TOPIC No.9-1 いわくら(磐座)/巨石文化

01. 巨石遺跡に天の川を見た (金山巨石群の巨石に示されていたのは、今から1万2千年前の
 "古代の天の川"だった。42度の謎を追うレポート。) by星たび
02. 日本の考古天文学と巨石群 金山巨石群と太陽暦<岐阜県下呂市金山町> by金山巨石群調査資料室
03. 山添村のなべくら渓と岩屋・桝型岩(2003年11月22〜24日) by磐座みぃ〜つけた新聞
04. 岩 石 写真集 磐座・巨石 〜聖なる岩石への旅路〜
05. 石の宝殿(いしのほうでん)byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
06. 磐座・巨石・神社巡り by Celesteのあちこち巡り歩き
07. 宮島巨石群―弥山周辺の遺跡 byアセンション“Gaia-Ascension”Series 小松英星(KOMATSU, Eisei)
08. 宮島 弥山ストーンサークル配置図の考察 その1 2017.03.05 by megalithic Pyramid of Japan
09. 足摺巨石群―唐人駄場と周辺の遺跡
 byアセンション“Gaia-Ascension”Series 小松英星(KOMATSU, Eisei)
10. 種々の石(くさぐさの石) by stone
11. ストーン・ヘンジの謎 〜5000年前の古代のコンピューターを探る〜 by古代の不思議/不思議館
12. 巨石遺構は「日来神宮」by不思議の古代史
13. 熊野の磐(石)、磐座 by裏熊野の案内人(熊野通信)
14. イワクラ(磐座)学会
15. 泰山の古代遺跡探訪記(日本のピラミッドと巨石を探る!)by 泰山
16. MYSTERY SPOT 日本にある古代文明を訪ねて
17. 超歴史研究会
18. 超古代ロマン by telop web site
19. 古代人の宇宙論 by生命と宇宙 KenYaoのページ
20. 竹内文書(たけのうちもんじょ) byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
21. 石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究


磐座考(一)

NPO法人国際縄文学協会 半田 晴久(はんだ・はるひさ)

磐座

尊いものに出会う場所

 磐座や高御座、御倉板挙など、日本では古代から、尊いものがある場所に「クラ」という言葉を使います。尊いものを納めている「蔵(ゾウ・クラ)」という言葉も、そこから来たのでしょう。「磐座」とは、「岩の上に尊いものが降りてくる」、「尊いものが降りてくる岩」です。尊いものとは何か。それはご先祖様の霊であり、あるいは、先祖霊のさらに大先祖であるご神霊なのです。これを、折口信夫は「まれびと」と呼びました。

 一定の時間に、一定の方向から、一定の場所に必ず降りてくるご神霊や先祖霊がおられる。それが「まれびと」であり、その尊い方々に会える場所に、岩を置いたのが磐座であります。

「磐座」の第一

 私は、「磐座」には、大きく三つの種類があると考えています。まず今回は、そのひとつについて述べましょう。三輪山ノ神遺跡に残る磐座のように、古代祭祀の中心であったものです。神道では、昔から「人は祖に基づき、祖は神に基づき」と言います。つまり、日本人にとっての神様というのは、ご先祖様のさらにご先祖様の大先祖様であり、これがすなわち日本の神様でした。そして、ご先祖様と神様とが、毎年決まった時期に現れ出てくると考えていました。AD一世紀に建てられたローマのパンテオンも、全く同じ概念で建てられ、全く同じみ祭の形式で祖霊と神々を祭ったのです。パンテオンの屋根には大きな穴があり、そこから祖霊と神々がやって来て、子孫が花や食べ物を供えて、祈るのを受け取ったのです。それから神道の「直会」と同じになり、神々と祖霊と子孫らが一体となり、酒を飲んで飲めや歌えや踊れのドンチャン騒ぎとなったのです。

 日本ではもっと初めは厳粛ですが、まずそれはお正月です。ご先祖様と神様をお待ちしている期間だから、「松の内」であり、「門で待つ」という意味を込め、家に門松をおくのです。

 この尊い方々は、お盆の時にもやって来ます。それを迎えるのが盂蘭盆会であり、中国では五三八年、日本では六〇六(推古一四)年に行われたという記録が残っています。

 もともと日本人は、一年間を二つのタームに分けていました。

 昔は日本人は、時間も年を取ると考えていたのです。時間がだんだん年をとってくると、「枯れ」てきます。「穢れ」というのは、「ケ」が枯れることであり、「気」と「生命力」と合わせ持っているのが、古代の「ケ」という言葉でした。その「穢れ(=気枯れ=ケガレ)」と「罪」というのは、ツミ重なったものだからです。良くないものがツミ(罪)重なり、ケが枯れていく。つまり、時間と共に生命力がなくなり、「気」が低迷していくのです。それを年末にお祓いするのが、年越しの大祓いです。

 そして、新年を迎えると、年をとった時間が、また新しく蘇ると考えられていました。そこで、古来から家の長男は、「若水」という、元旦の朝の自然の水を飲む習慣がありました。元旦の朝のエネルギーや、時間が若返ったエネルギーが、山の水とか湧き水とか井戸水に宿っているので、その若々しい水を飲むことで、生き生きした生命力をもらうのです。 それから今度は六月の下旬に、夏越の大祓を行います。半年の間に、だんだん時間が年を取り、生命力と気が枯れてきます。そこで、これを禊ぎ祓いすることで、また新しく、若々しい生命が蘇ってくると考えられていたのです。

 そして、「まれびと」はこの年越の大祓のあと、そして、夏越の大祓のあとの、二度の正月と言える時期にやって来たのです。

陰遁と陽遁

ところで、陰陽五行説から言うと、六月二二日頃の夏至、つまり夏の一番長い日が「陽が極まりて陰」で、それから隠遁が始まっていきます。九星でいうと、中宮の数がどんどん減っていくのです。九、八、七、六、五、四、三、二、一…と日盤の中宮の数が減っていきます。一二月の二二か二三日の冬至の時が陰極まりて陽で、一陽来復となります。つまり冬至の時から、じつはもう無形の一陽という春が始まっているのです。

 ただそれは、「幾」という兆しの状態で、それがだんだん年月を経て、本当の春になっていきます。

 これは、人間の困窮の極まりのときに、幸運の芽がやってくるという考え方でもあります。逆に、陽が極まりて陰で、絶頂のところから凋落の「一陰」が始まっていくわけです。

 これは、陰陽5行説が古代に日本に混入したのか、それとも日本人はもとからこれを知っていて、その東北アジアの人々の共通認識として昔からあった考え方を、中国の人が陰陽五行説として理論づけたのか、それはよくわかりません。しかし、いずれにしろ、そう考えていたわけです。

一陽で春が始まった一二月二二日から、今度は陽遁が始まり、一、二、三、四、五、六、七、八、九…と、九星学で言うと数が増えていきます。冬至の時は、また「一」で始まり、もう一回同じ「一」が翌日から始まって、また今後は減っていく。減っていって、また今度は増えていきます。

 だから中国には「仁義礼智信」という、山を登っていく―この世の道を極めていく儒教があるのと同時に、山から降りていく―「学するものは、日に日に益し、道するものは日に日に損す。損して損して、無為となす。無為にして、為さざるはなし」という老子の言葉があるのです。

 学問をするものは、日に日に益する。これは、自分にとって有意義だ、プラスだということを順番に積み重ね、一、二、三、四、五…と上がっていく。そういう山を登っていく儒教の教えと同時に、「道に志すものは、日に日に損す」という、地位や名誉やこの世の計らいということを、日に日に損して無為となす。人為的なものがなくなったら、今度は「無為にして為さざるはなし」。天地と一体となって、何でもできるんだという老荘のものの考え方は、まさに夏至から冬至にどんどん数が減っていくのと同じであり、それで極まったら、今度はまた一から順番に上がっていくのです。ですから、一年のうちの半分が老荘思想で、半分が儒教というふうにも言えます。その天地の法則というものを表しているのです。

盂蘭盆会のルーツ

 話は少し横道にそれましたが、こうして六月下旬に時間が若返ると、ふたたび「まれびと」を迎える時期がやって来ます。それが盂蘭盆会の時期なのです。

 しかし、じつは、盂蘭盆会というものは、もともとインド仏教にはなかったものです。 本当の仏教の教えは、「諸行無常」、「諸法無我」、「涅槃静寂」―この世のものは移り変わり続けていく(諸行無常)。この世の存在というものの、実体はなにもない(諸法無我)。だから、そういう移り変わっていく、実体がないものに対し、一切の執着心を持たないで、永遠なるあの世の、永遠なる幸せを目指しなさい(涅槃静寂)というのが、仏教の基本的思想です。これを「三法印」と言います。このように、仏教では、この世のものを何も持たないわけですから、親孝行とか先祖供養という考え方はなかったのです。つまりお盆とは、日本に古来から伝わる信仰と仏教とがうまく融合し、共存したものだったのです。

 子孫と先祖と神様の三つが常に一つになるときが、お正月とお盆の祭りであり、時間が新しくなる時に先祖も神様もやって来る。そして、この「まれびと」は、必ず同じ時に来るので、そこで祈るために、古代の人はそういう場所に磐座を作りました。磐座があって、そこに神様や祖霊が来るのではなく、あくまで神様が現れ出てくるのが先で、そこに磐座を作ったのです。縄文時代の人々は皆シャーマンでしたから、そういう場所が自然にわかったのでしょう。

 沖縄近くの竹富島などにも、「ニライカナイ」から毎年同じ時に、同じ場所に、同じ方向からやってくる祖霊や神を迎える小さな岩が海岸にあります。イースター島のモアイ像も、これと全く同じものだと思います。(つづく)


超古代文明「イワクラ」

資料提供:山添村いわくら文化研究会

 山添村の歴史は古く、今から12,000年前にさかのぼることができる。桐山和田遺跡、北野ウチカタビロ遺跡、上津大片苅遺跡(縄文草創期)や、鵜山遺跡、大川遺跡(縄文早期)に生きた人々の生活・文化は、どのようなものだったのだろうか。

 「縄文文化」は、土器や狩りというイメージが強いが、もっと高度な文明があったとは考えられないだろうか。古代の信仰や呪術・祭祀に関わる遺跡・遺物の調査研究から、全国各地でその痕跡となる「イワクラ」が発見されており、ここ山添村にも、そのイワクラが数多くあることが解ってきている。鍋倉渓をはじめとするイワクラは、何のために造られ私たちに何を伝えようとしているのか。古代の人々が、光輝く太陽や夏の夜空にきらめく天の川をながめ、何を祈ったのか。

山添に超古代文明

2002年04月04日 奈良新聞

神野山(こうのさん)周辺の巨石群

 山添村神野山周辺に点在する巨石群は、古代に信仰の対象となったイワクラ(磐座)ではないか−。夏の大三角形を構成する星々と天の川を地上に投影したものではないか−。山添村で、巨石研究の動きが活発化している。近く、「山添村いわくら研究会」を設立するほか、巨石研究に取り組む全国ネットワーク「イワクラサミット」の開催を計画するなど、超古代文明に対する関心が沸きおこっている。

 同村の神野山周辺には、巨石が点在している。周囲の地質とは異なる岩石が幅25メートル、長さ約650メートルにわたって密集している「なべくら渓」のほか、神野山の山頂付近にある伝説上の姫の墓とされる王塚、山頂北側の高さ7メートル、幅8メートルもある八畳岩、東側の高さ2メートルを超える天狗岩など、なぜそこにあるのか説明の難しい岩石群がある。

 特に「なべくら渓」は、周辺が花崗(こう)岩質であるのに対し、火成岩の一種である角閃班糲岩(かくもんはんれいがん)が川のような形状で密集。前地質時代に山の表面が風化して土壌化する際に、堅い岩石だけが残ったとされているが、珍しい現象であるため、県の自然公園の一部に指定されている。

 村には、神野山の天狗と上野(現在の三重県上野市)の天狗がけんかをし、岩を投げあったなどの伝承が残っている。

 こうした岩石群について、イワクラを研究する民間研究者の匠里都市研究所(大阪市)の柳原輝明所長が着目。王塚、八畳岩、天狗岩が、夏の大三角形を構成する白鳥座のデネブ、琴座のベガ、わし座のアルタイルの位置関係と一致する上に、「なべくら渓」も天の川の位置に一致するとして、「天空の星の位置を地上に投影したものでは」とする説を打ち出した。

 巨大な岩を信仰の対象とする「イワクラ」は全国各地にあり、ご神体として岩を祭る神社も数多い。山添村にも、「山の神」信仰があり、巨石を祭る風習が今も残っている。柳原氏は「古代人からのメッセージ」として、イワクラの可能性を指摘している。

 神野山・鍋倉渓 byとんでもとらべる


The Kanayama Megaliths and Archaeoastronomy in Japan

だ円の彫り込み 夏至の日示す/下呂市・金山巨石群で新発見/調査資料室研究

2004年07月24日 岐阜新聞

 古代の暦遺跡の可能性がある下呂市金山町岩瀬、金山巨石群の「線刻のある巨石群」で、人為的に刻まれただ円の彫り込みが、夏至を特定する新たな手掛かりであることが、金山巨石群調査資料室(小林由来代表)の研究で分かった。

 線刻のある巨石群は、約三十メートルの範囲で高さ七メートルほどの巨石が立ち並ぶ。線刻石は紀元前五百年ごろ人為的に刻まれたと推測されている。夏至を挟んだおよそ六十日間は、石が組み合ってできた空洞にスポット状の太陽光が差し込む。また夏至には線刻下の深い切り込みの一番奥深くまで光が届くことが、これまでの調査で分かっている。

 だ円の彫り込みは、二本の線刻の上に三つあり、最大のものは長径二十センチ、短径七センチ。残り二つは少し小さい。同資料室は今月九日、スポット光侵入の妨げとなっていた木を除去したところ光がだ円となって差し込むことが判明した。

 スポット光は夏至を過ぎた現在、徐々に小さくなっている。小林代表は「ことしは観測できなかったが、大きなだ円の彫り込みは、夏至のときのスポット光と同じ大きさと考えられる。彫り込みは夏至の太陽を観測する表示と思われる」と話している。

 日本日時計の会の後藤晶男会長は「暦を知り、伝わったばかりの農作業に活用していたのではないか」とし、この研究を東亜天文学会の学会誌に発表したという。  (中村芳紀)

後藤晶男さん、金山町の岩屋岩蔭遺跡を「日本の日時計の原点」と紹介へ

2004年02月03日 毎日新聞

 古代の天体観測遺跡とされている県史跡、金山町岩瀬の「岩屋岩蔭(いわやいわかげ)遺跡」調査委員会の後藤晶男顧問が、4月16〜18日に英オックスフォードで開かれる世界日時計学会総会で、同遺跡を「日本の日時計の原点」と紹介することになった。【奈良正臣】

 金山町の「金山巨石群調査資料室」(小林由来(よしき)代表)が明らかにした。小林代表によると、後藤顧問は総会で「江戸時代の日時計」「現在の日本の日時計」と題して発表する予定で「金山巨石群が日本の日時計の原点であろう」といった内容を盛り込むという。

 後藤顧問は日時計の第一人者として知られる。名古屋市の出身で、京大宇宙物理学教室研究員などを経て、1980年英国エディンバラ大学客員研究員、81年帝塚山学園天文台台長を務めた。現在は時の資料館長、日本暦学会副会長、日本日時計の会会長などを務めている。

 金山巨石群は99年6月から調査が行われ、2001年には調査委が「巨石群全体が太陽の方位と高度を捕らえる配列・構造になっており、春分、夏至など1年の節目の太陽の動きに符合する天体観測遺跡だった」と発表して一躍注目を集めた。

 巨石群は高さ幅約5〜10メートルある4個の巨石で構成し、内部は洞穴になっている。巨石の一つは40度の角度で南の空に突き出るような形をし、約40メートル東には同じような大きさの十数個の石が点在する。

「古代の暦」再現館が完成

2003/12/25 中日新聞

金山の巨石群脇

 古代人が暦を知るための“天文台”だったという説がある金山町岩瀬の巨石群「岩屋岩蔭遺跡」近くに、暦が分かる仕組みを一部再現した施設「金山巨石群太陽カレンダーシミュレータ再現館」が完成し二十四日、関係者にお披露目された。二十五日から利用できる。 (中西 康)

 “天文台”だという説があるのは、巨大な岩が連なった県指定史跡の「岩屋岩蔭遺跡」など三カ所の巨石群。同町の調査委員会の調査で、巨石のすき間から内部に差し込むスポット状の光を観察することで、一年の正確な日数や夏至と冬至の日が特定できることなどが分かっている。

 「再現館」は、観光客や地元の人らに“天文台”の仕組みを分かりやすく理解してもらおうと町が建てた。高さ約四・五メートルの木造の小屋のような造りで、建設費は七百九十五万円。

 施設内は太陽の光が岩屋岩蔭遺跡の内部と同じ方向から差し込むようになっている。夏至、冬至、春分・秋分の日など特定の日に光が差し込む角度ごとに板を扇状に配置。それぞれの日が分かる仕組み。岩屋岩蔭遺跡についての紹介や写真なども展示されている。この日は田口幸雄町長や、日本暦学会の後藤晶男副会長ら約三十人が訪れ、調査委員から施設の概要などについて説明を受けた。


謎の巨石遺跡 「高塚の森」は神武東征神話にかかわる遺跡か

by 万葉散歩


東北地方から北海道にかけてのストーンサークルは縄文時代中期後半から後期にかけて作られている。

大湯ストーンサークル(環状列石)

by邪馬台国大研究

ストーンサークルbyフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


<ストーンヘンジ>4600年前の木造家屋跡発見

2007年01月31日(毎日新聞)by【ももてんの箱舟】―超常現象を解明せよ!

 【ワシントン和田浩明】英国南部の先史時代の環状巨石遺跡「ストーンヘンジ」近くで、約4600年前の木造建築物8棟の土台が発掘されたと全米地理学協会が30日、発表した。考古学者らはストーンヘンジの建設者の住居や儀式用施設と推測している。他に25棟前後が建てられていたと推測され、小規模な集落があったようだ。

 発掘チームのリーダーであるマイク・パーカー・ピアソン英シェフィールド大教授(考古学)は、今回発見された集落とストーンヘンジが「複合的な宗教施設を形成していた」と述べ、ストーンヘンジは従来考えられていたより大規模で重要な場所だったと指摘した。

 木造家屋跡はストーンヘンジから北東に約2.8キロ離れたダリントン・ウォールズで06年9月に発見された。放射性炭素年代測定で紀元前2600〜2500年ごろのものと判定された。

 8棟のうち6棟は約23平方メートルの正方形で、粘土の床に暖炉が配置され、壁際にはベッドや収納用家具らしきものも置かれていた。床からは動物の骨や土器の破片、矢じりや石器なども多数見つかった。

 残りの2棟は離れた場所で木さくと堀に囲まれていた。他の住居跡で見つかった生活ごみなどは見当たらなかった。集落の長(おさ)か司祭の、住居か儀式用施設だった可能性があるという。

Stonehenge Settlement Found: Builders' Homes, "Cult Houses"

January 30, 2007 National Geographic News

古代の巨石遺跡を巡ってみよう!

by eikokutabi.com

【ヴァレッタ/マルタ】地中海に浮かぶ小さな島に謎の巨石文明があった!

2002/04/11 「地球の歩き方」

 ヨーロッパの巨石遺跡というと、イギリスのストーン・ヘンジがよく知られている。しかし、実はヨーロッパには、ストーンヘンジ以外にもさまざまな巨石の遺跡やストーンサークルの類があるのだ。これらのなかにはなんとエジプトのピラミッド以前のものもあるという。

 各地の巨石を並べたら、きっとおもしろい。そう思って取材をしたら、巨石に刻まれた模様に意外な共通点があったりして、とても興味深かった。 各国の文化を比較できるのは広域の『ヨーロッパ編』の取材だから。今度の特集で取り上げる予定だが、取材情報のなかからマルタの遺跡をひと足はやくお教えしよう。

 マルタ島にある巨石神殿群は、世界最古の巨石遺跡といわれており、マルタ本島と、第2の島、ゴゾ島に幅広く分布している。 これらのうち6つの神殿が世界遺産として登録されており、最古のものはゴゾ島にあるジュガンティーヤ神殿だ。 紀元前3650年頃に建造されたということだが、ちなみにピラミッドが最初に建造されたのは紀元前2650年。エジプトのように人口の多い大国ならいざしらず、地中海に浮かぶ小さな島でこれだけ大規模な神殿が造られたということは、にわかに信じがたい。しかもピラミッドに先立つこと1000年も前である。

 ジュガンティーヤ神殿以外では、マルタ本島にあるハガール・キム神殿と、タルシーン神殿が、規模も大きくかなり見応えがある。時代が下るに従って、巨石神殿は規模も建築技術も高度になってくるので、年代順に神殿を見学するといかに神殿建築が洗練されていったがわかるだろう。 また、各神殿からの発掘品は、マルタの首都ヴァレッタにある考古学博物館が所蔵しているので、まず最初にここを見学をしておくのもおすすめだ。特に「マルタのヴィーナス」、「眠れる女神」は美術的価値も高く見逃せない。

 今回の取材で非常に残念だったのは、ハガール・キム神殿のすぐ隣にあり、やはり世界遺産に登録されているムナイドラ神殿が、何者かによって破壊されてしまったため見学ができなかったことだ。遠くから見た限りでは、それほどひどいダメージを受けたようには思えなかったが、話を聞くと神殿の内部はかなり荒らされてしまったそうだ。 何千年も前の遺跡が、心ない人の手で破壊されることのないよう、国際的な啓蒙活動や保護の必要性をもこの遺跡は教えてくれるのだ。

巨石神殿遺跡豆知識
マルタ・ゴゾの超古代遺跡 by中央地中海通信

 それはギザのピラミット、イギリスのストーンヘンジよりもさらに1000年も遡る紀元前4000年、現存する世界最古の建造物であるというのだ。 


地中に卑弥呼の石? 日田市の会所山山頂 市民調査 巨大7メートル四方

2000年05月31日 西日本新聞

 奈良時代編さんの「豊後風土記」に登場し、日田の名称の語源になったといわれる「久津媛(ひさつひめ)」を祭る神社がある大分県日田市日高の会所山(よそそやま)山頂の地中に約七メートル四方にわたって巨大な石が埋設されている可能性が強いことが、最新鋭の磁気探査機による調査で分かった。

 周辺から出土した土器片は「卑弥呼の時代」の三世紀後半とみられることなどから、調査した市民団体は「卑弥呼に関係した遺跡ではないか」とロマンを膨らませている。

 この市民団体は「久津媛と日田の古代を語る会」(後藤英彦会長)。

 巨大な石とおもわれる反応があったのは、会所山の東側の二つの山頂のうち北側の山頂(一六四メートル)。NTTの協力で二回にわたって磁気探査機で調査。平たんな山頂のほぼ中央部の地中一・一―一・五メートルのところに、約七メートル四方に平たい石を敷いているとみられる反応が確認された。

 二回目の調査に立ち合った賀川光夫・別府大名誉教授(考古学)は「山頂部は盛り土らしく、人工的な構造物に間違いないだろう。発掘しないと分からないが、巨石信仰の祭祀(し)遺跡ではないか」と話す。

 会所山近くでは、中国の皇帝クラスの人物しか持ち得ない高貴な宝器といわれる「金銀錯嵌(さくがん)珠龍文鉄鏡」(重文)や「金銀錯鉄帯鉤(たいこう)」が出土している。

 「久津媛の会」幹事長の石丸邦夫さんは「魏志倭人伝にある『鬼道に事(つか)え』るのは卑弥呼だが、祭祀遺跡とすると祭祀の主は卑弥呼かもしれない、と夢は広がる。さらにデータを集め、試掘につなげたい」と話している。

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日田古代史研究会


謎の人面岩、与那国で発見/地元「観光資源に」期待

2003年03月28日 琉球新報

与那国島新川鼻沖合にある「海底遺跡」近くの丘陵地に、三面が顔の形をした巨石の構造物があるのを東京の研究グループがこのほど発見した。巨石には目玉のようなくぼみや舌に似た板状の岩があり、岩を敷き詰めた「土台」の上に鎮座している。同グループでは「人工的なものという以外、理屈では説明できない」として、4月上旬に再調査に入る予定。一方、地元の行政、観光関係者は「新たな観光資源として期待できる」と新名所発見を歓迎している。

謎の「人面岩」を発見したのは、東京のアマチュア考古学研究グループ「黄トンボ」。「神々の指紋」を翻訳した大地舜さんや、歴史研究家の鈴木旭さん、事務局の綿貫信一さんら十数人のメンバーで、「夢があるものを探してみよう」と昨年6月から与那国島の調査に入った。

地元の古老からの聞き取りなどを基に、昨年12月に鈴木さんら3人が新川鼻の丘陵地を調査したところ、頂上付近で「人面岩」を発見した。鈴木さんは「密林の中を調べていたらいきなり顔の形をした巨石が現れた。見た瞬間ぞっとした」と発見当時の心境を語る。

巨石は沖合の「海底遺跡」を見下ろす位置にある。巨石と土台に敷き詰められた岩々は完全に切り離されており、頭頂部には古代遺跡によく見られる円形の杯状の穴もあった。鈴木さんらは「高さをそろえて敷かれた土台石にどうやって巨石が載ったのか。誰かが運んできた以外考えられない」と「人工物」の可能性を指摘している。

一方、与那国町商工観光課の前楚良昌課長は、観光資源の価値として「いろいろな個所にいろいろな跡があり、(人面岩も含めた)『遺跡巡り』のような周遊ができるように、海底だけではなく陸上も含め全体を網羅したマップのようなものを作りたいと思う。大切にしたい」と意欲をみせる。

また与那国町観光協会の新嵩喜八郎筆頭副会長も歓迎の意を表しながら「見所がひとつ増えた。話題になること自体がいいことだ」と表情をほころばせる。「与那国に観光に来る方の8割が遺跡を見に行く。遺跡かどうかは専門家の先生に議論してもらい、盛り上げてもらいたい。地上も海底も含め息の長い観光資源としていきたい」と話した。

新川鼻人面石詳細報告by黄トンボ
「与那国島海底遺跡プロジェクト」 by kitonbo.com
与那国島海底遺跡by泰山の古代遺跡探訪記, 与那国海底博物館
海底遺跡Wonder沖縄


宮崎県跡江貝塚土器の調査

2004年01月31日 INN Head Line News

 宮崎県跡江貝塚で発見されていた縄文土器と、バルディビア土器の文様比較調査の為、米国の専門家が来日調査を行なった。バルディビア土器は、南米エクアドルで発見されている非常に古い土器で、かなり以前から米国スミソニアン協会のメガース博士等により、 縄文土器との関連性が指摘されていた。メガース博士等は、縄文人が土器技術を携えて太平洋を横断し、バルディビア土器文化を発達させたと考えている。

 今回、新たに宮崎でバルディビア土器と酷似した文様を持つ土器が、確認された事により、急遽来日調査が行なわれた。今回来日調査を行なった研究者によると、かなりの文様技術に類似性が認められるという。

 はたして、縄文人は土器技術を携えて太平洋を横断したのだろうか?残念ながら、土器の類似性だけで、断定する事は不可能である。今後の調査結果に期待したいところである。 今回の調査結果は、2004年7月22〜25日にアラスカ・シトカで行なわれる太平洋を挟んだ文化伝播に関する学術会議において、発表される予定である。

「太平洋岸宮崎でバルディビア土器風の縄文土器を発見!」

2003年10月5日 権藤正勝

 太平洋岸に面した宮崎市で、南米エクアドルのバルディビア土器とそっくりの文様を持つ縄文土器群が発見されていた。エクアドルのバルディビア土器とは、米国スミソニアン協会のエバンス博士夫妻により縄文土器とそっくりの文様を持つ土器様式として、1965年に発表されたものである。博士らはバルディビア土器文明が唐突に始まっている事から、日本の縄文人が土器文化を携えて太平洋を渡り移住してきたのだと主張している。しかし、バルディビア土器にそっくりの文様を持つ縄文土器は、九州の熊本の土器に限られ、それ以外の地域では、わずかに鹿児島などで発見された土器との類似性が認められる程度だった。

 縄文人が、太平洋を渡り南米にまで到達していたとすると、黒潮に乗って移住したに違いない。しかし、黒潮に乗って太平洋を渡ったのならば、何故、太平洋沿岸からバルディビアの土器と似た文様の土器が発見されないのか。この点が、これまで最大の謎だった。今回、宮崎でバルディビア土器とそっくりの文様を持つ土器が確認された事により、この最大の謎が解明されたと言えるだろう

 バルディビア土器そっくりの縄文土器が発見されていたのは、宮崎市の中心部から15分ほど車で大淀川を遡った跡江貝塚遺跡で、1961年地元のアマチュア研究家日高_氏により発見され県の史跡に指定されていた場所である。1961年と言えば、エバンス博士がバルディビアの土器と縄文土器の類似性を発表するよりも前である。それが、何故今まで表に出てこなかったのか?考えれば不思議な話であるが、それには理由があった。

 跡江貝塚の発掘調査は大分県の別府大学が行い、数々の文様土器が発見された事から県の史跡に指定された。しかし、調査をすれば、それでおしまいとする宮崎県の姿勢から、遺跡の大部分は宅地造成されてしまっている。現在では、貝塚の場所どころか存在すらも知るものはいない状態なのだ。跡江貝塚遺跡が、宅地造成で壊されていく中、発見者の日高氏は何年間にも渡り、造成で剥き出しになった遺跡の土器収集を行った。たまたま、日高氏にバルディビア土器の写真が目に止まり、今回の発見に繋がったのだ。おそらく日高氏以外に、跡江貝塚遺跡の土器文様を即座に思い出せる者はいなかったかもしれない。

 跡江貝塚遺跡は、公式には1万2000年前から7000年前の物とされているが、発見者の日高氏によるとアカホヤ層(喜界島噴火による火山灰層)の直下まで、土器が埋まっている事から、約6300年前の喜界島大噴火まで続いた土器文明であると言う。この遺跡からは、なんと24種類もの文様の土器が発見されており、文様の豊富さでは、九州随一だと言う。

 土器の底は、何れも平底で、中には雲母を混ぜきらきらさせた土器も存在する。更に、大量の無紋土器も発見されていると言う。又、この遺跡からは、愛媛県上黒岩遺跡から発見された物と同様の通称女神石と呼ばれる線刻石も発見されている。この女神石もバルディビア遺跡で発見され、縄文とのつながりを示す物とされている。しかし、残念ながら女神石は、みかん箱50箱以上にも及ぶ、日高氏の収集物の中に紛れ込み、現在も捜索中である。


ナスカで地上絵を新発見 台地全体で100種

2006/04/20 The Sankei Shimbun

 世界遺産に登録されている巨大な地上絵で有名なペルーのナスカ台地で、山形大人文学部の坂井正人助教授(文化人類学)らの研究グループが約100種類の地上絵を新たに発見した。

 直線や三角形などの幾何学模様のほか、土器の文様のようなデザインの絵も見つかった。研究グループは「全体像の解明を進め、保護につなげたい」としている。

 付近には車が走った跡も見つかり、新たに見つかった地上絵の一部が破壊されていた。

 土器の文様とみられる地上絵は先端がカールした動物の二本の角のような形をしており、ナスカ文化が栄えた紀元前100年―紀元600年ごろの土器によくみられるデザイン。豊作の儀礼に関係していると考えられるという。

 同じ場所に何度も重ね書きをした形跡も確認された。

 研究チームは米国の商業衛星が撮影したナスカ台地の画像を入手。昨年夏から分析を進めたところ、台地で新たな地上絵を発見し、今年3月までに現地でも確認した。

 ナスカの地上絵は、ペルー南部の乾燥地帯に広がる幾何学模様や鳥や動物などをかたどった巨大な地上絵群で、南米屈指の観光名所の一つ。ナスカ文化の時代に残されたとされるが、何のために描かれたのかは現在も解明されていない。


生石神社

by出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 大穴牟遅命、少毘古那命を主祭神とし、大国主大神、生石子大神、粟嶋大神、高御位大神を配祀する。

古代からの石切の郷「生石」(高砂市)Walk

2009.02.27 byby Mutsu Nakanishi


日本三奇「石の宝殿」を科学調査 高砂・生石神社

2008/01/09 神戸新聞

謎に包まれるご神体、石の宝殿。初めて内部が科学的に調査される=高砂市阿弥陀町生石、生石神社

 高砂市の生石(おうしこ)神社のご神体で、「日本三奇」の一つの巨大な石造物「石の宝殿」(兵庫県指定史跡)が初めて最新の探査技術で調査されることになった。「日本文化財探査学会」がレーダーや超音波を使い内部を調べるもので、結果を基に、高砂市教委は国史跡の指定を目指す。石の宝殿は「ご神体」であることを理由にこれまで科学的調査はほとんどなされず、存在や構造には謎が多かったが、今回の調査で解明に向けて一歩を踏み出す。(宮本万里子)

 石の宝殿は高さ約五・七メートル、幅約六・四メートル、奥行き約七・二メートル、重さ推定約五百トン。「播磨国風土記」の記述から七世紀初期に造られたとされる。神々が造ろうとした石殿とも、石棺を収める石造施設「石槨(せっかく)」とも言われるが、誰が何の目的で造ったかは謎とされてきた。

 学術的には一九六八年の調査で初めて、正確な規模が判明。二〇〇六年には高砂市教委と大手前大学が共同で三次元計測を試み、中心点や断面の状況を明らかにした。

 今回は日本文化財探査学会長の亀井宏行・東京工業大教授や、兵庫県立大、天理大などの研究者が集結し、最新のレーダーや超音波で石内部の構造を調査する。特に石の上面について、石を「墓」とする説を裏付ける「くぼみ」の存在や亀裂の有無を調べるという。

 調査は十二日午後五時半から翌朝まで。十二日午後五時に調査の概要、十三日午前九時に調査結果の説明があり、一般市民も参加できる。

 生石神社の東久祠(ひがしひさし)宮司は「ご神体なのでそっとしておいてほしいという思いもあり、複雑な心境。だが、子々孫々に残すという意義を踏まえ、科学調査の受け入れを決断した。平常心で見守りたい」と話している。

 日本三奇は生石神社の石の宝殿のほか、高千穂の峰の「天の逆鉾」(宮崎県)、塩釜神社の「塩釜」(宮城県)。

謎のご神体・7世紀の直方体の巨石、科学調査開始 兵庫

2008年01月13日 asahi.com

 兵庫県高砂市阿弥陀町の生石(おうしこ)神社のご神体で、7世紀のものとみられる巨大石造物「石の宝殿(ほうでん)」の初の科学的調査が12日、始まった。日本文化財探査学会(会長、亀井宏行・東工大教授)が電磁波と超音波をあて、内部に人工的な穴がないかなどを詳しく調べる。

 石の宝殿は高さ5.7メートル、幅6.4メートル、奥行き7.2メートルのほぼ直方体の凝灰岩。後ろに突起があり、両側面と上面に浅い溝が彫られている。奈良時代の「播磨国風土記」に登場するが、だれが何の目的で造ったかは分かっていない。飛鳥時代の斉明天皇や有力豪族・蘇我氏が造った石室との説もある。

 調査は午後5時に開始。石の両側に足場を組み、電磁波と超音波を照射し続けた。人工的な空間が見つかれば、石室説の有力な手がかりになるという。

 68年の実測調査の際、上面に四角い穴が二つ開けられている益田岩船(奈良県橿原市)と似た墳墓の一種と指摘された。天理大の置田雅昭教授(考古学)は「奇抜な構造物で、大きな富を持った人物が作らせたのだろう。穴の有無が確認されたら、石室を含めた用途も分かるかもしれない」と話している。

謎の巨石調査、人工的な穴は確認できず 兵庫・高砂

2008年01月13日 asahi.com

 兵庫県高砂市の生石(おうしこ)神社にある巨大石造物「石の宝殿(ほうでん)」の由来を調べるため、内部に穴がないかどうかを電磁波や超音波で調べていた日本文化財探査学会は13日、人工的な穴は確認できなかったとする速報結果を発表した。ただ、上方の一部が水分を多く含んでいることが判明したため、原因を今後分析する。

生石神社「石の宝殿」 科学調査の結果報告

2008/06/23 神戸新聞
  

説明会の後、石の宝殿を見学する参加者ら=高砂市阿弥陀町生石

 高砂市にある生石神社のご神体「石の宝殿」を一月に科学的な手法で調べた日本文化財探査学会が二十一日、同神社と県立考古博物館で調査結果を報告した。計四百人近くが出席。「石槨(せっかく)」説を裏付ける内部の空洞は確認できず、表面の劣化が進んで保存・修復が必要なことが分かった。(黒田耕司)

 石の宝殿は七世紀初期の築造とされるが、ご神体のためこれまで調査されておらず、詳しい歴史は解明できていない。同学会の調査は初めて科学のメスを入れるもので注目されていた。

 午前中の同神社での説明会では、同学会の亀井宏行・東京工業大教授が「空洞は確認できなかった。上部には植物の影響で、水が浸潤している」と報告。また、杉本恒美・桐蔭横浜大教授が「表面部分で劣化が進んでおり、保存・修復策が必要」と指摘した。

 集まった住民らは、謎が解明されなかったことでほっとした様子もみせた。高砂市猟師町の樫木良郎さん(69)は「謎が解明されるのは楽しみだが、夢も無くしたくない」と複雑な心境を語った。

 また、同神社の東久祠宮司は「劣化が進んでいるのが分かったので心配だ」とした。

 午後の考古博物館での発表会では、中條利一郎・帝京科学大学名誉教授が、石の大きさを測るのに「十六センチの倍数が単位として使われていた。この尺度を用い、日本と交流があったペルシャの技術が播磨へ伝播(でんぱ)したのでは」と推論した。

 今後の調査は未定だが、亀井教授は「要望があれば実施したい」と話した。

石の宝殿(生石神社)内部診断調査成果説明会が行われました(6月21日)

2008年06月23日 高砂市 企画総務部/秘書広報広聴室 広報担当
当日資料


【磐船神社の岩窟めぐり】登ってくぐって達成感

2010年04月26日 asahi.com
 

恐る恐る進む記者。白いたすきを着用、滑りやすい靴はわらじに履き替える=大阪府交野市私市9丁目

 岩窟(がんくつ)めぐりができるという大阪府交野市の磐船(いわふね)神社。「ちょっとした冒険を」と気軽に訪れたが、拝殿の後ろの巨石に圧倒された。古代から岩自体が信仰の対象で、修験者の行場として使われてきたという。レジャー感覚は吹っ飛び、厳かな気持ちになる。

 「通り抜けると、生まれ変われる」とされる岩窟の安全措置は今も最低限。手荷物は社務所に預ける決まり。西角明彦宮司から「白い矢印の方向以外には絶対に行かないように」とくぎを刺された。

 入り口だけは鉄製の階段がある。下りると巨石の間にできた空間だ。水が流れ込み、岩の間からわずかに差し込む光が内部を照らし、静謐(せいひつ)な雰囲気。目の前の岩が崩れてきそうで怖いが、阪神大震災でもビクともしなかったらしい。

 「あれ、行き止まり?」。進めそうもない場所に出た。複数の矢印が1点を指し「足から」の文字。足元に30センチにも満たない穴。通るというより落ちる感じでスルリと抜けると、岩に足がついてホッ。

 その後も、岩にへばりつき、よじ登って終点へ。距離にすれば200〜300メートルほど。20分は岩窟内にいただろうか。身一つで岩と格闘した達成感が心地よく残った。

 日頃、不規則な生活でたるみ切った肉体。生まれ変われたかどうかは分からないが、バドミントンをしていた学生時代の活力?がちょっぴりよみがえってきた気もした。(千葉雄高)

■¥500

 拝観料のみ。10歳未満と75歳以上は拝観不可。雨天時も不可。

■メモ 

京阪私市(きさいち)駅より京阪バスにて「磐船神社前」下車(土日のみ)、または近鉄生駒駅より奈良交通バス北田原方面行き、「北田原」から徒歩10分。問い合わせ=072・891・2125。

まるで冒険!インディー・ジョーンズ的岩窟めぐり「磐船神社」【大阪】

2008年11月15日

磐船神社 ((いわふねじんじゃ) byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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