ご無沙汰ね…
ご無沙汰ね……
まっ赤な口紅をたっぷりと含んだ唇がそう言っている。
でも、唇以外の輪郭が妙にぼやけていた。
誰だか分からない。
あまり分かろうともしなかった。
「そうだっけ?」
そっけなく聞こえただろう声音に、女の唇がほころんだのが不思議だった。
何が可笑しい?
店を間違えたのか。
唇から逃げるように目をそらして、ある場所を見やる。
薄暗がりの中にピアノが一台。
いつものように静かな音を奏でている。
間違ってはいない。
自分はあのピアノの音を聞きに来たのだ。
ただ、時間が過ぎていくのを感じたくて。
……? 感じたくて?
ピアノの鍵盤をなめらかに踊る指が見える。
しかし聞こえるはずの音がなかった。
どうして?
答えが欲しくて、先ほど見えた唇を探す。
しかし、その場所には誰もいなかった。
どこにいったのか。狭い店内を見渡す。
意外にあっけなく見つけた。
ピアノ奏者の唇……。
その唇が、また言葉を紡ぐ。
帰ってらっしゃい。
突如ーー全ての聴覚が開かれた。
おぼろだった女の顔がはっきりと見えてくる。
毒々しく感じた唇は、表情が加わると殊のほか愛嬌を持ったものに変わった。
こちらも微笑んで、席を立ち、ピアノの方に足を向ける。
ここ数日、僕はどうしていたのだろうか。
本気で一緒になりたい人がいることを話した。
相手の素性を知って、とてもまずそうな顔をされた。
まさか反対されると思っていなくて、自暴自棄になってかなり荒れてしまった。
こんな血縁……こんな自分に胸糞が悪くて会えなくなった。
純粋なその瞳を見ることがはばかられた。
その間、彼女は少しくらい僕の心配をしてくれただろうか。
そうだといい。そうあって欲しい。
待ってたわ。
彼女の唇が再び動く。
彼女は物言わぬピアノ奏者。
それでも彼女の声は僕の心に響いてくる。
いや、やっと聴けるようになったというべきか……。
演奏の邪魔になることも考えず、彼女の首に自分の両腕を絡める。
「それでも……僕は君に付いていくんだ」