TOPIC No.2-32 日本の炭鉱

01. 炭鉱 byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
02. Yellow Hiro's TOPIC No.2-152 石炭
03. Yellow Hiro's TOPICNo.3-5 (石炭)じん肺訴訟
04. 2007参院選 政治が遠い 旧産炭地から(2007年07月) 北海道新聞 
05. 炭坑マニア
06. 炭鉱を旅する
07. NPO炭坑の記憶推進事業団
08. TOPIC No.2-152 石炭

“黒いダイヤ”再び輝き 海外高騰で国産石炭回帰

2008/04/12 FujiSankei Business i.

 ■三菱マテ セメント生産に使用 

 ■北海道電 火力発電で100万トン超

 国内産の石炭を見直す動きが産業界に広がりつつある。原油高や海外炭価格の急騰を背景に価格競争力が増したためだ。三菱マテリアルはセメント生産用に18年ぶりに国内炭の使用を再開したほか、北海道電力も火力発電用に100万トン超の利用を進める。

 供給面でも、新規投資のほとんどなかった炭鉱開発投資に北海道の炭鉱会社が相次ぎ乗り出した。世界的な資源価格の高騰を背景に、国内産“黒いダイヤ”に久しぶりに熱い姿勢が注がれている。

 ≪新たな鉱区開発≫

 三菱マテリアルは今年2月から、セメント生産を行う青森工場(青森県東通村)で年2万トンの国内炭の使用を開始した。セメント生産過程の熱源として国内炭を使う。石炭は同社子会社の北菱産業埠頭(札幌市)が運営する炭鉱から調達し、青森工場の石炭使用量の3分の1を海外炭から国内炭に切り替える。北電はこれまでも年70万トン程度の国内炭を購入してきたが、2007年度は前年度比60%増の116万トンに引き上げた。北電の発電量に占める石炭火力の比率は41%で、燃料の9割以上が海外炭だったが、海外炭高騰でコストがほぼ横並びとなったため、国内炭への切り替えを進めたという。

 北電では、08年度も前年度並みの高水準の購入を続ける。また、国内電力会社で、北電とともに国内炭を使うJパワー(電源開発)も年数十万トン規模を購入する方針としている。

 発電などに使われる石炭(一般炭)スポット価格はこの1年間で2倍程度に跳ね上がり、足下も1トン当たり125ドル程度が続く。原油高を背景に、代替燃料として中国やインドで需要が急増したほか、豪州の水害影響などで生産が減少したため。海外炭の急騰で、国内炭と海外炭の価格差は縮小。しかも、原油高に伴う燃料費上昇で、海外から石炭を運ぶ船賃も上がり「価格はほぼ同水準になった」(三井鉱山)という。

 ≪供給力は限定的≫

 価格競争力が増したことで、国内炭への関心は高まりつつあるが、国内炭の供給力には限界がある。国内の炭鉱は北海道に8カ所を残すのみ。供給力は年140万トンで、国内需要の1%を満たすこともできない。

 こうした中、新たな炭鉱開発も動き始めた。北海道美唄市で年5万トンの石炭を採炭する三井鉱山グループの北海道三鉱石油は同市内で新鉱区の開発に着手。今後1〜2年で既存炭鉱の石炭が底をつくため、安定供給に向け10年度にも年5万トンを採炭する計画。空知炭砿(歌志内市)も09年度をめどに新鉱区を開発し、歌志内で約3万トンの採掘を検討している。

 しかし、それぞれの生産規模は小さく、需要が急増しても増産要請にも応じきれないのが実情。石炭は輸送費用がかさみ、遠距離への供給は割高となるため、突然の国内炭人気にも「購入は考えていない」(中国電力の神出亨副社長)との声がもっぱらだ。

 第一生命経済研究所の永浜利広・主席エコノミストは「国内炭は為替の影響を受けない強みがあるが、供給力が限定的。ただ、市況が高止まり利益体質が定着すれば大規模な開発投資が進む可能性もある」と指摘している。(今井裕治)

道内炭鉱 新鉱区、相次ぎ開発 海外炭高騰で需要増 4社検討

2008/03/22 北海道新聞

 原油価格の高騰などを背景に、道内の炭鉱各社が新鉱区の開発を相次いで進めている。北海道三鉱石油(美唄)と空知炭砿(歌志内)は、二〇〇九年度の採炭開始を目指して美唄市内や歌志内市内で新鉱区を開発する計画。現鉱区の資源量減少に加え、海外炭を含むエネルギー価格の高騰で北海道電力が石炭購入量を増加させており、今後も需要が見込めると判断したためだ。

 美唄市、空知管内上砂川町内の二カ所で露天掘りによる採炭を行っている北海道三鉱石油は、三年前に開発した上砂川の鉱区などで年間約五万一千トン(〇七年度)を採掘している。〇九年秋からは従来の二鉱区を、美唄市内の新鉱区に集約する形で従来通り約五万トンの生産を続ける計画。

 空知炭砿も、〇九年度をめどに新鉱区を開発し、歌志内で約三万トンの採掘を検討している。現鉱区の資源減少分を補い、年産十万トン体制を維持する。このほか、芦別鉱業(芦別)は新鉱区の開発は行わないものの、既存鉱区の拡大を検討。美唄に鉱区を持つ北菱産業埠頭(ふとう)(札幌)も、新鉱区開発に向け関係機関への申請準備を進めているという。

 原油高騰の影響を受けて海外炭の需要は高まり、価格は三年前の二倍程度に上昇。国内炭との価格差が縮まり、当用買い(スポット)なら、むしろ国内炭の方が安い場合も出てくるなど、競争力が高まってきた。このため、北電は〇七年度の購入量を五十万トンから百万トンに倍増させており、〇八年度も同量を見込んで購入先七社に納入増を要請した。この結果、現在、七社中四社が生産量の確保に向けて新鉱区開発などを検討している。北電の使用する石炭のうち国内炭の割合は一割程度という。

 北海道三鉱石油の大内武巳社長は「現鉱区の資源量が減っており、将来の方針を検討していたが、原油高などにより需要が見込めると考えた。今後も安定供給に努めたい」と話している。

大学生ら坑道体験 “池島炭鉱さるく”本格スタート

2008/03/22 長崎新聞

 かつて炭鉱の島として栄えた長崎市池島町で、炭鉱施設に一般見学者を受け入れる体験プログラム「池島炭鉱さるく」が二十一日本格的に始まり、県内外から参加した大学生ら約七十人が本物の坑道に入り石炭産業の現場を体験した。

 島内では七年前に池島炭鉱が閉山した後も、日本の炭鉱技術をアジアの産炭国に伝える研修事業を実施しており、炭鉱の暮らしが生きている。同プログラムは、炭鉱の暮らしを観光資源として活用して地域振興につなげようと、施設を管理する三井松島リソーシス(山本義隆社長)が長崎市の協力を得て実施する。

 同日あったセレモニーでは、同社長崎炭鉱技術研修センターの廣元一夫所長と、市さるく観光推進課の馬見塚純治課長が「日本の経済発展に寄与した石炭産業の歴史や文化に触れてもらいたい」「長崎の観光に新たな魅力が加わった」とそれぞれあいさつ。テープカットでスタートを祝った。

 防じんマスクやキャップランプなどを着用した参加者は、トロッコ(人車)で地下六十五メートルの地点に移動。元炭鉱マンの案内で坑内を歩き、研修事業で使われている掘進用機械などを見学した。

 参加した大分県別府市の立命館アジア太平洋大二年、知念朋代さん(20)は「『すごかった』の一言。トロッコなどほかでは味わえない貴重な体験だった。ガイドしてくれた方も親切で楽しかった」と笑顔を見せた。

 坑内見学コースは参加費二千円。坑内を再現した長さ約五十メートルの見学用模擬坑道で石炭採取などを体験するコースもある(参加費千円)。いずれも一週間前までに予約が必要。詳しくは三井松島リソーシス(電0959・26・0333)。

道三鉱石油:火力発電の燃料用に露天掘り新鉱区開発 石炭産業に薄日 /北海道

2008年03月18日 毎日新聞

 美唄市などで石炭の露天掘りを行っている三井鉱山グループの北海道三鉱石油(本社・美唄市、大内武巳社長)が同市内で新たな露天掘りの鉱区開発に着手した。原油高騰を背景に北海道電力が火力発電に使う燃料炭の需要が高まっているためで、同市内では三菱系の北菱産業埠頭(ふとう)(本社・札幌市中央区、福田豊社長)も新鉱区開発を検討。原油高騰による原材料の値上げが広がる中、斜陽となって久しい道内の石炭産業に薄日が差し始めた。

 道三鉱石油は前身の三美炭鉱時代の1970年から美唄市南美唄地区で露天掘りを行っている。07年の出炭量は約4万1700トンで北電の火力発電所に納入している。南美唄地区の鉱区はあと2、3年で採炭を終える見通しだが、北電側から「5年程度」の納入継続を打診され、現鉱区から北東へ15キロの同市西向沢(にしむきさわ)地区で新鉱区の開発を計画。道有林の保安林解除手続きなどについて美唄市や道との調整に入った。

 同市盤の沢地区で露天掘りを行っている北菱産業埠頭も新鉱区開発を検討。道三鉱石油は10年秋以降、北菱産業埠頭は11年春以降の採炭開始を目指し、それぞれ年間5万トンの採炭を見込んでいる。

 美唄市の桜井道夫市長は「石炭のまち・美唄の再生に期待するとともに雇用の拡大や市内経済の活性化につながってほしい」と話している。【吉田競】

 ◇原油高で増産要請−−北電

 北海道電力は近年、火力発電所の燃料のほとんどを石油と輸入炭に頼ってきたが、原油の高騰で輸入炭の輸送コストも上がったため、昨年7月、今年度の道内炭の購入量を当初計画の50万トンから100万トンに倍増。道内の石炭取引先7社に増産を要請した。

 道内の主要6火力発電所のうち、石炭を燃料としているのは3発電所。このうち、最大規模の苫東厚真火力発電所(胆振管内厚真町)は海外炭専用で、比較的規模の小さい空知管内奈井江町と砂川市の2カ所が道内炭専用となっている。

 長期契約では輸入炭が道内炭より安く、北電の火力発電所における昨年度の石炭使用量約700万トン中、道内炭は1割の約70万トンにすぎなかった。ところが、原油高騰で現在は「スポット契約なら、道内炭のほうが輸入炭より安い」(北電広報部)状況という。

 道内炭は北電以外にも道内の製紙工場などで利用されているが、昨年度の道内生産総量約137万トンのうち半分以上が北電の火力発電所で使われており、その影響力は大きい。

 北電関係者は「道内炭の生産量が増えれば積極的に使っていくことになるだろう」と話しており、道内炭市場が活性化する兆しも見えている。【木村光則】

美唄で新鉱区開発計画 国内炭の見直し期待

2008年03月16日 asahi.com

■旧産炭地 「雇用にも好影響」

 三井鉱山が美唄市の新鉱区で露天掘りの石炭開発に乗り出すことに、同市や地域衰退にあえぐ旧産炭地からは「国内炭の見直しにつながれば」と、期待の声が上がっている。美唄では三菱系の企業も新鉱区開発の準備を進めているという。ただ、今のところ生産規模は小さく、地域活性化にどの程度結びつくかは未知数だ。

 道内の炭鉱で坑内掘りをしているのは、釧路コールマインの釧路炭鉱だけ。露天掘りは空知炭砿(歌志内市)など7鉱区で行われており、露天の年間出炭量は合計で60〜70万トン程度だ。

 三井鉱山の新鉱区は、子会社の「北海道三鉱石油」が採掘する。隣の奈井江町との境界に近い場所で、09年9月からの採炭を目指している。

 同社が火力発電用として北電に納入している石炭は現在、年5万トン。北電から昨年1月、今後10年間の国内露頭炭の需要計画が示され、これを受けて09年度以降も同量供給する計画だ。現在の採掘場所の石炭が今後2年程度で枯渇するため、新鉱区を開発する。これにより、働いている社員や請負作業員ら約70人の雇用が維持されるという。

 桜井道夫市長は「石炭が見直される機会だと喜んでいる。三井と三菱系の2社が新鉱区で操業すれば雇用にもよい影響がでると思う」と話す。

 夕張市の藤倉肇市長も「明るいニュースだ。夕張での露天掘りはそう簡単にはいかない面もあるが、石炭が見直され、注目されてきたのはいいことだ」と語った。

 財政破綻(はたん)以降、企業誘致もままならない中で、地元では「もともと国のエネルギー政策の転換で閉山させられた。地下に眠る膨大な黒ダイヤを何とか活用できないか」という再開発話は何度も浮上。今月11日も、昨春の市長選で惜敗した羽柴秀吉氏が地元・建設会社社長らと藤倉市長を訪ね、市が北炭から買い取った48鉱区の譲渡を要請した。旧北炭系の近隣の炭鉱開発会社や地元企業の幹部も昨年末、露天掘り開発の協議にきている。

 石炭博物館の青木隆夫・元館長は「今の時点で事業として採算が取れるのは露天掘りしかないだろう」という。市内には開発できそうな露頭がいくつかあるが、埋蔵量や環境問題で「クリアするのは難しいのではないか」と専門家はみる。

炭鉱13年ぶり開発 北海道 三井鉱山 価格高騰で

2008年03月15日 asahi.com

 三井鉱山が、石炭の新しい鉱区を開発する方針を固めた。同社の子会社が保有する北海道美唄市の三美炭鉱で、新たに露天掘りの鉱区を開発する。国内での新たな石炭鉱区の開発は95年以来13年ぶり。原油や輸入炭の値上がりによって国内炭の競争力が向上したためで、採掘した石炭は火力発電の燃料として電力会社に販売する計画だ。

 国内の炭鉱は北海道に8カ所残っている。美唄市と上砂川町にまたがる三美炭鉱の生産量は年間5万トン程度。美唄市の現在の鉱区からは北へ約10キロ離れた地点で新鉱区を開発、現在とほぼ同量の石炭を採掘する計画だ。

 発電などに使われる石炭(一般炭)のスポット価格はこの1年間で約2.5倍に跳ね上がり、2月には1トンあたり約140ドルの史上最高値を記録した。世界的な原油価格の上昇に伴い、中国など新興経済国で割安な代替燃料としての石炭需要が増大。中国の雪害と豪州の水害による生産量の落ち込みが、石炭価格の上昇に拍車をかけた。

 この結果、国内炭と輸入炭の価格差が縮小。燃料価格の上昇で海外から石炭を運んでくる船賃も上昇し、国内炭の価格競争力が高まった。

 日本の石炭消費量は年間1億7000万トン余り。一方、国内生産量はかつて同5500万トンを超えていたが、エネルギーの主役が石炭から石油に交代したのに加え、割安な輸入炭に押されたことで、現在は140万トンに落ち込んでいる。

池島炭鉱さるく:開始記念、週末に5回特別ツアー 参加者募集 /長崎

2008年03月14日 毎日新聞〔長崎版〕

 01年に閉山した九州最後の炭鉱、池島炭鉱(長崎市池島町)を観光客に公開するガイドツアー「池島炭鉱さるく」が始まったのを記念して「長崎バス観光」(本社・長崎市)は、炭鉱を運営する「三井松島リソーシス」(同)とタイアップした特別ツアーを、16〜30日の週末に実施。参加者を募集している。

 16日は、より安全に体験できるよう三井松島リソーシスが整備した「模擬坑道」の見学ツアー。同社の炭鉱マンのガイドで、坑内で実際に使用していた発破装置や掘削機を見学したり、本物の石炭を採取したりできる。長崎市内在住の小学生以上が対象で、定員は45人。参加料は1人4180円。

 22、23、29、30日には、東南アジアの研修生の技術指導のため一部操業している炭鉱の坑内にトロッコで入るツアー。長崎市内在住の中学生以上が対象で、定員は各40人。参加料は1人4980円。

 いずれもJR長崎駅前を当日の午前10時半に出発し、フェリーで池島に渡る日帰りツアー。旧外海町の夕日も楽しめる。申し込みは実施日3日前までに三井松島リソーシス(0959・26・0333)へ。【錦織祐一】

北海道炭鉱跡で巨大陥没

2008.3.14 MSN産経新聞

 北海道中央部の炭鉱跡で、楕円(だえん)形の巨大な陥没(長径約70メートル、短径約50メートル、深さ約20メートル)が見つかり、地元の自治体が安全対策を急いでいる。

 陥没が見つかったのは、旧北炭幌内炭鉱。10日午前に土地を所有する土木建設会社の社員が発見。道は近くの道道を約1キロに渡り通行止めにし、被害の拡大を警戒している。

 地元の三笠市などによると、現場近くの立て坑で4日、「ドーン」という爆発音とともに噴煙が上がる現象が目撃されており、市は対策会議を立ち上げて、陥没との関連性などを調べている。炭鉱は平成元年に閉鎖した。

陥没:北海道の炭鉱跡、幅30メートル深さ20メートル

2008年03月12日 毎日新聞

 北海道三笠市唐松青山町の旧北炭幌内炭鉱跡地で、長さ40メートル、幅30メートル、深さ20メートルにわたって地面が陥没しているのが見つかった。空知支庁や三笠市が原因を調査しているが、地中を走る坑道が崩れた可能性が高いとみられる。けが人はなかった。

 現場は道道岩見沢桂沢線から南側に約100メートル離れた丘陵地帯で、10日朝、敷地所有者の土木建設会社「小谷産業」(本社・岩見沢市)の従業員が発見した。穴には近くの小川から水が流れ込んでおり、同市などは流入を防ぐバイパス工事を実施。また、道道は通行止めになった。

 地元住民によると、現場近くの立て坑跡地の坑道で4日、ドーンという音とともに噴煙が噴き出す現象があったという。【吉田競】

夕張再建:羽柴さん、石炭露天掘りを 市に採掘権譲渡申し入れ /北海道

2008年03月12日 毎日新聞

 昨年4月の夕張市長選で敗れた青森県の会社社長、羽柴秀吉さん(58)が11日、夕張市役所を訪れ、石炭の露天掘りを行うため市所有の採掘権を譲渡するよう藤倉肇市長に申し入れた。市長に提出した要望書には、露天掘りで得た利益を夕張再建のために寄付することも盛り込んだ。藤倉市長は「内容について検討していく」と述べるにとどめた。

 羽柴さんは昨年12月に「夕張再建炭鉱建設」を設立し、露天掘りの準備を進めている。採掘権の譲渡を受けられれば、2、3年以内にスタートさせたい考え。【吉田競】

三笠 旧幌内鉱跡で陥没 深さ20メートル、周辺通行止め

2008/03/11 北海道新聞

 【三笠】三笠市唐松青山町の民間の産業廃棄物処理場で、旧北炭幌内炭鉱の立て坑跡そばの地面が長さ四十メートル、幅七十メートル、深さ二十メートルにわたって陥没しているのが十一日までに見つかった。けが人は出ていない。陥没が広がる恐れがあることから、札幌土現は十日午後八時半から現場周辺の道道岩見沢桂沢線一・一キロを通行止めにしている。

 現場近くの立て坑跡では今月四日、爆発音とともに巨大な噴煙が上がっているのが付近住民に目撃されている。

 陥没は十日午前八時ごろ、土地を所有する建設会社社員が見つけた。八日午後から十日朝までは無人で、その間に崩れたらしい。三笠市消防署によると、現場は道道岩見沢桂沢線から百メートルほど離れており、すり鉢状に陥没、現在は水がたまっている。

 付近住民の避難などはなく、現場から約三百メートル離れた場所にある新幌内小も十一日、通常の授業を続けた。

 噴煙が上がった立て坑跡と、陥没した現場との関係は分かっていないが、三笠市に住む旧幌内炭鉱の元従業員(71)は「立て坑の下から、水平方向に坑道が無数に走っており、どれだけ広がっているか把握している人はいないだろう。別の場所で陥没が起こっても不思議ではない」と話していた。

【噴水台】石炭の復活

2008.03.10 中央日報 Joins.com

日本・北海道中部の小さな都市である夕張は、大ヒット映画「幸福の黄色いハンカチ」の背景地として有名だ。しかし現実の夕張は‘不幸’の代名詞として刻印されている。累積した財政赤字で市民1人当たり2500万ウォンを超える莫大な負債を抱える夕張市は2006年に‘地方自治体破産’を宣言した。市当局が緊縮に入ったことで、市立病院の外科・産婦人科が閉鎖され、敬老優待が廃止された。一方、バス・水道料金、自動車税が上がり、生活はさらに厳しくなった。

夕張は1980年代後半まで好況を享受した炭鉱都市だった。 全国から集まった鉱山労働者の懐を狙った商業が繁盛した。不幸は1990年の廃坑と同時に訪れた。 エネルギー源の代替と人件費の上昇にともなう採算性の低下で、炭鉱を維持することができなかったのだ。一時13万人だった人口は現在10分の1に減った。

程度の差はあるが、世界各地で似たような現象が起きている。韓国の労働力も進出したドイツ・ルール地域炭鉱は一時277カ所だったが、現在では8カ所しか残っていない。全世界エネルギー消費で石炭が占める比率は1950年の62%から2000年には24%に減った。石炭産業は20世紀後半を最後にその寿命を終えたかのように見えた。

ところがこの数年間、新たな変化が生じている。BHPビリトンやアングロアメリカンのような巨大鉱山企業が新規炭鉱開発に乗り出している。 モンゴルのタバン・トルゴイ鉱山が代表的な例だ。インフラが劣悪なため費用はもっとかかるとして放置状態にあったこの露天鉱山の開発権をめぐって中国・日本・米国・ロシアと韓国の企業が飛び込み、‘戦争 ’を繰広げているという消息だ。 価格が1年間に75%も値上がりした石炭は、低価格でありふれた鉱物から、高くて確保が難しい鉱物に変わっている。

最も大きな原因は片っ端から資源を吸い込んでいる‘ブラックホール’中国の高度成長だ。有人宇宙船を打ち上げて高速鉄道を開通させるという夢に膨らむ中国だが、相変わらずエネルギー需要の70%を石炭に依存している。さらに記録的な原油価格上昇と産油国の情勢不安、石油枯渇に対する危機感などが石炭ルネサンスを後押ししている。

石油・ガスに集中した資源戦争が、すでに終わったと信じられてきた石炭にまで飛び火した。外交通商部は新政府の発足と同時に資源・エネルギー外交を専門とする部処と大使職を新設することにした。 ようやく資源外交に目覚めたようだ。もっと遅くならなかったことを慰めとすべきか。 世界はすでに戦争を始めているというのに。

[FINAMレポート]急上昇するロシアの石炭価格

2008年03月03日 IB Times提供:ARUJI GATE証券株式会社

2007年から石炭価格は上昇傾向にあった

 2007年、石炭製品のロシア国内価格が40%以上上昇した。価格上昇の原因のひとつとして、Yuzhkuzbassugolで起きた事故が挙げられる。事故によって、国内市場でコークス炭が大きく不足した。年末には、国内市場におけるコークス炭の現物取引価格が100ドル/トンを超え、その後も価格上昇が続いた。このためロシア国内における2007年の年間平均石炭価格は95ドル/トンに達した。ロシア国外における石炭価格も上昇した。中国では石炭の需要が急速に伸び、生産不足が価格を押し上げる材料となった。

2008年も価格上昇傾向は継続している

 2008年2月にかけてコークス炭の現物取引価格は140ドル/トンに達し、一般炭は35-50ドル/トンで取引された。コークス炭の価格は、急激な上昇を示しており、2008年末までには50-70%の価格上昇が見込まれ、平均価格は170-180ドル/トンになると予測される。ただ、一般炭部門の価格上昇はそれほどにはならないとと思われる。2008年、ロシアでは石炭採掘産地の新規開発計画がないため、消費の自然増が4-6%に止まることが望ましい。FINAMは、一般炭の価格上昇は、インフレ率より若干高い15-20%であるだろうと予測する。国外市場におけるエネルギー石炭の価格は、ロシア国内の市場価格にはあまり影響しない。

石炭採掘事業が世界的に問題を抱えていることによって、石炭価格は更新されていくだろう

 近年、石炭生産部門を代表してきたオーストラリア・中国・南アフリカ等の石炭採掘事業が大きな問題に直面している。中国では、積雪のために石炭採掘が中断され、産地によっては気象条件が良くなることを待つしかない状況におかれている。南アフリカでは電力不足のために大手石炭採掘事業者が採掘を中止した。電力供給元である国営企業のEskonは、石炭採掘に必要な電力量のうち供給可能な電力は70-80%であり、今後もこうした状況が改善される見込みはないと発表している。オーストラリアは、2012年まで深刻な水害に苦しんでいる。代表的な石炭採掘事業者は、生産施設が浸水し石炭採掘ができないことを公表した。水害は、石炭採掘のみならず、石炭埋蔵量にも影響を及ぼすことが考えられる。石炭採掘量の大幅な減少によって、消費者の石炭備蓄量にすでに影響が出ている。

 2008年当初、明らかとなった石炭採掘量が減少するというニュースは、石炭価格の大きな上昇材料となるだろう。

CIS諸国においても石炭採掘に問題が生じている

 ロシアでは、すでに述べたように、Evraz傘下のYuzhkuzbassugol炭鉱で起きた事故により採掘が中止されている。現在、長期にわたる調査が完了し、Yuzhkuzbassugolの50%が買い取られたことで、炭鉱は再稼動されたが、採掘量が予定の水準に達するのは、今年半ば以降になるとみられる。ウクライナでは、国内全石炭採掘量の3分の1を生産するZasyadko炭鉱で問題が発生している。需要を満たすためには、ロシアからの石炭輸入が必要となるだろう。また、カザフスタンの炭鉱ArcelorMittalTemirtauでも、生産を妨げる大きな事故が発生した。

需要の増加も石炭価格の上昇材料となる

 アメリカ経済の減速が懸念され、石炭に対する需要が低下しているが、発展途上国では石炭を必要とする分野の需要上昇が継続している。中国では2007年鉄鋼生産量が15.7%増加した。中国における鉄鋼生産量は増加の一途であり、需要も増大している。FINAMは、中国における鉄鋼の需要は毎年9%増加していくと予測している。ロシアでは年間6%の増加が見られる。

 ロシアでは、採掘量の増産計画が実施されているにもかかわらず、依然需要が供給を上回っている。FINAMの予測する2008年の石炭生産量は3億 2100万トンである(2006年比3.8%増)。種類別では、コークス炭の26%、一般炭の74%であろう。コークス炭の不足による影響がもっとも懸念されるのは、脂肪炭の消費者である。2008年、脂肪炭不足量は600万トンに達するだろうとみられる(コークス炭生産量の8%)。ノヴォリペツク製鉄 (NLMK)が所有するAltay-Koksは、アメリカから石炭を輸入する契約を結んでいる。他の石炭生産企業も脂肪炭を供給することは難しくなるだろう。ロシア経済における石炭分野は、精鋼分野と同様、国内価格が輸出価格を上回る傾向にある。

FINAMは、今後、石炭採掘企業の時価総額が上昇すると予測

 主に、コークス炭、或いは混合石炭(コークス炭と一般炭)を生産する企業の時価総額は上昇するだろう。2007年、ラスパドスカヤ石炭(RASP)と Belon(非取扱銘柄)の株価推移は目覚しく、それぞれ252%、143%上昇した。急激な株価上昇にもかかわらず、両社の株価がさらに上昇する余地は残されている。大きく上昇する可能性は、石炭分野の全企業にいえる。ロシアの石炭企業の株式は、世界の石炭業者よりはるかに安価で取引されている。ロシアの石炭企業における2007年の株式利益率(PER)は21.0であるのに対し、世界の石炭企業の株式利益率(PER)は平均して45.5であった (53%の差)。EV/EBITDA倍率は、前者が13.4、後者の平均が31であった(56%の差)。この数字は、ロシアの石炭会社が世界の石炭会社と比較して、平均で半分であることを示している。または、2008年末の財務指数にも大きな上昇が見込まれている。FINAMでは、2008年も2007年と同様に、引き続き石炭分野に対する評価の見直しがなされ、非常に速いテンポになるのではないかと期待している。石炭分野は、ロシアの産業分野において重要な分野であり、投資家は同分野に属する企業により注目すべきであると考える。

石炭の価格上昇を受け、ロシアの冶金工業にも良好な業績が期待できる

 銑鉄製造の主原料としてコークス炭を必要とする製鉄会社の業績は原料価格の動向に大きく左右されるが、FINAMは、2008年における冶金工業の業績は良好であると考える。冶金工業を代表する5社のうち、セヴェルスタリ(CHMF)・Evraz(非取扱銘柄)・メチェル(MTLR)の3社は石炭を自社製品で賄うことができる。ノヴォリペツク製鉄(NLMK)は、子会社であるAltay-Koksで出るコークスの余剰分を売却することで石炭価格の上昇による損失を防いでいる。石炭価格の上昇による影響がもっとも懸念されるのは、マグニトゴルスク製鉄(MAGN)であるが、同社は2007年のうちに固定価格で石炭の供給を受ける長期契約を締結しているため、前述の企業ほどではないにせよ、価格上昇に持ちこたえることができるだろう。2008年、原料価格の上昇によって精鋼製品の価格上昇が見込まれており、その上昇率は少なくとも12%に達すると考えられる。なおかつ、低価で原料を調達できることで、ロシアの冶金工業は追加的な利益を得ることができるだろう。

 FINAMの予測では、ロシア企業は追加的な利益を得るばかりか、国外の競合企業よりも有利に新市場で競争ができるだろう。(提供:ARUJI GATE証券株式会社)

炭鉱跡地に自動車リサイクル施設 長崎

2008.03.03 MSN産経新聞

 九州最後の炭鉱だった長崎市の池島炭鉱を所有する三井松島産業のグループ企業「池島アーバンマイン」が、跡地に自動車廃材のリサイクル施設の建設計画を進めている。市の認可が得られれば着工し、今夏の操業を目指している。

 同社は「池島の復興につなげたい」としており、閉山後、過疎化の一途をたどっていただけに地元住民も「島に活気を取り戻せる」と歓迎ムードに沸いている。

 池島は長崎県・西彼杵半島沖に浮かぶ離島。最盛期には約7700人が生活していたが、炭鉱は平成13年11月に閉山。現在、人口は約370人にまで減少した。

 計画によると、主に長崎県内から廃車となった自動車のシートやドアなどを持ち込み、金属を取り出したり、燃料に加工したりして鉄鋼業者などに販売する。

 最大のハードルは離島特有の輸送コストの高さ。しかし、島と本土をつなぐ定期フェリーで原料や製品を運ぶことでコストを抑えた。

池島炭鉱:島を丸ごと“学校”に テーマパークより“本物”実感 /長崎

2008年02月26日 毎日新聞

 01年に閉山した九州最後の炭鉱、池島炭鉱(長崎市池島町)。西彼杵半島の西約7キロに浮かぶ小さな島を、丸ごと“炭鉱の学校”にしてしまおうという壮大な計画が始まった。中でも、炭鉱施設を常時一般公開するのは全国初という。名付けて「池島炭鉱さるく」。21日、島に渡って体験してみた。【錦織祐一】

 ◇栄華の跡

 池島に渡るのは3回目。過去2回はフェリーだったが、今回は旧外海町時代からの市の委託船「進栄丸」に。もともと島民の生鮮食品を運送していたという小さな客船だが、フェリーの合間に1日3往復もしており、何よりアットホームだ。

 「池島炭鉱さるく」は、炭鉱でインドネシアなど東南アジアの研修生に技術指導をしている「三井松島リソーシス」(本社・長崎市)の新事業。06年の「長崎さるく博」や修学旅行で臨時公開され好評だったため、常時の公開に踏み切った。

 本坑道の公開が3月21日から始まるほか、より安全かつ手軽に見学できるように模擬坑道も整備した。港から資材を運ぶ約50メートルのトンネルを改装。この日午前は島民を、午後には池島小中学校(加瀬川哲文校長)の全校児童・生徒を招いた。

 島に到着した時には、ちょうど池島中央会館で午前の部の昼食が始まった。さるく博で好評だった「炭鉱弁当」だ。猛烈に汗をかく炭鉱マン向けに塩分を補給する“伝統食”を再現したもので、アルミの弁当箱は雰囲気も十分だ。

 午後の部が始まる前に島内を「さるく」。人口は最盛期の7770から400を割り込み、集落には人気がない。民家はよく見ると元スナックがずらり並び、ボウリング場跡も。旧外海町職員だった市地域振興課の村上英幸さんは「外海より池島に渡った方が都会でした」と苦笑する。

 ◇歴史継承

 午後、島の小学生11人、中学生9人と教職員が池島中央会館にやって来る。小学生が炭坑を見るのは初めてだが「教職員もほぼ経験がなく、楽しみにしてました」と加瀬川校長。

 リソーシスの野村時定・鉱務部長のガイドで、かつての救護隊員の隊服や、炭鉱の歴史のパネルを紹介。「池島」の名は「鏡ケ池」を海に切り開いて港を整備したことに由来するが、57年に海とつながった決定的瞬間の写真が残されていた。

 そして、バスで模擬坑道へ。炭鉱マンが整備しただけあって、雰囲気は炭坑そのもの。実際に使っていた掘削機や発破装置、休憩用のテント、さらには2トンもの石炭まで。池島小6年の中村飛鳥さん(12)は「炭鉱の仕事は大変そうだったし、島の歴史が分かって勉強になった」。

 今後、足こぎトロッコや炭鉱マンの住宅、池島音頭などが再現され、4月27日には「池島釣り大会」も開催される。リソーシスの松浦雄二・鉱務部長代理は「交流人口を増やして島の活性化につなげたい」と意気込む。どこのテーマパークより“本物”が息づく池島炭鉱。問い合わせは同社(0959・26・0333)。

福岡県立大と九州工業大「CDR21」 炭鉱節で独自のダンス

2008年02月27日 asahi.com

 軽快なメロディーに、聞き覚えのある歌が重なる。

 ♪月が出た出た、月が出た〜

 炭坑節だ。「サノヨイヨイ」と合いの手を入れながら、そろいのシャツを着た学生たちが笑顔で踊る。パラパラ風もあれば、阿波踊りの雰囲気のバージョンもある。それぞれ独自に炭坑節をアレンジしたものだ。

 かつて炭鉱で栄えた筑豊地方にある福岡県立大(福岡県田川市)と九州工業大飯塚キャンパス(同県飯塚市)の学生らでつくるダンスサークル。名前は「CHIKUHOU(筑豊)」「DANCE(ダンス)」「REVOLUTION(革命)」の頭文字と「21世紀」を合わせた。県内各地で年間30回ほど舞台に立っている。

 「本当の炭坑節を知っちょるんか」。発足当時に年配の男性からそう言われたのをきっかけに、炭鉱にまつわる地域の歴史や文化も学んでいる。

 「ダンスが格好良くて入った」と口をそろえる県立大1年の豊田美希さんと富田温子さんは「地域の人たちの拍手がうれしい」。徳島県出身の九工大1年、小松和朗さんは「阿波踊りも地元の文化として改めて見に行きたくなった」。

 〈メモ〉 「田川市の街おこしに」と企画された祭りのため、00年に前身の団体が発足した。現在の部員は社会人も含む約40人。パラパラ風の炭坑節はアレンジを続け、現在で8作目。歌詞や曲、振り付けのすべてがオリジナルのダンスもある。

長崎市の旧池島炭鉱に坑内再現した「模擬坑道」完成

2008/02/21 YOMIURI On-Line

 長崎市・池島の旧池島炭鉱で、坑内を再現した「模擬坑道」が完成し、21日、地元の住民や小中学生を招いた見学会が開かれた。

 同炭鉱は2001年11月に閉山。三井松島リソーシス(長崎市)が、資材を運び込むためのトンネルを活用して作り、1月末に完成、今月11日から公開している。

 全長約50メートルで、体験用の掘削機に触れたり、ピッケルで本物の石炭(約2トン)を砕いたりできる。

 この日は、住民約20人と池島小中学校(加瀬川哲文校長、20人)の児童・生徒らが見学。2年生の阿閉秀介君(7)は「坑内は狭いので、働いていた人は大変だったと思う」と思いをはせていた。

 3月21〜31日は、実際の坑内見学も行う。模擬坑道の見学は1000円、実際の坑内見学は2000円。

 問い合わせは同社(0959・26・0333)へ。


釧路

2007年10月06日 YOMIURI On-Line

技術移転 「現役」の喜び

 「旧産炭地」との“境界線”に踏み止(とど)まる存在とでも言えようか。前身は「海底炭」の太平洋炭礦である。その閉山劇は記憶に尚(なお)、新しい。「炭鉱」の英語表記をそのまま社名とした継承会社・釧路コールマインは、国内に残る唯一の坑内掘り炭鉱として、辛うじて命脈をつないだ。

 今、年間出炭量60万トン。前身の3分の1にも満たない。ただかつて、エネルギー需要の多くを担い続けたヤマの灯を維持していく意味は、限りなく重い。同時に、存続の両輪とも頼む「技術海外移転事業」では、着実に実績を積み重ねて、国際貢献にも寄与している。

 「残照」の中にありながらも一人、異彩を放つコールマイン。こんな形で他に多くが存続したとしても、いいのかもしれない。

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 太平洋を眼前に見る釧路市興津。コールマインは住宅街を周囲に従え、広大な敷地の中にある。30年も昔を思い出した。新聞記者として釧路に勤務していたころ、招かれて最先端の採炭現場を取材した記憶がある。

 分速350メートルの人車で一気に海底下へ。「ガスが少なく、安全なヤマです」。係員からそう説明を受けながらも、坑道の至る所で大きく湾曲する鉄枠に、何度もたじろいだ。蒸し風呂のように暑い。切り羽では、外国から導入したばかりというドラムカッターが、唸(うな)りを上げて炭壁に挑みかかっている。すべてに、圧倒された。

 石狩、筑豊に次ぐ国内3位の埋蔵量20億トンとされる「釧路炭田」。その中核を成す釧路での歴史は1897年(明治30年)、安田炭鉱の採掘から始まる。1917年(大正6年)、台湾で鉱山事業を展開していた木村久太郎が進出して安田炭鉱を買収、3年後には三井鉱山釧路炭礦(別保坑)と合併し、前身の太平洋炭礦が産声を上げた。

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 海底採炭に全面移行するのは51年(昭和26年)から。以降、機械化の進展に合わせて出炭量も飛躍的に伸びていく。60年代100万トン、70年代には250万トンと。一方で、採炭現場は年を追って海底深く、沖合へと伸長、コスト負担が重くのしかかった。

 国からの交付金を得ての“政策閉山”に踏み切ったのは、2002年(平成14年)の1月。「当時の先端部は陸から9キロ・メートル、海底下700メートルレベル。坑内員の移動に2時間もかかり、坑道維持の費用だけでも大変でした」。太平洋時代から総務畑で働く、コールマイン管理担当の水石豊さん(41)は、閉山やむなしの一端を話してくれた。

 今、手掛ける採炭現場は海底下300メートルレベル。かつて掘り残した部分を、高度な技術を駆使して出炭している。中国など新興国の経済発展で石炭需要が伸び、採算面は比較的好転しているというから、皮肉でもある。

 夕張を始めとして多くの産炭地は、閉山により、一時的にも疲弊の道を歩んだ。釧路はどうか。魚に紙パルプ、そして石炭。3大産業の一つが抜け落ちる事態に危機感を抱いた地元有力企業などは、互いに資金を出し合い、存続させた。「海外への技術移転事業も大きな評価を受けています。この上ない喜びです」(水石さん)

 電力向け中心の販売累計370万トン、中国、ベトナムからの研修受け入れ延べ963人(いずれも昨年度まで)。新たな事業での縁を手繰り寄せ、小型ショベルなど炭鉱関連機器の輸出にも、今後は力を入れていきたいという。

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 世界の石炭産出量は年間約40億トンという。うち、日本は約1億8000万トンをも輸入する「輸入・消費大国」である現実は、意外と知られていない。一方で、800を超す炭鉱を閉山に追い込んできた歴史は、厳然と横たわる。

 中国の台頭が遠因で国内中小産業の衰退・空洞化が急進展し、「自由化交渉」の足下にある北海道農業は、風前の灯(ともしび)の如(ごと)き状況に置かれている。「炭鉱の悲哀」がまた、繰り返されるのだろうか。

 様々な存在価値を内包するコールマインの前途に、幸あれと願わずにはいられない。(山本伸治)

阿寒・雄別

2007年09月29日 YOMIURI On-Line

余力残し山懐に眠る

 「まだまだ掘れる石炭はあったんですよ。会社は採算のみを優先して、とにかく、幕を引きたかったんでしょうね。思い出ですか? つらいことばかり。事故で、かけがえのない仲間を失いもしました。今も鮮明に、脳裏に甦(よみがえ)ります」

 1970年(昭和45年)2月、50年余の歴史を閉じた雄別炭砿。採炭現場のリーダーとして奮闘した笠井勝さん(79)は、故郷でもあるヤマに、思いを馳(は)せるように話してくれた。阿寒の山懐に眠るその地は――。

 原生林のわずかな隙間(すきま)から、阿寒富士の頂が見え隠れする。静寂が不気味だ。気のせいか、「野生」の息遣いが聞こえてくるよう。釧路市阿寒町雄別地区。谷間(たにあい)を蛇行する舌辛川すら、ヤマの歴史をどこかに置き去りにしてきたかのように、浅く、静かに流れている。

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 阿寒湖に続く240号・マリモ国道沿いの阿寒町市街地から約15キロ。樹林帯が不規則に、どこまでも続く。一体の標(しるべ)が安堵(あんど)感を与えてくれた。雄別炭砿記念碑。碑文には「想いでの記」とあった。炭鉱エリアの入り口に、閉山10年後に建立されたモニュメントという。

 そこから砂利道を、ゆっくりと車を走らせる。「ここに、本当に炭鉱があったんですか」。神戸からやってきたという若いライダーが、訝(いぶか)しげに声を掛けてきた。「あれが痕跡の一つでしょうね」。そう返して指さす方向に、円筒形の工作物が高く屹立(きつりつ)していた。

 「雄別」を今に印(しる)す象徴的存在とされる、総合煙突だった。高さ約50メートル。周囲を睥睨(へいげい)する。他に、購買所と見られる廃屋にトロッコの橋脚等々。しかし、雑木が、生い茂る雑草が目隠しとなり、事前の情報で得ていた数多(あまた)の遺産群は視認できない。

 ズリ山であろうか。一帯を望む谷の壁面が黒々とした肌を覗(のぞ)かせている。そこだけが、明らかに「炭鉱跡」を誇示するかのようでもあった。

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 1919年(大正8年)12月、北海炭砿鉄道会社が設立され、雄別炭砿の歴史が始まる。開坑作業に合わせ、雄別―釧路間(約44キロ、雄別鉄道)の鉄路敷設工事も進められ、3年後には完了、採炭を本格化させた。先を行く「空知」では、北海道炭砿汽船会社(北炭)が天塩炭鉱を買収(19年)するなど、一段と増産体制を整えていた時期とも符合する。

 「北の石炭」は、元々は道東が先駆けである。阿寒に隣接する白糠炭砿は江戸末期に開発され、露頭掘りで知られた存在だ。そんな流れを受け継ぐかのように、「雄別」は飛躍する。開戦のその年、41年(昭和16年)の出炭量66万トン。戦中は休眠状態に置かれたものの、戦後は朝鮮戦争の追い風にも乗って盛り返し、往時は従業員数3000を超え、「空知」の向こうを張る存在感を示した年もあった。

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 72万トンという開坑以来最高の出炭量を記録したのが64年(同39年)。最後にパッと光を放って消え行く線香花火の如(ごと)くに以降、急坂を転げ落ちていく。石炭から石油へのエネルギー革命が進行、炭価は低迷し、会社は「これ以上、いくら掘っても赤字を増やすだけ」。国は「閉山交付金」という “安楽死政策”で看(み)取る、羽幌など他の多くの炭鉱同様の終焉(しゅうえん)であった。

 ヤマを閉じてひと月後には、雄別鉄道も早々と姿を消す。かつて1万3000もの人々が暮らした阿寒の里から、人影は絶えた。

 「採炭を準備していた坑道もあったほどですから。正に、体力を残しての閉山でした」。そう振り返る笠井さんは、雄別地区と丘陵を隔てたマリモ国道沿いにある資料館「炭砿と鉄道館」の管理人として、今もヤマとともにある。館の愛称は「雄鶴駅」。

 残照を背に、物悲しくも優美なシルエットを描く夕鶴のように、「雄別」は阿寒に舞い、彼方(かなた)へと飛び立った。(山本伸治)

歌志内

2007年09月29日 YOMIURI On-Line

炭鉱遺産の「なんこ鍋」

 人口5000人余り。歌志内市は全国の市の中で、人口が一番少ない“ミニ市”として知られる。ミニにちなんで、数々のミニカーなどが展示されている郷土館「ゆめつむぎ」で、旧歌志内尋常高等小学校の校歌が目にとまった。

 ――めぐる山々美わしく 土に無限の宝あり 自然の恵み豊かにて げんよき里ぞ歌志内――。歌志内は夕張とともに、空知地方で有数の炭鉱都市として栄えた。歌詞は、「黒いダイヤ」で潤った活気あふれる街の様子を伝えていた。

 石炭産業に代わる新たな産業創出を目指した市は、石炭の露天掘り跡地で醸造用ブドウを栽培し、ワイン作りに力を注ぐ。風土が似ているスイス風の景観づくりも進め、街全体にチロル風の建築が見られるようになり、観光振興に一役買っている。

 地名は、市内を東西に流れるペンケウタシュナイ川の名に由来する。アイヌ語で「砂のたくさんある沢」という意味。北海道炭礦鉄道が1891年(明治24年)、鉄道開通の際、歌志内と称したのが地名となった。

 歌志内に今でも伝わるのが、北海道の炭鉱開発とともに生まれた「なんこ鍋」。馬の腸を煮込んだ独特の料理は、炭鉱マンのスタミナ源として広まった。

 35年前からスナックを経営する「歌志内なんこ食べさす会」会長の安田清さん(67)は「この料理だけは絶やしたくない」と、開店以来、鍋を出し続けている。客の数はめっきり減ったが、常連たちが鍋をつつく姿を眺めながら、「石炭ストーブにグツグツ煮える鍋を載せ、酒を飲んでいた炭鉱マンの父の姿を思い出す」と話す。貴重な炭鉱遺産は、この地で脈々と引き継がれている。(安田真章)

三笠<上>

2007年09月15日 YOMIURI On-Line
「燃える石」の歴史負う

 人口1万1600余。歌志内同様に「市」の肩書きが重い自治体ながら、ここには「北海道初」の形容詞が付せられる、いくつかの歴史が刻印されている。手宮―幌内間の鉄道、同区間に敷設された電話、上水道に多目的ダム(桂沢湖)等々。それら輝かしい足跡の道標となったのは、本道初の坑内掘り炭鉱の存在であることは、言うまでもない。

 北炭(北海道炭鉱汽船)の幌内、幾春別、住友奔別、弥生など。中でも「幌内」は、先陣を切る1879年(明治12年)に開鉱し、山々を越えて隣接する夕張、芦別、歌志内などを擁する石狩炭田群を従えるかのように、躍動した。

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 木こりには、なんとも不思議な光景に映ったに違いない。幾春別川の支流、三笠幌内川上流に顔をのぞかせていた「燃える石」の存在。露頭炭だった。発見されたのは1868年、明治元年のこと。正に「近代日本の夜明け」と共の歩みである。米国の地質学者、ライマンらの調査を経て79年、「官営幌内炭鉱」が始動する。

 飛躍を、鉄道が決定的なものにする。小樽の手宮とを結んだわが国3番目の鉄路、官営幌内鉄道の開通は、開鉱わずか3年後の82年。義経、弁慶号が牽引(けんいん)する石炭列車が手宮まで、約91キロ・メートル間を疾駆した。

 「囚人労働」という悲しい歴史も、後押しする。鉄道開通のその年、市来知(いちきしり)(三笠の前身)に空知集治監が開設され、1000人を超す囚人が採炭の主力を担った。1906年(同39年)、市来知、幌内、幾春別が合併して三笠山村が誕生する。アイヌ語に拠(よ)らない命名は、集治監から望む山が「奈良の三笠山に似る」という収容者らの望郷の思いが由来という。

 炭鉱、鉄道の払い下げを受けた北炭は幾春別鉱に手を広げ、後に続いた住友は奔別、弥生を開鉱。いずれもが隆盛を極めるも、他の多くのヤマ同様に、エネルギー革命の渦にのみ込まれていく。

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 「お父さんが夕食の時に『炭鉱つぶれるなぁ、つぶれたらもうここに住めないなぁ。つぶれたらどこに住む』なんてあと何日かでつぶれるようなことを言いだした。私は、食事をしながらなきそうになった……」

 市立図書館の郷土資料コーナー。そこに、差し迫る閉山の不安をつづった作文集が置かれていた。児童らが友と辛(つら)い別れを告げ、働く仲間、親類縁者が様々に散じた「炭都・三笠」の終焉(しゅうえん)は、1989年(平成元年)のこと。老舗の幌内鉱が110年の歴史に幕を閉じる。幾春別、奔別、弥生の3山はすでに灯を消していた。

 奔別閉山の71年(昭和46年)当時、弥生中学で教壇に立っていた市長の小林和男さん(71)は、嵐の如(ごと)くに過ぎ去った日々を、こう振り返る。

 「18学級があっという間に3学級に。次々と転任していく同僚の引っ越しに、日々追われた記憶が鮮明に残ります」

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 桂沢湖へと続く道道岩見沢三笠線。中心街を抜けてやや行くと、その奔別炭鉱跡がある。道路脇に立ち見(み)遣(や)ると、高さ約51メートルの立て坑やぐらが宙に揺らぐ。周囲をへいげいする威容はつい先ごろまで、操業していたかのようでもある。

 取って返した市来知には、今も集治監のレンガ煙突が立つ。彼方(かなた)の幌内地区には、草生(む)す野に炭鉱遺産の数々。幾歳月を経て尚(なお)、「重い歴史」を様々に問いかけている。(山本伸治)

三笠<下>

2007年09月22日 YOMIURI On-Line
栄華の記憶 さらりと

 もう、半世紀近くも過ぎたであろうか。小学生の社会見学で、三笠を訪れたことがある。水田の中の片田舎に育った筆者にとって、羽振りのいい炭鉱のマチには、一種の羨望(せんぼう)にも似た思いを抱いていた気がする。

 まず、北炭幌内鉱に足を運んだ。「東洋一」とうたう立て坑がそびえる。そのエレベーターで、一気に地底に。熱気にむせ返る闇に、どこまでも延びる坑道がぼんやりと浮かんでいた。子供ながらに、圧倒されるようなヤマのエネルギーを、肌で感じ取った。

 当時の三笠は、人口5万を優に超えていた。続いて訪れた桂沢湖。満々たる水をたたえ、「豊かな炭都」を象徴するかのようにも見えた。いずれもが、忘れえぬ光景である。

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 三笠に最後まで残っていた北炭幌内鉱が閉山したのは、1989年(平成元年)のこと。世界を見遣(みや)ればこの年、東西ドイツを隔てていた「ベルリンの壁」が崩壊している。三笠にとっては「冷戦後」ならぬ「ポスト石炭」を模索する、本格的試練の局面に立たされることになる。

 その象徴的出来事となったのは、桂沢湖周辺での競艇場建設問題。地方公営ギャンブルに、炭鉱に代わる生き残りの道を託そうという、いわば「奇策」とも言える計画であった。当然のごとく、賛否両論が沸騰する。そして結論は、桂沢湖が競艇場となることはなかった。

 競艇場の新設を認めない閣議了解が壁となった。新市長が反対を表明、議会も首を縦に振ることはなかったのだ。この判断が正しかったのかどうかは置く。ただ現状を見ると、地方公営ギャンブルは軒並み、苦境を強いられてもいる。形は違え、「ハコ物行政」に走った夕張の今は、改めて説明するまでもなかろう。

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 「振り返れば、時の市政、議会は先見性のある判断をしたということではないでしょうか」。市長2期目の職にある小林和男さん(71)はこう評価し、「身の丈の行政が何より大切」と、言葉に力を込めた。

 車のハンドルを握り、三笠のマチをそぞろ巡る。田畑が豊かに、伸びやかに広がり、そこにアクセントを付けるかのような炭鉱遺産の数々、よく知る企業の出先を知らす看板も散見される。とかく負のイメージが先行する旧産炭地の面影は薄い。時がゆったりと流れている。

 小林さんに、当面の舵(かじ)取り方針を聞いた。「まず、義務教育をしっかり進めたい。小中一貫教育を柱とした教育特区の取り組みもその一つ。子供たちには少なくとも、自分のマチを、胸を張って語れる人間に育ってもらいたい」。「米百俵」の精神が地域を作る。

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 炭鉱遺産のいくつかを手弁当で修復、手作り冊子を携えては、訪れる子らのガイド役を務めているという幌内炭鉱OBの磯野保さん(83)は言う。「北海道最初の炭鉱のマチは、いかにあったのか。末永く伝えていく責務があります」。市長の思いとも重なる。

 三笠にはもう一つ、ほろ苦い思い出がある。野球の中学南空知大会決勝で幌内中と対戦、幸運にも優勝した。唯一誇れる球歴だ。逆に高校では、全道大会進出を目前に三笠大谷高に敗れ、悔し涙を流した。両校ともに今はなく、会場の市営球場だけが残る。

 様々に織り成す「記憶の故郷」。止(や)むことのない鼓動が、何処(いずこ)からともなく聞こえてくるようである。(山本伸治)

羽幌<上>

2007年08月18日 YOMIURI On-Line

“黒ダイヤ”一瞬の輝き

 大戦前夜の1940年(昭和15年)2月。しばれ厳しきここ天塩山地の山里に、新たな炭鉱が動き始めた。「無煙炭」でその名を馳(は)せることになる「羽幌炭鉱」(築別坑、羽幌本坑、上羽幌坑)である。目指すは「第二の夕張」。浜は時に、ニシンの大漁で沸き立ち、山々を見遣(みや)る彼方(かなた)では黒いダイヤの大増産。戦後は年産100万トンという出炭量を誇り、隆盛を極めるも、時を経ずして、あっけなく消えていった。

 その歴史、わずか30年。「幻のニシン」の後を追うかのような足早な歩みは、夕張、歌志内など、空知の炭山群とは明らかに異にする。ただ羽幌もまた「残照」の中でながらえ、今に、様々に問いてもいる。

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 稚内を目指す国道232号・オロロン街道。潮の香満ちる羽幌の市街地を抜け、やや行くと「築別」の道路標識が見えてきた。ここから水田地帯を縫いながら、山懐に迷い込むように、約16キロ。主鉱の築別坑跡に行き着いた。

 木々がうっそうと茂る。その緑が作る小山の上部から突き出る煙突が「炭鉱」を誇示するかのよう。選炭場の廃屋、校舎、病院跡……。往時には一帯で1万3000人もが暮らしたという。中心部の空き地に立ってみた。すぐ横には4階建て鉄筋アパート。まだしっかりした姿をとどめる。閉山前年の建築物とか。主が居つくことなく放置された姿が、慌ただしく幕を引いたヤマの歴史を伝えるようだ。

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 採炭の歴史は意外と古い。一帯は苫前炭田。1874年(明治7年)、米国の地質学者ライマンが空知の炭田同様に踏査、後に道庁技師の炭層調査を経て鉱区が設定される。以降露頭採炭が行われもしたが、運搬手段に窮して、一度は行き詰まる。

 ヤマの命脈をつないだのは、神戸の鈴木商店だった。三井、三菱に伍(ご)しながらも、昭和初頭の経済恐慌で没落の憂き目を見た、あの鈴木商店である。ここの大番頭、金子直吉の慧眼(けいがん)で1918年(大正7年)、鉱区を買収。鈴木商店解体後は系列会社の太陽曹達が引き継ぎ、戦時下の石炭増産に向けて、開発行為を加速させた。

 「冬は馬そり以外なし。あまりにも不便なので去って行く人が多かった……」。郷土史誌「羽幌炭鉱小史」(留萌新聞社発行)に記述される古老の懐旧談からも、草創期の厳しい様がうかがわれる。しかし、鉄道の敷設が窮状を打開し、未来を切り開いていく。

 採炭が始まる、実に4か月も前に、国鉄羽幌線築別駅とをつなぐ工事(16・6キロ間)が始まっていたのだ。国の許可を待たずしての見切り発車。「輸送手段を持たねばただの石ころ」。太陽産業に社名を変え、羽幌に心血を注いだ同社の、暴走にも似た英断だった。

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 開通は41年12月14日。太平洋戦争開戦6日後のこと。戦中は相次ぐ召集で労働力をそがれ、戦後間もなくは、歴史上に残る労働争議で屋台骨が揺らぐ危機にも見舞われたが、これらを教訓に労使協調路線を確立。朝鮮戦争特需の追い風にも乗って、一気に「優良鉱」の階段を駆け上っていく。

 62年度(昭和37年度)、石炭から石油への流れが加速し、どの炭鉱も苦境を強いられる中で、出炭100万トンを達成。68年度には4度目の100万トンを、開鉱以来最高の113万トンでクリアする。閉山は、そのわずか1年後のことである。

 廃鉱跡を築別川が静かに縫う。周辺に散見される朽ち果てた家屋。国破れて山河あり……。つい、詩聖・杜甫の世界に浸るかのような、そんな感慨にもとらわれた。(山本伸治)

羽幌<中>

2007年08月25日 YOMIURI On-Line

閉山…美林の里に戻る

 わずか30年で幕を閉じた羽幌炭鉱。あたかも日本海に沸き立ち、天塩山地を駆けゆく「一陣の風」にも似た、歩みではある。閉山理由は、いくつかの要因が絡んだようだ。

 「五輪開催の47年には130万トン体制」。1969年(昭和44年)4月1日。3山を経営する羽幌炭鉱鉄道の社内報「石炭羽幌」に、威勢のいい活字が躍った。羽幌坑では無人化の先駆けとも言われた機械化採炭が本格化するなど、増産機運が横溢(おういつ)。築別坑では西坑の開発が進められてもいた。

 ところが「希望の社報」が出たその月、会社は突如として「希望退職者」の募集を始める。従業員の士気はたちどころに低下し、出炭量もガタ減り。組合は翌70年10月、全山大会を開いて閉山を決議してしまう。以降ヤマの灯が再びともることはなかった。

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 西坑の開発が行き詰まり、事実上、築別坑が終掘。何より石炭から石油への構造転換を急ぐ国のエネルギー政策が、羽幌の息の根を止めたとも言えよう。「退職手当は国が100%補償」する特別閉山措置。駆け込み閉山が相次ぎ、羽幌もその例外ではなかった。「安楽死政策」に身を委ねたのである。

 時折しも、高度成長期の最中。「閉山を危惧(きぐ)」した従業員は、好況を謳歌(おうか)する鉄鋼、造船業界などの再就職先へと、なだれを打った。これも延命を許さなかった要因の一つとも指摘されている。

 「教室から級友が次々にいなくなる。驚きました。さびしかったですね」。当時、羽幌高校に在籍していた町長の舟橋泰博さん(56)は「閉山ショック」を、昨日のことのように振り返る。ただこうも言う。「閉山で“思わぬ事態”も生じましたが、もともとは農業と漁業、林業のマチ。今に引きずる後遺症はありません」

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 山間の一角に、見事な杉林が見られる。地元では「北限の杉」という。明治中期、山形からの移住者が植栽した。その数約400。樹高20メートルになんなんとする。荒れるに任せる時を経て、所有者が閉山前後のころから丹念に手入れを施し、かけがえのない美林に育て上げた。

 「出るかもしれませんよ!」。取材の途中、行き交う何人かに、声を掛けられた。「出る?」。ヒグマだった。お隣の苫前町は吉村昭の、かの作品「羆嵐(くまあらし)」の地である。身構えつつの行動を強いられはしたものの、何かしら、清々(すがすが)しさをも覚えた。

 「石炭」という名の化石燃料を掘り起こす存在に代わり、美林が育ち、ヒグマが徘徊(はいかい)するような、豊かな自然息づく姿が、羽幌を支配しているようにも映るからだ。それは、羽幌炭鉱が必ずしも、「負の遺産」ではないことを、教えているようでもある。

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 総合保養地域整備法(リゾート法)に便乗して、かつて道内ではゴルフ場を核とした開発計画が次々と萌芽(ほうが)し、バブルの崩壊、拓銀破綻(はたん)と共にことごとく消えていった。気が付けば、自然が主役の観光と、1次産業回帰への思いのみが残る。

 「羽幌は北海道の縮図とも言われた。炭鉱が閉山し、そのイメージがなくなったかもしれないが、再び胸を張って『縮図のマチ』にしていきたい」

 長く羽幌炭鉱で労組委員長を務め、町議としても“ポスト炭鉱”に尽力した青山芳雄さん(85)は、そう文末を結ぶ随筆を、筆者に寄せてくれた。(山本伸治)

羽幌<下>

2007年09月01日 YOMIURI On-Line

背伸びやめ 胸を張る

 「人口水増し事件」という悲しい出来事があった。羽幌炭鉱閉山の1970年(昭和45年)のこと。事態が表面化し、各マスコミが大々的に報じて流布されるや、地元民らは閉山問題と合わせ、「ボロボロ羽幌」と自嘲(じちょう)気味に囁(ささや)きあっては、故郷の行く末を案じた。

 地方自治法特例(68年)による「3万人市」昇格を目指した町幹部。65年国勢調査で記録した3万余の人口を維持しようとそれ以降、水増しを続ける。そこに閉山。約1万人が一挙に流出する。

 市昇格は断念するも、70年国勢調査での不正発覚を危惧(きぐ)。暗黙裏に5900余の架空人口を作り、それを加味した偽の人口を上部機関に報告したという顛末(てんまつ)だ。町長ら幹部を含む83人もが統計法違反などの容疑で送検され、マチは上を下への大騒ぎとなった。

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 開坑と閉山という2大エポックに引き寄せられ、散じていった多くの人口。「運命」とも言えるヤマの盛衰に踊らされるかのように、揺れ動いたその歴史は、「モノカルチャー都市」の危うさを問うようでもある。ただ羽幌の場合、閉山という劇薬がなければ、不正はさらに泥沼化していたに違いない。「閉山は『再生の転機』を与えてくれた」(町幹部)

 今、人口8700余。炭鉱跡に続く道道脇には、緑濃き田畑が広がり、オロロン街道沿いの牧場には、乳牛がのんびりと草を食(は)む。日本海を眼前に望む苫前からの丘陵には、おびただしい数の風力発電の塔。その巨大な羽根は、回転しつつ、「ヤマの歴史」を、より彼方(かなた)へと押し遣(や)っているようにも見える。

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 「羽幌の歴史は、炭鉱なくして語れません。ただ炭鉱がなくなっても、かつてニシンで栄えた漁業がありました。コメを中心にした農業もあります。どこにも負けない1次産業と、誇れますよ」(町長の舟橋泰博さん)

 閉山後の振興策でつまずいた夕張。羽幌は少々、異にする。山々の鬱蒼(うっそう)とした自然が呼び寄せたのであろうか。「ポスト・ニシン」の切り札と頼んだ甘エビは、今や日本一の水揚げ量を誇る。年間約1000トン、水揚げ高12億2300万円。全国にその名を知られる存在という。

 やや客足は停滞気味とは言うものの、天売・焼尻の離島観光も健在だ。

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 炭鉱跡地に、今も旧太陽小学校の校舎が残されている。周辺には、遊具やキャンプ場の形跡。町はここで、跡地再開発を目指し、「緑の村」事業を展開した。国の補助も得た総事業費約3億2000万円。スタートの82年(昭和57年)前後こそ3万人の利用をみたものの、その後はジリ貧。96年(平成8年)、わずか14年の短命で幕を下ろす。

 「残照」の中に安住する危うさを、「羽幌」もまた身をもって体験し、今を生きる。(山本伸治)

歌志内<2>

2007年05月26日 YOMIURI On-Line

盛衰・・・北海道そのもの

 日清戦争の戦勝気分なお横溢(おういつ)する1895年(明治28年)9月25日夕のこと。砂川からの鉄路が絶える歌志内駅に、外套(がいとう)をまとった、青白き痩身(そうしん)の男が一人、降り立った。名は国木田哲夫。後に、明治の文壇に輝かしい足跡をしるすことになる、あの国木田独歩である。

 独歩はすでに、従軍記者として名声を博し、将来を嘱望される身ではあったが、内村鑑三の思想に触れて「新天地を求めよう」と北海道行を決断。新渡戸稲造らの助力を得、貸下地を入手せんと勇躍、この地を踏んだのであった。

 ロマンあふれるこの計画。共に移住を夢見た女性との、短い結婚生活の終焉(しゅうえん)に合わせるかのように、結局はついえてしまう。しかし、歌志内との出会いは後に「空知川の岸辺」、代表作「武蔵野」など、独歩ならではの自然文学を紡ぐことになる。

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 …汽車の歌志内の渓谷に着いた時は、雨全く止みて日は将(まさ)に暮れんとする時で…停車場を出ると、流石(さすが)に幾千の鉱夫を養ひ…

 「空知川――」の一節からも、草創期の様がほの見える。以降浮沈を繰り返し、戦後には隆盛を極めながらも暗転していく。最後の炭鉱が閉山するのは、独歩の踏査からちょうど100年を経た1995年(平成7年)のこと。彼の、そして多くの人々の夢をも運んだ歌志内線は、その7年前に姿を消している。

 炭都の活力は多くの人々をここに呼び寄せ、様々に育(はぐく)んでは世に送出した。原材料を産み、供給してきた北海道の姿そのものとも言えよう。ひとつの歴史を画し、記憶の彼方(かなた)に去りつつある存在ながらも、今、「炭鉱遺産」のワンフレーズですべてをくくるには、あまりにもわびしく、一抹の寂しさすら覚える。

 「戦後間もないころでも、活気はありましたね。一番の思い出ですか。強制労働を強いられていた人たちが駅になだれ込み、つるし上げを食ったことでしょうか」。復員直後に歌志内駅に勤務した経験のある笈川春男さん(85)(札幌市白石区)は、そう言って宙に視線を投げた。「強制労働」。そんな消しがたい悲しき歴史とも、共に歩んだ。

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 北炭に三井、住友の財閥。傘下の炭鉱は、職場・地域単位競うようにスポーツ、文化活動を、活発に展開した。「独歩の足跡」も弾みをつけたのであろう。作家の三浦綾子、高橋揆一郎を輩出、名優の佐分利信、女優・正司歌江も、この地に生を受けた。スポーツの世界でも、若狭繁行(スキージャンプ)、荒木敏明(フェンシング)、佐々木富雄(スキースラローム)、関義文(ボクシング)の4氏は、輝かしい五輪選手である。

 「人出が2日間で10万人。普段なら歌志内駅から真王寺まで歩いて5分ですが、この時は1時間もかかりました……」。郷土史誌「古老が語る歌志内」に、成田山真王寺祭りを懐かしむ記述が見られた。往時を知る人には、脳裏にこびりついて離れない光景であろう。炭鉱は躍動した。

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 その盛衰は、国のエネルギー政策に演出された創作劇にも見まがう。市郷土館「ゆめつむぎ」の学芸員佐久間淳史さん(44)は、こうも注釈を付け加えてくれた。「炭鉱の歴史はペリー来航にまでさかのぼらねばならない。汽船、汽車への燃料供給。富国強兵の先導役を担った。そうした長い歴史の中で語り、位置付けられるべき存在なのです」

 正に北海道そのもの。「残照」の彼方に追いやるのではなく、新たな「陽光」を待つ、希望の地として留めておきたい。(山本伸治)


人気上昇中! 炭鉱の町、釧路が生んだ石炭アイス

2006年05月21日 エキサイト

日本で唯一の坑内掘り炭鉱が釧路にあるのをご存知だろうか。

2002年までに全国で相次いで商業利用の炭鉱が閉山したが、釧路では現在、海外の技術者の研修の受け入れ先として小規模な採炭を行っているのだ。そんな釧路では数年前から「石炭を観光PRに」と石炭を使った様々なグッズの販売を行っている。 石炭グッズの企画、製造販売を行っているのは炭鉱を運営する釧路コールマイン(株)を中心とした地元の人々で、釧路炭鉱の情報発進をしているくしろ石炭ドットコムでは全国に向けてネット販売も行っている。

直径2センチほどに砕いた石炭を使った携帯ストラップやキーホルダー、メモスタンドやすみ(炭)までほれる耳かきといったものから昭和レトロな炭鉱の風景のポストカード、石炭を燃やしてできた灰、そしてなんと石炭そのものの量り売りまである。 「5キロとか大きな石炭の塊も売れてますよ。床の間に飾って眺めたり、インテリアとして使われているようです。最近の売れ筋はDVDです。『走れ!釧路の運炭列車』というもので鉄道ファンの方に人気です」とくしろ石炭ドットコムの新谷さん。

そんな商品の中でひときわ目を引くのが昨年9月に発売された通称“石炭アイス”と呼ばれている「掘りたてアイスtantan(炭譚)」(120ml 250円)。 新谷さんの一押しの商品でもある。 石炭アイスといってももちろん本物の石炭は入っていない。 「石炭だから黒いアイス? 北海道だからイカスミか?」と思っているあなた、甘いです。この「掘りたてアイスtantan(炭譚)」はブルーのソーダ味、ナチュラルブラウンのコーヒー味、黒いゴマの中に石炭代わりのチョコチップという三層アイスなのだ。 この「掘りたてアイスtantan(炭譚)」を製造しているのは釧路支庁内の厚岸町にあるグリーンウェーブあっけし。酪農家で作る牧場直送のアイスが人気のアイスクリーム工房だ。炭鉱なのになぜ三層なのか。実は釧路では太平洋沖の海底下320メートルの地点で石炭を採炭している。

「石炭をモチーフにしたアイスというと、黒いイメージで、すぐにイカスミなどが思いつきますがうちではそれは作りたくなかったんです。そこで、釧路ならではということで色々考えたんです。釧路は海の底を掘っていますからそういったものをストーリー性を持たせて作れないかな、と。海の青い色、海面下の土の茶色、そして海底炭の炭層をそれぞれソーダ味、濃い目のコーヒー味、炭層と石炭は黒ゴマとチョコチップで表現しました」と代表の小野寺さん。

実際に「掘りたてアイスtantan(炭譚)」を頂いたがこれが見た目の美しさをもしのぐ美味さ。ソーダ味、コーヒー味、ゴマ、チョコチップと三層まとめていただくとこれが絶妙なのだ。文字で表現すると沢山の味がごちゃ混ぜになってしまう印象があるが、実際に食べてみると、口の中に三種類の味が順々に一味一味やってきてこれが合わさって一緒になるのだけれど、さっぱり、すっきりとした味で何とも言えない美味しさなのである。

このさっぱりとした美味しさの理由を小野寺さんは次のように説明してくれた。

「掘りたてアイス炭譚はアイスミルク(乳固形分10.0%以上 うち乳脂肪が3.0%以上)なんです。糖分も普通のアイスでは粉飴を使用するところが多いですが、うちは地元の甜菜糖を使っています。あと極力余分なものは入れないように植物性の安定剤を一つだけ使っています。スタッフも男ばかりなんで酒を飲んだ後にも食べられるさっぱりしたのが好きなんですよ(笑)」

石炭アイス、「掘りたてアイスtantan(炭譚)」は大人気で遠くからもお客さんが毎日来てくれると小野寺さん。 すでに全国区になりつつある石炭アイスは6月に大阪の天保山で行われるアイス博覧会にも出展するそうです。博覧会は6月1日(木)〜7月10日(月)まで。 また今年から東急百貨店ではお中元商品として登場とのこと。

最後にミニコネタを一つ。

くしろ石炭ドットコムの石炭グッズはすべて陸送。理由は石炭は飛行機には持ち込めないということ。石炭そのものが発火することはないけれど、現行の法律では危険物扱いになってしまうのだそうです。ちなみに石炭アイスだけは石炭ではないので航空便で届きます。(こや)


大牟田に長崎・池島炭鉱の世界最速坑内人車届く

2002.10.21九州発 福岡のニュース
 長崎県外海町、池島炭鉱(松島炭鉱池島鉱業所)で昨年十一月の閉山直前まで、坑内で炭鉱マンを運んでいた機関車一両と人車二両が、大牟田市石炭産業科学館に寄贈された。最高時速五十キロで、坑内人車としては世界最速。同市は今後、すでに取得した三井三池炭鉱の電気機関車や坑内機器と合わせ、展示方法を検討する。

 車両は「女神号慈海」の名称。機関車は長さ五・四メートル、高さ一・七メートル、幅一メートルで、動力は蓄電池。人車は長さ九・六メートル、高さ一・七メートル、幅一・一メートルで、一両が二十四人乗り。池島炭鉱では、立て坑で深さ約六百五十メートル地点に潜った炭鉱マンが、約五キロほど先への移動に使い、下車後は別の人車や徒歩で現場に向かっていた。

 大牟田市は日本石炭産業史の史料を収集しており、今回、寄贈を受けたのも、その一環。池島炭鉱の坑内人車は、三井三池炭鉱で使われていた坑内人車の最高時速約三十キロよりも速い。九州大工学部の後藤研・名誉教授(資源システム工学)によると、「世界最速」。

 トラックで大牟田市に運び込んだ。輸送費は解散した日本石炭協会九州支部からの寄付を充てた。同市では当面、石炭館横のネイブルランド跡地にシートカバーをかぶせて保管する。

池島にベトナムから炭鉱技術研修生

2002年04月17日FNNフジニュース
 去年炭鉱が閉山した外海町池島に、きょう海外からの技術研修生が到着しました。今年度から始まった国の炭鉱技術移転5か年計画に伴う研修生受け入れ事業の第一陣で、旧池島炭鉱で半年間勉強します。

 池島入りしたのはベトナム人の技術者8人で、港では池島小学校の児童から歓迎の花束が渡されました。今回の研修事業では、閉山した北海道太平洋炭鉱と池島炭鉱の施設を使い、坑内採掘や保安の技術を学ぶ事になっていて、一部は去年の秋から前倒しで実施されています。

 池島では松島炭鉱のグループ企業、三井松島リソーシスが窓口となって、今年度はベトナムとインドネシアから36人を受け入れる事になっています。研修を担当する新会社・長崎炭鉱技術センターには、池島炭鉱で働いていたおよそ100人が雇用されていて、閉山後の新しい生活をこの研修事業にかけることになります。

炭砿新会社:「釧路コールマイン」が操業開始 社員540人で

2002年01月31日[毎日新聞]Mainichi INTERACTIVE
 閉山した太平洋炭砿(北海道釧路市)の事業を引き継ぐ新会社「釧路コールマイン」(中島太郎社長)が31日、操業を開始した。

 同社は、釧路市内の企業が出資して昨年12月に設立された。ベトナムなどからの研修生による太平洋炭砿の3分の1にあたる年間70万トンの採炭と、産業廃棄物の中間処理などの新規事業を行う。社員は同炭砿と協力会社から540人を採用した。

 午前9時半、中島社長から「船出の時を迎えた。新会社を維持するためには、安全な操業が必要。培った技術を生かして頑張ってほしい」と激励。111人の坑内員が人車で入坑し、4月から始まる本格採炭に向け準備を始めた。 【杉山靖雄】

太平洋炭砿:国内最後の炭鉱、商業採炭を終了

2002年01月09日[毎日新聞]Mainichi INTERACTIVE
 国内最後の炭鉱、太平洋炭砿(本社・北海道釧路市、池田隆之社長)は9日、商業採炭を終了し、81年間にわたり計約1億トンを産出した歴史に幕を下ろした。同炭砿は1月30日に正式に閉山し、4月からは新会社「釧路コールマイン」(中島太郎社長)が外国人に炭鉱技術の指導を行いながら、小規模な採炭を継続する。 

 この日は、午前6時に1番方の坑内員393人が3班に分かれて、人車で海面下736メートルの最深部の採炭現場に向かった。午後4時、作業を終えて順に昇坑。坑口では、伊藤勝治常務や綿貫健輔・釧路市長らが「ご苦労様でした」と頭を下げた。今後は、最深部の坑道の密閉作業などが行われる。

 同炭砿は1969年以降、年間200万トン以上を生産してきたが、昨年2月の坑内自然発火事故で生産量が落ち込み、約43億円の債務超過を抱え、国のエネルギー政策の転換もあり、閉山することになった。

 一方、太平洋炭鉱労組(千葉隆委員長)は、会社側が8日夜、退職金の上積みを回答したため、早ければ14日にも臨時大会を開き、閉山受け入れを正式決定する。【庄司哲也】

北海道・太平洋炭砿が閉山

2002年01月30日FNNフジニュース
 去年池島炭鉱が閉山したことで日本で最後の炭鉱となった北海道釧路市の太平洋炭砿が、きょう閉山の日を迎えました。太平洋炭砿では、今朝から最後の坑内作業が行われていて、82年の歴史に幕を閉じます。

 太平洋炭砿ではけさ6時一番方の坑内員が入坑しました。採炭作業は今月9日に終了していて、きょうは坑道の密閉や機材の撤収作業などが行われています。安い海外炭との価格競争や坑内火災が経営を圧迫し、82年のヤマの歴史を閉じる事になったもので、協力会社を含めおよそ千500人の炭鉱マンは全員が解雇されます。

 4月からは技術移転の為の新会社が採炭を再開する予定ですが、国内の商業炭鉱はこれで全て姿を消すことになります。

池島

 炭鉱あす閉山 2001年11月28日FNNフジニュース 国内に残る2つの炭鉱のうち西彼杵郡外海町の池島炭鉱はあす閉山し、42年のヤマの歴史に幕を下ろします。 西彼杵半島の沖合に浮かぶ池島も、今週に入ってから朝夕の冷え込みが厳しくなり、冬の景色に変わりつつあります。きょうは最後の採炭作業が行われました。会社の閉山提案から1ヵ月半あまり。閉山する明日は坑道の補修や資材の撤収作業が行われるため、昭和34年から続いた操業はきょうが事実上最後となります。

 炭鉱は3交代制で、早朝に入坑した「一番方」が午後1時すぎ坑内での仕事を終えて地上に上がってきました。ヤマの男たちが行き来する繰り込み場では、炭鉱の主婦会の女性たちが飲み物などの接待をして夫らの労をねぎらいました。

 閉山が決まってからは出勤率が半分程度に下がっていますが、出勤した炭鉱マンは九州最後のヤマの姿を見届けようと、表情を引き締め坑道に向かっていました。炭鉱内にはこのあと午後9時半ごろ「三番方」が入坑し、最後の採炭作業にあたります。

太平洋炭砿、閉山し新会社に移行へ

2001年11月27日FNNフジニュース
 池島炭鉱の閉山で国内最後の炭鉱となる北海道の太平洋炭砿の池田隆之社長が、釧路市に対し太平洋炭砿をいったん閉山し、小規模生産の新会社に移行する方針を示しました。

 これは釧路市の綿貫健輔市長がきょう明らかにしたもので、太平洋炭砿の池田隆之社長は、来年度以降の海外への技術移転計画などを「経営上、実施は難しい」として、事実上炭鉱を閉山し新会社に以降する方針を伝えたということです。

 太平洋炭砿は来月上旬に労働組合に閉山を正式に提案し、1月下旬に閉山する方向で調整が進められていて、約1000人の従業員は閉山で解雇され、約500人が石炭の年間生産量70万トン体制の新会社に再雇用される見通しです。

臨時経営協議会で池島炭鉱の閉山を提案

2001年10月12日FNNフジニュース

 池島炭鉱を経営する松島炭鉱は、きょう開かれた臨時経営協議会で、労働組合に炭鉱の閉山を提案しました。組合側がこれを了承すれば池島炭鉱は来月末にも閉山し、九州から全ての炭鉱の灯が消えることになります。

 きょうの協議会には松島炭鉱労働組合の代表13人が出席し、田代社長がこれ以上の経営の継続は不可能として、池島炭鉱を来月29日で閉山することを提案しました。

 池島炭鉱は昭和34年に操業を開始し、最盛期には年間150万トン以上の生産がありました。しかし近年安い海外炭との価格競争に加え、出水事故や坑内火災などで坑道内の環境が悪化し、年間120万トンの採炭目標を達成できず苦しい経営が続いていました。

 ところで解雇される従業員の雇用対策について、会社側は全力で支援するとしているものの、海外技術移転5ヵ年計画の研修生受け入れ先での再雇用などは国と検討中とするにとどまり、具体策は示されませんでした。

 一方、組合側では今回の提案は唐突と反発しています。労働組合は明日午前中に執行委員会を開き今後の対応協議を協議しますが、閉山提案を受け入れるかはまったくの白紙としています。 今回の池島の閉山で、残る国内の炭鉱は北海道の太平洋炭鉱ただひとつとなりますが、専門家サイドから石炭技術を失うことを懸念する声もあがるなか、低迷が続く地元経済にまたひとつ暗いかげを落とすことになります。

池島炭鉱の鎮火を宣言

2000年04月24日

 池島炭鉱(長崎県外海町)で2月に発生した火災について、九州鉱山保安監督部の坑内火災対策検討分科会が24日、福岡市で開かれ、ガスの分析結果などから「坑内火災は鎮火したものと判断した」との見解を発表した。

 同炭鉱を運営する池島炭鉱(福岡市)は25日にも、火災が起きたのとは別の坑道での部分操業再開を申請し、早ければ今週中にも操業を再開する見通し。

国内2炭鉱は5年間存続

1999年07月23日 共同通信社

 電力9社は23日の社長会で、国内で最後に残る太平洋炭砿(北海道釧路市)と池島炭鉱(長崎県外海町)の存続問題をめぐり、通産省から要請を受けていた国内炭の引き取り継続について、2002年度から2006年度末の5年間に限り協力する方針を全社一致で決定した。2炭鉱は2006年まで存続することで事実上決着した。

電力業界が国内2炭鉱の支援延長を正式表明

July 23, 1999

 電気事業連合会の太田宏次会長(中部電力社長)は23日の定例記者会見で、国内に残る2炭鉱(太平洋炭礦、松島炭鉱池島鉱)の支援を、2006年度まで継続することを正式に発表した。この日開かれた電力9社(沖縄電力を除く)の社長会で決めた。先月下旬までは「電力自由化の流れと逆行する」と2002年度以降の協力を拒否してきたが、最後は通産省や自民党の要請に応じた。業界内でも「筋の通らない決着」との声が出ている。

 「明治以来築いてきた炭鉱技術を廃止するのはもったいない」。太田会長はこの日の記者会見で、海外炭の3倍の国内炭買い取り価格を、約2倍の1万円(1トン当たり)を切る程度に下げることや、2007年度以降は自由取引に変えることを、支援継続の条件にしたことを明らかにした。

 国内の電力の燃料のうち、2炭鉱で生産される石炭の割合は約1%。電力業界の負担額は年間約300億円(1998年度)で、この分は電気料金に転嫁され、最終的に一世帯が年間約130円を負担している。負担額が減っても、電気料金に上乗せされる点は変わらない。

 電力業界の支援延長を求めてきた自民党の代議士は「炭鉱は地元の雇用確保や経済の安定のために必要」といい、この存続運動が「選挙対策」だと認めている。電力業界は「雇用問題なら、国や自治体が社会政策として財政負担するべきだ」と訴えていたが、「税金でも電気料金でも国民負担は同じ」「二炭鉱の技術が海外に移転されれば国内の石炭の安定供給につながり、電力会社にも利益がある」と主張する自民党と通産省に押し切られた。

 太田会長は「石炭は世界中に分布していて、石炭の安定供給に結びつかない」と言いながらも、「やむをえない」と繰り返した。ある電力会社の幹部は「結局、国との関係も含め、総合的な判断をせざるをえない」と打ち明ける。
 電力業界は来年3月からの大口電力の小売り自由化を控え、電気料金を引き下げるために、コスト削減を進めている。従来の延長で「国策」を肩代わりするやり方は、国民にとってもわかりにくく、電力会社が目指す「普通の会社」とは逆方向だ。

炭鉱、2002年度以降も存続へ 電力業界が方針転換

June 19, 1999

 国内に残る2炭鉱の存続問題で、国の石炭政策が終了する2002年度以降の協力を拒否していた電力業界は、期間を限定して存続のための支援を続ける方針を固めた。電力業界が支援継続に方針転換したことで、2炭鉱の存続は当面は維持される。期間などについては、調整が続いているが、7月1日に開かれる石炭鉱業審議会(通産相の諮問機関)で、存続の方向が正式に打ち出される見通しだ。

 2炭鉱は太平洋炭礦(北海道釧路市)と松島炭鉱池島鉱(長崎県外海町)。

 通産省の試算では、合理化努力で、国内炭の海外炭との価格差は現在の3倍から2倍程度に縮まるため、電力会社の負担も従来の半分以下の年間110億円から150億円に減るため、電力会社は負担を受け入れる見通し。ただ、支援の継続期間については「5年は長すぎる」(電力会社幹部)との声もあり、今後の調整の焦点になる。

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