跡に匹敵する遺跡だ」と話す。延べ2万人の見学者が訪れており、水没を惜しむ考古学ファンは多い。

奥三面遺跡群で落とし穴などを公開

1998年07月08日(水)テレビ新潟

 岩船郡朝日村で発掘調査が行われている奥三面遺跡群で今日公開された2つの遺跡から縄文時代の狩猟生活をうかがわせる落とし穴が見つかった。

 公開されたのは全部で19ある奥三面遺跡群のうち、三面川左岸の河岸段丘にある2つの遺跡で、このうち先月発掘調査を終えた本道平遺跡では、カモシカなどの獲物を捕るための落とし穴が全部で27個見つかった。 穴は大きいもので深さが1メートル以上あり、けもの道に沿って作られたと考えられている。

 また、今も調査が続いている元屋敷遺跡では、三面川から運んだ石を積み上げた遺構やお墓も多数見つかっており、縄文時代の文化や儀礼の一端がうかがえる。

 奥三面遺跡群は昭和63年から発掘調査が行われているが、2年後の平成12年には奥三面ダムの完成とともに水底に沈むことになっている。

新潟県朝日村奥三面の元屋敷遺跡by ようこそ!水野の”縄文写真館”


国内最古の草ぶき壁出土=縄文末期の掘っ立て柱建物か−新潟

2000年11月20日[時事通信社]

 新潟県埋蔵文化財調査事業団は20日、約2500年前の縄文時代晩期終末の集落跡として発掘調査が進められている同県加治川村の青田遺跡から、当時の住居である掘っ立て柱建物のものとみられる国内最古の草ぶき壁の一部が出土したと発表した。

 縄文時代の建物の壁としては、富山県小矢部市の桜町遺跡で木枠のみが出土した例があるが、草ぶきまで残った形で見つかったのはこれが初めて。

 同事業団によると、壁は倒れた状態で出土し、縦1.5メートル、横1.4メートルで、格子状に組まれた木枠にアシとみられる草がふかれていた。 


木村阪大名誉教授が刻画を解説、フゴッペ洞窟シンポ開幕

2000年11月19日[北海道新聞]

 【余市】後志管内余市町の国指定史跡「フゴッペ洞窟(どうくつ)」の発見五十周年を記念し、古代人が残した「刻画(こくが)」などをめぐるシンポジウム(北海道開拓記念館主催)が十八日から二日間の日程で、同町中央公民館で始まった。

 洞窟(幅六m、高さ五m、奥行き七m)は一九五○年に発見された。続縄文時代(約一五○○−二○○○年前)の遺跡で、内部には、羽をまとったシャーマンらしい人物や動物、舟など二百以上の刻画があり、二世紀ごろに描かれたとみられている。

 十八日は考古学愛好者など約百人が参加。木村信重・大阪大名誉教授が記念講演し、刻画にあるさかずき状に掘られた直径数cmの穴について「女性や命の再生を表現したものとみられ、神聖な場所だったことを示している」と解説した。

 続いて、洞窟を最初に発見した当時中学生の大塚誠之助さん(65)=札幌在住=と、その兄で札幌南高郷土研究部員だった大塚以和雄さん(68)=同=の二人が発見時の様子を説明。「土器の破片を見つけたが、あの時はこれほど重要な遺跡になるとは思ってもみなかった」などと話した。

 十九日は午前九時から小川勝・鳴門教育大助教授(先史美術)や佐々木史郎・国立民族学博物館教授(民族学)らの研究報告などが行われる。


漆製品

(3)世界最古/北海道で9000年前の遺物 2004年09月03日 東奥日報

 「まさか、何かの間違いではないか」

 二〇〇一(平成十三)年三月、北海道・南茅部町埋蔵文化財調査室の阿部千春室長は、米国の研究機関から届いた報告を見て目を疑った。同町の垣ノ島(かきのしま)B遺跡から〇〇年八月に出土した漆製品の年代測定結果が「九千年前」と記されていたからだ。

 国内最古といわれる石川県・三引(みびき)遺跡の漆塗り櫛(くし)は約六千八百年前、世界最古とされていた中国浙江省の河姆渡(かぼと)遺跡の漆製品は約七千−六千四百年前。今回の放射性炭素分析による測定結果は、二千年以上も古い。

 「すぐに別の研究機関に測定を依頼した。それでも、やっぱり九千年前だった」と阿部室長。

 〇一年六月に公表されたこの事実は大きな衝撃となって国内外に伝わり、漆文化が中国から渡ってきたとの大陸渡来説に一石を投じることになった。

 垣ノ島B遺跡の漆製品は、腕輪などの装飾品で、縄文早期の墓から出土した。同調査室の小林貢学芸員は「漆製品は、一本一本の糸に漆を塗って加工している。技術がこのレベルに達するには、いくつもの発展段階を経ているはず。漆が使われ始めた時期は、九千年前よりもさらに古いことになる」と強調する。

 この「世界最古の漆」は、数奇な運命をたどった。〇二年十二月二十八日深夜、遺物を保管していた事務所で火事が起き、この漆製品を含む数万点が焼失してしまったのだ。「言葉もなく、立ちつくすだけだった」(小林学芸員)と関係者たち。だが、小さな救いが見つかった。焼け跡に数センチ大の漆があった。今は、わずかに焼け残った資料を基に関係機関が研究を続けている。

 果たして漆文化は中国から渡来したのか、日本独自のものなのか−。

 「いずれ垣ノ島より古い漆が必ず発見されるだろう。より古い漆が見つかってこそ、漆文化の地域的な広がり、技術の変遷が分かってくる」と阿部室長は言う。河姆渡遺跡の研究を担当している浙江省文物考古研究所考古二室の王海明・主任研究員は「漆の源流がどこにあるのかというテーマが、両国の研究で解明されることを期待する」と話している。

               ◇

<メ モ> 浙江省文物考古研究所によると、中国最古の漆製品が確認されている河姆渡遺跡では、これまでに約7000年前の層から漆が塗られたとみられる筒が出土。アジアの漆文化研究のシンボルとなっている赤漆塗りの木椀(わん)は、約6400年前の層で見つかった。だが、漆に関する出土品はまだ少ないという。漆の起源については「今後の発掘で中国から垣ノ島B遺跡より古い漆が見つかる可能性がある。現時点では判断できない」というのが研究者たちの共通した見方となっている。

22 よみがえる漆文化(1) 九千年前副葬品に痕跡2003.09.02  デーリー東北新聞/縄文紀行 北日本の遺跡〜実像に迫る

 漆工芸は日本人がはぐくんできた伝統文化だが、従来は中国から伝わった漆の技術が日本列島で普及するのは、漠然と縄文時代の後・晩期あたりと考えられていた。近年の考古学の進歩によって、ようやく縄文の漆の実態が明らかにされてきている。

 ◎珍しい装飾漆器

 揚子江流域にある中国の河姆渡(かぼと)遺跡で、約七千年前の漆塗りのお椀(わん)が見つかっており、このことから漆の技術は何らかのルートで、大陸から日本へ伝わったというのが、これまでの一般的な見方だった。しかし、そんなに単純な図式でもないようである。

 まず最初に、その扉を開いたのは、このシリーズでも紹介したが、福井県・鳥浜貝塚から出土した「赤色漆塗り櫛(くし)」をはじめとする大量の漆製品だ。櫛は約五千五百年前のもの。これによって、日本でも縄文前期(六○○○―五○○○年前)の時点で、既に漆技術が確立されていたことが分かってきた。

 「このようなタイプの漆器は珍しい。多分、全国でも一番古いのではないか」と、野辺地町立歴史民俗資料館長補佐の駒井知広さんは言う。

 野辺地町の向田18遺跡(縄文前期)で発掘された「赤漆塗り突起付き木胎漆器」。取っ手の部分に装飾用の巻き貝がはめ込まれており、なかなか手が込んでいる。青森県内で縄文の漆といえば亀ケ岡文化の是川遺跡に代表されるように、後・晩期の独壇場だが、最近はこうした前期の発見例も増えている。

 ◎世界最古か?

 その前期より古い早期(一○○○○―六○○○年前)の時点で、縄文人が既に漆を使用していたことが分かってきた。その根拠とされたのが北海道・南茅部町の垣ノ島B遺跡で発掘された漆製品。この遺跡は以前、取り上げた同町ハマナス野遺跡のすぐ隣に位置している。

 土壙墓に埋葬された、性別不明の被葬者の副葬品がそれである。漆を塗った糸を加工して編まれたヘアバンド、肩当て、腕輪、足飾りとみられる装飾品。腐食してその原形はとどめていないが、いずれも遺体の頭部や両肩、両腕、足にあたる個所を覆うような状態で、漆の痕跡だけが見つかった。

 何と、この漆製品に付着していた炭化物から約九千年前という値が出てきたのだ。同町が米国の民間機関に依頼して、実施した放射性炭素年代測定法によるもので、その分析結果から約九千年前(較正年代)という驚くべき年代が割り出された。

 南茅部町はこれを平成十三年に発表したが、大きな反響を呼んだことはいうまでもない。発表以前は約六千五百年前と見られていた副葬品が、一挙に二千五百年も古くさかのぼることになったのだから。

 ◎失われた国宝級財産

 南茅部町埋蔵文化財調査室の阿部千春室長によると、この副葬品は赤い漆を染み込ませた糸を素材としており、一本の糸を軸に、もう一本の糸を巻きつけるといった手の込んだ加工が施されている。交易品、それとも既に垣ノ島の縄文人はこれほど高度な技術を持っていたのか。

 九千年前といえば縄文の早期前半に当たる。漆文化が栄えた是川の集落が誕生する六千年前以上のことであり、道南と東北地方を舞台とする円筒土器文化圏もまだ成立していない。しかも、河姆渡遺跡出土の漆製品より二千年も古いのだ。

 少なくとも現時点で、世界最古の漆製品であることは間違いない。そうなると漆は縄文人が発明した可能性もあり、日本起源説の証拠となるわけで、これまで中国とされてきた漆の原産地を再考する必要性も出てきている。果たして漆のルーツはどこなのか。

 昨年暮れ、この漆製品は同町埋蔵文化財調査団事務所の全焼に伴い、多くの貴重な出土品とともに焼失してしまった。東アジア地域における漆文化の本格的な検討が進められようとしていた矢先の出来事だけに、国宝級の財産が失われたことは残念の一語に尽きる。 (編集委員・江波戸 宏)

〜ズームイン〜

 漆と炭素年代

 世界最古とされる垣ノ島B遺跡出土の漆副葬品も、年代を特定するに当たって「放射性炭素年C14測定法」が採用されている。遺跡から出土する遺物に付着した炭素から、その実年代を探る自然科学的な手法だ。

 この漆製品から得られた炭素年代は八○一○、誤差+−五○年というもので、それに補正を加え、割り出されたのが約九千年前の実年代(較正年代)というわけである。地元関係者の多くは半信半疑だったらしい。このため、同町は別のサンプルで測定をやり直し、ようやく発表にこぎつけたという経緯も。

 最近は考古学の分野でも、炭素年代を採用するケースが増えているが、これを疑問視する考古学関係者も依然として多い。最大のネックは汚染資料が使われる危険性があること。カビがついたり、現代の痕跡が紛れ込んだりした出土遺物が資料として使われたらどうなるか。この手法に頼る限り、資料の安全性が大前提となるわけで、資料保存のあり方や発掘方法の改善が今後の課題となってくる。

〜縄文雑記帳〜

 教訓残した南茅部の火災

 南茅部町には80以上の縄文時代遺跡があり、文字通り道南における“縄文の里”である。円筒土器文化圏内にあり、三内丸山との関連性も注目されていた。ところが、町埋蔵文化財調査団事務所の火災によって、一瞬にして貴重な出土品数万点が灰になってしまったのだ。

 めったにない特異なケースと思っていたが、文化庁の岡田康博文化財調査官によると、こうした埋蔵文化財の収蔵施設火災は「結構、ある」らしい。今年に入ってからも2件発生しているという。このため文化庁では南茅部町のケースを受けて、全国の自治体に火災防止の通達を出している。

 こうした施設を抱える自治体も油断は禁物。対策としては防火体制の充実のほかに、遺跡出土資料を分けて順番をつける収納方法に改善する、十分なバックデータをとっておく―ことなどが考えられるが、関係市町村にしてみれば予算が伴うだけに難しい問題。基本は燃えてしまってから後悔するより、まず火事を出さないことだろう。

23 よみがえる漆文化(2) 国内最古級の製作道具2003.09.09  デーリー東北新聞/縄文紀行 北日本の遺跡〜実像に迫る

 湯のみ茶わんのサイズを一回り大きくしたような土器で、壁面はぱっくり割れている。複製品だが、土器の内部には一面に黒っぽい漆の痕跡が付着している。外側にもその垂れ跡がついており、だれが見ても漆溶液の入れ物と分かるはず。松江市の夫手(それて)遺跡で見つかった漆容器である。

 ◎貴重な夫手の容器

 千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館(以下、歴博)の第一展示室に特設された、縄文の漆を紹介するコーナー。そこには漆工芸の極致とされる、山形県の押出(おんだし)遺跡から出土した漆塗土器や、八戸市・是川遺跡の籃胎(らんたい)漆器の複製も展示されている。それらと一緒に、壊れた夫手の土器も飾られているが、いささか場違いの印象もないではない。

 漆容器。ウルシの採取から運搬、精製、塗りつけの工程で使われる道具の総称だが、それ自体は珍しいものでない。是川遺跡でも、漆が固まって入った容器が見つかっているように、東北地方を中心に発見例が報告されているからだ。しかし、ほとんど縄文の後期・晩期にかけてのものだ。

 夫手の土器が注目を浴びた理由は、その年代の古さにあると言っていいだろう。歴博が容器に付着した漆を「放射性炭素年代測定法」で、測定したところ浮かび上がってきた実年代(較正年代)は約六千八百年前というもの。「縄文前期初頭」。これは中国・河姆渡のおわんとほぼ同時代に当たる。

 ◎赤い顔料も検出

 鳥浜貝塚の出土品や、世界最古とされる南茅部町の副葬品にしても、それが発掘された遺跡で作られたものか、どうかまでは特定できない。つまり、移動性(交易品)の要素を考えなければならない性格の資料ということにもなる。事実、鳥浜貝塚でも初期の漆塗土器に関しては、他圏域から搬入された可能性もあるらしい。現地で取材した際、地元関係者からそんな話も聞いている。

 夫手の容器は「製作要具」そのものであり、そこで直接、漆製品が作られていたことを意味する。しかも、国内最古級の資料という点が重要なのである。

 「樹液の採取用なのか、精製したり、漆を塗ったりする際の要具なのか、どうかは分からないが、限りなく、在地で漆製品が作られていたことを裏付けるもの。移動性も考慮に入れなくていい、優良な資料」

 歴博の長嶋正春助教授はこう解説する。要するに、縄文の前期初頭段階で、夫手は既に漆製品の生産拠点だったというわけである。問題の容器からは赤い顔料も検出されているが、「着色や精製などにも高度な技術がうかがえる」と言う。

 ◎栽培も行われていた?

 おそらく、地元では精巧な土器を焼く文化が形成されていたに違いない。粗末な土器ならわざわざ漆を使う必要もないからだ。それも定住生活を前提にして成り立つもので、夫手の漆容器から「さまざまな背景が見えてくる」と長嶋さん。

 ウルシの木に分泌される天然樹脂を採取するのは、夏場の時期に限定され、一本の木から採れる樹液の量は少ない。すぐ固まってしまうので貯蔵や運搬も難しい。とすれば、夫手の縄文人が加工に必要な漆を確保するため、ウルシの木を植えていたことは十分考えられよう。

 「半栽培か、どうかは別にしても居住地に近い場所で、ウルシを栽培管理していた」と長嶋さんはみている。漆は総合的な技術とされる。逆の表現をすると、そのくらいの下地がなければ漆が技術として確立されることはなかったとも言える。このウルシ栽培、縄文時代に行われていたとするクリやヒエなど有用植物の栽培説を補強する材料として、注目される。

 大武遺跡(新潟県)では、約六千六百年前(較正年代)の漆製品が見つかっている。長嶋さんは言う。「古さを比べる競争には意味がない。大事なことはさらに新しい資料の発掘によって、縄文文化を担った漆文化を解明することです」(編集委員・江波戸 宏)

〜ズームイン〜

 接着剤から塗料へ?

 漆はどのようにして発明されたのか。ルーツは不明だが、その発明者が縄文人だったと仮定しよう。彼らは自然採集を生業とする人たちである。野山を駆け回っているうちに経験で、ウルシの木から染み出ている樹液に、強力な粘着性があることを知ったのだろう。これは何かに利用できる、勉強熱心な縄文人はそう考えたはずだ。

 そこで、考案されたのがウルシの樹液を使って、棒の先にやじりなどを付け固定する方法だったのだろうか。これによって獲物を捕獲する狩猟技術は飛躍的にアップしたはずだが、いきなり、塗料としてデビューしたというより、接着剤が最初の出発点だったと考える方が分かりやすい。

 漆をためる容器の表面に、硬い防腐・防水性のある塗膜ができ、それが、器を美しく見せる効果を持つことにやがて気付きだす。これが接着剤から塗料へ転換利用される瞬間だったのかもしれない。最初のころ、漆塗りの主な対象は土器だが、次第に木製品にも拡大していったようである。

〜縄文雑記帳〜

 是川の優品「籃胎漆器」

 西洋人が漆器のことをジャポンと呼んだように、海外から見た日本は漆の国だった。そんな漆文化の基礎をつくり上げてしまう縄文人はやはり、ただ者ではなかった。八戸市の是川遺跡から出土した、縄文晩期の繊細かつ優美な漆製品を見てもその一端がうかがえる。

 重要な出土遺物は八戸市博物館が発行した「縄文の美」(土器編と図録編)で紹介されているが、“是川ワールド”の雰囲気に浸りたいと希望する人には、同市の縄文学習館と、隣接の歴史民俗資料館を訪ねてみることを勧める。

 漆製品の中でも特に有名なのが籃胎漆器。薄手に作られたカゴをしんにして漆を塗ったもので、市縄文学習館・小林和彦副参事の表現を借りると「単純だが、女性的な繊細さと優しさを持つ優品で、漆の質感がそのまま残っている」。ほかにも土器をはじめ弓、耳飾り、腕輪、櫛(くし)などといったようにバラエティーに富んでいる。近年も赤漆塗樹皮製品などの漆器や装飾品など貴重な発見が相次いでいる。

世界最古級の漆製品が焼失 文化財調査団事務所で火事2002年12月29日 The Sankei Shimbun

 28日午後11時40分ごろ、北海道南茅部町大船の同町埋蔵文化財調査団事務所から出火、木造平屋約620平方メートルを全焼した。同町の垣ノ島B遺跡から出土した、世界最古とみられる約9000年前の漆製品などの貴重な遺物数万点を焼失したことが29日分かった。

 焼失した漆製品は、漆の糸で加工した木製の腕輪などの副葬品6点で、2000年5−8月に同遺跡の土壙墓(どこうぼ)から出土。放射性炭素を使った年代測定により、縄文時代早期のものと判明しており、現段階では漆製品としては世界最古とみられている。

 同町教委・埋蔵文化財調査室の阿部千春室長(43)によると、ほかに焼失したのは漆の注口土器、赤ん坊の足形付き土版、香炉型土器など。阿部室長は「日本の文化と歴史を知る上で非常に貴重な史料だった。大きな損失だ」と話している。

 森署の調べでは、火事によるけが人はなかった。事務所は近くの発掘現場から出土した土器などを磨く作業所で、28日は午前10時から午後1時まで調査員1人が作業していたが、出火当時は無人だった。

 事務所は暖房も含め全面的に電化されており、火の気はないという。同署が出火原因などを調べている。

 垣ノ島B遺跡>  北海道の南部、南茅部町の垣ノ島川右岸に形成された縄文時代早期の集落跡。国道のバイパス工事に伴い、同町教委が2000年5月から発掘を始めた。これまでに竪穴住居5軒と土壙墓(どこうぼ)92基など約1万3000点が出土している。

 2000年8月に土壙墓から見つかった被葬者の装飾品とみられる漆製品が、分析の結果約9000年前のものと分かり、昨年6月、南茅部町教委が世界最古と発表した。同遺跡に近い大船C遺跡は、縄文中期末の大規模集落跡が出土したことで知られる。

9000年前の縄文早期/腕輪など副葬品6点/起源論争に一石

2001年06月15日(金)山陰中央新報

 北海道南茅部町教育委員会は14日、同町の垣ノ島B遺跡で出土した腕輪などの漆製品が、放射性炭素を使った年代測定の結果、約9000年前(縄文時代早期)のものと分かったと発表した。

 同町教委によると、これまで日本最古の漆製品とされてきた新潟県の大武遺跡の漆製品(約6600年前)より2000年以上古い。

 同町教委や札幌国際大の吉崎昌一教授(考古学)によると、中国・長江の下流域の河姆渡(かぼと)遺跡(約7000年前)の漆製品よりも古いため、現段階では世界的にも最古とみられ、漆文化の起源をめぐる論争に一石を投じる発見といえそうだ。

 同町教委は昨年8月の出土発表の際、地層などから年代は約6500年前、縄文時代早期末と推定した。その後、遺体周辺の土と漆を放射性炭素を使い分析、同時に出土した土器の形式による調査も行い、約9000年前と確定した。

 漆製品は漆の糸で加工した木製の副葬品6点で、大きさ縦1.4メートル、横1.2メートル、深さ約60センチの土坑墓(どこうぼ)内から出土。屈葬された遺体の頭、腕、肩、腰の部分から見つかった。いずれも装飾品で、頭部は髪飾り、腕の部分は腕輪とみられる。最大の出土品は縦40センチ、横20センチ。

 同遺跡は縄文時代早期の集落跡とされ、昨年5月の発掘開始から竪穴住居5軒や土坑墓92基など、約1万3000点の出土品が見つかっている。

 同町教委は「縄文時代早期にさかのぼり、中国と日本で、同じような漆文化があった。大陸との関係を考えるのに良い資料だ」と話している。

日本最古級の漆製品が出土/北海道の遺跡

2000年08月22日(火)山陰中央新報

 北海道南茅部町の垣ノ島B遺跡で、縄文時代早期末(約6500年前)の漆製品が土坑墓(どこうぼ)の中から見つかり、同町教育委員会が21日、発表した。

 同町教委によると、縄文時代早期の漆製品の出土は極めて珍しく、「新潟県の大武遺跡と並んで日本最古級の漆製品の発見」としている。

 土坑墓は縦1.4メートル、横1.2メートル、深さ約60センチ。出土した漆製品は赤茶色で、屈葬された埋葬者の遺体の頭、腕、肩、腰にあたる部分から計6点が出土した。

6500年前の漆製品出土 縄文早期 日本最古級/北海道の遺跡 くし状、腕輪など

2000.08.21 The Sankei Shimbun

 北海道南茅部町の垣ノ島B遺跡で、縄文時代早期末(約六千五百年前)の漆製品が土坑墓(どこうぼ)の中から見つかり、同町教育委員会が二十一日、発表した。同町教委によると、縄文時代早期の漆製品の出土は極めて珍しく、「新潟県の大武遺跡と並んで日本最古級の漆製品の発見」としている。

 土坑墓は縦一・四メートル、横一・二メートル、深さ約六十センチ。漆製品は赤茶色で屈葬された埋葬者の遺体の頭、腕、肩、腰にあたる部分から計六点が出土した。全面が漆塗りされた木製の装飾品と考えられ、腰の部分からの出土品が最大で縦四十センチ、横二十センチあった。頭部から見つかったのはくし状で、腕のものは腕輪とみられ、保存状態は良好という。

 垣ノ島B遺跡は国道のバイパス工事に伴い五月から発掘が始まり、これまでに竪穴式住居や土坑墓など遺物約一万一千点が出土、縄文時代早期の集落跡とみられている。

 同町教委の阿部千春埋蔵文化財調査室長は「縄文時代早期からこの地域に高い文化があり、漆文化のルーツを考える上で貴重な発見だ」と話している。


松江の夫手遺跡出土の漆容器

2000年01月06日(木)山陰中央新報

変わる考古学の年代観
測定法に高精度の技術

 松江市の夫手(それて)遺跡で見つかった漆の容器を、約6.800年前と判定したのは、放射性炭素年代測定法(C14法)の一種で、近年精度が向上した加速器法(AMS法)による。

 考古学で時間を測るモノサシは土器形式の変遷によって古さを比較する相対年代とC14法など実年代を示す2つ。C14法は誤差が大きく、「一つの目安」程度の扱われ方だった。

 しかしAMS法の測定精度が第2世代機の登場で飛躍的に向上。加えて木の年輪データなどを使って補正する技術が確立され、正確な実年代を出せるようになった。

 昨年4月、青森県の大平山元遺跡で見つかった土器が世界最古(約1万6千500年前)と判定されたのをはじめ、この新技術により考古学の年代観は次々と塗り替えられつつある。

 国立歴史民俗博物館の永島正春助教授(考古学)は「中でも漆はこの方法に最もふさわしい資料で、その遺跡の年代を特定する決め手になる」という。

 今村峰雄同教授(年代測定)は「将来、実年代という一つの時間軸に統一できる日もそう遠くないだろう。まさに革命的なこと」と話している。

世界的比較に有効

 鈴木公雄・慶応大文学部教授(考古学)の話

 漆をためる遺物は、東北地方を中心に縄文後期、晩期のものは結構ある。しかし、今回は漆の使用例としても一番古いものの一つだ。縄文早期に漆技術の萌芽(ほうが)があっていいと思っているので、今後の発見を待ちたい。この時期は、世界各地で植物利用の文化が進んだ時代で、精度の高い年代測定法でデータの書き換えが進めば、世界的に比較する場合に非常に有効だ。


(2)技術の粋/結歯式櫛、太平洋側にも

2004年09月022日(木) 東奥日報

 石川県田鶴浜町は日本海へ突き出た能登半島東岸にある静かな農漁業の町。ここの三引(みびき)遺跡で一九九六(平成八)年、黒茶褐色に光る櫛(くし)が出土した。

 「縄文前期の土器が多種類出土して驚いたが、発掘の最後に漆器という期待以上のものが出てきた」。同県埋蔵文化財センターの安中玲美主事は、今も興奮を隠せない。

 加茂遺跡(千葉県)の漆は土器の小片だったが、七五(昭和五十)年に福井県の鳥浜貝塚で約六千年前の赤漆塗りの櫛など、二百点以上の漆器が出土した。その後、山形県の押出(おんだし)遺跡など、日本海側を中心に各地で縄文前期の漆製品が見つかるようになった。

 三引遺跡の櫛は測定の結果、六千八百年前、前期初頭のものと判明。形状のはっきり分かる漆製品としては最古だ。

 縄文の櫛には刻歯式と結歯式の二種類がある。前者は木を削った“一木造り”で、鳥浜貝塚の櫛はこれ。後者は、一本ずつ作った歯を糸で縛り、根元を薄い板で挟んで漆で固め、漆を重ね塗りして装飾を施したもの。

 三引遺跡の櫛も結歯式。その構造の複雑さ、造形の繊細さ、少なくとも三層の漆を塗るという仕上げの確かさなど、縄文前期の製品とは思えないほど見事な出来栄えだ。

 神奈川県小田原市の羽根尾(はねお)遺跡でも九三(平成五)年から八年にわたる発掘で、結歯式の赤漆塗り櫛が出土した。十一本の歯を糸で結い、黒漆で固め、赤漆で彩色した美しい櫛だ。

 年代は三引遺跡よりやや新しく、鳥浜貝塚と同じ約六千年前。発掘を担当した玉川文化財研究所代表取締役の戸田哲也さんは「舟の櫂(かい)など、鳥浜と共通する遺物も少なくない。縄文前期、漆の技術は既に日本海側と太平洋側の両方に定着していた」と分析する。

 さらに羽根尾遺跡では、二十七点の漆塗り木製品が出土した。ほかに多数の破片もある。また、いかにも祭祀(さいし)用らしい無紋の漆塗り土器、幅五ミリの樹皮を巻き付けて黒漆で固定した弓も出土した。この弓は是川遺跡(八戸)の飾り弓の原型を思わせる。「縄文前期の漆利用の幅広さ、豊かさを見ることができる」と戸田さんは言う。

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<メ モ> 縄文時代から漆の赤色顔料に用いたベンガラ(第二酸化鉄)には、今別町の赤岩に代表される鉱物のほかに、パイプ状粒子の特殊なベンガラもあることが分かってきた。三引遺跡の結歯式櫛にもパイプ状ベンガラが使われている。顕微鏡調査の結果、水中に生息する藻類の混入が認められた。パイプ状ベンガラは水路などにたまる鉄バクテリアから作ると考えられ、赤色顔料の起源の問題に一石を投じた。

13 鳥浜貝塚 前期に高度な漆技術

2003.07.01 デーリー東北新聞

 出張の機会をつかまえて、福井県三方町の「鳥浜貝塚」まで足を延ばしてみた。豊かな生活をした、縄文人の生活と暮らしぶりがよく分かる縄文時代前期の遺構だ。

 ◎特殊な低湿地遺構

 低湿地で、しかも貝塚という二つの性格を持っている。若狭湾国定公園の一角をなす三方五湖。この最奥部の三方湖から内陸へ約一キロ入った、同湖に注ぐ二つの川が合流する地点に、この鳥浜貝塚はある。

 遺跡のスタートは縄文の草創期までさかのぼる。貝塚が形成されたのは縄文海進がピークを迎えたころの約六千年前で、年代的には、八戸市の「長七谷地貝塚」と「三内丸山」のほぼ中間の時期に位置している。

 貝塚の範囲自体はそれほど広くないが、この「縄文のタイムカプセル」から、実にさまざまな道具類が大量に見つかっている。石器から木製品にいたる多彩な出土品は、小浜市の県立若狭歴史民俗資料館に展示されており、それらはこの地域で植物資源の豊かな知識をフルに活用した、高度な木工文化が根付いていたことを物語る。

 竪穴住居が近くの高台で見つかっている。そこから水辺に捨てられた当時の動植物の食べかすや、生活用具がそのまま腐らずに残った。ここからはヒョウタンが見つかっており、縄文時代に栽培や農耕が行われていたのではないか、という“縄文農耕”論に一石を投じた。

 ◎縄文の丸木舟

 ここで栄えた木工文化の存在を裏付けているのが、出土した三千点近い木製品である。クイや板・棒材をはじめとして、桜の樹皮を巻きつけた国内最古級の弓、ソケット加工を施した石斧(せきふ)の柄、丸木舟、多様な容器を含む道具類などがその中心で、何らかの加工痕が残る木製遺物となると、全体で数万点にも及ぶという。

 その中でも、大型木製品の丸木舟は長さ約六・八メートル、最大幅六八センチ。大人二人乗りの大きさで材質はスギ。船首部分を除きほぼ完全な形で発掘された。ここで、見つかった魚介類の遺物は比較的、淡水・汽水性のものが多く、丸木舟は同湖を舞台とした漁業に利用されたものらしい。縄文時代、活発に展開されたという海上交通用の乗り物では?といった想像が最初に頭をよぎったが、残念ながらそうではなかったようである。

 陸奥湾沿いの野辺地町の「向田18遺跡」でも丸木舟らしい木片が見つかっている。舳先(へさき)か、艫(とも)の一部分とみられており、鳥浜のそれと同じように焼け焦げた跡と、石器で荒削りした痕跡が残されている。炭素年代(BP)も鳥浜と同じ「五千五百年前」

 ◎覆った漆の定説

 漆製品は実に二百点以上に及んでいるが、とりわけ、目を引くのが「赤色漆塗り櫛」だ。同様に、漆で有名な八戸市の是川遺跡(晩期)でも昨年、新たに櫛(くし)三点が見つかり、話題なったが、こっちはヤブツバキ製。九本歯だが、そのうち二本を除いて、先端が折れたり欠落したりしているが、ほぼ完全な形に近い。ほかにも土器や皿、鉢、わんなどの容器片を含む漆製品が出土している。

 これは、ここ鳥浜地区で既に木工技術とともに基本的な漆技術が確立されていたことを意味するのだろう。縄文の晩期以降から始まると考えられていた日本の漆文化。そんな従来の定説を覆し、縄文前期の段階で、漆文化が存在していたことを証明したのが、鳥浜の功績といえるのかもしれない。是川が登場してくるまで、まだ数千年も待たなければならない。

 若狭資料館の田中祐二文化調査員によると、もうこのころには「樹液の精製、ベンガラなどを用いた赤や黒の彩漆、重ね塗りなどの漆技術が普及していた」ようだ。漆は複雑で、高度な専門技術と労力が要求されるので、専門職人集団がいたことはまず、間違いない。ここでは、木製品製作と漆塗装をする分業システムが既に確立されていたのだろうか。 (編集委員・江波戸 宏)


縄文土坑墓から漆器副葬品が出土

2000年11月03日(金) 東奥日報

 浪岡町教委は二日、同町五本松の平野遺跡で約三千年前の縄文時代後期初めの土坑墓から竹などで編んだ容器に漆を塗った「藍(らん)胎漆器」と赤色紐(ひも)状装飾品が出土した、と発表した。縄文時代の土坑墓から漆器や赤色顔料を施した副葬品が発見されたのは県内で初めて。同教委はなぞが多い縄文後期の一般的な葬制を解明する上での重要な発見とみて、分析を進めることにしている。

 藍胎漆器が見つかったのは同遺跡発掘現場の中央、三十基ある土坑墓のうちの大人用の墓。粘土層と砂層に挟まれた状態で、深さ約六十五センチの地点から出土した。

 状態はよくないが、復元すれば直径約二〇−二五センチ、深さ約五−六センチの円形の容器になるとみられる。埋葬者の頭部分に置かれていたらしい。

 また、赤色紐状装飾品は細い草のような繊維を同一方向に並べた畳表状のものを紐様に伸ばし、赤色のベンガラを施したもので、五つの土坑墓から見つかった。長さや太さはまだ不明だが、縄文時代後期での出土例はこれまでないという。

 平野遺跡は、県道青森−浪岡線沿いの丘陵地帯。近くにはわが国で初めて縄文時代の墓が発見された遺跡として知られる天狗平遺跡がある。

 縄文時代の遺物などに詳しい村越潔・青森大学教授は「縄文時代の土坑墓から藍胎漆器が出た例は県内ではない。赤いウルシに黒いスミを混ぜ、何か紋様を描いたのではないか。他の墓から出ていないところからみて、集落のリーダーの墓だった可能性がある」と話している。

 同遺跡斜面の掘削が行われたという連絡を受け、同教委が先月三十日から緊急に試掘調査を行ったもので、地権者の承諾を得て、今後は本格的な発掘も検討している。


丸木舟

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8000年前の丸木舟が出土 韓国南部の遺跡から

2005/09/06 The Sankei Shimbun

 韓国の国立金海博物館は7日までに、同国南部の慶尚南道昌寧郡にある昌寧飛鳳里遺跡から約8000年前の新石器時代初期に使われたとされる韓国最古の丸木舟の一部が出土したと発表した。

 同博物館は、日本最古級とされる縄文期の福井県・鳥浜遺跡や長崎県・伊木力遺跡で見つかった丸木舟より約2000年さかのぼるとしている。年代は出土した地層からの推定で、今後科学的な検証で特定する予定。

 出土した丸木舟は松の木で作られ、長さ約3メートルの舟底部分が見つかった。全長は約4メートル以上だったとみられる。最大幅は約60センチ。船体を石器で加工した痕跡や焼いて強度を高めた跡もあった。船首に向けて細くなる形で、漁労や水上移動などに使われたとみられるという。

 発掘グループは同地域の新石器時代の生活を知る貴重な資料として丸木舟の現地保存を検討中。同遺跡は釜山から北西約50キロの内陸にある。(共同)

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丸木舟:国内最古級の完形品出土 滋賀・入江内湖遺跡 毎日新聞 2004年4月24日 Mainichi INTERACTIVE
 

 滋賀県教委は24日、同県米原町の入江内湖遺跡の河川跡から、縄文時代前期前半(約5700〜5500年前)の丸木舟が、ほぼ完全な形で出土したと発表した。完形品としては国内最古級の発見という。研究者は「日本の丸木舟の最古段階の形をよく伝えており、縄文時代の『木の文化』成立期に果たした琵琶湖地域の重要性を示す史料」と注目している。

 丸木舟は針葉樹製で全長約5.5メートル、幅約50センチ、深さ約30センチ。2人ほどが乗船できたとみられる。縄文時代の丸木舟はこれまで全国で約120例確認されたが、前期のものがほぼ完全な形で出土するのは他に鳥浜貝塚(福井県三方町)の例があるだけだという。

 今回の発掘では、木製漆器もほぼ完全な形で出土。直径20センチ、高さ20センチ、原木の広葉樹を石器で厚さ1センチ程度までくりぬき、赤色の漆が塗られていた。漆製品の加工には複雑な技術が必要で、同時期の漆製品は、経済的により安定していたとされる東日本での発見が目立っていた。

 京都大大学院の泉拓良教授(先史考古学)は「琵琶湖周辺で舟を使った交流が頻繁にあったのではないか。漆器は儀式や祭事に使用されたとみられる。既に社会的に高度な儀礼が完成していたことを示している」と話している。

 漆器は27日〜5月9日、同県安土町の安土城考古博物館(0748・46・2424)で一般公開予定。舟については未定。【平野光芳】


国内最古級の木製「かい」/松江・夫手遺跡

2000/04/27 by中国新聞

 松江市手角町の夫手(それて)遺跡から出土した木製のかいが、石川県の三引遺跡や福井県の鳥浜貝塚の出土品に並ぶ、国内最古級の資料だったことが松江市教委の調べで分かった。縄文時代前期である約六千年前に使用されていたとみられている。

 松江市教委文化財室と同市教育文化振興事業団によると、出土したかいはスギ製の四本。いずれも柄の部分が折れているが、長さは七六・五〜八八・七センチ。放射性炭素年代測定法で調べた結果、使用時期は約六千年前だった。

 縄文時代前期のかいは、石川県鹿島郡田鶴浜町の三引遺跡から、約六千年前のカヤ製が一本出土している。また、福井県三方郡三方町の鳥浜貝塚から、五―六千年前のクワやケヤキ製が五十本以上出土している。

 夫手遺跡からは、縄文時代の漆の使用を示す土器が出土している。弥生期以前の考古学を研究する島根大法文学部の山田康弘助教授は「縄文人の生活圏域の広がりを示す有意義な資料でになる」と話している。

舟形木製品:約4000年前の縄文舟型容器を出土 石狩市

2001年08月22日[毎日新聞] Mainichi INTERACTIVE

 北海道石狩市教委は22日、石狩市花川の紅葉山49号遺跡で、縄文時代中期(約4000年前)のものとみられる舟形の木製品(長さ約108センチ、最大幅約40センチ)が出土したと発表した。舟形木製品は過去にも主に関東や東北の縄文遺跡で見つかっているが、いずれも長さ50〜40センチで、今回が国内最古で最大の可能性がある。

 同市教委によると、舟形木製品は地表から約1メートルの地中に埋まっていた。中央部から両端に行くにしたがって細くなり、両端には取っ手のような装飾が付いている。表面に石オノで削ったような跡があった。同市教委は大きさからサケなどを入れる容器として使ったと推測している。

 同遺跡は石狩湾に近い旧石狩川に面し、昨年8月にはサケ・マスを追いこむ仕掛けとして使われたとみられる木製クイなどが発見されている。このクイを生物に含まれる「炭素14」を利用した「放射性炭素法」を使って測定した結果、約4000年前という結果が出ている。

 同市教委の石橋孝夫文化財・博物館準備室長は「見たことがない大きさだし、最古の可能性がある。実用品ではなく祭事などの器として使ったのではないか」と話している。 【庄司哲也】

 東京都立大の山田昌久助教授(考古学)の話 舟形の木製品は縄文中期以降に現れ、全国で発見されているが、1メートルを超えるのは初めてではないか。出土場所も漁業遺構ということで、どのように使われたか興味深い。


縄文の営みしのぶ丸木舟

2006/11/21 中国新聞地域ニュース

 来年3月10日の開館に向けて展示品をそろえている出雲市大社町の県立古代出雲歴史博物館で20日、見どころの一つとなる縄文後期の丸木舟が報道関係者に公開された。

 杉をくりぬいた舟は長さ5.5メートル、幅60センチ、深さ14センチ。1997年に同市の三田谷I遺跡で出土し、長さ6メートル(推定)のほぼ完形品として注目を集めた。三瓶山噴火の影響でできた神戸川沿いの池のほとりに置かれていたとみられる。


広島市文化財団が「夏休み考古学教室」

2003/07/08 中国新聞地域ニュース

 縄文時代の釣りを再現しよう―。広島市文化財団が、いにしえの豊かな知恵を小中学生に追体験させる「夏休み考古学教室」を計画した。縄文人同様にシカの角から石器で釣り針を作り、実際に魚を釣ってみるというユニークな内容。八月の本番を前に、担当の文化財課の職員たちは針やテグス(釣り糸)の試作に張り切っている。

 中区の同財団の作業室。稲坂恒宏学芸員(35)が県内各地から集めたシカの角を削り、長さ一・五センチ、太さ一ミリ余りほどの釣り針に加工する作業を繰り返していた。子どもたちのお手本となるためだ。「昔の人がどんなに苦労して釣ったか知ってもらいたい。われわれの勉強にもなる」

 きっかけは昨年夏。稲坂さんや松林俊一・普及担当課長(59)ら、文化財課の釣り仲間の会話からだった。「シカの角の針で本当に釣れるのか」

 考古学の研究から縄文人は釣り針にシカの角を使ったとされ、県内では帝釈観音堂遺跡(神石町)から出土している。ただ、実際に釣れるのかどうかの検証はまだない。さっそく角を入手して試作を始めた。

 針の形、大きさ…。試行錯誤の結果、中区の本川でハゼ一匹を釣り上げることに成功した。「これはいける」。毎年恒例の夏休み考古学教室の今年のテーマが決まった。

 釣りにはテグスも必要だ。近世には蚕の一種クスサンが体内に作る「糸腺(しせん)」が釣りに使われた記録があり、その歴史は古代にさかのぼる可能性がある。稲坂さんは市近郊の山を回ってクスサンを採取。一匹につき一、二メートルの釣り糸が取り出せることを実験で確認した。

 教室は八月十九日から二十一日まで。海田町ふるさと館で二日間、釣り針製作を体験した後、最終日に廿日市市佐伯町の七瀬川渓流でニジマス釣りに挑戦する。「自分の中の野性の感覚を取り戻すきっかけに」。松林課長は熱っぽく語る。

 対象は小学五年から中学生。定員四十人で参加費は千円程度。二十二日までに往復はがきで同課、電話082(248)0427に申し込む。


縄文土器の底にアサの果実 秋田・由利本荘の貝塚から

2007年03月29日 中国新聞ニュース

 秋田県由利本荘市教育委員会は29日、縄文時代早期の菖蒲崎貝塚(しょうぶざきかいづか)で出土した縄文土器の底から、炭化した約7600年前のアサの果実10数粒が見つかったと発表した。アサの繊維でできた縄や種子が見つかった例はあるが、アサを加工、利用しようとしている状況が分かる例はなかった。市教委は「縄文時代の植物資源の海外からの導入や栽培、利用を知る上で重要な発見」としている。

 市教委によると、アサは直径約31センチ(推定)の深鉢の中で見つかった。「おこげ」のような状態の炭化物として見つかり、アサの果実と確認された。

 市教委によると、食用に加工したり、果実から油を取った可能性があるほか、アサには毒性があるため祭祀に使われたとも考えられるという。

 アサは日本に自生しておらず、中央アジア原産とみられるが、日本へ伝わったルートはほとんど分かっていない。

 アサは日本に自生しない栽培植物で、日本では縄文時代にはすでに利用されていることが確認されていますが、それがどのようにして伝わってきたのかはあまり分かっていません。今回発見された土器にはアサが煮炊きされた痕跡が残っており、東京大学での分析の結果、約7,500年から7,600年前のものと推定されました。これは、「煮炊き」というアサの使用状況を示す事例としては、国内初にして唯一のものとして注目されます。

 分析にあたった東京大学大学院・辻誠一郎教授は、「アサは平安時代において、油や繊維、食用などの記録があり、利用価値の高い植物だったが、外来種であるアサが、煮炊きされた形跡で、平安時代よりはるか昔の縄文遺跡から発見されたということはとても重要な意味を持っている。日本海沿岸に、大陸との海を越えた文化の交流があったことを物語るものではないか。東京大学でもこの発見の重要性を認識しており、グループを作って年代測定などの研究に取り組んでいく」と説明しました。 (by 菖蒲崎貝塚から出土した土器に「アサ」の煮炊き跡を確認)


稲の細胞化石「プラント・オパール」

岡山・6000年前の貝塚

2005年02月19日 読売新聞 Yomiuri On-Line

縄文前期に本格稲作?

稲の化石大量出土

 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、稲の細胞化石「プラント・オパール」が出土したと、同町教委が18日、発表した。同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。しかし、縄文晩期に大陸から伝わったとされるわが国稲作の起源の定説を約3000年以上もさかのぼることになり、新たな起源論争が起こりそうだ。

 町教委が2003年9月から発掘調査。五つのトレンチから採取した土を別々に分析。地下2・5メートルの土壌から、土1グラム当たり稲のプラント・オパール約2000―3000個が見つかった。これは朝寝鼻貝塚の数千倍の量。主にジャポニカ米系統とみられ、イチョウの葉状の形で、大きさは約30―60マイクロ・メートル(1マイクロ・メートルは1000分の1ミリ)。

 調査した高橋護・元ノートルダム清心女子大教授(考古学)は「稲のプラント・オパールが見つかっただけでも稲の栽培は裏付けられるが、他の植物のものも確認され、栽培リスクを分散していたとみられる。縄文人が農耕に生活を委ねていた証拠」としている。


岡山県岡山市【朝寝鼻貝塚/縄文時代前期に小麦栽培】

1999/04/27 縄文の風景/NEWS1999

 岡山市津島東の朝寝鼻(あさねばな)貝塚から見つかった小麦のもみ殻の表皮のプラント・オパールが縄文時代前期のものとわかった。

 検出されたプラント・オパールは、稲の葉約50個と小麦のもみ殻の表皮1個で、前期の羽島下層式土器とともに地表下約2メートルの土層から見つかった。

 国内に野生種がないことから小麦栽培が6000年前さかのぼる発見となった。

岡山/朝寝鼻貝塚/縄文前期に最古の稲作

1999/04/22 列島いにしえ探訪:上古 読売新聞大阪

日本最古の栽培稲の痕跡

1999年04月21日 共同通信社

 岡山市の縄文時代の朝寝鼻(あさねばな)貝塚を調査している、岡山理科大の小林博昭教授らのチームは21日、約6000年前の縄文前期の土壌から、栽培されたとみられる稲の細胞に含まれるプラントオパールが見つかったと発表した。小林教授によると、日本で栽培稲の跡は岡山県などで発見された約4500年前の縄文中期のものが最古。

 小林教授は『米作りの歴史が縄文前期にまでさかのぼる重大な発見』とし、稲作の伝来ルートや縄文文化の見直しが迫られることになりそう。


5千年前のダイズ痕を発見 縄文の植物栽培を実証2007年10月17日 中国新聞ニュース

 山梨県立博物館は17日、同県北杜市長坂町で出土した5000年前の縄文中期の土器からダイズの痕跡を確認したと発表した。これまでの国内での発見を1500年さかのぼり、農業史上、貴重という。

 博物館は「縄文時代に植物栽培が行われていたことを科学的に実証できた」としている。

 博物館によると、土器の取っ手の中に長さ約12ミリの豆粒状の空洞を発見。シリコーン樹脂を流し込んで型を作り、電子顕微鏡などで調べたところ、粘土に交じっていた豆が焼成の際に燃えてなくなった痕跡で、形態やへその特徴から、野生種ではなく栽培されたダイズと確認された。

 このほか同県都留市小形山で出土した3000年前の縄文晩期の土器から、イネやムギなどの貯蔵穀物につく害虫の「コクゾウムシ」の痕跡を同様の手法で確認。周辺で当時、穀物の栽培や貯蔵が行われていたことを示しているという。

縄文後期の竪穴住居跡から炭化した植物−南茅部

(北海道新聞)[北海道新聞 2000年11月22日]

 【南茅部】渡島管内南茅部町教委は二十一日、同町臼尻にある縄文時代後期(約三千五百年前)の垣ノ島A遺跡の竪穴住居跡から、壁材に使われたヨシと見られる炭化した単子葉類の植物が見つかったことを明らかにした。町教委は「道南地域の当時の建築様式を知る上で貴重な資料」としている。

 炭化した植物は十月末、同じ竪穴住居跡の二カ所で見つかった。一カ所は柱と接していた壁面に張り付いた状態で、もう一カ所は壁からはがれ落ちたように床面から見つかった。それぞれ長さ二、三cmで、二十cm四方の場所に固まるようにて残っていた。

 町教委が東北大に鑑定を依頼したところ、単子葉類と分かり、種類の特定を急いでいる。町教委は「ヨシの茎は空洞なので、保温効果を高めるために使ったのではないか」と推測している。

 道埋蔵文化財センターの越田賢一郎普及活用課長は「竪穴住居の壁材がはっきりした状態で見つかる例は全国的にもあまり多くはない」と話している。南茅部町内では一九九五年にも磨光B遺跡から壁材と見られる草本が見つかったが、状態が悪く、特定には至らなかった。


最新報告 縄文はなぜ滅びた? 〜古代文明、大転換の謎〜

1996年7月16日(火)NHK総合放送 by閼伽出甕

 (5)また、同じ青森県の風張遺跡(かざはり)の三千年前の住居から七粒の炭化したコメが発見されている。縄文人はコメの味を知っていながら、それを積極的に栽培しようとはしなかった。たくさんある食料の一つとしてしかコメを捉えていなかったのである。

 ちなみに、風張遺跡からは水田の跡はみつかっていない。

風張遺跡

では3000年前のイネ籾が3粒見つかっています.

46“沈黙するコメ”縄文稲作はあったのか/h3>2004.03.09 デーリー東北新聞/  縄文紀行 北日本の遺跡〜実像に迫る

 「北緯四○度以北の地で、二千年以上も前に稲作が行われていたわけで、世界の農業史上でも例がない大発見だった」

 発掘に当たった青森大学の村越潔教授は、当時をこう振り返る。昭和五十六年、青森県内で初めて見つかった南郡田舎館村の弥生時代中期の水田遺構・垂柳遺跡である。

 ◎三千年前のコメが

 その後、弘前市の砂沢遺跡でさらに古い水田跡が見つかっている。最も確実な線で弥生時代前期―これが、県内で稲作が始まった時期とみられている。

 八戸市の市立博物館。ここの縄文コーナーの一角に顕微鏡が置かれている。中をのぞくと一粒のコメが見える。本物の大きさは数ミリ程度という。

 八戸市内の風張遺跡で出土した縄文の炭化米(国の重要文化財)。縄文時代の後期末とされる竪穴住居跡で見つかった“日本最古のコメ”である。

 それまでの「弥生稲作」の定説を根本から塗り替えるものだけに、大きな反響を呼んだ。そればかりでない。稲作には不適と考えられていた東北最北端の八戸地方で、しかも、縄文時代の後期(晩期ではない!)あたりからコメ作りが行われていた可能性を、この炭化米は暗示していたからだ。

 このところ、研究者や学者の間で「縄文稲作」をめぐる論争が活発になっている。弥生に先立つ縄文時代、既にイネと稲作が存在していたというもの。現状は賛否両論の格好だが、風張のコメはそうした議論を先取りする形で、問題提起をしたと言えよう。

 ◎見えない実像

 あの衝撃的なデビューから十年以上の歳月が流れている。これまでに、風張の炭化米で何が証明されたのか。結論から先に言うが、依然としてナゾに包まれたままなのである。

 少なくとも、問題のコメは三つの可能性を突きつけていた。その中の一つが縄文稲作の可能性。炭化米が見つかっているわけだから、その場所で、実際にコメ作りが行われていたと考える方が自然だろう。

 もう一つは外部から運ばれてきた可能性。よそで栽培されたコメが交易などで、風張に持ち込まれた。栽培用ではなく、祭祀(さいし)か、何かの目的で使用されたものか。

 もう一つは発掘作業の際、たまたま、上の地層から紛れ込んだ可能性。一番、気になる“最悪のシナリオ”。

 依然として、正体が見えてこない風張の炭化米。それは、三つの可能性が、いまだに絞り込まれていないことを意味している。八戸市縄文学習館の小林和彦副参事は、そんな状況についてこう話す。「いろいろな見方があり、これをどう解釈するか、それが難しい」

 ◎埋まらない空白

 水田跡や農具などが一緒に発見されれば別だが、炭化米だけで、縄文の稲作が行われていた証拠とするには無理がある。先ほど述べたように、ほかの可能性も考えられるからだ。

 この問題を解決するには「風張」と、「初期弥生稲作」をつなぐコメ資料の新たな発見が不可欠となるわけだが、これまでのところ、思うような成果は挙がっていない。

 風張に隣接した縄文時代晩期の是川・中居遺跡で、炭化米を意識した大掛かりな土壌の精密調査が実施されたが、結局「コメは見つからなかった」(八戸市文化課)。

 初期弥生稲作との間のブランクは埋まるどころか、孤立を深めている風張の炭化米。縄文の稲作をめぐる解釈は、ここへきて、一段と難しさを増しているようにも見えるのだが…。

 垂柳遺跡が発掘された時期と重なるが、是川・堀田遺跡でもイネのモミ跡がついた籾痕(もみこん)土器が見つかっている。イネの葉に含まれたプラントオパール(ケイ酸体)などともに縄文稲作の根拠とされ、発見当初は縄文晩期の土器と考えられたそうだが、その後、しばらくしてから弥生前期という結論が出されたという。

 (編集委員・江波戸 宏)

〜ズームイン〜

 弥生稲作は陸稲か

 青森県に弥生時代は存在しなかった、とする議論もあったそうだ。そんな見方を見事に覆したのが、弥生の水田跡が発見された垂柳遺跡。日本最北端の寒冷地である青森で、稲作が行われていたことが初めて、証明された意義は大きい。

 見つかったのは水路遺構などとともに弥生中期の田んぼ六百六十五枚。一枚当たりの平均は十二平方メートル前後で、そのうちの一部が田舎館村埋蔵文化センターに、化学処理を施して保存されている。

 同センターの武田嘉彦さんによると当時、栽培されていたのは陸稲で、品種は水分の少ない土壌で育つ熱帯ジャポニカの可能性が強いという。現在、日本の水田で作られる品種はほとんどが温帯ジャポニカだが、連作障害や収穫量が落ちるのを防ぐため、一年作ると三年ぐらい放置する輪作をしていたのではないか、と武田さん。

 縄文稲作が行われていたとすれば、おそらくこのようなパターンの陸稲栽培だったのかもしれない。

〜縄文雑記帳〜

 炭素年代は「晩期」

 出土した風張の炭化米は全部で7粒で、このうち2粒について放射性炭素年代測定が実施されている。計測値は■(右向き三角)2540±240B・P■(右向き三角)2810±270B・P―というもの。つまり、基準年の1950年から逆算して、約2500〜2800年前のコメというわけだ。

 縄文時代後期末(約3000年前)の炭化米といわれているが、これだと年代はむしろ、縄文晩期(約3000〜2300年前)を指している。それともその程度の年代差なら許容範囲に含まれるのだろうか。

 しかし、縄文晩期とすると逆に矛盾が出てくるのも事実。風張遺跡が存在したのは、縄文後期の後半から後期末までと考えられているからだ。

 炭化米のナゾ解きに向け、DNA鑑定など再調査の可能性について、聞いてみたが「重文指定されているので難しい」というのが文化庁の岡田康博文化財調査官の見解。また、別の関係者に言わせると、どこに何粒のコメが残っているか、よく分からないともいう


国内最古の栽培キビ 頓原・五明田遺跡

1999年02月09日(火)山陰中央新報

 縄文住居跡の土壌分析で確認

 3700年前 高度な畑作実証

 三瓶山の噴火で埋まった縄文時代の集落跡、五明田(ごみょうだ)遺跡(島根県頓原町八神)を発掘調査している頓原町教委は2月8日までに、3700年前(縄文後期前葉)、既に高度な畑作技術でキビが栽培されていた事実を確認した。青森県八戸市の縄文遺跡より約700年もさかのぼり、国内最古のキビ栽培となる。研究者は縄文農耕の「従来イメージを覆す発見」と注目。縄文文化が、狩猟や採取だけに頼らない定住生活が営まれていた実態を解明し、進んだ社会だったことをあらためて実証する極めて重要な資料となりそうだ。

 同遺跡では、地下約50センチの層から竪穴住居跡四棟が出土。集落は、三瓶太平山が噴火(3600年前)した際に降り積もった火山灰や火砕流に埋没したとみられる。同教委は縄文・弥生の農耕研究で知られるノートルダム清心女子大(岡山市)の高橋護教授(考古学)に、住居跡の炉の近くにあった黒色土の土壌分析を依頼した。

 分析の結果、黒色土にキビのプラントオパールが含まれていることが判明。検出されたプラントオパールは、大きさや形状が現在の栽培種と一致することも分かった。同教委埋蔵文化財調査室の山崎順子主幹は、出土した縁帯文土器から黒色土の年代を3700年前とみている。

 分析結果の意義について高橋教授は、キビが原始農耕の焼き畑では栽培されず、高度な畑作技術が必要な常畑の作物であることを重視する。キビは、土を寄せないと倒れ、1年で地力を使い切るほど養分吸収力が強い半面、逆に肥料さえ与えれば一夏に2回、収穫が可能。麦の半分の水で育ち、火山灰地のような水はけの良い土地条件を好む。

 高橋教授は「稲作が広がる縄文晩期後半なら分かるが、それより1500年前後も古い常畑の存在は従来の(縄文農耕の)イメージを覆す」と強調。「相当進んだ畑作をしていたはずだ。肥料を施す技術の発達面でも興味深い」とみている。

 適地適作とも言える五明田遺跡の栽培キビは、狩猟・採取だけに頼らない定住生活を送っていた縄文集落の姿を物語り、あらためて縄文文化論争に一石を投じそうだ。さらに今後、土器や貯蔵穴などの精査により「イネが発見される可能性も高い」(同教授)と期待される。

 これまで国内最古のキビのプラントオパールが検出されたのは、青森県八戸市の風張遺跡で、3000年前(縄文後期末)の炭化米とともに見つかった。縄文農耕の研究では近年、国内各地で4500年前のイネの痕跡や、9000年前のヒョウタンなどが発見され実態が解明されつつある。

 五明田遺跡は、志津見ダムの建設予定地から上流の神戸川・舟津橋付近に位置。町教委が昨年9月から、水田約130平方メートルを調査している。

  プラントオパール

 アワ、ヒエ、小麦などイネ科の植物などに含まれる多量のケイ酸が細胞に集積した粒子。粒子の形状が植物によって違い、土中に半永久的に残るため、考古学ではこれを利用し、農耕の起源に迫ろうとする研究が進められている。

 キビ イネ科の1年草。実はもち、だんごなどの食用、茎は家畜の飼料になる。原産地はインド〜中央アジア、東アジア(中国)の2説あり、中国の黄河文明ではアワと並ぶ主要作物だった。日本列島には小型で雑草のヌカキビなどがある。


土器に炭化キビの固まり 安土町矢ケ崎A遺跡

2006年04月06日(木)第14380号 滋賀報知新聞

 縄文時代後期の食文化

 =栽培、交易の可能性も=

 ▲土器片に付着している炭化したキビ

 ◆東近江・安土町◆

 県教委はこのほど、安土町下豊浦の竜ケ崎A遺跡で出土した約二千六百―二千五百年前の縄文時代晩期末の土器片に、炭化したキビの固まりが付着しているのを全国ではじめて確認し、「キビを煮炊きしたものと考えられ、当時の食文化を知ることができ、西日本でのキビの発見の最古の事例として貴重な資料」と発表した。十四日まで、県立安土城考古博物館(桑実寺)のロビーで展示している。

 遺跡は安土山の西側ふもとの山と琵琶湖面(当時)との接点付近に位置し、約四千五百―二千五百年前の縄文時代中期から晩期までの集落跡。平成十五年度に県営ほ場整備に伴って発掘調査し、出土した土器などを十六・十七年度で整理調査した。

 その結果、土器片の一つに穀類と推定される直径約一・五ミリの粒状の炭化物が固まって付着しており、専門家に分析してもらったところ、キビであることが判明した。

 土器片は底の直径約六・五センチ、高さは約八センチで、、貯蔵や煮炊きに使われた深鉢の底とみられる。土器片内側には、炭化したキビがびっしりとこびりついていた(約七センチ四方)。キビは、殻が残っているものが少なく、脱穀されたものとみられる。

 縄文時代晩期には、キビはすでに食べられていたと考えらるが、日本では自生のキビはないことから、栽培されていたか、交易などにより他の地域から運ばれたのではないかとみられる。

 炭化したキビは、これまでに彦根市の稲里遺跡(イネ・アワと共に)や青森県八戸市の風張遺跡(一粒)と八幡遺跡(三粒)の三カ所で、いずれも土の中からしか見つかっていない。

 国学院大松谷暁子非常勤講師による電子顕微鏡などによる調査で、脱穀しきれていなかった炭化物から、実を包む籾(もみ)のような穎(えい)という部分にキビの特徴を示す縦方向の線と、ジグザグした波状の長細胞列が確認され、キビであることが判明した。

 松谷さんのコメント ヒエ・アワ・キビなどの炭化粒はイネやムギ類に比べて小さく、発掘調査の際に見落とされることが多く、あまり重要視されてこなかった。滋賀県では、縄文時代晩期から弥生時代にかけ、キビがこの地域に連続して存在することが実証された。加熱されて炭化していることからDNA分析は無理だが、キビ粒の確認、年代測定なども可能であり、自然科学的手法を利用した様々な方面の研究に役立つ。これまで見過ごされがちだった雑穀についての情報が増加することを期待したい


スコップ:縄文時代後期の木器を発掘 福岡・久留米

2004年06月02日 毎日新聞 Mainichi INTERACTIVE

 福岡県久留米市教委は2日、同市国分町の正福寺遺跡から、縄文時代後期(紀元前2000年ごろ)とみられるスコップ状の木器が出土した、と発表した。九州では最古の木器となる。遺跡からは食用のドングリを貯蔵した多数の穴も見つかっており、同市教委は「穴の中のドングリをすくい出すのに使ったのでは」と話している。

 見つかった木器は長さ23センチ、幅12センチ。ほぼ完全な形だが、黒く変色しており、木の種類は不明。今回は鉢型の木器の一部など約10点ともに、遺跡南西部の低湿地から見つかった

 一方、ドングリの貯蔵穴は直径50センチ〜1メートルで、33基。ドングリを入れたカズラ製のかご▽かごに入ったドングリ▽ドングリをすりつぶすのに使った石器−−なども同時に多数出土した。

 名古屋大の渡辺誠名誉教授(考古学)は「ドングリの採集から貯蔵、加工までの一連の様子がよくわかる。縄文時代の食文化を知るうえで大変貴重な資料だ」と話している。遺跡は市教委が県道整備に伴い、昨年夏から調査していた。


縄文時代の食糧貯蔵庫出土、奈良県大宇陀町で

August 30, 1999

 奈良県大宇陀町本郷の本郷大田下遺跡から、縄文時代後期後半(紀元前1500―同2000年)の食糧貯蔵穴が出土し、中から当時主食だったドングリが大量に見つかった、と同県立橿原考古学研究所が30日、発表した。縄文時代の食糧貯蔵穴がまとまって見つかるのは珍しいという。同研究所は「西日本の縄文時代の食を研究する上で重要な発見」としている。

 穴は三十七あり、いずれも直径約1メートル、深さ約1メートル。うち十二の穴からドングリが数千個ずつ見つかった。当時の土器片も一緒に出土した。カシ類を中心に、ナラやクヌギ、シイ類のドングリもあった。イノシシなどに食べられないよう、上には落ち葉や木の枝などを20―30センチの厚さに敷いてふたをしていた。

 地下水が豊富にわいていた場所に掘られており、当時、ドングリは水に漬かっていたという。同研究所の岡林孝作・主任研究員は「ドングリのあく抜きをしようとしたのではないか」と分析している。

 また、貯蔵穴の1つからは、ツタのような植物繊維を編んだかごらしいものも出土した。押しつぶされて長径26センチ、短径16センチのだ円形になっていたが、朱色の漆が塗られていた。植物繊維を編んで作った当時の漆器は極めて珍しいという。


環状列石(ストーンサークル)

縄文期の環状石列 奈良県川上村・宮の平遺跡

2000.10.19 いにしえの学舎

墓標とみられる環状列石(ストーンサークル)

 奈良県吉野郡川上村迫の「宮の平遺跡」で、自然石を半円形に並べた縄文時代中期末から後期初頭ごろ(約4000年前)の環状列石(ストーンサークル)が見つかり、18日、県立橿原考古学研究所にが発表した。

 明確に環状列石と確認できる遺構が西日本で見つかったのは初めてで、葬送など、祭祀に伴う可能性が強く、東日本を中心とする祭祀形態が、近畿地方でも行われていたことを示す資料となる。

 環状列石は竪穴式住居跡の上層で見つかり、幅約7m。石の大きさは拳(こぶし)大から1辺約2mまで大きさに幅があり、本来は円形の「サークル」だったとみられる。推定の直径は外周で約30m。

 石の間から時代の異なる土器片や石器が多数見つかり、橿考研は、長い年月をかけて少しずつ造られたとみている。

 半円の外側では、棒状の自然石(長さ30〜40cm)が立ったまま出土。倒れた石を含めると10個以上あり、円形の配石と一体で環状列石を構成していたとみられる。環状列石の内側には、幼児の遺体を入れたとみられる甕(かめ)が埋められていた。

 出土品から、縄文時代早期−晩期(約1万年前〜2800年前)まで、この土地が継続的に利用されていたことが分かった。土器や石器の量に対して住居跡が少なく、一定期間だけ居住するキャンプサイト的な場所だったとみられる。

 調査を担当した橋本裕行・主任研究員は「山や川の幸を求めて1年の一定期間だけ利用したのだろう。祭祀的な空間でもあり、立石が墓標的な役割を持っていた可能性もある」と話している。

  現地説明会は10月22日(日)午前11時と午後1時から説明がある。現地は、近鉄吉野線大和上市駅から奈良交通バス「川上村役場」下車、徒歩約15分のところ。

 環状列石とは:
 自然石や加工の少ない石を円やだ円の環状に並べた記念物で、ストーンサークルとも呼ばれる。石の大きさは小石から数10トンの巨大なものまであり、円も一つから二重、三重とさまざま。祭祀や宗教的な遺構とされる。英国のストーンヘンジが有名。日本では東日本で数10ヵ所見つかっている。


50基のスートンサークル群を確認。隣接遺跡とあわせて国内最多!

西崎山ストーンサークル(北海道小樽市・余市町)(2006.09.25) by社会科の写真/ 西崎山環状列石by北海道庁

西崎山ストーンサークル

(北海道小樽市・余市町)by超古代遺跡のホームページ

忍路環状列石(小樽市忍路)

 忍路環状列石の造られた時期は今から約3500年前の縄文時代の後期です。


秋田県鹿角市 大湯環状列石 現地説明会

 大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)は、万座・野中堂環状列石を中心とした、今から4,000〜3,500年前の縄文時代後期の遺跡です。


4つ目の環状列石発見・秋田

2000年10月29日 河北新聞

 縄文時代後期(約4000年前)の国内最大級の環状列石(ストーンサークル)がある秋田県鷹巣町の伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡で、これまで確認されている3つのほかに、新たに4つ目の環状列石が見つかった。同町教委が28日、現地説明会を開き明らかにした。

 今回見つかった環状列石は、同遺跡最大の環状列石C(直径約50メートル、三重構造)から南東に約10メートル離れた山林内にあり、直径が約35メートル。並べられている石は大きいもので長さ、直径がともに約50センチあり、サークルの中心部に直径約1.5メートルの小さなサークルを持つ二重構造になっているとみられている。

 環状列石Cに次ぐ2番目の大きさで、環状列石Dと名付けられた。

 これまでの調査で環状列石Cの南東約50メートルの山林内に、4つ目の環状列石が存在する可能性が指摘されていた。が、今回見つかった環状列石Dは別の場所で、本年度は一部を試掘しただけのため、来年度以降も調査が続けられる。

 町教委は「小さな環状列石が複数ある遺跡はあるが、大規模な環状列石がこれだけあるのは、伊勢堂岱遺跡だけ。5つ目、6つ目が見つかる可能性もある」としている。

 町教委は、7月末に文化庁に同遺跡の国史跡指定を申請している。早ければ11月にも、文化財保護審議会から国史跡指定の答申を受ける見通し。


仮面

干支にちなみイノシシ装飾の土器 尖石縄文考古館

2007-1-5 Nagano Nippo

 2007年は約5000年前の縄文土器のイノシシ(動物装飾)がお出迎え。茅野市尖石縄文考古館は今年の干支(えと)にちなみ、縄文時代中期前半の「イノシシ装飾付土器」をエントランスホールに展示した。

 直径約15センチの鉢の縁に施された装飾で、”体長”は約6.5センチ。胴体の右に渦巻き、左に三叉(さ)紋が描かれ、幼獣に特有のしま模様を表現している。1998年に梨ノ木遺跡(同市下古田)から深鉢の縁だけ出土した。

 イノシシの立体造形が付いた縄文土器は山梨県の安道寺遺跡でも出土しているが、同考古館の小林健治学芸員は「うちの”ウリ坊”の方が作りがいいし大きいし、かわいらしい」。

脚がないイノシシの土製品発掘…青森の長久保遺跡

2007年01月13日 サンスポ.コム

 2007年のえとはイノシシ。今ではその姿を見ることがなくなった青森県で、古代遺跡から不思議なイノシシの土製品が発見されている。古代から貴重なタンパク源である一方、田畑を荒らす厄介者でもあったイノシシと人とのかかわりを示す土製品とは−。

             ◇

 つぶれた鼻、ずんぐりとした体形…。一目でイノシシと分かるものの、脚やしっぽがない不思議な土製品が縄文時代中期末(約4000年前)の青森県八戸市の長久保遺跡で見つかっている。

 長さ約5センチ、重さ約15グラム。持ち運びに便利な手のひらサイズで、胴体下部とお尻の5カ所に直径約5ミリの穴が開いていた。この穴に、マッチ棒程度の脚やしっぽをはめ込んだらしい。

 青森県立郷土館の福田友之副館長は「狩りに携帯し、初めに『多く捕れますように』と祈り、最後に『こんなに捕れました』と山の神に感謝をささげる祭祀(さいし)をしたのかも。持ち運びに便利なように脚などがはめ込み式だったのでは」と話す。

 冬が厳しい東北地方の縄文人にとって、イノシシは命をつなぐ重要な食料。土製品の顔や体形がリアルなのは、作者の目にイノシシの姿が焼き付いていたからだろうか。

 発掘を担当した小山浩平青森県文化財保護課主事は「胴体には穴が貫通しており、首飾りだった可能性がある。背中、腰に斑点状の模様があり、ウリ坊(子イノシシ)を表現したのかも」と話す。

 青森県では、江戸時代にイノシシによる農作物被害が深刻化。猟銃が普及した明治時代以降、頭数は減り続け、1880年代に同県の野生のイノシシは絶滅。今は姿を見ることもなくなってしまった。

弘前博物館でイノシシ型土偶展示

2006年12月31日(日)東奥日報

 「来年もいい年でありますように」。弘前市立博物館(山田勅館長)が、四十数年前に同市の遺跡から出土した縄文時代後期のものとみられる「イノシシ型土偶」(同館所蔵)を展示している。二〇〇七年の干支(えと)「亥(い)」にちなんだもので、同館での公開は約十年ぶり。同館では「貴重な品。新しい年に愛くるしい土偶を見に来て」と話している。

 ガラスケースの中に展示されているのは、地元と弘大や成城大などによる岩木山ろくの発掘調査で、一九六〇(昭和三十五)年に同市の十腰内猿沢遺跡から出土した獣型土偶一基。イノシシを表現した高さ九・七センチ、長さ一七・一センチの縄文時代後期のものとみられ、鼻の形状や背中の毛などが表現されている写実的な土偶。縄文の人にとって、イノシシがなじみ深い動物だったことがうかがえる。

 通常は同館の収蔵庫に保管されており、全国の施設などに貸し出されている。博物館は、現在開催中の「津軽の風景」展とともに、新年の干支に合わせて展示した。

 展示は一月二十一日まで。新年は一月四日から開館する。


最古級の石製仮面出土

1999年08月28日 共同通信社

 青森県埋蔵文化財調査センターは28日、青森市の三内丸山(6)遺跡で、縄文時代中期半ば(約4500年前)のものとみられる石製の仮面が出土したことを明らかにした。 同遺跡を視察した小林達雄国学院大教授(考古学)は「仮面としては最古級の可能性が高く、石製のものも全国的に非常に珍しい」と話している。


万歳姿の土偶出土/能登川町石田遺跡

2001年01月26日(火)滋賀報知新聞(ニュース)第12714号

 縄文人の精神世界を表す土偶。能登川町埋蔵文化財センターはこのほど、同町山路の石田遺跡から出土した万歳型の土偶を公開し、昨年出土した同型土偶(一号)よりさらに古い縄文時代後期前葉(約三千八百年前)のものと推定した。西日本で見つかった土偶は約七百点余りだが、手を挙げた形は同遺跡でのみの出土。今週一杯まで二点並んで展示される。

 土偶は、高さ五・九センチ、横幅五・二センチ、胴部一・六センチ、胸部二・二センチで、豊かな乳房と衣装を表したような直径二ミリの穴模様(竹管状)が施されている。色は淡灰褐色で、三角形の頭部と上向きに広がる両腕が特徴的。

 能登川駅西区画整理事業に伴う道路築造中に見つかり、弥生時代後期と思われる環濠埋土から多量の弥生・縄文土器と共に出土した。周囲には縄文時代後期の集落跡も確認されており、同文化財センターでは「縄文時代後期前葉(約三千八百年前)に作られたものではないか」と推定している。

 保管される日本最古の土偶は、草創期(約一万二千〜一万一千年前)の三重県粥見井尻遺跡のもので、今回見つかった土偶は変換史の中で見ると中盤以降のものとなる。土偶研究グループ(千葉県の国立歴史民俗博物館内)によると、全国には約一万五千点が保存されており、そのほとんどは東日本での出土。西日本には約七百点が見つかり、県内には十三遺跡から二十八点が発掘されている。

 なかでも万歳型は珍しく、同センターの杉浦隆支技師は「富山県の五百歩遺跡のものと似ている。一号と同様に西日本的な特徴よりも北陸地方の影響を受けている」と説明、他地域との交流を物証する発見としている。

 土偶は妊娠女性が大部分を占め、学界では「豊穣」と「祖先の保護」を重複させた“女神(地母神)説”が有力だ。万歳型土偶も女性であり、右腕と両足部分が壊れている。これは、病気や怪我の身代わりに破壊し治癒を祈念したものと考えられ、死と再生を輪廻する繁殖願望―、縄文人の精神世界を映したものだと言われている。

 二十九日まで二点並んで公開され、七月二日からは二号土偶のみを展示する。開館時間は午前八時半から午後五時まで。土・日曜休館。問い合わせは同センター(0748―42―5011)へ。

万歳姿、西日本で初 縄文後期の土偶出土

2001年11月10日(金)滋賀報知新聞(ニュース)第12457号

北陸との交流示す第2の物証=能登川町石田遺跡=(湖東・能登川町)

 能登川町埋蔵文化財センターは、能登川町山路と林をまたがる石田遺跡から縄文時代後期(約三千八百年前)の土偶が出土した、とこのほど発表した。西日本で出土している土偶の数は約七百点あるが、手を挙げた形態は初めて。

 駅西区画整理事業に伴う発掘調査中に見つかったもので、土偶は素焼きの粘土製、高さ五・一センチ、幅三・二センチ。頭部や左腕、左胸は欠けた状態だが、右胸は女性を表現したように盛り上がっており、首元には首飾りをかたどったと思われる直径一ミリの穴が連なっている。

 土偶は、県内で十二遺跡から二十六点、全国では東日本を中心に約一万点が出土。なかでも、万歳をしたように手を挙げた形態は富山県の五百歩遺跡から見つかったものに似ており、また、同町内の正楽寺遺跡から平成五年に富山県が産地の蛇紋岩のペンダントが出土していることから、同教委は「当時、両地域で何らかの交流が持たれていた可能性が高い」としている。

 土偶は、豊かさを生み出す「大地」を、大切な子孫を産む「女性」と重複させた「自然界の女神」であったという説が有力で、古事記や日本書紀の記述によると欠けた頭部などから食べ物が生み出されたとされ、当時、豊作を祈る祭祀に使われた末、壊した状態で地面に埋められたものと考えられている。

 出土した土偶は二十六日まで一般公開中。問い合わせは同センター(TEL0748-42-5011)へ。

縄文後期の「万歳型土偶」出土 滋賀・石田遺跡

2000.11.06 asahi.com

 滋賀県能登川町の町埋蔵文化財センターは6日、同町山路の石田遺跡から、縄文時代後期前半(約3800年前)のものとみられる両手を挙げた「万歳型土偶」が出土したと発表した。素焼きの粘土製の女性像で、同時に出土した土器片などから、富山県福野町の五百歩(ごひゃくぶ)遺跡から出土した両手を挙げた女性土偶とほぼ同時代のもので、西日本では初めてという。

 土偶は高さ5.1センチ。頭や顔、左腕、左乳房がなく、左の背中は縦方向に鋭く削られ、首から右腕にかけて首飾り状の模様が描かれていた。両足が極端に短く、股(また)は2ミリの切れ込みがあるだけだった。

 同センターによると、これまで国内で見つかっている土偶のほとんどに女性と分かる表現があり、また、その大半が破損されて見つかっているという。同センターは「土偶を、食べ物を生み出す自然界の女神(大地)に見立て、豊作を願って祈る儀式の中で女神像を壊して大地に埋めたのではないか」と話している。出土した土偶は26日まで、同センター(0748・42・5011)で公開されている。


国内最大級の仮面土偶 茅野・中ッ原遺跡で出土

2000.08.28 信濃毎日新聞

 茅野市教育委員会は二十八日、同市湖東山口の縄文時代の中ッ原(なかっぱら)遺跡で、仮面をかぶったような顔の土偶(仮面土偶)としては国内最大級の完全な形をした土偶が出土した、と発表した。同市の尖石縄文考古館名誉館長の戸沢充則・明治大教授は「国宝土偶(愛称・縄文のビーナス)と同じくらいの史料価値があり、美術的価値も高い」と評価。墓とみられる遺跡から出土した土偶という意味でも極めて価値が高い、としている。

 土偶は高さ三十五センチの立像。女性器がはっきりかたどられており、右足が胴体からとれているものの、完全な形をしている。三十日にも遺跡から取り出し、復元に取りかかる予定だ。市教委によると、全体の形状は上伊那郡辰野町泉水で一九三五(昭和十)年に見つかった県宝の土偶(高さ二十センチ)とほぼ同様という。

 二十三日に遺跡のほぼ真ん中にある縄文時代後期前半(約三千五百年前)の集落跡から出土。集落跡の中央部にある墓域の土坑(どこう)の底から、横たわった状態で見つかった。土坑は長さ一・三メートル、幅一メートルの東西に長いだ円形で、深さは発掘面から四十五センチ。穴の底にさらに直径五十センチほどの別の穴の跡があり、土偶はそこに安置されるように埋まっていた。

 市教委によると、仮面土偶は、三千五百―三千年前の縄文時代後期前半にみられる東日本に独特のものだ。今回出土した土偶は仮面土偶としては最大級。同市米沢の棚畑遺跡で八六年に出土し、九五年に国宝に指定された大型の縄文のビーナス(高さ二十七センチ)を上回り、かなり大型の土偶だ。

 市教委は三十日までに文化庁、県にも現地で土偶を見てもらい、三十日午後一時―三時に現地で一般公開した後、遺跡から取り出す予定だ。年内には復元を済ませ、尖石縄文考古館(同市豊平)に収蔵する。

 中ッ原遺跡は、四千五百―三千五百年前の縄文時代中期前半から後期前半の集落跡。昭和初期から数次にわたり、発掘調査が行われてきた。今回の発掘は、ほ場整備のために、市教委が昨年六月から開始。約一万三千平方メートルを本年度までの二年間で調べる。昨年八月には、県内最大級のひすいの垂れ飾り(長さ約九・九センチ)が出土した。


ほほ笑む大型土偶が出土

1999年03月26日 共同通信社

 高知県土佐市高岡町乙の居徳遺跡で約2500年前の縄文時代晩期の土偶の頭部が見つかり、高知県埋蔵文化財センターが26日、発表した。丸い顔に細い線で刻まれた目と口はほほ笑んでいるよう。顔と首の頭部だけで18センチあり、大きさは全国でも最大クラスという。 

 女性をかたどることの多い土偶は地母神像や安産祈願の呪具とされる。土偶は縄文晩期の土器片や石棒などの祭祀具、獣骨や木の実がたい積した『ごみ捨て場』とみられる場所から出土した。


縄文の人形ペンダント盗難

1999年12月23日 共同通信社

 石川県能都町の真脇遺跡で出土した縄文時代後期の石製の人の形とみられるペンダントと丸玉2個が、展示されていた能都町立真脇遺跡縄文館から盗まれていたことが23日までに分かった。能都署は盗難事件として捜査している。

 能都町教育委員会によると、人形ペンダントは全国でも類例がほとんどなく、調査団の研究者の一人は「縄文時代の精神生活を知る貴重な資料」としている。


石狩紅葉山49号遺跡

2004年07月01日石狩ファイル0002-01

 石狩紅葉山49号遺跡は、昭和47(1972)年の埋蔵文化財一般分布調査の際に発見されました。遺跡名の由来は、紅葉山砂丘のなかで49番目に発見された遺跡という意味です。この遺跡は、縄文時代前期後半から中期後半(5000年前から4000年前)、続縄文時代初頭(2000年前)、擦文時代初頭(800年前)、江戸時代後期(200年前)の各時期の遺物が出土しています。遺跡の立地は、紅葉山砂丘の南側斜面が中心ですが、一部はその内陸側の湿地にも及んでいます。

 本遺跡の発掘調査は、平成7年から平成14年の8年間にわたって実施されました。発掘調査の原因は、「発寒川遊水地」を造成するためです。発掘調査面積は合計21,890m^2、遺物の総数は9万点以上にのぼっています。

 本遺跡の特徴は、湿地のなかに縄文時代中期の発寒川があり、そのなかから当時の人々が使っていた木製の漁労施設と器などの生活用具が出土することです。このような湿地のなかで水浸け状態になった遺跡は「低湿地遺跡」といいます。全国的にも低湿地遺跡は100ケ所程度と少ない上に、縄文時代中期のものは数ケ所しかありませんので、大変稀少性のある遺跡、ということができます。

 さらに発見された漁労施設は国内でも最古級のもので、しかも10ケ所も検出されています。このうち8ケ所が杭などの伐採時期や民俗例からみて、サケ漁に使用されるエリと考えられます。これまでサケの漁労施設とみられるものは2000年前ごろのエリがもっとも古い例で、本遺跡のエリはこれよりもさらに2000年古く、国内最古のサケ漁施設で、縄文時代では初めてのものです。

 エリの構造は、川底に打った支柱に木の枝とブドウツルで編んだ柵を立てかけるもので、近世アイヌのサケ漁施設「テシ」とほぼ同じ物と考えられます。また、遺物のなかには近世アイヌが使用した「魚たたき棒」と類似する木製品もあり、4000年前から近世アイヌ同様のサケ漁が行われていた可能性が高いと考えられます。 (石橋孝夫)

4000年前の川ニ沿う暮し

日本最古のサケ捕獲施設:北海道石狩市の紅葉山49号遺跡で発見!

2000年08月24日

 ふるくから「鮭の町イシカリ」として知られる北海道石狩市の石狩紅葉山(もみじやま)49号遺跡で、縄文時代中期(約4,000年前)の川の跡から、日本最古のサケを捕獲するための施設が発見されました。

 このような遺構は全国的にもほとんど例がなく、周辺からは「銛(もり)」を含む木製品も発見されていることから、当時の生活を知るうえで画期的な発見です。

 2ヶ所で見つかったサケ捕獲施設のうち下流のものは、昨年発見された杭列とあわせて、幅20メートルにわたり20〜50センチ間隔で打ち込まれた杭の列と、これに付属する「ドウ」とみられる仕掛けです。杭の長さは約90センチあります。「ドウ」は、杭を周囲に打ち込み、その中に太さ2センチほどの枝を使った仕掛けを置いています。

 上流では、太さ10センチ以上、長さ130センチを越える杭が打ち込まれています。杭はだいたい2列になっており、「コ」の字型に横木でつながっているようです。 この2つの施設はほぼ同じ時期に作られたものと考えられ、セットで機能していたのではないかと考えられます。

 なお、昨年の調査では川の流路に直交する倒木に沿って打ち込まれた杭列を発見し、護岸などの土木工事の跡ではないかと推定して「河川遺構」と名づけました。しかし、今年の杭列と連続することから、これもサケ捕獲施設の一部であることがわかりました。このような魚を誘導する定置の装置を「エリ」といいます。 (以下略)


原形とどめた国内最古の斧、福岡・久留米の遺跡で発見

2004/08/09 読売新聞 Yomiuri On-Line

 福岡県久留米市の正福寺(しょうふくじ)遺跡で、縄文時代後期(約4000―3000年前)の斧(おの)がほぼ完全な形で出土したと、同市教委が9日、発表した。

 柄の部分も含めて原形をとどめた斧としては全国最古という。

 木製の柄が真っすぐの「直柄斧(なおえふ)」と呼ばれるもので、全長62センチ。柄の先端近くに砂岩とみられる石がはめ込まれており、柄には滑り止めの植物繊維が巻き付けられていた。

 国内ではこれまで、大分市の下郡桑苗(しもごおりくわなえ)遺跡など数か所で柄の付いた斧が出土しているが、いずれも弥生時代中期(約2200年前)のものだった。

 斧は、柄がほぼ直角に曲がった「膝柄斧(ひざえふ)」から、直柄斧へと改良が進んだと考えられている。移行期はこれまでの出土例から、縄文時代晩期(約2600年前)とみられていたが、山田昌久・東京都立大助教授(考古学)は「少なくとも九州では約1000年早く移行していたことになる」と話している。


島根・沖丈遺跡で縄文後期石斧製造跡発見

2000/11/17 中国新聞

> 島根県邑智郡の邑智町教委が発掘した沖丈遺跡(同町乙原)から縄文時代後期の磨製石斧(せきふ)約六十点が見つかり、半製品や破片も一緒に出土した事実から石斧製造跡だったことが十六日分かった。石器に詳しい島根大汽水域研究センター・竹広文明助手の鑑定で、同時代の磨製石斧産地の発見は中国地方では初めて、という。

 沖丈遺跡で見つかったのは断面がだ円形の乳棒状石斧と、刃が薄い定角状石斧の二種類。刃の最長は一六・七センチで、木の伐採などに使ったらしい。原料の結晶片岩を荒割りし、石同士を打ちつけて形を整えたまでの半製品や表面を滑らかに研いだ完成品があった。凝灰岩などが原料の砥石(といし)も出土している。

 結晶片岩は周辺から産出されず、最寄りの産地は二十数キロ離れた江津市東部。江の川がつなぐ両地点が石斧製作で関連があったのではないかと、町教委は注目している。同時代に土掘り用に使われた打製石斧も七十点ほど見つかった。

 縄文時代中期の尾崎遺跡(神奈川県)では四百五十八点もの磨製石斧が見つかり、製造跡と認められるなど、東日本では磨製石斧の発見例が目立つという。

 一九九五(平成七)年から調査した沖丈遺跡では、墓上に河原石を並べた弥生時代前期の珍しい「配石墓」約二十基やストロー状の首飾り「管玉」なども出土。江の川流域の文化の交流、展開を考える遺跡として注目されていた。県道改良の工事ルートにかかるため、九七年初めに一部は壊し、道路下に埋め戻した。


「帝釈峡遺跡群」40年周年シンポ 広島県東城町

2002/09/01 中国新聞

 旧石器、縄文時代を中心に中国山地の洞くつ生活を物語る「帝釈峡遺跡群」の発掘開始から、今年で四十周年。調査主体の広島大考古学研究室は九月八日午前十時から、地元の広島県東城町の老人福祉センターで記念シンポジウムを開く。

 あまり知られていない「帝釈縄文人」の豊かな文化を初めてアピール。「全国的に縄文時代の再評価が進む中、地域活性化につなげるきっかけに」としている。

 テーマは「縄文文化を地域から見直そう」。三内丸山遺跡(青森市)を発掘した岡田康博・文化庁調査官、帝釈峡遺跡群発掘に長年携わる潮見浩・広島大名誉教授らが基調講演の後、地元関係者を交えパネル討論する。

 県北東部の石灰岩台地にある同遺跡群は、旧石器人骨発掘の可能性で注目されてきた。祭りや漁労、土器など縄文人の生活を伝える貴重な出土品も多いが、あまり光が当たっておらず、今回はその活用も探る。

 併せて縄文期を中心に全体像をまとめた三十八ページの一般向け資料集を同研究室が発行、当日無料で配布する。


天然記念物に大田の埋没林 文化審答申

2003/11/22 中国新聞地域ニュース

 文化審議会(高階秀爾会長)は二十一日、津山市の「美作国分寺跡」など九件を史跡として、横浜市の「山手公園」など二件を名勝に、大田市の「三瓶小豆原埋没林」など二件を天然記念物にそれぞれ指定するよう河村建夫文部科学相に答申した。

 島根県横田町の「絲原家住宅主屋など」や下関市の「日本基督教団下関丸山教会会堂(旧日本メソヂスト下関教会)など百七十件の建造物を登録有形文化財に登録するよう答申。

 これにより、史跡、名勝、天然記念物は計二千八百十五件、登録有形文化財は計三千八百九十九件となる。萩市の萩城跡は史跡対象区域が広がった。

 三瓶小豆原埋没林は、約三千五百年前の縄文時代後期の三瓶山噴火で発生した土石流や火砕流のたい積物で埋まった谷筋の山林。樹齢五百年を超える杉などが直立したまま根元から十数メートルの高さまで保存されている。ナラ、カシ類も混生し、当時の表土にはサンショウなどの種実やコガネムシの化石も残っていた。一九八三年の土地改良事業で見つかり、九八年からの島根県の本格的調査により、杉の巨木を中心とした全ぼうが明らかになった。

最大級の埋没林公開 大田市三瓶町

2002/04/21 中国新聞

 大田市三瓶町で見つかった小豆原埋没林の一般公開が二十日、現地で始まった。島根県内をはじめ、広島市や福岡市、神戸市などから約四百人が見学に訪れた。一般公開は五月末まで土、日曜、祝日に行われる。

大田市の縄文流木群を一般公開

2000/09/24 中国新聞

 大田市三瓶町の「三瓶小豆原埋没林」で新たに見つかった縄文時代後期の巨大な流木群の一般公開が二十三日、行われた。降りしきる雨の中、島根県内や広島方面から約六百人が訪れ、火山泥流に流された巨木の迫力に驚いていた。

 現地は前日から大雨。調査区域にも大量の雨水が流れ込み、一時は中止も検討されたが、直前までのくみ上げ作業で公開にこぎ着けた。地下十メートルほどの場所にある流木群と、合体木の可能性が高まった巨大スギの根は、細いらせん階段を使って降りて行くため十人程度ずつしか入れず、一目見ようと並んだ人が約五十メートルの列になった。

 孫三人を連れて来た広島県山県郡豊平町阿坂、農業浜田芳晴さん (52)は「折り重なる流木を見て、太古の自然のすごさを実感した。やはり現物の迫力は違う」と感心していた。

地中に眠る縄文杉 18日公開/大田・三瓶山

'00/6/17中国新聞

 大田市三瓶町で見つかった「三瓶小豆原埋没林」の最長十二メートルの高さを持つ直立スギの根株部分までの発掘が終わった。地下深くからそびえ立つスギは、縄文時代へのロマンをかき立てる。二十日からのクレーンでのつり上げ作業に先立ち、十八日に一般公開される。

 最長のスギは直径約一・九メートル。周りを立て板で直径八メートルの円筒状に囲い、地下十三メートルまで掘り進められた。地下までらせん階段で降り、土に張った根株を間近で見ることができる。土中には火砕流たい積物などがあり、火山活動の様子もうかがえる。

 一般公開は、十八日午前十時から正午まで。現地には駐車場がないため、近くの島根県立三瓶自然館から順次シャトルバスを運行する。公開に併せ、樹齢四百年、直径一・六メートルの輪切り状のスギを展示。つり上げ後は、現地での保存処理をした後、二〇〇二(平成十四)年オープン予定の自然館の新館に移される。

 埋没林は九八年暮れに発見。約三千五百年前(縄文時代後期)の物で、立ち木状態で見つかった。

島根県三瓶山山ろくで縄文時代のスギの埋没林出土

January 25, 1999

 島根県大田市の三瓶山山ろくの水田から、縄文時代後期(4000年から3000年前)とみられるスギの巨木が立ったままの姿で次々と出土している。縄文時代のスギの埋没林が立ったまま見つかったのは珍しく、発掘にあたった島根県は、縄文時代の植生や気候などの自然環境を知る上で貴重な資料としている。

 同県の発掘調査で、スギ7本、トチノキ1本が出土した。谷沿いの約3キロにわたり20本から30本が点在する「埋没林」と見られる。出土した直径1.3メートルのスギは、ボーリング調査で根元まで約10メートルあることがわかった。樹齢600年から500年で埋没したと見られ、巨木が林立していた当時の姿をしのばせる。

 同県景観自然課は、4000年ほど前に活発に火山活動をしていた三瓶山で発生した火砕流が谷の下流部分をせき止め、スギの天然林が水没、その後砂や泥などのたい積物で埋没したとみている。同県はさらに調査を進めるとともに、出土したスギを伐採し展示することなどを検討している。

 1983年に現場付近でほ場整備の工事中、埋まっていたスギの幹が出土。県が昨年10月から本格的な発掘調査を続けていた。

三瓶山麓で最大最古を含む巨大スギの立木を発見

2002/04/04 山陰中央新報

 約三千五百年前の埋没林が見つかった大田市三瓶町の小豆原地区で、これまでで最大の直径二メートルと、長さ十二−十四メートルとそれぞれ推定される埋没した杉の巨木二本を新たに確認した、と島根県が三日発表した。縄文時代後期の巨木が直立した状態で多数見つかった三瓶埋没林は世界的にも例がないが、新たな巨木の発見は当時の森林形成を探る上でより学術的な価値を高めそう。


復元の竪穴住居が全焼

1999年11月06日 共同通信社

 6日午後3時15分ごろ、兵庫県但東町にある復元された縄文時代の竪穴住居から出火、全焼した。住居は一般公開されており自由に出入りできる状態だったが、けが人はいなかった。出石署の調べによると、竪穴住居はアシぶきの木造で、縦6.2メートル、横6メートル、高さ6メートルのだ円形。1988年に町おこしの一環で同町が復元した。


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