TOPIC No. 9-10 伊勢神宮

01. お蔭参り(おかげまいり) byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
02. 神宮 by神宮司庁
03. 『神宮々司拝命記』と伊勢神宮  深沢秋男 by鹿島則文と桜山文庫
04. 神道への誘い by神社本庁.
05. 神社と神道 by神社オンラインネットワーク連盟
06. 真説日本古代史 -神社伝承学からみた古代史- by文献史学研究室
07. 伊勢神宮式年遷宮 広報本部 公式ウェブサイト
08. 伊勢神宮を支えた千数百年
09. 伊勢神宮(いせじんぐう) byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
10. 天照大神(あまてらすおおみかみ、あまてらすおおかみ) byフリー百科事典
 『ウィキペディア(Wikipedia)』
11. 天照大神
12. 第1章 伊勢神宮の謎に迫る! (日本とユダヤのハーモニー 第一部) (文・中島尚彦)
13. 籠神社(このじんじゃ、こもりじんじゃ)/元伊勢籠神社 byフリー百科事典
 『ウィキペディア(Wikipedia)』


「パワーもらいたい」お伊勢参りが大ブーム

2010年05月09日 読売新聞 YOMIURI ON-Line

お伊勢参りが大ブーム。参拝者でにぎわう伊勢神宮内宮の宇治橋

 三重県伊勢市の伊勢神宮への参拝者が急増している。

 内宮(ないくう)、外宮(げくう)を合わせ、昨年は800万人に迫った。今年も4月までで424万人に上り、統計が残る1896年以降で最多だった1973年の859万人を上回る勢いだ。雑誌やインターネットなどで「パワースポット」として紹介されるようになり、女性や若者の参拝者が増えたとみられる。神宮司庁も「最近の増加ぶりには驚いている」と話している。

 ◆式年遷宮PR効果も◆

 伊勢神宮の参拝者は、20年に1度の式年遷宮(せんぐう)の年とその翌年に急増しており、過去最多の73年も遷宮の年だった。それ以外の年は500万〜600万人台にとどまっていたが、遷宮の6年前の07年に700万人を超えると、08年は750万、昨年は798万人とうなぎ登りだ。その勢いは今年になっても全く衰えない。

 伊勢市や市観光協会などによると、3、4年ほど前から、女性誌などが「パワースポット」を特集するようになって、伊勢神宮でも女性や若いカップルが目立つようになり、観光案内所にも参拝の方法や手順を尋ねる若者が増えているという。

 パワースポットは、「元気をもらえる場所」「癒やされる場所」などとされている。たくさんの巨木がある伊勢神宮は、東京の明治神宮や宮崎県の高千穂神社などと並んで、多くの雑誌やネットのサイトで、「日本有数のパワースポット」として取り上げられている。

 大型連休に訪れた東京都目黒区の松本香子さん(39)は、「ファッション雑誌のパワースポットをテーマにした特集に心が動かされ、パワーをもらおうと思って、約20年ぶりに来ました」と話し、夫と子ども2人と一緒に参拝した。

 神宮司庁は「遷宮に向けて、東京や大阪などの大都市を中心にPRに力を入れており、様々なメディアで取り上げられる機会が増えたからでは」としているが、「それでも、このところの増え方にはびっくりしている」と驚きを隠さない。

 ただ、パワースポットとして取り上げられていることについては、「全国の神社にパワースポットという目が向けられているが、神宮は今も昔も変わらない。古来から続く神宮の姿に触れてもらえれば何よりだ」と話している。

 ◆式年遷宮=20年に1度、伊勢神宮の内宮、外宮の正殿や別宮など、60以上の社殿と神宝などをつくり替え、ご神体をうつす神事・祭事で、約1300年前に始まった。次回の第62回遷宮は2013年10月に、ご神体がうつる「遷御(せんぎょ)」が執り行われる。

サッカー:「伊勢ペルソナFC」改め、「伊勢YAMATO倶楽部」に /三重

2010年05月05日 毎日新聞〔三重版〕

 東海社会人サッカーリーグ2部で昨季3位に入った伊勢市を本拠地とする「伊勢ペルソナFC」が今季からチーム名を「伊勢YAMATO倶楽部」に変更し、新たな挑戦を始める。地域に愛され、チームの活躍で街に活気を与えるのが名称を変えた狙いという。チームを運営する安藤大作理事長(41)は「まずは1部昇格」と話しており、9日には伊勢市朝熊町の朝熊人工芝グラウンドで、春日井クラブ(愛知県)と開幕戦を迎える。

 ペルソナFCは県外を含め、中南勢地区出身の経験者が集まり、97年に発足した。選手は現在21人で、仕事をする傍ら、週に3回、練習に励んでいる。監督は県立四日市中央工業高の中心選手として91年度の全国高校サッカー選手権大会で優勝に貢献し、Jリーグでも活躍した中田一三氏(37)が務めている。

 また、サッカー選手を目指す子どもたちの目標になるチームづくりを目指し、サッカー教室にも力を入れている。09年7月、少年クラブ「FCアイレ」と合併し、「伊勢アイレ・ペルソナFC」の運営母体を設立した。今回、同FCも「伊勢YAMATO倶楽部」に名称を変更する。

 新名称は地元の伊勢神宮内宮を創建したとされる倭姫命(やまとひめのみこと)にあやかったという。互いに信じて和の心を大切にするサッカーを心掛け、毎月1日には神宮に朔日(ついたち)参りを実施し、伊勢を代表するチームとして、年6回の市内の清掃活動にも力を注いでいく。

 一方で、運営費などの資金援助を市民らに呼び掛けている。年会費2000円の個人会員▽3万円、1万円の法人会員▽15万円の特別法人会員がある。安藤理事長は「地域に愛されるチームを作りたい。会員の目標は1万人」と話している。問い合わせは同倶楽部(0596・39・6033)。【木村文彦】

雑記帳:五十鈴川の伏流水使った「横丁サイダー」人気

2010年05月05日 毎日新聞

おかげ横丁が開発した「横丁サイダー」(右)

 伊勢神宮(三重県伊勢市)の門前町「おかげ横丁」が、神宮近くを流れる五十鈴川の伏流水で「横丁サイダー」などを開発、観光客の人気を集めている。

 団塊世代が幼いころに飲んだ弱めの炭酸の柔らかい味を追求。後味がよく、さわやかに仕上げた。全国のサイダー約20種類を取り寄せ、飲み比べながら伏流水を改良。口の中ではじける泡の大きさにまでこだわったという。340ミリリットル入り200円。

 今年は伊勢神宮の参拝者が増えるとされる60年に1度の「おかげ年」。景気低迷が続く中、さわやかなサイダーが、観光客の財布にも刺激を与え、はじけるような御利益をもたらしそう?【福泉亮】

トキワマンサク:苗木を無料配布 きょう伊勢・おかげ横丁で /三重

2010年05月04日 毎日新聞〔三重版〕

 伊勢市宇治中之切町の「おかげ横丁」の季節屋台横で4日、珍しいトキワマンサクの苗木約300株が無料で配布される。伊勢の誇りでもあるトキワマンサクを育ててもらおうと、横丁が挿し木で増やし、25年ほど前から配布している。

 トキワマンサクはマンサク科トキワマンサク属の常緑木。4月から5月ごろにかけ、淡い乳白色や白桃色の細長い紙細工のようなかれんな花を咲かせる。原産地は中国で、日本での自生地は限られており、伊勢神宮をはじめ、熊本、静岡両県の3カ所でしか確認されていないとみられる貴重な樹木だ。

 横丁を運営する伊勢福の職員が毎年、挿し木をして増やし、5〜10センチほど育った苗木を配っている。配布開始は午前10時から。問い合わせは横丁案内(0596・23・8838)。【木村文彦】

「平安婚礼」の参加者を募集 明和・歴史体験館

2010年05月04日 読売新聞 YOMIURI ON-Line

平安装束で結婚式を挙げるカップル(昨年)

 平安貴族らが行っていた“結婚式”を体験しませんか――。明和町斎宮の「いつきのみや歴史体験館」は、平安時代の衣装を身に着けて結婚式や金婚式、銀婚式などを挙げる「平安婚礼」の参加者を募集している。

 挙式日は6月18日、7月23日、9月26日、11月19日、12月3日、来年1月21日、2月4日、3月18日の8日(いずれも午前11時から約1時間)で、毎回1組。

 寝殿造りをイメージして建てられた同館で、男性は直衣(のうし)、女性は十二単(じゅうにひとえ)姿になり、当時のしきたりに従って2人で和歌を詠み交わす「和歌の披露」や、結婚3日目に餅を食べる「三日夜(みかよ)の餅」を体験する。

 また、天皇に代わって伊勢神宮に仕えた未婚の皇女「斎王」が食べたとされる食材を使った創作料理「斎王弁当」の昼食や記念写真の撮影などもある。

 2001年から毎年、行っているが予約が殺到し、問い合わせも多いという。式は一般に公開する。費用は1組8万円。問い合わせは同館(0596・52・3890)。

180年前の「お鍬祭り」詳しく 名古屋の旧家に絵巻物

2010年05月04日 中日新聞

新たに確認された「お鍬祭り」の絵巻物。にぎやかな行列が描かれている=名古屋市瑞穂区の市博物館で

 江戸時代、伊勢神宮の「御師(おんし)」と呼ばれる神職がくわ形のご神体を庶民に配布し広がった「お鍬(くわ)祭り」を描いた絵巻物が、新たに確認された。江戸後期に清洲宿(清須市)中心部で行われた様子を描いてあり、中部各地のお鍬祭りの歴史を研究する上で貴重な資料。特別展「伊勢神宮と東海のまつり」を開催中の市博物館に展示された。

 絵巻物は名古屋市千種区の旧家の所有で、特別展を機に同博物館に持ち込まれた。長さ約11メートルで「清洲宿神明町」の記述と、地元の有力町人だった武田源四郎の署名がある。

 くわ、かまなど農具を題材にした指し物を持った人々、獅子舞、みこしといった祭り行列が描かれている。終盤に笛太鼓のはやし方が入った屋台と、米俵を乗せた馬が登場する構成が、1827(文政10)年、清洲一帯で行われたお鍬祭りの別の絵巻物とおおむね一致。これと同時期の作製で、表現から伊勢神宮の外宮が祭りに関与したことも分かった。

 同博物館の担当者は「180年前の祭りの登場人物が詳しく記録されている。行列の仮装などが2つの絵巻物では細かく違い、同時期に近い場所で行われた祭りにもそれぞれ個性があったことが分かる」と話している。

 お鍬祭りは、1600年代前半から約60年おきに全国各地で流行。中部では、尾張地方西部を中心に豊作などを願う祭りとして今も受け継がれ、3年前には名古屋市、2年前には清須市などであった。

 同展は30日まで(月曜と6、25日休館)。有料。 (谷村卓哉)

神楽祭 優美な舞 伊勢神宮

2010年04月30日 asahi.com

 伊勢神宮の内宮神苑(しんえん)で28日、春季神楽祭が開幕した。華やかな装束に身を包んだ舞人が、雅楽の演奏に合わせて華麗な舞を演じた=写真。舞楽は29、30の両日午前11時と午後2時にも披露される。

 演目は、舞台を清める「振鉾(えんぶ)」で幕を開け、男性4人がゆるやかで優美な舞として知られる「五常楽」を10年ぶりに披露した。創作舞楽の「胡蝶(こちょう)」では、4人の舞女(まいひめ)が背中にチョウの羽、額に山吹の花を挿した天冠を着け、春の園でチョウが遊び戯れる風情を舞ってみせた。

火除橋渡り始め伊勢神宮

2010年04月29日 読売新聞 YOMIURI ON-Line

渡り始めをする鷹司尚武大宮司ら

 伊勢神宮で、式年遷宮(2013年)に向けて、内宮の宇治橋に続いて橋の架け替えが進められ、内宮表参道の火除橋(ひよけばし)(長さ4・8メートル、幅9メートル)と外宮表参道の火除橋(長さ8・6メートル、幅10・4メートル)が完成し、28日、外宮表参道の火除橋で鷹司尚武大宮司らが渡り始めを行った。

 火除橋は、防火用に掘られたという溝川に架かる。架け替えには、宇治橋と同じく、敷板(しきいた)と高欄はヒノキが使われ、船大工が、敷板を密着させる「すり合わせ」などの技術で作業を進めてきた。

 外宮裏参道と内宮裏参道の火除橋も5月上旬から架け替えに入り、6月上旬に完成する予定。また、内宮では別宮の「風日祈宮(かざひのみのみや)」に通じる橋の架け替えも進んでおり、9月に完成予定。

ナマコの産卵場づくり 鳥羽の天然いけすで藻場整備

2010年04月25日 中日新聞

ようす池に、ナマコの産卵場をつくるためにブロックやカキ殻を運び込む研究会のメンバーら=鳥羽市国崎町で

 伊勢神宮へ熨斗(のし)あわびを2000年以上献上し続けているアワビのまち・鳥羽市国崎町の有志が、アワビやナマコなどを育てる藻場の整備に着手した。24日は、とったアワビを保管するために昔設けられた前の浜脇の天然いけす「ようす池」で、ナマコの産卵場づくりを行った。

 取り組んだのは「くざき鰒(あわび)研究会おべん」。地域資源を守り、将来的には品質の良い海産物を利用した特産品をつくり地域活性化につなげようと、地元の漁業、農業、会社員などの7人で今月1日に発足した。

 活動の第1弾として取り組んだのが、初夏にかけて産卵期を迎えるナマコの産卵場づくり。ナマコはアワビ、サザエとともに海女漁の主要漁獲対象であるとともに、海底の有機物を食べ海をきれいにする役割がある。

 ナマコ研究の第一人者である徳島大・浜野龍夫教授の指導を受けており、この日は、ナマコの隠れ場所となるブロックやカキ殻などをようす池に運び込んだ。潮が引かず、すべての作業はできなかったが近く、使用済みの漁網を利用した漁礁をつくり、藻が付きやすい環境を整備する。

 作業には地元の海女や国崎小の児童ら約20人も参加した。奥田佐吉会長(64)は「試験的な取り組みだが、将来、海女さんがいっぱいアワビなどをとってもらえるようにしたい」と話した。 (遠藤健司)

大麻用材伐始祭 内宮で80人参列

2010年04月21日 読売新聞 YOMIURI ON-Line

手斧を振り下ろす小工

 伊勢神宮の神札「大麻」の中心となる「御真(ぎょしん)」用のスギを伐採する「大麻用材伐始(きりはじめ)祭」が20日、内宮西側の丸山祭場で行われた。

 鷹司尚武大宮司をはじめ、神宮職員約80人が参列。作業の安全を祈った後、素襖(すおう)、烏帽子(えぼし)姿の小工(こくだみ)3人が前に進み出て、1人が神宮林のある神路山に向かって、手斧(おの)を3回振り下ろした。伐採したスギは製材し、半年ほど風雨にさらしてヤニを取り、乾燥させて厚さ約1ミリの木地に加工、御真に仕上げる。

新茶:伊勢神宮奉納へ、茶葉の手もみ−−鈴鹿市茶業組合 /三重

2010年04月21日 毎日新聞〔三重版〕

伊勢神宮へ奉納する新茶を手もみする鈴鹿市茶業組合員(同市提供)

 茶葉の豊作と茶業の繁栄を祈願し、伊勢神宮へ奉納する新茶を作るため、鈴鹿市茶業組合は20日、同市山本町の市茶研究センターで、茶葉の手もみ作業を行った。

 内山勝之組合長(65)の茶畑で摘み取った約3キロの「やぶきた」を製茶し、蒸された茶葉を「ほいろ台」に乗せ、昨年、鹿児島県で行われた「全国手揉(も)み茶技術競技会」で優勝した市川晃さん(45)、伊藤力一さん(35)、市川浩美さん(49)=いずれも県手揉み保存会員=らがもみ、約5時間かけて木綿針のように細くて美しい新茶約500グラムを作り上げた。

 新茶の奉納は21日、県茶業会議所に所属する鈴鹿市と四日市市、亀山市、大台町で今年初めて作られた計約4・7キロの茶をまとめ、中嶋正会頭が団長となって行われる。【大原隆】

御衣祭りに1万6000人

2010.04.19 東日新聞

参拝客でにぎわう伊良湖神社の参道

 田原市の伊良湖神社で18日、恒例の「御衣(おんぞ)祭り」が開かれ、参道周辺には多くの露店が並び、参拝客でにぎわった。

 この祭りは、三河で採れた蚕糸を荒妙(あらたえ、織り目の粗い布)にして伊勢神宮に奉納したのが始まりとされる。この日、女性は針やはさみを手にせず、漁業関係者は船札を受けて船の安全を受ける習わしがある。

 伊良湖神社はかつて、伊良久大明神と呼ばれ、周辺地域は伊勢神宮領で伊勢神宮と縁が深く、外宮から神官が来て神事を行っていた。

 この日、同神社では午前11時から神事が行われ、地元自治会や観光業者など50人が出席。参道周辺は、130以上の露店が並び、家族連れなどで大混雑、約1万6000人が家内安全、漁の安全を祈願した。(松井俊満)

伊勢神宮:GW中参拝、パーク&バスライドで 指定駐車場から無料輸送 /三重

2010年04月19日 毎日新聞〔三重版〕

 ◇内宮周辺で通行禁止も

 大型連休中の伊勢神宮周辺の交通渋滞を緩和させるため、伊勢市と市観光協会などで組織する「伊勢地域観光交通対策協議会」は、臨時駐車場を設けるほか、指定した駐車場から無料バスで参拝者を振り替え輸送する「パーク&バスライド」を実施する。

 市交通政策課によると、常設の浦田駐車場(同市宇治浦田1、約640台)に加え、臨時駐車場として▽五十鈴川河川敷(同、約900台)▽グリーントピア(同市宇治館町、約490台)▽サッカー場(同、約220台)▽県営陸上競技場(同、約100台)▽県営体育館(同、約140台)を設置し、29日と30日は無料、5月1〜4日は1台1000円を徴収する。

 パーク&バスライドは、5月1〜4日に実施する。県営サンアリーナ駐車場(同市朝熊町、約2300台収容)に誘導し、シャトルバスで内宮まで送迎する。駐車料金は1000円、シャトルバスは無料。運行時間は午前10時〜午後4時。

 このほか、宇治浦田町交差点−内宮間が午前7時〜午後6時半は通行禁止。伊勢自動車道の伊勢西、伊勢インターチェンジは、時間帯によって出口が利用できないなどの交通規制がある。問い合わせは、事前が伊勢地域観光交通対策協議会(0596・21・5703)、期間中がパーク&バスライド実施本部(080・1377・6704)。【木村文彦】

伊勢「旧賓日館」を国重文指定

2010年04月17日 読売新聞 YOMIURI ON-Line

文化審答申 三重県内182件目

重要文化財に指定される旧賓日館(県教委提供)

 国の文化審議会は16日、伊勢市二見町の「旧賓日館(ひんじつかん)」を国の重要文化財(建造物)に指定するよう文部科学相に答申した。これで、県内の国宝・重要文化財は182件となる。

 「賓日館」は1887年(明治20年)、伊勢神宮の崇敬団体「神苑会(しんえんかい)」が、神宮を訪れた皇族たちの休憩や宿泊のために建設した。昭和前期に大規模な改修や増築が行われたが、本館の「御殿の間」は明治の創設時の姿を残しており、座敷の床(とこ)の段差・框(かまち)に螺鈿(らでん)を施すなどの凝った意匠を持つ。1935年(昭和10年)に建て替えられた大広間棟は、120畳の大広間に能舞台も構えている。

 明治から昭和前期にかけての建築技術や意匠の変遷を示す大規模な近代和風建築として、高い価値があるという。

いせびとニュース:伊勢の今伝える情報紙、市観光協会など創刊 年2回発行 /三重

2010年4月14日 毎日新聞〔三重版〕

 伊勢神宮の式年遷宮(13年)に向け、伊勢市の出版社「伊勢文化舎」と市観光協会、観光活動に取り組む有志などで組織する「おかげまいりブランド戦略委員会」が共同で、伊勢の今を伝える情報紙「いせびとニュース」を創刊した。遷宮まで年2回、発行する。

 第1号は、江戸時代にほぼ60年周期で流行した「おかげ参り」に今年が当たるため、おかげ参りの歴史と意義を特集した。また、社殿のかやぶき屋根のかやの収穫の様子や遷宮ごとに作り替えられている調度品「御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)」の調製の様子などを紹介している。

 昨年11月、伊勢神宮内宮の宇治橋の渡始(わたりはじめ)式で、式年遷宮広報本部などが「お伊勢さんニュース」を2回発行したところ、読者や配布先から次号以降の継続を望む声が多く寄せられたため、同文化舎が遷宮の準備を中心にした情報を春と年末の2回、発行することにした。タブロイド判の8ページ。10万部を発行。市内の宿泊・観光施設、駅、おかげ横丁などで無料配布している。問い合わせは同文化舎(0596・23・5166)。【木村文彦】

海女さんが伊勢神宮にアワビとサザエ奉納…三重

2010年04月12日 読売新聞 YOMIURI ON-Line

竹製のざるに入れたアワビを奉納する海女さんたち

 志摩市志摩町の漁協関係者らでつくる「あわび奉納実行委員会」が10日、伊勢市の伊勢神宮内宮にアワビとサザエを奉納し、海上の安全と大漁を祈願した。

 奉納は旧志摩町時代に「あわび王国」を宣言したのをきっかけに始まり、今年は8人の海女さんを含む約20人が奉納に参加。竹製のざるに10キロずつのアワビとサザエを入れ、宇治橋を渡った。参加した海女さんたちは「昨年に比べ大きめの物が多い」と笑顔を見せていた。

2012年開館「せんぐう館」起工式 伊勢神宮外宮

2010年04月06日 読売新聞 YOMIURI ON-Line

意義、木の文化など継承

せんぐう館の完成予想図(神宮司庁提供)

 伊勢神宮の第62回式年遷宮(2013年)の記念として、外宮に建設が計画されていた「せんぐう館」の起工式が5日、建設地の勾玉(まがたま)池近くで行われ、鷹司尚武大宮司を始め神職や工事関係者約90人が参列、2年後の2012年春の開館に向けて、工事の無事を祈った。

 神宮司庁の説明によると、同館の基本理念は「式年遷宮を伝える」で、正殿に代表される「木」の文化と装束神宝の美・技の未来への継承のほか、外宮や周辺の活性化を目的にしている。地上1階、地下1階(建築面積約1795平方メートル)で、外宮にはなかった参拝者の休憩舎(約350平方メートル)も併設する。

 伊勢神宮の博物館は、過去の式年遷宮の装束神宝などを展示した「神宮徴古館」が伊勢市内にある。せんぐう館は、遷宮の意義を広く伝えることに特化し、一般には見られない、装束神宝などができる過程を展示や実演、映像などで紹介する。ワークショップ(体験教室)、講座なども行う予定。

 また、外宮の正殿の3分の1を実物同様に造って展示するほか、ご神体を新宮にうつす「遷御(せんぎょ)」の行列の模型展示などが決まっている。勾玉池にある奉納舞台の移設などを含めた総工費は25億円。

抜穂祭:神田で豊作感謝 80人が参列−−伊勢神宮 /三重

2009年09月03日 毎日新聞〔伊賀版〕
 

 伊勢神宮の内宮と外宮に供える稲を刈り取る抜穂祭(ぬいぼさい)が、伊勢市楠部町の神宮神田で行われた。

 午前10時に鷹司尚武大宮司や神宮神職、地元の人たち約80人が参列。約3ヘクタールある新田の中央付近の祭壇で、神事が始まった。祝詞をあげ、豊作に感謝した後、作長の山口剛さんと、白装束に黒い烏帽子姿の作丁10人が神田の前に立ち、作丁2人がカマで黄金色に実った稲を刈り取った。【木村文彦】

近鉄、伊勢神宮の7宮を巡れる朱印帳付き割引切符を発売

2009/08/29 マイコミジャ−ナル 日高彰

 近畿日本鉄道は、20年ごとに社殿を建て直す伊勢神宮の「式年遷宮」が2013年に近づいてきたことにあわせ、伊勢志摩地区への切符と伊勢参りで便利な朱印帳などをセットにした「伊勢の神宮 正宮 別宮 おかげ参り ご朱印巡りきっぷ」を9月1日から発売する。発売期間は2010年3月末までで、利用期間は購入翌日から2010年4月末まで。価格は大阪・京都・奈良府県内発着の「関西発」が5,500円、愛知・三重県内発着の「東海発」が5,000円(いずれも大人用のみ)。

 発着駅からフリー区間(松阪駅−賢島駅間)までの往復乗車券・特急券、フリー区間の近鉄電車乗り放題(フリー区間ない特急券2枚付)、松阪・伊勢・鳥羽・志摩地域の三重交通バス乗り放題、南紀特急バス松阪駅前−滝原宮前間の半額割引券2枚、伊勢名物「赤福」の引換券(店舗飲食のみ)がセットになっており、近鉄沿線から伊勢神宮の参拝へ出かけるのに便利な内容となっている。

 伊勢神宮は、一般に内宮・外宮と呼ばれる「正宮」に加え、正宮と関わりの深い神を祭る「別宮」など、多くの宮社からなっている。今回の「ご朱印巡りきっぷ」では、内宮・外宮および5つの別宮の御朱印が集められる朱印帳がセットに含まれており、フリー区間の電車・バスを利用して宮社を巡ることで伊勢神宮の魅力をさらに深く知ることができる。

 前売り専用のため乗車日前日までに購入する必要があるが、乗車日や発駅・着駅の指定は不要。有効期間は乗車開始日から3日間。主要駅、KNTツーリスト・近畿日本ツーリスト、JTB・日本旅行各グループの主要支店などで販売する。


【いせトリビア 「伊勢神宮」展】(1)しめ縄は年中無休

2009.08.23 MSN産経新聞

年間を通して玄関に飾られる伊勢地方のしめ縄=三重県伊勢市

 東京国立博物館(東京・上野公園)で開催中の「伊勢神宮と神々の美術」展をより楽しく見るための伊勢神宮(三重県伊勢市)と伊勢地方にまつわる「へぇ〜」な話を紹介する。

 日本の正月に欠かせない「しめ飾り」。一説には、伊勢神宮の主神、天照大神(あまてらすおおみかみ)が弟の素戔嗚(すさのお)の乱暴ぶりに怒り、天の岩屋に隠れたエピソードに起源を持つ。天照大神が岩屋から引き出されると二度と入れないように縄を張り巡らせたのが、その始まりだとしている。

 しめ飾りは年初のうちに外されるのが通例だが、伊勢市や隣接する鳥羽市、志摩半島全域では通常、玄関のしめ飾りを年間通して外すことはない。伊勢を訪ねた素戔嗚を助けた際に受けた茅(かや)の輪を玄関に掲げて難を逃れたという言い伝えに倣い、伊勢詣でが庶民にも広がった400年ほど前から通年、掲げるようになったとされる。

【いせトリビア 「伊勢神宮」展】(2)江戸時代のファストフード

2009.08.24 MSN産経新聞

極太のめんと黒っぽいタレが特徴の伊勢うどん(山口屋提供)

 三重県伊勢市の名物といえば、東京国立博物館(東京・上野公園)で開催中の「伊勢神宮と神々の美術」展で特別販売されている「赤福餅(もち)」が有名だが、庶民の味として親しまれている「伊勢うどん」も人気が高い。

 1時間ほどゆでた柔らかな極太のめんに、たまり醤油(じょうゆ)と鰹(かつお)を基本としただしで作った香り高い真っ黒なタレ(つゆとは呼ばない)を絡め、青ネギの薬味だけでいただく。ほんのり甘いシンプルな素うどんには、一味唐辛子が似合うようだ。

 もともとは伊勢地方の農家の簡便な食事だったが、著名人の愛好家も多い老舗「山口屋(やまぐちや)」の主人の調べでは、伊勢神宮(伊勢市)への参拝がブームとなった江戸初期に商品化されると、手早く出てくる繁盛店の定番メニューとして、「生きているうちに何杯も食べないと、閻魔(えんま)様にしかられる」と評判を呼んだという。

【いせトリビア 「伊勢神宮」展】(3)小津安二郎が愛した味

2009.08.25 MSN産経新聞

明治天皇に献上され、小津安二郎が愛した二軒茶屋餅(角屋提供)

 何事にもライバルは存在する。東京国立博物館(東京・上野公園)で開催中の「伊勢神宮と神々の美術」展で特別販売されている「赤福餅(もち)」にも、好敵手といえる伊勢名物が存在する。

 歴代天皇で初めて伊勢神宮(三重県伊勢市)に訪れたのは明治天皇。明治5年、海路から伊勢神宮に近い瀬田川(せたがわ)の河口に上陸すると、天正3(1575)年創業の「角屋(かどや)」(赤福は宝永4=1707=年創業)に立ち寄り、あずき餡(あん)を薄皮の餅でくるみ、きな粉をまぶした「二軒茶屋(にけんぢゃや)餅」を食して休憩をとった。

 名称の由来は、隣接してあった「湊屋(みなとや)」との2軒の茶屋から。東京都世田谷区の地名、駅名「三軒茶屋」のいわれと同様だ。

 伊勢市内の旧制中学に通った名映画監督の小津安二郎は、二軒茶屋餅が大好物だった。学業を置いてでも通った映画館のように、通学路とは逆方向に足を運んで楽しんだという。

【いせトリビア 「伊勢神宮」展】(4)霊験あらたかな“万能薬”

2009.08.26 MSN産経新聞

伊勢神宮の外宮(げくう)近くにある小西萬金丹本舗(古厩正樹撮影)

 東京国立博物館(東京・上野公園)で開催中の「伊勢神宮と神々の美術」展にちなんで、うどん、餅(もち)と三重県伊勢市の名物の話題が続いたが、旅先で食べ過ぎただろう参拝客の強い味方として、伊勢神宮(伊勢市)の門前には「萬金丹(まんきんたん)」という“万能薬”が伝えられている。

 萬金丹は15世紀初頭の室町時代、伊勢神宮の鬼門を守る朝熊山(あさまやま)の山中で虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)により製法を授けられたと伝えられる。甘草(かんぞう)、阿仙薬(あせんやく)、桂皮(けいひ)、陳皮(ちんぴ)などでできた丸薬で、最近まで胃腸薬に分類されたが、かつては、めまいなど何にでも効くと重宝された。

 伊勢詣でがブームの元禄年間(1688〜1704年)から、軽く、かさばらない土産として圧倒的な人気を集める一方、京、上方、江戸でも販売された。現在も「小西(こにし)萬金丹」が17代目の手によって、外宮(げくう)近くの参宮街道で大店(おおだな)の威風を保っている。

【いせトリビア 「伊勢神宮」展】(5)家康が重用した山寺

2009.08.27 MSN産経新聞

天照大神を祭った三重県伊勢市の金剛証寺の本堂(古厩正樹撮影)

 戦国の世を制した徳川家康は、支配をより強固なものにしようと、当時の新旧の仏教界で実権を掌握する一方、伊勢神宮(三重県伊勢市)に対しても注力を惜しまなかった。慶長8(1603)年に江戸幕府を開くと同時に山田(やまだ)奉行を置き、伊勢神宮の守護と門前の支配、伊勢に隣接し、強力な水軍の要港である鳥羽の警備などに当たらせた。

 山田奉行所からは、8代将軍、吉宗の時代、ご存じ大岡越前守忠相(ただすけ)を輩出しているが、開設間もない奉行所は家康の命によって、慶長14(1609)年の式年遷宮(せんぐう)に大きな力を発揮。同時に、神宮の鬼門を守る山寺の金剛証寺(こんごうしょうじ)の本堂(重要文化財)を再建させている。臨済宗を宗旨とし、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)が鎮座し、壮麗な金箔(きんぱく)と漆塗りが施された本堂は今も、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭る神棚が同居。明治維新で徹底的に排除された神仏習合の極致を見ることができる。

「伊勢神宮と神々の美術」 両陛下、「神像」などご鑑賞

2009/08/19 Fuji Sankei Business-i

天皇、皇后両陛下は18日、東京・上野公園の東京国立博物館平成館で開催中の特別展「伊勢神宮と神々の美術」(産経新聞社など主催)を鑑賞された。

 式年遷宮は、伊勢神宮が20年ごとにすべての社殿を造り替え、神体(しんたい)を移す行事。特別展は、2013(平成25)年に行われる伊勢神宮の第62回式年遷宮を記念して開催されている。

 両陛下はまず、伊勢神宮へのお参りの様子を表した壮大な絵画「伊勢参詣曼荼羅(まんだら)」をごらんになった。これは室町から江戸時代にかけて描かれた縦1.5メートルほどの大型絵画で、世界に4点しか現存していない。天皇陛下は説明を受けながら、「これが外宮(げくう)ですね」と確認される場面もあった。

 また、両陛下は、神々の姿を彫刻で表現した数々の「神像」もごらんになった。ヒゲを蓄えた威厳のある「男神坐像」などを鑑賞しながら、天皇陛下は「神像はいつごろからできたのでしょうか」と質問されていた。

 神仏習合の影響を受け、剃髪(ていはつ)した僧が合掌しているような形の「僧形神坐像」の前では、皇后さまは「お坊さんのよう」と、特に興味深そうにごらんになっていた。

【伊勢神宮と神々の美術】神像 朽ちることの美学

2009/07/11 Fuji Sankei Business-i

 神の依り代(よりしろ)とする神体は、鏡、刀、玉などが代表的だが、仏像と同様に神々の姿を写し取った神像が存在する。天照大神の依り代とされる三種の神器を筆頭として、神体は神殿の奥などに安置され、みだりに人の目に触れることはない。

 仏像がその姿を目の前にして拝まれて信仰の対象となり、キリスト像や十字架と同様に、布教の一助ともなるのとは違い、神像は存在を秘して、その霊験を保ってきたといえる。

 神像が彫られたのは、日本に仏教が普及した8世紀からとされる。古来の日本の神々を仏教の仏に置き換える本地垂迹(ほんじすいじゃく)の考えが中世以降に広まり、神仏習合が進むとともに神像づくりも盛んになったと考えられている。

 インドの神々を本家とし、中国、朝鮮半島を介して洗練された表現を特徴とする仏像に対し、制作当時の貴族の姿を写した神像は、素朴な姿に骨太な精神を漂わせる。彩色、時には金箔(きんぱく)さえ施して絢爛(けんらん)さを見せる仏像とは違い、彩色も控えめで、時には朽ちるままに任せられたものもある。

 「神が宿ったとされる霊木を使う例もあり、できるだけ手を加えないのも特徴」とは神像に詳しい神奈川県立歴史博物館の薄井和男学芸部長。「朽ちるのを良しとするのは日本古来の滅びの美学」と説明する。

              ◇

 ■美輪明宏さんが音声ガイド

 会場では、歌手で俳優、演出家の美輪明宏さんが務める音声ガイドを聴くことができる。深く静かな声で伊勢神宮の歴史や展示物の魅力を語っている。美輪さんは「日本にどっぷりつかることができます。命の意味、存在理由を呼び起こされると思います。そのお手伝いができれば」と話している。ガイド機のレンタル料は500円。

【伊勢神宮と神々の美術】伊豆山神社の男神立像を会場に搬入

2009.07.09 MSN産経新聞

 会場に搬入された重要文化財の「男神立像」=9日、東京・上野公園の東京国立博物館(緑川真実撮影)

 伊勢神宮(三重県伊勢市)の第62回式年遷宮(せんぐう)を記念する「伊勢神宮と神々の美術」展(産経新聞社など主催)が14日に開幕するのを控え、伊豆山(いずさん)神社(静岡県熱海市)に伝わる重要文化財の神像「男神立像(だんしんりゅうぞう)」が9日、会場の東京国立博物館(東京・上野公園)に搬入された。

 男神立像は11世紀につくられ、高さ212・2センチで現存する神像としては最大を誇る。一般的に神像は鏡などと同様、神の依り代(よりしろ)として神殿の奥に置かれ、みだりに人の目に触れることがなく、本格的な学術調査も近年、ようやく始められたばかりだ。

 展覧会は普段は目にすることの少ない神像の数々が一堂に会する貴重な機会となる。

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 14日から9月6日まで。前売り券は一般1100円、大学生700円、高校生500円。詳細は公式サイト(www.iseten2009.jp)。

御潜神事:伊勢神宮献上、熨斗あわびに加工 3年ぶり、鳥羽・国崎で古老ら /三重

2009年07月02日 毎日新聞〔三重版〕

採ったアワビを熨斗アワビに加工する古老たち

 伊勢神宮に献上する熨斗(のし)あわび用のアワビを採る「御潜(みかづき)神事」が1日、3年ぶりに復活した鳥羽市国崎(くざき)町。海女たちが潜って採ったアワビは早速、調進所で古老たちによって熨斗あわびに加工された。

 地元の海女たち35人が潜ったのは、禁漁区となっていた前の浜。神事のためこの日解禁され、太鼓の合図とともに一斉に海に出た。1時間の漁で10個以上のアワビを採る海女もおり、浜は3年ぶりの神事に活気付いた。

 アワビは浜近くの調進所に持ち込まれ、辻弥八さん(84)と松井繁さん(80)が、かまで熨斗あわびにした。国崎町は古代から伊勢神宮に熨斗あわびを献上しており、毎年6、10、12月の3回、アワビ計2000個(約700キロ)を加工しているという。

 神事に参加した世古きみ子さん(56)は「たくさんアワビが採れた。復活して良かった」とにっこり。世古安秀町内会長は「2000年も続いている熨斗あわび作りの伝統を、こうして見える形で子孫に伝えたい」と話していた。【林一茂】


【今に生きるみやびの世界】(1) 斎王(いつきのみこ)

2009.07.02 MSN産経新聞

 古代から中世にかけ、660年にわたって、皇族の女性が伊勢神宮に奉仕する制度がありました。その役職を斎王(いつきのみこ、いつきのひめみこ)といい、年齢制限などはなく、未婚であることが条件で期間は原則天皇一代に一人。天皇の譲位、崩御などがないと都には帰れず、「その」天皇の代理として伊勢神宮に仕えました。

 東京から新幹線と近鉄特急などを乗り継ぎ、約3時間で松阪に。そこから各駅停車で4つ目「斎宮」駅の北側には広大な芝生広場や、ミニチュアの建物模型、そして寝殿造り風の建物と「斎宮」と書かれた看板が目に入ります。そこはもう、かつて斎王が住まいとした宮殿、斎宮の中。その駅の北側の字(あざ)の名も「斎王」です。

 伊勢神宮に皇女が仕えた記録は、720年の最古の歴史書『日本書紀』に既にありますが、まだ斎王という言葉は見られません。それらの記事の信憑(しんぴょう)性は伊勢神宮成立期の問題とリンクしますが、確認されている最古の斎宮関連遺跡は7世紀後半のものです。それは天武天皇の娘、大来皇女の時代と重なる可能性があります。

 斎王は奈良時代までは、単に「斎」とのみ書かれ「いつき」と呼ばれていたようで、「いつく」という動詞から来た言葉で、身を清く保って神に仕える、という意味です。神に仕えるために世間を離れて暮らす皇女、それが斎王でした。平安時代になると、京の賀茂神社にも斎が置かれ、賀茂斎、また賀茂斎院とも呼び分けました。「斎王」という用語が定着するのは、9世紀後半のことだったようです。

               ◇

 今月14日から東京・上野の東京国立博物館で「伊勢神宮と神々の美術」展(9月6日まで)が開催されます。これに合わせて三重県立斎宮歴史博物館学芸普及課の榎村寛之課長に、その「みやびの世界」を解説いただきます。同展公式HP=http://www.iseten2009.jp/

【今に生きるみやびの世界】(3)禊(みそぎ)

2009.07.16 MSN産経新聞

 伊勢神宮に奉仕した皇室の女性たち、斎王(いつきのみこ)を現代にイメージすれば、京都の葵(あおい)祭の花形、斎王代(さいおうだい)でしょう。これは平安〜鎌倉時代に置かれた賀茂神社の斎王、賀茂斎院(かものさいいん)を再現したものです。その重要な任務の一つが「禊(みそぎ)」。葵祭の禊は、現在は上賀茂神社、下鴨神社で隔年で行われています。

 伊勢の斎王も、その最初に行う公的行事は禊で、新斎王は自邸にこもった後、賀茂川などで禊をして初斎院(しょさいいん)に入り、野宮(ののみや)に移る前に桂川で、伊勢に群行する前にも桂川で禊を行います。

 「祓(はらえ)」も似た神事ですが、『律令』では、祓は身体の穢(けが)れを捨てる呪術とされ、水を使わない場合もあったのに対して禊は水と縁の深い儀礼です。特に斎王は、群行で川を渡る際に禊を行います。また、伊勢では、1年間に、川で2度、海で2度の禊を行いました。川の禊は5月と11月、斎宮近くの川(祓川(はらいがわ))で、海の禊は8月と10月に斎宮の北方、大淀(おおよど)の浜で行います。川の禊は神宮の6月、12月の月次祭(つきなみさい)、8月は9月の神嘗祭(かんなめさい)、10月は斎宮の11月新嘗祭(にいなめさい)という重要な祭に備えるものでした。

 斎王が、斎王を下りて都に戻る途上の最後の禊は難波津(なにわづ)(大阪湾)で行われました。つまり斎王は、大和を挟み、東の海と西の海で禊を行ったのです。神話の世界では、アマテラスはイザナギの海の禊で生まれました。海の禊には、神性を身につけたり返したりするような、重大な意義があったとも思われます。  (三重県立斎宮歴史博物館学芸普及課長 榎村寛之)

【今に生きるみやびの世界】(4)三節祭(みおりのまつり、さんせつさい)

2009.07.23 MSN産経新聞

 11月23日の勤労感謝の日は、元は新嘗祭(にいなめさい)と言い、新しい農業生産物を神にささげる収穫祭でした。しかし、神宮での収穫祭は神嘗祭(かんなめさい)といい、旧暦9月と、最も早く行われました。太陽暦に変わった明治以後、一般的な稲の収穫時期である10月に行われるようになりました。

 斎王(いつきのみこ)の伊勢神宮参詣は、この神嘗祭と6月、12月の月次祭(つきなみさい)の、年3回だけでした。月次祭は本来、神嘗祭と同じことを、その3カ月前と後に行います。この3つの祭は、平安時代までに神宮で最も重要なものとされ、三節祭と言われます。

 神宮には、ほかにも神衣祭(かんみそさい)や祈年祭などがあるが、斎王が参加するのは先の3つの祭だけ。これら祭は、伊勢神宮の外宮(げくう)では15、16日、内宮では16、17日に行われます。しかし斎王が参加するのは2日目のみでした。各月の15日に斎王は斎宮から、宮川(みやがわ)を挟んで外宮を臨む離宮に赴きます。そして16、17日の日中に外宮・内宮に詣で、18日には斎宮に戻ります。

 神宮で斎王が行う主要儀礼に、榊(さかき)の枝に麻の繊維を付けた「太玉串(ふとたまぐし)」を正殿前の門の西側に立てることがありました。つまり斎王は、伊勢大神に仕えるとしながら、神宮正殿で祭祀(さいし)を行うことはなかったのです。三節祭の最も秘儀的な祭祀は、正殿の床下にある「心(しん)の御柱(みはしら)」の前で、深夜と早朝に神に食事をささげる儀式ですが、これには大物忌(おおものいみ)と呼ばれる童女だけが参加しました。大物忌には斎王の代理という伝承がありましたが、斎王はこれら夜の祭にかかわる神宮の巫女(みこ)とはかなり性格の異なる、昼の祭に参加する貴人、というイメージだったようです。(三重県立斎宮歴史博物館学芸普及課長 榎村寛之)

【今に生きるみやびの世界】(5)斎宮(いつきのみや、さいくう)

2009.07.30 MSN産経新聞

 斎宮(いつきのみや)の研究は幕末頃に本格化し、当時斎宮の規模は、「斎王の森」と呼ばれる伝承地から東西300〜400メートル、南北600〜700メートルくらいの範囲とされていました。明治には地域の人々により、関連各所に石碑が建てられています。

 ところが、昭和45(1970)年に確認された斎宮の遺跡は、斎王の森から西に600メートル以上も離れた、現在の斎宮歴史博物館南側広場から発見されました。その後の三重県の調査で、斎宮の遺跡は奈良から鎌倉時代にかけ、少なくとも東西2キロ、南北700メートルにわたったことが分かりました。この東部から、8世紀後半に造営された碁盤の目のような区画が姿を現しました。1画は120メートル四方、その数は東西7区画、南北4区画で最大幅12メートルの道路で区切られています。全体では東西900メートル以上、南北500メートル以上もあったのです。都が奈良から京に移る頃、国家が斎宮に、都市のような空間を造営したことは文献に記録がなく、当時の王権や政治を考える上で、非常に大きな発見となりました。

 そして1990年代の発掘調査では、斎王の森から東南に300メートルほどの位置で、斎王のいた内院区画が発見され、造営当初は二重の塀で囲われ、大型建物が林立していたことが分かりました。その中心部分は鉄道の下でしたが、その全容は、近鉄斎宮駅北側にある10分の1模型で知ることができます。発掘調査の結果、斎宮は昭和54(79)年には国指定史跡に、本年にはその遺物2661点が重要文化財に指定されました。そして、発掘は今日も続けられています。(三重県立斎宮歴史博物館学芸普及課長 榎村寛之)

【今に生きるみやびの世界】(6)青瓷(あおし)

2009.08.06 MSN産経新聞

 平安時代に書かれた記録を見ると、「青瓷(あおし)」「白瓷(しらし)」という器が、儀式などに使われたことがわかります。青と白は、貴族たちに好まれた色で、青磁・白磁は高級陶磁器として平安時代でも有名でした。たとえば『源氏物語』には「秘色(ひそく)」という器が出てきますが、これは中国の越州窯(えっしゅうよう)青磁の、特に優れたオリーブ色がかったものを指していました。しかし磁器は、時に茶●(ちゃかん)と呼ばれることはあっても、「青瓷」「白瓷」とは言われません。当時の「瓷」は国産の焼き物だったのです。

 考古学の成果によって、青瓷・白瓷にあたるのは、現在では緑釉(りょくゆう)陶器、灰釉陶器と呼ばれる器だと考えられています。これらは銅の化合物を使った緑色の釉薬と、灰を使った透明な釉薬をほどこした器です。「陶器」といわれるように、磁器の硬さはありませんが、多様な形の物が作られ、高級な器として使われていたようです。

 では「青瓷」の青とはどんな色だったのでしょう。当時の文献には「尾張青瓷」という言葉が見られます。これは、緑釉陶器の中でも最も質の高い、愛知県の猿投窯(さなげよう)で9世紀中ごろから生産された製品を指します。その色は秘色青磁を思わせる、あでやかな明るい黄緑色でした。この色の製品は斎宮の代表的な遺物の一つで、時に毛彫りの花の文様を加えたものも見られます。

 斎宮跡で出土する土器のほとんどは、土師器(はじき)といわれる素焼きの器で、斎宮の日常生活をうかがわせます。一方、緑釉陶器や灰釉陶器、そしてまれに発見される越州窯青磁など「貿易陶磁」と呼ばれる輸入陶磁器は、そのみやびを今に伝えているのです。花文を施した緑釉陶器は今回の主要展示資料となっています。(三重県立斎宮歴史博物館 学芸普及課長 榎村寛之)

【今に生きるみやびの世界】(7)日記(にき)

2009.08.13 MSN産経新聞

 意外なことかもしれませんが、平安時代のほとんどの時期には、満足な歴史書はありませんでした。『日本書紀』に始まる公的な歴史書の編纂(へんさん)は『日本三代実録』を最後に途絶え、そこに記された最後の年は、仁和(にんな)3(887)年ですから、以後の歴史は、すべて断片的な資料を基に考えなければならないのです。

 では、平安時代の歴史はどうして分かるのでしょうか。重要な手がかりの一つは、貴族の日記(にき)です。

 ここでいう日記は、今日の日記(にっき)とは違う、行政記録です。この時代の行政は、故実、つまり先例に基づいて行われます。従って、それを間違いなく行える者が、有能な貴族となれます。当時の権力者や事務官僚たちは立場に応じて、行事記録を日記として残し、子孫が困らないようにしたのです。従って日記は、貴族として生きる虎の巻となり、家の宝として継承されます。その多くは散逸しましたが、たとえば、紫式部の時代については『御堂(みどう)関白記』『小右(しょうゆう)記』という日記が有名です。前者は権力者の藤原道長の日記で、政策決定などの重要記録が数多く見られ、摂関家の家宝として継承されました。後者は道長と同世代の右大臣、藤原実資(さねすけ)の日記で、行政儀式の詳細な記録として、多くの写本が作られました。

 道長と実資の祖父は兄弟で、それぞれ九条(くじょう)流、小野宮(おののみや)流といわれた故実を開きました。つまり最高級の貴族の理想型を作り、伝えたのは、この二つの家といえます。『小右記』には斎王派遣儀式の詳細な記録があり、また実資の孫、藤原資房(すけふさ)の日記『春記』には、長暦(ちょうりゃく)2(1038)年の斎王の旅、群行の記録が詳細に残されています。斎宮歴史博物館では、これらに基づく再現映像『斎王群行』を公開しています。 (三重県立斎宮歴史博物館 学芸普及課長 榎村寛之)

【今に生きるみやびの世界】(8)貝合(かいあわせ)

2009.08.20 MSN産経新聞

 平安時代の貴族、特に姫君の優雅な遊びとしてしばしば紹介されるのが「貝合(かいあわせ)」と呼ばれるゲームです。これは、ハマグリを裏返し、まくって同じ絵柄を探す遊びで、カードゲームの神経衰弱に似たもの、と説明されます。しかし、平安時代の「貝合」は全く違う遊びだったのです。

 当時の貴族の間では、「合わせもの」という遊びがはやっていました。「絵合わせ」「根合わせ」「香合わせ」など、色々な物の形やセンスを競い、歌を添えるという遊びで、貝合もその一つでした。斎宮では長暦4(1040)年に、「斎王良子(ながこ)内親王貝合」という貝合が行われました。これは貝を使って様々な風景を作り、歌を添えて競ったもので、斎宮にかかわる男女がこぞって、白砂青松の様から人の姿まで作りこんだといいます。いわば、箱庭やドールハウスのような感覚だったのでしょう。

 一方、ハマグリを使った神経衰弱は、当時「貝覆い」と呼ばれていました。同じつがいの貝しか一致しない二枚貝の性質を生かし、絵は描かなかったようです。これが近世には、花嫁道具として美麗になり、貝殻の内側に美しい絵を描き、私たちの知っている「貝合」として定着したのです。

 平安貴族の遊びはシンプルで、意外に身近なものだったようです。たとえば「石名(いしな)取り」という遊びがありました。10個の小石を下にばらまき、一つを上にほうり上げ、落ちてくるまでに拾い集めた数を競うものです。この遊びは、様々にルールを加えながら、つい最近まで、「石なご」「小石」などという名で楽しまれていました。そして現代でも輪を鎖状につないだ「チェーリング(チェーンリング)」というゲームにそのエッセンスを残しているのです。

 平安時代の遊び、なかなかに奥が深いようです。 (三重県立斎宮歴史博物館 学芸普及課長 榎村寛之)

【今に生きるみやびの世界】(9)十二単(じゅうにひとえ)

2009.08.27 MSN産経新聞

 平安時代のイメージといえば、髪を長く垂らし、着物を重ね着した姫君の「十二単(ひとえ)」姿が浮かびます。優雅ですが、とても動きにくそうです。それを逆手にとり、平安時代にポップな感覚を持ち込んだ現代創作には、軽快な姫君がしばしば見られます。氷室冴子氏の小説「何て素敵にジャパネスク」、かかし朝浩氏のコミック「暴れん坊少納言」などがそうですね。ところが、源氏物語の時代の貴族女性の装束は意外にわかっていません。実は十二単という言葉すらなかったのです。

 十二単は、正確には「女房装束」あるいは「唐衣裳(からぎぬも)」などと言われ、裳、唐衣、表着(うわぎ)、五衣(いつつぎぬ)、打衣(うちぎぬ)などから構成され、その多くの名称は源氏物語などにも見られます。ただ、当時の文献に女性の装束規定はほとんどなく、そのイメージは12世紀前半に描かれた国宝『源氏物語絵巻』などが最大のよりどころです。つまり、源氏物語が書かれた11世紀前半の登場人物画像はなく、十二単という通称も、鎌倉時代の『源平盛衰記』などが古い例で、そのイメージは、平安時代後期から鎌倉時代頃(ごろ)のものなのです。

 源氏物語の時代の記録を見ると、20枚も重ね着をしていた姫君がいます。一方、清少納言は中宮に仕えているのに、火桶を足継ぎにして蔀(しとみ)(つり下げ型の雨戸)を持ち上げたりして、実に動きやすそうです。

 斎王や平安時代の姫君の装束は、現代のイメージより自由だったように思え、意外と小説やコミックの世界に近かったのかも…。平安時代の「王朝の雅」、実はまだまだわかっていないことが多いのです。=おわり(三重県立斎宮歴史博物館 学芸普及課長 榎村寛之)


伊勢神宮:式年遷宮は700年ぶり「自前」ヒノキで

2009年06月25日 毎日新聞
 

 20年ごとに社殿を建て替える伊勢神宮(三重県伊勢市)の式年遷宮が62回目を迎える2013年、市内にある神宮所有の宮域林(くういきりん)で育てられたヒノキが建て替えに使われる。鎌倉時代中期に宮域林の天然ヒノキは切り尽くされ、その後は国内各地から調達しており、“自前”のヒノキが使われるのは約700年ぶり。大正時代の1923年にスタートした森づくり200年計画が、ついに実を結んだ。【木村文彦】

 宮域林は、約2000年前から天照大神の山として大切にされてきた。約1300年前の持統天皇の時代に、すべての社殿を建て替える式年遷宮が始まり、宮域林は造営用材を切り出す「御杣山(みそまやま)」に定められた。

 しかし、鎌倉中期に天然ヒノキは切り尽くされ、紀伊半島や愛知県三河地方から調達するようになった。明治以降は主に木曽川上流部の長野、岐阜両県の国有林から購入してきた。

 このため1923年、用材を200年後には再び宮域林で賄えるようにする「神宮森林経営計画」が決定され、ヒノキの植樹が始まった。約80年経過した現在、計画は順調に進み、宮域林約5446ヘクタールのうち約2500ヘクタールがヒノキの人工林となった。

 式年遷宮には約1万立方メートルのヒノキが必要になるが、木曽川上流部のヒノキ生産量が減っており、次の遷宮では2000立方メートルのヒノキが不足するとみられている。このため、宮域林で60〜80年かけて育てた直径30〜40センチのヒノキで、不足分を補うことになった。正殿を囲う塀や外玉垣の柱として使われる予定で、人工的に育てられたヒノキを使用するのは、伊勢神宮史で初めてのことだ。

 宮域林のヒノキには、白いペンキが塗られているものがある。樹齢200年まで切ってはならない木の目印だ。神宮営林部の村瀬昌之事業課長補佐(54)は「一部ながら宮域林から賄えるようになり、本来の形に戻りつつある。未来の遷宮を見据えた森林管理というバトンを、次の世代へしっかり引き継いでいきたい」と話している。

平安の神事伝える田植え祭…三重の伊雑宮

2009年06月24日 読売新聞 YOMIURI On-Line

泥だらけで竹を奪い合う男たち(三重県志摩市の伊雑宮御料田で、谷之口昭撮影)

 三重県志摩市磯部町の伊勢神宮別宮・伊雑宮(いざわのみや)で24日、国の重要無形民俗文化財に指定されている「磯部の御神田(おみた)」があり、古式を残した御田植え神事に訪れた人たちが見入った。

 豊作や大漁を祈願する神事で、平安時代末期ごろの形を今に伝えており、香取神宮(千葉県)、住吉大社(大阪府)とともに日本三大お田植え祭の一つ。

 呼び物の「竹取りの神事」は、上半身裸の男たちが御料田に入り、泥まみれになって大うちわの付いた十数メートルの忌竹(いみだけ)を奪い合った。

矢野憲一:伊勢神宮に見るサステナブル 総予算550億円、式年遷宮資金の集め方

2009年06月03日 ECO Japan NPO法人五十鈴塾 塾長=矢野 憲一

税金で造られていた神宮

 2013年の第62回式年遷宮にあたり、現在、全国に奉賛会が設立され、募財が行われている。今回の総予算は550億円。そのうち330億円は神宮司庁が20年かけて遷宮資金として積み立てたもので、残りの220億円を広く国民から募る。

 このような巨額の費用を、昔はどうやって集めたのであろうか。

 平安時代の『大神宮式』によれば、当時は神領と言われた伊勢や各地の神戸(かんべ)から納められる神税や国税で支弁していたが、神領の私領化に伴って不足しはじめ、全国に役夫工米(やくぶくまい)というのが課されるようになった。

 公役として強制的に働かされる代わりに、米を納めるシステムである。しかし鎌倉時代の中期にはその徴収も困難になり、室町時代には式年遷宮ができなくなった。

 その後、遷宮が再開されたのは戦国時代に入ってからである。織田・豊臣氏が天下を取り、信長や秀吉の寄進でなされるようになった。江戸時代には、1609年(慶長14年)に徳川家康が両宮に米3万俵ずつ寄進したのをはじめ、徳川幕府からは明治に至るまで支弁された。

 この間、式年遷宮は120年間も中断し、修理だけの仮遷宮を続けてきた神宮は、内宮も外宮も荒廃していた。

 世は応仁の乱から戦国時代へ突入。ご本殿の萱(かや)の屋根も腐り、千木、鰹木が地に落ち、祭典の奉仕も危険な状態になった。そこで伊勢街道に関所を増やし、その収入を造営費に充てるようになったが、そんなことをすれば参拝者は来なくなるばかりである。

尼僧の真心で復活

 その時、荒れ果てた神宮の姿を見るに見かねた僧尼・清順(せいじゅん)が、「大神様に申し訳ない、微力ながら私が勧進したい」と申し出た。1551年(天文20年)のことである。

 当時、社寺の建築には勧進聖(かんじんひじり、民衆に社寺の造営・修繕などのための寄付を勧める僧侶)が勧進帳(勧進の目的や功徳を記したもの)を読み、喜捨の旅をしながら寄付を集めることが一般的になっていたからである。

 しかし内宮は、「ありがたい申し出だが、式年遷宮は朝廷がなさること、尼僧の力を借るわけには参らぬ」と断った。外宮も同様に「面子が立たぬ」としたが、現実はままならない。結局は外宮が承諾し、内宮も協力を願うことになった。

 尼僧たちは、か弱い女性の身で諸国を勧進して歩いた。その姿に感銘した天皇や織田・豊臣氏は「慶光院上人」の号や紫衣のほか、造営費3万石と、これからも先例のように遷宮をしなさいという朱印状を寄進した。これによって、遷宮は復活する。

 このほかにも、各方面で色々な苦心があった。あまり知られていないが、室町幕府の時には「天龍寺船」に便乗した人々もいた。これは京都・天龍寺の造営費を得るための貿易船である。記録によれば、1453年(享徳2年)に日本を出て、翌年に帰国した10隻の天龍寺船のうち、2隻が「伊勢法楽舎船」であったとされる。

 法楽舎というのは、神仏混合の時代、「大神も歌会や能楽を奉納すれば喜ばれる」といって作られた寺だ。現代では神道と仏教は別のものだが、当時は、仏は神の姿を変えた存在と考えられていた。貿易船の収益はさほどなかったと思うが、僧侶たちは神宮に言われたわけでもなく、自発的に協力したのである。

神話を知らない世代にどう伝えるか

 次に遷宮ができなくなったのは1949年(昭和24年)、終戦によって無期延期になった第59回式年遷宮の時である。

 時代は米占領軍による日本弱体化政策の真っただ中。それまで「皇家第一の重事、神宮無双の大営」として、国費や幕府の援助という公費でなされてきた式年遷宮が、戦後は神宮大宮司の責任で進めなければならなくなった。

 しかも神社本庁は設立されたばかり。国民は食べるのが精一杯で、神宮のことなど考える余裕があるはずもない。神社界は、まさに存亡の機に追い込まれたのである。

 そんな時代にも、「伊勢神宮をお守りしよう、日本の復興はまずお伊勢さまから」という人々がいた。関西の経済界の代表や、東京の心ある人々が「国民の手で遷宮を」と奉賛会を作り、街頭募金を始めたのである。ブラジル在留邦人が率先して寄付してくれたのがうれしかったという話も聞いている。

 奉賛会は全国に結成され、4年遅れて1953年(昭和28年)になされた。この遷宮は、戦前の1941年(昭和16年)から国費によって進められていたから、後半を民間の募財でまかなう「半官半民」の遷宮となった。

 この時、「我々の作品を売って資金にしてください」と横山大観や前田青邨、梅原龍三郎をはじめとする豪華メンバーの美術家が、たくさんの力作を奉納されたことも忘れてはならない。これらは1点も手放されることなく、今も神宮徴古館で光を放っている。

 その後、第60回は「いざなぎ景気」、第61回は「バブル景気」と重なり、また、戦前生まれの敬神の念のある人々により、予想を上回る奉賛金が集められた。

 今回の第62回も既に心の込もった浄財が寄せられているが、この経済不況のなか、氏神や神話も知らない世代に向かって遷宮の意義を説き、奉賛金を募るのは決して平易な道ではないだろう。

豊作祈り、心込め 神宮神田で御田植初

2008年05月11日 中日新聞

 伊勢神宮の祭典に用いる米の苗を植え始める県の無形文化財「御田植初(おたうえはじめ)」が10日、伊勢市楠部町の神宮神田で営まれた。

 雨の中、清めの神事に続いて地元の神宮神田御田植祭保存会の20人が約860平方メートルの祭典田へ。男性は烏帽子(えぼし)に帷子(かたびら)、女性は菅笠(すげがさ)に赤裳(も)と、古来の装束姿。笛太鼓が奏でる田楽の調べを背に、横1列に並んで手植えしていった。

 植え終わると、恵比須と大黒が描かれた大うちわ2枚を田の中央で合わせ、舞人が「やあやあ」の掛け声と扇の舞で豊作を祈願。苗は約3ヘクタールの神田に順次植えられ、9月上旬の抜穂祭(ぬいぼさい)から刈り取られる。(久下悠一郎)

飛騨の「きつね火まつり」  25日、伊勢で披露

2008年05月08日 中日新聞

 きつねの嫁入り道中を化粧した若者たちが再現する岐阜県飛騨市古川町の「きつね火まつり」が25日、伊勢市内で披露される。7日には関係者が伊勢市役所で森下隆生市長にまつりをPRした。

 地元活性化の呼び水として18年ほど前に始まったまつりは、若者が主体の「狐(きつね)組」が運営。毎年9月にきつね顔の花婿、花嫁を囲む行列が五穀豊穣(ほうじょう)などを願い、たいまつを掲げて市内を練り歩く。運営を手伝う伊勢市出身のミュージシャン中山剛さん(44)らが伊勢市観光協会などに働き掛け、実行委員会を立ち上げた。

 当日は「伊勢神宮奉納飛騨古川きつね火まつり」と銘打ち、80人以上が参加を予定している。外宮前を出発してメーン会場の宮川堤公園に進み、婚礼を邪魔する大蛇を退治する「蛇闘楽」や婚礼の儀などを上演する。物産展や地元の木遣(や)り披露もあり、両市の相互交流を深める。

 7日は井上久則・飛騨市長ら約15人が訪問した。森下市長は、「皆さんの熱い思いで、伊勢も負けずに元気になれば」、狐組の川端義康代表(57)らは「幻想的な『平成のおとぎ話』を楽しんでほしい」などと話した。 (久下悠一郎)

三重国分:「イセヒカリ」で特別純米酒醸造−−伊勢 /三重

2008年05月01日 毎日新聞〔伊賀版〕Mainichi INTERACTIVE

 総合食品卸の三重国分(伊勢市西豊浜町)は、伊勢神宮のご神田ゆかりの米「イセヒカリ」で造った特別純米酒「伊勢一路」の販売を始めた。京都・伏見の酒蔵が精米、醸造した。

 イセヒカリは、89年の台風で伊勢地方の稲穂のほとんどが倒れた祭、神宮のご神田で倒れずに残っていた2株から生まれた。

 調査の結果、コシヒカリの突然変異と判明。96年に「イセヒカリ」と命名され、酒米として京都伏見地方で栽培されている。

 醸造された「伊勢一路」は、アルコール分16度で、すっきりとした口当たりに、甘みがあるのが特徴。早くも人気を集めているという。

 720ミリリットル入り1480円(限定1400本)。300ミリリットル入り580円(同3400本)。伊勢志摩の酒販店で販売している。

 問い合わせは三重国分(0596・37・4141)、伊勢米穀企業組合(0596・25・4157)。【渡辺隆文】

新緑を背に優雅な舞 伊勢神宮で春季神楽祭

2008年04月29日 中日新聞

 伊勢市の伊勢神宮で28日、恒例の春季神楽祭が始まり、伝統の神宮舞楽が内宮神苑(しんえん)の特設舞台で公開された。笙(しょう)や篳篥(ひちりき)の調べに合わせ、美しい装束姿の舞人たちが優雅な舞を繰り広げた。

 晴天の下、天皇陛下即位20年をお祝いする「万歳楽(まんざいらく)」など4曲を披露。チョウが遊び戯れる様子を表現した「胡蝶(こちょう)」では、もえぎ色の衣装に大きな羽飾りを背負った舞女(まいひめ)4人が登場。羽ばたくように両腕を大きく広げては閉じる愛らしい動きで参拝客を魅了した。

 舞楽は30日まで午前11時、午後2時から内宮神苑で公開。雨天時は参集殿能舞台で午前11時のみ。 (久下悠一郎)

参道に響く伊勢音頭 県内外の14団体が披露

2008年04月28日 中日新聞

 江戸時代の参宮客が全国に広めた伊勢音頭が一堂に会する「神宮奉納伊勢音頭春の宴(うたげ)」が27日、伊勢市の伊勢神宮内宮参集殿で開かれた。

 全国伊勢音頭連絡協議会県支部が主催し、12回目。鈴鹿、津、松阪、伊勢、菰野の県内市町と富山県高岡市、愛知県三好町の計14団体約130人が出演。三味線や横笛などの調べに合わせ、歌と踊りを次々と披露した。

 どの曲も節回しに違いはあるが「ヤートコセ、ヨイヤナ」の文句が入るのが特徴。

 大型連休でにぎわう参道に伸びやかな歌声が響き渡り、参拝客は足を止めてお伊勢参りの風情を味わっていた。 (久下悠一郎)

参拝客「心洗われる」と感激 伊勢神宮鎮地祭

2008年04月26日 中日新聞

 伊勢神宮内宮、外宮などで25日始まった鎮地祭(ちんちさい)。厳かな祭典を見守った参列者や、居合わせた参拝客からは「20年に1度の機会に巡り合うことができうれしい」と感激の声が上がった。

 参列した森下隆生伊勢市長は「物忌(ものいみ)の女の子を中心に、祭儀の伝統をこれからも引き継いでほしい。これから本格化する遷宮の準備に向けて、市民の一人として身の引き締まる思い」と決意を新たに。

 伊勢商工会議所の広瀬寿会頭は「初めての参加になるが、厳かな雰囲気に感動した。来年は宇治橋渡始式があり、2013年まで市民一丸となって盛り上げていけたら」と力を込めた。

 内宮正宮で、鎮地祭の前に行う「八度拝」を目にした鳥羽市浦村町のホテル社長今野華都子さん(54)は「神宮は日本人の心のよりどころで、DNAを呼び覚ます場所。今日という日に偶然来られて感激した」。

 仙台市から訪れた調理師菊地和浩さん(47)と整体師松田守弘さん(53)は「1300年前から延々と続いてきた遷宮は、ただただすごいと思う。特別な日に来ることができ、驚きというかありがたい」と話していた。

 外宮の川原祓所(かわらのはらいしょ)でおはらいを見守った山口県田布施町の主婦前田三千代さん(71)は「貴重な機会に立ち会えてうれしい。厳かで見ている方も心洗われるよう」。

 伊勢市船江の無職長岡嘉幸さん(70)は「鎮地祭を見るのは初めて。お木曳(ひき)に続いて、いよいよ遷宮が近づいて来た感じがする」と笑顔で期待していた。   (伊勢神宮鎮地祭取材班)

式年遷宮控え鎮地祭 伊勢神宮新御敷地で初祭儀

2008年04月25日 中日新聞 夕刊

 第62回式年遷宮(2013年)の準備が進む三重県伊勢市の伊勢神宮内宮で25日午前、新宮(にいみや)の御敷地(みしきち)で社殿造営の安全を祈る「鎮地祭(ちんちさい)」が厳かに営まれた。

 すべてを20年ごとに造り替えてご神体をうつす遷宮を5年後に控え、新御敷地で行う最初の祭儀。純白の斎服をまとった鷹司尚武大宮司や神職、職員ら40人、来賓150人が正宮を拝礼後、敷地内に入った。祭場には黄を中央に青・赤・白・黒色の五色幣が立ち、新緑に鮮やかに映える。祝詞奏上などの後、五十鈴川近くでおはらいを受けた物忌(ものいみ)役の童女が幣の前で神聖なかまを頭上にかざし、父親役の神職がくわをふるう儀式をした。

 鎮地祭は内宮別宮・荒祭宮(あらまつりのみや)に続き午後は外宮と別宮・多賀宮(たかのみや)で催行。5月2日までに残る別宮12社である。

おかげ横丁 風の市 伊勢市(三重県)

2008年04月22日 まっぷる

 伊勢の風を感じるおかげ横丁の市

 伊勢神宮の「風日祈祭」に合わせて開催される、伊勢の爽やかな風を五感で感じる市。5月14日に執り行なわれる伊勢神宮の「風日祈祭(かざひのみさい)」は風の神様をおまつりする祭り。これに合わせて、おかげ横丁では「風の市」が開催される。

 赤福別店舗での「風薫る市」は、四日市の日永団扇をはじめ、伊勢型紙の透かし彫りがきれいな扇子など、風を感じる夏の風物商品が並ぶ。季節屋台での「風遊戯」は、扇子を風にすべらせて的に当てる雅びな遊び「投扇興」などが楽しめる(参加費300円)。赤福別店舗側特設屋台では様々な素材、形の風鈴を展示販売する「風鈴の市」が立つ。TEXT:池谷

【静岡】薄黄色の花が満開に 湖西でトキワマンサクまつり

2008年04月21日 中日新聞

 見ごろを迎えた湖西市神座にある県天然記念物のトキワマンサク群生地周辺で20日、第10回トキワマンサクまつり(トキワマンサク里づくり推進会・市教委主催)が開かれた。

 トキワマンサクは薄い黄色の花が美しいマンサク科の常緑小高木。国内ではほかに小岱山(しょうだいさん)(熊本県)や伊勢神宮(三重県伊勢市)の2カ所で群生が確認されている。

 まつりは貴重なトキワマンサクを楽しんでもらおうと、毎年開かれている。市内の児童らによる写生大会をはじめ、地域でとれた農産物やトキワマンサクの苗の販売会などでにぎわった。ことしは第10回を記念し、地元の神座祭り太鼓青年部による太鼓の演奏もあった。

 同推進会の杉浦栄治会長(65)は「花が満開の状態でまつりを迎えられ、天気にも恵まれた。4月いっぱいは楽しめるので見に来てください」と話していた。 (角雄記)

新潟 伊勢神宮遷宮記念公演 浅野温子さんら出演

2008.04.17 MSN産経新聞

 新潟市内で6月に開かれる第62回神宮式年遷宮奉賛記念公演「心に響く弦楽と神話の世界」(実行委員会主催、産経新聞新潟支局など後援)を前に、公演で古事記を現代語にした語り舞台「日本神話への誘い」を演じる女優、浅野温子さん(47)らが16日、新潟市内で記者会見した。

 公演は、三重県の伊勢神宮が平成25年、20年に1度社殿を新造する「式年遷宮」を行うのにちなみ開く。浅野さんは各地で35回、古事記を題材にした語り舞台を開いており、今回は天の岩屋戸に隠れた天照大御神の話を演じる。音楽で読売日本交響楽団が共演。

 母親が小千谷市出身の浅野さんは、地震の被害について「復旧が早く、地元もがんばっているとの声を聞いて安心していた」と話し、公演では「日本人は情に厚く、愛情深い民族だということを、今の時代だからこそ思い出してほしい」と述べた。

 6月7日午後2時から、新潟市中央区鐘木の新潟テルサで。全席指定(1510席)5000円だが、中越沖地震の被災者ら200人を招待。問い合わせは(電)025・281・8000。

伊勢神宮の大麻用材伐始祭 おので作業安全祈願

2008年04月16日 中日新聞

 伊勢神宮のお札「神宮大麻(たいま)」となるスギ材を切り出すための「大麻用材伐始祭(きりはじめさい)」が15日、内宮に近い伊勢市宇治今在家町の丸山祭場であった。

 鷹司尚武大宮司や神宮職員ら約80人が参列。祝詞の奏上に続き、青の素襖(すおう)に烏帽子(えぼし)姿の小工(こだくみ)が、神宮林の神路(かみじ)山がある方角に神聖なおのを3回ふるって作業の安全を祈願した。

 乾燥させたスギ材は厚さ約1ミリの木地に加工後に和紙を巻き付け、大麻のご神体「御真(ぎょしん)」となる。約1000万体を用意し、来年9月から全国に配られる。 (久下悠一郎)


【真説日本古代史】【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の一

2007/08/15 まぐまぐ

 伊勢神宮成立の起源 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

1.日本の総社である伊勢神宮

  伊勢神宮は、国内にあまたある神社の頂点に立つ神社、いわゆる「総社」であり、正しくはただ「神宮」というのが、正式な称号である。

 そしてそれは、皇大神宮である内宮と、豊受大神宮である外宮を中心とする、125社の神社群の総称である。つまり、境内の別宮、摂社・末社に至るまで、すべて「神宮」なのである。

 内宮はアマテラス(天照大神)を主祭神とし、相殿東にテジカラオ(天手力男命、あめのてじからをのみこと)、西にトヨアキツヒメ(万幡豊秋津姫命、よろずはたとよあきつひめのみこと)の二神を祀る。

 外宮は、トヨウケ(豊受大神、とようけおおかみ)を主祭神とし、相殿に「御伴神」(みとものかみ)を東に一座、西に二座の三座を祀る。

 この内宮と外宮を中心とした、伊勢神宮の別宮・摂社・末社、神社群の成立については、諸説があって定かではないが、内宮の起源については、 『古事記』・『日本書紀』(以下『記紀』)『古語拾遺』の諸伝が、知られているのではないだろうか。

 これは、天孫降臨の際、アマテラスから御孫ニニギ(瓊瓊杵尊)に授けられた「八咫鏡」(やたのかがみ)を、歴代の天皇が道床に・共殿に祀っていたが、崇神天皇の御代に、神威を恐れて宮殿の外に祀り、その後、近江・美濃を経て、垂仁天皇の二十六年九月、伊勢の五十鈴川上に鎮座したという。

 宮殿外に出されたのは、なにもアマテラスだけだったのではない。実は、時を同じくして「倭大国魂」(やまとおおくにたま)宮殿外に出されていた。このこともまた『記紀』に記されていることである。

 さて、アマテラスが最初に鎮座した場所は、大和の笠縫邑であって、ここは、三輪山の神域の西端であったとされている。

  外宮については、『記紀』は一切語っていない。これはこれでまた不思議なことであるが、延暦二十三年撰上の『土由気大神宮儀式帳』に、記されている由来には、雄略天皇の二十二年、天皇の夢にアマテラスのお告げがあり、丹波の比治の真奈井原から、アマテラスの「御饌神」として、トヨウケを伊勢に迎え、高倉山麓の山田原に祀ったというものである。

 これらの所伝はともに、伊勢神宮の創建から数百年を経た8?9世紀に整えられたものであり、どの程度史実を反映しているかは、はなはだ疑問であるが、ことこのような歴史に関しては、すべてそうである。

 また、スサノオ(素戔嗚尊、すさのおのみこと)とアマテラスが誓約をした場所を、『記紀』は天真名井であったと記すが、トヨウケを考える場合、大変興味深いことである。

 伊勢神宮は、内宮・外宮という二つの中心を持つ神社であり、このような形態を持つ神社は、国内に例を見ない。ただよく似た例では、上賀茂神社・下鴨神社をあげられるかもしれない。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の二

2007/08/20 【真説日本古代史】まぐまぐ

 2.祀られることのない素戔嗚尊

  両宮には、計125もの別宮・摂社・末社があることを前述したが、これらには様々な神々が祀られている。

 しかし、これら神々の名に、スサノオやオオクニヌシ(大国主命、おおくにぬしのみこと)といった、いわゆる国津神(出雲の神々と言い換えてかまわない)は見られない。スサノオ・オオクニヌシは、全国の至る所で祀られているのだが、伊勢神宮では境外末社にすら祀られていない。

 『記紀』では、高天原の天津神に対峙する国津神の図式で書かれているので、国津神は支配される側であることからかもしれないが、少なくともスサノオは、高天原の住人であったのであり、三貴神のひとりであることは、今さら言うまでもないことである。「尊」の称号が、それを表している。

 しかし、『記紀』に書かれた高天原でのスサノオの所行は、アマテラスが天の岩屋の籠もってしまうほどであったというから、祀られないのは、いたしかたがないことなのだろう。一言で言えば敵なのである。

  ただ、こうも言えるのではないだろうか。

  伊勢神宮の成立は、『記紀』がどのように記そうとも、『記紀』よりもあとである。(筆者は、『古事記』は平安時代の産物と考えるので、『日本書紀』よりも後、を正解としたい)

 内宮の宇治橋を渡り第一鳥居をくぐると、五十鈴川の御手洗場の脇に、「瀧祭神」(たきまつりのかみ)を称する石神を祀っている。御垣と御門だけで社殿はない。祭神は、五十鈴川の水神であるというが、御神体は石そのものであり、極めて縄文的な神祀りであるように思う。由来によれば、延暦二十三年(804)神祇官に奉った『皇大神宮儀式帳』にも、瀧祭神が記されている、とあるので、1000年以上の歴史があることになる。

 現在では、別宮に準じた奉祭がされているが、鎌倉時代には、五十鈴川の対岸にあって、この神こそアマテラスの前身とされていたらしい。

 また重要な祭りに先立って祭られる社であったともいい、このことから滝祭神は伊勢神宮の原型であったのだろう。

 『日本書紀』以前の伊勢神宮は、縄文的な石神を祀る社であったと推測できる。

  皇祖神宮の最初は、天武天皇以降であったと思われ(伊勢神宮行幸の具体的な記述は、持統紀以降からである)、その後社が整備され、『記紀』史観に乗っ取り、さらに整備されていったものと思われる。

 このように創造された、伊勢神宮にスサノオが祀られていないことは、むしろ当然と考えられるが、興味深いことには、『古事記』にスサノオの子と記されているオオトシ(大歳御祖命、おおとしのみおやのみこと)、ウカノミタマ(宇賀御魂神、うかのみたまのかみ)は、内宮の摂社で湯田神社、江神社、外宮の摂社で小俣神社など、数社に祀られている。

 ただし、小俣神社のウカノミタマは、イザナギ(伊弉諾尊)とイザナミ(伊弉冉尊)の子とされている。

 これは、『日本書紀』による史観であり、『古事記』のそれではない。

 こうした『記紀』の矛盾が、そのまままかり通っていることは、各々の神社伝承を整理する際に、『記紀』が深く関わっていたことを窺わせる。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の三

2007/08/25 【真説日本古代史】まぐまぐ

 3.内宮の別宮と外宮の別宮

 伊勢神宮とは、内宮・外宮を頂点とする計125社の総称である。このことは既出であるが、すべてを紹介すると、それだけで一冊の本になってしまうだろう。詳しいことは、伊勢神宮のガイド本が出版されていることであろうから、ここでは、伊勢神宮付属神社中、第一位に列せられている別宮に限って紹介することにした。

  内宮(皇大神宮)の別宮

  1)荒祭宮(あらまつりのみや)

 内宮に属する10の別宮のうち、第一に位置する別宮で、内宮正殿のすぐ北に隣接して鎮座し、アマテラスの荒御魂を祀る。正宮に続いて祭典が行われる。

 2)月読宮(つきよみのみや)

 月読荒魂神(つきよみのあらみたまのみや)
 伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)
 伊佐奈弥宮(いざなみのみや)

 伊勢市中村町にある内宮の別宮で、月読宮が主な社であるが、他三社も同格の社殿を持ち、四社並んで鎮座している。祭神はツキヨミ(月読尊、つきよみのみこと)と、その荒御魂。そしてイザナギ・イザナミである。

 3)瀧原宮(たきはらのみや)

 瀧原竝宮(たきはらならびのみや)

 度会郡大宮町に鎮座するともに内宮の別宮で、昔から「大神の遙宮(とおのみや)」とも言われている。祭神は「天照坐皇大御神御魂」(あまてらしますすめおおみかみのみたま)であり、社殿は両社同格で、二社並んで鎮座している。

 瀧原宮の三社ある所管社の一つ若宮神社には、神体を入れる御船代を納める御船倉(みふなぐら)が併設されているが、御船倉を持つ別宮は瀧原宮のみである。

 3)伊雑宮(いざのみや)

 三重県志摩郡磯部町大字上之郷に鎮座する内宮の別宮で、アマテラスの御魂を祀る。ここもまた古くから「大神の遙宮」と呼ばれ、漁師や海女の信仰が深い。

  寛永(1624?43)のはじめ、幕府により発禁処分とされた『先代旧事本紀大成経』は、ここ伊雑宮を伊勢神宮の本宮であったとしている。

 これは江戸時代の中期に、僧であった「潮音道海」によって出版された「物部氏」の史書と言われた『先代旧事本紀』を下敷きとして、膨大かつ独特の神道論を展開したものである。発禁処分後も信奉者は絶えず、多くの神社が自社の縁起を作るときなどに引用するなど、その影響力は測り知れぬものであったらしい。正確な祭神名は「天照坐皇大御神御魂」(あまてらしますすめおおみかみのみたま)といい、これもまた瀧原宮と同じである。

 4)風日祈宮(かぜひのみのみや)

 内宮の宮域内に鎮座する内宮の別宮。祭神は、イザナギの子である紙長津彦命(しなつひこのみこと)と、紙長戸辺命(かみながとべのみこと)。 ともに風の神で、風の災害がないように、ここで神事が行われる。

 5)倭姫宮(やまとひめのみや)

 伊勢市楠部町に鎮座する内宮の別宮で、神宮を五十鈴川沿いに創建するのに功績のあったヤマトヒメ(倭姫命、やまとひめのみこと)を祀る。ヤマトヒメは、垂仁天皇の皇女である。創立年は新しく、大正十二年。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の四

2007/09/05 【真説日本古代史】まぐまぐ

 外宮(豊受大神宮)の別宮

  1)多賀宮(たがのみや)

 外宮の四つの別宮のうち第一の別宮。外宮宮域内に鎮座し、トヨウケの荒御魂を祀る。この別宮だけは、本宮に続いて勅使が参向し、奉幣の儀が行われる。

 2)土宮(つちのみや)

 外宮の宮域内に鎮座する外宮の別宮で、地上の神である大土御祖神(おおつちみおやのかみ)を祀る。この地方の人々の信仰が厚かったため、宮川治水の守護神として別宮に列せられた。

  3)月夜見宮(つきよみのみや)

  伊勢市宮後町に鎮座する外宮の別宮で、月夜見尊(つきよみのみこと)、月夜見尊荒御魂を祀る。この宮は崇敬者の団体「月夜見講」があって、春秋に礼典が行われる。

 4)風宮(かぜのみや)

 風日祈宮と同じく、紙長津彦命と紙長戸辺命の二神を祀る外宮の別宮で、外宮の宮域内に鎮座する。農業に深い関係がある風と天の須調を祈る。

  取り急ぎ別宮だけの紹介に留まったが、内宮・外宮、これらを含めて、 摂末社に至るまでの、すべての総称が「神宮」なのであり、例えば、内宮だけを取って、「神宮」というのは本来間違った用法なのであるが、伊勢神宮と言われて、真っ先に思い浮かぶのは、伊勢内宮のほうであろう。

  筆者にしたところで、そんなわけであるから、外宮の立場とすれば、決しておもしろい話ではないだろう。

 実は、内宮・外宮、両宮の間には、神地に相応しからぬ流血の歴史を有するのである。それは、近代明治に至るまでの600年間という長きに渡る、どちらが先かに端をなした権力の争奪戦であった。

 詳しくは、こちらをご覧いただきたい。

 『二つの伊勢神宮 内宮と外宮』

 (『歴史読本』昭和六十二年三月号より 鈴木庄市 著)

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の五

2007/09/10 【真説日本古代史】まぐまぐ

 4.伊勢神道とは度会神道である

 両宮の禰宜は、もと荒木田神主・根木神主・度会神主の三姓の人が補せられていたのだが、根木神主家は早く絶え、後になって内宮の禰宜は、荒木田氏の、外宮の神主は度会氏の氏人が世襲するようになっていた。

 度会氏は、神宮御鎮座以来の旧名族で、鎌倉時代に神国思想が興隆したときに、神宮の伝承を基にして度会神道を成立させた。

 この度会神道が、現在の伊勢神道へと受け継がれているのである。従って、伊勢神道とは、外宮思想で成立した度会神道そのものである、と言っても過言ではないだろう。

 古来から内宮はもっとも高貴な神とされていた。そのため、ある時期からは、外宮以上に尊重されてきた。これを遺憾に思った外宮・「度会家」は、外宮を内宮と同等以上に引き上げようとしたのである。

 外宮の祭神は、トヨウケであり、「御饌の守護神」すなわち、食物の神とされていたが、度会神道では、トヨウケをクニトコタチ(国常立尊、くにとこたちのみこと)あるいは同格神の、アメノミナカヌシ(天御中主神、あめのみなかぬしのかみ)であると比定した。

 この両神は『記紀』によると、万物の最初の神であり、アマテラスの祖神と位置づけられている。すなわち、クニトコタチ・アメノミナカヌシは、天地の始まり、宇宙の始まりとともに現れた大元神であり、アマテラスよりも時代的に早く現れたのみならず、万神万物の根源となる最高神であるという。

 度会神道は、直接的にはそのことを言及してはいない。しかし、クニトコタチを水徳の神、すなわち、人間に一番必要な「水」の神としている。

  アマテラスは、「日」の神である。「日」は「火」であり、水は火を消してしまうから、火<水である。つまり、内宮<外宮でありことを匂わしているのである。

 ただし、度会神道は、外宮のみを尊いとしているのではなく、二宮一光として、天下を治められるとしている信仰である。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の六

2007/09/15 【真説日本古代史】まぐまぐ

 アマテラスとクニトコタチことトヨウケとは、太古の昔、我々がように察知ることのできない神秘な約束、幽閉を高天原で結ばれていて、月日の相い並んで照らすがごとく、天下を治められることになった点を、明らかにしている。

 しかし、日本神道の書とも言われている『記紀』には、これらの諸事情については、全然語っていないため、これらは度会氏の独自の神道論を展開しているにすぎない。

 とは言え、度会神道からは『記紀』を無視していることからも、体制に屈しない根源的な力を、感じ取らないわけにはいかない。

 度会神道は、南北朝の争乱で「度会氏」が南朝側に与したため、室町時代以降。論理的な展開を阻まれた。江戸時代中期に至り、「度会氏」から出た「出口延佳」が、伊勢神道として再興し、従来の学説に易学と朱子学の理気説を採り入れて、神儒習合の伊勢度会神道を唱えた。

 内宮・外宮、両宮の合戦の歴史は、このような思想の下で、起こったものには違いない。しかし、それは単なる外宮上位論だったのはなく、「度会氏」の出自からすれば、当然の主張であったはずである。

 5,天村雲命

 「度会氏」の起源は古く、内宮・外宮、両宮の創始当時と伝えるが、奈良時代の律令制度に伴い、外宮に「度会氏」の姓を賜ったのだという。

 そして「度会氏」の祖神としては、その系図の筆頭にクニトコタチが、挙げられている。これは言うまでもなく、祭神論争において、内宮・アマテラスに対抗する形で掲げた外宮祭神であり、度会神道の成立により、系図に採り入れられたものであろうが、注目すべきは、クニトコタチの十代後に、アメノムラクモ(天牟良雲命、あまのむらくものみこと)が挙げられている点にある。

 「天牟良雲命」とは、「天叢雲命」あるいは「天村雲命」であろう。

 「天村雲命」であれば、『海部氏本紀』に名を連ね、始祖ホアカリ(火明命、ほあかりのみこと)から数えて三代後である。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の七

2007/09/22 【真説日本古代史】まぐまぐ

 「度会氏」の系図では、アメノムラクモの子に「天火別命」(あめのひわけのみこと)を挙げているが、この人物は、『記紀』の神武東征において、天孫族側の将軍として登場しているが、外宮家として体制側の目を気にして、採り入れたものと考えれば良いのだろうか。

 アメノムラクモの名に馴染みはなくても、「草薙剣」であれば聞き覚えもあるであろう。アメノムラクモ剣と言えば、「草薙剣」の前の名称である。このような由緒正しい?名がそうそうあろうはずがない。

 『先代旧事本紀・天孫本紀』の、度会神主の祖として名を連ねる「天牟良雲命」と、『同・天孫本紀』、「尾張氏」の祖である「天村雲命」が、別神であるとは、到底考えられない。

 さらに度会神道の思想は、『先代旧事本紀』を基にしているとすれば、この考えにも賛同いただけるものと思う。

 鎌倉時代のことになるが、僧・「慈遍」は、『先代旧事本紀』を神道の思想の中心と考えて、その注釈書『舊事本紀玄義』を著した。これが度会神道に大きく影響を与えた、ということである。

 また、室町時代、「吉田兼倶」が創始した吉田神道でも、『先代旧事本紀』を重視し、『記紀』並びに『先代旧事本紀』を「三部の本書」としている。この『先代旧事本紀』から『先代旧事本紀大成経』七十二巻が作られ(たのではないか?と言われている)、別宮・伊雑宮を舞台とした、世に言う「先代旧事本紀大成経事件」が起こっている。これは、別項であらためて論じてみたい。

 このように、「度会氏」と「尾張氏」との祖先が同じであった、ということは、度会神道の外宮上位論も、少し意味合いが違ってくるかも知れない。

 「度会氏」系図の第一の祖神は、アメノミナカヌシということになっているが、「尾張氏」と同祖であるので、実際にはホアカリであったことになる。ホアカリは、「物部氏」の祖神であるニギハヤヒ(饒速日命、にぎはやひのみこと)と異名同体に扱われることが多いが、筆者は別神としている。しかし、『先代旧事本紀』の話も出たことであるし、ここではあえて逆らわないつもりでいるので、ホアカリの正式名は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)という、長ったらしいが格調高い名前であるとする。

 また、「天照御魂神」(あまてるのみたまのかみ)、「天照玉命」(あまてるたまのみこと)という別名も持っている。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の八

2007/09/25 【真説日本古代史】まぐまぐ

 アマテラスは「大日靈女貴尊」(おおひるめむちのみこと)が実名であり、亦の名を「天照大神」という。

 そのアマテラスは、高天原では、田を作り神穀の神事をし、神に奉る御衣を織らせているという。自身が大神であるのに、誰のための神事であろうか。アマテラスは、本来その名の通り大日巫女であったにすぎない。

 これらは何度となく述べてきたので、これ以上引っ張ることはしないが、ホアカリとは、女性神アマテラス以前の男性神アマテラス、原始アマテラスであり、後世、女性神に取り替えられたのである。

 ホアカリ系である「度会氏」は、体制に迎合しながらも、内宮の祭神・アマテラスが、「大日靈女貴尊」であることを、快く思っていなかったのではないかと思う。

 このことが、独自の神道論を展開していく要因となり、ここに、両宮が繰り広げた合戦の本質を見ることができるように思う。

 6.天照大神は卑弥呼なのか

 「とにかく現在手にしうる文献にもとづいて日本の古代史を研究することにすると、応神朝以前において、天照大神と考えることのできる人格は、この卑弥呼以外にない。とすれば、純歴史的立場から、日本の古代史の研究をすすめる場合には、その人が好むと、好まぬにかかわらず、結局この卑弥呼をもって、天照大神の素材とみなし、そこから事実上の歴史を引きだしてこなければならないことになる。」(昭和20年10月刊行、『天皇制の歴史的根拠』村尾反次郎氏より)」

 『記紀』にいうアマテラスは、ヒミコ(卑弥呼)であるとの説は、そのモデル説を含めて、今や大勢を占めているように思う。

 ヒミコとは、言わずと知れた『魏志倭人伝』にある「邪馬台国」の女王のことである。アマテラスはヒミコであると率直に述べた学者は、多くはないかも知れないが、少なくとも『記紀』のアマテラスのモデルがヒミコであろうことは、比定されているのではないか。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の九

2007/10/05 【真説日本古代史】まぐまぐ

 『記紀』のアマテラスと、『魏志倭人伝』のヒミコとは、それほど共通点が多いという。例えば、シャーマン的性格、男弟がいること、矛・刀・剣・鏡・玉・鉄・稲作・織物についての記述などがあげられている。

 筆者個人的には、そう似ているとは思わないのだが、ヒミコという名称に関してだけは、納得させられてしまう。

 「卑弥呼」の文字は、日本語の表音を、「魏」の文字をもって(それも中華思想によってだ)表現したものであり、一般に「ひみこ」と発音しているが、実のところ「ひめこ」・「ひみか」など、実際、当時の発音は定かではない。しかし、いずれにしても「ひみこ」に遠くない発音であったのだろう。でなければ、発音についても、「邪馬台国」候補地と同等の論議になっているはずである。

 『日本書紀』によれば、アマテラスは、その名をオオヒルメムチ尊(大日靈女貴尊)といった。このうちの「大」・「貴」・「尊」は美辞句なので、その実名の部分は「日靈女」になる。「靈女」は「巫女」であるから、「日靈女」は「ひみこ」とも発音できる。これは「卑弥呼」と同じになるわけだ。『日本書紀』編纂者は承知の上で、「日靈女」の文字を当てたのではないか、と勘ぐりたくなる。つまり、まず「卑弥呼」があって、次に彼女をアマテラスに仕立てたというわけだ。

  従って、アマテラスはヒミコである。しかし、それは『日本書紀』に記された、オオヒルメムチの別名としてのアマテラス、すり替わった女性神・アマテラスのことにすぎない。

 いつの頃から、『記紀』のアマテラスと神宮のアマテラスが、同一神として扱われるようになったかはわからない。否、『日本書紀』の編纂時が、その時期だったのかも知れない。

  ここに内宮家「荒木田氏」の伝承がある。

 「天照大神は蛇神で、斎宮はその后である。そのため斎宮の御衾の下に、毎朝蛇のウロコが落ちている、とみえている。」

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の十

2007/10/10 【真説日本古代史】まぐまぐ

  これはとりわけ重要である。この証言は、アマテラスが男性神であることを、認めていることになるからだ。それも「荒木田氏」自らである。

 代々、内宮神職を世襲している「荒木田氏」自身が、『記紀』に真っ向から対立する主張をしていたということは、この主張の真実性を裏付ける結果になっている。

 もう少し考えを進めると、『記紀』のいう女性神・アマテラスは、男性神・アマテラスに奉仕する立場であった、ということができそうだ。すなわち斎宮(いつきのみや)である。

 斎宮とは、伊勢神宮における斎王のことであり、アマテラスを奉斎する女性のことであり、時には神懸かって神託を下す。言うなれば巫女のことだ。しかも、天皇の未婚の皇女を代々斎宮として選任していた。

 『記紀』では初代斎宮を、垂仁天皇の皇女「倭姫命」としているが、実際の斎宮制度は、早くても天武天皇より後のことだと思う。

  伊勢神宮では、様々な神事を、斎宮が中心となって行っていた。この斎宮の立場は、高天原におけるアマテラス(オオヒルメムチ)と、瓜二つである。

 内親王による奉斎をしていた神社に、賀茂別雷神社がある。通称上賀茂神社と呼ばれるこの神社には、川から流れてきた丹塗矢と同床して妊娠した「玉依姫」の縁起がある。神との聖婚である。上賀茂神社は、伊勢神宮の斎宮に対して、斎院(いつきのいん)というが、役目は同じである。

 ちなみに斎宮も斎院も、本来は居所のことであり、職制としては斎王が正しい。

 「荒木田氏」の伝承は、まさに神との聖婚を思わせる。

 前述した「倭姫命」は、「日本武尊」の東征の時、「草薙剣」を手渡した人物である。この説話自体、神話の域を出ないことは、今さら説明する必要もないだろう。

 『記紀』神話では、スサノオが「八岐大蛇」(やまたのおろち)を倒して手に入れた「草薙剣」は、オオヒルメムチの手に渡った後、なぜか伊勢神宮に居たという、「倭姫命」から「日本武尊」に授けられている。

 強引に言ってしまえば、神話であれば、「倭姫命」であってもオオヒルメムチであっても、大した違いはない、ということなのだろうか。

 むしろ、高天原のオオヒルメムチは、現世界の「倭姫命」の投影だと、考えるべきではないだろうか。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の十一

2007/10/15 【真説日本古代史】まぐまぐ

 7.豊受大神

 豊受大神は御饌神である。すなわち食物神だ。

 外宮の祭神として、全国に知られる神なのであるが、『記紀』から、その姿を読むことはできない。

 トヨウケは雄略天皇の時、アマテラスの告げにより、「丹波国」の「比治真奈井原」から伊勢に迎えられ、高倉山山麓に鎮座した。

 このトヨウケの元の地とは、あの『海部氏本紀』の籠神社である。

 アマテラスは、崇神天皇の御代に、「大和」の「笠縫邑」を出た後、吉佐宮に遷座している。吉佐宮とは、籠神社の前身であり、このことが、籠神社を元伊勢神宮と呼ばせる所以である。(吉佐宮は京都府加佐郡大江町の元伊勢皇大神宮も、名乗りをあげている。しかし、この神社は、内宮・外宮・天の岩戸・猿田彦神社・宮川・五十鈴川など、伊勢神宮に関する名称がすべてそろっている。筆者にとってこのことが、良い印象を与えていない。つまり、元伊勢説話が完成した後の創建である、と思わざるを得ないのである。あるいは、籠神社への遷座前後の頃に、ここに立ち寄った可能性が無いとは言えないが、ここが吉佐宮であったということはないと思う。)

 籠神社には摂社に、真奈井神社があり、古称を与謝宮と言い、現在はここを奥宮として、別名、豊受大神宮と呼んでいる。

 また、当地こそが「比治の真奈井」であるとしており、大化改新以降、与謝宮を籠神社と改称し、養老三年(719)、現在地に遷座し、旧地を奥宮と定めたのである。

 祭神は、彦火明命であり、アマテラスではない。

 『記紀』には見られない豊受大神であるが、その縁起は『風土記』や、『止由気大神宮儀式帳』などに伝わっている。

 そのうち『風土記』の記述は、次の通りである。

 『丹後国風土記』

 昔、丹後国の丹波の郡の比治の里の比治山頂上に、真奈井という井戸があった。この真奈井で八人の天女が、水浴びをしていた。その様子をこっそり見ていた老父と老婦が、羽衣を一つ隠したので、一人の天女が、天に帰ることができず、地上にとり残されてしまった。この天女は、老夫婦の養女となり、十年余年に渡って共に生活した。

 老夫婦は、天女のおかげで財を得たが、ある日、「汝は、吾が児にあらず」言って、天女を、家から追い出してしまった。失意のうちに天女は、竹野郡船木の里の奈具の村に到り、ここに泊まり住んだ。

 この天女こそ、「奈具の社に坐す豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)」

 であるという。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の十二

2007/10/23 【真説日本古代史】まぐまぐ

 『摂津国風土記』

 昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山に居て、この山を台所にしていた。後に訳があってやむを得ず、ついに丹波の比遅の麻名韋に遷られた。

 『丹後国風土記逸文』

 丹後国は、もともと丹波国であったが、元明天皇の時、丹波国の五郡を差し割いて丹後国とした。ここを、丹波というのは、昔、豊受大神が、この国の伊去奈子獄に降臨した時、天道日女命などが、五殻や桑蚕の種をもらい、真奈井の井戸を掘り、水田や陸田を開いて蒔いたところ、瑞穂が田に充ち満ちたので、豊受大神は大いに喜び、「あえなし田庭なるかも」と言われたので、ここを丹波と言うようになった。

 ただし、トヨウカノメはその発音から、女神であることは容易に推察できる。

 トヨウカノメは、『摂津国風土記』が記すとおり、本来、飯盛り、膳厨の神であって、『丹後国風土記』のトヨウカノメは、天女羽衣説話と結びついて成立したものであるらしい。従って、「豊受大神」と「豊宇賀能売命」は、呼称こそよく似てはいるものの、まったくの別神である。

 しかしながら、トヨウカノメが御饌を炊き供えて、「与佐宮大神」をお祭りしていたという所伝が、伊勢の『御鎮座本縁』、『御鎮座本紀』等に見られるという。詳しくは、『元初の最高神と大和朝廷の元始』(「海部穀定氏 著、桜楓社 刊)を読んで欲しい。

 トヨウケが御饌神とされているから、膳厨の神であるトヨウカノメと、混同視されたのだろうが、いずれにしても、これらの伝承は、「真奈井」に関係しており、トヨウケは、三丹地方に大変縁の深い呼称ということができる。

 この伝承で重要な点は、『丹後国風土記逸文』にある「天道日女命」の記述である。アメノミチヒメは、ホアカリの后である。つまり、ホアカリとトヨウケは、同時代人(神であるから、人と言うには、いささか抵抗があるが)であるわけだ。

 『但馬故事記』は、ホアカリがその后であるアメノミチヒメ等、多くの神々を連れ、「田庭の比地真奈井原」に降臨した後、いわゆる三丹地方を巡り、井戸を掘り、水田を開き、五穀桑蚕の種子を広めた、としている。

 面白いことに、そのホアカリにトヨウケが志楽(舞鶴市の東部)の地を授けたのだ、ともいう。

 『但馬故事記』は、『丹後国風土記』と似通った記述が多く、その伝承の基の資料は、同一だろうと充分想像できる。そして、このホアカリとトヨウケの伝承もまた、同一の資料に依ったものではないかと、思えてならない。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の十三

2007/10/25 【真説日本古代史】まぐまぐ

 すなわち、豊受大神は火明命と同体である。

 これは後述するが、本来、豊受大神とは天照大神そのものであったと思う。

 雄略天皇の二十二年、天照大神が天皇の夢枕に立って、

 「私は高天原にいた時に、求めていた宮処に鎮まることができた。しかし一所に居るのはまことに苦しい。大御食を安らかに召し上がることができない。丹波国比治の真奈井原から止由気大神を迎えて欲しい。」

 と言ったという。これは、『止由気宮儀式帳』に記されているが、私はトヨウケのほうが先であり、アマテラスが後だった、と考えている。

 むしろ、この雄略天皇の二十二年こそ、天照大神が迎えられた年であろう。

 それは、「丹波国比治の真奈井原」からであり、後にトヨウケと名を変えられた、原初のアマテラスであった。

 『但馬故事記』は、ホアカリをニギハヤヒと同一視してはいるが、その讃え名は「天照国照彦櫛玉饒速日天火明命」と呼び、『先代旧事本紀』でいうニギハヤヒと名前の順列が入れ替わっている。

 同書は異録四書、いわゆる際物扱いの書であり、学術的には偽書であるかも知れないが、『記紀』をはじめ、他の古史古伝と共に、提供される民族伝承は貴重な情報であることに違いはない。

  8.内宮と外宮

 伊勢神宮の社殿は、唯一神明造りと呼ばれ、その形状は高床式倉庫に由来する、と言われているが、もっと積極的に、棟持柱を持つ高床式倉庫そのもの、と言えるように思う。

 伊勢神宮には、現代では他に例を見ない「式年遷宮」という、神宮最大のイベントがある。これは二十年に一度社殿の建て替えを行うものであるが、その歴史は、持統天皇二年(688)に制度の定めがあり、その四年後に内宮の遷宮、六年後には外宮の遷宮が行われたという。しかし、『日本書紀』にその記録があるわけではない。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の十四

2007/11/07 【真説日本古代史】まぐまぐ

 継承されている歴史には、古代の建築様式や儀式だけでなく、古代の技術や人々の心をも受け継がれていると言うから、現存する社殿は、第一回の遷宮当時と違いはないことになる。

 建築様式は、茅葺き・堀立柱に切妻造りの平入りという簡素なものだが、その形容美は、他に例がないほどである。

 先に述べたように、高床式倉庫を類推できるこの社殿は、極めて弥生建築的なものであることから、祭祀制度が整備されたのは、第一回の式年遷宮と、時期をほぼ同じくするものと思われるが、伊勢神宮自体の歴史は、古くからあったものと思われる。しかし、『垂仁紀』にある説話から、創建はその時代とすることには、簡単にはうなずけない。説話自体が、『垂仁紀』に収まるだけの短い時間に完結したとは、到底思えないし、現在の伊勢神宮の前身の宮は、すでにそこに存在していた、と考えるからである。

 大社造りで名高い出雲大社の本殿も、同様の弥生建築様式である。伊勢神宮の倉庫に対して、出雲大社は屋敷という違いはあるが、出雲大社を最古の神社建築とするならば、伊勢神宮もまた最古の部類に入る。

 おそらく第一回目の式年遷宮当時の社殿は、その建築様式から、旧来から存在していた、社殿を基に建築されたものと推察される。

 その旧来の社殿の建築時期はというと、これは何とも言い難いが、出雲大社の創建と、大きく離れていないであろう、と思われる。

 もっとも、第一回目というのは、単に立て替えた、ということにすぎず、二十年という定められた期間をおいて、立て替えが行われた第二回目の式年遷宮こそ、本当の意味での式年遷宮になるわけである。

 さて、現況の伊勢神宮に話を戻そう。

 内宮と外宮は、その通称からも判るように、陰陽思想のもと建築設計されている。

 「内宮と外宮では、寸法、千木の切り方、鰹魚木の数、桁を組む位置と梁の関係等に相違があり、千木の切り方の水平と垂直、鰹魚木の十本と九本など、内宮を陰、外宮を陽とする陰陽思想で構成されている。」 (『歴史読本』昭和六十二年三月号、『伊勢神宮と日本人』村上重良氏 論文より引用)

 というように、外観には明確な区別がある。陰・陽はそのまま内・外の意味である。これは偶然ではなくて、陰陽の陰だから内宮であり、陽だから外宮と呼称するのだと思われる。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の十五

2007/11/10 【真説日本古代史】まぐまぐ

 また陰・陽は、女性・男性にもあてはまる。

 「荒木田氏」の

 「天照大神は蛇神で・・・」

  論は、ひとまず棚上げしておくが、陰である内宮の祭神が、男性神であることはありえない。逆に、陽の外宮が女性神であることも、ありえないことなのである。

 従って、内宮の祭神がアマテラスだというならば、アマテラスは我々が認識しているように女性神であり、外宮のトヨウケは男性神でなければならない。

 そこで、過去には耳にされたことがあると思うが、内宮の祭神はヒミコであり、外宮の祭神は「台与」(トヨ)である、という説は、見当はずれである。ヒミコは先に述べたように、アマテラスと同一視する説もあるから、それはともかくとして、ヒミコの宗女、トヨは、女性であり、男性神を祀る外宮から飛び出してしまう。

 トヨウケとトヨという、たんに音韻が似ているだけで、ささやかれていた説であるにすぎず、また「壱与」ではなく「台与」と決めつけたからこそ、成り立つ説でもある。

 もちろん、外宮の祭神は『丹後国風土記』の「豊宇賀能売命」でもない。

 羽衣伝説のこの神もまた、女性神である。

 さて、「荒木田氏」の言うアマテラスは「蛇神」であるから、れっきとした男性神である。

 おそらく、こうなったのにはある種のからくりがあるのだろう。

 そもそも、伊勢の宮(神宮の前身である宮)は、前述した瀧祭神を祀っていたものと思われる。

  この宮は、五十鈴川底におられる龍神が御神体ともいうらしい。すなわち「蛇神」である。「荒木田氏」の言い分は、このことだと思う。「荒木田氏」も「度会氏」同様、女性神・アマテラスのことを、内心快く思っていなかったのではないだろうか。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の十六

2007/11/15 【真説日本古代史】まぐまぐ

 伊勢神宮の創祀は、垂仁天皇の皇女「倭姫命」による、アマテラスの伊勢鎮座に、始まったことになっている。「荒木田氏」は、このときから奉仕したと伝えられるから、創祀以来の禰宜職であるわけだ。

 これが伊勢の瀧祭神の鎮座の時かと問われれば、そうではないだろう。

 9.「倭姫王」

 まずヤマトヒメであるが、私はこの伊勢鎮座の時期を、垂仁天皇の時代とは考えていない。

 斎宮制度成立以前の斎宮には、

 「倭姫命」(垂仁天皇皇女)
 「五百野皇女」(景行天皇皇女)
 「伊和志真皇女」(仲哀天皇皇女)
 「栲幡姫」(または稚足姫)皇女(雄略天皇皇女)
 「荳角皇女」(継体天皇皇女)
 「磐隈皇女」(欽明天皇皇女)
 「菟道皇女」(敏達天皇皇女)
 「酢香手姫皇女」(用明天皇皇女)

 が、挙げられるが、言ってみれば、伝承上の斎宮である。

 制度後の「大来皇女」(おおくのひめみこ)以降と比較すれば、具体性に乏しいことがすぐにわかる。

 「大来皇女」は天武天皇の皇女であったが、考えてみれば、日本の制度はすべて、天武時代に大きく発展していった、と言っても良いだろう。

 その皇女が事実上の初の斎王になり、それ以降、国史における伊勢神宮の具体的な記述が格段に増えている。

  事実、『扶桑略記』は、「大来皇女」を

 「大来皇女を以て伊勢神宮に献する斎王の始めと為す」

  と記している。

 それでは、皇祖を祀るという伊勢神宮ながら、それ以前の沈黙は、いかなることであろうか。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の十七

2007/11/20 【真説日本古代史】まぐまぐ

  ヤマトヒメによる伊勢鎮座が『日本書紀』紀年から、西暦紀元前5年と換算される。(これは無茶な論理だということは承知の上だが)天武元年が672年であるので、677年もの間、何ら音沙汰がないことは、皇祖皇大神宮として、異常としか言いようがない。

  言い換えれば、皇祖皇大神宮としての歴史は、天武天皇からだった、と言えるのではないだろうか。

  それ以前と言えば、「蛇神」・「瀧祭神」を祀る伊勢の宮だったのである。

  「荒木田氏」はヤマトヒメに随行して、伊勢の地にやってきたらしいが、私は、このヤマトヒメを垂仁天皇の皇女とは、考えていない。

  ヤマトヒメは、垂仁天皇の皇女以外にもいたのではないか。

  それは、「古人大兄皇子」の娘であり、天智天皇の后であった、「倭姫王」(やまとのひめのおおきみ)のことである。私見ながら、「古人大兄皇子」とは、「大海人皇子」と同一人物である。すなわち天武天皇だ。

  エピソード「壬申の乱」でも、述べたことであるが、「高市皇子」に加勢した、「伊勢」から吹いた神風とは、「倭姫王」のことであったと思っているし。『倭姫命世記』のヤマトヒメもまた、「倭姫王」のことであろう。

  逆に、垂仁天皇のヤマトヒメは、この「倭姫王」がモデルだった、と考えたい。

  制度上の初代斎宮は「大伯皇女」であったが、『垂仁紀』のヤマトヒメ同様、「倭姫王」は「伊勢」に向かっていたのではないか。

  天智天皇崩御後の「倭姫王」の動向は、一切わかっていない。「大海人皇子」は、天智天皇の病床に際して、「倭姫王」の即位と、「大友皇子」の太政大臣就任を薦めた。

  開戦後、敵方の娘となった「倭姫王」は、直ちに「近江朝」を脱出し、「荒木田氏」に付き添われ、「伊勢」(地方としての伊勢)に身を寄せていたのではないだろうか。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の十八

2007/11/27 【真説日本古代史】まぐまぐ

 「大海人皇子」は、「桑名」へ向かう道中、アマテラスを遙拝しているが、これは「伊勢」にいる「倭姫王」の身を、案じての行動だったのではないかと想像したくなる。この時のアマテラスは、男性神(詳細は後述するが)であった。『記紀』の言う、女性神で皇祖のアマテラスでなければ、「大海人皇子」とは、全然関係なくなってしまうからだ。

 伊勢の宮は、もともと漁労に従事していた「度会氏」の氏神であったと思われる。ヤマトヒメが向かった先が、五十鈴川上の磯宮であったというから、「伊勢」とは「磯」の訛りではなかったか、と思われるが、その磯宮の祭主が「度会氏」であったのだと思う。

 「度会氏」の氏神こそ、五十鈴川の龍神(もちろんアマテラスである)であったのだが、そこへ制度改革があり、「倭姫王」専守の功績もあって、その奉仕を「荒木田氏」が任命された、ということになったのではないのだろうか。

 「度会氏」が、素直にそれを認めたのかどうかは不明であるが(常識的に考えて、素直に従ったとは到底思えないし、こうした無理強いの結果が、後世起きた『大成経発禁事件』の一要因のようにも思える)、これは「壬申の乱」のことであろうから、時の勢いには逆らうわけにはいかないのだろう。

 このとき、伊勢の宮が国家守護の神宮となった、始まりでもあったと思う。

 10.皇大神宮

 「『持統紀』六年五月、『使者を遣して、幣を四所の、伊勢・大倭・住吉・紀伊の大神に奉らしむ』とあり、同年十二月、『新羅の調を、五社、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟足名に奉る』とある。

 この記事について直木孝次郎は、『伊勢は筆頭に記されてはいるが、大倭以下の神々と同格にならべられていることも、伊勢神宮が天皇家にとって特別の神社であるという認識が、さして強くなかったことを語っている』

 といって、八世紀以降になると、『伊勢神宮及び七道の諸社』(『続日本紀』慶雲三年閏正月)という書き方がされていることをあげている(藤谷俊雄・直木孝次郎『伊勢神宮』)。」 (『歴史読本』昭和六十二年三月号、『天照大神の誕生』平野仁啓氏 論文より引用)

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の十九

2007/12/10 【真説日本古代史】まぐまぐ

 六年五月に他の大社と同格だった伊勢の宮は、八世紀には別格になっている、ということだが、それよりも、突如として伊勢が、主要大社と同格になったことのほうが驚きである。しかも筆頭でである。

 これより以前の三月三日、持統天皇は「中納言大三輪朝臣高市麻呂」の職を賭けた諌めを振り切って、伊勢に行幸している。

 それに付随して、

 「十七日、お通りになる神郡(度会・多気の両郡)と伊賀・伊勢・志摩の国造らに官位を賜り、当年の調役を免じ、また供奉の騎士・諸司の荷丁・行宮造営のための役夫のその年の調役を免じ、全国に大赦をされた。」

 と、ものすごい大盤振る舞いである。

 この後二十三日、近江・美濃・尾張などにも、同様の赦免をしている。このことは、「壬申の乱」の功績への恩賞など、と言われているようであるが、確かにそれもあるだろうし、過去にも説いたが、太上天皇になってからの参河行幸のように、文武天皇の将来を案じての、王権安泰のための根回し行幸であった可能性も考えられる。

 ところが、この伊勢行幸だけに関しては、実は伊勢神宮へ行幸であったとするならば、また違った意味合いになる。

 つまり、この持統六年とは、第一回目の式年遷宮の年に当たるからである。

 結局持統は、真新しく築かれた伊勢神宮を、一目見たかったのではないだろうか。

 正式な伊勢神宮の成立は、これを期にしたのだろうし、これは多額の国庫金を投じての、一大事業であったはずである。だから、持統の個人的な思惑で成り立ったものではないだろう。当然、「壬申の乱」の功績から、強く推したことはあったと思われる。

 これによって伊勢(神宮)は、延喜式でいう旧官幣大社筆頭の地位を得られることになった。しかし、それは表向きのことであって、裏では、持統(持統の即位は私的なものである。エピソードの三『持統天皇』)?不比等ラインに密談があったのではないだろうか。

 その証拠が、「大三輪朝臣高市麻呂」の諫めである。このとき「高市麻呂」は、

 「農繁の時の行幸は、なさるべきではありませぬ。」

  と言って諫めているのだが、このとき伊勢が皇大神宮と言われていなくても、少なくとも持統の先祖神を祀った宮であったならば、「高市麻呂」の諫めは的はずれなのだが、そうではなさそうなところに、朝廷と持統との間に、見解の相違が見て取れるのだ。

 朝廷は、伊勢(神宮)を東海道の拠点として、筆頭ながら他の主要官弊社と同格扱いにしたにすぎない。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の二十

2007/12/15 【真説日本古代史】まぐまぐ

 旧東海道の熱田?桑名間は、海上交通だったことは有名である。奈良時代のそれは、海人の雄「尾張氏」が掌握していたのだが、「尾張氏」からの影響力を嫌った「大海人皇子」は(エピソードの二『壬申の乱』)、伊勢?渥美に別のルートを求めたのだと思う。

 そこに白羽の矢が立った土地こそ、五十鈴川上の磯宮だった。

 「尾張氏」と同族の「度会氏」にとっても、その地は東国ルートの拠点であり、であるからこそ、安全祈願のため五十鈴川底にすむという、龍神を祀っていたのである。「織田信長」の「北畠氏」攻めに協力した「九鬼水軍」が、この地方を拠点にしていたことからも、この地方の重要が証明できる。

 持統の行幸が、単なる神社詣だと疑わない朝廷は、諫めるのが当然であろう。ただここでも問題がある。天皇を諫めることができた、という点である。裏を返せば、持統はこの時点では、権力者だったのではないということだ。それもそのはずで、国家中枢の中心人物は、「高市皇子」だったからである(エピソード3【持統天皇】)。

 持統にとってみれば、権力を自分に引き寄せるためには、伊勢神宮が絶対的であることが必要だった。結果的に伊勢神宮が女帝伝説第一章の始まりでもあったから、どうしても行かなければならなかった。真新しく築造された伊勢神宮は、創造された天皇神話の実証になるからである。

 それは持統と、その権力を巧みに利用しようとした、「藤原不比等」との画策であり、朝廷といえども、その真意は見抜けなかったということである。何しろ、「藤原氏」の私邸で持統を即位させたくらいであるから、それが公認でないにせよ、大胆にも公然と既成事実を作っていったのである。

 かくして、女性神の宮を装った伊勢神宮という器は完成したのであるが、祭神は五十鈴川の龍神である。それは皇女により神祭りをするという、男性神アマテラスであった。

 その後、女性神アマテラスへの祭神入れ替えがあったことになるのだが、それは、神主家であった「荒木田氏」の言葉が証明している。

 その時期は、『日本書紀』の編纂開始以降であり、持統?「不比等」体制が完成した早々といえるだろう。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の二十一

2007/12/20 【真説日本古代史】まぐまぐ

 『日本書紀』の本文でのアマテラスの最初は、たんに「大日靈女貴尊」と称され(アマテラスとは呼ばれていない)、太陽神をお祭りする巫女でしかない。ところが、挿入されている一書や、続いていく本文を読んでいくうちに、「大日靈女貴尊」=天照大神という図式が完成していってしまい、いつしか「大日靈女貴尊」は消えている。

 これは、意図的にそう編集されているとしか思えないほど、読者にすり込まされていく。

 ここまでが第一段階であり、ヤマトヒメを依り代にして、「伊勢」五十鈴川の川上に鎮座した説話が第二段階である。

 『日本書紀』は養老四年に完成された後、その翌年に「日本紀講」なる講義が催されている。これは大臣以下の官人のために催された、朝廷主催の講義であり、その後は、弘仁三年(812)、承和十年(843)、元慶二年(878)、延喜四年(904)、承平六年(936)、康保二年(965)の約三十年に一度の割合で開催されている。

  天皇家の祖神がアマテラスであると言うのならば、天皇家は本来、神を祀る側であったことになり、女王であり大巫女であった「邪馬台国」のヒミコにぴったり重なってくる。

 そして、祀る側が祀られる側になるために必要だった道具こそ、『日本書紀』だったのである。

  事実『景行紀』では、東国に赴く「日本武尊」が、伊勢神宮に居た「倭姫命」訪ねているが、「草薙剣」を授ける「倭姫命」は、アマテラスそのものである。

 『日本書紀』には天皇家の祖、女性神アマテラスが書かれていて、あるべきところに、伊勢神宮がある。天皇とは名誉大王の持統であったが、こうした後付の既成事実によって、天皇=最高位になっていき、同時に、最高位としての大王位は消滅してしまったのである。

 しかし、それは大和朝廷内に限られたことであり、当の伊勢神宮は、そんな国政について、一切関与がなかった。

 現代のように、情報伝達手段が無い古代において、中央でなされた政治決定が、地方に伝わっていく時間を想像してみると、それは、数日間であろうはずがない。早くて数週間、積極的に伝えようという意思が働かなければ、数ヶ月、あるいは数年後ということも考えられる。

 この場合は、どうであったろうか。祭神の入れ替えを企んだ持統にとって、伊勢に知らせて良い情報は何もない。

 ここは成り行きに任せたものと考えられ、事実は二年後の外宮移転の宣命とほぼ同じくして、もたらされたのではないだろうか。

 「荒木田氏」の

 「天照大神は蛇神で・・・」

 発言には、このようの背景があったものと思われる。

 元来は男性神を祀っていながら、十本の鰹魚木を持たされた女性神の宮とされたという矛盾は、実は少なからず現代までも残っている。

 天照大神の御装束は、なんと男装束なのである。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の二十二

2007/12/24 【真説日本古代史】まぐまぐ

 11.豊受皇大神宮

 雄略天皇の二十二年、外宮が迎えられている。迎えた元は、与謝宮であり、現在の籠神社の元宮である。

 そして、内宮に遅れること二年、外宮の遷宮が行われたことになっている。

 しかし、この遷宮以前、外宮は本当にあったのだろうか。

 私は、この雄略天皇の二十二年は、このとき迎えられた神が、結果的に外宮に遷座されたからこそ、外宮という表現になってしまったのであって、実際には、「度会氏」の祖神であった「龍神」が、五十鈴川上に鎮座された時が、この記録に成り代わっているのだと考えている。

 つまり、遷宮以前には外宮はなく(もちろん、外・内という一対の呼称を与えられている内宮もない。おそらく内宮という呼称は、外宮成立時以降の産物であると思う)、雄略天皇の二十二年以降存在したのは、内宮の前身である瀧祭神だけだったのではないか、と思うのだが。

 そもそも、遷宮以前の史書である『日本書紀』に、外宮の記述がないことが、これを裏付けていると思う。

 外宮の第一回目の遷宮、実は外宮の創建であったと考える。

 外宮の創建は、このときの皇室の権威が、より大きくなっていったことの、証明であろう。

 皇祖神としての天照大神の重要性が高まり、従来のアマテラス、すなわち瀧祭神とは別の天照大神を、皇室唯一絶対の氏神として昇格させる必要があったというわけだ。

 天照大神を私物化できるほどに、皇室は強大になっていったわけである。

 その結果、旧アマテラスは、外宮という宮を与えられ、そちらに遷座させられたのだが、その外観は内宮と同格である。

 皇室の祖神と国家原初の祖神を同格にしなければ、批判を回避できないと考えたのだろうか、それだけ原初の祖神が大きかったわけである。

 外宮の鰹魚木は九本である。これは、初めから男性神のための宮であることは明白だ。

 その男性神とは、五十鈴川の龍神であった。そうであるならば、その元である籠神社の「籠」とは、「龍」が本来の文字であったのではないか、と思えてならない。

  籠神社の名称の由来は、彦ホホデミが籠に乗って竜宮に行った故事にちなんでいると言うが、竜宮は龍宮であり、彦ホホデミが龍になって、というのが本来の故事であり、それが名称になったのではなかったかと思われる。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の二十三

2008/01/10 【真説日本古代史】まぐまぐ

 というのは、籠神社には籠神社の祭神と賀茂別雷神社の祭神とは、異名同体であるという伝承があり、「山城国」の『風土記』には、

 「賀茂建角身命に玉依日子と玉依日売という二人の子があった。玉依日売が石川の瀬見の小川に川遊びをしたとき、川上から丹塗矢が流れてきた。玉依日売はその矢を持ち帰って、床のかたわらに挿しておくと、やがて妊娠し、男の子を生んだ。それは賀茂神社の上社の祀られている賀茂別雷神である。」

 とある。これは、流れてきた丹塗矢が陰処を突いたという、『古事記』のイスケヨリヒメの説話とそっくりであるが、丹塗矢とは、男性神の象徴であり、降雨をもたらす雷神は龍神でもあった。

 すなわち籠神社は龍神を祀る神社でもあったことになる。

 その祭神がホアカリであるならば、神格としてのホアカリは龍神であり、籠神社の真相は、やはり龍神社であったと思われる。

 ところで、『伊勢国風土記逸文』(『風土記』ではないかもしれない、という注釈がある)の『安佐賀社』の項として、大変興味深い説話が残っている。

 それは、

 「伊勢の風土記。天照大神が美濃国より廻り来て、安濃の藤方の方樋の宮に到った時に、安佐賀山に荒ぶる神がいた。その神は百人通れば五十人を殺し、四十人通れば二十人を殺した。これによって、倭姫命は、度会郡宇治村の五十鈴川上の宮に入ることができず、藤方の方樋の宮に天照大神を祭った。そして、安佐賀山の荒ぶる神の所行を、中臣の大鹿嶋命・伊勢の大若子命・忌部の玉櫛命を遣いに出し、天皇に報告した。天皇は、「その国は大若子命の先祖、天日別命の平定した山である。大若子命がその神を祭り鎮めたうえ、倭姫命を五十鈴の宮にお入れするように」と言い、さまざまな幣を賜って、遣いを返してきた。大若子命は、その神を祭り鎮め、安佐賀に社を立ててお祭りした。」

 なのであるが、これは、かなり核心を突いていると思う。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の二十四

2008/01/15 【真説日本古代史】まぐまぐ

 まず、初代斎宮は「大来皇女」であることを考えると、このヤマトヒメは、天武天皇の妹のことになる。もっとも、『垂仁紀』のヤマトヒメの実在を認めていないので、当然のことなのだが、そうであれば、ここに記されている人物の時代考証は、あてにはできない。

 『伊勢国風土記逸文』では、「天日別命」(「天日鷲命」とも書く)は、神武天皇の命を受けて、国津神であった「伊勢津彦」を東方に至らしめ、「伊勢」を平定した神とされている。また「度会氏」系図に見える「天牟羅雲命」の孫である。「大若子命」は「天日別命」の六世孫、「天牟羅雲命」の八世孫となる。「天日別命」はその名からして太陽神、あるいは太陽神の子、太陽神の分身であろう。

 安佐賀に建てられたという社は、松阪市小阿坂町の阿射加神社と比定されており、祭神は「猿田彦神」、「伊豆速布留神」、「竜天大神」の三神である。

 さて、これらを総合して結論づけると、通行人の半数を殺したという荒ぶる神「天日別命」であるが、神である「天日別命」が殺すというのは、現実的ではないので、新しい神の流入に対して、旧来の神を奉斎する氏族の抵抗と考えられる。これは外来氏族の侵入であり、土着氏族の抵抗と言うよりも、かなりの争乱であったことを物語っているのではないか。

 やむを得ず安濃郡の藤方(三重県津市藤方か?)に、基地を構えたのであるが(これが後に斎宮へと移っていくのだと思う)、五十鈴川流域を、東国経営の一大拠点と考えている朝廷は、「壬申の乱」で功績のあった伊勢国王を通じて、天津神の宮と等しい社を建てるという条件で、抵抗勢力を説き伏せたのではないだろうか。このあたりは『古事記』に記された、オオクニヌシ命の出雲大社の手法と同じだと思う。

 「天日別命」は安佐賀の社を歴た後、外宮の創建を待って、外宮に祀られたのだと考えている。

 「度会氏」の祖であり、太陽神である「天日別命」とは、同族関係にある「尾張氏」・「海部氏」の祖、ホアカリやトヨウケと異名同体と考えられる。

 「山田宗睦」氏の小論文の一説に、

 「天武から文武、聖武にかけて、斎宮・斎宮寮は、急速な発展をとげている。この時代は、『古事記』『日本書紀』、『大宝律令』、伊勢神宮、または初期万葉など、思想的な事業が併行してすすんでいる。

 一方で、持統朝のころ<高天原?アマテラス>の観念が成立して、記紀の神代巻の構想が確定した。他方、その前代の天武朝から、壬申の乱のさいの伊勢の望拝が起源となって、伊勢神宮を造営する政策構想も、できあがってきた。この二つが関連して、天皇家の祖神アマテラスを祀る伊勢神宮が生まれたのである。」(『歴史と旅』神話と歴史を結ぶ聖地 伊勢神宮 昭和六十四年二月号)

  とある。まったくその通りだと思う。ただ、持統朝と言えば「藤原不比等」の関わりをも、付け加えたい。

  しかし、これで問題が解決したわけではない。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の二十五

2008/01/20 【真説日本古代史】まぐまぐ

 安佐賀の社に祀られたという「天日別命」であるが、そこには、「猿田彦神」、「伊豆速布留神」、「竜天大神」の三座が祀られている。

  「竜天大神」は龍神のことであろうし、「伊豆速布留神」は『倭姫命世記』では「天日別命」と同じ所行を行う神として記されているので、共に異名同体であろう(その名からニギハヤヒと関係を感じさせるが、現状ではよくわからない)。

 同様に「猿田彦神」も異名同体であろう。つまりこの三座の神は、同一神と考えられるが、問題とは、この「猿田彦神」(さるたひこのかみ)のことである。

  サルタヒコは、佐太大神(さたのおおかみ)と同体とされている。その佐太大神は、島根県八束郡鹿島町にある佐太神社に祀られる神である。つまり、俗にいう出雲神、国津神だ。

  出雲大社が神無月における神様の会議場であることは、よく知られていることであるが、会議の前半は出雲大社で、その後半は佐太神社に場所を移して行われるということをご存じだろうか。

  佐太神社の大祭は、浜に打上がった海蛇(「龍蛇様」りゅうじゃさま、と呼ぶのだそうだ)を奉納するのだそうだ。

  龍蛇様が海上を渡ってくるときは、さながら金色の火の玉に見えるというが、これなどは光を放って海上を渡ってきた、大物主神を連想させるし、神無月に諸国から訪れる神々を先導する神であるというから、導きの神であるサルタヒコの性格は、ここから来たのではないだろうか。

  サルタヒコが導きの神であるとされた理由には、邇邇芸命(ににぎのみこと『古事記』表記)が天降りしようとしたとき、

  「天から地へ通じるいろいろな道が集まった要の場所に居て、光って上は高天の原に輝き、下は葦原の中つ国に輝いている神がありました。」(『古事記』)

  と、立ちはだかっていた神であって、その後、ニニギを高千穂峰に案内すると、自らは故郷の「伊勢」に帰っていった、という説話があげられるが、これなどは、ヤマトヒメを妨害した「天日別命」を連想させるのには、十分な説話であろう。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の二十六

2008/01/24 【真説日本古代史】まぐまぐ

 しかし、サルタヒコに言及しようとすればするほど、この章では収まりきらず、その言及が、いわゆる『捨てざりがたい説』の方向へ行ってしまう。

  従ってサルタヒコについての今後の展開は、『【封印された古代史妄想的話】其の10』に頁を譲って述べることを、ご了承頂きたい。

 そして、伊勢神宮の最期の問題が伊雑宮である。

 12.伊雑宮

  伊雑宮の何が問題ないのかというと、ここは古く内宮と本家を争った宮だからである。

 ことの発端は、享禄四年(1531)、伊雑宮の神領地を守護していた「的矢氏」が、「九鬼家」に滅ぼされたことによる。その結果、神領地は「九鬼家」に横領され、庇護のなくなった伊雑宮は、経済的に自立できなくなり、その困窮は悲惨なものであった。

 その後、領主「九鬼家」と衝突を繰り返していた伊雑宮の神人は、時代が過ぎた正保二年(1645)に神訴。

 このときの訴状では、

 「日本第一の大社、大神宮」

 と記され、つづく正保三年(1546)では、

 「伊雑皇太神宮」

 と称し、「伊勢三宮説」を唱えた。さらには「伊勢三太神宮御同体」とエスカレートし、明暦四年(1658)の上訴では、添付した『伊雑宮旧記勘文』で、

 「則ち天照大神は、伊雑村之下津磐根にある伊雑皇大神宮に鎮座し…」

  と、神宮の本家を主張した。

 この事態に、協力的だった内宮との関係が一気に冷え込んでしまった。

 それでもなお、

 「伊雑が内宮の本宮」

 と主張しつづける伊雑宮は、内宮・外宮を完全に敵に回し、係争状態となった。

 その後も紆余曲折があり、しかし状態は硬化したまま、最終的には、朝廷の決裁により、伊雑宮は「伊射波登美命」(いざわとみのみこと)を祭神とする、内宮の別宮であると裁定された。

  寛文三年(1663)、伊雑宮の神人は、将軍綱吉の行く駕籠を待ち受けて直訴するも、結局は神人47名が追放処分を受けることになった。

 ところが、それ以上に世の中を論争の渦に巻き込んだのが、『先代旧事本紀大成教』の発刊であった。

【特別編】謎の聖域!伊勢神宮 其の二十七

2008/02/07 【真説日本古代史】まぐまぐ

 『先代旧事本紀』という史書は、実は複数存在する。ここでも、よく例に取り上げているものは、通常「十巻本」と呼ばれているもので、他にも「三十一巻本」・「七十二巻本」がある。

 『先代旧事本紀大成教』は、このうちの「七十二巻本」のことで、延宝七年(1679)、江戸の版元「戸嶋惣兵衛」(とじまそうべえ)のより、『神代皇代大成教』(かみよこうだいたいせいきょう)として刊行されたものであり、おそらくは僧侶「潮音」(ちょうおん)が、持ち込んだものと考えられている。

 『大成教』は発刊当初から、学者や僧侶などの知識人や、エリート階級などに大評判となったが、その後、たちどころに焚書・発禁の憂き目にあう。

 天和元年(1681)、荒唐無稽な偽書であると幕府に断定され、版元の「戸嶋惣兵衛」は追放、「潮音」(後に減刑)等は出版関係者とみなされ流罪となったのだが、その関係者として伊雑宮の神人が含まれていた。

 偽書だとはされたが、はたして内容を吟味したのかどうかは、はなはだ疑問である。というのも、幕府が裁定を下した理由は、激昂した内宮・外宮神人たちの、熱心な詮議の申し立てがあったからである。

  両宮が問題にしたのは、伊雑宮は両宮よりも社格が上であるとする記述であり、言ってしまえば、伊雑宮こそが本来の内宮、ということである。

 これは先の伊雑宮事件と同じ主張であることから、伊雑宮神人の関与があったものと裁定され、伊雑の神人もまた処分されたのだが、「潮音」はなおも、『大成教』が本物であることの主張をつづけた。

 結局『大成教』事件は、「処分不徹底」ということで、その版木が焼却され、焚書目録の筆頭に名を記されることになった。

 ところで「潮音」が減刑された理由は、将軍「徳川綱吉」の生母、「桂昌院」(けいしょういん)の取りなしがあったからである。

  実のところ「潮音」は、黄檗宗(おうばくしゅう)の傑僧「潮音道海禅師」のことであり、仏教界では知らぬ者はいないほどの超有名人だった。

 中国から来朝した「隠元禅師」(いんげんぜんじ)の法孫であり、「隠元禅師」の名は知らずとも、インゲン豆は誰もが知っていよう。インゲン豆は禅師が伝えたから、その名が残されたとい言われているくらいだ。

 「潮音」がどれくらいすごいのかと言うと、「桂昌院」だけでなく、将軍「綱吉」でさえ、帰依していたというのである。両宮神官の激しい申し立てがあったからこそ、やむなく裁いたというのが実情であったのだ。

 そんな「潮音」が、なぜ『大成教』に強くこだわったのであろうか。

 『大成教』は「潮音」の著作品ではない。聖徳太子と「蘇我馬子」との編纂という肩書きであるものの、どちらかといえば神道の書である。

 『大成教』七十二巻の聖徳太子が偽書では困るのなら、抜粋して編集すればよかったではないか。現に『大成教』以前に、『聖徳太子の五憲法』と題した書物を出版している(これが七十二巻本にある同タイトルの記述とまったく同じであるらしい)。

 従って、そこに伊雑宮が関わりがあったのであれば、

 「伊雑宮=真の内宮」

  が根底にあったからと、考えたくなる。

 伊雑宮は本来、五十宮と記すのが正しいという説がある。伊雑は後世改められたものらしい。伊雑宮は“いぞうのみや”とも発音する。すなわち、“いそうのみや”(五十宮)=磯宮である。

 伊雑宮は、内宮・外宮、両宮の争いに一枚加わった格好になったのだが、両宮が抗争中であるにもかかわらず、協力して伊雑宮を叩いたという事実には、何ともやりきれない気持ちになる。

 伊雑宮の祭神は「伊射波登美命」と下されたものの、それ以前は、「天照大神御魂」(延暦二十三年(804)『皇太神宮儀式帳』)が祭神であり、明治以降は再び「天照大神御魂」を祭神としている。

  明治に到るまで争いが続いた両宮と伊雑宮であったが、共通していた思想は、「荒木田神主」の伝承や、外宮が国常立尊を祭神とするなど、祭神は男性神であるということである。

 また、伊雑宮の「天照大神御魂」とは、アマテラスの荒御魂のことであろうか。

  内宮の荒祭宮は、アマテラスの荒御魂を祀る別宮であるが、祭神は「天照大神御魂」ではない。あくまでも荒御魂である。 了


【東濃】地元産のお神酒販売へ

2006/10/19 中日新聞

中津川の護山神社 「お木曳き」出発点PR

 伊勢神宮式年遷宮で、切り出したご神木を運ぶ「お木曳(ひ)き」の出発点になっている中津川市付知町の護山神社をよりアピールしようと、酒米も水も地元産のオリジナルお神酒「護山」を売り出す計画が動き出した。同神社の奉賛会が主催。19日、醸造する同市田瀬の三千櫻酒造でおはらいがあった。

 護山は、付知町で収穫された酒米「五百万石」を60%に精米し、田瀬の山水でつくる特別純米の日本酒。21日には酒米を蒸し、12月上旬の完成を目指す。

 この日の神事には関係者約10人が集まり、事業の成功を祈った。奉賛会の田口慶昭会長(78)は「木曽全山の鎮護、皆の安全と各家庭の繁栄を願う心を込めたお神酒になる」と期待を込めた。

 12月10日に護山神社で利き酒会を開く予定で、伊勢神宮にも奉納する。1本(1・8リットル)3500円で購入予約を受け付けている。問い合わせは取次店代表の津屋酒店=電0573(82)3144=へ。 (山本哲正)

【伊勢・志摩】伊勢神宮内宮にあのりふぐ献納

2006/10/19 中日新聞

志摩の旅館組合が豊漁祈願

 志摩市阿児町の安乗岬旅館組合が18日、天然トラフグ「あのりふぐ」の大漁と組合の繁栄を祈願し、1日の漁解禁後2回目に水揚げされたあのりふぐ11匹計12キロを伊勢市の伊勢神宮内宮に献納した。

 片山元広組合長ら組合や商工会関係者ら約20人が参加。あのりふぐが描かれた法被姿で隊列を組み、ピチピチとはねて生きの良いあのりふぐを入れた木おけをかついで運んだ。浜値は1キロ当たり4−7000円。片山組合長によると、ことしは豊漁が見込めるという。

 あのりふぐは熊野灘から遠州灘にかけて捕れる天然トラフグで「志摩の国漁協」の登録商標。同旅館組合加盟旅館は来年2月ごろまで、あのりふぐ料理が看板メニューになる。(石川尚里)

奉祝『日本のまつり・神嘗晦日祭(かんなめ』=伊勢市

2006/10/15 livedoor

【PJニュース 10月15日】− 10月14日(土)、三重県営「サンアリーナ(伊勢市朝熊町)」で、神嘗晦日祭(かんなめみそかさい)が催行されました。このお祭りは昨年まで、県道・本部前広場で行われていましたが、天候の不安がある為に、室内で行われる事になりました。明日から始まる(15日〜17日)「伊勢おおまつり」に向けての晦日祭です。東北から沖縄まで、多くの団体が伊勢のお祭り前夜に、午後4時開演にも拘わらず参集して、祭りを盛り上げてくれました。

 山形県の花笠おどり、長野県の木曽踊り、沖縄県の沖縄エイサー、志摩市のじゃこっぺ踊り、伊勢市の伊勢音頭・・・・・他多数の参加がありました。神嘗祭は神嘗正月とも言われる伊勢神宮の一年で一番大きなお祭りです。神宮は、全国神社の最高峰。いわば、日本人の総氏神様と言うようなもの。そのお祭りですから、伊勢の地だけではなく、この地から全国に伝えるべき「日本のお祭り」と言えるのです。伊勢の地では神嘗祭を奉祝する行事として、平成13年より例年10月15日、全国の有名なお祭り連がそれぞれ一人一握りのお米を持って来勢して、踊りなどと共に奉納しています。

 有名なお祭りが本場から、一堂に揃いたっぷりと披露してくれる他にない機会であることから、観覧者も年々増えています。一年の感謝と新穀の収穫に感謝して、世の平安を祈る気持ちを「お祭り」に託して、「日本のこころ」を伊勢から全国発信するお祭りとして、盛り上げ、楽しみたいものです。

 伊勢市まちづくり推進部理事・松井章氏は「今年のおおまつりは合併後、新伊勢市の初めての神嘗祭です。多くの市民から、祝福されて、奉仕できる事は大変意義深い。思い切り盛り上げて、楽しんでいただければ嬉しく思います」と話していた。【了】

神宝の刺繍、京で作業公開 伊勢神宮遷宮に向け製作

2006/10/05 Kyoto Shimbun

 20年に一度の式年遷宮(2013年)を前に、伊勢神宮(三重県伊勢市)の神宮司庁は5日、京都市下京区の刺繍(ししゅう)加工業「西刺繍」で、神宮に納める神宝の製作工程を公開した。

 同社は4本の太刀を腰に下げる帯(幅12センチ、長さ3・7メートル)の刺繍に取りかかっており、一針ずつ丁寧に針を刺す職人の技が披露された。

 神宝は、遷宮ごとにすべて新調される。同庁によると、714種、1576点あり、約4割が京都で作られる。

 帯(幅12センチ、長さ3・7センチ)は4本あり、432本の絹糸を「唐組平緒(からぐみひらお)」という技法で組んだ。刺繍には、高知県産の生糸を植物染料で染めた13色の糸を使う。

 この日は、小松二三三さん(55)らが、鸚鵡(おうむ)文を刺繍する様子が公開された。帯は通常の素材より硬く、1つの文に2週間以上かかり、完成は3年後という。小松さんは「鸚鵡文1つに3本も針を折ったほど。気持ちを統一させて取り組んでいる」。西武一社長(75)も「先人の神宝より劣ってはいけない。最高の技術と心を込めて仕上げたい」と話した。

20年に1度の技、残し伝え──伊勢神宮へ西陣織

2006年10月04日 日経ネット

 西陣の古びた事務所の奥にひっそりとある工房からバタンバタンというかすかな音が響く。1日わずか10センチメートルしかできないこともあるという気の遠くなるようなペースで現代の工業生産とは無縁の作業が日々続けられている。生み出されるのは値段が付けられない織物。20年に1度の伊勢神宮遷宮のために新調する神殿内の装飾だ。この大役を任されているのが西陣織伝統工芸士の木邨景忠さん(72)だ。

 伊勢神宮に納める織物は最上の品質が求められる。神宮側が求めるセキレイなどをかたどった門外不出のデザインを完ぺきな形や色合いで生地に表現できるまで何度でもやり直す。「お客さんの求めるもんを作れればうれしいだけで、最高の素材や織物だから特別ということはない」と木邨さんに気負いはない。

 西陣織はあらかじめ張っておいた何千本もの縦糸のうち必要な部分を上げ下げしながら、横糸を通していく。縦糸と横糸を何本かおきに織り込んでいくことで斜めの織り目模様を出したりする。組織の構成自体は極めて単純であるがゆえに、柄をきれいに織り込むのがとりわけ難しい。伊勢神宮が求めるのはそんな織り技術が如実に生地に反映される製法だ。ごまかしはきかない。経験豊かな木邨さんには技術を存分に発揮できる舞台が用意されている。

 もともと伊勢神宮から発注を受け、木邨さんに依頼したのは住江織物。国会議事堂や宮内庁の敷物などを手掛けてきた会社だ。西陣織の織物工場を第2次大戦中の企業合同で継承。美術織物部門を持つが、西陣織事業の業績は芳しくない。何度も撤退が経営会議の議題となってきたほどだ。

 生地の原料である国産繭から作る生糸は入手困難な上、伝統技術を絶やさないよう20年後の後継者も育成しなければならない。住江織物にとっては主力の自動車シート事業とはあまりにかけ離れた事業だ。それでもプライドをかけて伝統工芸を守ろうとする一企業の依頼に経験豊かな名匠が応えた。

 「年金生活者やから別にこの仕事をやらなくても生活に困らない。でも、住江織物は赤字覚悟でやっている。その姿勢を意気に感じた」。木邨さんは織物製作だけでなく後進の亀沢悟司さん(32)への技能伝承も引き受けている。

 木邨さんは西陣織の職人の家に生まれ、選択の余地なく16歳で伝統技術の継承者になった。「朝は早く、長時間のきつい」仕事が嫌いだった。だが、顧客の望む織物ができるようになってからは仕事に喜びを見いだすようになる。高度な織物を多数手掛けてきたが、あくまで無名の一職人としてしか自らを語らない。西陣織は完全な分業生産制で「そもそも自分1人でやるわけではない」ことが背景にある。

 徒弟制などない西陣は「織れもせん人間に誰が金を払うんや」(木邨さん)という世界。誰かの弟子として養ってもらうような甘い考えは通用しないのがほとんど。亀沢さんのように電気技術者から脱サラした後に住江織物に見いだされ、同社の社員として織物職人になったのは本当に幸運なケースだ。

 だが、それは同時に泣くほどつらい修業の始まりでもあった。「賢いんや、今の若い人は。失敗を恐れすぎてる。(職人というのは)誰かに教えてもらうという考えではやってない。亀沢も考えの違いに苦しんだはず」。56年のキャリアの中で技術を誰かから盗みながら、生きるために相手の求めるものを必死に自らの腕で作り出す。そんな木邨さんの取り組み方を「織機に座った雰囲気からして自分とは違う」と亀沢さんは感じている。

 横糸を「かまち」と呼ばれる横木で打ち込み模様を織り込む基本動作。いかに毎回同じようにできるかが問われる。横糸を引っ張る力や糸を打ち込む力の入れ方や角度が違えば均一な布地はできない。筋が入ってしまったり、繊維の密度が変わり、光沢や色が思ったものと離れてしまう。

 亀沢さんが西陣に来た直後に織った生地と2年たった現在のものを並べ、均一な光沢を放つ方を見ながら木邨さんが言う。「この生地は彼の財産。おれの指導ではなく本人の努力の結晶だ。この仕事を辞めてもほかでやっていける」。新しい方の生地にはかつてあった表面の線やいびつな色合いがない。亀沢さんが1人の職人になった証しだ。

 亀沢さんが織った生地のいくつかも伊勢神宮に納入される。技能が後進へと1つずつ確実に織り込まれている。 (大阪経済部 兼松雄一郎)

 ▼伊勢神宮の遷宮 20年に1度、本殿を新造し神体を移す祭儀のこと。本殿内の神宝や装飾織物などの715種、1576点の調度品も先例に従い新調する習わしとなっている。織物については住江織物が6回連続で生地の製造を担当してきた。天武天皇の代に制度化され、正式には持統天皇の代(690年)から始まったとされる。戦国時代に中断はあったものの、1300年にわたり続いている。20年という期間については屋根の耐久年数の限界に合わせたともいわれる。

伊勢神宮で秋篠宮さまらが「お木曳」を視察

2006/07/30 The Sankei Shimbun

 秋篠宮さまと長女の眞子さまが30日、三重県伊勢市を訪れ、伊勢神宮の式年遷宮の御用材を神宮に運び入れる行事「お木曳(きひき)」を視察し、一部で参加もされた。

 この日は内宮(ないくう)を流れる五十鈴川で、御用材を載せたそりを引いてさかのぼる「川曳(かわびき)」が行われ、約4900人が参加して、6つのそりを引いた。

 秋篠宮さまと眞子さまは、色とりどりの法被を身に着けた地元住民らが「エンヤ、エンヤ」と勇ましく引く様子を川岸から視察。その後、川から上げられ、内宮の神苑に運ばれたそりを、自らも白い法被姿になって住民らと一緒に笑顔で数十メートル引くなど、伝統行事を楽しんだ様子だった。

 視察に先立ち2人は、伊勢神宮の外宮(げくう)と内宮をそれぞれ参拝した。

 お木曳は、20年ごとに社殿などを建て替える式年遷宮の行事の1つで、2年にわたって実施され、今年は同日で終了。来年も5月から7月にかけて行われる。

『一日神領民 』伊勢神宮に御奉仕=三重・伊勢

2006年05月08日 livedoorニュース

【PJニュース 05月08日】− 前回4月12日と13日の両日に執り行われた神事、「お木曳始式(おきひきはじめしき)」は、特定の奉曳団のみ許される「役木曳(やくぎひき)」と呼ばれるのに対して、5月6日、7日の両日行われた行事、「一般曳(一日神領民)」は全奉曳団が参加して行われる神事である。

 連休中に行われた「一日神領民(いちにちしんりょうみん)」では、全国からの参加者が集まった。この行事は、伊勢市内の各地区(15団)の各御木曳き車に御用材(ヒノキ)を載せて、外宮に運び込まれる勇壮にして、厳かな行事です。

■関連情報 問い合わせ 伊勢市観光課:0596(23)1111

きょうから一般曳 伊勢神宮外宮周辺

2006年05月05日 中日新聞

 伊勢神宮の式年遷宮に向けて伊勢市民らが用材を神域に運び入れる「お木曳(ひき)」の「一般曳」が五日、外宮周辺で始まる。市内各地区の住民でつくる奉曳(ほうえい)団のほか、全国から集まる「一日神領民」も六日から参加する。

 四月十二、十三日に営まれた「お木曳初式」が特定の奉曳団だけ参加する「役木曳」と呼ばれるのに対し、全奉曳団が参加するため「一般曳」と呼ばれる。六月四日まで毎週金、土、日曜日、用材を奉曳車に積み、陸路で外宮に納める「陸(おか)曳」がある。七月二十二、二十三、二十九、三十日には、五十鈴川をさかのぼって内宮に納める「川曳」がある。

 四日には、宮川右岸の曳き出し開始地点にある貯木地に用材が到着。神宮側から奉曳団側へ引き渡され、五−七日に参加する十五団に計三十五本のヒノキが預けられた。

 当日の出発時間は最初の団が午前九時半、二番目が十時十分、三番目が十一時五十分、以降四十分間隔。それぞれ約三時間かけて外宮に向かう。(石川尚里)

 五−七日に参加する団は次の通り。

 ▽5日 出雲町、中島、徳川山、辻久留▽6日 小川町、宮川町、西口町、京町、二俣町▽7日 常磐表町、常磐仲町、常磐第一、常磐西世古、宮町、浦口町

伊勢神宮、用材運ぶ奉曳車が信号に激突…1人軽傷

2006年05月05日 読売新聞 Yomiuri On-Line

 5日午後3時40分ごろ、三重県伊勢市一志町の県道交差点で、伊勢神宮の式年遷宮に使う用材1本を神宮の外宮に運んでいた「奉曳(ほうえい)車」が交差点脇の信号に激突し、信号が根元から折れ、傾いた。

 同車を引いていた同市の男性会社員(52)が、信号を避けようとして転倒し、頭に軽いけがをした。

 県警伊勢署の調べでは、直径40センチ、長さ5メートル、重さ1トンの用材を載せた車全体の重さは3・5トンで、市民約200人が引っ張っており、交差点を曲がる際、勢いがつき過ぎたらしい。信号は3時間半停電したが、通行規制されていたため影響はなかった。

 伊勢神宮では2013年の式年遷宮に向け、長野、岐阜両県で切り出された用材250本を内宮、外宮に運び込む「お木曳行事」が先月から始まっており、この日は一般市民が参加する「一般曳」の初日だった。

式年遷宮は「永遠の生命を象徴」 生物学者が新解釈

2006/04/14 The Sankei Shimbun

 伊勢神宮の社殿(内宮・外宮)を20年に一度、同じ形に新しく造り替える「式年遷宮」が1000年以上にわたって行われてきた理由について、生物学者が「生物の生命維持の本質を形に表したもので、日本人の生命観の確かさを示している」とする生物学的な解釈を打ち出した。宗教学者らからも好意的な評価を受けている。

 新たな視点からの解釈を発表したのは、東京工業大大学院の本川達雄教授(58)。ナマコやヒトデなど、硬さが変化する皮膚組織研究の世界的権威だ。

 式年遷宮が行われる理由については「建物の造営などの技術を絶やさないため」「社殿の清浄を保つため」といった有力な説があるが、本川教授は「寿命」の観点から考察。生命の本質は「永遠の生を目指す」ことで、人体は構造物であるため使っているうちに壊れていくが、ある時点でそれを捨て、新しくつくり直す必要があり、それが「子供をつくる」ことだと指摘する。

 同じ構造物である建築についても、世界の権力者が絶対に壊れない建築物を造ろうとしたにもかかわらず、ピラミッドさえ廃虚と化している現実と比較。「20年ごとに建て替えることにより、1000年以上たった現在も昔通りの姿で存在する伊勢神宮こそ現実的な優れたやり方。生物が永遠を目指す方法と一致する。私たちの先祖は実に確かな生命観を持っていた」と解説する。

 この解釈について、元国際日本文化研究センター所長で宗教学者の山折哲雄氏は「これまであまりないもので、いい考え方だと思う」と評価する。ただ、前回の式年遷宮(平成5年)の儀式の際、20年たってぼろぼろとなった旧本殿の姿を目の当たりにし、建て替えは必然だと思ったといい、「日本の古い信仰にもある“古き神が一度死に、新しき神が誕生する”という感じを持った」とも話し、「死」を媒介として入れるか入れないかの点では、本川氏と解釈が異なるとしている。

 本川教授は、近著『「長生き」が地球を滅ぼす』(阪急コミュニケーションズ)の中で式年遷宮の新解釈を披露している。

      ◇

 ■式年遷宮 一定の年数ごとに神社の社殿を建て替え、旧殿から新殿に神体を移すこと。伊勢神宮では内宮・外宮ともに約1300年前から行われ(戦国時代の一時期は中断)、両宮それぞれ20年ごとに、隣接する敷地に同じ形の社殿が交互に造営されてきた。

伊勢神宮 大祭社殿建て替え“オール財界”支援

2006/03/05 The Sankei Shimbun

 千三百年前から続く伊勢神宮の大祭、式年遷宮に伴う社殿建て替えなどのために設立する財団法人の会長に、日本商工会議所の山口信夫会頭が、実務をとり仕切る副会長・事務総長には和田龍幸・日本経団連事務総長が内定したことが四日までに分かった。財団は平成二十五(二〇一三)年に行われる次回の遷宮に向けて、三月中にも設立が認められる見通し。ほかの役員には奥田碩・日本経団連会長、北城恪太郎・経済同友会代表幹事ら財界トップが名を連ね、伝統の継承を、“オール財界”体制で支援する。

 式年遷宮は二十年に一度、社殿や神宝のすべてを古式のままつくり変えて、ご神体の遷御を仰ぐ大祭。約千三百年前から戦国時代の中断をのぞいて受け継がれてきた。

 費用は五百五十億円程度必要で、このうち二百二十億円程度を、設立手続き中の財団「伊勢神宮式年遷宮奉賛会」で分担する。


【真説日本古代史】封印された古代史妄想的話 其の1 天照大神について

2006/01/14 まぐまぐ

まず手始めに、皇祖・天照大神についてですが、私の知る限り『日本書紀』に、アマテラスが皇祖であるという表現はでてきません。見落としがあったら、申し訳ないのですが、確かなかったと思います。

 そればかりか、アマテラスの初登場は「大日霎貴」(おおひるめむち)(実は「霎」の文字は、フォントがないため便宜上使用しているだけです。 実際には、「雨」冠の下に「口」を三つ並べて書き、その下に「女」と書きます。霎=霊+女とお考え下さい)という、別名で記されています。

 「大」と「貴」は美字句ですから、実態は「日霎」ですね。これは「日巫女」と同じ意味になります。そこで、「邪馬台国」の「卑弥呼」が、クローズアップされてくることになります。

  神祀りをする側の巫女が、日神にすり替わっていたとしたら、それは大変な問題ですね。 

 その上、崇神天皇の時、アマテラスは宮中を追い出されています。天皇が、祖神を追い出すとは、先にも増して由々しき問題です。こんなことができたのも、アマテラスが、本来他家の祖先だったからではないでしょう か。  これは本編でも述べていることですが、アマテラスを追求していくと、「天照国照彦」(あまてるくにてるひこ)に到達します。これは、「彦火明」(ひこほあかり)のことです。「饒速日」(にぎはやひ)と同一説が有力ですが、私は採用してません。 

 ということは、ヒミコは神ホアカリをお祀りする巫女であったのを、男神アマテラス・ホアカリを抹殺して、女神アマテラスとした、ということでしょう。 

 とまあこのあたりまでは、神社伝承学にはまっている方であれば、今さら何を、と仰りたい内容ですね。

 さて、その神社伝承学なのですが、創建の古い神社に伝わる由緒から、歴史ストーリーを完成させている学問です。同時に、神社名と祭神とを考察して、その関係はイコールであることを証明しています。例えば、日本全国ある「氷川神社」には、必ず「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)が祀られている、といった具合です。 

 ところが、どうも神社伝承学的に説明しにくい神社がありまして、いやいや説明しにくいと言っているのは、私だけかもしれませんが、島根県簸川郡大社町に日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)があります。島根県で大社町と言えば、言わずと知れた出雲大社ですが、日御碕も稲佐浜と言い替 えれば、神話好きの方でしたら、お分かりになると思います。 

 その日御崎神社ですが、上下二社から成り立っています。上宮は神の宮、下宮は日沈宮(ひしずみのみや)と言います。出雲で神と言えばスサノオであるように、神の宮の祭神はスサノオです。社伝によれば、スサノオの子である「天葺根命」(あめのふきねのみこと)が上古、現在地の背後の隠ヶ丘に祭神を祀り、それを現在地に移したということです。

 日沈宮はというと、これがアマテラスなんですね。 

 なるほど出雲でアマテラスと言えば、オオヒルメムチではなく、ホアカリだろうと見当をつけがちですが、こちらは天暦二年(945)に、沖合の経島(ふみしま)から遷座したものですから、『日本書紀』成立後のアマテラスは、オオヒルメムチなのです。 

 いずれにしても、アマテラスと言えば、東から昇るの朝日を連想させる太陽神なわけです。それを沈む夕日に象徴させるとは、祀る側に相当な憤りがあったのだろう、と想像します。そう考えると、このアマテラスは、やはりオオヒルメムチですね。 

 しかし、遷座前の経島にあった頃は、どうだったでしょうか。おそらく、このころのアマテラスはオオヒルメムチではありません。西の海上から、燦々と輝く太陽が空に昇っていたのでしょうか。そんな現象は天変地異でもない限り起こり得ません。しかし、そう例えられる伝説があったのだと 思います。そう考えて思い当たるのは、『古事記』にある 

 「この時に海を光して依り来る神ありき。」 

 です。この神は「大物主」であったといいますが、私は本編で述べたとおり、スサノオだったと思います。 

 つまり本来、上宮も下宮もスサノオを祀る宮だったのです。そして、スサノオこそ原始アマテラスだったのでしょう。アマテラスとは、海原を照らすであったと思います。もっとも古代、天も海も同意なので、海照は天照でもあるのです。 

 神社伝承学の言うとおり、スサノオの子がホアカリ=ニギハヤヒであったのなら、父がアマテラスだったから、子もアマテラスとされたのかも知れません。 

 考えてみれば、神祖スサノオこそ、天照大神と称するに相応しい人物ではないでしょうか。


御船代祭で御用材を伐採 伊勢神宮の式年遷宮で

2005/09/17 The Sankei Shimbun

 伊勢神宮(三重県伊勢市)の社殿を20年に一度造り替える式年遷宮行事の一つで、ご神体を納める器の御用材を伐採する儀式「御船代祭(みふなしろさい)」が17日、伊勢神宮内宮で行われた。

 器は「御船代(みふなしろ)」と呼ばれ、ご神体を入れる器「御樋代(みひしろ)」をさらに納める神聖なもの。神職や儀式に奉仕する童男(どうなん)らが同日午前、山中に設けられた祭場に集合。立派な御船代ができるよう祈り、おので木を伐採する儀式を行った。

 実際の伐採作業は儀式の進行に合わせ同じ時間に、御用材のヒノキの供給地である長野県上松町の木曽山中で実施。御船代祭は19日に伊勢神宮外宮でも行われる予定。(共同)

伊勢神宮で山口祭と木本祭 「遷宮」祭事の皮切り

2005/05/02 The Sankei Shimbun

 伊勢神宮(三重県伊勢市)の社殿を20年に1度造り替え、神々を移す「式年遷宮」を2013年に控え、一連の祭事の皮切りとなる「山口祭」と「木本祭」が2日、伊勢神宮で行われた。

 1300年の歴史を持つ儀式は、御用材の伐採や造営の無事安全を祈念するこれら2つの祭事から始まり、ご神体を移す遷宮の中心儀式「遷御」など、13年までに約30の祭典や行事が催される。

 同日朝、内宮で始まった「山口祭」では、まず、神職や儀式に加わる子供である童男童女、神宮司庁職員ら参列者が正宮内で拝礼。事始めの祝儀の食事である「饗膳の儀」、神路山の祭場に向かう「参進」などを経て、童男が古式の作法で草木を刈って作業の安全を祈念した。山口祭は午後には外宮でも行われた。

 夜には、木の本の神を祭り、造営の無事を祈る秘密の祭事「木本祭」が内宮で催され、儀式の一部を初公開。神職や童男らが暗闇に包まれた神秘的な雰囲気の中、ちょうちんを持って、山中の祭場へ向かった。

 祭場では、拝礼など儀式をした後、新しい正宮の正殿床下の中央に使う「心御柱」を伐採する。(共同)

 <伊勢神宮の式年遷宮> 社殿を20年に一度造り替え、神々を移す一連の儀式。皇室の祖神、天照大神を祭る皇大神宮(内宮)、五穀豊穣(ほうじょう)の神である豊受大神を祭る豊受大神宮(外宮)の両正宮の新正殿など計65棟を建て替え、神宝・装束類も新調する。(共同)

伊勢神宮の式年遷宮

2005年05月02日 東奥日報

 社殿を20年に1度造り替え、神々を移す一連の儀式。皇室の祖神、天照大神を祭る皇大神宮(こうたいじんぐう)(内宮)、五穀豊穣(ほうじょう)の神である豊受大神を祭る豊受大神宮(とようけだいじんぐう)(外宮)の両正宮の新正殿など計65棟を建て替え、神宝・装束類も新調する。

 天武天皇が定めた制度とされ、690(持統4)年が1回目で、今回2013年が62回目。

 5月2日に最初の祭典として、用材の伐採安全を祈る「山口祭(やまぐちさい)」、造営の無事を祈念する「木本祭(このもとさい)」が行われ、13年まで約30の祭典や行事が続き、ご神体を新正殿に移す「遷御(せんぎょ)」でクライマックスを迎える。総経費は約550億円を見込む。

「式年遷宮」最初の祭典は5月2日 伊勢神宮、作業安全を祈願

2005/03/09 The Sankei Shimbun 東京朝刊から

 伊勢神宮(三重県伊勢市)は9日、社殿を20年ごとに造り替える「式年遷宮」を2013年に控え、最初の祭典である「山口祭」と「木本祭」を5月2日に開くと発表した。今後、約30の祭典や行事が行われる。

 山口祭は遷宮で使う木材「御用材」の伐採に先立ち、山の神に作業の安全を祈る祭。木本祭では造営の無事を祈念する。

 また、ご神体を納める器を作るための木材を古式作法で伐採する「御杣始祭」を、6月3日に御用材の供給地の長野県上松町で行う。同様の祭「裏木曽御用材伐採式」が同5日に岐阜県中津川市で開かれる。

 式年遷宮は690年に始まり、今回で62回目。内宮、外宮の社殿をそれぞれ隣接する敷地に立て替える。(共同)

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