TOPIC No. 2-80 小渕前首相

Index
a.2000年04月03日-04月05日、b.2000年04月05日-

TOPIC No. 2-80b 2000年04月05日-(小渕前首相)


小渕優子氏圧勝、世襲批判は浮上せず

2000.06.25(21:57)asahi.com
 小渕恵三前首相の死去を受け、群馬5区に立候補した前首相の次女で自民新顔の優子氏(26)は、「弔い選挙」のムードに乗った上に、「若さ」を強調した訴えで、ほかの3候補を圧倒した。群馬県渋川市の事務所で、「今日は父の63回目の誕生日。何よりのプレゼントになった。政治家小渕優子として、皆さんから命を授かりました」と初当選の喜びを語った。

 同じ選挙区には、旧社会党書記長を務めた社民の元職山口鶴男氏(74)らが立候補。「世襲」の是非も焦点となった。だが、山口氏は護憲を中心に訴え、共産新顔らほかの2新顔ももっぱら政策を主張。優子氏の人気が高く、「票に結びつかない」との読みから、「世襲批判」は争点に浮上しなかった。

小渕前首相合同葬に6000人

2000.06.08(20:35)asahi.com
 在任中に脳こうそくで倒れ、5月14日に死去した小渕恵三前首相の内閣・自民党合同葬が8日午後、東京都千代田区の日本武道館で行われ、約6000人が参列した。皇太子ご夫妻や森喜朗首相、伊藤宗一郎前衆院議長、斎藤十朗参院議長のほか、クリントン米大統領、金大中韓国大統領ら、153カ国と3つの地域、国連など22の国際機関から首脳、特使が参列した。一般の弔問者も1800人が訪れた。

 小渕前首相の強い意向でサミット(主要国首脳会議)の主会場になった沖縄にちなみ、式壇は白い砂と青い海をイメージして作られた。葬儀委員長の森首相は、小渕前首相の気さくな人柄や、経済の再生に努力したことなどにふれ、「沖縄サミットの議長としてさい配をふるっていただきたかった。誠に無念の極みであります」と追悼の辞を読み上げた。

 友人代表の堤義明・西武鉄道会長は「日本経済にわずかでも明るい日差しが差し込んできた。その功績はあなたにつくものです」とたたえた。

小渕前首相合同葬で学校に半旗 抗議の座り込みも

2000.06.08(22:10)asahi.com
 小渕恵三前首相の内閣・自民党合同葬が営まれた8日、東京都など各地で、一部学校で日の丸が半旗の形で掲げられ、愛知県内には教頭が黙とうを指示した中学校もあった。弔意表明を求めた文部省通知を受けてのことで、名古屋大学では名誉教授らが座り込みをした。

 千葉県四街道市の小学校では午後1時50分ごろ、校長が校庭の掲揚ポールの3分の2ほどの高さに日の丸を掲げた。県教委は「通知は強制ではない」と説明しており、同校の教員が抗議すると、3時ごろ校長自身が下げたという。

 埼玉県上尾市の小学校では、1月から毎日掲げている日の丸を、この日は午前中から半旗にした。教職員によると、校長が5日、学年主任らの会議で「黙とうをささげたい」と提案したが、「合同葬が総選挙目当てと言われており誤解を招く」などと反対が出たため、見送られたという。

 愛知県豊明市の中学校では半旗を掲げるとともに、5時間目の始業を知らせるチャイムに続き、教頭が「故人のめい福を祈り、黙とうします」と放送した。

 一方、東京都では、区市町村教委の判断で文部省の通知文が学校に届けられなかった地域もあった。

 この日学園祭があった名古屋大学でも、事務棟の屋上に半旗を掲げた。これに抗議して安川寿之輔名誉教授ら3人が座り込みをした。「国立大だからと同調するのではなく、国の機関として憲法の思想・良心の自由を守る必要がある」と話した。

小渕前首相の合同葬、154カ国379人が参列

2000.06.07(19:03)asahi.com
 外務省は7日、東京都内で8日に営まれる小渕恵三前首相の合同葬に参列する海外からの出席者を発表した。本国、国際機関本部から特使を派遣するのは84カ国、3地域、8機関。在京大使などを含めると154カ国、3地域、22機関にのぼり、計379人が参列する。

小渕氏の合同葬 内閣が明治天皇葬儀の例挙げ弔意要請

2000.06.07(14:40)asahi.com
 小渕恵三前首相の内閣・自民党合同葬が8日に行われるが、内閣が青木幹雄官房長官名で省庁を通じ、自治体や学校現場などに弔意表明を求めた通知文書の中に、明治天皇の葬儀の際に使われた弔旗の揚げ方を指示する「閣令」が添えられていた。添付文書は、国旗の上に黒布を付けた図が示され、タイトルも「大喪中ノ國旗掲揚方ノ件」と大正元年当時の古めかしいまま。内閣がかかわる首相経験者の葬儀はこれで7回目で、政府は「前例を踏襲したまで」としている。

 青木官房長官の依命通知は5月26日の閣議了解に基づく。(1)竿球(かんきゅう)を黒布で覆って日の丸の上部に黒布を付けるか、半旗を掲げる(2)黙とうは午後2時10分に行う――の2点を求めている。

 この通知文書では、弔旗の掲げ方は「大喪」(明治天皇の葬儀)での国旗掲揚方法を定めた大正元年(1912年)の閣令に準拠するとして、図柄付きの閣令を添付している。総理府によると、この閣令は、すでに効力を失っている大喪令の下で定められたものだが、「最近は弔旗の掲げ方を知らない人も多いと思うので、あくまで参考として添付した」という。

 首相経験者の葬儀に内閣がかかわるのは、戦後7回目。最近では福田赳夫氏の葬儀(95年)も、今回と同じく内閣と自民党が合同で行った。総理府によると過去6回の葬儀でも今回とほぼ同じ通知を各省庁に出しており、「前例にしたがった」と言っている。

 これを受けて、各省庁は都道府県などにも通知文書を転送した。

 このうち、文部省は、内閣官房長官から文相あてに、合同葬儀当日の「弔意表明」について依命通知があったことを伝え、「趣旨に沿ってよろしくお取りはからいください」「都道府県教委にあっては、域内の教育委員会に対しよろしく周知方お願いします」とする事務次官名の通知文を都道府県教育委員会などに出した。官房長官の依命通知と図柄付き閣令をそのまま添付しており、これも前例通りだという。すでに市町村教委にも流れ、学校に届いている地域もある。

 学校の教職員の間では「弔意を表すかどうかは、一人一人の自由であるべきだ」といった困惑も出ている。

 東京都教育庁は2日、文部事務次官からの通知を都内の区市町村教委に教育長名で流した。「当日における弔意表明について」と題を付け、弔旗の掲揚方法を説明した書類も添えた。教育庁は「今のところ問い合わせなどはない。どう対応するかは各教委の判断」と話している。

森首相、5カ国首脳と弔問外交

2000.06.07(21:11)asahi.com
 森喜朗首相は7日、小渕恵三前首相の内閣・自民党合同葬に参列するため来日した中国の銭其シン副首相ら5カ国の首脳と相次いで会談し、葬儀の機会を使った「弔問外交」をスタートさせた。9日までに計11カ国首脳と個別に会談する。首相は銭副首相との会談で、今月12日から行われる予定の南北朝鮮首脳会談について「成果が上がるようバックアップしてほしい」と中国の支援を求めた。銭副首相は「南北対話の実現を中国も支持している。対話自体が積極的意義をもつが、よい方向に進むのを願っている」と応じた。韓国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が首脳会談開催で合意してから、日本として中国に公式に支援を求めたのは初めてだ。

 森首相はロシアのフリステンコ副首相とも会談した。副首相は「8月末」で合意しているプーチン大統領の公式来日前に、両国の経済問題を話し合う貿易経済政府間委員会を再開するよう求め、事務レベルで調整することになった。副首相は、大統領の具体的な来日日程を近く日本側に提示する考えも示した。

 これに対し、森首相は、大統領来日によって「両国間で積み上げてきた合意に立脚し、さらに幅広い合意を重ねたい」と述べた。平和条約締結問題には、直接ふれなかった。ロシア側が早期再開を求めた貿易経済政府間委員会は、フリステンコ副首相と河野洋平外相が共同議長だが、昨年9月以降開かれていない。ロシア側には、平和条約問題が焦点となる大統領の公式訪日を前に委員会を開くことで、日本からの経済協力を加速させるねらいがあるとみられる。

 森首相はヨルダンのハムザ皇太子、イスラエルのベンエリエゼル副首相ともそれぞれ会い、九州・沖縄サミット(主要国首脳会議)で、中東和平プロセスを後押しすると伝えた。ベンエリエゼル副首相には、イスラエル軍のレバノン南部からの撤退を評価する考えも示した。

 森首相は8日、クリントン米大統領、金大中韓国大統領らと個別に会談するほか、9日にはタイのチュアン首相らと会う。

米大統領が日本国民に向け追悼を表明へ 小渕氏の葬儀後

2000.06.07(13:21)asahi.com
 米政府高官は6日、小渕恵三前首相の葬儀に出席するクリントン大統領の訪日日程を発表した。大統領は8日の葬儀後、駐日米大使公邸で日本国民向けに自ら追悼声明を発表する。森喜朗首相との会談は約30分間を予定しており、日本滞在は約8時間の「駆け足」訪日になるという。

 高官は、大統領は「前首相に非常に親密な感情を持っていた」と述べ、それが欧州・ロシア訪問直後の過密日程の中でも訪日にこだわった理由だと強調した。声明は前首相の業績をしのぶ内容で、九州・沖縄サミット(主要国首脳会議)などには触れないという。

 大統領は金大中・韓国大統領とも15―20分間、会談し、12日からの南北首脳会談へ向けた立場の確認をする。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への新たな提案を金大統領を通じて行うかどうかについて、高官は「米国は独自の対北朝鮮協議を続けており、金大統領を通じて提案をすることはない」と述べた。

首脳会談日程決まる -小渕前首相合同葬-

2000.6.6 The Sankei Shimbun
 青木幹雄官房長官は六日の記者会見で、八日に行われる故小渕恵三前首相の内閣・自民党合同葬に伴う森喜朗首相と各国首脳、代表らの会談日程を発表した。当初、検討された森首相とクリントン米大統領、金大中韓国大統領の三首脳による日米韓首脳会談は「日程の都合」(外務省筋)で実現せず、迎賓館で個別に行われることになった。主な日程は次の通り。

 【7日】フリステンコ露副首相、銭其●・中国副首相

 【8日】クリントン米大統領、金大中韓国大統領、エストラダ・フィリピン大統領、ワヒド・インドネシア大統領、ハワード豪首相、南太平洋諸国会議(SPF)

 【9日】東南アジア諸国連合(ASEAN)

●=深のさんずいを王に

小渕前首相合同葬に参列する特使派遣国・地域は83に

2000.06.05(22:04)asahi.com
 外務省は5日、8日に営まれる小渕恵三前首相の内閣・自民党合同葬に参列する海外からの出席者を発表した。5日までに83の国・地域と3つの国際機関が特使を派遣することが確定した。

小渕前首相を悼む 村山元首相が演説

2000.05.30(20:33)asahi.com
 「君の含羞を帯びた語り口は、何ものにも増して説得力を持ち、君は、存在そのものが雄弁だった」。5月14日、62歳で亡くなった小渕恵三前首相への追悼演説が30日の衆院本会議であり、今国会を最後に政界を引退する社民党の村山富市元首相が、その業績や人柄を偲んだ。

 本会議場では、小渕氏の遺影を手にした千鶴子夫人ら遺族が立ち会った。

 村山氏は、沖縄でのサミット(主要国首脳会議)開催を決断したことを「特筆すべき業績」とたたえ、「沖縄に集まる首脳たちの輪の真ん中に、どうしても君にいてほしかった。沖縄サミットだけは君の手で完結させてほしかった」と語りかけた。

 ときに「凡人」といわれた小渕氏について、村山氏は「偉ぶらず、常に謙虚で目線を低く生きる、そうした姿勢で凡庸に見えて非凡という境地を開かれた」と振り返った。小渕氏が「娘はかわいい。掌中の珠だよ」と目を細めて語ったことや、村山夫人の健康を気遣ってカーディガンを贈ってくれたエピソードも紹介。「宰相という厳しい重責は、君に一刻の休息も許しませんでした。本当にご苦労様でした」と締めくくった。

韓国の金大中大統領も小渕前首相の葬儀に参列へ

2000.05.28(21:02) asahi.com
 韓国大統領府は28日、東京で来月8日に行われる小渕恵三前首相の政府・自民党合同葬に、金大中大統領が日帰りで参列することを明らかにした。金大中大統領が、日韓関係を新たな段階に引き上げるために努力してきた小渕前首相を評価し、両国関係を重視している表れとみられる。

 また、合同葬は初の南北朝鮮首脳会談開始の4日前であり、クリントン米大統領も参列する予定だ。同会談への臨み方をめぐって米韓間に溝があるだけに、金大中大統領とすれば、クリントン大統領に自身の考えを直接伝えて理解を得たいところだ。

モンゴル首相が小渕前首相の葬儀に参列

2000.05.28(21:02) asahi.com
 モンゴル政府筋によると、6月8日の故小渕恵三前首相の葬儀に参列するためアマルジャルガル首相が同月7日から訪日する。また小渕氏が去年7月にモンゴル訪問した当時の首相だったナランツァツラルト前首相も別途訪日し、参列を予定している。

東南アジア各国の首脳が参列 来月8日の小渕前首相葬儀

2000.05.27(12:55)asahi.com
 タイ首相府は26日、来月8日に営まれる小渕前首相の葬儀にチュアン首相が参列すると発表した。同日のラオス外務省の発表によれば、シサワット首相も参列する。さらにベトナム外務省によれば、グエン・マイン・カム副首相が参列する。

 東南アジアではすでにフン・セン・カンボジア首相、エストラダ・フィリピン大統領らの参列が確定している。このほか、来月上旬に東京での民間セミナーに参加を予定しているインドネシアのワヒド大統領、マレーシアのマハティール首相も葬儀に参列するものとみられている。

中国、葬儀に首脳級派遣も

2000年5月22日 16時25分【北京・共同】
 中国の楊文昌外務次官は21日、訪中した外務省の江崎鉄磨総括政務次官との会談で、6月8日に行われる小渕恵三前首相の内閣・自民党合同葬について「ハイレベルの代表団の派遣を準備している」と述べた。北京の日本大使館幹部が22日明らかにした。

 中国側は、主要国の動向をみながら、首脳級の派遣も視野に、調整しているとみられる。

故小渕前首相葬儀警備で対策委員会を設置 警察庁

10:23p.m. JST May 19, 2000 asahi.com
 来月8日に予定されている故小渕恵三前首相の内閣・自民党合同葬儀の警備のため、警察庁は19日、佐藤英彦・同庁次長を長とする警備対策委員会を設置した。副委員長は石川重明官房長や各局次長、委員は審議官や課長らが務める。葬儀などの行事の警備のほか、葬儀に参列する外国要人の警護などの対策を協議する。

村山元首相が故小渕前首相の追悼演説、30日に

10:35p.m. JST May 18, 2000 asahi.com
 衆院議院運営委員会は18日の理事会で、故小渕恵三前首相への弔詞の贈呈と追悼演説を30日の本会議で行うことを決めた。議員を代表して社民党の村山富市元首相が演説に立つ。

 国会論戦では対立しても、与党党首への追悼演説は、野党第1党の党首クラスがすることが「よき慣例」となってきたが、自民党は今回、政権批判を強めている民主党の鳩山由紀夫代表や羽田孜元首相ではなく、遺族の希望も聞いて村山氏に要請した。

 首相経験者による元首相への追悼演説は、故芦田均氏を片山哲氏がしのんだ1959年以来。村山氏は首相在任時、当時、自民党副総裁だった小渕氏と親しかった。村山氏は今期限りで引退するため、この演説が議員生活最後の登壇となる。

小渕氏の弔問、122カ国の大使らが記帳

8:45p.m. JST May 17, 2000 asahi,com
 小渕恵三前首相の死去を受け、外務省は16、17の両日、東京都港区の飯倉公館で在京外交団と国際機関代表の弔問の記帳を受け付けた。122カ国、12国際機関の大使や代表が記帳した。

「あまりに急に駆け抜けた人生」 小渕前首相の密葬

8:01p.m. JST May 16, 2000 asahi.com
 「一日一生涯、素晴らしい人生であったと思いますが、あまりにも急に駆け抜けてしまいました」。故小渕恵三前首相の密葬が16日午後、東京都港区の青山葬儀所で営まれ、長男の剛氏がこうあいさつした。

 密葬には、森喜朗首相ら政財官界の多くの要人が参列し、花をささげた。小渕氏の葬儀と知って、平服のまま参列した会社員や主婦ら、献花の列は葬儀場の外の歩道まで長く続いた。

 葬儀に先立ち、会場では「大いなる悲観主義から脱却すべき時が来た」など、小渕氏の国会での演説が5分間にわたって流された。1分間の黙とうの後、剛氏が遺族を代表してあいさつした。小渕氏が生前、剛氏に「信」(まこと)という1文字を書いてみせ、「自分はこの言葉に基づいて人生を送っている。葬儀の時には皆様にこの言葉だけ申し上げなさい」と伝えていたことを紹介した。

クリントン米大統領が小渕前首相の葬儀出席を示唆

3:00p.m. JST May 15, 2000 asahi.com
 クリントン米大統領は14日、小渕恵三前首相の死去を受けて「敬意を表するために、できることなら何でもしたい」と述べ、日程の調整がつけば、葬儀への出席も検討したいとの意向を示した。

 ホワイトハウスで記者団に対して語り、「日本との関係だけでなく、小渕氏に対する個人的な思いもあってのことだ」とも説明した。

 AP通信によると、ホワイトハウスのスタッフがすでに検討を始めているが、結論はまだ出ていないという。

6月8日に小渕前首相の合同葬 内閣・自民方針

5:16p.m. JST May 15, 2000 asahi.com
 政府・自民党は15日、脳こうそくで14日に死去した小渕恵三前首相の「内閣・自民党合同葬」を6月8日午後2時から東京の日本武道館で行う方針を決めた。自民党内では、6月13日公示―25日投票で日程が固まっている総選挙に向けて、小渕氏への同情票に期待する空気が強く、選挙前の合同葬で「追い風」にする狙いがありそうだ。

 合同葬は当初、今月20日から6月1日までの天皇訪欧中を避け、衆院解散前の同月2―4日の間に行う方向で調整していた。しかし、会場の都合がつかなかったという。選挙に近い日どりで合同葬をすることには、小渕氏の死去の「政治利用」との批判が強まりそうだ。

 戦後の首相で国葬は吉田茂氏だけ。1955年の保守合同以降、佐藤栄作氏が国民葬、岸信介、大平正芳、福田赳夫の三氏が内閣・自民党合同葬。鳩山一郎、石橋湛山、池田勇人の三氏は自民党葬だった。

小渕氏に大勲位菊花大綬章

2000年5月15日17時34分
 政府は15日の持ち回り閣議で、14日死去した小渕恵三前首相(62)に正二位、大勲位菊花大綬章を贈ることを決めた。

 大勲位菊花大綬章は、最近では中曽根康弘元首相が1997年春に受章。福田赳夫、三木武夫、岸信介、大平正芳の各元首相が死去後に受章している。

雨の中3500人が参列 小渕前首相の通夜

8:59p.m. JST May 15, 2000 asahi.com
 14日に死去した小渕恵三前首相の通夜が15日夕、東京都港区の青山葬儀場で営まれ、政財界など各界から約3500人が参列した。小渕前首相は、生前に家族にあてて「葬儀は簡素なものにしてほしい」との書き置きを残しており、その遺志にしたがって式は献花方式で行われた。

 遺影が飾られた祭壇わきには、千鶴子夫人ら遺族のほか、橋本龍太郎元首相や綿貫民輔元幹事長、野中広務幹事長、青木幹雄官房長官ら旧小渕派の幹部が並んだ。政界からは森喜朗首相をはじめ、中曽根康弘元首相、海部俊樹元首相、村山富市元首相が出席。自民党総裁選で小渕氏と競った加藤紘一元幹事長や、小沢一郎自由党党首、扇千景保守党党首らも参列し、花を手向けてめい福を祈った。

 経済界からは、前首相との交友が深かった樋口広太郎・経済戦略会議議長や孫正義ソフトバンク社長らが参列。中坊公平・日弁連元会長やフォーリー米駐日大使、タレントの片岡鶴太郎さんも出席し、前首相の交友の広さをうかがわせた。

 小渕家による密葬は16日午後、同じ青山葬儀場で行われる。

小渕前首相病状経過 医師団会見要旨

11:46p.m. JST May 14, 2000 asahi.com 
 小渕恵三前首相の治療の経過について、順天堂大学付属順天堂医院の医師団が14日に行った記者会見の要旨は次の通り。

 <猪狩淳・診療部長> 家族の意向を十分尊重し、病状、経過については公式発表を控えてきた。本院は、職務上知り得た情報を本人、家族の了承を得られない場合は公表しない。しかし、小渕氏は公人中の公人であるので、病状の詳細、推移などは首相官邸に刻々と逐一伝えてきた。

 <水野美邦・脳神経内科教授> 4月1日午後11時前、ソファから立てなくなり、2日午前1時すぎに来院した。すぐ磁気共鳴断層撮影(MRI)検査をした。左手足の中程度の筋力低下で、意識はしっかりしていた。右の大脳動脈の3つの枝の1つが閉そくしていた。午後2時にMRIを再度した。午後7時ごろ青木官房長官が来たが、そのころの意識状態は、極めて清明ではないが、十分質問に対して答えられる状態だった。

 その後、軽いおう吐があり、多少意識が低下していることに気がつき、コンピューター断層撮影(CT)検査をした。7時45分から8時ぐらいだった。出血が認められ、出血性こうそくと判断し、集中治療室に移した。午後10時少し前、一応呼吸はあったが少し浅い傾向があり、人工呼吸器に継いだ。意識状態は少しずつ低下しており、午後11時半ごろには昏睡状態と判断せざるを得ない状態になった。

 大型連休後半から、血圧の昇圧剤の反応が悪くなった。12日から血圧低下が著しくなり、尿量が少なくなった。本日午後4時7分、心停止した。この間、ご家族が24時間、献身的な看病をされ、感動した。

 <記者> 青木氏に小渕氏は文章を話せる状態だったのか。

 <水野氏> 部屋にいなかったので実際どういう会話をしたかはわからないが、その前後の状況から、長い文章を明りょうに話すことは難しかったのではないかと推定している。ただ、まわりの方が言うことを聞いて、それを理解して、うなずくとか、「よろしく頼む」とか、その程度のことは言える意識状態だったのではないか。

 <記者> 例えば単語しか言えなかったのか。

 <水野氏> 相づちをうつとか、わかったとか、よろしくとか、そういうのを単語というのならそうかもしれないが、「よろしく頼む」というのは必ずしも単語とは言えないと思うので、その程度の長さの応答は出来ただろう。

 <記者> 「有珠山のこともあるので万事よろしく頼む」というような文章は成立しなかったのか。

 <水野氏> あのような文章はちょっと難しかったかなという風に推定しているが、これは私たちの推定であって、その場に居合わせていないので正確には答えにくい。

 <記者> 医学的見地からは不可能か。

 <水野氏> 医学的に意識があるとかないとか言う場合は、あるかないかではなくて、その間いくつかの段階がある。その段階に応じて反応がそれぞれあるので、その意識状態に応じた反応があっただろう。

 <記者> なぜ医師は立ち会わなかったのか。

 <水野氏> 医師は、面会の人が来たら、どなたであれその場には立ち会わないのが通例だ。

 <記者> 最後は脳死状態だったのか。

 <水野氏> 脳波は何回もとったが、最後まで平たんではなかった。

 <記者> 青木氏が記者会見であの文章を発表したときはどう受け止めたか。

 <水野氏> 正直なところ多少びっくりした。政治のことはあんまり玄人ではないし、いかに治療するかに専念していたので、それ以上、深く考える余裕はなかった。

 <記者> 青木氏が小渕氏と会う前は軽いおう吐もなく意識レベルも安定していたか。

 <水野氏>そうです。

 <記者> 青木氏は小渕氏とどのぐらいの時間会ったのか。

 <水野氏> 5、6分じゃなかったかと思う。

  (小渕氏の遺体見送りのため中断後、再開)

 <水野氏> 最終的には脳こうそくと判断した。2日の夕方7時45分から8時ごろにかけて、CT検査をやった後で判明した。2日午前1時半から2時半の検査ではまだ、出血こうそくになっていなかった。午後2時のMRIでは出血こうそくにはなっていなかった。

 <記者> 往診したときの処置が午後11時。入院まで2時間あった理由は。

 <水野氏> 事情は分からないが、どちらの家庭でも最初から意識を失ったり強く発作したら救急車呼ぶのだが、発症したのがソファに座っていて立とうとしたら足が弱いことに気づくなど非常に急性ではない。意識もはっきりしていた。一晩休めば、回復するのではないか、という期待も持っても不思議ではないと考える。これはスペキュレーション(推測)だ。

 <記者> なぜすぐに連れてこなかったのか。

 <水野氏> それはよくわからない。私は1時15分に着いた。10分待機していた。

 <記者> 1時間早ければ病状が変わったか。

 <水野氏> 仮定の話。考えられないことはない。

 <記者> 2日夜、小渕氏は青木氏に言葉を発したか。

 <水野氏> 目を開けて下さいといえば、目を開け、右を向いて下さい、といえば、右を向くし、右の手を握って下さいといえば、握るという状態だ。

 <記者> 青木氏が帰った後の言葉は。

 <水野氏> 聞いていないが、(小渕氏の病室がある)14階の看護婦が先生を呼ばれた声を聞いた、と言っていた。2日午後7時ちょっと前の段階で、長官に会う前のことだ。

 <記者> 2日夜、青木氏には首相の意識についてどんな説明をしたのか。

 <水野氏> 入院してからの経過と検査所見を説明した。

 <記者> 会話が不自由だといった説明は。

 <水野氏> 会話はそんなに不自由ではなかった。(障害があったのは)右半球ですから、言語中枢は左にあるので、あまり説明する必要を感じなかった。

 <記者> おう吐があって意識が低下したのは何時か。

 <水野氏> 午後7時半くらいだったと思う。軽いおう吐の症状があった。ただ急激に意識状態が低下したわけでなく、徐々に反応が悪くなっていった。

 <記者> 連休後半に昇圧剤の反応が悪くなった理由は。

 <水野氏> 血圧維持のためには脳の延髄が必要。そこに障害が来ると昇圧剤を使っても血圧が維持できない。おそらくそういう状態になったのではないか。

 <記者> 家族との間で延命治療をするかどうか相談したのか。

 <水野氏> 13日の段階で、どういうことが予想されるかを話し、家族の気持ちを確認した。家族としては心臓が動いている限り最後まで手を尽くして欲しいという気持ちだったので最後まで治療を継続した。

 <記者> 心停止後は。

 <水野氏> それは全くしなかった。家族もある程度のことは理解していたし、そういうことをしても回復の可能性は小さいと私たちも判断したので、静かに見送った。

「小渕氏、日米関係強化に功績」とブリアー元駐日公使

5:57p.m. JST May 14, 2000 asahi.com
 小渕恵三・前首相と20年来の知り合いで、外交官として日米関係に長くかかわったビル・ブリアー元駐日公使は「首相としての在任期間中は、それほど長くはなかったにもかかわらず、米日関係を建設的方向にもっていくのに、多大な貢献をした。これが米側関係者にほぼ共通の見方だ」と語った。

 具体的には、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)関連法の制定で、日米安保関係の基盤を一層固めたことや、日本経済を立て直そうと努力したことなどを指摘。「政権発足当初の米側の期待はあまり高くなかったが、かなりの実績を残した」と高く評価した。「クリントン大統領とも、単に強固なだけでなく、極めて友好的な関係を築くことに成功した」という。

 ブリアー氏が小渕氏と面識を持ったのは約25年前。以来一貫して小渕氏は日米関係に強い関心を示し、米国に友好的だったという。「まだ学生だった頃に、グレイハウンド・バスで米国大陸を横断したことをよく話してくれた」と思い出を語った。

「万事よろしくは困難」 小渕前首相の医師団が会見

01:00a.m. JST May 15, 2000 asahi.com
 順天堂医院の医師団は14日、小渕氏が緊急入院して以来、初めて記者会見した。青木官房長官が4月2日夜に見舞った際の病状について、担当の水野美邦教授(脳神経内科)は「長い文章を明りょうに話すことは難しかった」と説明。青木氏が「有珠山噴火の心配もあり、何かあれば万事よろしく頼む」と首相臨時代理への就任を含めて小渕氏から指示されたと説明している点について「あのような文章はちょっと難しかったと推定している」として医学的には困難だったとの見方を明らかにした。

 担当医が青木氏と食い違う見解を明らかにしたため、青木氏の臨時代理就任の根拠は極めて怪しくなり、民主党などはその政治責任を厳しく追及する考えだ。

 水野教授は会見で、当時の小渕氏の意識状態について「極めて清明ではないが、十分質問に答えられる状態だった」と説明。青木氏と会う前の小渕氏の意識状態について「私が『目を開けてください』というと目を開け、『右を向いてください』というと右を向いた。ふつうは名前を聞いたり年を聞いたり、時計を見せて『これは何ですか』と聞くが、総理なのでしなかった」と説明した。

 青木氏が小渕氏と会った際は水野教授は病室に入らなかったため、青木氏と小渕氏との会話については「正確には答えにくい」と確答を避けた。しかし、「周りの方が言うことを聞いて、それを理解してうなずくとか『よろしく頼む』とか、その程度のことは言える意識状態だったのではないか」と述べた。

 青木氏が記者会見で「小渕首相から『有珠山噴火の心配もあり、何かあれば万事よろしく頼む』と指示を受けた」と説明したのを聞いて、水野教授は「正直なところ、多少、びっくりした」という。ただ、「政治のことは玄人でなく、治療に専念していたので、それ以上深く考える余裕はなかった」と述べ、特に異は唱えなかったという。

 水野教授によると、小渕氏は青木氏と面会した後、軽いおう吐があり、午後7時45分から午後8時の間にCT(コンピューター断層撮影)検査をしたところ出血が認められ、「出血こうそく」と判断し、集中治療室に移した。猪狩淳診療部長は「病状の詳細、推移は官邸に逐一伝えてきた」と述べた。しかし、青木氏は4月2日午後11時半の会見でこうした病院の判断に言及しなかった。

経済界から小渕前首相死去を悼む声相次ぐ

4:59p.m. JST May 14, 2000 asahi.com
 14日死去した小渕恵三前首相に対して、経済界から追悼のコメントが相次いだ。経済構造改革や日本の将来構想作りのため首相主導で多くの会議を設け、そのメンバーに経済人を多く登用するなど関係が深かっただけに、道半ばの急逝を惜しむ声が多かった。

 「経済戦略会議」のメンバーだった奥田碩・日経連会長は「21世紀の日本経済の姿は、今後2、3年の構造改革の成否で決まる。残された我々は、小渕首相の遺志を受け継ぎ、新生日本の構築に総力をあげて取り組みたい」と語る。「21世紀日本の構想」にかかわった小林陽太郎・経済同友会代表幹事は「道半ばであり、無念の思いは、察するにあまりある」と悼んだ。

 稲葉興作・日本商工会議所会頭は「日本発の恐慌を回避した功績は特筆されるべきだ」と評価。「会合でお会いする機会も多かったが、ひょうひょうとしたイメージとは裏腹に固い信念と実行力をお持ちだった」としのんだ。

 小渕氏を囲んで「稲門の会」を政財界の早稲田大学の同窓生らで続けていた経団連の三好正也・前事務総長は「わたしの事務総長退任が発表された際、最初に電話をくれ、慰労された。気配りのきく人で、非常に謙虚という印象が強い」と振り返る。

 また、ベンチャー経営者の孫正義・ソフトバンク社長は「ソフトバンクが進めるナスダック・ジャパン、世界銀行とのプロジェクトに対して励ましの言葉をかけていただくなど、心の広い親しみにあふれた首相でした」とコメントした。

後継に二女優子さんか

2000年5月14日17時22分共同
 小渕恵三前首相が14日死去したことに伴う衆院群馬5区の後継候補としては、秘書で二女の優子さん(26)の出馬が有力視されている。

 自民党小渕派は10日、病状の深刻さから前首相の出馬は困難と判断、優子さんの擁立を確認している。小渕家と地元後援会の正式決定を踏まえたうえ、党本部で公認を決める。優子さんは成城大卒。民放テレビ局を経て、昨年4月から元首相の私設秘書を務めていた。

小渕恵三前首相が死去

5:03p.m. JST May 14, 2000 asahi.com
 東京都文京区の順天堂大学付属順天堂医院に脳こうそくで入院していた小渕恵三(おぶち・けいぞう)前首相が14日午後4時7分、死去した。62歳だった。葬儀・告別式の日取りは未定だが、政府・与党は在職中に倒れたことを考慮して「内閣・自民党合同葬」を検討している。小渕氏の首相在任期間は615日で、戦後の歴代首相では14番目の長さだった。政策面では、景気対策に取り組んだが、大量の赤字国債を残した。また世論の賛否が大きく分かれた国旗・国歌法、通信傍受(盗聴)法など国家色の強い法律を成立させた。

 小渕氏は4月2日午前1時ごろ、体調不良を訴えて順天堂医院に緊急入院し、脳こうそくと診断された。当初は意識もあったが、容体が急変。集中治療室に入り、昏睡(こんすい)状態になった。その後、小康状態を保っていたが、4月末から病状がさらに悪化。深刻な状態が続いていた。

 小渕氏は首相在任中に首相の臨時代理を指定しておらず、青木幹雄官房長官が「病室で小渕首相から『有珠山噴火の心配もあり、何かあれば万事よろしく頼む』と言われた」として、臨時代理に就任。4月4日に内閣を総辞職した。しかし青木長官が会った時に、小渕氏は意味のある会話をするのが難しい状態だったことがわかり、小渕内閣の総辞職から森内閣の発足までの手続きの不透明さが問われる事態となっている。

 また、昨年4月から入院していた竹下登元首相は小渕氏が倒れたショックから引退。竹下派の幹部だった梶山静六元官房長官も引退表明するなど、小渕氏の病気退陣が世代交代を促す結果ともなった。小渕派は集団指導体制を強めるなど、自民党の権力構造にも影響を及ぼしている。

   ◇   ◇

 小渕氏は1937年、代議士を2期務めた光平氏の次男として群馬県中之条町で生まれた。光平氏が58年に死去し、早大大学院に在学中の63年の総選挙で旧群馬3区から初当選、96年の総選挙(群馬5区)まで12回連続当選した。

 自民党の佐藤派から田中派に入り、大平内閣で総理府総務長官兼沖縄開発庁長官として初入閣。竹下元首相の側近で、87年に発足した竹下内閣では官房長官を務めた。92年には竹下派後継をめぐる小沢一郎自由党党首との抗争に勝ち、派閥会長に就任した。

 98年7月、参院選惨敗で橋本龍太郎首相が引責辞任。後継を選ぶ自民党総裁選で、梶山元官房長官、小泉純一郎元厚相を破り、国会で第84代の首相に指名された。昨年9月の総裁選でも再選された。

 小渕内閣は当初、基盤が不安定で、98年秋の「金融国会」では、金融再生法をめぐって民主党など野党の要求に大幅な譲歩を余儀なくされた。

 その危機感から99年1月、自由党と連立。公明党の協力も得て、新しい日米防衛協力のための指針(ガイドライン)関連法や国旗・国歌法、通信傍受法などを成立させた。10月には公明党とも連立。参院の過半数を確保し、衆院では全議席の7割を超える「巨大与党」を実現した。

 経済運営では「経済再生」を掲げて橋本政権の財政再建路線を転換した。景気回復に取り組み、一定の成果を上げたことなどから支持率も上昇。一方で、景気対策の財源として赤字国債を大量発行し、次世代に大きなツケを残したことや、閣僚の失言、警察不祥事などで、今年に入って支持率が低下した。

 4月1日には、連立離脱騒動を再三繰り返した自由党との連立解消に踏み切った。小渕氏が倒れたのは、その夜だった。

小渕前首相が死去

'00/5/14 by 中国新聞
 小渕恵三前首相は十四日午後四時七分、入院先の東京都文京区の順天堂大学付属順天堂医院で死去した。六十二歳だった。

小渕前首相入院関連 by上毛新聞

小渕氏、依然危険な状態

2000年5月14日 10時12分合同
 脳梗塞(こうそく)で東京都内の病院に入院中の小渕恵三前首相は、13日も危険な状態が続いた。

 自民党小渕派では、万一の事態に備えて幹部がいつでも連絡をとれる態勢を敷いたほか、野中広務幹事長が同日午前、地元京都での日程を急きょ取り消し、帰京して自民党本部に詰めるなど、緊張した場面もあった。

小渕氏の病状、ネットに 院内の電子情報流出か?

03:22a.m. JST May 14, 2000 asahi.com
 脳こうそくで入院中の小渕恵三前首相の病状だとして東京都内の弁護士がインターネットのホームページに載せている情報が、入院先の順天堂大学付属順天堂医院内の電子記録から流出した疑いのあることが関係者の話でわかった。順天堂医院も流出に気づき対応した。内容には、推測によるとみられる部分もあるが、ほかは病院関係者の話と一致している。この弁護士は「(小渕氏は)私人ではないのだから、病状は国民に明らかにしなければならない」と、掲載の理由を説明している。

 病状を紹介するホームページで、弁護士は「東京地検特捜部関連筋の情報」としているが、詳しい入手先は明らかにしていない。

 4月20日付の書き込みによると、同月2日に搬送された小渕前首相は「佐藤」という偽名で扱われ、ただちに磁気共鳴断層撮影(MRI)の検査を受けた。同日午前2時50分に脳こうそくと診断され、使われた薬の名前も書かれている。この時点ですでにまともな会話はできない状態だった、と記載されている。

 同日午後から夜にかけて昏睡(こんすい)状態に陥り、脳こうそくが出血性こうそくに悪化、人工呼吸器による管理がされ、12分間、心臓マッサージをした、とされている。

 病院関係者の話によると、情報は病院内のパソコンから出た可能性が高い。入院時の偽名、病室、点滴の薬などは正しかったが、病状などはややあいまいだった。電子記録の流出にすぐ気づいた病院側が、さらに偽名を変えるなどの対応をした。推測で補っている部分があり、呼吸停止と心臓マッサージなどは事実ではない、という。

 関係者によると、順天堂医院はカルテや看護記録などを電子化しておらず、電子情報は薬や検査の指示、情報交換など医師や看護婦の連絡用に使われているという。情報は院内の限られた人しか見ることはできないとしている。

 ホームページで公開した弁護士は「正確な病状が公表されないのはおかしい。たまたま情報を入手したので紹介した。正しい情報だと思っている」と話している。

小渕前首相の容体が厳しい状態に

8:52p.m. JST May 13, 2000 asahi.com
 脳こうそくのため、順天堂大学付属順天堂医院(東京都文京区)に入院している小渕恵三前首相の病状が13日、極めて深刻な状態になった。病院関係者によると、血圧がかなり下がり、昇圧剤を使っても反応しにくくなっているようだという。

 小渕氏は、4月2日に入院。同日夜に容体が急変し、人工呼吸器で呼吸の管理を始めた。しかし、深夜には昏睡(こんすい)状態になった。

 これまで何度か危機があったが、その都度、薬を使うなどして持ち直してきた。しかし、13日午前になって、昇圧剤を使ってもこれまでのように回復させるのが困難になった。

 病院関係者によると、最高血圧は40ちょっとまで落ちたという。同日には、病院側は、生命を長く維持するのが難しくなってきたことなどを家族らに説明した模様だ。

小渕前首相、青木氏が見舞った時は意味ある会話が困難

3:15p.m. JST May 13, 2000 asahi.com
 脳こうそくで4月2日に緊急入院した小渕恵三前首相は、右脳の太い動脈が詰まり、同日夜に青木幹雄官房長官が見舞った時には、すでに意味のある会話をするのが難しい状態になっていたことが、入院先の順天堂大学付属順天堂医院の関係者の話でわかった。その際には、医師も席を外しており、青木氏の説明通り「何かあれば万事よろしく頼む」と小渕氏が発言したとすれば、医学的には奇跡に近いことのようだ。

 小渕氏は13日も血圧が低く、容体は悪化しているとみられている。

 病院関係者によると、脳こうそくは、右目の外側上あたりを走る、太い動脈である中大脳動脈が詰まったのが原因で、右脳の広範囲に血液が行かなくなった。小渕氏は心臓障害があり、心臓でできた血栓が脳に運ばれたらしい。

 入院直後から、こうそく部分が広がりつつあったため、抗凝固剤や、脳浮腫治療薬などが点滴された。

 小渕氏は当初、ろれつはおかしかったが、短い言葉は話せた。医師団は入院直後と、午後2時ごろに磁気共鳴断層撮影(MRI)をした。最初のMRIではあまり重症ではなかったが、2回目はこうそくが右脳全体に広がっていた。

 青木氏は午後7時過ぎに見舞った。青木氏、小渕夫人、秘書の3人に2回目のMRIの写真を見せて説明し、夫人が青木氏に「お会いになりますか」と聞き、青木氏が数分、小渕氏と言葉を交わしたという。

 医院関係者はこの時点では、小渕氏は意識があったと説明している。夫人も医師も席を外したため、青木氏と小渕氏は2人だけだった。この時に「よろしく頼む」などの依頼があったと青木氏は説明しているが、医院関係者は、否定はしないものの、極めて困難だったとみている。その後、集中治療室に入るころに小渕氏は夫人の名前と、最後の言葉「先生」を発しており、言葉が話せたことは事実のようだ。

 しかし、医師がMRIの写真などであらかじめ病状を説明したのは、本人がほとんど何も説明できない状態であるための可能性が高い。関係者は、その場にだれもいなかったので断定できないものの、青木氏がしゃべったら、短い言葉が出て、うなずいたように見えたかも知れないという。

 青木氏の到着前からすでに詰まった血管の部分から出血性こうそくが始まり、容体は悪化していた。小渕氏は青木氏がいるときか、帰った直後に病状はますます悪化、集中治療室に移された。人工呼吸器が使われたが、やがて昏睡状態になった。

 これまで青木官房長官は、小渕氏を見舞った時に小渕氏から「有珠山噴火の心配もあり、何かあれば万事よろしく頼む」といわれたとして、この発言で首相臨時代理の指定があったと説明してきた。しかし、その後に臨時代理をだれにするかについて青木氏を含む党幹部の間で協議したという発言もあり、国会などで青木氏の発言の信ぴょう性が問題になっていた。青木氏と会ったときに小渕氏がすでにほとんど話せない状況になっていたとすれば、信ぴょう性はますますなくなってくる。

依然、こん睡状態

【5月2日】上毛新聞
 小渕恵三前首相が脳梗塞(こうそく)で倒れ、東京・本郷の順天堂大学付属順天堂医院に入院してから一日で一カ月が経過した。前首相の容体は血圧や脈拍などが安定しているものの、依然として意識不明のこん睡状態にあり、青木幹雄官房長官は同日の記者会見で「今のところ病状に変化はありません」と述べた。病床では、千鶴子夫人らが必死の看病を続けている。

 前首相は先月二日午前一時ごろ、体調の不良を訴えて主治医のいる同医院に緊急入院。検査の結果、脳梗塞と診断された。

 病院に寝泊まりしている家族のもとには、全国から寄せられた激励の手紙や電子メールが届けられ、心の支えになっている。

 ◎「連休明けの結論は困難」新政小渕会

 小渕恵三前首相の入院に伴う衆院5区の候補者選考で、先月二十九日に小渕家からの出馬に向けた検討を千鶴子夫人に要請した前首相の地元支援組織の新政小渕会(会長・中村栄一県議)は一日、同夫人との話し合いの内容などを自民党県連常任役員会に報告した。新政小渕会は報告に際し、連休明けに選考を結論づけるのは困難―との見方を示し、県連側も小渕家の意向を尊重して動向を見守ることを申し合わせた。

小渕氏入院 往診医師説得にためらい、2時間遅れる

[毎日新聞5月2日]
 先月2日未明、順天堂大付属順天堂医院(東京都文京区)に脳こうそくで緊急入院した小渕恵三前首相が、青木幹雄官房長官の面会の数時間前に脳血管から出血する「出血性こうそく」を併発し容体を悪化させていったことが1日、病院関係者の話で分かった。さらに、前首相が前日の1日午後11時前に体調の不良を訴えていたのに、公邸に往診した医師の説得にためらうなどして入院が2時間以上、遅れたことも判明した。脳こうそくは発症から2時間くらいまでに脳の血管に詰まった血栓(血の塊)を溶かす血栓溶解剤を使った治療を施せば効きめがあるとされる。医師らは発症から時間がたち過ぎているとして、投与を断念していた。

 関係者によると、小渕前首相は先月1日午後11時前、首相公邸で体調の不良を訴えた。家族らはかかりつけの同医院の医師に往診してもらった。一方、2日午前0時ごろ、入院後に担当医となる医院神経科の医師の自宅に呼びだしの電話がかかり、午前1時までには態勢が整っていた。

 ところが、前首相が同医院に到着したのは午前1時20分ごろ。病院関係者は「本人や家族が病院に行くのをためらったため、公邸で診察した医師が説得していた」と証言した。

 入院後、医院側は直ちにMRI(磁気共鳴画像化装置)を使い、脳こうそくの疑いと診断した。しかし、前首相側の話などを基に、医院側は発症から2時間以上経過していると判断、血栓溶解剤の使用をあきらめ、血がかたまりにくくする別の薬を投与したという。

 さらに、前首相は2日午後2時以降に、詰まっていた血栓が自然に溶けて血流が再開した時、弱くなっていた血管から出血する「出血性こうそく」の症状が出始めた。容体は同夜に向け次第に悪化していったことも分かった。

 青木長官はこれまで国会や記者会見などで、「前首相の入院は2日午前1時で、気分が悪いと訴えたのはその30分ぐらい前」などと説明してきた。また、前首相は2日午後7時ごろ、青木長官と面会した後の午後7時半以降に病状が悪化したとされている。

 国会では首相の臨時代理指名を巡り、前首相と青木長官の「密室」のやりとりが憲法70条や内閣法9条の「首相が欠けた時」や「((首相が)あらかじめ(臨時代理を)指定」などに当たるかどうか論議を呼んでいる。前首相の詳細な病状に基づく判断が不可欠で、改めて同医院の医師らに入院当時の前首相の病状説明を求める動きが強まりそうだ。

官房長官の首相臨時代理就任に小渕氏の明確な指示なし

8:57p.m. JST April 10, 2000
小渕恵三前首相が2日未明に緊急入院し、同日夜に見舞った際の経緯について、青木幹雄官房長官は10日の記者会見で、前首相から「検査の結果によっては臨時代理の任に当たるように」との指示を受けていたという従来の説明を修正し、明確な指示はなかったことを認めた。さらに青木氏は見舞いの際、前首相の家族とともに医師団から見せられたコンピューター断層撮影(CT)による写真では右脳部分が「かなり白くなっていた」と述べ、病変が進んでいたことも明らかにした。この時点で病状は相当深刻だったと考えられ、臨時代理について小渕前首相から明確な指示がなかったことと併せ、青木氏の説明に重大な疑問が出てきた。
青木氏によると、2日夜、病院で前首相の千鶴子夫人とともに担当医から脳の写真を見せられた。写真は2枚で、2日未明に緊急入院した際のものと、その後の精密検査で撮影したものだった。青木氏は2枚の写真について「入院した時の写真は非常に鮮明な問題のない写真だったが、中間的に写した写真は(脳の)右の方が私の目でも(病変が)わかる状態だった」と説明した。
その後、青木氏だけが病室に入り、5、6分間、前首相を見舞った。青木氏はこれまで「前首相から『検査結果によっては臨時代理の任に当たるように』との指示を受けた」と説明していた。しかし、青木氏は10日の衆院本会議での代表質問では「(この際に前首相から)『有珠山噴火の心配もあり、何かあれば万事よろしく頼む』と指示を受けた」と答弁。記者会見では「病人を相手に『万一のことがあったら首相臨時代理を置きますか』などという話をすべき場ではなかった」と釈明した。
一方、青木氏は2日深夜、東京都内のホテルで自民党幹部と協議した際、宮沢喜一蔵相と電話で首相臨時代理の問題を話し合ったとされる。首相の病状が相当深刻であることを認識し、首相との会話後も臨時代理をだれにするか、なお決まっていなかったとみられる。

病状急変を「過労」と発表

2000年4月10日 18時56分
青木幹雄官房長官は10日午後の衆院本会議で、小渕恵三前首相(当時)が緊急入院してから青木氏が首相臨時代理となり、内閣総辞職までの経過を報告した。
青木長官は、2日未明に入院した小渕前首相の病状について、同日午後9時前の段階で医師団から「急変」と報告を受けながら、午後11時半の緊急記者会見では入院理由は「過労のため」とだけ発表したことを明らかにした。

脳梗塞再発や感染症の恐れ

2000年4月10日 17時56分
脳梗塞(こうそく)で倒れた小渕恵三前首相が東京・本郷の順天堂大付属順天堂医院に緊急入院してから11日で10日目となる。
青木幹雄官房長官は10日の記者会見で「容体に変化はない」と危険な状態が続いていることを説明。ある脳血管内科の専門医は「最初のヤマは越えたかもしれない。だが脳梗塞の再発や感染症の恐れがあり、気は抜けない」とみている。

危険な状態続く

2000年4月7日 11時00分
青木幹雄官房長官は7日午前の記者会見で、入院中の小渕恵三前首相の病状について「午前9時30分現在で、昨日と変わらない。非常に危険な状態が続いている」と述べ、依然として予断を許さない状態であることを明らかにした。

「かなり危険な状態」

2000年4月6日 18時03分
青木幹雄官房長官は6日午後の記者会見で、脳梗塞(こうそく)で入院中の小渕恵三前首相の病状について「朝とほとんど変わらないが、依然として予断を許さない状態で、かなり危険な状態が続いている」と述べた。
青木長官は同日午前の会見でも、小渕氏に回復の兆しがあるとの見方を否定。「難しい状態が続いている」としている。

呼び掛けに脳波変化

2000年4月5日 19時02分
脳梗塞で順天堂医院に入院している小渕恵三前首相の実兄で群馬県中之条町の小渕光平町長が5日同町役場で記者会見して容体について「(前)首相は声を掛けると脳波が反応した」などと語った。
集中治療室に入っている前首相について小渕町長は「妻の千鶴子さんや長女の暁子さんらが『お父さん頑張って』と声を掛けると脳波を示す線が波立ち反応している様子だった」と説明。

HOME政治・経済・社会