TOPIC No.9-0 産経新聞【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ

00.「弥生以前」教える意義 4日にシンポ(2008.01.29)MSN産経新聞
01.「日本人解剖」に従って… (2008/06/22) byやさしい古代史 iZa版
02.【日本人解剖】ルーツ 最古のヒト
03.【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 座談会(1)旧石器の人々
04.【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文へ(1)
05.【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ DNAでみる縄文人(1)
06.【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文人のかたち(1)
07.【試行私考 日本人解剖】第3章ルーツ アイヌと縄文人(1)
08.【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文語
09.【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 稲作の始まり(1)
10.【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 弥生人の出現(1)
11.【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 民族の形成(1)
12.【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 神話を読み解く(1)
13.【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 沖縄の謎(1)
14.【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 連載の終わりに


「弥生以前」教える意義 4日にシンポ

2008.01.29 MSN産経新聞

 小学6年生の歴史教科書にはいま「旧石器・縄文時代」の記述がない。いわゆる「ゆとり教育」が原因だが、自国の歴史を基礎から学ぶ必要はないのだろうか。日本考古学協会(会長・西谷正九州大学名誉教授)は、弥生時代以前を教える意義について討論する公開シンポジウム「歴史教育と考古学」を2月4日、東京・小金井の東京学芸大学で開催する。

 旧石器・縄文時代は、平成14年に施行された現行学習指導要領が、学習内容を削減したことを受けて、現行の小学6年社会の全教科書から記述が削除された。

 学習の「発展内容」として三内丸山遺跡(青森)を紹介するに止まり、ほとんどの児童が学んでいない。このため「子供たちの歴史認識を不十分なものにする」(同協会声明)などと批判が根強かった。文科省は現在、23年度以降の復活を目指している。

 シンポジウムでは、「小学校教科書から消えた旧石器・縄文時代の記述」「学校教育と考古資料の活用」などのテーマで、岡内三真・早稲田大学教授、釼持輝久・元神奈川県横須賀市立長井小学校教諭らが基調報告をしたあと、考古学者ら専門家8人がディスカッションする。

 同協会理事の大竹幸恵さんは「日本史を24時間にたとえると午後10時半まで占めるこの時代は、子供の人気が高い。自然との共生など多分野にかかわることを、単なる暗記ではなく、日常に引きつけて学ぶことができる。そういうことをきちんと伝えたい」と話している。参加無料。午後1時から6時まで。問い合わせは同協会(電)03・3618・6608。(牛田久美)


【試行私考 日本人解剖】身体「体臭」良い汗、悪い汗

2007/01/15 MSN産経新聞

 日本人は体のにおいに敏感といわれる。欧米人などに比べ、体臭が少ないことが、かえって強くないにおいに反応してしまう理由のようだ。

 40代以上は「加齢臭」にも注意

 清潔志向は年々強まり、「朝シャン」「制汗剤」「加齢臭ケア」など視点を少しずつ変えながらも、体臭予防は老若男女共通の関心事となっている。現代日本の「体臭文化」は今後、どう展開していくのだろうか。(守田順一)

良い汗、悪い汗

 ワキガ・多汗症治療に詳しい湘南美容外科クリニック(東京都)によると、人種別のワキガ体質の割合は、黒人でほぼ100%、欧米人80%、中国人3〜5%、日本人は約10%といわれ、大きく異なっている。「欧米人にとって体臭はあって当たり前。日本人のように悩んだりしない」(榎栄治医師)という。

 体臭は皮脂の酸化や、汗の成分が皮膚の常在菌に分解されることで発生する。体温調節のため全身に分布するエクリン汗腺の汗は、わずかに塩分を含む水分で、放置していると汗臭くなる。脇の下などの体毛部にあるアポクリン汗腺の汗は、タンパク質や脂質、糖質、アンモニア、鉄分などを含む。これらは常在菌の格好の栄養分で、ワキガ臭の原因となる。一般的な体臭は生活習慣の改善で軽減できるが、榎医師は「“良い汗”なら量が多くてもにおわないが、汗腺の機能が低下し、ベタついた“悪い汗”をかく人が増えている」と指摘する。

 エクリン汗は本来、汗腺内でミネラル分が血管に再吸収され、さらさらの汗となる。ところが、運動不足や夏場の冷房生活などで汗をかかないと、再吸収機能が低下。ミネラル分を多く含んだままのベタついた汗は、皮膚をアルカリ性に傾かせて雑菌を繁殖させ、老廃物や角質と共ににおいのもとになる。

 シャワーもそればかりでは問題になる。短時間では体が温まらず、湯船につかるのに比べて汗をかかないからだ。体を清潔に保ち、汗腺機能を目覚めさせるには、高温(43℃前後)の手足浴や微温(36℃前後)の半・全身浴などで汗をかくのがよいという。

【試行私考 日本人解剖】「脳」おとなしい民族性も解明

2007/06/25 MSN産経新聞

気質と遺伝子

  脳の機能が「人類共通」ではない可能性は、遺伝子レベルの研究でも指摘されている。

 脳内神経伝達物質の一種のセロトニンには、興奮や不安、抑鬱(よくうつ)感を軽減して精神を安定させる作用があり、鬱病(うつびょう)患者では量が不足している。

 その脳内量を左右するのが、神経細胞(ニューロン)の間の結合部(シナプス)から放出されたセロトニンを再吸収する入り口「セロトニントランスポーター」(5−HTT)の働きだ。放射能医学研究所の須原哲也・分子イメージング研究グループリーダーらもPETにより、視床と呼ばれる部位で、鬱病患者らの5−HTT活性が高まっていることを確認している。この5−HTTの遺伝子には複数のタイプがあり、日本人を含むアジア人の約8割を占めるタイプはストレスに弱くて鬱病になりやすく、不安を覚えやすい性格で神経質とされる。このタイプは白人では約4割しかおらず、人種差が大きい。

 ドーパミンという神経伝達物質に関連するタンパク質(ドーパミン受容体D4)の遺伝子型は、新奇探究性(好奇心にまかせて行動する傾向)の強弱との関係が指摘されている。日本人には新奇探究性が最も強い遺伝子型が見つからず、「おとなしい」という民族イメージにも合致している。

文化の影響?

 海外では、これらの神経伝達物質関連の遺伝子と性格の相関を示す研究報告が相次ぎ、ほぼ確実視されている。ところが、神庭重信・九州大医学研究院教授(精神医学)の研究では、ドーパミン受容体D4と新奇探究性は日本人でも相関したが、5−HTTでは否定された。

 「日本人の多くが持つ遺伝子の作用が独特の文化や社会環境をつくっており、その環境がまた遺伝子の作用に影響しているのかもしれない」と神庭教授。石浦章一・東大大学院教授(分子認知科学)も、「海外の研究でも遺伝子型と性格の相関はごく弱いもの。たった1個の遺伝子で性格が決まることはなく、別の遺伝子など他の要因が影響しているようだ」と話す。

 石浦教授によれば、アメリカでは、体質や気質と遺伝子型との関連性を調べる研究は人種などによる差別につながるとしてタブー視され、薬剤の効果に人種差があることが判明した今世紀に入って進展し始めたばかり。今後、思わぬ「日本人らしさ」が遺伝子研究で発見されるかもしれない。


【日本人解剖】ルーツ 日本からポリネシアへ

2007/07/02 (The Sankeishimbun WEB-site) 北の水辺から

3000年前の大航海に思いはせ

 「日本人とは何か」と突き詰めて考えていくと、「日本人はどこから来たのか」というルーツの問題に突き当たる。現生人類(ホモ・サピエンス)が日本列島で生活を始めたのは数万年前のことだが、そのころの祖先の特質がわれわれの体に受け継がれており、そのルーツがわかれば現代日本人への理解はさらに深まる。第3章ルーツ編では文字資料がない先史時代の歴史解読に挑む。最初のテーマはポリネシア。日本人の末裔(まつえい)かもしれない人々が住む南太平洋の島々に、人類が分布した歴史の一端を探る。(堀江政嗣)

謎に挑む航海

 トビウオが飛び交う水上に美しい虹がかかる。島影一つない南太平洋の広大な海原。京都大大学院の片山一道教授はフィジーからトンガに向かう船の甲板で、「ラピタ人」に思いをはせた。3000年以上前に同じ海域を帆船で渡ったと言われる人々だ。

 30代前半から61歳の現在まで一貫してポリネシア研究に取り組んできた人類学者にとって、ポリネシア人の祖先であるラピタ人は重要な研究対象である。ポリネシア人は、骨の形状や土器などの文化でアジアのモンゴロイドと類似している。ラピタ人のルーツが、中国南部や台湾など東アジアにあると考えられる所以(ゆえん)でもある。

 「ラピタ人のルーツには日本人の祖先である縄文人が関係している」

 片山教授の仮説である。太いまゆ、二重まぶたで立体的な顔立ちだった縄文人はラピタ人同様、高い航海技術を持つ漁労採集民族だった。そんな彼らが古代の大航海の出発点にいたのではないか、というのだ。

 しかし、謎も残る。海図もコンパスもない時代に総計数千?数万キロもの航海が本当に可能だったのか。商船三井客船「にっぽん丸」の南洋クルーズ(5月8日?6月15日)は片山教授にとって、そのヒントを得るものだった。ミクロネシアからフィジー、トンガ、サモアなどを経て、タヒチからハワイに北上し、日本に戻る航路で、ほぼラピタ人の航海そのまま。「ラピタ人がみた南太平洋の風景をこの目で確かめたい」。ラピタ人=東アジアルーツ説の確証を求めて乗船した片山教授に、記者も同行した。

厳しい環境

 「一見美しいが、ぶつかれば座礁する可能性もあり、非常に危険。環礁を避けることが船乗りの大切な仕事なんです」

 にっぽん丸のクルーズ・コンシェルジュ、内山勝美さんがそう説明したのは航海13日目の5月20日午後だった。船はフィジー沖・ラオ群島の海域を通過していた。広大な太平洋で島影の眺望を断続的に楽しめる、数少ない場所だが、航海する船には難所でもある。

 島々の周囲は環礁で囲まれている。環礁は岩やサンゴなどでできていて、座礁したらしい船のへさきが水面から突きだしている海域もある。今はGPS(全地球測位システム)で船の位置を常に把握し、レーダーで周辺の障害物を検知できるが、3000年前の航海は風と波、寒さ、飢えに加えて、この環礁との闘いでもあっただろう。

 「まさに命がけの旅。一握りの運がいい人たちだけが目的地にたどりついたんでしょうね」

 船内で片山教授のセミナーを受けた乗客の1人が感慨深げに言った。

 船から数キロ?数十キロの距離を、低く細長い緑の島が点在する。3000年前の風景をイメージするのは簡単ではないが、文明から遮断された洋上のそれは今も大きく変わらないだろう。環礁の内側のエメラルドグリーンの海と緑の組み合わせはとにかく美しい。「海の彼方には何があるのか。未知へのあこがれのような気持ちが彼らを駆り立てたのではないか」。片山教授はラピタ人の心の内をそう推測した。

 ラオ群島の多くはフィジー政府の制限で、調査目的でも立ち入ることが難しいが、海岸線近くに住居らしきものが確認できる。航海の途中で立ち寄って永住したラピタ人の子孫だろうか。

 片山教授はフィジーの離島で長期間、島民と生活を共にしたことがあるが、食べ物が少なく、人々の生活ぶりは質素だったという。

 「1日1食がないこともあり、たまにまとまった食料が入ると供宴になる。そういう生活が続いて食いだめができる体質になった。現代ポリネシア人に肥満が多いのは近代以降、欧米流の1日3食の習慣が浸透したためです」 共通する航海能力

 航海を続けるうちに気がついたことがある。島が近づくにつれて、トビウオぐらいしか見えなかった海上に海鳥の類が姿を見せ始めるのだ。

 「ラピタ人は鳥だけでなく雲や海流、星の動きから船の位置を把握するなど海に対する知的能力が高かった。海上の移動や生活を自家薬籠中のものにしていた。そうした特殊能力が長距離の航海を可能にしたのだろう」と片山教授は話す。

 一方で、あまり知られていないが、縄文人も高い航海能力を持つ民族だった。伊豆大島や八丈島にも縄文時代の遺跡が残っており、縄文人が船を使って数百キロ沖の離島まで行き来していたことがわかっている。この事実はラピタ人=縄文ルーツ説を支える論拠の一つになっている。

 ラピタ人が使ったとされるカヌー型の船は、現代の客船の半分以下の速度と推測される。危険なだけでなく、今よりもはるかに長旅だったのだろう。

 「日本からの遠さを実感したが、海には彼らが参考にできた情報がたくさんあることが確認できた。航海は十分可能だと確信した」と言う片山教授は「この(航海の)追体験があるかないかで、今後の研究に大きな差が出る」とフィールドワークとしての意義を語った。 同じ星空の下で

 ラピタ人が航海の目印にしたと言われる南半球の星を見ようと深夜、甲板に出た。南半球では冬にさしかかる時期に当たり、水平線との境までいっぱいの星は、またたくというよりギラギラと光輝く感じで、闇に沈む海を明るく照らしていた。南十字星など有名な星座は簡単に見つかり、時折、流れ星が長い尾をひいて落ちた。

 ラピタ人はこの南十字星やオリオン座、スバルなどを頼りに東西南北を確認し、目標の島にたどりついたという。汚染が進んだ現代では想像もつかないが、手を伸ばせば届きそうなほど鮮明な星空を実際に見ると、困難ではあっても不可能ではないように思えた。

 3000年前、この星空を見上げた人々が縄文人の末裔とすれば、われわれ日本人と現代ポリネシアの人々は遠い親類のような関係ということになる。DNAや土器、人骨の年代分析など科学的な証拠はこの問いにどう答えるのか。次回以降、縄文人とラピタ人の関係をさらに掘り下げて探る。

 ■ラピタ人 ラピタ人は、優れた航海技術と独自の文様土器文化を持った古代民族。約3300年前にニューギニア北東部の島から東へ航海を始め、ポリネシアの島々に次々と植民した。

 基本的には漁猟採集民族だが、東南アジア原産のタロイモなど根菜類を栽培し、イヌ、ブタ、ニワトリを家畜として飼い、食料にもした。また植民した島々を往来し、盛んに交易も行っていたとみられる。

 ラピタ土器は線や円などの幾何学模様や人の顔などが装飾され、窯を使わず、600?800度の低温で野焼きで焼かれた。時代が下るにつれて土器の文様が次第に単純化。ラピタ文化の衰退とともにラピタ人も消滅した。子孫を含めると、航海範囲は東はイースター島、北はハワイに至る広大なエリアに及び、「石器時代のバイキング」とも呼ばれる。

オ−ストロネシア語族とラピタ人

 by人類は何を語っているか

古代の太平洋を制した謎の海洋民族=ラピタ人

2008年03月21日 地球からの報告(ナショナル ジオグラフィック日本版)

古代の太平洋を制したラピタ人

2008年06月21日 日経ナショナル ジオグラフィック社

ラピタ人って? ラピタ土器って?

2007年06月23日 知られざる人類婚姻史と共同体社会

ポリネシア人ー石器時代の遠洋航海者たちー

1991年 同朋舎出版/片山一道 著


【日本人解剖】ルーツ 最古のヒト(1)

2007/08/06 The Sankeishimbun WEB-site

先端科学が示す10万年前の存在

 ≪幻の日本人≫

 「明石原人」「牛川人」「三ケ日人」「聖岳(ひじりだき)人」。1990年代まで、高校日本史の教科書には、こんな名前の「日本人」たちが登場していた。旧石器時代の人骨化石の出土場所に住んでいたと考えられた人類だ。

 旧石器時代とは、人類が石器を手にした約250万年前(最初の人類「猿人」誕生以降とすることもある)から、磨製石器や農耕(日本以外)、土器が登場して約1万年前に始まる新石器時代まで、日本では縄文時代が始まる約1万3000年前までの時代を指す。

 明石原人の化石は、兵庫県明石市で昭和6年に見つかった腰骨。戦災で焼失したが、昭和23年、レプリカを鑑定した人類学者が「北京原人にも匹敵する年代の人骨」と主張した。牛川人(愛知県豊橋市牛川町)の化石は約10万年前、三ケ日人(静岡県三ケ日町、現浜松市)の化石は約2万年前、聖岳人(大分県本匠村、現佐伯市)のものは約1万4000年前と推定された。

 日本では昭和24年、群馬県の岩宿遺跡で、更新世の堆積(たいせき)物である火山灰層から石器が出土、旧石器時代のヒトの存在が初めて確認された。以降、旧石器の発見が相次ぐ中で、牛川人、三ケ日人、聖岳人の化石も昭和30年代に発見された。

 当初、日本で発見される旧石器は後期旧石器時代(4万ないし3万5000年前以降)のものが中心だったが、1980年代以降、60万〜14万年前の前期旧石器時代の石器が宮城県や埼玉県で次々と「出土」した。平成12年に発覚した旧石器捏造(ねつぞう)事件だ。

 事件発覚と相前後して、前述の「日本人」のうち三ケ日人、聖岳人の骨は「新しい時代のもの」、さらに中期旧石器時代のものと考えられた牛川人の化石は「人骨ではない」と指摘された。フッ素や放射線炭素年代測定法による鑑定結果だった。明石原人も80年代に骨の形状鑑定から「現代人に近い」と指摘され、出土地層から「旧人に相当する」との説はあったものの、捏造された「前期」遺跡、牛川人や三ケ日人らとともに教科書から姿を消した。

 ≪未解明の中期以前≫

 日本史教科書の古代のパートを執筆する白石太一郎・奈良大教授(考古学)は「捏造事件以前は仮説も積極的に取り上げられたが、事件後は『疑わしきは取り上げず』という風潮になった」という。捏造事件の影響は研究全体に及び、「前・中期旧石器時代に対する研究者の意欲は冷め、発言をタブー視する風潮すらある」と、日本旧石器学会副会長の松藤和人・同志社大教授は嘆く。

 しかし、現在も中期旧石器時代のものと考えられている遺跡は、存在する。

 一つは、岩手県宮守村(現遠野市)で昭和59年に石器が見つかった金取遺跡。平成15年、石器の出土層は中期旧石器時代のものと発表された。阿蘇山が約10万〜9万年前に噴火したときに全国に降灰した「阿蘇4」といわれる火山ガラスと、5万〜3・5万年に噴出した「岩手−生出火山灰」の火山ガラスを含む地層だった。

 長崎県平戸市の入口遺跡も平成10〜13年の市教委調査で、約10万年前と9万年前とされる2つの地層から石器が発見され、中期の遺跡と考えられている。

 金取遺跡の年代推定は火山砕屑物の「テフラ」研究の最新成果や、特定の鉱物に含まれるウラン238の量を調べる「フィッション・トラック法」と呼ばれる年代測定法、入口遺跡は地層中の石英を対象にした年代測定法「光ルミネッセンス法」に支えられている。

 両遺跡の石器には「自然に形作られたものではないか」という意見があるほか、「光ルミネッセンス法は実績に乏しい」との批判があるものの、中期遺跡の有力候補には違いない。

 ≪渡来ルート≫

 金取遺跡の火山灰分析を行った松藤教授は「理化学的測定法で検証を重ね、この時期の石器が多く出土している周辺国と共同研究を積み重ねることで、中期遺跡説の信用性は増す」と話す。

 実際、入口遺跡からは、十数万年前の韓国の石器と似た「舟形状石器」(断面が三角形または台形の石器)も出土。遺跡を残した人たちのルーツが朝鮮半島だった可能性も指摘されている。18万〜13万年前は氷河期(リス氷期)で、海面が下がって対馬海峡が狭まり、渡海も困難ではなかったと考えられる。

 金取遺跡の阿蘇4火山灰層で見つかった石器と類似する出土物は韓国では見つかっていないが、中国吉林省で石材や形状、時期が関連する石器が出土しているという。

 松藤教授はリス氷期に注目、「ロシア沿海州からサハリン経由の北方ルートで渡来したとも考えられる」と話す。阿蘇4火山灰層からは、木炭片や焼けた礫(つぶて)が石器とともに出土し、人々が狩猟の途中に短期間滞在したキャンプ地跡とも推測される。彼らが大陸から動物を追いかけてきた可能性もある。

 後期旧石器時代以降、日本には、大陸や南方からさまざまなルートで人々がやってきたと考えられている。この2つの遺跡は、中期旧石器時代から複数の「渡来ルート」が存在したことを示す可能性がある。(小島新一)


【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ メード・イン・ジャパン1号

2007.10.01 MSN産経新聞

 ◆世界最古

 群馬県の岩宿遺跡。旧石器時代の日本列島に人類が存在していたことを証明した同遺跡で本格的な発掘調査が始まった昭和24(1949)年、考古学者らを悩ませる遺物が出土した。磨製の石斧(せきふ)である。

 石器は大きく、打製と磨製に分けられる。「クロマニョン人」のいたヨーロッパをはじめ旧石器人の遺物発見や研究が進んでいたユーラシア大陸では、磨製石器が現れるのは新石器時代(約1万年前〜現在)になってから。「旧石器時代の石器は打製」と考えるのが考古学のグローバル・スタンダード(世界標準)だった。約3万年前の地層で打製石器とともに見つかった岩宿の磨製石器は不可解で、「遺跡は縄文時代のものではないか」という声もあった。

 しかし、その後も旧石器時代の磨製石斧の出土が相次ぐ。特に東京・武蔵野台地遺跡群では4万〜3万年前の地層で大量に見つかり、旧石器時代の列島人が各地で磨製石斧を使っていたことを裏付けた。

 現在ではオーストラリアでも旧石器時代に磨製石斧があったことも知られている。ただ年代は約2万年前代と新しく、溝のある形状も日本の石斧とは異なる。刃の部分だけを砥石(といし)で磨いてあることから、「局部磨製石斧」と呼ばれる日本の石斧は、現時点で世界最古の磨製石器。「旧石器時代に列島にやってきた新人(ホモ・サピエンス)が開発した」というのが、考古学者たちの一致した見方だ。

 ◆謎のサークル

 群馬県の赤城山麓にある下触牛伏(しもふれうしぶせ)遺跡で昭和58(1983)〜59年、約3万年前の石器2000点以上が発掘された。石器の分布に担当者は目を見張った。20カ所の石器のまとまり(ブロック)が直径約50メートルの円を描くように並び、内側にも3カ所のブロックが確認されたのだ。約20家族50〜100人が住んでいたと考えられている。

 このような「環状ブロック」は、北海道から九州までの広い範囲で確認されている。約3万5000〜2万8000年前に集中し、長径80メートルのもの(栃木県の上林(かみばやし)遺跡)から10メートルに満たないものまで、規模は多様だ。そしてこの時期を過ぎると、一斉に姿を消す。

 稲田孝司・岡山大教授は、縄文時代に祭祀(さいし)を行った公共スペースを中心に竪穴式住居を巡らした環状集落が「内向き」なのに対し、中心と周縁の関係性があいまいな旧石器時代の環状ブロックは「外向き」と指摘する。「集団が遊動生活中に遭遇する別の集団は警戒すべき存在。外部に対し集団を守るためにテントなどで円陣を組んだ」。消えた理由は「人口が増えた結果、遊動範囲は狭まり、集団の生活領域が固定化された。外を警戒する必要はなくなり、小人数で分散して住むようになった」とみる。

 岩宿博物館(群馬県みどり市)の小菅将夫学芸員は「ナウマンゾウなど大型獣狩猟のために集まって作ったキャンプだったのでは。1頭は単純計算で50人の1カ月分の食料になる。ブロックが消える時期も、大型獣が少なくなったときと符合する」と分析する。

 動物を捕る「落とし穴」も旧石器時代では一時期に特有の遺構だ。静岡県の愛鷹(あしたか)山麓・箱根山西麓遺跡群に集中。「縄文人の祖先」編で紹介した磐田原台地でも32基の土坑が見つかっている。静岡県内のものは約2万7000年前の地層に限られている。

 箱根山麓に位置する初音ヶ原遺跡(同県三島市)では、全国最多の60基の土坑が出土。鈴木敏中・同市教委主任学芸員は「丘陵を横断するように4列に掘られている。イノシシやシカなどを集団で捕獲するためのものだろう」とみている。

 この時期以後、落とし穴は姿を消し、1万2000年前の縄文草創期、全国各地で再び掘られるようになる。

◆先進地ヨーロッパ

 後期旧石器時代の環状ブロックも落とし穴も局部磨製石斧と同じく、日本でしか発見されていない。平成16年(2004年)にベルリンで開かれたシンポジウムで、稲田教授が落とし穴に言及したところ、「ヨーロッパにはなく信じがたい。柱の穴ではないか」と驚かれるほどだった。この時代の日本でなぜ、独自の生活文化が生まれたのだろう。

 首都大学東京の小野昭教授は、旧石器時代の約4万年前に「オーリニヤック文化」が花開いたヨーロッパの事例と比較、地理的条件に注目する。オーリニヤック文化の遺跡からは、壁画や動物の骨角を使った彫像、楽器のフルートも見つかっている。

 現代人と同じ新人(ホモ・サピエンス)は6万〜5万年前に誕生の地・アフリカを出て拡散を開始。中東から東西に分かれ、西組はヨーロッパ、東組は東アジアに到達し、一部が日本列島に入ったと考えられている。ヨーロッパはそのルートの西の果て、日本は東アジアの果てだ。

 「その先の大移動は不可能。行き着いた地で新しい資源を開発し、道具を改良し、芸術的な活動をするなど、様々な要素が創成されたと考えられる」と小野教授。「日本の旧石器時代人もヨーロッパと同じ新人であり、彫刻などを作っていた可能性も十分にある」

 ヨーロッパの人々だけではなく、旧石器時代の新人には、環境に応じて多様な文化を生み出す能力がすでに備わっていたのだろう。

 この時代の列島人は、前回紹介した細石刃文化を持った北方の人たちをはじめ後にやってきた人々に駆逐されたと考えられ、現代日本人とのつながりは薄そうだ。ただ、石器を改良して局部磨製石斧という最古の「メード・イン・ジャパン」を創り出し、集団で暮らして組織的に活動をする知恵を早くから身につけていたと考えると、身近に感じられる存在なのである。(小島新一、牛島要平)


【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 座談会(1)旧石器の人々

2008.3.17 MSN産経新聞

 ■2万年前に誕生した「列島人」

 ≪旧人は証明できず≫

 海部 これまでの連載をふり返っての座談会ということで、全般的印象から。先史時代の日本列島の人々に関する人類学、考古学の近年の研究動向がよく反映されていると思う。特にこれまで地道に蓄積されてきた後期旧石器時代(4万〜1万2000年前)に関する考古学の研究成果に焦点を当てた点が注目される。また、研究が進んだことで逆に多くの謎が出ているという状況も浮き彫りにしている。

 小田 2000(平成12)年に発覚した旧石器捏造(ねつぞう)事件で、後期旧石器時代より前のものとされた遺跡の存在は否定されたが、考古学はその後も中期旧石器時代以前のヒトの遺物探しを続け、連載で紹介されたように岩手県の金取遺跡と長崎県の入口遺跡が浮上した。記事は、これらが約10万年前の列島にヒトが存在した有力証拠としているが、地層の堆積(たいせき)状況や石器の形状から年代の決め手を欠くと疑問視されている。現時点で中期旧石器以前のものと証明できる遺跡は国内では見つかっていないというのが、多くの旧石器考古学者の共通理解だ。

 尾本 問題は、朝鮮半島やシベリアと日本列島の間に陸橋があったのかがはっきりしないこと。当時繰り返し訪れていた氷期には海面が下がり、陸橋があったかもしれない。当時のヒトである旧人に渡海能力があったとは考えられないが、陸橋があれば大陸からきていた可能性は残っている。

 海部 中期更新世(13万年前以前)に大陸からゾウが移入してきていることはわかっている。追ってきた人々がいた可能性は否定できないが、肯定できる証拠もないという状況だ。

 ≪海を渡った新人≫

 小田 現状で確かにヒトの遺物といえる最古のものは、東京・小金井市の西之台、中山谷両遺跡で見つかった4万〜3万5000年前の石器。関東ローム最上位の立川ロームという火山灰層で見つかっていて、年代は明確だ。武蔵野台地では、このころの遺跡がほかにも多数見つかっている。

 海部 4万年前以前の遺跡は、仮にあったとしても極めて少ないことは間違いない。逆に際立つのは、以降のヒト遺跡の急増ぶりで、武蔵野台地のほか沖縄(山下町第一洞穴遺跡)、九州(種子島)、静岡(中身代遺跡)、群馬(岩宿遺跡)、長野(日向林B遺跡)と列島に広く遺跡が存在する。

 小田 4万年以降の旧石器時代の遺跡は全国に6000カ所、3万年前以前に限っても約100カ所ある。

 海部 これだけの増加は、アフリカから全世界へと拡散するだけの力をもった現生人類の新人(ホモ・サピエンス)が列島にきたサインとして素直に理解できる。

 小田 自然環境に非常に大きな変化が見られる。武蔵野台地を4万年前まで掘り進むと、「イモ石」と呼ばれる河原の石が大量に自然堆積していて、多摩川の洪水があり、雨が多かったことを教えてくれる。それより古い層からは遺物は出てこない。

 海部 4万年以降は、海を渡らないと列島に来られなかったことは間違いない。北海道とシベリアは樺太(サハリン)経由でつながっていたけど、津軽海峡も対馬海峡もつながっていなかった。

 小田 丸木舟を彫る道具は縄文時代にならないと出てこない。筏(いかだ)を使ったのか。

 尾本 5万年前には新人が海を渡ってオーストラリアに到達した。新人の知的能力に地域差があるとは考えられないから、海を渡ってきたとしても不思議はない。

 ≪石器の東西分布≫

 小田 4万〜3万5000年前の石器は、中国大陸南部かスンダランド周辺でみられる剥片だけの礫器。列島最古の人骨と考えられる山下町洞人と同じ場所で見つかった石器もそうだが、約3万2000年前のナイフ形石器の登場で姿を消す。

 全国に広まったナイフ形石器は列島独自のものとも考えられてきたが、ルーツは大陸系の石刃と分かってきた。約2万年前に半島南部を起源とする剥片尖頭器が九州地方に広まるが、この製造法が石刃技法と同じだったことを明治大学の安蒜政雄教授が明らかにした。古くから大陸系の人々が列島にきていたことを物語っている。

 面白いことに、北海道経由のナイフ形石器群(東山・杉久保型)と半島経由のナイフ形石器群(茂呂・九州型)が約2万年前、列島中央部を挟んで分布した。シベリア起源の細石刃が本土に広まった1万4000年前ごろにも、樺太〜北海道経由の湧別技法と、中国経由の矢出川技法の細石刃石器が、ほぼ同様に東西に分布した。(北)東日本と(南)西日本という文化的なくくりが生まれていたようにみえる。

 尾本 現在なら、照葉樹林と落葉広葉樹林の境目だが。

 小田 ATと呼ばれる火山灰層を関東地方にまで堆積させた鹿児島湾の姶良カルデラの噴火が約2万5000年前。その影響が落ち着き、現在と同じ気候帯の違いが生まれていたかもしれない。石器型の東西分布は天気予報図に似ている。現代に近い列島の自然環境に適応した人々が誕生したのは、この2万年前という時期で、最初の列島人といえるのではないか。

 尾本 興味深い。小学校の社会科教科書から消えていた縄文時代以前の記述が「狩猟・採集を行っていた人々」として平成23年度から復活するが、旧石器時代もぜひ扱ってほしい。

                   ◇

【プロフィル】尾本恵市氏 

 昭和8年生まれ。東京大・国際日本文化研究センター名誉教授。分子人類学、人類遺伝学。「日本人および日本文化の起源に関する学際的研究」代表者。『分子人類学と日本人の起源』など著書多数。

                   ◇

【プロフィル】小田静夫氏 

 昭和17年生まれ。明治大大学院修士課程修了。先史考古学。東京都教育庁学芸員として武蔵野台地の旧石器遺跡を調査。旧石器捏造事件では早くから遺跡批判を表明。『黒潮圏の考古学』など著書多数。

                   ◇

【プロフィル】海部陽介氏 

 昭和44年生まれ。東大大学院博士課程中退。生物人類学、古人類学。主にジャワ原人の研究に従事。日本人類学会からAnthropological Science論文奨励賞受賞。著書に『人類がたどってきた道』。

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 座談会(2)新人の文化

2008.3.24 MSN産経新聞

 ≪出席者≫

 ■尾本恵市 総合研究大学院大 上級研究員(分子人類学)

 ■小田静夫 東大講師(先史考古学)

 ■海部陽介 国立科学博物館 人類研究部研究主幹(生物人類学)

                   ◇

 ■独自性もたらした「シンボル」力

 ≪誕生時から言語能力≫

 小田 連載では「縄文語」が扱われていたが、旧石器時代に日本列島にいた人々も相当なコミュニケーション能力があったと考えられる。その根拠の1つが黒曜石の交易で、北海道・白滝(遠軽町)産の黒曜石が、樺太(サハリン)や青森県の旧石器遺跡で出土しているし、伊豆・神津島産のものが関東でみつかっている。海も超える広域交易は、言葉を使うコミュニケーション抜きには考えられない。

 海部 人類の言語に関連していえば、すべての現代人に言語があるのだから、少なくともわれわれ現生人類の共通祖先、20〜10万年前のアフリカにいた初期の新人(ホモ・サピエンス)には存在したと考えられる。証明は難しいが、1つの手がかりはシンボルの使用だ。言語は事物を何らかの音声に置き換え、つまりシンボル化し、特定のルールのもとに並べて意味を持たせることによって成り立つ。

 これらの要素のうち、シンボルは考古学的証拠として残る場合がある。例えば最近、アフリカやアフリカと関連のある西アジアの遺跡から、7万〜10万年前の貝製ビーズが見つかっている。ビーズのようなアクセサリーは、何らかの意味を持つシンボルだから、それを使う人々がシンボル操作能力を保持していることを示す。

 言語や絵などのシンボルを使うと、目の前にないものや過去・未来のことも表現でき、情報伝達力が飛躍的に増す。そのため人類は多くの情報を仲間と共有し、次世代に伝えていくことができるようになった。

 ≪「知の遺産」継承≫

 尾本 単純化していえば、アフリカの共通祖先の子供が現在の教育を受けたら、大学に合格するだけの知能があったということだろうか。

 海部 例えば過去5000年間の科学技術・社会の発展も、先代から受け継いだ知識・技術体系に新たな工夫を付け加えて次の世代に受け継ぐ「知の遺産」の継承で築かれたもの。人類の知力が進化した結果とは誰も考えない。世界中の人々が、シンボルを操るという基本能力を共有しているのだから、その起源はアフリカの共通祖先にたどれるだろう。一時代前の「多地域進化説」の難点は、こうした現代人の共通性をどう説明するかにあった。

 その基本能力を遺跡調査からどう検出するかだが、(1)新しい道具技術の発明(2)アクセサリーや芸術(絵、彫刻、音楽)(3)儀礼行為(4)居住空間が明確な構造をもつ(5)長距離交易(6)世界各地への進出(7)人口増加(8)文化の地理的多様化−などが、「現代人的行動能力」の反映と考えられている。4万年以降の日本列島に展開した後期旧石器文化にも、こうした特徴が表れている。

 ≪土器も列島産か≫

 小田 黒曜石の交易は(5)だね。連載では、旧石器時代の列島で独自に発明されたものとして、約3万5000〜2万8000年前の遺跡でみつかる生活空間跡「環状サークル」と、オーストラリアのものと並んで世界最古の磨製石器と考えられる4万〜3万年前の石斧(ふ)が紹介された。いずれも全国各地の遺跡で見つかっているが、前者は(4)、後者は(1)に当たるといえる。

 海部 どの地域の新人も独自に文化を発展させる能力があって、日本には日本の、他地域には他地域の独自性があるということ。

 尾本 連載では、世界各地で別個に発明された土器の中で現時点では最古の縄文土器の源郷について、列島説と大陸説の両論が紹介されていたが、列島独自の発明だったと考えても不思議はないわけだ。列島独自のものとして、連載では、鹿児島・種子島の大津保畑遺跡や静岡県の愛鷹山麓・箱根山西麓遺跡群などで出土した「落とし穴」(3万〜2万7000年前)も挙げている。箱根山麓では60基もの穴が整然と並んでいて、組織的な狩猟が行われていたようだ。

 人類の拡散はマンモスなど大型動物絶滅の原因となった可能性は高い。落とし穴とは無関係かもしれないが、人口から考えて必要以上の動物を組織的に狩って絶滅させたとしたら、理由が分からない。狩猟民なら自然界に適応して生活していたはず。自然界に対抗するような意識があったのか。

 海部 祖先たちが常に自然を大切にしていたというのは幻想かもしれない。やはり動物が減ってからバランスをとることの大切さに気づいたのでは。ただし過去と現在では、自然破壊のスケールが違いすぎるが。

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 座談会(3)遺伝子は語る

2008.03.31 MSN産経新聞

 ≪出席者≫

 ■尾本恵市 総合研究大学院大 上級研究員(分子人類学)

 ■小田静夫 東大講師(先史考古学)

 ■海部陽介 国立科学博物館 人類研究部研究主幹(生物人類学)

                  ◇

 ■「外見は同じ」論に一石

 ≪縄文人の均質論≫

 小田 縄文時代に後期旧石器時代の列島人の子孫がいたことは研究者の間でほぼ一致しているが、問題は、縄文時代に新たに渡来した集団の有無。土器が外来なら、旧石器から縄文時代への移行期に渡来集団がいた証にもなるが、土器が外来だった明確な裏付けはない。むしろ土器の列島自生説が有力で、新たな集団の移入によって縄文時代が始まったとは考えられていない。ただ、縄文草創期の鹿児島県・栫ノ原など沖縄本島から長崎・五島列島にかけての遺跡で出土する丸ノミ形石斧はその後、東南アジアから伊豆・八丈島にかけての太平洋沿岸で使われた丸木舟製作用の石器と共通点がある。黒潮に乗って集団が移入してきた可能性を示唆し、縄文の早い時代に独自の土器文化を発達させた南九州の遺跡群とのかかわりも考えられる。

 海部 人類学ではこれまで弥生期の渡来論争が最大の関心事であったため、日本列島の縄文人を1つの均質な集団と仮定することが多かった。連載でも紹介されたが、最近では縄文社会のダイナミズムに着目した研究が始まっている。この動きの中で、外来集団の有無も視野に入れた検証が行われていくだろう。

 ≪遺伝子の解釈≫

 尾本 縄文人の人骨から抽出したミトコンドリア(mt)DNAをみても、列島の北方由来、あるいは南方由来と多様な集団が存在していた。この多様性は旧石器時代にすでに生じていた可能性もあるが、外部からの移入が縄文時代の約1万年間、途絶えていたとはやはり考えにくい。ただ、驚くほど芸術性の高い火焔(かえん)土器に象徴されるような豊かな文化は共有され、文化的には均質性があった。

 海部 実は、縄文人のmtDNAが多様だから顔立ちや体格も多様であったと言えるわけではない。系統解析に用いているmtDNAやY染色体DNAと、顔立ちを決める遺伝子は別だ。mtDNAやY染色体はあくまでもヒトゲノム(遺伝子セット)のごく一部で、系統解析に利用し易いから使っているにすぎず、これらから個人の遺伝的特徴が全部わかるわけではない。遺伝子のデータの解釈は、一般に思われているほど簡単でない。

 尾本 旧文部省の特定研究「日本人および日本文化の起源に関する学際的研究」(平成9〜12年度)プロジェクトでは、人類学、考古学、地質学、生物学などさまざまな分野の人たちと共同研究をした。私は現代の世界26民族集団について、今では古典的遺伝標識と呼ばれる遺伝マーカーを用いて系統関係を図示し、その中でアイヌ、本土日本人、琉球人の位置づけをした。図は血液タンパク型およびいわゆる血液型の20種類のマーカーの対立遺伝子頻度を用いたもの。多数のマーカーを使うことによってサンプリングエラーの影響を除外できる。

 現在ではDNAそのものを調べることが容易になり、非常に多くの情報をもたらしてはくれるが、やはり1種類のデータのみで集団の由来を考えるのは慎重でありたい。小規模集団では遺伝子がある世代でがらりと変わる「遺伝的浮動」が起きる可能性が大きいので、細かく断定するのは危険。考古学なども含め他の研究との相互検証が必要だろう。

 ≪北方系が優位≫

 海部 連載でも触れられたが、新人がヒマラヤ山脈の北と南の2つのルートで東アジアに到達したとされることが多い。これは地理学的に自然な考えだが、十分な証拠があるわけではない。ユーラシア大陸での新人の移動経路は、まだ分からないことが多い。

 尾本 プロジェクトでは、故埴原和郎・東大名誉教授の「2重構造論」を下敷きにした。日本人は、基層集団である縄文人と渡来系弥生人が混血しながら形成されたという仮説だ。西日本から周辺へと進んだ混血には地域差があり、アイヌや琉球人は縄文系の遺伝的特徴を濃厚に残しているとの知見は、さまざまな検証でも支持された。

 ただ、埴原説が「縄文人の故郷は東南アジア」とした点には、考古学から「縄文時代の竪穴式住居は北方系」と異論があった。私の遺伝的系統図でも、アイヌは北東アジア人の集団に含まれる。南方の集団がいたにしろ、北方をルーツとする人々や文化が優位だったのではないか。

 海部 遺伝学の登場や研究手段の発達により、我々のルーツについて多くのことがわかってきた。その一方で研究が詳しくなるほど、過去の複雑な様相が明らかになり、謎も増えているが、これは悪いことではない。むしろ楽しみが増えたと捉えるべきだろう。


【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文へ(1)

2007.10.08 MSN産経新聞

 前回まで、旧石器時代の日本列島には、東南アジアまたは大陸南岸方面からきて沖縄の山下町洞人や港川人になった人たちや、2万年前以降にシベリア起源の細石刃文化を伴って南下してきた人たちが存在したことを紹介してきた。前者を南方ルート、北海道を玄関とする後者を北方ルートとすれば、当時はもうひとつ、西方ルートと呼ぶことができる人や物の流れがあったと考えられている。

 現在、列島に確実に人類が存在したとされる最古の年代は、新人(ホモ・サピエンス)の時代である後期旧石器時代の4万〜3万5000年前。東京・小金井市の西之台、中山谷の両遺跡では3万5000年前以前の地層から石器が出土、現時点で国内最古とされる。

 両遺跡のこの年代の地層から見つかっている遺物には、礫器(れっき)、大型幅広剥片(はくへん)石器などの「重量石器」がある。小田静夫・東大総合研究博物館協力研究員は、寒冷化で海面が低下してインドネシア周辺の島々が大陸と陸続きになって形成していた亜大陸「スンダランド」でみられる「礫器文化」との共通性に着目。沖縄の山下町洞人や港川人と同様、スンダランドから海を渡ってきた人々が、この時代の西之台遺跡の「主」ではないかと考えている。

 礫器文化は、種子島(鹿児島県)の横峯、立切両遺跡(3万1000〜3万年前)にもみられ、「スンダランドから琉球列島を経由して、種子島や四国・本州島の太平洋岸地域を遊動拡散してきた集団がいた」と小田研究員。その種子島では約3万年前の落とし穴が見つかり、今年公表された。日本でしか確認されていない旧石器時代の狩猟用落とし穴の中でも最古で、静岡県など他地域の落とし穴との関係にも注目が集まる。

 3万5000年前より新しい時代になると、「ナイフ形石器」が登場する。

 ナイフ形石器はヨーロッパでは使われたことが分かっているものの、日本以外の東アジアでは痕跡がない。日本では1万5000年前までという後期旧石器時代の大半の期間、本州、四国、九州の広範囲で使用された一大文化だけに、周辺地域とのギャップは大きい。「大陸系の石刃技法が基盤」(小田研究員ら)とも言われてきたが、出現期が局部磨製石斧や環状ブロックという日本列島独自の文化が流行する時期とも重なり、由来の謎を深めていた。

 最近、九州地方で一時的に使用された石器に、その謎を解く鍵がありそうなことが分かってきた。

 2万8000〜2万6000年前、鹿児島湾の姶良カルデラが噴火する。ATと略称されるその火山灰層は北海道を除く列島全土と朝鮮半島にまで及ぶ大噴火だった。既住集団が壊滅的打撃を受けただろう九州では、この直後から「剥片尖頭器」という石器が使われ始める。剥片尖頭器は朝鮮半島で後期旧石器時代初頭、あるいはそれ以前から存在し、この時期に半島から九州に流入したことが確実視されている。

 安蒜政雄・明治大教授は、半島でも日本でも、剥片尖頭器の製作工程のうち仕上げのパートに、ナイフ形石器と同じ仕上げ手法が用いられていることに気付いた。「日本のナイフ形石器は半島の剥片尖頭器(スンベチルゲ)と同じ技術を基礎に、用途にあわせて機能を追求する過程で別方向に発達したのだろう。ナイフ形石器・スンベチルゲ文化圏が東アジアの一角に形成されていたと考えられる」という。

 長崎県佐世保市の泉福寺洞窟(どうくつ)遺跡。1970年代の発掘調査で、1万3000〜1万2000年前のものと測定され世界最古級とされてきた土器「豆粒文(とうりゅうもん)土器」が出土、長く縄文時代の開始時期の指標になってきた。また泉福寺洞窟や同市内の福井洞窟遺跡では、豆粒紋土器の出土層のすぐ上の地層から、「隆起線文(りゅうきせんもん)」と呼ばれる様式の土器も出土している。

 これら縄文草創期を代表する土器と同じ地層からは「細石刃」石器も出土している。

 約1万4000年前から、列島では細石刃がナイフ形石器を駆逐するように一気に広がる。製作技術は、シベリア由来の「湧別技法」、主に中部以西で使われ、由来が明確ではない「矢出川技法」が主流だが、九州西北部では、「西海技法」という独自の細石刃技術が広まる。

 泉福寺や福井洞窟で隆起線文などの土器と同じ地層から出土した細石刃も、この西海技法による石器だった。

 注目されるのは、西海技法によって作られた細石刃石器群が、東シナ海を隔てた中国で発見されていることだ。現場は北京から約100キロ西方の泥河湾盆地にある于家溝遺跡(河北省)。しかも、約1万1600年前の土器とともに出土していた。

 奈良文化財研究所飛鳥資料館の加藤真二主任研究員によると、西海技法のルーツも、湧別技法と同様、シベリアのバイカル湖周辺。「西海技法」系は中国北部から半島へ、「湧別技法」は沿海州方面へと伝わったと考えられるという。

 日本列島で独自に誕生したと考えられることが多かった縄文土器だが、近年、中国や沿海州で縄文草創期と同年代の古い土器が相次いで出土している。日本より古い土器は未発見で形態も異なることから関連は不明だが、周辺地域由来説が脚光を浴びつつある。

 ナイフ形石器の基礎技術、剥片尖頭器、西海技法。大陸や朝鮮半島から九州経由で列島へと文化をもたらした「西方ルート」は、次回以降紹介する「神子柴(みこしば)文化」とあわせ、縄文土器誕生の背景を探る重要な要素だ。(小島新一)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文へ(2)

2007.10.22 MSN産経新聞

 平成11(1999)年、青森県蟹田町(現外ヶ浜町)の大平山元(おおだいやまもと)I遺跡で出土した土器片の年代が公表され、考古学関係者に衝撃を与えた。「無文式」と呼ばれる文様のない土器片に付着していた炭化物の測定結果は、1万6540〜1万5320年前(1950年を基準)。土器の使用が始まったと従来考えられてきた年代(1万2000年前)を大きくさかのぼっていた。

 もっとも、この数字には事情がある。土器の年代測定は、放射性炭素(14C)が決まった速度で崩壊する性質(半減期)を利用する「放射性炭素年代測定法」で行われた。植物が光合成で摂取した二酸化炭素中の炭素14(動物も食物連鎖によって体内に残る)の減少量から、減少にかかった時間を計算する方法だ。土器など考古学的遺物の年代調査にも長年利用されてきた測定法だが、大気中の炭素14濃度がさまざまな要因で変化するため、測定値には実際の年代との誤差がある。大平山元I遺跡の土器クラスだと、実際の年代より新しい値が示される。

 そこでC14法では、樹木や年輪、サンゴなどのデータと照合して計算値を実際の年代に補正する作業が行われ、補正後の値は較正年代と呼ばれる。公表された大平山元I遺跡の土器年代も、この較正年代だった。欧米では考古学の分野でも較正年代を早くから取り入れてきたが、国内では大平山元の土器測定が初めてだった。

 補正前の計算上の年代は1万3780〜1万2680年前。国内最古級ではあるが、前回紹介した長崎県佐世保市の泉福寺洞窟(どうくつ)や福井洞窟遺跡で出土した土器の年代とほぼ同じだった。

 問題は、縄文時代の始まりを1万6000〜1万5000年前までさかのぼって考えるべきかどうかだった。考古学界では、土器の出現によって旧石器時代が終わり、日本の新石器時代の幕開けである縄文時代が始まると考えるのが一般的。それまで国内最古級とされてきた佐世保市の洞窟遺跡から出土した土器の年代は、縄文の始まりとして広く使われてきた。

 しかし、大平山元I遺跡の調査団長で、土器の年代測定を行った谷口康浩・国学院大准教授は「縄文の始まりを早めるべきとは考えない」と話す。「1万6000〜1万5000年前といえば明らかに更新世。これを縄文時代の始まりと考えると、誤差を考慮しても更新世の数千年という長い期間が縄文時代に含まれることになる。これは縄文の時代観と合致しない」

 「更新世」とは180万〜160万年前から約1万年前までの期間をさす地質年代の1区分で、氷河期と間氷期を繰り返した時代。それ以降が現在まで続く「完新世」。世界的には完新世とともに新石器時代が始まったとされる。

 谷口准教授によれば、縄文社会を成立させた主要な要素は、(1)温暖化による落葉広葉樹林の出現(2)落葉広葉樹のドングリ(堅果類)を煮炊きして食べるための土器の使用(3)漁労(4)(1)〜(3)によって可能になった定住集落の出現−などだ。「これらの要素を満たすのは、(国内最古の貝塚とされる)千葉県の西之城貝塚や神奈川県の夏島貝塚ができた1万〜9000年前。それ以前は旧石器時代から縄文への移行期とみるべきだろう」

 「移行期」の日本列島は、どんな社会だったのか。それを考えるヒントが、大平山元I遺跡で土器片とともに出土した石器にある。

 旧石器時代晩期から縄文草創期にかけて、「神子柴(みこしば)(・長者久保)型」と呼ばれる石器文化が東日本を中心に広まる。「細石刃文化」より後発だが、2つの文化が並存する地域もある。20センチ前後という大型の石斧や石槍(尖頭器)を持つのが特徴だ。大平山元I遺跡も、神子柴型の刃部磨製石斧が見つかったことから神子柴文化の影響下にあったと考えられている。

 神子柴文化が広まったのは列島に最古の土器が出現する時期で、土器誕生の謎を解く鍵でもある。かつてはシベリア方面をルーツとし、土器とともに北方から渡来したと考えられたが、北海道に神子柴系の遺跡が見つからず、近年では列島自生論が高まっている。

 神子柴系の石斧や石槍は大型で、未使用の状態で出土することがあるため、「祭祀(さいし)用など非実用的な石器だった」と指摘する研究者は多い。谷口准教授は「氷河期の終焉(しゅうえん)と温暖化の進行という環境の変化にあわせ、列島にいた集団の移動が活発になった。その過程で異質な集団同士が出会ったとき、緊張を和らげ関係をつくり出す『財』の働きをしたのではないか。婚資(花嫁の代償)など贈与交換に使われたのだろう」とみる。

 これまでみてきたように、当時の列島には、北方系の細石刃文化を持つ人々のほか、九州には、中国大陸・朝鮮半島という西方系の影響が指摘される文化を持つ人々もいたと考えられる。

 鹿児島県では泉福寺洞窟と同時期の1万3000〜1万2000年前の地層に土器を含む遺跡が相次いでみつかっている。同じ九州の泉福寺洞窟の豆粒文や隆起線文土器とは異なったバラエティーに富む形態で、縄文文化がこの地でも独自に誕生しつつあったことをうかがわせ、南方(東南アジア方面)の影響を指摘する声もある。

 旧石器時代から縄文時代へと移りつつあった列島は、異なるルーツと文化を持つさまざまな集団が混じり合いながら、新しい文化を形成していく社会変動の時期だったのかもしれない。(小島新一)


【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ DNAでみる縄文人(1)

2007.10.29 MSN産経新聞

 ■集団成立までに多様な混成の歴史

 ≪古人骨の遺伝子≫

 約1万3000〜1万2000年前、最終氷期(ヴュルム氷期)の終わりとともに地球は温暖化に向かい、日本では縄文時代が幕を開けた。

 縄文人像を探るにあたり、まず人骨化石に注目したい。旧石器時代の人骨はわずかしか見つかっていないが、縄文時代のものは破片を含めると数千体分が見つかっていると言われる。最近では、骨化石から抽出したDNAの分析が注目されている。1980年代後半から90年代にかけて、化石として残りやすい骨の硬部組織からDNA試料を抽出し、少量でも解析できる技術が発達、縄文人のような古人骨もDNA分析の対象となった。

 縄文人骨のDNA分析はこれまで、関東や東北、北海道で見つかった人骨約200体で、ミトコンドリア(mt)DNAを対象に行われている。mtDNAは、「ハプログループ」(塩基対の変異を共有する集団)の構成や地理的な分布から、その集団が移動した経路や年代を探る研究で最もよく使用される遺伝子だ。

 関東については、埼玉県の浦和(現さいたま)市と戸田市から出た人骨(いずれも約6000年前)、茨城県取手市の中妻遺跡(4000〜3000年前)と千葉県茂原市の下太田遺跡(4500〜2500年前)の人骨が調べられた。前2件は宝来聡・元総合研究大学院大教授(故人)が、残りは篠田謙一・国立科学博物館研究主幹が分析した。すべて縄文中期以降の人骨だ。グラフは、この4件で塩基配列が決定できた56体のハプログループの頻度(割合)である。

 ≪2女性の子孫の旅≫

 日本人をはじめすべての非アフリカ人が、MとNという各ハプログループに属する「2人の女性」をルーツとする(mtDNAは母親からのみ子に伝えられる)ことは、本連載第2章「老化・寿命(1)」で紹介した。グラフ中、A・B・FはハプログループNの、M(7・8・10)D・GはMの系統で、M7のa〜cはM7から分岐したサブグループだ。

 人類学でも考古学でも、現世人類である新人(ホモ・サピエンス)はアフリカで20万〜15万年前に誕生、その後世界中に拡散したと考える「アフリカ単一起源説」が現在は定説になっている。

 図は、人類学者で英・オックスフォード大人間科学研究所のスティーブン・オッペンハイマー研究員が、mtDNAの解析を中心に、気象の変動を含めた考古学的検証を加味して再現した拡散経路だ。それによれば、現生人類がアフリカを出て拡散を始めたのは8万5000年前。ちなみに人骨化石や石器類などの遺物を中心にした研究では、本連載でも紹介したように世界中に拡散した集団の「出アフリカ」は7〜5万年前とされ、各地の移動年代は図のほうが全般的に古くなっている。

 図によれば、12万5000年前にエジプトとイスラエルに進出した新人の集団があったが、9万年前に死滅。8万5000年前にアフリカを出てアラビア半島南部からインドに向けて移動した集団が世界中に拡散していく。この集団から生まれたのが、ハプログループMとNの女性だった。

 この集団のあるグループは西へ移動、ヨーロッパ人の祖先の一部となった。別の集団は東へと海岸沿いを移動し、7万5000年前には東南アジアに、さらに東進・北進したグループは中国に到達した。ヨーロッパに向かったのはハプログループN系統、後者はNとM両系統の集団だった。

 ≪遺伝的多様性≫

 当時、寒冷化で海面が下がって東南アジア方面に形成されていた「スンダランド」、あるいは大陸南岸方面から沖縄にやってきた旧石器時代の山下町洞人や港川人のルーツも、この集団だと考えられる。「原モンゴロイド」とも言われ、関東縄文人のグラフに登場するハプログループのうち、BとF、M7とそのサブグループはこの集団から派生したとみられる。また大陸沿岸を東進していた集団の一部は4万年前、内陸部へと西に向かう。ハプログループDは大陸沿岸の東進か中央アジアへの西進の過程で生まれたとみられる。

 同じころパキスタン方面からインダス川をさかのぼったグループも中央アジアに進出する。ハプログループAはこれら中央アジア付近の集団のうち、さらに北方(シベリア)方面に進出した集団のなかからバイカル湖周辺で誕生したもようだ。

 篠田研究主幹は「これだけ多様なハプログループが存在していることから、関東縄文人は相当複雑な集団成立史をもっていることが分かる」という。

≪南方起源説≫

 縄文人のルーツについては、長く南方(東南アジア方面)起源説が優勢だった。日本人は、「原日本人である縄文人と渡来系弥生人が混血しあいながら形成された」という「2重構造論(モデル)」を80年代に唱えた埴原和郎・元東大教授(故人)も、形態人類学の立場から縄文人=原日本人のルーツは基本的に「南方」としていた。「2重構造論」は、縄文人が列島内で独自に進化して弥生人を経て日本人となったというそれまで優勢だった「小進化説」を覆し、現在ではほぼ定説となっている。

 しかし、関東縄文人の遺伝的な多様性をみる限り、縄文人のルーツを北方、あるいは南方という狭い範囲に限定する考え方が成り立たないことは明らかだ。縄文人のDNAについて、さらにみていきたい。(小島新一)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ DNAでみる縄文人(2)

2007.11.05 MSN産経新聞

 ■北の遺伝子、広範囲に分布

 ≪突出した遺伝子≫

 北海道では、礼文島の船泊遺跡(3800〜3500年前)や伊達市の有珠モシリ遺跡(2500〜2000年前)など各地で、縄文時代・続縄文時代(本土の弥生〜古墳時代に相当)の人骨が出土している。安達登・山梨大教授らはこれまでに、両遺跡を含む9遺跡で出土した44体のmt(ミトコンドリア)DNAを解析した。ハプログループの頻度(構成比)はN9bが65・9%と圧倒的多数を占め、他はD1とG1bがそれぞれ13・6%、M7aが6・8%だった。

 N9bがこれだけ大きな割合を占めるケースは現代人集団にはいまだに見つかっていない。寒冷な気候などによる人口急減で遺伝子の多様性が失われた可能性もある。しかし、前回紹介した関東縄文人、現代本土日本人の両集団には多様なmtDNAハプログループの人々が存在しているだけに、その特異性が注目される。

 N9bはN9のサブグループの1つ。N9について、篠田謙一・国立科学博物館研究主幹は「アフリカを出た後、中東から北方に進み、ヨーロッパ人の祖先と分かれてヒマラヤの北を回って東アジアに拡散した集団」と推測する。

 現代人では、N9bはアムール川流域(沿海州)の先住民集団の10・6%と朝鮮半島(韓国)にわずかにみられる以外、ほぼ日本に限定される。このうち、北海道縄文人にみられた4つのハプログループをすべて持つのは、アムール川流域先住民だけで、直接的つながりを示唆している。

 ≪細石刃集団?≫

 北海道縄文人について、安達教授は「DNA解析のできた人骨がまだ少なく、断定できる段階にはない」と断りつつ、「北から入ってきた旧石器人の子孫で、N9bは北の人たちが日本にもたらしたハプログループである可能性が高い」と仮説を提示する

 この仮説は、後期旧石器時代の約2万年前に細石刃の「湧別技法」がシベリアから沿海州、樺太経由で北海道に渡来し、約1万4000年前以後、東北を中心に本土に広まったこととも符合する。北海道の旧石器人や縄文人は樺太、沿海州の住民との間に交流があったことも、考古学的に明らかになっている。

 篠田主幹によれば、遺伝子の変異速度から計算したN9bの誕生期は1万4000年前±9000年。「細石刃集団=N9b」との見方と矛盾しない。

 N9bだけでなく、D1とG1bも、北海道縄文人の祖先が北方系だった可能性を示す。

 D1は、現代日本人の約3割が持つD4と同系統だが別グループで、アメリカ先住民を中心にアムール川流域先住民にも分布。2万5000〜2万2000年前にアメリカ大陸に渡った集団とシベリアで枝分かれした人々の子孫とみられる。G1bは特異なパターンで、シベリア東部の先住民に広くみられる。現代日本人では北海道のアイヌにしか見つかっていないという。

 ≪地域的多様性≫

 N9bが北からもたらされた可能性は、安達教授らが今年10月の日本人類学会大会で発表した東北縄文人骨のmtDNA解析からも高まった。

 この研究では、岩手県の熊穴洞穴遺跡(約2500年前)や宮城県の青島貝塚(約4000年前)など5遺跡12体について解析。M7aが6個体(50・0%)、N9bが5個体(41・7%)、D4bが1個体だった。

 安達教授は「この結果が東北縄文人全体の傾向を反映すると仮定すれば、北海道と共有するN9bとM7aは、少なくとも北日本の縄文人を代表する遺伝子型だった可能性がある」と話す。

 ただ、それ以外のハプログループの頻度が大きく異なることから、「北海道と東北集団の母系的近縁性は必ずしも高くない。関東集団とも近縁とはいえず、縄文時代の日本人の遺伝子は、すでに地域的多様性を持っていたのではないか」と推測する。

 ≪列島基層集団≫

 現代日本人のN9b頻度を地域別にみると、本州では北ほど割合が高くなる傾向があり、東北で2・7%。北海道のアイヌでは2・0%だ。ところが、沖縄には4・3%という相対的に高い割合で存在する。このことから、篠田主幹は「N9bは北日本にとどまらず、列島の広範囲に古い時期から分布した日本人の基層集団の一つだった可能性が高い」とみる。

 人類史は「周辺部にいる、中心部とは異質な集団は、歴史的に古い集団」と教える。ある地域に新興集団が移住して勢力を拡大すると、先住集団は周辺部にしか残らない。西日本や関東地方が中心だった弥生時代以降を含む列島史を通観すれば、沖縄や北日本は「周辺」。N9b集団が列島で広がった後にやってきた別の集団に北日本や沖縄に追いやられたか、南北両端の人々だけが残った−というわけだ。

 では、現代沖縄人のN9b集団の祖先は北海道縄文人の系図と重なるのだろうか。篠田主幹は「N9bをもたらしたのは、北方系集団に限らない。西側では大陸から朝鮮半島経由で渡日した人々だった可能性もある」と指摘する。

 湧別技法が本土に広がり始めた1万4000年前ごろ、九州西北部に「西海技法」と呼ばれる別の細石刃技術が広まったことは紹介した。長崎県佐世保市で出土した最古級土器の製作技術をともなっていた可能性も指摘される半島経由の大陸伝来技術だ。その起源は、沿海州経由の北方系細石刃技術と同じシベリア・バイカル湖周辺と考えられ、「西海技法」集団が北方系集団と同じ遺伝子型でも不思議はない。

 N9bと同様、縄文人にもみられ、「周辺」の現代日本人で頻度が高まるmtDNAのハプログループがある。次回、その「M7a」をみる。(小島新一、牛島要平)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ DNAでみる縄文人(3)

2007.11.19 MSN産経新聞

 ■南九州から全国へ拡散

 ≪「最古のムラ」≫

 鹿児島(錦江)湾や桜島を南方に見下ろす大隅半島西北部の小高い台地にある上野原遺跡(鹿児島県霧島市)。1990年代半ばに縄文時代の遺構が発掘されると、「縄文時代に対する見方を転換させる遺跡」として注目された。現在は約36ヘクタールの広大な敷地に、出土物の展示施設や原寸大の復元住居、当時の生活体験コーナーなどを備えた一大「縄文テーマパーク」として整備されている。

 上野原遺跡の特長は、縄文時代早期前葉の約9500年前の地層から見つかった住居群の定住集落にある。発掘された竪穴式の住居跡は52基にのぼり、うち10基は同時に存在して集落を形成していた。縄文時代に始まった定住の跡は、同じ年代のものでは数基の住居跡が他にあるだけで、上野原の集落跡は「最古最大級」「最古のムラ」と位置づけられた。

 「それまで、縄文時代は遺跡の発見が集中する東日本を中心に発展したと思われていた。ところが上野原の集落跡の発見で、南九州ではいち早く縄文型社会が成立していたことが明確になり、縄文文化が東日本中心とはいえなくなった」と鹿児島県立埋蔵文化財センターの新東晃一次長。

 鹿児島県内では、加冶屋園遺跡、横井竹ノ山遺跡(鹿児島市)、瀧之段遺跡(市来町)など約1万3000年前の縄文草創期前葉の遺跡から、旧石器とともに土器が出土。草創期中葉から後葉にかけては「隆帯文土器」と呼ばれる型式が流行したが、同じ九州・長崎県佐世保市の泉福寺洞窟遺跡で見つかった国内最古級の「隆線文土器」とは異なる型だ。上野原遺跡など縄文早期の遺跡からは「貝殻文円筒土器」という独特の土器が発掘され、南九州に独自の土器文化が存在していたことは分かっていた。上野原の集落跡は、土器だけではなく、生活形態までも独特の縄文社会型だったことを物語っているわけだ。

 「縄文社会は、最終氷期後の地球温暖化によって、主要食料の1つであるドングリなど堅果類を生み出す照葉樹林の森が形成され成立した。南九州は北九州が針葉樹林帯だった時期から照葉樹林帯となっていたことが分かっており、照葉樹林帯に根付く要素があった」と新東次長は考える。

≪2万5000年前≫

 南九州で縄文文化を育んだのは、どんな人たちだったのだろう。

 国立科学博物館の篠田謙一・研究主幹は、ミトコンドリア(mt)DNAのハプログループの1つ、「M7a」の集団だと見ている。M7aは、「M7b」「M7c」とともに「M7」から分岐したサブグループ。縄文人では、これまで骨のDNA分析が行われた関東、東北、北海道の各集団(いずれも縄文中期以降)に、このタイプの人がいたことが分かっている(グラフ1)。

 現代人でM7グループの分布をみると、M7aは韓国でわずかに確認されているほかは日本人に見られるだけ。M7bは大陸の南沿岸から中国南部、M7cは東南アジアの島嶼(とうしょ)部に分布。遺伝子の塩基配列の変異速度から計算すると、「M7」が生まれたのが約4万年前。さらにM7からM7a〜cのサブグループが生まれたのが約2万5000年前と見られるという。

 「4万年前には、地球の寒冷化で海面が下がり、現在の黄海から東シナ海にかけての周辺は広大な陸地となっていた。M7グループの起源は、各サブグループの分布圏が重なるこの地域と考えられる」と篠田主幹。

 現代日本人のM7a集団の地域別の分布はグラフ2の通り。沖縄では4人に1人がこのタイプだ。同じM7aと分類される中でも細かい塩基配列は異なっているが、それを詳しく分析すると、沖縄では他地域に比べて多様なタイプに分かれているという。

 「一般的に集団が移動すると、起源地から離れるにつれて、もともと持っていた塩基配列の多様性は減少する。M7aの集団は海に沈んだ起源地から琉球列島に来た後、南九州に入ったのだろう」

 ≪基層集団はM7a≫

 南九州で生まれた早期縄文文化はその後、照葉樹林帯の北上とともに西日本一帯に文化圏を広げたことが、土器形式の分布などから分かっている。こうした文化の拡大とともに、M7aの人々は全国に広がっていったとも考えられる。

 グラフ2で見る通り、現代日本のM7aの人々は、中部から南や北にいくほど多くなっている。こうした傾向は、前回(「DNAでみる縄文人(2)」)紹介した通り、古い集団の指標となる。「M7aは、N9bの集団とともに全国に広がった基層集団だった。北九州から関東、東北にかけての地域では、その後日本に入ってきた集団が勢力を拡大したのに伴い、少数化したのではないか」と篠田主幹。

 M7aという遺伝子型を持つ人が2万5000年前に生まれていたとすると、1万8000年前に沖縄にいた港川人もその集団の一員だった可能性がある。とすれば、「港川人が縄文人の祖先」説も成り立つ。この説に否定的な見解が最近出ていることは本連載でも紹介したが、篠田主幹も「その後の約1万年間、沖縄では人骨が出土していない」と慎重だ。

 縄文時代の沖縄の遺跡からは、中九州の曽畑式土器(約6000年前)や南九州の市来式土器(約3000年前)が出土、本土の影響下にあったことがうかがえる。現代沖縄のM7aの人々は、こうして本土から「逆流」した人々の子孫かもしれない。(小島新一

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ DNAでみる縄文人(4)

2007.11.26 MSN産経新聞

 ■糖尿病になりやすい人がすでにいた

 ≪長寿の遺伝子型≫

 前回まで、縄文人や現代人のミトコンドリア(mt)DNAのハプログループ(塩基配列の変異を共有する型)によって、縄文人のルーツを探ってきた。では、mtDNAから、当時の人々についてどんなことが分かるのだろうか。

 ミトコンドリアは、1つの細胞内に数十〜数万個存在するエネルギー代謝器官。食べ物から取り出された水素を、呼吸で取り入れた酸素と反応させて、成長や活動に必要なエネルギー(ATP=アデノシン三リン酸)を作り出している。東京都老人総合研究所の田中雅嗣・健康長寿ゲノム探索研究部長は「エネルギー代謝器官という性質上、骨格や顔かたちといった外見的特徴はmtDNAからうかがうことはできないが、体の内的機構とのかかわりは判明しつつある」と話す。

 まず注目されるのは、ミトコンドリアと細胞の死(アポトーシス)との関係だ。このアポトーシスの仕組みに関わっているのが、ミトコンドリアのカルシウムイオン濃度。細胞内のカルシウムは、筋肉の収縮や細胞内情報伝達を制御するシグナルで、ミトコンドリアも処理の一翼を担う。しかし、過剰なカルシウムが負荷されると、ミトコンドリアはアポトーシスを誘導するタンパク質を放出、細胞が死に至る。細胞の死は老化やアルツハイマー病、場合によってはがん細胞の定着や発達にもかかわっている。

 独立行政法人理化学研究所脳科学総合研究センターの加藤忠史・精神疾患動態研究チームリーダーや田中部長らは、ミトコンドリアのカルシウムイオン(Ca2+)の濃度調節に、mtDNAの2つの塩基配列(8701番目と10398番目)の多型(変異)が関わっていることを突き止めた。それぞれ「A(アデニン)」型と「G(グアニン)」型があり、G型はA型に比べてミトコンドリアのカルシウムイオン濃度が低かった。G型はカルシウム処理能力に余力があると解釈でき、刺激があっても細胞死が起きにくい「長寿」の遺伝子型といえる。

 ≪勢力拡大≫ 

 この2つの塩基配列がG型となっているのは、ハプログループの「M」系統の集団で、A型なのは「N」系統の集団。MとNは、すべての非アフリカ人の祖先である「2人の女性」の遺伝子型で、現世人類がアフリカを出て世界への本格拡散に成功した集団から生まれた。この集団がアラビア半島南部を経てインド付近まで到達した際にNの集団は大きく2つに分岐し、一部はヨーロッパへと西進、他はM集団と同様に東アジアへと拡散した。

 その後、MとN集団は系統樹のように下位のハプログループへと分岐。現代日本人では、約7割がM系統のハプログループ。平均寿命が世界トップクラスであるのもうなずける。

 田中部長は、現代の日韓約4000人のmtDNAを解析。各ハプログループと寿命や疾患の関連性についても調べた。日本でみられるハプログループのうち、最も長寿と関連が深かったのは、やはりM系統の「D4a(系統樹のD4のサブグループ)」。D4aが日本人全体に占める頻度(構成比)は約6%に過ぎないが、105歳以上の人では15%、特に100歳以上の男性の約20%がD4aだった。女性でも、100歳以上に占める割合は人口構成比の1・5倍だった。

 ハプログループ「D」は、中国大陸南岸から中央アジアにかけての一帯で誕生したとみられているが、現代人でD4aの頻度を地域別にみると、シベリアの11・7%が突出。この地が源郷もしくはD4aの大集団が住んでいた可能性が高い。田中部長によれば、ハプログループ「D」のサブグループは、D4aのほか「D4b」や「D5」も寿命が100歳を超す人の割合が高く、Dグループは全般に長寿の傾向があるという。グラフのように、Dグループの占める割合は縄文人よりも現代人の方が大きくなっている。また現代の東アジアでは、Dは広範囲に分布して人口構成比も最大の集団となっていて、「長寿傾向がある人たちだけに、構成比が高くなっているのかもしれない」。

 ≪現代病リスク≫ 

 前回紹介したように、縄文時代にすでに日本列島全体に広く分布し、現代の「長寿県」沖縄で人口の4分の1と多数を占める「M7a」は、意外なことに長寿の傾向は認められず、長寿者に占める割合は日本全体での人口比と変わらなかった。「沖縄の長寿は食生活などの環境要因が大きいのではないか」と田中部長は話す。

 疾患についてみると、N系統のハプログループ「F」と「A」は日本人に多いII型糖尿病のリスクが高く、特に女性は他の2〜3倍高かった。他方、同じN系統でも、北方系の「N9b」や、縄文人ではみられないが現代日本には存在する「N9a」の集団は、糖尿病や高血圧を引き起こすメタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)や肥満になりにくいことが分かった。やはり女性にその傾向が強く、特に「N9a」の女性は糖尿病のリスクが低かった。

 各ハプログループは、氷期と間氷期が繰り返し訪れた更新世の時代から世界拡散の旅を続けた現世人類が、各地域の気候や食糧事情に適応して誕生したと考えられている。

 糖尿病リスクが高いハプログループのうち、Aはシベリア(バイカル湖周辺)、Fは東南アジア周辺に存在していた亜大陸スンダランドをルーツにしているとみられ、それぞれの源郷の環境の違いは大きい。簡単には遺伝子変異の理由は説明できず、今後の研究課題だという。

 ただ、現代病の糖尿病になりやすい日本人の体質は、過去の厳しい食糧事情のなかで、少ない栄養分で生き延びるように適応して生じたとされる。縄文時代には、すでにそうした体質の人たちが日本列島にいたことは間違いなさそうだ。(小島新一)


【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文人のかたち(1)

2007.12.03 MSN産経新聞

 ■見直され始めた「均質」論 

 ≪屈強かつ足長≫

 酸性の土壌が多い日本の国土では古人骨は残りにくい。旧石器時代の人骨がほとんど残っていないのはこのためだ。しかし、縄文時代になると、貝塚(主要食料の1つだった貝の殻の捨て場所)が遺体の埋葬場所となったり、洞窟(どうくつ)に住んだ人々もいたりしたため、石灰質に守られた多くの人骨が残っていて、これまでに全国で1000体分以上が見つかっている。

 国立科学博物館(科博)の馬場悠男・人類研究部長らによると、縄文人の平均身長は男性が158センチ、女性が148センチ。縄文時代の早い時期ではさらにおおむね2〜3センチ低いとされる。弥生人(男性164センチ、女性150センチ)より小柄で、現代人の平均より10センチ以上低い。体格は、弥生時代以降の列島人と比較すると肘先と膝下が長く、「狩猟で走ることが多かった生活に適応していた結果ではないか」と馬場部長。彼らなら、国際的な陸上競技大会の短距離種目で黒人や白人ランナーと互角の勝負をしていたかもしれない。

 また身長の割には鎖骨が長く、筋肉もかなり発達。肩甲骨や上腕骨(肘から肩にかけての骨)など筋肉がつく部分は広く盛り上がり、特に上腕骨の中央は、現代人のように円柱状ではなく、発達した筋肉に押さえつけられて扁平(へんぺい)、4角柱に近い傾向がある。

 頭蓋骨(ずがいこつ)をみると、頭全体の高さ(長さ)は低い(短い)が、前後長、横幅とも現代人よりもかなり大きく、「相当な大頭だった」と中橋孝博・九州大大学院教授は言う。顔も高さは低いが横に広い。さらに、眉間や眉弓部が隆起する一方で、鼻の付け根がくっきりとへこんで鼻筋は通った、立体的で彫りの深い顔立ちだった(これまでの日本人で縄文人の鼻が最も高かったことは本連載第1章で紹介した)。顎のエラの発達も目立つ。

 弥生人の骨と比べると、そうした特徴は一目瞭然(りょうぜん)だ。

 ≪「違い」の重視≫

 こうした縄文人の特徴は、「日本列島の地域を問わず、縄文時代全体(約1万2000〜2千数百年前)を通じてほぼ均質だった」と、これまで人骨の形状を研究する(形質)人類学はみなすことが多かった。地域差や時代差も指摘されていたが、弥生時代以降の人骨との違いがあまりに大きく、縄文人内の違いは重視されなかった。だが、大学などの研究機関ごとに保存されている人骨の比較研究が容易になった近年、縄文人の時期や地域による違いに着目した研究が増えている。

 溝口優司・科博人類史研究グループ長は今年、九州、山陽、関東、東北地方の縄文と古墳時代人の頭蓋骨を分析。九州縄文人は他地域の縄文人よりも古墳時代人に近いという結果をまとめた。

 弥生時代になると、中国大陸から北方系アジア人といわれる人々が西日本に渡来、縄文人と混血しながら現代へとつながる「日本人」を形成したと考えるのが、現在の人類学の主流。「九州には、弥生時代に先立つ縄文時代から渡来人がきていて、他地域とは異なる特徴の縄文人がいたのではないか」と溝口グループ長はみる。

 ≪九州の特異性≫

 近藤修・東京大大学院理学系研究科准教授も全国約120遺跡から出土した人骨を分析。九州縄文人の脳頭蓋骨の形質が、東北・関東・中部・四国・近畿の各地域とは異なっているうえ、外部から流入した異質な集団の遺伝的影響を受けていた可能性が高いとする研究結果をまとめた。

 脳頭蓋骨の最大長、最大幅、両耳幅など7項目の計測値を統計学的手法によってトータルに比較した図左では、東北から九州へという南北方向(図では上下方向)に沿って各地域のデータが並ぶ「地理的勾配(こうばい)」があることが分かる。また、そのなかでも九州のデータは他地域から遠く離れている。

 図右は、形質を決定する環境と遺伝の2つの要因のうち遺伝による変異パターンを考慮したうえで、外部からの遺伝的影響を調べたもの。直線より上部にあるものは外部の影響が強いとされ、九州と近畿が当てはまるが、近畿は標本数が少なく誤差の可能性があるという。

 近藤准教授は、分析結果を「いくつもの仮定を設定しての仮説」としたうえで、「南北の勾配は、縄文人のルーツ、あるいは縄文時代になって以降に列島に来た人々がロシア沿海州〜樺太経由という北回り、朝鮮半島・琉球諸島経由という南回りなど異なったルートを通り、列島内で混血していったことを示しているかもしれない」と話す。

 ≪旧石器人が祖先≫

 中橋教授によれば、縄文時代でも時期によって骨格に違いがあること、縄文早期までは地域によっても違いがあることは80年代から指摘されていた。

 例えば、栃木県・大谷寺遺跡、あるいは愛媛県・上黒岩岩陰遺跡などで出土した縄文草創期から早期にかけての人骨は、中・後・晩期の人骨に比べると小柄で著しくきゃしゃ。一方で、同じ早期でも、比較的頑丈で中・後・晩期型につながる特色をもつ人骨が、神奈川県の遺跡などで見つかっている。

 こうした縄文早期人の地域差については、山口敏・科博名誉研究員が、後期旧石器時代に多様なルートで列島入りした集団それぞれの特色を遺伝的に受け継いだ人々が各地にいた名残ではないかとする説も打ち出している。近藤准教授の研究は、この説を補強するものともいえる。(小島新一)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文人のかたち(2)

2007.12.17 MSN産経新聞

 ■外に「開かれていた」列島

 ≪現代人との比較≫

 縄文人の骨格の地域差について、さらにみていきたい。

 東北大の瀧川渉・助教は平成18年、縄文人と現代日本人の人骨を男女別に各約450〜210体、延べ約千数百体用い、両時代の地域差を比較する大規模な研究を行った。縄文人は北海道、東北、関東、東海、山陽、九州の前期〜晩期の遺跡から出土した人骨。現代人は20世紀に解剖学教室で収集された東北、関東、中部、北陸、近畿、九州の各地方出身者の標本を用いた。

 四肢(腕や足)骨の長さや断面形状の扁平率で、現代人は地域差が極めて小さかったのに対し、縄文人ではかなり大きな地域差が認められた。特に腕では、縄文男性の北海道集団で上腕骨(肩から肘まで)、女性の九州集団で前腕骨(肘から手首まで)が長かった。扁平率は縄文人の男女とも腕・足いずれの骨でも地域差が大きかった。

 図1は、多変量解析という統計的手法によって、各骨の長さと太さ計18項目の計測値を総合的に比較して求めた各地域集団の近似性を示している(縦横両軸の数値は座標上の単位。図上の位置が近い集団間ほど近似性が高い)。両時代の標本が揃った東北・関東・九州を結んだ三角形でみると、現代人よりも縄文人で地域差が大きいことがはっきりと分かる。

 ≪男女で違い≫

 頭蓋骨では、頭や顔、眼窩、鼻の高さや幅など12項目を計測。縄文男性では頭の高さに地域差がみられた程度だが、女性では多くの計測項目に大きな地域差があった。図1と同様に各集団を比較したのが図2。縄文男性の地域差は現代人並みだったのに対し、縄文女性の地域差は現代人よりもかなり大きい。

 瀧川助教は、分析結果を「四肢骨は男女とも現代人より縄文人の地域差が大きい。頭蓋骨では縄文男性は現代人並みの均質性を示すが、縄文女性は地域差が大きい傾向が示された」と総括する。

 瀧川助教によれば、四肢骨断面の形成は生前の栄養状態や骨にかかる力に左右される側面が強く、縄文人の地域差は食性や居住地周辺の地形、生業(狩猟・漁撈・植物採取)の違いに由来する。頭のサイズは緯度や気温の高低に適応して変化するという説があり、縄文女性の地域差には元来の居住地の気候の違いが反映されている可能性があるという。

 ≪女性の移動≫

 ではなぜ、縄文女性の頭蓋骨の地域差が男性よりも大きいのか。瀧川助教は当時の性別役割分業の影響を可能性の1つとして挙げる。

 「世界各地の民族例では、遠隔地への移動を伴う採石・採鉱や交易は主に男性が担っていた。縄文人でも男性は移動領域が広く、遠隔地での婚姻や死亡の機会が多かったのに対し、女性の移動は婚姻も含めて男性よりも狭い範囲に限定され、もともとの特徴が遺伝的に地域差として残りやすかったのではないか」

 縄文人の遺伝子を振り返ってみたい。約6000年前以降の遺跡から出土した縄文人骨には、大陸南岸から東シナ海にかけての南方起源の型(ハプログループ)の「M7a」と、大陸北方の「N9b」をはじめ多様なミトコンドリア(mt)DNAの型がみられた。北海道や東北の縄文人骨のmtDNAにも、M7aとN9bが混在した。

 mtDNAの型は母親からのみ子に伝わり、父親の型は継承されない。型の分布地域拡大には女性の移動が不可欠で、「縄文人のmtDNAの多様性は、日本列島に外部からさまざまな集団が男女一緒に移住してきたことを物語っている」と篠田謙一・国立科学博物館研究主幹は言う。

 気候が頭蓋骨に与える影響が詳しく解明され、縄文女性の人骨の分析がさらに進めば、各地の集団が、アジアのどの地域から列島にやってきたのかを解明できるかもしれない。

 ≪渡航能力≫

 形質人類学は、縄文人「均質」論を根拠に、「当時の日本列島には、周辺地域からの異質な集団の移住がなかった」と考えてきた。列島を閉ざしたのは、地球温暖化による海面の大幅な上昇とされた。約1万4000年前からの8000年間で海面は100メートル上昇。それまで陸続きか、ごく狭い海峡で大陸との往来が容易だったロシア・沿海州〜北海道、対馬海峡ルートも海に飲み込まれたというわけだ。

 しかし、篠田主幹は「旧石器時代にも海を渡って列島にやってきた人たちがいた。6000年前以降にはモンゴロイドが太平洋の島々に拡散している。当時の人類にはそれだけの渡航能力があった」と、縄文の1万年間を通じて列島が海で閉ざされていたとする見解に疑問を呈する。

 実際、朝鮮半島(韓国)では縄文前期から後期にかけて九州地方で流布した型式の土器が当時の遺跡から見つかり、九州側では半島の土器が見つかっている。両地域では型が同じ釣り針も見つかり、人が往来していたことはほぼ確実だ。

 篠田主幹は「mtDNAの分布状況から、M7aやN9bは旧石器時代末期から列島に広まった集団の主要なハプログループで、A・B・Dなど関東縄文人にみられる他の型は縄文時代になってからも引き続き、列島にもたらされた型と推定される」と話す。

 縄文時代にも外部から列島への移住があった可能性は、人骨形質研究でも指摘され始めている(前回参照)。瀧川助教の研究は、縄文人の成り立ちを検証する鍵が、縄文人女性にあることを示唆しているといえそうだ。(小島新一)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文人のかたち(3)

2008.01.07 MSN産経新聞

 ■東アジアから消えた祖先

 ◆直接のルーツ不明

 前回まで後期旧石器時代に日本列島にいた人々とのつながりを材料に、縄文人の成り立ちについてみてきた。東アジアでは、彫りの深い顔立ちや、肘や膝(ひざ)から先が長い四肢が特徴的な縄文人と似た先史時代の集団は、発掘例が蓄積された現在も確認されていない。直接のルーツが不明である以上、以前から列島にいた人たちから推定するしかないためだ。

 縄文人のルーツについては、かつて南方説が支持されたことがあった。「縄文人が日本の基層集団で、弥生時代以降に大陸から渡来した人々と混血し、日本人が形成されてきた」とする「二重構造論」を1980年代に唱えた埴原和郎・東大教授(故人)に代表される説で、東南アジア(寒冷期に海面が下がって亜大陸となっていたスンダランド)方面が想定されていた。

 実際、彫りの深い顔立ちや歯の小ささといった縄文人の特徴は、東南アジア島嶼(とうしょ)部の人たちと通じる。ただ、それは現在の人々で、縄文人のルーツと結びつけにくい。90年代以降に遺伝子によるルーツ研究が盛んになると、北方説が優勢になり、「縄文人と弥生系渡来人との混血」という日本人形成論は現在も幅広く支持されているものの、南方起源説には否定的な見解も多くなってきた。

 縄文人が特異な集団となっている理由は、「東アジア、恐らく大陸の広い範囲にいた集団がいろいろなルートで列島に入ってきて縄文人となった。その後、シベリアで寒冷地適応した、のっぺり面長、胴長、短足を特徴とする新モンゴロイド(北方系アジア人)と呼ばれる集団が東アジアに広がり、この地域にいた縄文人の祖先集団は駆逐されたが、日本の縄文人だけが残ったのだろう」(中橋孝博・九州大大学院教授)とされている。その化石は本当に残っていないのだろうか。

 ◆計測値で見る 

 溝口優司・国立科学博物館人類史研究グループ長は平成19年6月、東アジアやオセアニアなどで出土した旧石器時代から縄文時代にかけての人骨のうち、オーストラリア南東部のキーローで見つかった人骨(1万2000〜6800年前)が、東北縄文人と最も近似していることを突きとめた。

 東北縄文人として岩手県の蝦島貝塚と福島県の三貫地貝塚から出土した縄文後期〜晩期(4500〜2800年前)の人骨標本のデータを使用。沖縄県八重瀬町の「港川人」(約1万8000年前)や中国南部の「柳江人」(4万〜2万年前)、北京郊外の「山頂洞人」(約1万8000年前)、インドネシア・ジャワ島の「ワジャク人」(約1万2000年前)といった後期旧石器時代の人骨や、縄文早期(約9000年前)と前期(約7000年前)の人骨(埼玉県妙音寺洞穴、岡山県羽島貝塚出土)などと比較した。

 頭や顔、眼球が納まる骨の窪み(眼窩)、鼻の高さや幅など頭蓋骨の計測値を、多変量解析という統計的手法によって総合的に比較し、東北縄文人の集団に各標本が属する確率を求めることによって、近似性を調べた。

 頭蓋骨の13項目の計測値で調べた、東北縄文人集団に属する確率はキーロー人、妙音寺、羽島、港川人、柳江人、山頂洞人、ワジャク人の順に高く、キーロー人が最も近似性が高かった。

 オーストラリアには、アフリカから出た現世人類が約6万5000年前に進出したとされ、キーロー人はその子孫と考えられる。溝口グループ長は「キーロー人の祖先は柳江人などとともにその後、東アジア全域に広がった、いわゆるモンゴロイドの直系の祖先である原(初期)モンゴロイド集団だったのではないか」と言う。

 ◆形態から探る

 東北大の百々幸雄教授は、西モンゴルのチャンドマン遺跡から出土した青銅器時代(約3000年前)の人骨化石の頭蓋骨の形状が、縄文人と極めて似ていることを発見した。縄文人に特徴的な鼻の付け根の窪みや張り出し具合がそっくりだった。

 人骨の形質を調べる方法は大きく分けて2つある。1つは、骨の長さや太さなどの計測値を用いるもので、これまで紹介してきた研究はいずれもこの方法だった。もう1つは、頭骨に多数存在する微細な形態の差をデータとして用いる方法で、「形態小変異」と呼ばれる。例えば、眼窩の上縁に眼窩上神経という神経が通る孔がある人とない人がいる。こうした形態の差は遺伝的要因によって出現すると考えられ、形態小変異は、集団間の遺伝的類縁関係の解明に適しているとされる。

 チャンドマン遺跡の人骨は計測値の比較では縄文人と近似しているものの、形態小変異では、シベリア東部から極北にかけての人たちと近く、縄文人とは遠かったという。百々教授は「遺伝的には遠いが、形状がこれだけ縄文人と近似する骨は珍しい。縄文人の形状がどのような変異でつくられたのか、経緯をたどるヒントになるかもしれない」と、今後の研究に期待する。

 中橋教授によれば、このほかにも、米ワシントン州ケネウィックで1996年に発見された古人骨が縄文人と似ていると指摘するアメリカの研究者もいる。「ケネウィックマン」と呼ばれるこの古人骨は約8400年前のもので、アメリカ先住民の古い祖先とみられる。

 アメリカ先住民の祖先は、2万年〜1万年前にシベリアから凍結したベーリング海峡を通って北米に渡った人々とされる。ケネウィックマンと縄文人のルーツが共通だとすると、消えた縄文人の祖先を探す手がかりになるかもしれない。(小島新一)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文人のかたち(4)

2008.01.14 MSN産経新聞

 ■「早くから北の影響」歯に痕跡

2つのタイプ

 縄文人について、かつて東南アジア起源説が有力だったことは前回触れた。彫りの深い顔立ちが現代の東南アジア島嶼(とうしょ)部の人々と似ているからだが、さらに大きな根拠とされてきたのが歯の形だ。骨と比べて歯の形質は環境変化に左右されにくく、遺伝的影響を強く受けている。その上、歯は体で最も硬い組織のため土中でも残りやすく、人類のルーツを探るためには有効な資料なのだ。

 1989年、クリスティ・ターナー米アリゾナ州立大教授(当時)は「アジア人は歯のタイプにより、大きく2つのグループに分けられる」とする説を発表した。1つは日本人や中国人など北東アジア人で、上顎(じょうがく)切歯(上あごの前歯)の内側がシャベル状にくぼむなど大きく複雑な形の歯をもつ。このような歯は起源が中国大陸北部と推定されるため「シノドント」と呼ばれる。アメリカ大陸先住民もシノドントで、彼らの祖先が北東アジアからベーリング海峡を渡ってきたことを裏付けている。

 もう1つのグループは東南アジアの人々で、切歯のシャベル状形成が弱く、臼歯(奥歯)なども小さく単純な形をしている。インドネシアなどの島々は数万年前の氷河期に海面が下がり「スンダランド」という亜大陸となっていたことから、この歯の型は「スンダドント」と呼ばれる。

 ターナー教授は「現代の日本人は多くがシノドントなのに対し、縄文人やアイヌはスンダドントの割合が高い。縄文人の祖先は、東南アジアから日本にやってきた」と結論。シノドントについて「北上したスンダドントのうち、内陸部を経由した集団が中国大陸で突然変異して発生した。彼らがやがて日本に渡来し、弥生人となった」と推測した。

大陸部と類似

 ターナー説は、埴原和郎・東大教授(故人)の「縄文人が日本の基層集団で、弥生時代以降に大陸から渡来した人々と混血し、日本人が形成された」とする「二重構造論」とも合致する。しかし、松村博文・札幌医科大准教授らは「縄文人は必ずしも東南アジア起源ではなく、早い時期に北方からの影響を受けていたのではないか」とターナー説の単純な二分論に疑問を示している。

 アジア人のシャベル型切歯の割合を調べたところ、弥生時代以降の関東日本人は90%を超えたのに対し、縄文人・アイヌは約70%、最も少ないのは新石器時代以前のホアビン文化(約2万〜7000年前、日本の後期旧石器〜縄文早期の北ベトナムからスマトラ島北部地域の文化)期の東南アジア人で約40%。縄文人と割合が似ているのは、大陸部の現代東南アジア人(ベトナム、カンボジアなどインドシナ半島の人々)だった。

 さらに、各地の約7000体に及ぶ人骨の歯を調査し、21項目の形態小変異(微細な形態の違い)についてデータを取り、類縁関係を調べた。その結果、現代北東アジア人とホアビン文化期の東南アジア人を両極に、縄文人・アイヌは大陸部の現代東南アジア人とともにほぼ中間に位置した。

 「これまで縄文人のルーツといわれてきた島嶼部の現代東南アジア人(フィリピン人、インドネシア人など)の歯は、縄文人とは距離がある」と松村准教授は指摘する。

継続した南下

 歯の分析で浮かび上がった大陸部東南アジア人との類似性。それが縄文人の起源を解明する鍵とみた松村准教授らの研究チームは2004年、ベトナム北部のハンチョー洞穴で発掘調査を行い、ホアビン文化期の人骨3体を発見。このうち1体は歯にシャベル状形成がなく、頭骨にもオーストラリア先住民やメラネシア系集団と共通する特徴がみられた。

 さらに2005年から昨年にかけ、約100キロ離れたマンバック遺跡で、新石器時代末期(約3500年前、縄文後期)の埋葬人骨74体を発掘。頭骨を計測したところ、平たく面長な顔など、中国・揚子江付近の前漢時代の人骨や、日本の渡来系弥生人と似ていることが分かった。

 ところがその中で、ハンチョー洞穴と同じく彫りの深い顔つきをした人骨5体が混在。彼らは周辺の先住民の村で生まれ、成人後に移り住んだと推定される。

 従来は東南アジア人が外部と混血せず、ホアビン文化期から遺伝的に連続しているとする説が有力だった。しかし、同一遺跡から同時代の異なる系譜の人骨が発見されたことから、松村准教授らは「新石器時代末の段階から、インドシナ半島に揚子江沿岸の集団が南下し、先住民と混血した可能性が高い。東南アジアにも二重構造がある」と分析する。

 「北東アジア人の南下は、大陸周縁部で長期間にわたり平行的に起こったのではないか。東南アジアより北方の日本列島ではもっと早く、縄文時代が始まる前に一定の混血が生じた。その結果、大陸部の東南アジア人と縄文人はよく似た歯の形態を持つに至った」。この説は、後期旧石器時代末期(約2万〜1万4000年前)、細石刃文化がシベリアから日本列島に入ってきたこととも符合する。

 ただ、縄文人の歯は弥生時代から現代までの日本人と比べて全体に小ぶりで、犬歯と小臼歯が著しく小さい。このため、同時期のアジアにも例がないほどあご骨が後退し、口元が引き締まっていた。「日本列島の中で、縄文以前からの長い時間をかけて独自に形成された可能性もある」と松村准教授。謎の解明には、国内外のさらなる人骨発見が待たれるようだ。(牛島要平)

試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文人のかたち(5)…分化以前の現生人類の形態色濃く

2008.01.21 MSN産経新聞

 ≪「孤島」≫

 日本列島周辺の東アジアで、骨の形態が明確に類似する集団が見つからず、祖先探しが続く縄文人。地域や時代を広げて調べると、どうだろうか。

 東北大の百々幸雄教授は、頭(蓋(がい))骨の「形態小変異」に基づいて、世界各地の集団の類縁関係を調べた。形態小変異は、体の機能にはまったく影響のない微細な形態の変異で、頭骨には無数にある。その出現部位(項目)の一部を示したのが図1。変異が現れる人の割合(出現頻度)は集団によって異なり、集団間で出現頻度が近い項目が多いほど、類似しているとみなすことができる。

 図2は、形態小変異のうち、「眼窩上孔(がんかじょうこう)」(眼球の入るくぼみの上縁を貫く神経の通路)と「舌下(ぜっか)神経管二分」(舌の運動を支配する神経の通路が2分したもの)の2項目の変異の出現頻度で調べた世界71集団の類縁関係だ。

 サハラ砂漠以南のアフリカ人(ネグロイド)、北アフリカ・ヨーロッパ・南アジアの諸集団(コーカソイド)、中央アジア以東のアジア・極北・ポリネシア・アメリカ大陸先住民の諸集団(モンゴロイド)のいわゆる3大人種はほぼ明確に分かれ、縄文人は、いずれの集団からも離れている。

 図3は、過去の日本人を含むモンゴロイドの諸集団を22項目の形態小変異で比較し、類縁関係を調べたもの。同じ枝線上にあって距離が近い集団ほど近縁にある。縄文人は、過去のさまざまな時代の日本の集団の中でも、特異な存在だったことが分かる。

 百々教授は、「現生人類全体を『大海』とすれば、縄文人は『人種の孤島』のような存在だ」と分析する。

 ≪初源的形態≫

 形態小変異の10項目で、対象集団をアフリカ、ヨーロッパ、東アジア・東南アジアに絞って比較したデータの一部が図4。縄文人は、アフリカ人、ヨーロッパ人、アジア人のいずれからも独立した存在であることがここでも明確だ。

 さらに、縄文人が3大人種のほぼ中央に位置しているのが注目される。百々教授は、「縄文人は、約10〜6万年前にアフリカを出て世界への拡散を果たした現生人類がヨーロッパ人やアジア人に分化する以前の初源的な形態を維持していたと解釈できる」という。

 すでに紹介したように、縄文人と似た集団が東アジアで見つからない理由は、「東アジアの諸集団がいろいろなルートで列島に入ってきて縄文人となったが、その後、シベリアで寒冷地適応した新モンゴロイド(北方系アジア人)と呼ばれる集団が東アジアに広がり、この地域にいた縄文人の祖先は駆逐されて残らず、日本の縄文人だけが残った」(中橋孝博・九州大教授)とされている。縄文人が古い形態を残しているという百々教授の分析も、これを裏付けている。

 ≪遺伝的類縁≫

 骨の形態を決定する要因は遺伝と環境だ。形態小変異は環境の変化に左右されないため、頭や顔の高さ、幅などの計測値に基づく人骨研究よりも、集団間の遺伝的関係を調べるのに適しているとされる。図3に示された結果は、そのことを裏付けてもいる。

 日本人は、古墳時代から鎌倉時代にかけ、頭骨を真上から見たときの前後の幅が長くなる長頭化が進み、室町時代以降は逆に短頭化してきた。世界各地で同様の現象がみられるが、原因はよく分かっていない。

 ただ鎌倉時代以降の日本では、海外の集団の移住によって骨の形態に影響を与えるほどの遺伝的構成の変化があったとは考えられず、なんらかの環境の変化が原因だとみられている。

 百々教授によれば、鎌倉から現代までの各時代の集団の形態小変異を調べると、出現頻度に統計学的に有意な差があったのは22項目中2項目だけ。図3で縄文をのぞく各時代の集団が近い位置に配置されたのは、短頭化などで外形は大きく変化していても、異質な外部集団との混血や置換もなく遺伝的にはほぼ連続した関係であることを反映しているわけだ。

 ここで改めて図2〜4をみると、縄文人と最も近い集団が北海道アイヌであることが分かる。アイヌが縄文人の特徴を残していることはさまざまな研究でほぼ定説となっているが、遺伝的類縁関係が色濃くでる骨の形質分析でも裏付けられたことになる。

 アイヌ集団の成立過程から縄文人のルーツに迫れないか。次回からは縄文人の特徴を色濃く残すアイヌについて検証し、縄文人とのつながりを考えてみたい。 (小島新一)


【試行私考 日本人解剖】第3章ルーツ アイヌと縄文人(1)

2008.01.28 MSN産経新聞

 ■列島独立、独自の歩み始まる

大陸と分裂

 頭蓋骨(ずがいこつ)の形態を検証した前回、縄文人と北海道アイヌが遺伝的に近いことに触れた。多くの現代日本人が、弥生時代以降に大陸から渡来した集団の影響を強く受けているのに対し、アイヌは縄文人の血を最も直接的に引き継いでいるとみられている。そこで、縄文以降の北海道を中心とした地域でどんな動きがあったのか、検証してみたい。

 縄文以前、後期旧石器時代の約2万〜1万8000年前は「最終氷期」で最も寒冷な時期で、海水面は現在より約100メートル下がっていた。このため、大陸とサハリン(樺太)の間の間宮海峡、サハリンと北海道を隔てる宗谷海峡はいずれも地続きだった。現在、最大水深が約450メートルある津軽海峡は幅約10キロ(現在の半分)に狭まっていた。つまり、当時の北海道は大陸から細長く伸びた半島の先端だったのだ。

 細石刃の流入にみられる北からの文化的影響、ひいては集団の移動も、この最終氷期に起こったとみられている。その後、急激に温暖化が進み、縄文時代が始まる約1万3000〜2000年前にはほぼ現在の日本列島の姿が出来上がった。

 「縄文以前に日本列島で発展した(ナイフ形石器など)石刃文化の源流はシベリアなど大陸北部」と、シベリアで調査を進めている木村英明・札幌大教授は話す。「石器を駆使して狩猟する文化は北の厳しい自然の中ではぐくまれた。アムール川流域・サハリンと北海道は一体の文化圏だったとみていい。しかし、縄文時代に入ると日本列島は大陸から切り離され、独自の文化を形成していった」  定住生活の中で生まれた縄文土器や大規模な貝塚、計画的集落などの縄文文化は、縄文早期(約1万〜6000年前)以降、北海道にも広まる。しかし、サハリンなどに類似したものが少ない。また、千島列島では択捉島で縄文土器が出土しているが、得撫(うるつぷ)島以北では確認されていない。「海の幸が豊富で、採集に適した多様な植物に恵まれた日本列島と違い、寒冷なシベリアでは狩猟中心の生活が続いた」と木村教授は指摘する。

北方文化の痕跡

 日本列島が独自の歩みを始めていた縄文時代早期中ごろ(約7500〜7000年前)、北海道北東部に「石刃鏃(せきじんぞく)文化」が広まった。石刃鏃とは薄い石の剥片で作った弓矢の鏃(やじり)。旧石器時代以来の伝統的な石刃技法を用い、縄文時代の一般的な鏃より細長い。大陸でアムール川流域を中心にバイカル湖周辺、サハリン、モンゴル、華北に広く分布し、大陸系文化の色彩が濃い。

 北海道で最初に確認されたのは浦幌町新吉野台遺跡。昭和9(1934)年、小学校教員だった斎藤米太郎氏が発見し、大陸系の石刃と縄文土器が共存していたことで、当時の学界に衝撃を与えた。石刃鏃はその後、オホーツク海沿岸、十勝・釧路地方、さらに旭川市など北海道の約135カ所の遺跡で確認されている。また少数だが、青森県でも見つかっている。

 木村教授は「約7000年前までの石狩低地帯から東の北海道は、バイカル湖周辺からサハリンにかけての地域と依然として一体性を保っていた」と話す。サハリン南部のタコエII遺跡などの石刃鏃は、北海道産の黒曜石から作られた可能性が高い。サハリン西海岸のポリエーチェIV遺跡で発掘された土器は、新吉野台遺跡などの土器と類似の紋様を持っている。

 石刃鏃にみられるシベリアと北海道縄文人の交流は、両者の強い文化的結びつきをうかがわせる。では、人的な交流はどの程度あったのだろうか。木村教授は「石刃鏃文化は短期間で本州の縄文文化に取って代わられるため、北方からの大規模な集団移動は考えにくい」と否定的だ。

道南と東北

 渡島半島を中心とする道南部は、津軽海峡を挟んで東北地方北部と同じ文化圏を形成し始める。福田友之・青森県立郷土館副館長は「丸木舟で頻繁に交流が行われ、津軽海峡は両岸を隔てるよりつなぐ役割をした」と言う。

 北海道伊達市の有珠モシリ遺跡では、縄文晩期の成人女性2体の腕に、ベンケイガイとオオツタノハガイ製の貝輪がはめられていた。オオツタノハガイは、生息圏が九州の五島列島以南と伊豆諸島の八丈島以南に限られている。発掘にあたった大島直行・同市噴火湾文化研究所長は「対馬暖流が北上する日本海沿岸を伝い、九州から運ばれた可能性が高い」とみる。

 縄文中期以降に出現するのがヒスイだ。北海道千歳市の美々IV遺跡では、26基の墓などから97点のヒスイ製品が発見された。「北日本の縄文人にとって最高の装飾品」(福田副館長)といわれるこの品も、日本海ルートを実証している。産地分析されたヒスイのほとんどが、新潟県糸魚川産と判明したからだ。福田副館長は「ヒスイ製品は東北南部より北部に多い。青森県域が北海道への中継拠点の役割を果たした」と分析する。

 貝の腕輪やヒスイの勾玉は、アイヌの祖先とみられる北海道縄文人と本州縄文人が活発に交流していたことを物語る。津軽海峡はその結節点だった。弥生時代以降、両岸関係は変化し始める。次回はその歴史をたどることで、縄文人とアイヌのつながりを考える。(牛島要平)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ アイヌと縄文人(2)

2008.02.04 MSN産経新聞

 ■文化・言語 連続から分離へ

 ≪宝を求め交易≫

 アイヌの直接の祖先とみられる北海道縄文人が本州とほぼ同じ「縄文文化」を営み、津軽海峡を越えて、南方の貝や北陸のヒスイなどを受け入れていたことを前回紹介した。しかし、北海道は弥生時代から古代にかけて文化的に独立した道を歩み始める。

 水稲耕作を中心とした「弥生文化」は、約2500年前には大陸から九州北部に伝わった。稲作は本州を北上し、弥生前期〜中期には東北地方北部に到達した。津軽平野の垂柳遺跡(青森県田舎館村)と砂沢遺跡(同県弘前市)では、水田跡や弥生土器が見つかっている。しかし、稲作は津軽海峡を越えなかった。北海道では狩猟・漁労中心の生活が続き、紋様のある土器を使用するなど縄文時代と大きく変わらない文化が続いた。このため北海道では、弥生・古墳時代にあたる7世紀ごろまでを「続(ぞく)縄文時代」と呼ぶ。

 稲作が伝わらなかった原因は「寒冷な気候が稲作に適さなかった」「海や川の資源が豊富で稲作の必要がなかった」と言われてきたが、旭川市博物館の瀬川拓郎学芸員は「北海道の人々は二流の農耕民となるよりも、多様な食糧資源から得た特産物を携え、本州の農耕民と交易を深める方法を選んだ」と話す。

 縄文時代の北海道では、村の首長の墓に納める副葬品は必ずしも個人の所有物ではなかった。ところが、続縄文時代には生前の持ち物を入れることが一般化し、特に首長の墓は大量の副葬品を持つようになる。瀬川学芸員は「財産(宝)を個人的に占有するようになった。縄文の宝は共有する価値観のシンボルだったが、続縄文には首長に名誉と威信をもたらすものになった」と指摘する。続縄文人はヒグマの毛皮など北海道の特産物と引き換えに、ガラス玉や鉄製品など異文化の珍しい宝を手に入れた。

 北海道では7世紀ごろから、本州の土師器(はじき)の影響を受けた「擦文(さつもん)土器」と鉄器を併用する「擦文時代」に移行する。瀬川学芸員は、上川盆地や石狩川水系で出土する擦文集落跡が、サケの産卵場に近い川べりに集中していることに着目。「集落がサケ漁に特化して築かれた。その背景に本州との交易拡大があり、宝の蓄積が一層進んだ」と分析する。

 ≪東北への南下≫

 北海道からみた本州との関係は、縄文時代の「価値観の共有」から、擦文時代には「宝のための交易」に変わった。これに対し本州、特に東北地方では何が起こっていたのだろうか。

 稲作がいったんは伝わった東北北部(青森県全域と岩手県・秋田県北部)だが、弥生後期から6世紀まで集落が極端に減少する。古墳時代にかけての寒冷化のためと言われる。この時期、北海道全域に広まっていた「後北C2・D式」などの続縄文土器や石器が出土。その範囲は東北南部に及んでいる。

 また、現在の東北地方には「ペツ」や「ナイ」などアイヌ語に由来するアイヌ語系地名が多い。松本建速・東海大准教授は「続縄文遺跡の分布や遺物の性質から考えれば、縄文時代からの言葉が地名として残ったのだろう。特に東北北部と道南の人々は言語的にも形質的にも連続していたと推測できる」とみる。

 アイヌ語系地名の南限は宮城県〜山形県のラインで、古墳がつくられた北限とほぼ一致する。古代の朝廷は東北地方で支配に服しない人々を「蝦夷(えみし)」と呼んだが、熊谷公男・東北学院大教授は「朝廷は蝦夷との会話に通訳を置いており、蝦夷の言葉は独自のものだった。それがアイヌ語系だった可能性は高い」と話す。日本書紀などの文献や出土した木簡などから、蝦夷は7世紀には米沢盆地〜新潟市付近にまで居住していたといわれる。

 ≪朝廷の支配拡大≫

 7世紀以降の律令政府は東北への支配拡大をはかる。8世紀(奈良時代)には陸奥国に多賀城(宮城県多賀城市)、出羽国に秋田城(秋田市)を設置し、東北経営の中心とした。坂上田村麻呂の遠征と胆沢(いさわ)城(岩手県奥州市)の建設で9世紀(平安前期)には現在の盛岡市〜秋田市のライン以南を支配下に入れた。

 当時の文献では、9世紀初めまでに国家の政策として関東周辺の住民が東北に移住したことが知られている。796年には8カ国から約9000人が伊治(これはり)城(宮城県栗原市)に移されている。

 東北北部への移住について、住居跡などの発掘資料から再検討した松本准教授は「8世紀までの移住は東側(現在の八戸市周辺)で、信州北部や関東の住民が馬飼の文化をもたらした。一方、9世紀〜10世紀には西側(津軽平野から米代川流域)に、須恵器や鉄の製錬技術を持った出羽や北陸の集団が移住した。稲作文化はこのとき広まり、北海道との違いが明確になった」と、新しい見解を示している。

 移民が持ち込んだものに、信州〜北関東をルーツに持つ「蕨手刀(わらびてとう)」がある。東北で広まった蕨手刀は北海道からも出土し、津軽海峡を越えた交易を物語る。しかし、その交易関係は人の移住を伴わず、縄文時代のような文化的融合をもたらさなかった。こうして独自性を強めた北海道の人々は、今日に至る独自のアイヌ文化を形成していく。次回はアイヌ文化の中に縄文時代の遺産を探る。(牛島要平)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ アイヌと縄文人(3)

2008.02.11 MSN産経新聞

 ■「猪」から「熊」へ、つながる風習

 ≪クマ送り≫

 縄文時代に同じ文化圏を形成していた津軽海峡の両岸が、10世紀(平安中期)までに異なる文化を持つ集団に分かれたことをみてきた。北海道の文化は、川でサケなどを獲って本州と交易し、鉄製農具で雑穀を栽培する独自の「擦文(さつもん)文化」に変貌(へんぼう)。13世紀(鎌倉時代)には土器ではなく鉄鍋で煮炊きするようになり、「アイヌ文化」が始まる。

 アイヌは縄文時代と同じく狩猟や採集を基本にし、人間と自然について独自の世界観を作り上げてきた。アイヌ文化を代表する行事に「クマ送り(イヨマンテ)」がある。アイヌは肉や毛皮を得るため山でヒグマを狩るが、その際に獲った子グマを連れて帰る。翌年、親類や近隣の人々を招いた盛大な儀式のうちに子グマを殺し、霊魂を親グマのもとに返す。

 大正時代に北海道白老(しらおい)町で郵便局長を務め、アイヌ風俗を見聞した満岡伸一氏(故人)は、大正13年の著書『アイヌの足跡』で「熊は神であり、その子は熊神の子である」と解説する。「神の子である来賓を殺すということもちょっと聞けば合点が行かないが、彼らの解釈では、親を慕う子熊の気持ちを考え、適当な時機に親元へ送り返す意味である」。子グマの前で酒宴を開き、土産物を持たせ、これからもクマが自分たちのところへ現れることを祈るのだ。

 アイヌの神謡などを検証した山田孝子・京大教授によると、「動物や植物などはカムイ(神)が人間の世界を訪れた結果による仮の姿であると考えられている。そしてカムイの人間への贈り物であると考えるのである」(『アイヌの世界観』)。

 ≪イノシシ起源?≫

 クマ送りは江戸時代の絵図に描かれているが、その起源は「オホーツク文化」ではないかといわれてきた。オホーツク文化は4〜12世紀のサハリン(樺太)や千島列島にいた「オホーツク人」の文化で、特有の土器や住居を持っていた。彼らは7世紀をピークに北海道にも南下し、特にオホーツク海沿岸に遺跡を残す。そこからは、クマの骨やクマをかたどった遺物が出土。現在のサハリンなどに居住し、オホーツク人の子孫の可能性もある「ニヴフ」は、アイヌとよく似た「飼いグマ送り」を行うことで知られる。

 しかし、瀬川拓郎・旭川市博物館学芸員は「クマ送りの起源は縄文時代ではないか」と問題提起する。瀬川学芸員は、北海道に生息していないイノシシの牙の飾り物や四肢骨が、道内全域の縄文前期〜晩期の遺跡で出土していることに着目。四肢骨の多くは焼けている上に、成長したイノシシで、「単に食べるためではなく、儀礼的な意味があった。子供のうちに本州から持ち込み、飼育していたのだろう」。イノシシの骨は本州の縄文遺跡でも同様に発掘されているため、北海道と本州が共通のイノシシ祭りを行っていたことも考えられる。

 本州に稲作文化が広まり、狩猟活動が減った続(ぞく)縄文時代には、イノシシを北海道に移入することが不可能に。代わりに、墓の副葬品としてクマの石製彫刻が出現する。瀬川学芸員は「アイヌの首長がクマ送りの際にかぶった冠の飾り物と酷似し、同じように使われていたと推測できる」と話し、続縄文〜アイヌの連続性を結論づける。

 「縄文のイノシシは本州から移入した上に、飼育に困難が伴うことで精神的な価値を付与された。続縄文以降はその役割が、北海道でもなかなか獲れないヒグマに置き換わり、クマ送りの原型が出来上がった」

 ≪家を焼く風習≫

 もう一つ、アイヌ文化の中で縄文とのつながりを推測させるのが「家を焼く風習」だ。女性が亡くなり、「あの世(神の国)」に行っても、独りでは家を建てられず、住む家がない。死者の家の主人は神に祈った後、家に火を付けて焼き、住み慣れた家を死者に送るのだという。

 大島直行・伊達市噴火湾文化研究所長は、この風習が縄文時代から存在していた可能性を指摘する。北海道で発掘された縄文時代の縦穴住居跡3440件を調べ、火災跡に着目。火災発生率を時期別にみると、早期から中期前半まで火災はほとんど起きていないのに対し、中期後半から急増していることが分かった(晩期は住居の発見が少なく、発生率が極端に小さい)。

 「1軒の住居をつくることは並大抵ではなく、縄文人は火災に細心の注意を払っていたはずで、中期以降の急増は異常。住居内に土器などが残されるケースはわずかで、多くは持ち出されている。失火ではなく、意図的に放火した可能性が高い」と大島所長。目的については「すべての死者について行ったにしては少ない。ある特定の人物に対する“追悼”“供養”といった葬送的意味合いが強いようだ」。

 さらに、続縄文・擦文の火災率は平均すると縄文より高く、「家を焼く風習が縄文中期に始まり、発展してアイヌへとつながった可能性は否定できない」と話す。

 縄文時代の遺物には、土偶や石棒など、使用目的や意味が謎に包まれているものが多い。「技術を追求せず、人や自然に霊的な存在をみる縄文人の精神こそが、約1万年にわたり安定した社会システムを維持した」ともいわれる。日本文化の原点ともいえるこの縄文の精神文化は、クマ送りなどの形でアイヌ文化に残された。アイヌ民族の成り立ちは日本人の成り立ち解明の鍵の一つであることは間違いない。(牛島要平)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ アイヌと縄文人(4)

2008.02.18 MSN産経新聞

Y染色体が証明した“直系”

 ≪男系遺伝子≫

 東海大の田嶋敦助教は平成16(2004)年、宝来聡・総合研究大学院大学教授(故人)らとともにアイヌを含む東アジア各地の現代人集団の遺伝子を比較した。宝来教授は、縄文人の骨化石からミトコンドリア(mt)DNAを抽出、解析することに初めて成功したことで知られる。

 田嶋助教らの研究では、各集団構成員のmtDNAに加え、Y染色体も比較。「DNAでみる縄文人」で取り上げたmtDNA同様、Y染色体も集団や地域によって分布する変異型やその割合が異なり、分布や変異を分析してルーツ探しに使われている。

 mtDNAは母親からのみ子(男女)に伝えられるのに対し、Y染色体は父親から息子にのみ伝えられ、父(男)系をたどることができる。mtDNAの分析では人類の祖先はアフリカの1人の女性(ミトコンドリア・イブ)とされるが、Y染色体の変異をたどると、アフリカの1人の男性「Y染色体のアダム」に行き着く。

 全人類のY染色体は大きくA〜Rのハプログループ(塩基配列の変異を共有する型の集まり)に分かれる。Bと分岐した集団がアフリカを出たあと、C、D/E、Fという3つのグループに分かれ、Fの集団はさらに分岐しながら世界中に拡散した。

≪2つの系統≫

 田嶋助教らがY染色体の比較に用いたアイヌのデータは16人分。ハプログループCから派生したサブタイプC3が12・5%(2人)、D2a(13人)とD2B1(1人)というD2(「D」のサブタイプ)系統が計87・5%だった。

 米アリゾナ大のマイケル・ハマー研究員らの調査や田嶋助教によれば、D系統は、アジア地域では日本のほかチベット(D1とD3系統)で約50%の割合で見つかる以外は、モンゴルや中国南部、東南アジアでわずかに見つかる程度。D1などサブタイプ派生前の祖型「D」はインド洋のベンガル湾南方、アンダマン諸島で確認されている。

 C3は、シベリア・バイカル湖近辺のブリヤート集団で83・6%と高い割合で分布。樺太(サハリン)のニブフでも38・1%に確認され、本州ではわずかだが、九州では7・7%。北部漢民族にも8・2%の割合で分布している。アイヌでは確認されていないが、同じC系統のC1が本州から九州にかけて分布している。C1は日本でしか確認されていない。

 ≪縄文人型≫

 「アイヌに分布するY染色体のD2系統の型とC1は縄文人の遺伝子型と考えられ、C3もその可能性があります」と田嶋助教。

 日本人のY染色体をめぐっては、3〜4割の本州人のDNAに「YAP」という約300の特徴的な塩基配列が挿入されていることが早くから知られていた。その後研究が進み、ハプログループDと呼ばれるようになったのが、このYAP+型だ(中東やヨーロッパの一部、アフリカに分布するハプログループEもYAP+)。YAP+型は韓国ではほぼ皆無で、東アジアでは日本人特有と受け止められたことから、縄文人との関連を指摘する声も多かった。それを確証したのが、田嶋助教らの分布調査だった。

 縄文時代に幅広く列島に存在した基層集団のmtDNAのハプログループと考えられる「M7a」「N9b」は現在では北海道と沖縄に高い割合で分布(「DNAでみる縄文人」参照)し、D2型の分布と同様の傾向にある。日本人形成の定説「二重構造論」によれば、弥生人は縄文人と混血しながら西日本から列島全体へと拡散したため、西日本から離れるほど縄文人の直系子孫が残る割合は高い。約2万年前に派生したとされるD2型の分布はこれに合致するため、縄文人のものと考えられるわけだ。

 ≪北から南から≫

 田嶋助教によれば、D系統が列島にきたルートには、(1)中央アジアルート(中東→中央アジア)(2)沿岸ルート(中東→ユーラシア大陸の南岸沿い)という2つの見解があり、日本列島への移入ルートも北方、南方という2つの可能性が考えられるという。

 C1集団は約1万2000年前と計算される派生時期などから後期旧石器〜縄文時代に列島に入ったか、列島周辺で祖型「C」から派生したと考えられる。「C」はインド、中央アジアや東南アジア、オセアニアでも確認され、D2と近いルートをたどった可能性もある。C3集団は、後期旧石器時代にシベリアを起源に樺太経由で北海道へ、あるいは中国北部から半島経由で九州へと入り、列島に広まった細石刃文化の流れと分布が一致する(「縄文へ(1)」参照)。

 mtDNAとY染色体は、女系と男系の違いから、同じ地域でも対応する型が存在するとはかぎらない。ただ、東アジアの広範囲、さらにアメリカ先住民にも分布するC3は、東アジア最大集団のmtDNAのD型、なかでも北海道縄文人とアメリカ先住民で確認されたD1型との相関関係が注目される。北海道縄文人のほかアムール川流域や朝鮮半島でわずかながら確認されるN9b型も考えられるかもしれない。

 縄文人が周辺地域で似た形状の骨化石が見つからないユニークな存在であること、その中でもオーストラリアや西モンゴル、北米の遺跡から見つかった骨化石との類似性を指摘する研究が近年出されていることは紹介した。Y染色体の分析は、アイヌが縄文人と遺伝子レベルで直結していることを明らかにするとともに、これらを検証するヒントにもなりそうだ。(小島新一)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文語

2008.02.25 MSN産経新聞

 ■地名、方言に“直流”残る

 ≪「私の名前は」…≫

 「アバ(a−ba) ナアガ(naa−nga) マポ(Mapo)」「アニ(a−ni) ノノ(nono) ト(to) アヤ(aya) ト(to) イネ(ine) ト(to) イエ(ye) ト(to) オト(oto)、シ(si) ブイブム(bu−i−bu−mu)」

 日本や東北地方の民俗をテーマにした音楽活動で知られる「姫神」の代表曲の1つ、「神々の詩」では、こんな歌詞が繰り返される。シンセサイザーが創り出す幻想的な音の世界に響く女性の歌声は哀調を帯びながら、不思議な力強さと懐かしさも感じさせる。

 実はこの歌詞は、縄文時代に話されていた「縄文語」として、崎山理(おさむ)・滋賀県立大名誉教授が監修したものだ。「私は名前がマホです」「私に祖父(祖母)、父と母、兄(姉)と弟(妹)がいます」という意味だという。

 もちろん、縄文語の資料は存在せず、当時の言葉を直接知ることは不可能。崎山教授は「日本語は北方のツングース諸語と南方のオーストロネシア語族系の言葉が混合して成立した。両系統の言語が列島で出会ったのは縄文時代後期」と考えており、現代方言や奈良時代の上代日本語と列島の南北に位置する系統の異なる言語を比較し、縄文語の再構成に挑んだ。

 ≪北方系と南方系≫

 日本語のルーツは、「ツングース諸語」「モンゴル諸語」「チュルク諸語」の3グループから形成される「アルタイ語族」系統と考える説がこれまで言語学者の間では有力だったが、アルタイ語族の存在そのものについて、現在、意見が分かれている。

 崎山教授が注目したツングース諸語は、シベリア西部から満州、東はカムチャッカ半島や樺太に至る広大な地域で話されている10の言語。語彙(ごい)では「谷」という言葉を「や」「やち」「やつ」と読む関東地方独特の地名や、上代日本語の助詞・助動詞のルーツにツングース諸語の影響がみられるという。「神々の詩」の−バ(〜は)、−ガ(〜が)などがそうだ。例文中の「アカ(赤)キ(形容詞語尾)」「コロモボ(衣を)」などの言葉をみると、日本語とのつながりが感じられる。

 オーストロネシア語族は、現在の中国・雲南地方を故郷とし、6000〜5000年前に南方に移動を開始。フィリピンやインドネシアから西はマダガスカル島、東はイースター島まで広い範囲に広がった。ニューギニア付近からメラネシアに向かう途上で一部の集団が北上、縄文時代後期(4000〜3000年前)に列島に渡来し、言語ももたらされた、と崎山教授。

 オーストロネシア語系の影響として崎山教授が注目しているのが、南十字星を意味する魚の「エイ」から変化した「ハエ」「ハイ」が、(西)南や(西)南風を意味する言葉として、琉球、九州から山口、島根、紀伊半島など西日本、さらに静岡、八丈島まで広がっていることだ。

 「民族学では、縄文時代の列島は北方文化の影響を大きく受けていたといわれ、これがアルタイ系であったとすると、とくにツングース諸語が列島東北部に定着したあと、西日本からオーストロネシア語族系の言葉が広がり混合が始まったと考えられる」

 ≪出雲弁と東北弁≫

 東北弁と島根県・出雲地方の方言が似ていることは、推理作家、松本清張の「砂の器」で事件の謎を深めるトピックとして使われたことでも知られる。小泉保・元大阪外大教授は、この2つの方言を手がかりに縄文語の姿を追究している。

 東北方言と出雲や隠岐島など島根県東部から鳥取県西部で話される雲伯(うんばく)方言には、(1)「チ」と「ツ」、「シ」と「ス」、「ジ」と「ズ」の音が曖昧になる(例えば「口」と「靴」はいずれも「クチ」)(2)「イ」と「エ」の中間音が使われる(「命」は「エノ」)−といった共通点がある。

 同様の特徴は、新潟市周辺や長野市、富山県沿海部、石川県奥能登地方、更埴(長野県、現千曲市)の方言にもみられ、「東北から北陸、山陰、信濃北部に広がる言語圏があったと考えられる」

 さらに、「日本書紀」に「トンボ(蜻蛉)」として登場する「アキヅ」が、東北に「アケ(ゲ)ツ」「アケ(ゲ)ズ」、九州南部では「アケズ」「アケシ」、沖縄(本島)では「アケージュー」という方言として残っていることに着目。これらから推定される原形は「アゲンヅ」(agendu)で、東北地方に現在も残る発音(半有声の「ゲ(ge)」や鼻音の「ンド(nd)」)と重なり、東北方言は「極めて古い原日本語的状況を保持している」という。

 ≪日本海と太平洋側≫

 各地の方言の発音や語彙の分布調査を重ねた小泉元教授は、縄文の終わりから弥生時代にかけて、西日本に渡来した大陸系の人たちが縄文人と混血しながら拡散したとする「二重構造論」も考慮し、「東北から日本海沿岸各地と九州南部、琉球地方の方言は後期縄文時代には成立していた縄文語の直流」と結論づける。近畿地方を中心とした渡来人の勢力が波及しにくい地域だ。

 一方、岐阜・静岡や山口・広島各県という近畿の東西に位置する地域では、「えらい」を「(体が)たいへん」「しんどい」の意味で共通して用いる。小泉元教授は「山陽から関東にかけての太平洋側には、東北・日本海側とは別の東京式アクセントをもつ縄文言語圏があり、京阪式アクセントをもつ弥生系言語によって近畿地方で分断された」とみる。

 崎山教授と小泉元教授の研究は、地名や方言といった形で縄文語が現代日本語に受け継がれているという点で一致する。現代日本人が、縄文人のミトコンドリアDNAやY染色体を受け継いでいることを実感させてくれる見解だ。(小島新一)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 稲作の始まり(1) 渡来人とも共存した縄文文化

2008.03.03 MSN産経新聞

 約1万年以上にわたり日本列島で続いた縄文時代は、水田稲作という外来文化の渡来で終わりを迎える。縄文人は多様な食料資源を自然から獲得し独自の精神文化を築いたとされるが、弥生人は水田稲作に特化し、稲作のための祭祀(さいし)と階層社会を発展させた。

 稲作はこれまで、約2500年前に朝鮮半島から北部九州に伝わったとされてきた。しかし近年、イネが縄文時代から存在した可能性を示す発見が相次ぎ、「縄文稲作は存在したか」が争点となっている。

 岡山県総社市の南溝手遺跡では、約3500年前(縄文後期)とみられる土器の破片にイネの籾(もみ)のような形状の痕が見つかった。さらに、土器の土から、イネのプラントオパールも見つかった。プラントオパールとは、植物が水とともに吸い上げた土中のケイ酸が、葉の細胞にたまったもの。イネのプラントオパールは、岡山市の朝寝鼻貝塚(約6400年前、縄文前期)からも出土している。

 しかし、考古学者の間では「縄文稲作が存在したとしても本格的な水田ではなかった」とする意見が強い。縄文時代の遺跡からは、水田跡どころか畑跡すら見つかっていないからだ。プラントオパールも、それ自身の年代を知る術はなく、新しい時代の地層から流れ込んだ可能性を否定できないという。

 ≪気候変化の影響≫

 縄文人の狩猟・採集生活は、安定したものではなかったようだ。

 約1万年前の平均気温は現代より約2度低かったが、その後、約6000年前にかけ約3度上昇。縄文中期の関東・中部地方にはコナラ・クリを中心とする暖温帯落葉樹林が広がる。小山修三・国立民族学博物館名誉教授は昭和53年、遺跡の分布や規模から縄文・弥生の人口を推計。縄文中期の東日本(中部以東)の人口は25万2000人で総人口の96%を占め、西日本(近畿以西)は9500人に過ぎなかった。

 日本史を通じて人口の推移を検証した鬼頭宏・上智大教授は「東日本では栄養価の高い堅果類に加え、河川でサケやマスも捕獲できた。これに対し、西日本はカシ、シイなど照葉樹林に覆われ、食料資源に乏しかった。このことが、人口が偏在した原因のようだ」と指摘する。

 約4500年前から気温は再び下がり始める。その結果、縄文後期には暖温帯落葉樹林は著しく減少したが、東日本の平野部には照葉樹林が押し寄せた。この状況と符合するように、中期から晩期にかけ、遺跡から推計される東日本の人口は南関東と東山で90%以上、北陸で80%減少したという。

 一方、西日本では1.5〜2倍に増加。その後の稲作伝来を受けてこの傾向は加速し、弥生時代に東西の人口は逆転する。鬼頭教授は「これまで人口の少なかった環境で増えたことは、異なる生活様式が拡大したことを意味する。照葉樹林が発達した西日本では特に早くから植物を管理する必要があった。朝鮮半島との交流も密接で、稲作も含めた栽培技術を早い時期に受け入れていたのではないか」と話す。

 水田稲作が本格的に広まる前から、日本列島には稲作を受け入れる素地が生じていたのかもしれない。

 ≪緩やかな受容≫

 稲作は約200年間で北海道、沖縄をのぞく列島全土に広まったとされてきた。弥生人は、イネに宿る「稲魂(いなだま)」を崇拝し、自然界の多くの存在に霊魂を見出してきた縄文人の文化とは相容れなかったと考えられるだけに、なぜそれだけの短期間で稲作が普及したのかが大きな謎とされてきた。渡来人の流入という外的圧力により、縄文文化が急速に消滅させられたという説もある。

 この謎を解明する糸口になりそうなのが、国立歴史民俗博物館が平成15年度から行っている研究だ。稲作の普及が従来の説より緩やかであることを明らかにし、縄文文化を持っていた在来人が渡来人と共存しながら、長い時間をかけて弥生文化を受容していった可能性を示した。

 同博物館は、弥生土器に付着した炭化物の年代をAMS−炭素14年代測定法で測定。北部九州への稲作の渡来は、従来の説より500年早い約3000年前(紀元前10〜9世紀)と判明した。

 また、瀬戸内を経て近畿に伝わるまで約400年、南関東までは700〜800年を要していた。大阪平野では、長原式土器(縄文晩期の様式)と遠賀川(おんががわ)系土器(弥生前期の様式)が150〜200年にわたり同時期に存在していた。

 北部九州の弥生遺跡を分析した藤尾慎一郎・同博物館准教授は、稲作の伝わり方を次のように描き出す。「寒冷化で海岸線が後退し、平野の河川下流域に水田稲作に適した沖積地が拡大した。そこに稲作技術を持った渡来人がやってきて、縄文以来の集団と協力して水田を拡大した。一方、中・上流域には稲作を受け入れない在来集団もいた。下流の人口増加と可耕地拡大に伴い、中・上流との戦いが増えた」

 東北北部への稲作伝来は関東よりも早く、約2400〜2300年前(紀元前4世紀、弥生時代前期)。東北最古の潅漑(かんがい)施設を備えた水田跡が見つかった青森県弘前市の砂沢遺跡では、縄文以来の石器で農具を作り、土偶などによる縄文祭祀も続いていたことが分かっている。「砂沢遺跡は、余剰生産を蓄積する社会と祭祀への質的転換を伴わない、縄文稲作の姿ではなかったか」と藤尾准教授。

 寒冷化と渡来人上陸という変化の中で、縄文人は新しい文化をゆっくり受け入れ、渡来人との混血も進んだようだ。(牛島要平)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 稲作の始まり(2) 縄文期に「熱帯ジャポニカ」

2008.03.10 MSN産経新聞

 ≪起源は長江流域≫

 稲作を日本列島に伝えたのはだれだったか。

 1973(昭和48)年から翌年にかけて、中国の長江(揚子江)下流域にある河姆渡(かぼと)遺跡の発掘調査が行われ、約7000〜6000年前の地層から、大量のイネや獣骨製の鋤(すき)先などが見つかった。

 稲作の起源は当時、インド・アッサム地方〜中国・雲南省の山岳地帯と想定されていた。その後、長江中流域の遺跡からも約9000〜8000年前の籾殻(もみがら)などが出土し、稲作の発祥地が長江中・下流域にあることが確定的になった。

 稲作が始まった具体的な時期については、専門家の間でも意見が分かれる。「長江中流域で8000年以上前から稲作農耕社会が出現していたことは間違いない」と話すのは安田喜憲・国際日本文化研究センター教授。「約1万5000年前の長江中流域では、急激な温暖化により広大な湿地草原が広がり、野生のイネが繁殖する環境が整った。実を多くつける野生イネを人が見つけ、栽培することで農耕革命が起こった」

 ≪寒冷化が発端?≫

 稲作の痕跡が相次いで見つかったことで、長江流域には約3000年前まで、稲作を中心とする「長江文明」があったとする見方もある。畑作中心の黄河文明とは別の文明が存在したことになる。安田教授は「遺跡から出土する木材などから、長江文明の担い手は苗(ミャオ)族など現在は中国南西部にいる少数民族だった可能性が高い」と話す。

 安田教授によると、4200年前にあった大きな気候変動による寒冷化と干魃(かんばつ)で黄河文明は危機に直面し、南の暖かい地域への大移動が始まった。「金属器と馬を伴った集団の侵入で長江文明は圧倒され、人々はさらに南西の山岳部に逃げ込んだ。その一部が東シナ海や朝鮮半島に逃れ、日本列島に稲作を伝えた」

 前回考察したように、北部九州への水田稲作伝来は約3000年前もしくは2500年前。土器や青銅器などの共通性から朝鮮半島ルートが最も有力だ。

 これに対し、「ルートが1本に限られる保証はない」とみるのは佐藤洋一郎・総合地球環境学研究所教授。佐藤教授は日本列島、朝鮮半島、中国大陸のイネの在来品種(品種改良前の古い品種)250品種のDNAについて、遺伝情報を伝えない「SSR領域」の塩基配列を調べた。その結果、日本の多くのイネ品種が持つタイプa、bのうち、中国で圧倒的に多いbが朝鮮半島に見られなかった。佐藤教授は「時期は不明だが、bタイプは朝鮮半島を経由せず、長江流域から直接、日本に来た」と指摘する。

 ≪南方ルート≫

 稲作が東シナ海を渡ってきたとする説は、航海の困難さから、広く認められてはいない。しかし、日本では縄文時代から丸木舟が広範囲で使われていた。京都府舞鶴市の浦入(うらにゅう)遺跡からは、約5300年前(縄文前期)の丸木舟が出土。全長が推定8メートルで、出土地点が舞鶴湾に面していることから、外海航行用の丸木舟と考えられている。

 佐藤教授は東シナ海ルートとは別に、縄文時代には稲作の南方ルートが存在したとする立場だ。「南方から舟で長江下流域に寄り、日本に入ってくる集団がいたのではないか」。縄文時代の水田跡が見つからないなど、縄文稲作の考古学的証拠はまだ乏しいのが現状だが、佐藤教授が着目したのは熱帯ジャポニカの存在だ。

 現在の日本のイネは、朝鮮半島〜中国大陸にも広く分布し、水田稲作に適した温帯ジャポニカがほとんど。ところが、弥生時代の遺跡から出土するイネのDNAを分析すると、40%がインドネシアなどに多い陸稲に適した熱帯ジャポニカ。現在の温帯ジャポニカでも熱帯ジャポニカ固有の遺伝子を持つ品種が、台湾〜南西諸島〜九州に分布する。

 「弥生時代の稲作は、必ずしも今のような水田稲作ではなかった」と佐藤教授。「古代以降の文献では、休耕田が多かったことが分かる。水田を維持するためには肥料をやり、雑草を除去するなど大変な労力が必要。土地がやせてきた田んぼは放棄し、別の土地を切りひらく焼畑的な稲作の方が安定した収穫を得られた」

 では、熱帯ジャポニカはいつ、日本列島に入ったのか。佐藤教授は「縄文時代に熱帯ジャポニカが入り、河川敷や湖畔の湿地で他の雑穀と混作されていた。縄文と弥生の稲作に大きな断絶はなかった」と見る。

 縄文稲作の根拠の一つが、現在の日本にある温帯ジャポニカの遺伝子に多様性が乏しいことだ。イネDNAのSSR領域のタイプaからhまでの8種類が知られているが、日本の品種のほとんどがaかbに限られている。佐藤教授は「水田稲作が伝来した時から、aとbの2タイプしかなかった。ごく少数の温帯ジャポニカが増殖を繰り返した。イネを携えた渡来人の数もそれほど多くなかったのではないか」と分析する。

 熱帯ジャポニカの存在は、「縄文語」の回で紹介した「雲南地方を故郷とするオーストロネシア語族が縄文後期に西日本に渡来した」とする説とも符合する。早くからイネの情報を入手し、栽培していた縄文人が、温帯ジャポニカと潅漑(かんがい)技術を持った渡来人と出会い、水田を少しずつ列島に広めていったのかもしれない。(牛島要平)


【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 弥生人の出現(1)

2008.04.07 MSN産経新聞

 ■水稲とともに大陸東部から渡来

 ≪2つのタイプ≫

 顔がひょろ長く、鼻が低いのっぺり顔−。よく知られる弥生人の特徴は、顔が短く幅広で鼻高、彫りの深い縄文人と対照的だ。

 こうした特徴を持つ弥生人の最も古い時期の骨は、福岡、佐賀両県の平野部を中心とした北部九州から山口県、山陰地方にかけて出土する。魏志倭人伝に登場する「邪馬台国」跡との説もある佐賀県の吉野ケ里遺跡や三津永田遺跡(いずれも吉野ケ里町)、響灘に面した山口県の土井ケ浜遺跡(下関市)が有名だ。

 平均身長は男性で162〜164センチ、女性で150〜152センチ。縄文時代の列島人から男性で5センチ前後、女性は約3センチ伸び、戦前までの各時代の日本人の中で最も高身長だった。一方で、前腕部(ひじ〜手首)や脛などの四肢末端が縄文人よりも短くなり、その後の日本人の胴長短足傾向は彼らの体型を引き継いでいると考えられる。

 一方、同じ北部九州でも西寄りの長崎県や熊本県の海浜・離島部の弥生遺跡からは、「のっぺり・高身長」の典型的弥生人とは全く異なるタイプの人骨が見つかっている。彼らは短顔で鼻が高く、男性の平均身長は約158センチ、女性は約148センチ。四肢の末端は典型的弥生人と比べると長い。

 ≪水稲農耕発祥の地≫

 前者の典型的弥生人は「北部九州・山口タイプ」、後者の弥生人は「西北九州タイプ」と呼ばれる。西北九州型弥生人の特徴は、縄文人と一致していることから、縄文時代からこれらの地に居住していた集団の子孫と考えられている。

 では、北部九州・山口型弥生人のルーツは「誰」だったのだろうか。

 弥生時代は、大陸からの水稲農耕伝来で幕を開けた。国内で最も古い時期の水田跡も、典型的弥生人の骨が見つかる北部九州から集中的に出土する。板付遺跡(福岡市博多区)や菜畑遺跡(佐賀県唐津市)などだ。

 これらの水田跡は、紀元前4〜3世紀ごろのものと長く考えられてきた。しかし、国立歴史民俗博物館が平成15年、出土した弥生時代早期から前期にかけての土器の付着炭化物をAMS−炭素14年代測定法で鑑定した結果、400〜500年早い時期のものだったと発表。その後の鑑定で紀元前10世紀後半頃までさかのぼり、この年代を弥生時代の開始とする説が有力になりつつある。

 これまでのところ、これら最古レベルの水田跡では人骨は出土していない。北部九州・山口型弥生人の人骨が見つかり始める年代とは500年間の開きがあるが、地域的にみれば、北部九州・山口型弥生人が水田稲作を最初に営んだ人々の有力候補ではある。

≪源郷を望む≫

 土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸館長は1990年代、中国・山東半島(山東省臨●、両醇)で見つかった「前漢」と「周」代末(戦国時代)の人骨300体以上を調査。顔長で鼻が低い北部九州・山口型弥生人と同じ特徴を持つ頭骨が多く、彫りの深い縄文人的特徴を持つ人骨は皆無だった。全身が残る標本は少なかったが、平均身長は男性約164センチ、女性が約151センチで、やはり北部九州・山口型弥生人に近かった。「ヒラメ筋」と呼ばれる筋肉がつく脛骨部の線が突出している特徴も一致していた。

 松下館長は「山東省だけでなく、水稲起源地の有力候補である中国・江南エリアの春秋・戦国時代の人骨も、北部九州・山口型弥生人と顔立ちや特徴が一致するという報告もある。日本でいう縄文末期から弥生時代に中国東部にいた人々は、北部九州・山口型弥生人と同じ形質だったと考えられる。中国東部のいずれかにいた人々が、水稲文化と共に九州北部に渡来したことは間違いない」と話す。

 集団埋葬地跡である土井ケ浜遺跡から見つかった遺骨は300体を超す。埋葬時期は紀元前100年から約200年間にわたるが、すべてが響灘から大陸を望む西方に顔を向けて埋葬されている。松下館長は、祖先の源郷を代々心に刻み続けていた証だとみている。(小島新一)●=さんずいに輜のつくり

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 弥生人の出現(2)

2008.04.21 MSN産経新聞

 ■水稲の受容解明の鍵は渡来時期

 ≪空白の500年≫

 縄文人とは大きく異なった「面長(高顔)・高身長」という特徴を持つ北部九州・山口型弥生人。同じ特徴を持つ同時期の古人骨が中国・山東省や江南地方から見つかり、大陸から水稲農耕とともに渡来してきた集団と考えられることは前回紹介した。では、渡来系弥生人とも呼ばれるこの集団はいつ、列島にやってきたのだろうか。

 縄文人が狩猟採集で生活していたのに対し、渡来系弥生人は水稲農耕を営む人々だった。水稲農耕を最初に列島に持ち込んだのも彼らだったとすれば、渡来開始時期も明らかだが、話はそう単純ではない。

 最も古い渡来系弥生人の人骨が見つかる北部九州の遺跡は弥生時代前期末(紀元前4世紀ごろ)以降のものに限られ、水稲農耕が始まった時期(紀元前10世紀後半)からは500年近くも遅い。板付遺跡(福岡市博多区)や菜畑遺跡(佐賀県唐津市)など最古の水田跡をもつ遺跡からは人骨は出土しておらず、そこで稲作を営んだ人々の実像は謎だ。

 水稲農耕開始とほぼ同時期の人骨は、九州では、新町遺跡(福岡県志摩町)と大友遺跡(佐賀県唐津市呼子町)などから出土している。弥生時代の西北九州には、在来の縄文集団の子孫と考えられる「短(低)顔・低身長」の人々がいた。両遺跡のこの時期の人骨も、やはり縄文的特徴を持っている。しかし、彼らが葬られていたのが、「支石墓」という、当時の朝鮮半島で多く見られる形式の墓だったため、謎はさらに深まる。

 ≪移住が可能にした水稲農耕≫

 板付、菜畑両遺跡からは、朝鮮半島で見つかるのと同じ農工具が出土していて、水稲農耕の技術は直接的には半島から伝わったことは確実視されている。新町、大友両遺跡では、当時の水田跡は見つかっていないが、「支石墓」という半島由来の文化を持った縄文型の人々がいた。そこから推測されるのは、水稲農耕も技術は半島から由来したものの、人の移住はなく、実際に営んだのは縄文的特徴をもった在来集団だったという可能性だ。

 これに対し、「半島から移住してきた集団がいなければ、水稲農耕を始めることは不可能だった」とみるのは、国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎准教授(考古学)。稲作には、農耕の技術だけでなく、季節や天候の観察、祭祀(さいし)など様々な分野の文化が伴う。また、板付や菜畑遺跡など最古レベルの遺跡でも、潅漑(かんがい)施設などその場所に適した水田づくりが行われ、高レベルの技術が展開されていたことが分かるといい、「伝聞や見まねだけで可能なものではなかった」。

 そのうえで「ただ、水田の規模からすると、まだ少数だったはずの渡来系弥生人だけでは人手が足りず、稲作は初期の段階から縄文型の在来集団と協力しながら営まれたと考えられる」と話す。  中橋孝博・九州大教授(人類学)も、人口増加の考察などから、水稲農耕を始めたのは、移住した渡来系弥生人だったと考えている。北部九州の遺跡群から見つかる弥生中期の人骨は5000体を超す。このうち縄文的特徴を持つのは1〜2割で、残りは大陸的特徴の渡来系弥生人のものだった。「北部九州では、弥生初頭から遺跡が急増する。渡来系弥生人ではなく、縄文的特徴を持つ集団が稲作で人口を急増させたとすると、弥生中期に渡来系弥生人がこれだけの割合を占める説明がつかない」

 ≪半島との地域圏≫

 一方、古人骨や現代人のミトコンドリア(mt)DNAの型を分析して日本人のルーツを探究している篠田謙一・国立科学博物館研究主幹は「現代の朝鮮半島には、縄文人と同じmtDNAの型を持つ人々がいる。縄文〜弥生という古い時代から、半島に縄文人型のmtDNAを持つ人々がいたと考えるのが自然で、彼らが渡来して支石墓に葬られた可能性はある」と話す。

 縄文時代の同じ釣り針が北部九州と半島南部で見つかっていて、両地域に交流があったことは考古学的には確実視されていて、「縄文から弥生初頭にかけては北部九州と半島南部には同じ集団がいて、1つの地域圏を形成していたとすら考えられる」と篠田主幹。

 だとすれば、弥生時代初頭に、縄文人と同じDNAを持ち、同じ姿形をした半島人が渡来していて、彼らが水稲農耕を持ち込んだ可能性も否定できない。

 渡来系弥生人が最初に列島にやってきたのはいつだったのか、現時点では明確ではない。しかしそれは、水稲農耕の拡散を伴った渡来系弥生人と在来縄文型の人々の接触の状況を解明し、日本民族がどのように形成されたかを考える重要な要素だ。(小島新一)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 弥生人の出現(3)

2008.04.28 MSN産経新聞

 ■金属器伝来の背景に漢民族

 ≪水稲と異なる流入期≫

 弥生時代には、水田稲作以外に、金属器(青銅器と鉄器)の使用開始という大きな文化の変革があった。金属器はいつ、どこから日本列島に伝わったのだろうか。

 これまでは「金属器は水田稲作と同時に大陸からもたらされた」と考えられてきた。しかし平成15年、国立歴史民俗博物館がAMS−炭素14年代測定法により「稲作伝来による弥生時代の始まりは、従来の通説より約500年早い紀元前10世紀にさかのぼる」と発表し、金属器の研究にも大きな波紋を広げた。

 新しい年代では、列島での青銅器出現は弥生前期初頭(紀元前8世紀ごろ)、墓に青銅器が副葬され始めるのは中期初頭(紀元前4世紀ごろ)。

 同博物館の年代観は弥生の始まりに大幅な見直しを迫るだけに、考古学界では異論も根強い。東北アジアの遺跡を研究してきた大貫静夫・東大大学院教授も衝撃を受けた一人だ。しかし、大貫教授は「金属器の列島への流入年代は、水田稲作の伝来時期までさかのぼらない。水田稲作を伝えた渡来人は、金属器を携えていなかった」と認める。

 ≪遼東半島周辺の銅剣≫

 福岡市の吉武高木遺跡では、王墓とみられる木棺墓に銅剣、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)、銅鏡がそろって副葬されていた。年代は弥生前期末〜中期初頭(紀元前4世紀)で、青銅器の副葬墓としては最古級。

 このうち銅剣は、九州でそれ以前からわずかに出土している「遼寧式銅剣」が変形した「細形銅剣」と呼ばれるものだった。

 遼寧式銅剣は、両側にとげのような突起があるなど独特の形状の銅剣。小林青樹・国学院大栃木短大准教授は「紀元前11世紀ごろ、遼東地域(遼河の東側)で出現し、遼西地域(遼河の西側)にも広まった。朝鮮半島に伝わって剣への崇拝信仰が盛んになり、祭祀(さいし)性を強めた」と分析する。半島経由で列島に伝来したのだろう。

 銅矛は遼東〜朝鮮半島に集中し、遼西にはほとんど分布しない。

 一方、日本で見つかる銅戈のルーツは三角形の「遼西式銅戈」と呼ばれ、「中原(ちゅうげん)(黄河流域)」にいた漢民族の影響を受けつつも、遼西の独自色も濃い。小林准教授は「紀元前6世紀前半ごろの遼西が起源。遼寧式銅剣を元に、中原系の銅戈の特徴を受け継いで作られ、朝鮮半島で細長い形に変わった」とみる。

 日本で最初にみられる銅鏡は、ひも通しの穴が2つある「多鈕鏡(たちゅうきょう)」で、「北方遊牧民系のボタン状銅製品が、中原の銅鏡と融合して生まれたもの」という。

 ≪「燕」の勢力の拡大≫

 遼河流域で発展した青銅器文化は、銅鐸(どうたく)の起源となった銅鈴(どうれい)と合わせて朝鮮半島に伝わり、遅くとも紀元前4世紀前半には半島南西部で青銅器5種類がそろい、形状的な特徴を保ったまま北部九州にもたらされる。

 小林准教授は「半島で5種類がそろってから、あまり時間をおかずに九州に入っている。日本列島への青銅器伝来には、遼河流域の集団が深くかかわっている可能性がある」と分析する。

 一方、大貫教授は、列島に青銅器が本格的に入る時期が、中国の戦国時代にあたることに着目。「現在の北京一帯を本拠にした『燕(えん)』の国が遼東に進出し、漢民族が遼東にどっと流入するのは、紀元前4世紀中ごろの可能性がある。鉄もこの時期に日本列島にもたらされた。それまでの遼寧式銅剣の集団は鉄をもたなかった」

 同博物館は、弥生早期・前期の鉄器とされていた日本各地の出土品の発見状況や形態を再検討。その結果、確かな鉄器の出現年代は燕が勢力を拡大した紀元前4世紀(弥生中期初め)まで下り、燕で鋳造された鉄斧(てっぷ)の破片を再加工したものであることが分かった。

 遼河流域と中原という2つの地域を起源とする金属器がほぼ同時に列島に伝来したとすれば、遼東に進出した中原の漢民族かその影響を受けた半島の集団が携えて渡来してきた可能性がある。水田稲作だけでなく、金属器を伝えた集団の実像解明が、渡来系弥生人の故郷を知る鍵になりそうだ。(牛島要平)

【試行私考 日本人解剖】第3章ルーツ 弥生人の出現(4)

2008.05.05 MSN産経新聞

 ■複数のDNA型…起源も複数

 ≪独自のmtDNA≫

 集団の由来や成立経緯の人類学的解明に欠かせない遺伝子解析。中でもミトコンドリア(mt)は、世界中の現代人のデータ蓄積が進み、古人骨からの抽出技術の進歩で古代人の遺伝子型を直接知ることができるツールとして、遺伝子による集団研究の中核を担っている。

 縄文人骨の解析が行われていることはすでに紹介したが、弥生人骨でもmtDNAの解析は進められている。弥生人のうち、高身長でのっぺり顔という形態的特徴の渡来系(北部九州・山口型)については、福岡県の安徳台、隈・西小田、佐賀県の花浦、託田西分、奈良県の唐古・鍵の各遺跡から出土した78個体分の骨からmtDNAの情報が得られている。

 表は福岡、奈良両県の弥生人骨のmtDNAを分析した国立科学博物館人類研究部の篠田謙一・研究主幹がその5遺跡すべてのデータをまとめ、関東縄文人、現代の本土日本人とmtDNAの割合を比較したもの。

 それによれば、渡来系弥生人のハプログループ(型)では、関東縄文人の骨のmtDNAにはなかった「N9a」「Z」というハプログループがみられる。N9aやZは、東北や北海道の縄文人の骨からも見つかっていない。表に記載はないが、「M8」のサブグループの「C」という弥生人独自のハプログループもみつかっている。「D」「G」型を持つ人の構成比(頻度)が、関東縄文人や現代人と比べて高いのも特徴的だ。

 ≪基層集団の型はなし≫

 篠田主幹によれば、ハプログループのN9aは、現代人では東アジアに広く分布するものの、中国大陸南部や台湾の先住民に比較的多くみられるため、この一帯を起源とする可能性もある。

 ハプログループZは、北極海に面した地域の先住民を含め、極東アジアからフィンランドに至る広範囲の現代人からみつかっている。ハプログループ内の配列の変異などから、東アジアから中央アジアにかけてのいずれかの地域が起源と考えられている。

 ハプログループCは、現代人では中央アジアから北米にまで分布。中央アジアの草原地帯に派生起源があると考えられるという。

 渡来系弥生人のもう一つの特徴は、東北や北海道縄文人の多数を占めたハプログループの「M7a」と「N9b」がみられないことだ。M7aは大陸南部から東シナ海周辺、N9bは大陸北方をそれぞれ起源とする集団のタイプとされる。

 この2つのハプログループを現代日本人でみると、M7aが沖縄で多数を占めるのをはじめ、列島の南や北に行くほど頻度が高くなる。弥生時代に列島に渡来してきた集団の勢力拡大が及びにくかった「周辺部」に残ったことを示していて、後期旧石器時代の終わりから縄文時代初頭に列島に住み始めた基層集団の型と考えられている(連載「DNAでみる縄文人」(2)・(3)参照)。渡来系弥生人にこの2つの型がみられないことは、その証左だろう。

 ≪中国・江南の古人骨≫

 篠田主幹によれば、ハプログループDは東アジア全体に分布。全体に占める人口割合も最大で、起源地は特定しにくいが、Dとの判別が難しいハプログループGは、東アジアの中でも特に北方に多いのが特徴。列島には、朝鮮半島経由で入ってきた集団と考えられるという。

 このほか、篠田主幹が水稲農耕の起源地域の候補として有力な中国・江南地方の春秋時代の古人骨のmtDNAを分析したところ、隈・西小田遺跡の弥生人骨と一致する珍しい塩基配列の型もみつかっている。

 これまでみてきたように、渡来系弥生人の中でも、水稲農耕が始まった時代の人々と、その後青銅器や鉄器をもたらした人々の集団の起源は、大陸の内部で異なっていた可能性が強い。渡来系弥生人に、大陸を起源とする複数の独自のmtDNA型がみられるのは、それを裏付けているとも考えられる。

 ただ、mtDNAは母親の型のみが子に伝えられるため、渡来系弥生人が男性中心の集団だったとすれば、その子孫の弥生人骨にみられるmtDNAも在来の縄文人女性の型ということになる。mtDNAが解析された縄文人骨が関東以北で、弥生人骨が北部九州中心であることを考えると、ハプログループの頻度の違いは、「縄文人の地域差に過ぎない可能性も否定できない」(篠田主幹)。

 日本民族の成り立ちに関する定説「二重構造論」によれば、渡来系弥生人が在来の縄文人と混血しながら勢力を拡大して形成されたのが、現代日本人につながる列島人。では、弥生人と縄文人はどのように接し、混血したのだろうか。mtDNAの解釈の鍵でもある、この問題を次回からみていきたい。(小島新一)

【試行私考 日本人解剖】第3章ルーツ 民族の形成(1)

2008.5.12 MSN産経新聞

 ■信仰、社会の違い超え「弥生化」

 ≪縄文の壁≫

 渡来系弥生人と在来の縄文人はどのように接触したのだろうか。まず、日本列島での水田稲作の伝わり方から探ってみたい。

 国立歴史民俗博物館が実施したAMS−炭素14年代測定法による調査では、水田稲作が最初に北部九州に伝えられたのは紀元前10世紀後半。その後、南関東に広まるまでに700〜800年の年月を要した。この「過渡期」に、新しい文化を持つ渡来系弥生人と伝統的な文化を守る縄文人という、異質な集団が同じ地域で並存していた。

 四国・高知平野の紀元前800年ごろの田村遺跡(高知県南国市)では、縄文の祭りを行わない集団が突然現れ、水田稲作を開始。一方で、約25キロ西に位置する縄文以来の伝統的集落の居徳遺跡(同県土佐市)では、田村遺跡にわずかに遅れて水田稲作を始めたものの、土器には縄文の色彩を強く残していた。

 小林青樹・国学院大栃木短大准教授は「在来縄文系集団が信仰や社会の違いを克服して“弥生人”になるためには相当の決心が必要だった。水田稲作が広まる過程には、精神や社会のあり方の面で目に見えない『縄文の壁』があった」と分析する。

 ≪受け継がれた祭祀≫

 「縄文の壁」は弥生化の“障害”になったと同時に、新しい文化を消化して受け入れる時間を縄文人に与えたのかもしれない。

 弥生文化は紀元前700年ごろ中四国全域に広まり、紀元前600年に大阪平野に到達する。

 近畿で最古級の本格的弥生集落跡の田井中遺跡(大阪府八尾市)では、縄文系の「長原式土器」主体の居住区と、弥生系の「遠賀川(おんががわ)系土器」主体の居住区が出土。近畿ではこのような縄文文化と渡来系弥生文化の共存状態がこの年代から約100年間続いたとみられる。

 しかも同遺跡では、縄文の祭祀(さいし)に使われたといわれる石棒(せきぼう)と土偶が、双方の居住区から見つかっている。大阪府文化財センター京阪調査事務所の秋山浩三・調査第二係長は「縄文系、弥生系どちらの集落でも石棒や土偶を所有し、共通の祭祀を行っていたことから、両者の関係は良好だったようだ」と話す。

 この「縄文の壁」の時代をすぎると、近畿地方に銅鐸(どうたく)文化が到来する。弥生中期(紀元前300年ごろ)から出土する銅鐸の分布圏は近畿をはさんで東四国から東海地方に広がり、縄文晩期後半〜弥生前期初頭(紀元前800年ごろ)の石棒の分布圏と一致することが近年分かってきた。難波洋三・奈良文化財研究所考古第一研究室長は「最古段階の様式の銅鐸が分布圏の周辺からも出ている。銅鐸文化は中心から周辺へと徐々に浸透したのではなく、銅鐸出現前から存在した何らかの地域的まとまりを引き継ぐ形で広まったのだろう」と語る。

 弥生早期〜前期に九州などでみられる磨製石剣が朝鮮半島の影響が強いのに対し、石棒は在来縄文系集団に特有だ。小林准教授は「銅鐸も祭祀に使われ、『(銅剣文化圏の)九州とは違う』という近畿中心の文化圏のシンボルだった。石棒と分布圏が一致し、銅鐸には縄文系の模様も付けられていることから、縄文祭祀が受け継がれた可能性は高い」と解釈する。近畿では、縄文系集団が主体的に「縄文の壁」を乗り越えて弥生化したのかもしれない。

 ≪移民が与えた衝撃≫

 近畿一円に広まった水田稲作は、紀元前400年ごろに尾張平野まで達して「縄文の壁」に突き当たる。このころの日本列島は、西日本の弥生文化と東日本の縄文文化に二分される。

 小林准教授は弥生前期末(紀元前400年ごろ)から東北南部〜東海・長野県域に分布した「再葬墓」に着目する。再葬墓とは、遺体をいったん埋葬し白骨化した後に壼などに納めたもの。「縄文後半の骨を焼く風習が起源。小規模な集団で分散して生活していた人々が、骨壼を持ち寄り共通の祖先のもとに集まっていた。この時期も、関東の集団は縄文祭祀を色濃く受け継いでいた」

 東海〜甲信に水田がつくられ始めるのは紀元前300〜200年ごろで、同じ時期に南関東の中里遺跡(神奈川県小田原市)に本格的な水田稲作の集落が出現。水田稲作はまもなく、利根川のラインまで達するが、弥生時代の間は利根川を越えない。

 再葬墓は、中里遺跡の出現以降に急速に姿を消す。同遺跡はそれまでの関東にない大規模な環濠(かんごう)集落で、この地域の弥生化が劇的に始まったことをうかがわせる。さらに、瀬戸内東部で作られたと推定される弥生土器の破片が出土。発掘にあたった玉川文化財研究所は「土器70〜80個分に相当し、瀬戸内の集団が移住して持ち込んだ」と話す。

 関東では、縄文系集団が西からの圧力で強制的に弥生化させられたのだろうか。弥生文化への移行は地域により多様だった。(牛島要平)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 民族の形成(2)

2008.5.19 MSN産経新聞

 ■縄文人と弥生人、時に協力、時に対立

 ≪技術交換≫

 日本列島の各地で「縄文の壁」を乗り越えながら進んだ弥生化。水稲農耕を取り入れた地方ごとの「弥生」の始まりは、年表のようになる。

 表中に示したのは、各地方の縄文晩期と水稲農耕が始まった時期に使われていた土器や、水田農耕とともに北部九州から西日本一帯に広まった弥生土器である「遠賀川系」の名称。年代は、これらの土器の付着物などを国立歴史民俗博物館がAMS−炭素14年代測定を行った結果に基づいており、従来の年代よりもおおむね早くなっている。

 年表から読みとれるように、近畿地方では縄文晩期の土器を使う縄文人系の集落と遠賀川系弥生土器を使う渡来系弥生人の集落が100〜150年間併存していたことは前回紹介した。同様の状況がみられる瀬戸内地方ではどうか。弥生時代前期の集落跡と水田跡が近接して発見された岡山市の津島遺跡の周辺には、やや北側に津島岡大、旭川を挟んで東方約4キロの地点には百間川沢田という縄文晩期の2つの集落跡がある。3つの遺跡は同時に存在していた。

 津島遺跡からみつかる遠賀川系土器と、2つの縄文遺跡から出土する「突帯文土器」という縄文晩期の土器を精査した小林青樹・国学院大栃木短大准教授によれば、津島集落が出現したのと同時期の津島岡大遺跡の突帯文土器は、大半が色の暗い褐色だが、明るい茶褐色のものが幾つかあった。これらの製法は弥生土器と同じとみられるという。一方、津島遺跡の遠賀川系土器には、縄文系の技術が盛り込まれていた。「それぞれのムラ(集落)の土器製作者の交流があったようだ。ムラの領域も一部重複していて、製作者に限らず住人同士がやりとりする『共生』関係にあった」と小林准教授。

 ≪情報、物資の共有≫

 考古学では、弥生時代の始まりとともに列島に「戦い」が持ち込まれたとする説が広く支持されている。水田稲作伝来から100年余りのちに北部九州に出現して各地に広まった環濠(かんごう)集落や、瀬戸内から大阪湾沿岸各地にみられる高地性集落には外敵から集落を守る色彩が強いためだ。600年後以降は、頭部がなかったり金属製の武器で傷を負ったりした人骨も多数発見される。

 ただ、「戦い」は弥生人集団同士に限られ、渡来系弥生人と在来縄文系集団の間ではほとんど起きなかったと考えるのが一般的。

 国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎准教授は、水稲農耕伝来当初の北部九州では、簡単な農耕も行う狩猟採集民の在来系縄文人が、渡来系弥生人とともに水稲農耕集団を形成したケースがあると考える。福岡市の板付、那珂遺跡の集団で、「渡来系弥生人にとって、在来縄文系の人たちは潅漑(かんがい)施設も備えた大規模な水田の造成・営農の労働力となるほか、獣肉や皮、石木材などの資源や配偶者を確保するためにも必要だった。在来縄文系の人たちにとっては水稲農耕に協力することによって道具やコメを確保でき、双方にメリットがあった」。

 小林准教授は、遠賀川系土器の文様は東北の縄文文様がモデルで、北部九州で渡来系弥生人と東北縄文人が協力してつくったとの説を唱える。「当時の東北縄文人は南西諸島と交易するなど活動範囲が広かった。好奇心も強く、新たな文化を視察しにきていたのではないか」という。当時は気候が寒冷化しており、「新たな食糧源を確保する目的もあったかもしれない」。

 ≪緊張感も≫

 一方で、渡来系弥生人と在来縄文系の人々との間の激しい摩擦を想起させる遺跡もある。

 弥生時代前期(前4世紀)の神戸市新方遺跡では、石の矢じり(石鏃(せきぞく))が射込まれた人骨3体が出土。うち1体には石鏃が17個も刺さっていた。彼らは低身長で在来縄文系だとみられる。石鏃の材料は、当時の渡来系弥生人たちが盛んに使っていた香川産のサヌカイト。在来の縄文系集団と渡来系弥生人集団の間の抗争の犠牲者とみることも可能だ。

 津島遺跡に近いもうひとつの縄文系遺跡、百間川沢田集落の人々にとっても、渡来系弥生人たちは友好関係を結ぶ相手ではなかったようだ。津島ムラの出現時期以降、石鏃の所有数が大量に増加していて、「弥生人の到来を相当な緊張感をもってみていたようだ」と小林准教授。

 藤尾准教授によれば、福岡平野に流れ込む河川の中流域では、下流域の板付、那珂両遺跡などより200年程度遅れて在来縄文人が農耕民化した四箇遺跡(福岡市)のようなケースがある。その背景にも、水稲農耕で人口が増加してテリトリーを拡大しつつあった下流集団と緊張関係にあったことが指摘されるという。

 時には対立もしながら在来縄文系集団と協力し、列島に広がっていった渡来系弥生人集団。両者の関係をさらにみていきたい。(小島新一)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 民族の形成(3) 少数渡来でも300年で多数集団に

2008.5.26 MSN産経新聞

 ≪渡来の規模は≫

 在来縄文系の人々と時に対立しながらも、協力して水稲農耕を営んだとみられる渡来系弥生人たち。しかし、彼らは「戦い」を日本列島に持ち込んだとも考えられている集団だ。列島の先住民たちとの交流は、“好戦的”なイメージにそぐわない。

 渡来集団が在来人と敵対しなかった理由の一つとして挙げられるのが、構成員の少なさだ。「大規模な水田の造成・営農の労働力として在来人は必要だった」(藤尾慎一郎・国立歴史民俗博物館准教授)。

 当時の列島(北海道・南西諸島をのぞく)の人口をみてみよう。表(左上)は、小山修三・国立民族学博物館名誉教授が、住居遺構の数などから推計した縄文〜弥生時代の人口推移と、戸籍残簡などから計算された奈良時代(8世紀)の人口だ(鬼頭宏・上智大教授著『人口で見る日本史』から)。縄文晩期の7万6000人から弥生時代(1800年前)は59万5000人、奈良時代(8世紀)には451万人と、爆発的に増えている。

 この人口爆発について、「二重構造論」を提唱した人類学者の埴原和郎・東大教授(故人)は、「弥生時代以降に100万人規模が大陸から渡来したことが可能にした」と唱えた。しかし、少数渡来説が優勢な考古学者からは、埴原説は支持されなかった。渡来初期の窓口である北部九州の遺跡では、土器の大半は縄文式で弥生土器は全体の1割程度。弥生時代を通しても大陸系の物品が急増して見つかる遺跡はなく、少数集団が数次に分かれて渡来してきたと考えられるためだ。

 ≪渡来系への「置換」≫

 一方で、弥生中期以降の遺跡では、人骨の多くは渡来系の形質で、北部九州では9〜8割を渡来系が占める。土器から想定される初期の在来人と渡来人の人口比率から、そっくり逆転している。

 弥生中期までの期間は、弥生時代の始まりを従来通りの紀元前3世紀とみれば約300年、国立歴史民俗博物館が提唱する前10世紀後半とすれば約700年。渡来した集団が少数だったとして、この期間内に在来人と置き換わるほど多数集団になることができたのだろうか。中橋孝博・九州大教授は、計算シミュレーションで、前者の短い期間であっても「人口置換」が可能だったことを証明した。

 中橋教授はまず、福岡県筑紫野市の埋葬遺跡、隈・西小田遺跡の甕(かめ)棺数から、弥生時代中期前半の人口増加率が年率1%前後という高水準だったことに着目。「検証の地域を広げてみても同様に高い増加率が算出された。この時期に大量渡来があった形跡もなく、自然増だったとみられる」という。

 遺跡の状況からは、中期には人口が過密だったことがみてとれ、それ以前はさらに高い増加率が見込まれる。また、農耕を始めた集団は狩猟採集民より高い人口増加率示すことが世界各地で知られていることから、それらの事例を参考に、最大で3%の増加率を想定。在来人の増加率は、縄文時代を参考に年0.1〜0.3%でシミュレーションした。

 その結果、弥生初頭の在来人に対する渡来人の人口比率が10%なら年1.3%、人口比率0.1%という「超少数渡来」でも年2.9%の増加率で、新たな渡来がなくとも、300年後には渡来人が全体の8割という多数を占めることが可能と分かった。

 ≪女性渡来人の存在≫

 この計算は、在来人と渡来人の人口増加を別個に見ているが、北部九州の弥生初期の遺跡では、渡来系の生活道具は常に在来系のものと混ざり合って出土する。そこで、両者が混血したという「おそらくはより歴史的現実に近い状況」(中橋教授)を想定して計算しても、集落の男性全員が渡来系だったと仮定すれば、「女性のうち在来縄文系が最大で84%を占めても、300年間で渡来系が在来人と置き換わる」と算定された。ただ、在来人女性がそれ以上の割合を占めると、渡来系が多数の集団にはならず、渡来女性の存在は必要だという。

 「弥生人の出現」編で紹介したように、弥生人骨から抽出されたミトコンドリア(mt)DNAには、縄文人骨にはない大陸系の型が見つかっている。mtDNAは母親の型のみが次世代に遺伝するため、男性しか渡来しなかったと仮定すれば、この弥生人骨の独自型も在来女性の型だったことになる。世界の大半の民族集団で土器の作り手は女性であり、初期の遺跡の弥生土器も女性の渡来を示唆していたが、人口推移からみた渡来集団の構成は、弥生人骨独自のmtDNA型が渡来人のものである可能性を強めている。

 弥生時代の人口推移は、形質も遺伝子も在来縄文系集団とは異なった特徴をもつ少数の男女の集団が渡来し、在来人たちと混血しながら増えていったことを物語っている。(小島新一)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 民族の形成(4)

2008.06.02 MSN産経新聞

 ■渡来系急増で縄文的形質薄く

 ≪東に偏った拡散≫

 弥生時代に大陸から日本列島にやってきて、縄文系在来人と混血しながら人口を増やし、全国に拡散したと考えられる渡来系集団。

 図1は、土肥直美・琉球大准教授が田中良之・九州大大学院教授と共同で、渡来系弥生人の遺伝的形質の筑前(福岡市周辺)からの拡散状況を弥生〜古墳時代の人骨で統計的に調べたものだ。各地域の人骨の渡来人的形質の度合を示したのが縦軸。上方ほど「面長」といった渡来人的特徴が色濃くなる。逆に下方ほど渡来系の形質が薄く、縄文的特徴の濃い形質となる。横軸は各地域の人骨が出土した遺跡群までの博多駅(福岡市)からの鉄道距離の平均値を示している。

 土肥准教授によれば、山陰や近畿地方は、豊後(大分地方)や南九州と比べて筑前から遠いわりには渡来系の形質が色濃く、渡来人の遺伝的形質は北部九州から東(本州)へと偏って拡散したことが分かる。「結婚などによって形質が自然に広がったのではなく、集団が移住した可能性が強い」。近畿地方で渡来系の特徴が上昇するのは、もう一つの拡散の中心地だった可能性を示唆しているほか、北部九州以上に渡来的特徴が色濃い古浦(島根県)には、北部九州系とは異なる集団が渡来していたとも考えられるという。

 一方、弥生人が西北九州に向かう海岸ルート(A)や豊後という山間部に向かったルート(B)に比べてカーブの傾斜が緩やかなCは、豊前(福岡〜大分)という平野部を通って東九州を南下するルート。緩やかな傾斜は、広範囲な拡散が行われたことを示し、「渡来人的形質は稲作に適した平野部に向かって広がったと考察される」と土肥准教授。

 ≪弱まる特徴≫

 図1では、渡来系弥生集団やその子孫の古墳時代人の形質が、近畿地方などを除き、大陸からの窓口になった北部九州(筑前)から遠方へと拡散するにつれて渡来人的特徴が弱まる傾向も読み取れる。土肥准教授は「在来縄文系の人たちとの混血が影響していると思われる」と話す。

 ヒトの「姿かたち」という属性は、単一ではなく複数の遺伝子の影響で決まるとされる。こうした遺伝的属性の異なる集団間で混血が起きると、次の世代の属性は、平均すると両集団の中間になると考えられている。集団の規模によって影響度は違ってくるが、第二世代以降の全員に一方の集団の特徴だけが現れたり、一方の特徴がなくなったりすることは考えにくい。

 「兄弟姉妹でも母親似、父親似と分かれるように、実際には縄文的特徴が濃い人もいれば、渡来人的特徴が濃い人もいたと考えられる。ただ全体としてみると、渡来系集団の形質は在来人との混血によって特徴を弱めながら拡散したといえる」と土肥准教授。

 混血第二世代以降の形質には、縄文的特徴も影響していたわけだ。

 ≪影響度の低下≫

 現在の人類学では、渡来系集団が縄文系集団と混血しながら人口を増やしたという弥生時代の集団構造が、現代日本人に連なる民族形成の土台となったと考えられている。

 図2は、百々幸雄・北海道文教大教授が、頭骨の「形態小変異」22項目に基づいて、各時代の列島集団(一部は大陸集団)の遺伝的な類縁関係を調べたもの。形態小変異は体の機能には影響のない微細な形態の変異で、頭骨に無数にある。人骨の形質は遺伝だけではなく環境にも左右されるが、形態小変異は遺伝的影響が強い。

 それによると、すべての集団が、縄文人的な形質が色濃い北海道アイヌを含めた縄文グループと、渡来系弥生人(土井ケ浜弥生人・金隈弥生人)を含むグループに大別される。弥生時代から現代までのすべての時代の日本人が、後者のグループに属すことから、「渡来人、特に金隈遺跡(福岡市博多区)など北部九州の渡来系弥生人はその後の日本人と強い遺伝的類縁関係にあり、現代人の祖先集団の中心だったとみられる」と百々教授。

 ではなぜ、渡来人との混血で後の世代の形質に影響を与えたはずの縄文集団がほかの集団とかけ離れたのだろうか。百々教授は「在来人と渡来人の人口増加率の違いが大きく影響した」と考えている。

 前回みたように、弥生中期までの渡来系集団の人口増加率は年1〜3%と推定され、縄文人の10倍。弥生時代の縄文系集団が水稲農耕を営んで栄養事情が改善されたとしても、「慣習や文化的要因もあって、寿命や人口増加率が飛躍的に伸びたとは考えにくい」(中橋孝博・九州大大学院教授)。このため、「渡来系の特徴を強くもつ人口が一気に増えて縄文集団の遺伝的影響がほとんどなくなり、その後の集団の形質と大きく異なってしまったのだろう」と百々教授。形質でみると、縄文人は、渡来系弥生人と比べて「はるかに遠い」祖先なのだ。(小島新一)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 民族の形成(5)

2008.06.16 MSN産経新聞

 ≪もうひとつの渡来≫

 弥生時代以降、列島人を「面長で平坦(のっぺり)顔」「高身長」という形質に変えていった渡来系集団。地域や時代の範囲を広げ、渡来系集団の拡散状況をみていきたい。

 図1は、松村博文・札幌医大准教授が、弥生時代中期(紀元前4〜1世紀)の各地の人骨を、歯の形態によって渡来系と在来縄文系とに判別した結果を示したもの。北部九州〜山口県に渡来した弥生人が、この時代には東海地方から関東西部の太平洋側地域、中部地方(長野県)にまで居住域を広げていたことが分かる。水田跡や土器、金属器などの出土物から推定される「弥生化」の進行状況(「民族の形成(1)」参照)とおおむね一致する。

 意外な結果が出たのは北海道。北海道は縄文的な生活形態や文化が7世紀ごろまで続き、渡来系集団の移住はなかったとされる。ところが、豊浦町の礼文華貝塚と泊村(積丹半島)の茶津(4号)洞穴からみつかった人骨の歯を鑑定したところ、渡来系と分かった。

 松村准教授は「礼文華貝塚人は頭骨からも渡来系弥生人とみられる。茶津洞穴人の歯の特徴も渡来系弥生人よりも、その後北海道に渡来してきたオホーツク文化人に近く、ほぼ一致する。オホーツク文化人の渡来時期は5〜10世紀とされてきたが、弥生期にまでさかのぼって交易などで北海道にきていた可能性もある」と推測する。

 オホーツク文化は、3〜13世紀に北海道北部から樺太(サハリン)、千島列島のオホーツク海沿岸で栄えた。それを担った人々のルーツは、大陸のシベリアからアムール川流域とされている。当時の列島には、中国・朝鮮半島からの渡来系弥生人とは別に、大陸北東域からきた渡来人もいたことになる。

 ≪「歯」も渡来系が席巻≫

 図2は、古墳時代(3世紀半ば〜7世紀末)の人骨の歯で地方別に渡来系と縄文系の割合を調べたもの。社会・文化の「弥生化」が西日本よりも500年以上遅れたとされる関東地方だが、この時代には渡来系集団がかなりの影響力を持ったことを示している。

 前回みたように、渡来人の頭骨の形質は在来縄文系の人たちとの混血により、その特徴を薄めていった。歯も同様で、「関東以西では古墳時代までに渡来系と在来縄文系の混血が相当程度進み、一人ひとりの歯の形質を純粋な渡来系、あるいは縄文系と判別するのは不可能。あくまでもどちらに近いかを判断したまで」と松村准教授。

 図3は、各時代の人骨の歯の大きさの組み合わせ(プロポーション)を折れ線で示したもの。縄文人と縄文的特徴を色濃く残した北海道アイヌの両集団は、他の時代の集団より全体的に歯が小さく、特に犬歯や小臼歯、第二臼歯の小ささが際だっている。一方、弥生以降の集団のプロポーションを示す折れ線はいずれも、渡来系弥生人である北部九州弥生人と相似形を描く。前回みた頭骨の形態小変異の出現パターンと同様に、弥生以降の列島人の歯の形質に渡来人の特徴が大きく影響していることを示している。

 図の折れ線は、各時代の集団の平均的なプロポーションを示したもの。混血が進んだ時代のヒトでも、犬歯や小臼歯、第二臼歯が他の歯と比べて小さいという特徴があれば、縄文系の要素をある程度受け継いでいると判断されるという。

 ≪近世まで拡散続いた関東≫

 関東地方の人骨を時代ごとに判別した結果を示した図4をみると、古墳時代の渡来系と縄文系の割合は現代とほぼ同じだったことが分かる。ただ、松村准教授によれば、鑑定した人骨は墓の形態から渡来系集団である支配階級に属する人々のものが大半とみられ、渡来系の割合が実際より高い可能性もあるという。

 鎌倉時代や室町時代に渡来系の割合が低下していることについては、「縄文系の特徴を残した関東周辺や東北地方の地主クラスの土着の人々が都市に流れ込んだ結果ではないか。新田義貞の鎌倉攻め(1333年)で武士が集まってきた影響かもしれない」とみる。

 関東地方では、その後渡来系の割合が約10ポイント高まる。「渡来系の拡散は近世まで続き、江戸時代に現代とほぼ同じ構成になったのではないか」と松村准教授。

 弥生時代に列島にきた弥生人をルーツとする渡来系の遺伝的形態の拡散と縄文系との混血が、時代を超えて日本民族を形作ってきたことが分かる。(小島新一)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 民族の形成(6) 「現代人」は渡来7対縄文3

2008.06.23 MSN産経新聞

 前回、関東地方の人々で縄文〜現代までの形質変化をみた。他の地方ではどうだったのだろうか。

 北海道文教大の百々幸雄教授は今年、北部九州と関東、東北人の時代による変化を調査した結果をまとめた。比較したのは、頭骨の形態小変異のパターンだ。

 図1は、各地方の古墳・江戸両時代の集団について、形態小変異のパターンが東日本の縄文人とどの程度異なるのかを統計的にみたもの。縄文的特徴が色濃いとされる現代の北海道アイヌも比較の対象に加えた。比較に用いたのは、縄文人と弥生時代以降の本土日本人の差が顕著に示される6つの部位(項目)の形態小変異の出現頻度。グラフの棒が長い集団ほど縄文人と形態小変異のパターンが異なる度合いが大きく、渡来系の遺伝的影響が色濃いことを示している。

 それによると、古墳時代の集団は、東北、関東、北部九州の順に東日本縄文人との異なりが大きくなる。弥生時代に大陸からやってきた渡来人やその子孫集団が、最初に住み着いて人口を増やした北部九州から東へと拡散していった様子が分かる。

 前回みた松村博文・札幌医大准教授の歯の研究では、古墳時代の東北集団は分析対象が13体(渡来系が11体、2体が縄文系)と少なかったが、近年に出土例が増え、百々教授の研究では宮城、福島両県の遺跡の32体を調査。南東北地方には、この時代に渡来系の影響が及んでいたことがほぼ確実になった。渡来系が優勢だった西日本起源の古墳の北限が宮城県北部〜山形県北部のラインであることは「アイヌと縄文人」で紹介したが、古墳は渡来系集団の移住とともにこの地に広まったようだ。

 東北地方には、飛鳥、奈良時代から平安時代中ころにかけて、朝廷の支配権外にあった「蝦夷(えみし)」がいた。彼らをめぐっては、「和人」なのか「アイヌの先祖と同集団」なのかという論争が続いてきた。

 残念ながら、彼らの中心的居住域だった北部東北地方からは古墳時代の人骨が見つかっておらず、今回の百々教授の調査対象にも含まれていない。しかし、百々教授は、古墳時代の南部東北集団が関東や九州の集団と比べ縄文系(アイヌ含む)集団に遺伝的に相当程度近く、江戸時代も北部東北集団は関東集団より縄文系に近いという分析結果から、次のように推測する。

 「渡来系遺伝子が『西から東へ』と拡散したこと、奈良時代以降の関東などからの人々の移住を経た江戸時代でも北部東北集団が縄文系に近いことを考えると、蝦夷である古代北部東北集団は縄文系遺伝子がかなり優勢だったはず。その後稲作などを取り入れたことで本土日本人社会の一員となり、アイヌ民族となる道は歩まなかった」

 渡来人やその遺伝的影響を受けた集団を和人、アイヌの先祖を在来縄文系集団と考えると、蝦夷の系統論争に影響を与えそうだ。

 ≪拡散の「完成」≫

 現代になると、東北地方の集団の形態小変異のパターンは関東や九州とほぼ同じになる。「在来縄文系と混血しながらの渡来系遺伝子の拡散は、本土では明治以降に完成して本土人がほぼ均一化した」と百々教授。

 松村准教授が現代関東人の歯を分析したところ、分析対象者数の75%が渡来系、25%が縄文系だった。「混血が進んだ現代では遺伝的に純粋な縄文系や渡来系という日本人はいない。個体の比率が混血率を示すとはいえないが、ある程度反映していると考えると、現代本土人は弥生系の遺伝子をおおむね7〜8割、縄文系の遺伝子を2〜3割もっていると考えられる」と松村准教授。

 ところで図2では、九州、関東、東北の現代人集団のいずれもが、それぞれの地方の江戸時代の集団よりも縄文系集団に遺伝的に近づいていることに気付く(北部九州の江戸時代集団は関東の江戸時代集団より縄文系から遠い)。

 現代人の歯をみると、プロポーション(大きさの組み合わせ)は弥生以降の集団と相似し、渡来系が優勢であることを示す一方、大きさは江戸時代より小さい。歯が小さいのは縄文系の特徴だが、「大きさには環境などさまざまな要因が影響するため、理由ははっきりしない」と松村准教授。百々教授も形態小変異の変化の背景は不明といい、謎が残る。 (小島新一)

【用語解説】形態小変異

 体の機能にはまったく影響のない微細な形態の変異。変異の出現部位(項目)は無数にある。人骨の形質は遺伝と環境で決定されるが、形態小変異は歯の形質と同様に環境に左右されにくく、出現には遺伝的影響が強いとされる。各部位で変異が現れる人の割合(出現頻度)は集団によって異なり、そのパターンが近い集団は遺伝的にも近いとみることができる。

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 民族の形成(7) 「2系統」遺伝子が証明

2008.06.30 MSN産経新聞

 ◆縄文人と渡来人

 弥生時代に大陸から渡来してきた人々が日本列島の先住民である縄文人と混血しながら列島内を拡散、「本土人」となった−。前回まで、主に「縄文人」と「渡来(系弥生)人」という2つの系統の骨や歯の形質の変化を追いながら、近現代までの2000年という時間をかけた民族形成の経緯をみてきた。

 では、本土日本人の主なルーツは、「縄文人」と「渡来人」の2系統だけとみてよいのだろうか。

 図1は、関東地方から出土した縄文時代人骨、北部九州などの弥生遺跡から出土した渡来人の骨から抽出したミトコンドリア(mt)DNAと現代人のmtDNAのハプログループ(型)を示したもの(データ提供は篠田謙一・国立科学博物館研究主幹。「弥生人の出現(4)」参照)。現代本州(土)人にみられるハプログループは、「Y」など一部を除いて渡来系弥生人と縄文人にすでに存在していることがみてとれる。「現代本土人の主なルーツは縄文人と渡来人」とみることと矛盾しないと言ってよいだろう。

 ◆弥生人のY染色体

 mtDNAは母親の型のみが子供に伝わる「女系」遺伝子だ。「男系」ではどうだろう。図2は、父親から息子にのみ伝わる男系遺伝子、Y染色体のハプログループのうち、現代本土(九州含む)人にみられる主な型の分布を示したもの。

 C1と、東アジアでは日本人特有の「YAP」という塩基配列をもつD系統が縄文人由来のハプログループであることは、「アイヌと縄文人」で紹介した。データ収集・分析にあたった東海大の田嶋敦助教によれば、「C3は縄文系か、縄文以後に樺太(サハリン)方面経由で北海道にわたってきた大陸渡来人の型」という(北海道の『渡来人』については「民族の形成(5)」参照)。

 これらCとD両系統を除いて、本土人の約6割を占めるのが、O系統。「このO系統が渡来系弥生人のY染色体の型と考えられます」と田嶋助教。やはり《2系統ルーツ》論と合致するわけだ。

 O系統は東アジアからオセアニアまで広く分布しているが、現代本土人に多いのが「O*」に属するO2bというサブタイプ。華北地方にも多く、図にはないものの朝鮮半島(韓国)では50%近くの男性がこのタイプで、半島を経由した渡来人の型とみられている。O3は、大陸の南から東南アジアにかけて多く分布している。

 渡来系弥生人のもたらした文化の違いから、彼らの源郷として大陸の複数の地域が想定されることはすでに紹介した。Y染色体の分布もそのことを支持しているといえる。

 ◆均質化の可能性

 Y染色体をめぐっては、「多型マイクロサテライト」と呼ばれるタイプ(型)分析の手法でも日本人集団の遺伝的成り立ちが明らかになりつつある。図3は東海大の猪子英俊教授が、日本人116人、韓国人86人、ハルハ・モンゴル人77人、ヨーロッパ系アメリカ人49人について、Y染色体上の26個のマイクロサテライトマーカー(別項参照)を用いて遺伝関係を調べた結果を示したもの(図は単純化してあり、“〔”で示されるA−Eの各階層には別民族の型も一部入っている)。

 日本人の型は大きくAとDの2階層に分かれ、A階層は「YAPあり(+)」、D階層は「YAPなし(−)」の人たちだった。A階層はほとんどが日本人だが、D階層は日本人と韓国人の型がおよそ半数ずつを占めた。

 また、日本人をA階層とD階層の2集団に分け、他の民族集団と統計的に比較したところ、遺伝的に最も近い関係にある集団のペアは「日本人Dと韓国人」だった(遠いのは「韓国人とアメリカ人」「日本人Aとアメリカ人」など)。

 こうした結果から、「A階層の型は縄文系、D階層の型が渡来(弥生)系と考えられる」と猪子教授。ほかの階層に属する日本人の型はわずかで、日本人の主要なルーツは、やはり「縄文系」「渡来系」の2系統であることが分かる。

 猪子教授によれば、X染色体と常染色体(X、Y染色体以外)上のマイクロサテライトマーカーで日本人のA階層とD階層を比較したところ、有意な違いを示すマーカーはなく、「父(男)系と母(女)系の双方で伝達されるX染色体と常染色体に統計的差異がないということは、起源の異なる縄文系と渡来系の人たちが過去に十分に混合し、均質化した可能性を示している」。現代の日本人には縄文系と渡来系双方の遺伝子が受け継がれていることが証明されている。(小島新一)

                 ◇

【用語解説】マイクロサテライト

 塩基(DNAではA・G・T・Cの4種類)の配列が同じパターンで繰り返し現れる(例えば「ATC」「ATC」…)遺伝子上の領域。通常2〜6塩基の単位配列からなり、その繰り返し回数が遺伝子型(マーカー)となる。十数個以上のマーカーの型の組み合わせ(ハプロタイプ)が別人と一致する確率は天文学的に小さく、個人識別や遺伝調査に最も有効とされる。犯罪捜査や親子鑑定、疾患との関連研究に用いられる。

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 二重構造は語る(1)

2008.07.28 MSN産経新聞

 人の酒の強さは、アルコールを飲むとできる「アセトアルデヒド」という毒性物質を肝臓で分解・無害化する「アルデヒド脱水素酵素」の一つ、「ALDH2」の働き(活性)に左右される。

 この酵素の活性がない人はALDH2の遺伝子に変異した型を持ち、飲酒で顔が赤くなるなど東アジア人特有の現象をみせることが原田勝二・元筑波大教授の研究で分かっている(連載第2章『機能・体質』編参照)。

 原田元教授が地域別に調べたところ、酒に強い通常型の遺伝子の人は近畿、中部、中国地方で少なく、そこから離れるほど増加。

 変異型を持つ人はこれとは逆の傾向にあった。

 原田元教授の調査では、変異型のALDH2遺伝子は白人や黒人にはみられず、日本全体では44%。

 それ以外では中国南部(41%)に多く、韓国(28%)がそれに次いだ。 「列島内の分布と総合すると、変異型遺伝子はおそらく中国南部で生まれ、弥生〜古墳時代にやってきた渡来系弥生人が列島に持ち込んだと考えられる。

 縄文人は通常型の遺伝子だけを持ち、酒に強かっただろう」

 ≪中部に多いHLA型≫ 

 都道府県別では、酒に強い通常型の人が多いのは、 (1)秋田(76・7%)(2)岩手、鹿児島(71・4%)(4)福岡(70・4%)(5)埼玉(65・4%)など。

 逆に通常型が少ない(変異型をもつ人が多い)のは (1)三重(39・7%)(2)愛知(41・4%)(3)石川(45・7%)(4)岐阜(47・6%)(5)和歌山(49・7%)の順となった。

 患者とHLA型が一致する骨髄移植のドナー(提供者)を選ぶため、提供希望者を募っている日本骨髄バンクの登録者約15万人の分析では、 日本人では(1)「A24−B52−DR15」(2)「A33−B44−DR13」という2つのHLA遺伝子型が占める割合が最多だった。

 このうち(2)は、「韓国では最多で、型が成立した年代推定などから、半島から列島にやってきた渡来系弥生人の型とみられる」(徳永勝士・東大教授)。 都道府県別では、三重、静岡、愛知、山梨、岐阜の中部周辺県が7・98〜6・49%で最も多かった。

 このうち、三重と愛知、岐阜は、「酒に弱い」遺伝子型が最多の5県にも入っている。 福岡は4・84%にとどまり、5%台の関東地方より少ないなど、「酒に弱い」遺伝子型の分布と重なる点が多い。

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 二重構造は語る(2)

2008.08.04 MSN産経新聞

 ■乾型耳あか遺伝子もつ渡来系

 ≪遺伝子を特定≫

 ヒトの耳あかには、2つのタイプがある。「乾いた耳あか(乾型)」と「湿った耳あか(湿型)」で、現代日本人の約8割は乾型だ。遺伝子の研究が進み、耳あかに秘められた日本人の「二重構造」とその背景が明らかになってきた。

 乾型は実は耳あかではなく、皮膚が乾燥してはがれたもの。本来の耳あかである湿型は、鼓膜より外の外耳道に粘液が分泌され、あかとしてたまってできる。

 新川詔夫・北海道医療大教授らは平成17年、耳あかの乾湿を決定する遺伝子「ABCC11」を特定。耳あかは本来は湿型だが、この遺伝子の変異が影響して乾型になることを突き止めた。ヒトはABCC11の型を両親から1つずつ、計2つを受け継ぐ。2つのうち変異型が1つ以下だと耳あかは湿型に、2つとも変異型だと乾型になる。

 新川教授が世界各地の民族集団ごとに、この変異型遺伝子の出現割合を算出したところ、アフリカやヨーロッパでは0〜20%と低かったのに対し、東アジアから東南アジアでは50%以上の高い値を示した。特に韓国や中国北部では100%に近く、日本では70〜80%だった=図1。

 変異型が東アジアに集中する理由について、新川教授は「アフリカから拡散した現生人類のうち、東アジアに到達した集団に遺伝子の突然変異が起きた可能性が高い」と分析する。

 ≪寒冷地適応≫

 突然変異はいつ、なぜ起きたのか。「約2万年前の寒冷地適応かもしれない」と新川教授は話す。

 人類は約2万3000年前、シベリアのバイカル湖周辺まで進出したとされる。当時は最終氷河期で、冬にはマイナス60度を下回った。「一度に汗をかきやすい湿型は、寒冷地では不利。じわじわと汗が出るように遺伝子が変異し、耳あかも乾型になった。何らかの原因で東アジアの人口が激減するなかで変異型遺伝子をもつ集団が偶然生き残り、子孫を残したため変異型が多い可能性もある」

 一般的に、日本の縄文人は、アフリカから出た当初の古い人類の体質を相当程度残したタイプで、渡来(系弥生)人は寒冷地適応を果たしたタイプといわれることが多い。

「一重まぶたでのっぺり」とイメージされる渡来人の顔つきも、「一重まぶたで眼球を冷気から保護し、顔は平坦(へいたん)にして表面積を小さくした」と寒冷地適応を仮定したものだ。

「縄文人のかたち(4)」で紹介した、渡来系の北部九州弥生人に特徴的な大きく複雑な歯やシャベル状切歯も「凍った硬い肉をかじるのに適している」という見方もある。

 遺伝子変異の原因を証明することは難しく、寒冷地適応は推測の域を出ない。

ただ、耳あか遺伝子が寒冷地適応で変異し、渡来人が寒冷地適応タイプだとすれば、日本国内では変異型の分布と渡来人の分布は重なるはずだ。

近畿〜四国・九州の西日本と比べて関東〜甲信の東日本で低く、アイヌと沖縄という周辺部では特に低いという傾向は、前回までみてきた渡来人系の遺伝的体質の分布と一致する。

共同研究も「乾型の耳あか遺伝子を持った弥生人が北部九州から瀬戸内海経由で近畿へ向かい、湿型の縄文人の子孫と各地で混血を繰り返した」と分析しており、《耳あか遺伝子の変異=寒冷地適応=渡来人》説を補強する結果となった。

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 二重構造は語る(3)

2008.08.11 MSN産経新聞
2008.08.11 08:20

 ■家畜でも縄文・渡来くっきり

 ≪渡来した縄文犬≫

 縄文人と渡来(系弥生)人による日本民族の二重構造が示すのは、人集団の移動の歴史だ。その移動には、さまざまな《もの》が伴う。石器や言語、水田稲作などの文化。第2章「機能・体質」で扱ったウイルスなど厄介なものも移動する。家畜もその一つである。

 家畜の中で最も古いとされるのは犬で、そのルーツは近年のミトコンドリア(mt)DNAの分析などから、オオカミであることが判明。約2万〜1万5000年前、中国、インド北部から西アジア方面でオオカミが家畜化されたのが祖先とされる。

 国内では、縄文早期(約1万年前)の神奈川県・夏島遺跡をはじめ、多くの縄文遺跡から犬の骨がみつかっていている。ニホンオオカミも当時すでに列島に生息していたが、犬の形態に詳しい茂原信生・京大名誉教授は「大きさなどから、縄文犬はニホンオオカミが家畜化したものではなく、縄文人集団が連れてきたと考えられる」と話す。

 弥生時代の遺跡からも犬の骨は見つかっている。縄文犬はおおむね小型で、柴犬よりやや小さい。弥生犬は縄文犬とほぼ同じか、一回り大きな紀州犬級のものが出土している。

 ≪複数ルート≫

 田名部雄一・岐阜大名誉教授は、日本犬のルーツを、血液中のさまざまなタンパク質の型を決める遺伝子の分析から探ってきた。図1は、そのうち赤血球ヘモグロビンの型を決める遺伝子(Hb)のA型とB型が現れる比率(構成)を犬種別に示している。A型遺伝子(HbA)は、韓国在来犬と山陰柴犬、三河犬のグループで高い割合でみられ、北サハリンの在来犬でも高かった。このように構成が似た種同士は遺伝的に近いとみられる一方、HbAの割合が低い東日本や琉球列島のグループは、韓国や北サハリン群とは遠い関係にある。韓国・北サハリン在来犬と四国犬や紀州犬で構成が近い血中タンパク質の遺伝子もあった。

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文人か弥生人か

2008.08.25 MSN産経新聞

 ■目・指紋も類似、半島と西日本

 ≪渦状紋は渡来系?≫

 日本人の身体には人により多様な特徴があるが、遺伝子レベルまで解明され、ルーツを厳密にたどれるものは少ない。そうした現状を理解した上で、現代に残る“縄文人”“弥生人”の姿に迫ってみたい。

 汗腺の列が隆起して形成された指紋。世界に一つとして同じものはないが、大きく4タイプに分類できる。隆線が湾曲しながら横方向に流れる「弓状(きゅうじょう)紋」、隆線が片側から入ってUターンする「蹄状(ていじょう)紋」、隆線が同心円や渦巻き状をなす「渦状(かじょう)紋」。蹄状紋のうち、U字型が親指の方向に開く場合を「橈側(とうそく)蹄状紋」、小指の方向に開く場合を「尺側(しゃくそく)蹄状紋」という。

 指紋のタイプは必ずしも親子で同じではない上に男女の性差も大きく、多くの遺伝子が複雑に関係しているとみられている。しかし、世界の各集団を比べると、どのタイプが多数を占めるかについて明確な違いが表れる。

 岩本光雄・京大名誉教授は助教授だった昭和53年、戦前からの複数の調査報告をもとに4タイプの割合を集計した(以下、指紋の数値は男性)。その結果、特に渦状紋がアジア人で約50%を占め、ヨーロッパ人などでは約30%にとどまった。特にアムール川流域からモンゴルにいたる地域の渦状紋の割合は50〜52%、中国人は50・0%、朝鮮人は47・8%。一方、インドネシアのジャワ島では42・6%だった。渦状紋の割合がアジア北部に多いとすれば、「弥生以降に半島経由で日本列島に流入した渡来人の多くは渦状紋だった」という仮説も成り立つ。

 日本人全体では約50%が尺側蹄状紋、約45%が渦状紋。西に向かうにしたがい渦状紋が多くなる傾向があり、九州北部で50%を超えた。岩本名誉教授は「西日本と大陸系住民、特に朝鮮人との間のいわば人種的つながり」を指摘した。

 一方、北海道アイヌは尺側蹄状紋が約60%を占め、渦状紋が32・1%。アイヌの頭蓋骨(ずがいこつ)の形態は縄文人に近く、弥生以前の縄文人に尺側蹄状紋が多かった可能性がある。

旧ソ連の人類学者、レヴィンの研究

 レヴィンは、第二次大戦直後、シベリアに抑留された元日本兵約1万300人を調査。朝鮮半島では、一重まぶたに伴い涙丘がまぶたで覆われる「蒙古ひだ」が多いが、日本では近畿に最も多く、東西へ向かうにしたがって少なくなることを指摘した。

 レヴィンは頭の形態や身長、ひげの濃さなども調べた結果、「日本人には、蒙古ひだが小さくひげが濃いアイヌ系要素と、蒙古ひだが大きくひげが薄い朝鮮系要素という二大要素がある」と分析。

 「アイヌ系」は縄文人の古い特徴を受け継ぎ、近畿に多い「朝鮮系」は弥生以降の渡来人の新しい特徴を持つという。

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 神話を読み解く(1)

2008.09.01 MSN産経新聞

 ≪南方系要素≫

 現存する日本最古の歴史書は、奈良時代初期(712年)の編纂(へんさん)とされる古事記だ。そこには天地の始まりから神々の話が展開され、推古天皇までの日本民族の“起源”が記されている。

 古事記の神話には世界各地の神話の要素が混在しているといわれてきた。アマテラスの孫、ニニギが「日向の高千穂」に降り立つ“天孫降臨”は朝鮮半島の建国神話と類似し北方系とされる。一方、殺された女神の体から五穀の種が生まれる“オオゲツヒメ神話”は南方系といわれる。

 三浦佑之千葉大教授は、古事記神話の基層にある人間観は、北方より南方の色彩が濃いとみている。

 インドネシアには「最初の人はバナナから生まれた」とする神話があるが、古事記では「葦かびの如くもえあがる物によりて成れる神」として人の元祖となる存在の出現が語られ、人は「うつしき(命ある)青人草(あおひとくさ)」と記述される。三浦教授は「人は“草”そのもので、循環する自然の中で有限の生命を与えられた存在と認識された。植物を人の起源とする発想は、環太平洋の特徴」と話す。

 南方系要素はいつ、どのように伝えられたのか。三浦教授は、古事記の出雲神話で“稲羽(いなば)のシロウサギ”とともに登場するサメに着目する。「サメは沖縄など南の海洋民の神話に共通する。一方、出雲のヤマタノヲロチ神話は、『高志(こし)の八俣(やまた)の大蛇(をろち)』の“高志”が北陸を意味し、出雲と北陸の関係を反映している。沖縄と日本海沿岸を結んでいた“海の道”で伝わったとみられる」。

 縄文時代の日本海岸では、丸木舟で対馬海流に乗り、貝やヒスイなどが交易された。日本海の交易ルートで神話が南から広まったとすれば、日本神話の起源は縄文時代にさかのぼる可能性も出てくる。

 ≪少数民族に原型≫

 神話のルーツが奈良初期よりもかなり古い時代にあることは、古事記の文体に「歌がけ」と呼ばれる歌謡の痕跡がみられることからもうかがえる。

 たとえば、出雲のヤチホコ(=大国主神)がヌナカハヒメに求婚するくだりでは「さかしめをありと聞かして(優れた女がいると聞かれて)/くはしめをありと聞こして(美しい女がいると聞かれて)…」と、音の似た表現を対にして繰り返す。工藤隆大東文化大教授は「漢字が伝わる以前に集落単位で神話が歌われていた痕跡」とみる。

 「歌がけ」は、独自の文字を持たない中国南部の少数民族に現在も残る。工藤教授が、平成6(1994)年から雲南省や四川省の少数民族を現地調査したところ、客を歓迎したり葬式であいさつしたりする実用的場面で、即興で言葉をメロディーにのせて歌われていた。

 「古事記以前の日本列島で神話がどのように伝えられていたのかを考えるのに、少数民族の歌がけという“生きている神話”がモデルになる」と工藤教授は話す。

 ≪歌垣の広まり≫

 神話の古い原型と考えられるこれらの少数民族の歌がけの中でも、日本との直接的なつながりを示すのが「歌垣(うたがき)」だ。歌垣とは、不特定多数の男女が配偶者や恋人を得るために集まり、即興で歌を交わし合う風習。

 古事記の「清寧天皇記」に歌垣の痕跡がみられる。ヲケノミコト(顕宗天皇)が臣下のシビノオミと1人の女性をめぐり争い、夜明けまで歌を交わし合う。「同様の記述は日本書紀にもあり、関東の常陸国(ひたちのくに)風土記や万葉集にも歌垣の存在を確認できる」と工藤教授。

 歌垣の文化は中国南部の少数民族のほか、チベット、ブータン、ネパールにも広がる。東南アジアではタイ、ベトナムなどで散在するが、インドネシアなど島嶼(とうしょ)部にはみられない。沖縄の風習「モーアシビ」も歌垣に似ている。逆に、北方の中国北部から朝鮮半島、モンゴルではほとんどみられず、北海道のアイヌにもない。

 「稲作の始まり(2)」で触れたように、水田稲作は少数民族の原郷ともいわれる長江流域で始まり、アジア各地に広まった。工藤教授は「歌垣は稲作に伴う農耕儀礼として弥生時代に日本列島に持ち込まれ、神話につながっていった」と推測する。朝鮮半島に歌垣文化が希薄であることから、南方から沖縄を経由し、“海の道”ルートで伝わった可能性もある。

 古事記には、日本書紀にない出雲神話が入り込むなど、必ずしも天皇中心の国家観が貫かれているわけではない。縄文時代から海流に乗って渡来した集団が南方系神話や歌垣をもたらし、“天孫降臨”とは異色の古い痕跡を古事記にとどめたのかもしれない。(牛島要平)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 神話を読み解く(2)

2008.09.08 MSN産経新聞

諏訪大社上社の「御頭祭」の再現光景。かつては75頭ものシカの頭部が供えられたという=長野県・茅野市神長官守矢史料館(提供も)

 ■とどめられた縄文の記憶

 ≪古事記にみる「国譲り」≫ 

 「古事記」の中の出雲神話には、葦原中国(アシハラノナカツクニ、日本列島)を平定したオオクニヌシ(大国主)神の成長や活躍など、「日本書紀」の出雲神話にはない内容が多く盛り込まれている。オオクニヌシが葦原中国の支配権を天孫降臨族に引き渡す「国譲り」の物語も、両者で違いがある。古事記では、日本書記には登場しないオオクニヌシの息子のタケミナカタ(建御名方)神が国譲りを迫るタケミカヅチノヲ(建御雷之男)神に力比べを挑んだ末に敗走、オオクニヌシが国譲りを決めたと描かれている。

 古事記によれば、タケミナカタが逃げたのは、長野県の諏訪湖周辺で、諏訪大社の祭神はそのタケミナカタだ。

 「国譲り」は、天孫降臨族=大和政権の全国統一への抵抗勢力だった「出雲族」平定を描いたと考えられている。出雲族については、島根県・出雲地方の土着勢力とは限らず、「大和政権に敵対する各地の勢力の象徴」とする見方もあるが、なぜ出雲と諏訪が結びつけられているのだろう。

 ≪クマ送りと御頭祭≫

 諏訪春雄・学習院大名誉教授は諏訪大社の性格について、上社で毎年4月に行われる「御頭(おんとう)祭」と、北海道アイヌの儀礼「イヨマンテ」の類似性に着目、縄文信仰と関連があると考えている。御頭祭ではシカの頭部が供えられ、イヨマンテを代表する「クマ送り」ではクマの頭部を並べる。

 「アイヌの人々は頭部には霊魂が宿ると考えていて、クマ送りには霊魂を山の親神に感謝して返すという意味が込められている。御頭祭のシカ頭部の供物も、アイヌと同じ信仰の反映だろう」と諏訪教授。

 アイヌは縄文人の形質を色濃く残しているとされ、イヨマンテの起源も縄文時代にさかのぼるとの見方もある(「アイヌと縄文人(3)」参照)。

 諏訪地方も、「縄文のビーナス」と呼ばれる縄文時代中期の土偶や、「仮面の女神」と呼ばれる同後期前半の土偶が出土するなど、発達した文化をもつ縄文社会があったことが分かっていて、「頭部に霊魂が宿るというクマ送りと御頭祭に共通する信仰は、狩猟採集の時代だった縄文時代から受け継がれていると考えられる」。

 一方の出雲にも、「縄文」の名残が見られることは連載で紹介した。出雲市や隠岐の島町など島根県東部から鳥取県西部にかけての雲伯地方の方言は、「ズーズー弁」とも呼ばれる東北地方の方言と類似し、「縄文語の直流」と考えられている(「縄文語」参照)。

 出雲は、(渡来系)弥生人拡散の中心だった北九州や近畿に近く、水田稲作に適さない島嶼(とうしょ)部や山間部のように弥生人が進出を避けた場所でもない。現代にまで縄文時代の要素が受け継がれているとすれば、弥生人とその文化にのみ込まれないだけの強固な縄文社会が存在していたと考えられる。

 出雲には、39個の銅鐸が見つかった加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)や、358本の銅剣をはじめとする大量の青銅器が出土した荒神谷遺跡(同県斐川町)がある。弥生文化と無縁でなかったことも明らかで、在来の縄文勢力が弥生文化と融合して強大な勢力を築いていたと考えることもできる。

 出雲と諏訪を結んだ古事記の記述は、両地域が弥生時代以降も「縄文的なもの」を色濃く残していたことと関係しているように思われるのだ。

 ≪記述量の違い≫  

 橋本雅之皇学館大教授は、「縄文の痕跡」は、「『風土記』の記述からも読み取ることが可能ではないか」と指摘する。

 例えば、播磨国(兵庫県南西部)について記された「播磨国風土記」。現在、姫路城がある地域周辺の地名の由来については、ある神様の親子が仲違いし、逃げる父神の船を子が難破させ、そこで散乱した物品を一つひとつ挙げながら、それにちなんだ地名となっていることを詳述している。これに対し、高砂市の伊保山付近にあった巨石については、「聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なりといふ」という伝承が紹介されているだけだ。

 「姫路地域の地名の由来の説明には稲や蚕が登場し、弥生時代以降の渡来文化とのかかわりが明確。これに比べて、高砂の巨石についての記述が簡単なのは、縄文時代からの巨岩信仰の対象で、時間の経過とともにその由来の記憶が薄れたからだと考えられる。『弓削の大連』という固有名を書いているのは、説得力をもたせるための方便だろう」と橋本教授。

 戦後、日本神話は伝統や皇室に否定的なイデオロギーによって一貫して軽視されてきたが、縄文の痕跡が読み取れるならば、民族の成り立ちの記憶として評価されるべきだろう。(小島新一)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 沖縄の謎(1)

2008.09.15 MSN産経新聞

 ■「縄文人と近似」説の見直し

 ≪実は「のっぺり」≫

 日本人は、縄文人と渡来系弥生人が混血して形成されたとする二重構造論。地域によって、その混血の度合いには差があり、1980年代後半から90年に提唱された当時の二重構造論では、渡来系弥生人との混血が少なく、縄文人的な特徴を色濃く残しているとされたのが北海道アイヌと現代沖縄人だった。

 顔立ちが平坦(へいたん)な渡来系弥生人に対し、ヨーロッパ人に劣らず彫りが深い縄文人。沖縄にも、南方系を思わせる「濃い」顔立ちの人が多い。二重構造論が、縄文人の起源は南方で、国内では沖縄本島で見つかった約1万8000年前の後旧石器時代の人骨「港川人」が先祖−としたことと相まって、「沖縄人は縄文人的」という説は支持された。

 「私も当初、沖縄に行けば彫りの深い顔付きの骨をたくさんみることができると思っていた」と話すのは、土肥直美・琉球大准教授。90年代前半に同大に赴任すると、さっそく沖縄、先島諸島の風葬墓に眠る近世から近代の数百体の人骨を観察した。が、その予想はすぐに裏切られた。

 図1は、土肥准教授らが、沖縄・奄美の近世から近代の人々の鼻や前頭部の出っ張り具合を他の集団と比較したもの(縦横軸とも数値が低いほど平坦、大きいほど立体的)。沖縄集団は、現代本土人よりさらに平坦だった。頭骨の形態小変異による各モンゴロイド集団の類縁関係の分析(百々幸雄・北海道文教大教授)でも、現代沖縄人(南西諸島)集団は、北海道アイヌや縄文人との関係は遠く、弥生時代以降の本土人と同じグループを形成している。

 「個体差もあるが、沖縄人集団の顔つきを統計的にみれば縄文人とは似ていない。沖縄人の成り立ちは、提唱当初の二重構造論とは違う説明が必要だと考えるようになった」と土肥准教授。では、現代沖縄人はどのような集団なのだろう。

 ≪多様な縄文時代の集団≫

 旧石器時代以降の沖縄諸島の歴史は、本土と異なった時代区分がなされる。土器の使用が確認される約6500年前から10世紀ごろまでは「貝塚時代」と呼ばれ、本土の縄文時代末(従来の年代観で紀元前3世紀)までの「前期」「(沖縄)縄文時代」、それ以降の「後期」「弥生〜平安並行期」に分けられる。この間に本土は弥生時代を迎えるが、その象徴である水稲稲作は根付かず、生産手段の中心は狩猟採集だった。沖縄の経済基盤が農耕へと変化するのは、続く「グスク時代」以降だ。

 沖縄本島・北谷町のクマヤー洞穴や、本島北方の無人島・具志川島の岩立遺跡では、貝塚時代前期の人骨が出土している。このうち約3500年前、縄文後期の具志川島人骨について、土肥准教授は「顔つきは総じて彫りが深く、低顔(寸詰まり)性もあって本土縄文人に似ている。ただ、顔全体や身長は比較的大きな本土縄文人的な人もいる一方、150センチ余の小柄な人もいて、バリエーションに富んでいる」と話す。

 ≪「超」小柄≫

 続く貝塚時代後期=弥生時代の日本列島には、渡来系弥生人と縄文時代から先住していた在来縄文系の人たちのほかに、「南九州・南西諸島弥生人」と呼ばれる人たちがいた。代表的なのは、鹿児島県・種子島南部の広田遺跡(弥生後期〜古墳時代)の「広田弥生人」だ。出土した約170体は、顔付きは縄文人に似て立体的だが、身長は成人男性が約154センチ、女性が約143センチと縄文人よりさらに低く、頭部の前後長も極めて短いうえに扁平な過短頭、顔の高さも縄文人より低いという均一的な特徴がある。

 「これほど小柄な集団は、国内では古代人でも他になく、ルーツはよく分からない。ただ縄文人に似た特徴もあることから、古くからこの地域にいた集団と思われる」と竹中正巳・鹿児島女子短大准教授。

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 沖縄の謎(2)

2008.09.22 MSN産経新聞

鹿児島県・種子島の弥生〜古墳時代期(広田弥生人)、中世、近世の人骨(左から)。「本土人の遺伝的影響で、時代を経るにつれて長顔になる」と竹中正巳・鹿児島女子短大准教授。広田弥生人は沖縄貝塚時代人に似ており、沖縄の人たちも同様の変化をたどった可能性もある(南種子町教委提供)

 ■形質変えた本土人移住

 ≪本土縄文人と同郷?≫

 丸い頭(短頭)、寸詰まりの顔(低顔)といった本土縄文人の特徴をさらに極端にし、小柄にした縄文〜弥生時代(貝塚時代)の沖縄人たちについて、さらに見ていきたい。

 縄文時代の関東や東北地方には、「M7a」というミトコンドリア(mt)DNAの型をもつ人々がいた。このM7a集団については、「黄海から東シナ海にかけての地域で生まれ、旧石器時代終わりから縄文初頭にかけて琉球列島経由で本土に拡散した」(篠田謙一・国立科学博物館研究主幹)可能性が指摘されている(「DNAでみる縄文人(3)」)。

 沖縄貝塚時代人が、琉球列島を経由したM7a集団の子孫だとすれば、M7a型の本土縄文人とは「同郷集団」で、沖縄方面を源郷とする縄文人の存在も裏付けられことになる。

 土肥直美・琉球大准教授は「その可能性も考えられるが、確実なことはいえない」と話す。貝塚時代人は、彫りの深い顔つきが本土縄文人と似ている。本土縄文人よりさらに小柄で短頭性や低顔性が強いことも、過酷な島の生存環境に適応した結果と考えれば両者の近縁性は否定されないという。

 一方で、(1)港川人らがいた後期旧石器時代から貝塚時代まで、人の遺跡がみつからない約1万年の空白期があり、この間の動静が不明(2)九州に広まった土器が沖縄本島でみつかり、本土側から南下した人々がいた可能性がある−ため、「人骨などの新たな発見や遺伝子研究の進展が待たれる」状況だ。

 港川人については連載で、「縄文人・沖縄人のルーツ」説に否定的な見解が相次いでいることを紹介したが、沖縄本島・北谷町の伊礼原遺跡で発見された縄文晩期(約3000年前)相当の貝塚時代人の頭骨は「沖縄貝塚時代人や広田弥生人よりさらに低顔で横幅が広く、港川人に近い」(松下孝幸・土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム館長)とされる。港川人の「その後」も興味深いところだ。

 ≪農耕の定着≫

 現代沖縄人は、顔つきが本土人並みに平坦(へいたん)で、従来「近い」と考えられてきた縄文人とは実は「遠い」存在だ。では顔の彫りが深い貝塚時代人たちはどうなったのだろうか。

 その謎を解く鍵になると土肥准教授が考えているのが、沖縄・浦添市の「浦添ようどれ」(王族の墓)の人骨だ。15世紀前半の成人男性のものとみられ、突顎(とつがく)、いわゆる「出っ歯」が明確にみてとれる。「突顎のある形状は、鎌倉材木座中世人とそっくり。頭部も貝塚時代人の短頭に比べ、やや前後に長い中頭になっている」

 材木座遺跡は、鎌倉時代の戦死者らが埋葬されていた。この時代の日本人は長頭化が進み、上顎(あご)も突き出ていた。「浦添ようどれの人骨には、中世本土人の遺伝的影響がみられる。貝塚時代に続くグスク時代に、沖縄人の形質を遺伝的に大きく変化させるだけの本土人の移住があったと考えられる」

 グスク時代(11〜15世紀前半)の沖縄は、生産活動の基盤が漁労から農耕へと移行し、集落生活が始まり、人口が急増した。「按司(あじ)」と呼ばれる有力者も各地に出現、第一尚氏による本島統一、琉球王国誕生へと社会が大きく動いた。

 高宮広土・札幌大教授は、「農耕の定着」が本土集団の移住を物語っているとみる。「農耕は狩猟採集より過酷な労働で、狩猟採集で生活可能な環境では人は農耕をなかなか受け入れない。弥生時代相当期の沖縄も、本土と『貝の道』で結ばれて交流があったのに農耕を受け入れなかった。沖縄では農耕を生活手段とする集団が移住してはじめて、農耕が定着したと考えられる」

 ≪日本化の時代≫

 グスク時代を「沖縄が日本化した時代」と位置づけている安里進・沖縄県立芸術大教授も、本土集団の移住があったと考えている。11世紀後半〜12世紀前半、九州・長崎産の石鍋が先島諸島を含む南西諸島に流通した。「日本人が、日宋貿易の輸出品だった螺鈿(らでん)の材料になる夜光貝を求めて琉球列島に次々とやってきて石鍋と交換した。この交易の過程で琉球列島全域が日本文化の影響を強くうけてグスク文化圏が成立し、農業社会に変わっていった」

 さらに、浦添ようどれの人骨のうち2体から、中国大陸南部から東南アジアにかけて分布する型(ハプログループ「F」)のmtDNAが抽出されており、安里教授は「人の移動は本土だけでなく、東アジア全体で考える必要もある」とも話す。

 「外来」人の影響で、縄文人にも近い独自の形質を変えた沖縄人。グスク時代の人たちは「平坦な顔つきだけではなく、長身長で長頭という本土系の特徴を持つ」と土肥准教授。

 ただ、連載でみてきたように、mtDNAやY染色体DNAの分布では、現代沖縄に「縄文色」が濃いのも確かだ。貝塚時代人を含め、沖縄人の成り立ちにはまだまだ謎が多い。(小島新一)

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 連載の終わりに

2008.09.29 MSN産経新聞

「吹きだまり」ゆえの多様性

 ≪北から、西から、南から≫

 1年余りにわたり、日本民族のルーツや成り立ちについて検証してきた。簡単に振り返ってみたい。

 日本列島に新人(現生人類のホモ・サピエンス)が生活していた最古の時期だと確実視されているのは、後期旧石器時代の4万〜3万5000年前。東京・武蔵野台地の遺跡群から、礫(れき)石器や、日本とオーストラリア以外では新石器時代(日本では縄文時代)以降のものしか見つかっていない局部磨製石器(石斧(ふ))が出土している。

 4万〜3万年前の地球は寒冷期で、海面が現在よりも下がっており、インドシナ半島から東南アジアにかけの島々が「スンダランド」と呼ばれる亜大陸を形成。礫石器は、このスンダランド方面からやってきた集団が持ち込んだとみられている。現時点で列島最古の人骨である山下町洞人や港川人のルーツも、スンダランドから大陸沿岸部にかけてのエリアだとみられる。

 2万〜1万4000年前になると、ナイフ形石器や細石刃が全国に広まった。いずれも大陸起源だが、朝鮮半島経由、あるいはサハリン(樺太)〜北海道経由など複数のルートでもたらされ、多様な集団が渡来したとみられる。本土で唯一の旧石器時代の人骨である「浜北人」が、1万8000年前のもの(下層)と1万4000年前のもの(上層)で特徴が異なることも、新たな渡来による「集団の交代劇」をうかがわせる。

 ≪謎の多い縄文人≫

 縄文人については、旧石器時代の列島人の子孫だったのか、またはこの時代に渡来してきた集団がいたのかが、縄文土器の起源とともに大きな謎となっている。

 大平山元I遺跡でみつかった無文土器や、長崎県佐世保市の泉福寺洞穴や福井洞穴でみつかった「隆起線文」と呼ばれる縄文土器は、現状では世界最古級だ。より古い土器が周辺で見つからない以上、土器は外から持ち込まれたものではなく、列島に旧石器時代から住んでいた人々やその子孫が生み出したと考えられる。その限りでは新たな渡来集団の存在を想定する必要はない。

 一方、土器の外来を示唆するのが、隆起線文土器と同じ地層から見つかった細石刃だ。北海道経由の湧別技法と同じシベリア起源で、中国〜朝鮮半島経由で列島に伝わったと考えられる「西海技法」で作られていた。これと同じ製法の石器が、中国・河北省で約1万1600年前の土器とともに出土しており、外来集団が西海技法とともに土器を列島に持ち込んだ可能性がある。

 「地域差・時代差」という謎もある。近年、縄文時代に九州が朝鮮半島と文化圏を形成していたことや稲作がなされていたことが明らかになりつつあり、集団の渡来が考えられるようになった。人骨にみられる縄文人形質の地域差や時代差が、その渡来集団の有無などを解明する鍵として注目され始めている。

 ≪渡来と混血のパワー≫

 弥生時代には、水田稲作や青銅器、鉄器などさまざまな文化を持つ集団が、大陸から波状的に渡来したと考えられている。彼ら「渡来系弥生人」が列島内を拡散、先住民の縄文人の子孫たちと混血を繰り返して生まれたのが、「日本民族」だ。

 旧石器時代から、さまざまな集団が、さまざまなルートで渡来した日本列島。現世人類は生誕の地・アフリカから地球上を拡散する途上で、多様な特徴を持つ集団へと変化したが、列島がその「吹きだまり」と称されるゆえんでもある。

 とはいえ、単なる「吹きだまり」でないことは、局部磨製石器のほかにも世界最古の落とし穴という発明が旧石器時代になされていたこと、古くから土器をつくり、その造形に高い芸術性を発揮したことをはじめ長い歴史が証明している。

 列島では、新しい文化の絶えざる流入が地域間の文化的多様性を生み出してきた。旧石器時代のナイフ形石器、縄文文化と弥生文化が徐々に交わった弥生時代前半などがそうだ。多様な文化が外に向かず、地域間で交わることによってさらに新しい文化を生み出してきた。「吹きだまり」ゆえのパワーなのかもしれない。(日本人解剖取材班)

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