TOPIC No.9-0a 縄文語/日本語の起源

No.
 内          容
01. 姫神:縄文海流 〜風の縄文V〜 縄文人と縄文語 "Lived with nature" by ニコニコ動画
02. 姫神 神々の詩(海流バージョン) kamigaminouta (kairyuba-jon) byYouTube
03. 神々の詩 もしくは捏造された言語 (1997.姫神)  by華氏65度の冬
04. 縄文語の復元 日常会話 by情報処理推進機構
05. 縄文語の復元 単語(動物)by三内丸山遺跡(縄文時代)
06. 03.日本語の起源を探る-語彙統計学から- by日本人の起源
07. 06.日本語は「混合言語」だ! by日本人の起源
08. [言語館]アイヌ語と魏志倭人伝のことば
09. 姫神−カムイヘチリコホ byYouTube
10. 日本語の起源 byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
11. 日本語 byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
12. 「日本語の真実」タミル語で記紀、万葉集を読み解く (田中 孝顕著 2006年7月刊)
13. 歴史言語学と日本語の起源 by学問の部屋
14. 「日本語の起源」に関する覚書 2017-11-30 by川島正平のページ



分子生物学からの知見

from日本語の起源 byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 1990年代後半からY染色体の DNA 型の研究が急速に進展し、日本列島では多くの系統が入り交じっていることが分子生物学的に実証された[57]。

 崎谷満によれば、Y染色体の分布からすると、日本語の母体は D2 系統の縄文人が話していた言語である。D2 はユーラシア大陸では絶滅しており、同族の言語はないと考えられるが、D2 と近縁の D1, D3 系統はチベットに存在する。

 弥生人は長江文明の担い手だった O2b 系統であり、オーストロアジア語族の言語を話していたが、それを捨てて日本語を受容したと推定される。Y染色体の分布からは、従来の想定とは異なり、オーストロネシア語族を使用する民族集団とはほとんど遺伝的つながりが見られない。

 ところが、母系にしか遺伝しないミトコンドリアのハプログループに注目すると、日本には世界で日本人にしか見られない M7a というグループがある[58]。これは台湾付近で発生し沖縄・アイヌに多く本州で少ないという特徴的な分布をしており、M7a を原日本人と仮定するならば、オーストロネシア語との関係が示唆される。


日本語の起源は朝鮮半島にあり?方言の共通祖先を発見、東大

2011年05月05日 18:47 AFP BBNews 発信地:パリ/フランス

【5月5日 AFP】日本語の方言の多くは約2200年前に朝鮮半島から移住してきた農民たちに由来することが、進化遺伝学の観点から明らかになったとする論文が、4日の学術専門誌「英国王立協会紀要(Proceedings of the Royal Society B)」に発表された。

 日本語は、世界の主要言語の中では唯一、起源をめぐって現在も激しい議論が戦わされている。

 主要な説は2つある。1つ目は、定住が始まった3万年〜1万2000年前の石器時代文化に直接由来しているというもの。この時代は原始的な農業も一部で行われていたが、主に狩猟採集生活が営まれていた。アジア大陸からは紀元前200年ごろに人の流入があり、金属製の道具やコメ、農業技術がもたらされたが、言語発達にはほとんど影響を及ぼさなかったというのがこの説の主張だ。

 もう1つの説は、紀元前200年ごろの朝鮮半島からの人の大量流入が日本の先住文化に非常に大きな影響を及ぼしたとするもので、先住民が大規模な移住を余儀なくされ、彼らの話していた言語もほとんどが置き換えられたと考える。最近の考古学上およびDNAの証拠は、いずれもこちらの説が有力であることを示している。

■方言の共通祖先の年代は?

 さらなる証拠を求めて、東京大学(University of Tokyo)の長谷川寿一(Toshikazu Hasegawa)教授とリー・ショーン(Sean Lee)氏は、数十の方言の年代をさかのぼり、共通祖先を見つけようと試みた。

 この手法はもともと進化生物学において、化石から採取したDNA断片から系統樹を作成し、数百万年前の祖先までさかのぼる目的で開発されたもの。リー氏によると、言語に適用することには異論もあるが、これまでの実験結果などから、言語には遺伝子のような特性があり、代々の継承を通じて進化することが推定されるという。

 2人は、体の部位、基本動詞、数字、代名詞などの主な210単語について、59方言でリストを作成。数千世代にわたり改変されていない、いわゆる「高度保存遺伝子」を見つけ出すのと同じ要領で、他の方言に影響されていない「変化耐性」を持つと思われる単語を選び出し、コンピューターでモデル化した。

 すると、これらの単語はすべて約2182年前の共通祖先に行き当たった。この年代は、朝鮮半島から大量の渡来人が来た時代に当たる。

 リー氏は、農民の流入が始まった時期はこの時期より少し前の可能性があると指摘しつつ、「日本に流入した最初の農民たちが、日本人と日本語の起源に深い影響を及ぼした」と結論付けている。(c)AFP/Marlowe Hood

300年前のアイヌ語集 禅僧が記録、福井で発見

2010/08/23 中国新聞ニュ−ス

 江戸中期に全国行脚した越前出身の禅僧空念くうねんが1704(宝永元)年、北海道を訪れた際にアイヌ語を書き記した文書が、福井市の曹洞宗普門寺ふもんじで見つかった。作成時期が分かる国内最古のアイヌ語集という。

 北海道大大学院の佐藤知己さとう・ともみ教授(言語学)は「現在と違う発音表記もあり、文字のないアイヌ語の研究にとって貴重な発見だ」と評価している。

 文書は約150ページで、アイヌ語に関する部分は26ページ。「春ハ はいかる」「熊ヲハ ほくゆく」「母ハ はほう」などと、季節や動植物、家族の呼称といった言葉について、日本語を訳す形で約460語収録している。  文書は、大分県宇佐市の浄土真宗極楽寺の住職国東利行くにさき・としゆきさん(83)が4〜5年前、空念が開いた普門寺で大分での足跡を調べていて発見。今年6月に解読が終わった。  現存する最古のアイヌ語集は、室町末期〜江戸初期につづられた「松前ノ言」とされるが、作成時期が不明。年代が特定されたものでは、これまで江戸中期の兵学者松宮観山まつみや・かんざんが1710年に記した「蝦夷えぞ談筆記」が最古とみられていた。

歴史・迷宮解:日本語は環日本海諸語 米大陸先住民言語とも系統近く

2010年07月28日 毎日新聞 東京朝刊

 袋小路に入ってしまったと言われている日本語の起源・系統論について、言語学者の松本克己さん(金沢大・静岡県立大名誉教授)が「言語類型地理論」という新しい方法で得た結論を本にまとめ、最近、相次いで刊行した。日本語など日本海の周りの4言語が同じグループに属し、アメリカ大陸先住民の言語ともつながっているという。

 松本さんは1929年生まれ。金沢大、筑波大、静岡県立大で教授を務めた。印欧比較言語学や、世界の言語の特徴を調べる言語類型論を専門としてきた。日本語系統論に本格的に取り組んだのは91〜93年度に日本言語学会の会長を務めた後で、その成果を『世界言語のなかの日本語−日本語系統論の新たな地平』として07年末に刊行した。

 松本説の特徴は、明治時代から100年以上にわたって提起されてきた日本語系統論の諸説とは全く別の方法を用いた点にある。これまでの説が手本にしたのは、印欧語の系統を明らかにすることに成功した比較言語学の手法だった。同系の言語の同源語(語源が同じ語)を比べて、規則的な対応があることを見いだし、元の形を復元する。

 しかし、この比較手法では、日本語のように世界のどの言語とも共通する語がほとんどない言語の系統を調べることはできない。適用できるのは、分岐後の年数が5000〜6000年までの言語に限られる。

 言語年代学によると、一つの祖語から二つの言語が分かれると、共有される語の割合は次第に減少し、6000年で10%を割り、1万年でほぼゼロになる。一方、英語の「woman(女)」と日本語の「をみな」のように、偶然、意味と音が似ている単語は、系統を異にする言語を比べても5%程度はあると言われている。似た単語が数%あるというだけなら、偶然の一致の可能性が大きい。

 表面的な文法構造も時代によって変化する。S(主語)、V(動詞)、O(目的語)の配列は、現在の世界の言語のうち、日本語のようなSOV型がほぼ半分、英語や中国語などのSVO型が35%、ポリネシア語などのVSO型が10%余りを占める。ところが、英語が今の語順に変わったのは、たかだか1000年前以降のことだ。語順では系統は決められない。

 そこで、松本さんは、遺伝子の型のように、年月を経ても変わらずに受け継がれている言語の特徴を探した。

 一つは、日本語のラ行子音に当たる流音のタイプ。日本語では流音は1種類だけだが、英語などヨーロッパの言語ではl(エル)とr(アール)の2種類がある。流音が全くない言語もある。

 また、日本語の「人々」「思い思い」のように、語の全体または一部を繰り返す「重複(畳語)」も指標になる。朝鮮語(言語学の韓国・朝鮮語の呼称)、中国語、アイヌ語にもあるが、印欧語族やユーラシア大陸北方のウラル語族、アルタイ諸語にはない。

 これら言語の系統を反映しているとみられる8項目の特徴について、20年以上前からパソコンで作っている世界の約6000の言語のデータベースで、地理的分布を調べた。

 その結果、ユーラシア大陸の諸言語は、ヨーロッパから中央アジア、シベリア北部にかけてのユーラシア内陸言語圏と、中国からインドシナ半島、オセアニアにかけての太平洋沿岸言語圏の二つに大別された。

 太平洋沿岸言語圏はさらに南方群と北方群に分かれ、日本語は朝鮮語、アイヌ語、ギリヤーク語(ロシア沿海州のアムール川下流域からサハリン島にかけて分布)とともに、北方群(環日本海諸語)に入った。

 太平洋沿岸言語圏の特徴はベーリング海峡を超えてアメリカ大陸まで広がっている。松本さんはこれを「環太平洋言語圏」と名付けた。アフリカを出た現生人類がユーラシア大陸を移動して太平洋沿岸に到達し、一部が約3万年前に日本列島に、一部が1万数千年前にアメリカ大陸に移住したという、近年の人類学や考古学の成果とも一致する初めての言語学説だ。【佐々木泰造】

流浪人の日本語源流散歩(タミル語 起源説)

2009/12/09 IZA by中国の片隅から ぼやき

 大野晋さんの「日本語の源流を求めて」岩波新書と出会ったのは10月に帰国したときのことです。

 彼はもともと日本語の古語の第一人者ですが、その彼が「ドラヴィダ語語源辞典」と手に入れ、その中のタミル語という、日本語に対応する単語を多く持つ言語に出会ったそうです。

 そして対応する言葉を調査し500以上の言葉が対応することを発見しています。彼の考えでは、日本語とタミル語は同系語ではなく、タミル語は母体となる日本語に外来語として受け入れられた。中世にポルトガル語を語源とする言葉が大量に輸入されたように。

 そして、タミル語が輸入された時代は縄文時代であり、北九州に到来したタミル人より、水稲稲作・鉄・織機の三大文明に直面し、それを受け入れると共に、タミル語の単語と文法を学び取っていった。と考えています。タミルと日本のその二つの言語が接触し、文明の力の差によって、文明力の弱かったヤマト民族が文明力の強かったタミル語の単語500(彼の調べた限り)を自己流の発音で覚え、さらに文法も覚え、五七五七七の歌の韻律や係り結びなどまで取り込んだ。と主張しています。

 そこで、この書物の中で稲作に関する言葉についてのみ今日は取り上げることにします。以下は原文からの抜粋です。

 陸稲はすでに縄文時代からあった。稲粒の土器への圧痕などの証拠が、最近、各地で発見されている。(途中略)水田稲作は縄文時代の日本にはなかった。ではどこから輸入されたのか。韓国南部からとする説、或は揚子江下流からという説がある。特に揚子江下流域にある河姆渡遺跡からは大量の稲粒が発掘され、それはBC5000年から7000年のものであるという。それが、日本へ渡来したという説が有力視されている。しかし、稲作の栽培にはそのための土地の設備が要る。だから揚子江下流から最初に水田稲作が到来したのなら、揚子江下流のタンボ、シロ(泥)、アゼ、クロなどを表わす古代中国語が、一緒に日本語の中に入ったはずである。しかし、タンボとかシロとかクロとかアゼとか言う言葉には、揚子江下流の古代語とひとつも対応する言葉がない。ところが2000年前のタミル語の中に、その大部分が見出される。それは何を意味するのか。まず実例を示していくことにする。

 @ 畔(アゼ)

 これは現在日本国中で使われている単語だが、平安時代の辞書『和名抄』に「畔 田界なり。和名 久呂(くろ)。一に曰く、阿世(あぜ)」とある。『日葡辞書』には「Aje(畦)またはUne(畝)。すなわち田と田の区切り、土の高くなっている所」とある。これに対応するタミル語がある。Acc-u(畦)でccという連続は日本語のZに当たる例がある。だからタミル語のacc-uと日本語のaz-eは対応する。Acc-uは、「acc-u(畦)が水を蓄えて囲んでいる田」のように使う。

 A 畔(クロ)

 田のクロと使うのは現在は東日本だけらしいが、昔は標準語だった。

 タミル語にはKr-ampu(水田または花畑の畔)があり、kur-oに対応する。

 その後、アゼ・ウネ・畑(ハタ、ハタケ)、焼畑(コバ)と続き

 J稲(ニ)で、稲を古くはニと言った。として説明し。

 粟(アワ)、米(コメ)、」糠(ヌカ)、餅粉(アレ)、粥(カユ・アマリ)、餅(モチヒ)、糟(カス)と続いている。

 そして、金属と織機関連の言葉にも多く対応する言葉が存在していると説明しています。

 では、なぜタミル人がはるばるインドから日本に来たのか、そしてどのような船で来たのかですが、彼はこのように書いています。

まず帆船の写真があり、「実際に南インドから沖縄まで航行してきた帆船の写真である。これはインドから日本への航行が可能かどうかを実験してみようとして、岩田明氏が実際に復元建造し、航行した船の写真である。

 岩田氏は高校卒業後、世界を三周した経験を持つ航海士で、楔形文字の刻まれた粘土板の中に、一隻の船の建造に必要な材料を列挙した表がルーヴル美術館に所蔵されていると襲えられ、ルーヴル美術館を訪れてその資料を入手した。

 そしてその一覧表には舷側の肋材195本、木釘7200本というふうに記されていることを知り、その材料全部を使い、船の建造が可能かどうか南インドの造船所と協議し造船を開始した。

 出来上がった船は、全長15m、帆が2枚、総トン数30トンで岩田氏が船長として指揮をとり、7人のタミル人をこぎ手に雇って、1992年3月17日、南インドを出発し、コロンボ、シンガポールを経て、台湾の基隆により沖縄まで来たが、6月17日、久米島沖で大きな三角波に遭い転覆した。」

 そして、日本に来た目的は「真珠」だったと仮説を立てています。

 この本を読むと確かにタミル語と日本語の間に対応する言葉が多いことに認識を新たにします。

 しかし、この説が一般に知られていない、いやむしろ無視されているのはなぜでしょうか。ひとつには日本にタミル人の痕跡が残っていないこと。

そして最大の理由はこれほど多くの対応語があるなら当然一度の来日ではなく頻繁に来ていたであろうと考えられるが、その目的がはっきりしないこと。ではないでしょうか。

そして、当時のタミル人がそれほど文化が高くて航海に長けていたかどうかだと思います。

そこで、まずタミル人とはどのような集団であったかですが、タミル人がドラヴィダ語族に属するということがひとつのヒントになると思います。

 ウイベキアの「インダス文明」の記述では

 インダス文明 (インダスぶんめい、Indus Valley civilization) は、インド・パキスタンのインダス川及び並行して流れていたとされるガッガル・ハークラー川周辺に栄えた文明で、現在南インドを中心に暮らしているドラヴィダ人によりつくられたと推定されている。考古学上は、ハラッパー文化と呼ばれ、パキスタン、パンジャブ州のハラッパーを標式遺跡とする。

 インダス文明が栄えたのは紀元前2600年から紀元前1800年の間である。滅亡については諸説あり、現在では、地殻変動によってインダス川河口付近の土地が隆起し、そのために洪水が頻発して耕地に塩害をもたらし、さらにインダス川の河道が移動したことによって、水上交通を前提とした貿易によって機能していた都市の機能を麻痺させたためという説と、後述するように砂漠化に伴って都市が放棄され住民が移住したという説がある。

 また、ドラヴィダ人は、紀元前13世紀に起きたアーリア人の侵入によって、被支配民族となり一部が南インドに移住した。

 インダス川の氾濫による肥沃な土壌を利用した氾濫農耕を行った。河川から離れた地域では、地形を利用した一種の「せき」を築き、そこへ雨期の増水を流し込み、沈澱させた土壌を用いて農耕をしていたと推察される。 また、牧畜を行った。

 商業 [編集]

 装身具、主として紅玉髄製ビーズの製造。腐食ビーズと呼ばれる「紅玉髄製ビーズ」に白色の文様を入れる技術を持っていた。支配者層の装身具だけでなく、主要な輸出品でもあった。

 盛んな商業活動。石製、銅製の各種の分銅や秤がある。メソポタミアとの盛んな交易が知られ、主として紅玉髄製ビーズの輸出を行った。「メルッハ(国)」と呼ばれていたと推定されている。

 以上のことを丸々信用するとすれば、ドラヴィラ人は商業の民でもあり、メソポタミアまで船で交易していたことになります。そして、繁栄していたのがBC2600年から1600年で、この時代はちょうど日本では縄文晩期からに相当します。この時代にはプラントオパールの解析により、熱帯ジャポニカの焼き畑農業が行われていました。水稲の栽培が北九州で始まったのがBC1000年ごろとの見方が一般的ですので、もし日本にタミル人が渡来していたとしたら縄文晩期ということになります。

 ではいったい稲作関連にもタミル語との対応語が多いのはどういうことでしょうか。単なる偶然でしょうか。彼は、北九州に稲作をタミル人が伝えたといっていますが、少々無理があるようです。

 私の考えは、もしタミル人が来たのなら伝えたのは「熱帯ジャポニカ種」の稲であり、水稲ではなく陸稲であったのではないかと思っています。なぜなら、日本で現在栽培されている「水稲」は長江から北の狭い範囲でしか栽培されていない「温帯ジャポニカ種」であり、インドから持ち込まれた稲があったとすれば「熱帯ジャポニカ」のほうがすっきりします。現在一般的な説である縄文時代の陸稲焼畑はこの時代すでに畔で仕切られた畑であったならどうでしょう。この稲作に用いられた用語が水稲が移入されても使われたと考えれば稲作に関する用語の由来のなぞが解けます。

 そして、これが伝わったのは北九州ではなく、南九州かそれともその南の西南諸島であったのではないかと考える次第です。沖縄・南九州であれば、珊瑚・真珠・貝類が豊富にとれ装飾用として交易品として価値があったのではないでしょうか。

韓国で「日本語起源は百済語」説

2009年07月23日(木) 三日月城通信

 韓国で「日本語起源は百済語」説、中国で「またか!」の声

 倭人が百済人から言葉を教えてもらったとかありえませんので、起源なんか無いんですけどね。

 またかと言うよりアホかですね。

 なお、百済の時代(要するに朝鮮三国時代)の朝鮮半島はざっくりこれぐらい言語があったと思われます。

 古代中国諸語(殷[商]系、燕系、斉系、越系、呉系、漢系など)

 署汚K系諸語(系統不明 ツングース系か?)

 沃沮系諸語(扶余系→遺失語)

 諸・n(扶余系→遺失語)

 高句麗語(扶余系→遺失語)

 百済語A(扶余系 支配者→遺失語)

 百済語B(馬韓系 被支配者→遺失語)

 新羅語(辰韓系→古代朝鮮語?)

 伽耶諸語(弁辰系→遺失語 新羅語に近いとも言われる)

 州胡語系(済州島 系統不明→遺失語)

 百済語Aは百済語Bと全く別の言語で、百済語Bと新羅語も似て居らず、新羅語と伽耶諸語がわりと似ていると言う感じの様です。百済語Aは扶余系の支配者が使っていた言語の為、高句麗語に近いのではないかと推測されています。

 なお高句麗語が古代日本語に似ていると言う研究はありますが、情報量が少ないのであまり進んでない様です。

 この時代の書き言葉は漢文であり、自国語では無いと言うのも大きいです(朝鮮では開花期まで書き言葉は漢文ですが・・・。)

 しかし、『魏志東夷伝』には三韓と日本語は言葉が違うとかかれております。また、倭人条をみると古代日本語の痕跡を残した単語が多く出てくるため、邪馬台国で使われていた言語は古代日本語でほぼ間違いないと思われます。

 ぶっちゃけ後から出来た百済語より古代日本語の方が古い訳です。

 あと、日本語が扶余系の言語だとすると 他の言語はほぼ遺失しているためほぼ完全な孤立語になる訳です(琉球語を方言として扱わない考えもありますがそれはおいておきます。)

 言語の特徴としては語順が決まるのは最後と言われています。これは古代語ほど品詞の格が厳格な為、語順を選ばない為、語順が最後に決まるからと言う理由のようです。なお、現代朝鮮語は朝鮮総督府によって文法が整理され明治時代に整理された近代日本語を参考にした為、日本語にかなり似通った文法になったと言う説があります。中世朝鮮語の文法は中世日本語の文法とはあまり似ていない様です。古代日本語と百済語に至っては比較しようがありません。古代朝鮮諸語の資料がほとんどありませんから。

 まぁ、日本語と韓国語が似ていると入っても実際は膠着語SOV型言語であると言うことぐらいいしかないんだけどねぇ。

韓国で「日本語起源は百済語」説、中国で「またか!」の声 (木) Searchina

 環球時報は22日、韓国・檀国大学の金容雲首席教授が「日本語の起源は百済語」とする著書を著し、8月に日韓同時に出版されると伝えた。同記事に対して、中国人ユーザーによる韓国・韓国人批判が相次いだ。

 金首席教授は、朝鮮半島の三国時代(新羅・百済・高句麗)の歴史をしるした「三国史記」や高麗語資料の「鶏林類事」を研究し、「現代韓国語の主な起源は新羅語で、日本語は主に百済語が発展したもの」との説をたてた。また、日本の第26代継体天皇は、百済第22代王の弟の「昆之」と同一人物と主張した。

 これまで韓国で、「孔子は韓国人」、「漢字は韓国で作られた」、「イエス・キリストは韓国人」などの説が発表され、韓国に伝わる「江陵端午祭」がユネスコの世界文化遺産に登録されたことなどから、中国では「韓国人は歴史をゆがめ、横取りする」との反感が強い。(韓国起源説 by フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 同記事を紹介したインターネットサイト環球網のコメント欄には、韓国・韓国人を批判する書き込みが相次いだ。「中国に続いて日本。次はどこにする?」、「韓国人は実に“創造的”だ。日本人も目まいを起こしているだろう」、「天なる神も、韓国人だろう」、「太陽系も韓国人の発明」、「こういうのを見ると、日韓併合は正しかったと思う」などの声がある。

 「韓国語と日本語は近い言葉。それほど突飛な説ではない」との書き込みもあるが、少数だ。

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◆解説◆

 現在日本語と朝鮮語は、文法構造がよく似ており、発音構造の一部にも共通点がある。そのため、双方ともツングース諸語・モンゴル諸語・チュルク諸語を含むアルタイ語族に含まれるという見方がある。しかし研究者の見解が一致したわけではない。また、日本語と朝鮮語の近縁関係も、証明されたわけではない。

 中国語(実質的には別言語と見なせる諸方言)は、シナ・チベット語族に分類され、日本語や韓国語とは別系統。シナ・チベット語族に含まれる言語は、中国語、チベット語、ビルマ語など。

 ただし、「中国語は、(上古において)それぞれ別の言語を話していた商人が中原地帯で取り引きを行う片言(かたこと)から生まれた人工的な言語。しかも、漢末期からの混乱期に、本来の漢族は実質的に絶滅。その後の歴史で、大量に流入した北方民族が改めて中国語を形成した。つまり、古代中国語と現代中国語には断絶がある。古くから続く漢文(文章中国語)は本来、片言を記録するための記号列であり、そのため品詞の区別や時制など文法の本質的要件を備えていない。当初から言語(話し言葉)とは別の、通信・記録の手段。現代中国語の古語ではない」(歴史学者の岡田英弘氏)との説もある。

 継体天皇は、先代の武烈天皇が崩御した後、越前にいた応神天皇五世の子孫を迎えたとされる。出自に不明な点も多く、日本でも戦後になり「新王朝の始祖」とする説が発表された。(編集担当:如月隼人)

朝鮮日報韓国版 機械翻訳 現代日本語は百済語で出発

2009/07/22 Iza

'天皇は百済語話す'本出す金容雲教授

数字・終結語尾など類似韓国語は新羅語が母胎

 元老数学者金容雲・82檀国大客員教授が8月中旬'現代日本語の起源は百済語'という分析を入れた本《天皇は百済語話す》を韓国と日本で同時出版する。日本版は《日本語は百済語で出発》というタイトルをつける予定だ。

 蒸し暑さの中でソウル,瑞草洞(ソチョドン)個人研究室で詰めの原稿修正作業をしている金教授は"1983年数学史学会を創立して韓国と日本数詞の語源を研究し始めて以来20余年間韓国語と日本語の歴史を研究してきた"と話した。

 金教授は今回出版する本で《三国史記》 《鶏林類事》など過去の文献を通じて"現代韓国語は新羅語中心に収斂されたし,日本語は百済語中心に発展した"という挑発的な問題提起を投げる。

◆日本語は百済語が起源

 金容雲教授は"数字を数える言葉の数詞はよく変わらない基礎言語"として"韓国語と日本語は共通の祖語を持っている"と話した。11〜12世紀高麗時代言語の記録が豊富な中国宋代の《鶏林(ケリム)類似(有事)》によれば現代韓国語意で一つ'とは'河屯'で表記される。 キム教授は'下屯(ハドン)'の'しても(hadu)'発音と一つを意味する日本語'ヒトス(ひとつ)'の'ヒト(hito)'は同じ語源を持つことだと主張する。 二は'道(ド)割って(途?a)'であるが日本語'フタス(ふたつ)'の'後タ'で変形されたということだ。

 しかし日本語で'三'とは'ミス(みつ)'であり'五'とは'イスス(いつつ),'七'とは'ナナス(ななつ)で発音が全く違う。キム教授はこの場合で新羅語と百済語が各々韓国語と日本語に連結したことが分かると解釈する。

 新羅は三国統一以後征服紙の百済と高句麗の昔の地名を漢字語に変えたが《三国史記》 <地理誌>増えた変わった指名と昔の地名を共に書いている。 これによれば'三弦ヒョン(三〓県)'で名前が変わった村は本来'密波兮'であった。 '密'はまもなく'3'という意味で日本語'ミス'の語源と同じだということだ。 '七重県'という(のは)村は'難隠別'であったのに'難'とは'7'を意味する日本語'私も(なな)'のようだ。 《三国史記》エ'五'とは'于次'で現れるのにこれが日本語'イスス'になったということだ。

 金教授はまた日本語終結語尾は百済語で発見されると主張する。 現在全羅道なまりに'〜(ヘッ)当たりに'とは'したそうだ'という意の日本語'タッケ(だっけ)'であり,忠清道なまり'〜(ヘッ)立ちなさい'とは'〜付きます'という意の謙虚な終結語尾の'小路右(そうろう)'で残っているということだ。 '〜したというマ時' '〜(ハ)□傾向(税)'等は日本語終結語尾'マツ(ます)' '馬貰(ませ)' 'マ時(まし)' 'モウス(もうす)'などで変形された。 キム教授は"忠清道・全羅道話で'〜マ時' '〜立ちなさい'等が日常的語り口であることとは違って日本語では過去身分が高い貴族らが使ったし今まで格式ある語り口で残っている"と主張する。

◆"謎の天皇'継体'は百済王族昆支'"

 日本の歴史で《日本書紀》 《古事記》には26代天皇の'継体'が15代天皇の'応神'の5世孫だと記録されている。 しかし二つの文献では'継体'の先祖が具体的に誰なのかに対しては言及がなくて,ただし天皇の娘を妃としたとなっている。

 金教授は《三国史記》に百済22代賃金文週王の王弟で登場する'昆支'が'継体'と同一人物だと主張した。 《日本書紀》に出てくる天皇の名前はたいてい当代日本語の'大和'式吏読(イドゥ)で書いているのに継体の名前は'男大迹'だ。 金教授は"これは'大きい人'という意味の'オ・オットー(大人)'であり'昆支''やはり'大きい分'すなわち'大きい人'という意味"としながら昆支'"と男大迹'(継体)は同一人物"と解釈した。 金教授は"日本で百済を'くだら'と読むのは'大きい国'という意"としながら"日本は百済の分国だった"と主張した。 (以下略)



【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文語

2008.02.25 MSN産経新聞

 ■地名、方言に“直流”残る

 ≪「私の名前は」…≫

 「アバ(a−ba) ナアガ(naa−nga) マポ(Mapo)」「アニ(a−ni) ノノ(nono) ト(to) アヤ(aya) ト(to) イネ(ine) ト(to) イエ(ye) ト(to) オト(oto)、シ(si) ブイブム(bu−i−bu−mu)」

 日本や東北地方の民俗をテーマにした音楽活動で知られる「姫神」の代表曲の1つ、「神々の詩」では、こんな歌詞が繰り返される。シンセサイザーが創り出す幻想的な音の世界に響く女性の歌声は哀調を帯びながら、不思議な力強さと懐かしさも感じさせる。

 実はこの歌詞は、縄文時代に話されていた「縄文語」として、崎山理(おさむ)・滋賀県立大名誉教授が監修したものだ。「私は名前がマホです」「私に祖父(祖母)、父と母、兄(姉)と弟(妹)がいます」という意味だという。

 もちろん、縄文語の資料は存在せず、当時の言葉を直接知ることは不可能。崎山教授は「日本語は北方のツングース諸語と南方のオーストロネシア語族系の言葉が混合して成立した。両系統の言語が列島で出会ったのは縄文時代後期」と考えており、現代方言や奈良時代の上代日本語と列島の南北に位置する系統の異なる言語を比較し、縄文語の再構成に挑んだ。

 ≪北方系と南方系≫

 日本語のルーツは、「ツングース諸語」「モンゴル諸語」「チュルク諸語」の3グループから形成される「アルタイ語族」系統と考える説がこれまで言語学者の間では有力だったが、アルタイ語族の存在そのものについて、現在、意見が分かれている。

 崎山教授が注目したツングース諸語は、シベリア西部から満州、東はカムチャッカ半島や樺太に至る広大な地域で話されている10の言語。語彙(ごい)では「谷」という言葉を「や」「やち」「やつ」と読む関東地方独特の地名や、上代日本語の助詞・助動詞のルーツにツングース諸語の影響がみられるという。「神々の詩」の−バ(〜は)、−ガ(〜が)などがそうだ。例文中の「アカ(赤)キ(形容詞語尾)」「コロモボ(衣を)」などの言葉をみると、日本語とのつながりが感じられる。

 オーストロネシア語族は、現在の中国・雲南地方を故郷とし、6000〜5000年前に南方に移動を開始。フィリピンやインドネシアから西はマダガスカル島、東はイースター島まで広い範囲に広がった。ニューギニア付近からメラネシアに向かう途上で一部の集団が北上、縄文時代後期(4000〜3000年前)に列島に渡来し、言語ももたらされた、と崎山教授。

 オーストロネシア語系の影響として崎山教授が注目しているのが、南十字星を意味する魚の「エイ」から変化した「ハエ」「ハイ」が、(西)南や(西)南風を意味する言葉として、琉球、九州から山口、島根、紀伊半島など西日本、さらに静岡、八丈島まで広がっていることだ。

 「民族学では、縄文時代の列島は北方文化の影響を大きく受けていたといわれ、これがアルタイ系であったとすると、とくにツングース諸語が列島東北部に定着したあと、西日本からオーストロネシア語族系の言葉が広がり混合が始まったと考えられる」

 ≪出雲弁と東北弁≫

 東北弁と島根県・出雲地方の方言が似ていることは、推理作家、松本清張の「砂の器」で事件の謎を深めるトピックとして使われたことでも知られる。小泉保・元大阪外大教授は、この2つの方言を手がかりに縄文語の姿を追究している。

 東北方言と出雲や隠岐島など島根県東部から鳥取県西部で話される雲伯(うんばく)方言には、(1)「チ」と「ツ」、「シ」と「ス」、「ジ」と「ズ」の音が曖昧になる(例えば「口」と「靴」はいずれも「クチ」)(2)「イ」と「エ」の中間音が使われる(「命」は「エノ」)−といった共通点がある。

 同様の特徴は、新潟市周辺や長野市、富山県沿海部、石川県奥能登地方、更埴(長野県、現千曲市)の方言にもみられ、「東北から北陸、山陰、信濃北部に広がる言語圏があったと考えられる」

 さらに、「日本書紀」に「トンボ(蜻蛉)」として登場する「アキヅ」が、東北に「アケ(ゲ)ツ」「アケ(ゲ)ズ」、九州南部では「アケズ」「アケシ」、沖縄(本島)では「アケージュー」という方言として残っていることに着目。これらから推定される原形は「アゲンヅ」(agendu)で、東北地方に現在も残る発音(半有声の「ゲ(ge)」や鼻音の「ンド(nd)」)と重なり、東北方言は「極めて古い原日本語的状況を保持している」という。

 ≪日本海と太平洋側≫

 各地の方言の発音や語彙の分布調査を重ねた小泉元教授は、縄文の終わりから弥生時代にかけて、西日本に渡来した大陸系の人たちが縄文人と混血しながら拡散したとする「二重構造論」も考慮し、「東北から日本海沿岸各地と九州南部、琉球地方の方言は後期縄文時代には成立していた縄文語の直流」と結論づける。近畿地方を中心とした渡来人の勢力が波及しにくい地域だ。

 一方、岐阜・静岡や山口・広島各県という近畿の東西に位置する地域では、「えらい」を「(体が)たいへん」「しんどい」の意味で共通して用いる。小泉元教授は「山陽から関東にかけての太平洋側には、東北・日本海側とは別の東京式アクセントをもつ縄文言語圏があり、京阪式アクセントをもつ弥生系言語によって近畿地方で分断された」とみる。

 崎山教授と小泉元教授の研究は、地名や方言といった形で縄文語が現代日本語に受け継がれているという点で一致する。現代日本人が、縄文人のミトコンドリアDNAやY染色体を受け継いでいることを実感させてくれる見解だ。(小島新一)

日本語の起源はラテン語?夢とロマンの「新説」が話題に

2007年7月号 [ディープ・インサイド]FACTA online

 「伝統的な日本語の単語の多くがラテン語を起源としている」と主張する、与謝野達氏の「新説」が話題を呼んでいる。『ラテン語と日本語の語源的関係』(サンパウロ社刊)。タイトルは硬いが「ページを追うごとにパズルを解くような楽しみを発見する」と文化人類学者の山口昌男氏は評する。

 日本語約700語を題材に、その語源と見なされるラテン語を詳しく紹介してゆく。「奇想の書」と勘違いする向きもあろうが、比較言語学の最新の概念を使いこなしながら、長時間かけて丁寧に考察された興味深い労作だ。

 たとえば「こころ←corculum」 「哀れ←avare」「こい(恋)← cupio」 「上げる←aggero」「下げる← suggero」?「起こす←occurso」や、「がんばれ←quam vale」「おめでとう←omen datum」などのルーツはいずれもラテン語と喝破し、「2世紀以降のやや俗化したラテン語か派生語が、何らかの理由で日本の古代期に入り、日本語の形成に影響を与えた」と推測している。

 「語彙だけで押していっても文脈の対応を受け入れないのではとの意見もあろうが、人がローマからインド洋を渡り、東洋に至る航海が言語をアジアに繋いでいたかもしれない」(山口氏)。

 著者はベルギー、エジプト、スペインの仏系学校でラテン語を学び、東大法卒後、日本輸出入銀行などで活躍した国際的金融マン、語学の達人である。与謝野鉄幹・晶子の孫で、与謝野馨衆議院議員は実兄に当たる。情熱的な血脈を感じさせる夢とロマンの書だ。

縄文語

2003.02.07 ナツの国語学研究室

「縄文語」というのを、ご存知だろうか。
縄文語では「私」は「アー」、「あなた」は「ナー」、
「空」は「アマ」、「海」は「ワタ」、「星」は「ボツィ」と言う。

一部では話題になったことがあったらしいが、私は、つい最近「縄文語」なるものの存在を知った。
シンセサイザー奏者の「姫神」が、近頃の作品の多くを、縄文語の歌詞を付けて作っているらしく、それを、たまたまテレビ番組で目にして知ったのだ。
あるテレビ番組のテーマ音楽「神々の詩」という曲もその一つで、私も何度も耳にしていたのだが、それが縄文語であるとは知らなかった。

ア パ  ナア ガ  マポ
A−ba,naa−nga MAPO  
私は名前がマポです。

ア ニ  ノノ  ト アヤ ト イネ ト イエ ト オト シ ブ  イ ブ  ム
A−ni,nono to,aya to,ine to,ye to, oto si bu−i−bu−mu
私に、祖父(祖母)、父、母 、兄(姉)と弟(妹)がいます。

女性の地声で、こう、歌っている。
私は最初、私の大好きなブルガリアンボイスを真似た試みなのだと思って聴いていたのだが、我々日本人の原初の言葉を用い、そこにあるエネルギーを表出する試みであるらしい。
確かに、この曲は原始的なエネルギーに満ちて、何とも心を動かされる。

そのエネルギーは、何によってもたらされるのか。
言葉か、地声の響きか、音楽自体なのか。

地声の響きというのは、いわば、卑近な響きだ。西洋音楽的な裏声の透明な響きとは異なり、直接的に心と身体に訴えてくる。民謡のコブシなどはその代表だろう。
改めて聴くと、不思議なことに、ブルガリアンボイスもまったく同じである。ブルガリアの民謡なのだから当然と言えば当然なのだが、他のヨーロッパ諸国の音楽とは一線を画す。

言葉はどうなのか。
耳にする言葉は、意識して聴かなければ日本語かと思うような、違和感を感じない語感である。
近い言語である韓国語などもあまり違和感が無いものだが、この「神々の詩」の歌詞も、意味が取れないのにもかかわらず、違和感がない。
その事実は、この「縄文語」が、確かに我々に近い言語なのだと思わせる。

実のところ、この「縄文語」は正確なものではない。
国立民族学博物館教授:崎山 理氏らの研究によって、こうであったろうと再現されたものに過ぎない。
縄文時代には確かな文字もなく、また、実際に聴いて調べてくることも出来ないのだから致し方ないことである。

では、それをどうやって復元したのか。

日本人は、これまで外国からの文化を柔軟に吸収し、同化させてきた。
それは言葉にも表れていて、今、日本語として使われている言葉の多くは、かつて大陸、主に中国、朝鮮半島から事物と共に渡ってきたものだ。

漢語として認識できるものも多いが、我々が和語と思って使っている言葉の中にも、中国語を元にする言葉が見られる。
例えば「梅」。音読みで「バイ」、訓読みで「うめ」。
「梅(バイ)」はともかく「梅(うめ)」は和語だと思われるだろうが、漢語で「梅」は「メイ」と読む。「メイ」−「メ」−「(ン)メ」−「ウメ」と変化して「うめ」になったとも考えられる。

例えば「馬」。音読み「バ」、訓読み「うま」。
これは中国語で「マー」と読む。「マー」−「(ン)マ」−「ウマ」という変化があったと考えられる。Mの子音で始まる言葉は、日本語で「ン(ム)−」となることが多いのである。

このような、和語に溶け込んだ外来語を排除していくことで、日本語の原型である古代語(縄文語)の姿が垣間見ることが出来るのである。
他に、古くから残る地名、方言(アイヌ語)なども大きなヒントになる。
実際、現在の研究成果による縄文語には、アイヌ語、東北方言に似た言葉が多い。
かつて、言葉や文化の伝播は、都のあった京都・奈良を中心に、同心円上に広がっていった事を鑑みると、そこから遠い地に、古い言葉が残るのは当然の事と言えるだろう。

参考までに幾つか、縄文語の例を挙げてみよう。

髪:カミ
顔:トゥラ
耳:ミミ
鼻:パナ
くちびる:ピル
手:タア
胸:ムナ

「トゥラ」というのは、今でも顔を「ツラ」と言うことがあるし、手の「タア」も、「掌(たなごころ)などのような場合「手(た)」として使われる。胸の「ムナ」も「胸板」などでは「胸(むな)」であるように、現代とも共通の単語も多い。
先の「神々の詩」の歌詞でも、「名」は「ナァ」であるし、助詞は変わっていないと考えられている。
もちろん、ただの消去法と推測だけで復元しているわけではなく、オーストロネシア(タガログ語、マレー語など)語、モンゴル語などの、日本人のルーツと関係の深い言語をも参考にしているらしい。

こうした、失われた言語を復元する試みは、あるいは何の意味も持たないのかもしれない。
だが、言語を知ることは、その言葉を使っていた人々が、何を考え、何を重要視していたかを知る手がかりともなる。
何より、その響きは素朴で懐かしく、心にしみ入る。

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